はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

仲間ウォーク:初詣

2017-01-29 12:00:00 | 寺社遍路
歩行記録   H29-1-22(日)
歩行時間:3時間40分   休憩時間:1時間20分   延時間:5時間00分
出発時刻:9時45分     到着時刻:14時45分
歩  数: 21、605歩(推定距離15.34km)    GPS距離14.7km
行程表
 愛野駅 0:50> 永源寺 0:50> 油山寺 1:00> 可睡斎 1:00> 袋井駅

 今年の仲間ウォークの歩き始めは、遠州三山の油山寺と可睡斎の初詣です。
三山の中の法多山は一昨年の仲間ウォークの初詣で歩いているので今回はパス。と云えば格好いいが、実際は三山を一度に歩く
となると “長過ぎだぁ” の文句が出るのは必定なので諦めるしかなかった。

         
                        愛野駅                                     花茣蓙公園

 原野谷川の堤防は毎年冷たい風にさらされるのだが、今年は風が弱く和気藹々と歩く事ができた。
そんな中、電車で “さわやかウォーキング” を見ていた仲間が 「以前行った富士川梅園が新コースで載っていた。」 と云った。
あれは2年前の2月に富士川駅から梅園-岩本山-入山瀬駅歩いたのだが、さわやかのコースは新蒲原駅から旧東海道を歩き
富士川梅園-富士川駅の10kmコースと随分短い設定だった。
個人的にはとても歩く気にはならないコースだが、平均年齢が73才の我々には丁度良いのだろうか。

 原野谷川に国道1号線の同心橋が架かる所は、旧東海道の 「名栗立場」 で、今は花茣蓙公園と名前の付いた小さな緑地がある。
 “立場” とは江戸時代の街道で旅人や人足が駕籠や馬を止めて休息した場所の事で、同じような物に “間宿(あいのしゅく)” がある。
江戸時代の街道には宿泊施設のある “宿場” があり、他には泊まる事は出来ないが、茶屋など休憩施設のある “間宿” があった。
その間宿より更に規模の小さい休み場を “立場” と呼んでいた。
つまりここは花茣蓙を売る小さな茶店が何軒かあった立場だったのだろう。

 5年ほど前に歩いた東海道のブログには、袋井市の案内板にあった十辺舎一九の膝栗毛の一部を紹介していた。
 「瀬川を渡れば早名栗 松並木を西に見て立場茶屋に着く 名代の甘酒に舌鼓 ここは布井の宿までの合の宿 旅籠屋もあり 
名物の花茣蓙を売る店が軒を連ね 上り下りの旅人が 珍しいと買っていく」

この辺りは原野谷川と懸川の合流地点で湿地が多く、花茣蓙の原料となるイグサが沢山生えていたのだろう。

    
         可睡斎道標                    油山寺道標                     油山寺道標

 最初の道標は花茣蓙公園の中にあり 「従是西東海道 御本躰可睡三尺坊大権現」 と火伏の可睡斎を案内している。
国1のガードを潜ると、いよいよ油山寺の参道に入り、まず最初の分岐に 「従是油山道」 の道標がある。道標には文化7年(1837)と
あるから今から180年ほど前の物だ。さすがに崩壊は見られるが、筆太で彫の深い文字は今でもハッキリ読む ことができる。
次の角には 「右あぶら山道」 の道標がある 。こちらの道標は仮名で書かれた優雅な物だが、仮名のためか彫が浅いのでいずれは
判読不能になるだろう。
その道標に 「あぶら山」 とあるのは、油山寺の 「ゆさん」 を単に訓読みしただけとも取れるが、油山寺の山から昔は油が出ていたので
「あぶらやま」 と呼ばれていて、寺のことも 「あぶらやま」 と地元では呼んでいたそうです。

 油山寺の道標はこれが最後で、この先では見当たらなくなる。昔と道が違うのか、それとも後は分かりやすいので建てなかったのか? 

         
                          永源寺                               永源寺の機織恋地蔵

 永源寺は各和城の跡だと聞いた事があるが、寺の由緒書にもそんな事は書いてない。だが東海道を臨む地にあり掛川方面の
見晴しも良いので城があっても不自然な地形ではない。
寺の門前に 「機織恋地蔵」 と名札の付いた極彩色の地蔵が安置されていた。ガラスの桟が邪魔をして良く見えないが、何となく
風情に欠けるように見える。こんな地蔵が先週訪れた “初生衣神社” にあったら興ざめした事だろう。
とは言え門前に並ぶ天保9年(1838)建立の三十三像は感じの良い石仏です。

         
               ??                                   菅ヶ谷横穴入口

 この道を歩くたびに気になる白い大木だが、今日は私の植物の師匠も同行しているので、これ幸いと聞いてみた。
でも残念 「ウーン! 分からないなぁ」 だって。

 今回のウオークの案内には 「心掛けが良ければ昔の横穴式墓地の “菅ヶ谷横穴” を見る事ができます」 と書いておいた。
早速 「天気でもあるまいし何で心掛け次第なんだ。」 とか 「わざと気を持たせたのだろう」 と穿った見方をされてしまった。
実はこの菅ヶ谷横穴は金網に囲まれたゴルフ場の中にあるので、中に入るには入口のカギを開けなければならない。
そのカギを開けるのに事前に袋井市役所に連絡する必要があるそうだ。
今までで古墳を見る事ができたのは2回だけだが、平日が多かったからだろう。しかし今日は日曜日なので他の見学者がいれば
一緒に見る事ができる。と他力本願で来たのですが・・・・・

 ウーンまたもや残念。門扉は閉まりカギが掛かっていた。
カギは3桁のダイヤル錠だったので仲間の一人が 「千回合わせれば開けれる」 と回し始めたが、じきに諦め た。
 「これなら事前に番号を電話で聞いておけば良かったのに」 と非難の矛先が私に向いてきた。
慌てて 「イヤー事前にカギを袋井市役所の取りに行くのかと思って ・・・・・・ 」 と弁解をしたが、本当は面倒だったに過ぎなかった。

         
                       油山寺山門にて                           御霊杉(みたますぎ)の幹肌

 油山寺で仲間が興味を示したのが以外にも天然記念物の、幹は松、葉は杉の 「御霊杉(みたますぎ)」 だった。
 「弘法大師が病に罹った幼児の命を助けると、感謝したその子の父親が松で、母親が杉で一膳の箸を大師に捧げた。弘法大師が
旅立つときその箸を大地に挿していくと、あら不思議、幹が松、葉が杉の珍しい霊木になった」
 の案内板を真剣に読んでいた。

 境内に置いてあった 「遠州路 戦国歴史めぐりの旅」 のスタンプ帳に2人がスタンプを押しながら 「へ~ 龍潭寺もあるけど、あそこは
直虎ブームで賑わうだろうなぁ」
と話をしている。私が待ってましたとばかりに湖北五山を歩いて来た話をすると
 「30kmもあるじゃぁ私らには無理だなぁ。せめて2回に分ければなんとかなるじゃぁない?」 と珍しく要求をする。
確かに1度では無理だが、2回に分けても天白磐座遺跡から奥山方広寺の間は長いだけで見る物がない。きっと口の悪い仲間の
事だから途中で飽きてしまい 「つまらない」 なんて文句が出てくる恐れがある。
暫く考え仲間にこんな提案をした。
 「湖北五山は無理だけど直虎が支配した井の国を散策するのはどうだろう。そうすれば気賀の関所や新しくできた直虎館にも行く
事ができるよ」
と提案をした。
私の頭の中は仲間の思惑など構わず、金指駅-宝林寺-井伊谷城-出生の井戸-龍潭寺-井伊谷宮-天白磐座遺跡-
細江神社-犬潜り-気賀関所-直虎館-気賀駅と頭の中は目まぐるしくを回転していた。
 
         
            三重塔                                      薬師本堂

 本堂横で日向ぼっこを兼ねながら昼飯を取っているとき、仲間の一人が薩摩芋の切干を差入れてくれた。
薩摩芋は私たち年代の準主食だったので話題が集まり
 「切干が少し粉を吹いて白くなったのを火鉢で焼いてたのが旨かった。」
 「子供の頃は “腹が減った。何かない?” って母親に言うと “薩摩芋でも食べておきな” と云われ、あの頃一生を食ったので今は
食いたくない」
 「最近の薩摩芋は安納芋とか甘い物ばっかになったので、またあの頃旨かった農林2号を栽培する人がいるんだって。」
 「鹿児島じゃ薩摩芋とは言わないで “唐芋” って言ってたから、初めのうちは薩摩芋って聞くと変な感じがした。」

とこれは鹿児島知覧出身の仲間。彼はさらに
 「鹿児島じゃ酒っていえば焼酎の事だけど “しょうちゅう” とは言わないで 「しょっちゅ」 て言っていた。」だって。 

 油山寺ではゆっくり1時間ほど休んでから出発した。

  
                   可睡斎のお雛さん                                  石 仏

 油山寺から可睡斎のコースは余り歩かれない可睡斎の北コースにした。一般的には油山寺から千鳥ヶ池コースを歩く人が多いが、
そのコースを歩いた人がいたので気分を変えてヤマハテストコースの脇から百合園に抜ける北コースにした。
途中にあった大きな茶工場を見てか鹿児島出身の仲間が
 「静岡に来た頃、お茶を土産に持っていったら “知覧にもお茶はある” て言われてしまった。」
そうなんですよね、お茶の生産高は静岡県と鹿児島県がダントツで、3位三重県の生産量は1桁落ちるんですよね。
 「じゃぁ鹿児島は緑茶を飲んでいるの?」 「他は知らないけど知覧は緑茶だった。」

 ヤマハテストコースの厳重な目隠しを見て 「今でも産業スパイがいるのかなぁ?」
 「車ならシートをかぶせて走れるけど、オートバイはどうやって車体を隠すのかなぁ?」
 「いや車体を隠せないからコースを隠すんじゃない」
 「でもさ、今じゃぁドローンがあるから周りをこんな目隠しをしても、空から一発じゃぁない」
と姦しい。

 可睡斎では32段1200体のお雛さんの一般公開が行われていた。勿論有料なのでパス。写真は入口の無料のお雛さんです。

     
                         可睡斎の烏天狗                            火の用心

 境内にあった厄年の早見用を横目に見ながら 「もう70代だから厄年は関係ない」 なんて言っていると、早見表を見ていた
一人が 「アレー70代も80代も厄年があるよ」 と言い出した。
 「そんな馬鹿な。」 と皆で見ると確かにある。
 「八方塞がり 73歳(昭和20年生まれ) 82歳(昭和11年生まれ)」となっている。

 私は昭和19年生まれで満72歳だが数えでは73歳だと思っていた。なのに73歳は昭和20年生まれとなっている????
暫く考えようやく気付いたのは、数え年は生まれた時に1歳になるが、2歳になるのは誕生日ではなく翌年の1月1日だという事。
例えば12月31日に生まれれば翌日には2歳になってしまう、なんか儲かったような損したような計算方法です。
その計算で行けば私は既に74歳。次の役は82歳だから7年後で満なら79歳の時になる。
77歳ならちょっと考えていることがあるが、それから先はもう死んでいるのか惚けているの想像すらできない。否していない。
ところで “八方塞がり” の意味は分からるが、厄としてはどんな物なのかは全員が知らなかった。そこで後日調べてみると
 「どの方角にも障りがあって何もできない状態。どの方角に向かって事行っても、不吉な結果が予想される年。
なので八方塞がりの年は、物事を始めるのには良くない年回り」
 なのだそうです。

 考えてみれば八方塞がりの昨年は確かに良くないことが多かった。
7月に遠江33観音の遍路に出かけ熱中症で酷い目にあって病院通いをした。
20日ほど休んで出かけた2回目の遍路でも、最後の札所にようよう着いたが動く事ができず30分近く横になってしまった。
そして極め付けは体調の様子見で登った花沢山で転倒して胸を強打してしまった。今では痛みは完全に収まっているが、
胸にはその時の痕が赤く残っている。
その後は山に登る勇気がなく、やっとその気になったのは紅葉にも遅い10月末の大谷嶺だった。しかしあそこも距離の割には
バテバテになってしまい、帰り寄る予定だった赤水の滝もパスする始末だった。
そんな訳で年間の歩行距離も一昨年は2274kmだったのが去年は1020kmと半減してしまった。
こうしてみれば “八方塞がり” の厄は私には当たっていたようだ。
でも、でもですよ 今年はその厄が開けたのだから きっといい年になるでしょう。そう思う事にします。


 可睡斎の烏天狗は火伏の守り神 “三尺坊大権現” の化身です。
どなた様もこの1年の我家の 「火災消除」 「家内安全」 をお願いしましょう。

初歩き:湖北五山初詣7

2017-01-26 10:30:59 | 寺社遍路
歩行記録   H29-1-6(金)
歩行時間:6時間40分   休憩時間:2時間15分   延時間:8時間55分
出発時刻:7時10分     到着時刻:16時05分
歩  数: 40、707歩(推定距離28.9km)    GPS距離29.4km
行程表
 天浜線金指駅 0:15> 初山(しょさん)宝林寺 0:25> 実相寺 0:30> 井伊家発祥の井戸 0:04> 龍潭寺(りょうたんじ) 0:01>
 井伊谷(いいのや)宮 0:10> 妙雲寺 0:04> 渭伊(いい)神社 0:01> 天白磐座遺跡 0:30> 竜ヶ岩(りゅうがし)洞入口 1:00>
 奥山方広寺入口 1:20> 風越峠 0:45> 三ケ日人骨出土の地 0:25> ミカンの里資料館 0:15> 大福寺 0:25> 摩訶耶寺
 (まかやじ) 0:15> 初生衣(うぶぎぬ)神社 0:05> 浜名惣社 0:10> 三ケ日駅

                                     湖北五山概略図




     摩訶耶寺から初生衣神社&浜名惣社への地図                 浜名惣社から三ケ日駅への地図
◎道案内15
 ・摩訶耶寺から元来た道に戻ったら左に曲がり南下する。次の右に行く道を右折すると川があるのでその橋を渡る。
 ・橋を渡ってすぐの左の細い轍のある道に入る。
 ・東名の下を通り更に進みと別所街道(国道)に合流するのでそこを右折すればその先に初生衣(うぶぎぬ)神社がある。

 ・初生衣神社から鳥まで戻り国道を川に向かって行く。
 ・橋を渡った先の信号は直進する。
 ・すぐ北に向かう道があるがその道には行かず、その横にある鳥居を潜り浜名惣社の参道に入る。

◎道案内16
 ・浜名惣社の鳥居まで戻り、合流した道を左に行き道なりに進む。
 ・信号が過ぎた先に左側に斜めに進む道があるのでその道に入り、道なりに行けば三ケ日駅正面に出る。

 
                東名下の道                          古代床しき初生衣神社の由緒書

 初生衣神社は今回初めて来てみました。そのきっかけは前に行った浜名惣社の摂社で 「岡本の初生衣神社の絹織物をこの社に
保管してから伊勢神宮に奉納した。」
と読み、初生衣神社興味を覚えてしまった。
そして今回、神社の場所を地図で調べてみると、案外近い所にあったので寄る気になったのです。

 このように初めて行く場所への道を調べるのは簡単です。今までにも何回も説明しましたが今回も簡単に説明します。
 1・YAHOO!の地図を開き住所録で浜松市北区三ケ日町摩訶耶を選択し地図を開く。
 2・地図画面左にある 「ルート探索」 を選んだあと 「徒歩」 を選択する。
 3・地図を拡大し摩訶耶寺の入口の道にカーソルを合わせ右クリックをして 「出発地に設定」 をクリックする。
 4・目的地(今回は初生衣神社)の前の道を地図上に表示させ、右クリックして 「目的地に設定」 をクリックする。
 5・一瞬にして徒歩ルートが表示されます。驚く事に車道ではなく歩行者専用のような細い道も選択されます
 6・ルートが気に入らなければ青い線をドラッグしたり、経由地を追加することで希望のルートにもなります。

 以上の操作をすれば日本中どこの町でも歩く事ができます。私の遍路はこれでルートを調べ、必要な部分の地図をコピーして
エクセルで加工して手持ち地図としています。
尤もこの方法が利用できるのは市街地だけで林道や農道、山道は選択不能です。

 初生衣神社の説明は古めかしい表記でなされていた。
 「史跡 織殿 往古「加止利」ト称スル文帛(シドリ)ヲ織リテ伊勢神宮ニ納メタコトガアッタガ、後年ハ生糸ヲ三河国大野ニ取リ神衣料
荒妙絹ヲ織リテ之ヲ献ズル例トナッタ 又後ニハ其ノ制廃シテ現在のモノハ享和元年紀元2461年ノ建設デアル 昭和2年 静岡縣」


 分かりませんねー! ならば私の妄想的歴史解釈で意訳してみよう。
 「昔、「加止利」と云う桑の木で織った布を伊勢神宮に納めていましたが、次第に生糸は三河の国より取り寄せて、神の着る衣を
織るようになりました。しかし後にその制度は廃止になり、現在の織殿は享和元年(1801)に建設しました。」

 これで大分分かりやすくなりましたよね。

 さらに調子に乗ったところで鳥居の横にあった案内板も紹介します。
 「当社は往古より浜名神戸(かんべ)の地に鎮座、伊勢神明初生衣神社または浜名斎宮(さいぐう)とも称され、機織(はたおり)の
祖天棚機姫命(あめのたなばたひめのみこと)を祭る。神服部家(かんはとりけ)の旧記によれば、久寿(きゅうじゅ)二年(1155)以来、
境内の「織殿」において、三河の赤引の糸をもって御衣(おんぞ)を織り、八百年の長い間毎年皇大神宮に奉献した古例を有する他社に
比類のない古社であって、当社が遠州織物の発祥の地として遠近の崇敬を集めているも偶然ではない。…昭和45年」


 「むかしこの辺りには神社(浜名惣社の事か?)に奉仕する人々が住んでいたので浜名神戸と称していました。
また初生衣神社は伊勢神宮の末社で、宮司は伊勢神宮より派遣されていたため、その住まいは浜名斎宮とも呼ばれていました。
神社では機織の神である天棚機姫命を祭っており、境内の「織殿」では三河から取り寄せた生糸で神の衣を織り、800年の長きに
亘り伊勢神宮へと奉献したと、初生衣神社の宮司・神服部家の旧記に記載さてています。」
とこうなりました。

 それにしても色々気になる言葉がある。文帛(シドリ)とは倭文とも書くらしいが富士宮には 織物や製紙の神を祀る倭文神社がある。
また榛原には服織の神を祀った服部田神社もあるし、静岡には “服織” という地名もある。
そうしてみると静岡の昔は機織の業が盛んで、その伝統が今は富士市の製糸業や磐田の別珍産業等に伝わっているのだろう。

 それともう一つ 「天棚機姫命(あめのたなばたひめのみこと)」 と書いていて、この御姫様は七夕の織姫様ではないかと気づき、
早速調べてみたが、七夕は中国伝来の行事でここの棚機姫とは関係は無かった。

      
             織 殿                                  初生衣神社本殿か?

案内板を読んでこの神社で神の着る衣料の御衣(おんぞ)を織っていることは分かった。だが神社の名前は初生衣(うぶぎぬ)神社。
ならば産着の神社だろ思うのだがその事には何も触れられていない。
どうせなら神の衣料ではなく、神の子の産着を織っていた神社として、赤ん坊を連れてお参りすればその子は一生着る物には
困らないとすれば参拝客が増えるのでないかな。
そうだどうせなら縁日を七夕の7月7日にして、赤ん坊だけでなく未婚の女性がお参りすれば、彦星のような素敵な男性に巡り会える
なんて事にすれば・・・・ オットそれでは1年に1回しか会えない遠距離恋愛になってしまうな。

 萱葺の小さな織殿が200年以上前に建てられたとは思えないが、古めかしい文体の案内板しかないので詳細は分からなかった。
織殿の横の主殿が初生衣神社の本殿と思われるが、これも何の案内もなく良く分からない。
神服部宮司さんがもう少し手入れをしてくれると良いのだが。
そうそうこの神服部(かんはとり)という姓は全国で10人ほどしかおらず(苗字由来.netによる)、その全ては静岡県在住でした。
興味を覚えてさらに調べて行くと 「神服部家は一子相伝で、一人しか神服部を名乗ることができない」 と書いたものもあった。
そうなるとこの苗字は完全に初生衣神社の宮司だけが名乗る貴重な苗字となるが、では姓を相続できなった子供が結婚するときは
相手方の姓を名乗るのだろうか。と次々興味が移りキリがない。もう終わります。

 
                 浜名惣社1                                   浜名惣社2

 浜名惣社の正式名は 「浜名惣社新明宮」 。惣社とは総社と同意語でウイキペディアによれば
 「地域内の神社の祭神を集めて祀った神社のことである。総社宮、総神社、総社神社などとも呼ばれることがある。
奈良時代の律令制において、国司着任後の最初の仕事は赴任した令制国内の定められた神社を順に巡って参拝することであったが、
平安時代になって国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化された。」

となると摂社は地方に派遣された官僚の手抜きの賜物のようですな。

 神社に行くと神社の主神だけでなく境内社とか摂社とか云われる小さな社が幾つかありますが、その事なのでしょうか。
でもそうなると殆どの神社が “惣社” になってしまいます。
ウイキペディアによれば総社にもランクがあり、静岡県の国指定の総社は駿河では神戸神社(静岡市宮ケ崎)と遠江の淡海国玉神社
(磐田市見付)の二社で、伊豆は三嶋大社と思われるがハッキリしないそうです。
残念なことにこの中には浜名惣社は入っていません。
国指定以外にも “別表神社” なる物もあり、遠江でも4社が指定されていますが、この中にも浜名惣社の名前はありませんでした。
何なんでしょうねぇ?

 
                 浜名惣社3                                   浜名惣社4

 勿論由緒ある神社なので延喜式神明帳に記載された式内社ですが、式内社の名称は遠江国浜名郡英田神社となっているそうです。
社格は村社の上の郷社だそうで、先程見た三ケ日人遺跡の新明宮より上でした。

                          
                 浜名惣社本殿1                           浜名惣社本殿2

 本殿は拝殿の後方の垣に囲まれた場所から更に石の階段を登った丘の上に板垣に囲まれてあります。立入禁止なので階段は
登れませんが下から見ていても厳かさは伝わってきます。
浜名惣社にはHPが無かったので、静岡神社庁のHPを見ると本殿をこのように説明していました。
 「本殿は浜名神戸より伊勢神宮へ貢進品の収納庫として使われたと云われ、板倉造(井籠造)という全国でも類の少ない古式の
形式で国の重要文化財に指定されている。」

成程、では初生衣神社で織られた御衣もこの建物の中で保存していたのだろう。

  
            天棚機媛神社(摂社)

 本殿の下に祀られている摂社の一つに “天棚機姫命(あめのたなばたひめのみこと)社” があり、その案内には
 「毎年4月、初生衣神社の神御衣を祓い清め この社に一時納置し、5月に伊勢皇大神宮(内宮)へ奉献されています。」
となっている。アレーそれでは神社庁の “本殿は伊勢神宮への貢進品の収納庫” の説明と食い違うのではないか。
ウーン! よく分からないが御衣だけはこの摂社に保管し、他の貢物は本殿に保管したのだろうか?
いやいや惣社とは国司が各地の神社をお参りするのが面倒で摂社を建てたのだから、御衣はあくまでも本殿に保管したのだろう。
一先ずそう結論を付けて浜名惣社のお詣りを終えます。


 三ケ日駅に向かう途中で酒屋で土産の大福寺納豆を購入した。今までは納豆と一緒に乾杯用の氷結も買っていたのだが、今日は
まだ車の運転がある。残念ながら飲むわけにはいかない。我慢、我慢だ。

初歩き:湖北五山初詣6

2017-01-24 11:39:13 | 寺社遍路
歩行記録   H29-1-6(金)
歩行時間:6時間40分   休憩時間:2時間15分   延時間:8時間55分
出発時刻:7時10分     到着時刻:16時05分
歩  数: 40、707歩(推定距離28.9km)    GPS距離29.4km
行程表
 天浜線金指駅 0:15> 初山(しょさん)宝林寺 0:25> 実相寺 0:30> 井伊家発祥の井戸 0:04> 龍潭寺(りょうたんじ) 0:01>
 井伊谷(いいのや)宮 0:10> 妙雲寺 0:04> 渭伊(いい)神社 0:01> 天白磐座遺跡 0:30> 竜ヶ岩(りゅうがし)洞入口 1:00>
 奥山方広寺入口 1:20> 風越峠 0:45> 三ケ日人骨出土の地 0:25> ミカンの里資料館 0:15> 大福寺 0:25> 摩訶耶寺
 (まかやじ) 0:15> 初生衣(うぶぎぬ)神社 0:05> 浜名惣社 0:10> 三ケ日駅

                                     湖北五山概略図


                 
                              大福寺からから摩訶耶寺への地図
◎道案内14
 ・大福寺から仁王門に戻り、そのまま直進して東名の横の県道を南下する。
 ・東名高速が右側に近寄り、県道が東名のガードに入る所で県道と別れ、左に曲り東に進む。
 ・川を渡った先が摩訶耶寺だが、入口は合流した道を右折し、更に左に曲がると山門がある。

                           
                      時計台                          秋葉神社の常夜灯の鞘堂

 この時計台は昭和5年に 「修養団暁鐘會」 が建てた物のようで、色々格言が書いてあったが面倒なので読まなかった。
時刻は私の持つ電波時計と余り変わらず、90年余も経っていながら正確な時を指している。 「seiko」 の文字が見えるが流石だ。

 西部地方には多い秋葉神社の鞘堂だが中は覗かなかった。土台の石は例のチャートのようだった。

 
              摩訶耶寺本堂                                近藤用行公夫婦御廟

 山門前の案内板を見るとこの寺も元は富幕山にあったのを移転してきたようです。そのため大福寺と同じ真言宗でした。
本堂は一見普通の寺に見えるが、中々どうして国の重要文化財に指定された不動明王像や千手観音像が祀られています。
また庭園は平安末期に築造され、京都西芳寺(苔寺)の庭園に次ぐ古さで、日本屈指の名庭となっています。
ですが何故か国指定ではなく県指定でした。

 塚の上に建った二基の五輪塔は今日2番目に寄った実相寺でも見ていた。同じような物があるものだと案内板を読んでみると
 「近藤用行公夫婦御廟 武田軍による兵火により、摩訶耶寺諸堂は消失してしまった。江戸時代になり三ケ日地方の領主と
なった近藤用行の力添えにより再建成就する。 この五輪塔は用行夫婦の供養塔で、長子用高が建立した。」


何々ここも “近藤家” の供養塔で、しかも実相寺と同じように名前に 「用」 の文字を使っている。
ならきっと井伊谷藩の藩主になった近藤家の子孫であろうと調べてみた。
 今回龍潭寺の編で私は 「実相寺に祀られている近藤秀用が、徳川幕府の初期に 「井伊谷藩」 の1万7千国の藩主、つまり
大名になっていた。しかし秀用は子供たちに所領を分割して与えたため、格々が1万石を割り込んでしまい、大名でなく旗本に
なってしまった。そのため井伊谷藩は消滅して旗本の直轄地になっていた。」
と書いている。
その分割した直轄地とは金指、気賀、井伊谷で、それぞれ金指近藤家、気賀大谷近藤家、井伊谷近藤家として発展していきます。
塚の主の近藤用行は気賀近藤家を継いだものの、庶子のため家督を弟に譲り、大谷で大谷近藤家の初代となったそうです。

 こんな話を聞いていくと井伊家より近藤家の方に興味が湧いてきますよね。
ところでまたもや疑問が再燃してしまった。例の井の国とは何処を指すのかという疑問です。
近藤秀用が藩主となった 「井伊谷藩」 の領地は、金指と気賀と井伊谷であり、井の国=井伊谷藩とするなら、現在の引佐、細江、
三ケ日となってくる。ならば私の想定通りなのだがなぁ。

 
                 くりからの滝                                西国三十三観音像

 あまり広いとは言えない境内に鬱蒼とした谷間があり水が流れている。一般参拝者は登りそうもない細い道を10mも登ると
何だぁー 樋で水を流した滝だった。しかしその谷間は短いとはいえ大岩がゴロゴロしして中々な物だ。
ところでひらがなで書かれた “くりからの滝” だが、多分倶利伽羅の滝なのだろう。だとするともっと上には不動明王が祀ってあり
そうだと上を見ると、すぐ上には “南無不動明王” の赤い幟とお堂が見えていた。

         
                                      石仏群

 ここの石仏も中々感じの良い物が揃っています。
実は石仏の事を知りたくて “歴史散歩便利帳” とか “石仏探訪必携” なる本も購入したのですが、重さと時間が邪魔をして、持って
歩いてはいません。実物を見ながら納得すれば覚えも早いのでしょうがねぇ。

初歩き:湖北五山初詣5

2017-01-23 14:05:43 | 寺社遍路
歩行記録   H29-1-6(金)
歩行時間:6時間40分   休憩時間:2時間15分   延時間:8時間55分
出発時刻:7時10分     到着時刻:16時05分
歩  数: 40、707歩(推定距離28.9km)    GPS距離29.4km
行程表
 天浜線金指駅 0:15> 初山(しょさん)宝林寺 0:25> 実相寺 0:30> 井伊家発祥の井戸 0:04> 龍潭寺(りょうたんじ) 0:01>
 井伊谷(いいのや)宮 0:10> 妙雲寺 0:04> 渭伊(いい)神社 0:01> 天白磐座遺跡 0:30> 竜ヶ岩(りゅうがし)洞入口 1:00>
 奥山方広寺入口 1:20> 風越峠 0:45> 三ケ日人骨出土の地 0:25> ミカンの里資料館 0:15> 大福寺 0:25> 摩訶耶寺
 (まかやじ) 0:15> 初生衣(うぶぎぬ)神社 0:05> 浜名惣社 0:10> 三ケ日駅

                                     湖北五山概略図



                         方広寺入口から風越峠への地図
◎道案内12
 ・方広寺から出たら広場を越し一番左にある県道68号を南西の方向に下る。
  あとは風越峠まで県道を歩く分りやすい道が続く。

         
                     ミツマタ(三椏)                                   カヤ(榧)?

 次の大福寺には総門から門前通りの入口まで戻り、県道68号を風越峠まで歩く事になる。
この道は一旦下ったあとヘアピンカーブを登る今日のコースの中で一番きつい箇所になる。本当なら新東名の近くに平坦な(?)道が
あるらしいがまだ歩いた事はない。一度確認したいと思っていたが、何しろここは道探しをしながら歩くにしては遠すぎて、行ったり
来たりしていると明るいうちにゴールの三ケ日駅まで到着することが出ない。それを恐れて結局歩かずじまいになってしまった。

 今回も舗装道路をテクテクあるのだが救いは交通量が少ない事だ。この県道は道幅が狭いため大型車が通行禁止なのも影響して
いるのか、風越峠までは数台の車にしか出会わなかった。
道端にミツマタが蕾を付けていた。蕾と云っても一見花のように見え黄色の花を見てない人は、これが花だと勘違いするだろう。
オッ今度は何だ? 葉の形がカヤのように見えるが、カヤって幹が細かく枝分かれしていったけ? 分からない。

         
             青面金剛像                                  石仏安置

 ここにも青面金剛像があった。右には六地蔵、左には秋葉山の常夜灯に小さな社がある。
これが地図にある “六所大明神” なのだろうか、これも分からない。

こんな事にでも気を紛らわさないと飽きてきてしまう。

 
             新東名が下に見えた                               ヘアピンカーブ

 一旦下った県道が登り始めると新東名が見えてきた。民家も見えているので多分あの辺りに風越峠に行く道があるのだろう。
地図ではヘアピンカーブは2ヶ所しか書いてないが実際は4ヵ所程度はある。その内の1ヶ所をシュートカットしたら疲れる事といったら
なかった。今まだ順調に来ていたのにハーハー息切れがして左足首が痛くなってしまった。
今日は平に慣れていた足が急に斜めになり足首を痛めたのか、くだらない事をしてしまったと、その場限りの後悔を。


                             風越峠から三ケ日人遺跡までの地図
◎道案内12
 ・風越峠で県道と別れて左の車道に入る。太い道を道なりに下る。
 ・県道308号に合流したら右折して下っていく。
 ・以前は県道に入り最初の右側への分岐を右折する近道があったが、今はフェンスで立入禁止になっているので県道をそのまま下る。
 ・(道が太くなった左側に公衆便所がある?)。そこが三ケ日人骨出土遺跡の入口で遺跡は20mほど中に入る。

       
               句 碑                                   風越峠

 「涼しさや 休む風越し 富士を見て」 と彫ってあるらしいが所々しか読み取る事ができない。白っぽいゴツゴツした岩に彫ってある
ので字が見にくいのです。折角の句碑なのだから彫跡に墨でも入れてくれれば読めるのだが。
そんな文句は良いが、この句碑を見るたびに感じるのは、ここから富士山が見えるだろうかという事。今は気が邪魔して見えないが
木が無ければ見えるのだろうか?

 
                 尉ヶ峰登山口                            県道と合流

 と思いながら峠から県道から林道に入ると、オッ!尉ヶ峰の登山道が禿山になっている。あの上からなら富士山が見えるだろうか。
タイミング良くトラックから作業員と思しき人が降りてきたので
 「あの上から富士山は見えますか?」 と聞くと
 「私ら大阪から来ているので良く分からない」 だって。多分見えないのだろう。

 県道68号と308号を結び道は林道なのかどうかは分からないが、県道と同等の車道だが車には1台も出合わなかった。
308号と合流したら場所 “巨人の足跡” があるのだが、今は案内板も剥げかけて読む気にもなれない。足跡はと云っても・・・・・
勿論巨人とは 「ダイダラボッチ」 の事ですが、ここではダイダラボッチの事を 「大多良法師」 としてあるが、成程それも面白い。
カタカナの伝来ジャイアントが日本の大男になったようだ。

 
               ウワー!通れない                               ミカン畑ばかりだ

 県道の最初の右への分岐を入ると、正しく 「ウワー!通れな」 だった。農道の入口はフェンスで閉じられてていて、そのフェンスは
県道の下の一面のミカン畑をグルリ囲んでいるようだ。
フェンスの入口は2ヶ所ひもで縛られているが、これを外して中に入っても良い物なのか? フェンスの目的は鹿や猪対策だろうが
それ以外にもミカン泥棒も兼ねているのかもしれない。ウーン!どうしよう。
これまでも獣の進入禁止の柵は何カ所も出くわしたが、そこには注意書きが有ったり、人間なら簡単に開閉できる入口だったので
柵を開けて入っていた。だがここの入口は何となく入るのに抵抗を感じる。縛り方が獣対策と云うよりなにか人の情に訴えるように
 「本当に入るのですか?」
と云っているようだ。

 今日は寺社巡りの遍路でもあるのだから人に言い訳しなければならない事は止めておこう。とトボトボ県道を下りました。

       
                              三ケ日人骨出土遺跡

 三ケ日人骨出土遺跡の入口は看板が無くて分かりにくかった。県道を下ってきて集落に入り右に小高い丘の手前で道が太くなっている。
そこのミカン畑の間の舗装された道を入るのだが、前回の記録を見るとその場所にはトイレがありその横を入ることになっていた。
しかし今回はそのトイレに気が付かなかった。多分トイレは無かったと思うが自信はない。
小高い丘は地図に “新明宮” とある場所です。

       
                              三ケ日人骨出土遺跡

 ここの遺跡は正規には 「只木遺跡」 と呼ぶようです。でも “三ケ日原人” の意識が強い私にとっては “三ケ日” の言葉が入らないと
ピンとこないのですよね。
三ケ日原人がいつの間にかに三ケ日人に格下げされてしまったが、私たち年代の教科書には三ケ日原人の名で載っていました。
そのあたりの経緯を案内板は教えてくれます。それらを要約すると
 「昭和33年に当地の石灰石採石場で人骨と獣骨の骨片の化石がが発見された。獣骨の中には縄文時代には既に絶滅していた
アオモリゾウなどの化石骨と共に発見されたので、人骨も縄文時代に人骨と推定され、三ケ日原人と命名された。
平成12年人骨化石を新しい鑑定法で計測すると、その人骨は縄文時代のものと判明し三ケ日原人は三ケ日人に格下げになった。」


       
                             三ケ日人骨出土遺跡

 人骨や獣骨の化石はこの穴の中から発見されたのだろうか? 化石と云うのだから穴の中にポツンとあったわけではなく、岩の間に
あったの思うし、石灰岩の採石場で発見ともあるが、以前はこの辺り全体が採石場で人骨が出た場所だけ残したのだろうか、疑問は多い。
更に疑問なのは時代の異なる獣骨と人骨がどうして同じ場所から発掘されたのだろうか? もう少し詳しい説明が欲しいところだ。
そして最後の疑問は、ここには石灰岩の採石場があってチャートの採石場ではない。ミカンに適した土壌はチャートだとこのあと訪れる
ミカンの里博物館の方は説明してくれたが、ここは一面ミカン畑なのだが・・・・・・・

 
                 新明宮                                平地に来てもミカン畑だった

 三ケ日人遺跡の西側に木々がこんもり茂った丘は神社の森だった。参道の階段の横に建つ社号標には 「村社 新明宮」 とある。
村社なら大した事はなく神社の位からからいけば一番低い位置にある。
因みに神社の位は官幣大社から始まり、国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社などの官社があり、その下に
府県社>郷社>村社がある。
だがその割には清浄な雰囲気を湛えて何か伝説でもありそうな雰囲気もある。調べてみると伝説こそ無かったがこの神社は式内社
だと分かった。道理で由緒ありげに見える佇まいだ。
そうそう式内社とは延長5年(927年)にまとめられた 「延喜式」 に記載されていた神社の事で、全国で2861社が指定されている
由緒正しき神社のことです。
尤も延喜式には神明社としての名称ではなく “弥和(みわ)山神社” と旧称で載っているようです。


                             三ケ日人遺跡から大福寺までの地図
◎道案内13
 ・三ケ日人遺跡期から県道308号を下り橋を渡ると県道68号に合流する。
 ・合流したら左折して県道を下って行くと道の左にミカンの里博物館がある。
 ・博物館から更に県道を西に向かって行くと火の見櫓と消防団の建物があるのでそこを右折する。
 ・右折して最初の角を左折すれば大福寺の仁王門が見えてくる。

 
             ネットを被せたミカン畑                            みかんの里博物館

 みかんの里博物館は今まで来た時は閉館続きだったが今日はタイミング良く開いていたので、チョッとお邪魔してみます。
お年寄りの男性が受付で座っていたので声を掛けて中を見学した。古い農機具などが陳列されいるだけで余り面白くはない。
味見用の三ケ日ミカンもないので出ようとしたら 「チョッと説明させてもらっていいですか」 と話しかけてきた。
受付けの人にいろいろ説明してもらったけど記憶に残ったのは
 「三ケ日ミカンは早生は興津早生で、晩ては青島ミカンと決まっていて、それ以外は三ケ日ミカンではない」 との事だけだった。
そこでミカンには関係ないが以前から気になっていた赤いっぽい石垣の事を訪ねると
 「あの石はチャートと云って、三ケ日ミカンの旨さの秘訣はあのチャ-トにあります。お隣の愛知県に三ケ日と同じような気候の蒲郡と
云う町があるが、そこでも三ケ日ミカンに負けないようなミカンを作ろうと挑戦続けてきたが、どどうしても作れなかった。そこで学者に
調べてもらったら三ケ日と蒲郡の違いはチャートが有るか無いかだった。チャ-トがどうしてミカンを旨くさせるのか分からないが、
蒲郡ではそれで路地ミカンは諦めてハウスみかんに力を入れるようになった。」
との事です。
ウーン大事なことを聞いた気がするが、これからこの地方を歩くたびに石灰岩とチャートには悩むだろう。

 
                勿体ないなー                               大福寺仁王門

 流石三ケ日だけの事はある。何処に行ってもミカンのオンパレード。それにしてもこの摘果は何だろう? 勿体ないなー

 大福寺の仁王門に着いたがここから本堂までは大分歩かなければならない。昔はこの参道の両横に塔頭(たっちゅう)が建ち並び
七堂伽藍の境内に続く道であっただろうが、今はただ太いだけの道で昔をしのぶ物もない。
仁王門に建つ案内板によれば
 「貞観17年(875)扇山(富幕山)に幡教寺(ばんきょうじ)を開創した。その後現在地に移し、土御門天皇から勅額を下賜されて
大福寺と改称した。」
とある。
紹介はされていないが、この仁王門は県の文化財に指定されているという。
また仁王門の扁額の 「大福寺」 文字は土御門天皇が下賜された勅額だそうです。(寺の字が読めなかったが)

 
                     阿                                     吽

 阿吽の仁王は鎌倉時代の作とか。雨風が強ければもろに影響を受けそう所にあるのに、よく今までもったものだ。
バックの朱色が仁王をより力強く感じさせているようでした。

 
              新東名三ケ日JCT方面                        新東名浜松いなさIC方面

 参道の途中に新東名を跨ぐ大福寺橋がある。左側は三ケ日JCTを経て東名に合流するので上りと下りの車線が離れていく。
片や右側はその車線が合体する所だが何れにしても交通量が少ない。それでも今は1台だけだが走っている車も見えるが、新東名が
愛知県まで延長したらここ走る車はどうなるだろう。多分激減してしまい1日数台なんて。まさかそんな事はないと思うが勿体ないなー。

 
         新東名の跨線橋から浜名湖が見えた                          庫裡の入口

 跨線橋を振り返ると今日初めての浜名湖が見えていた。このコースで海が見える場所はここだけです。
此の門を潜った先には浜名湖を借景した回遊式庭園があるそうですがまだ入った事はありません。勿論今日もパスします。

 
          石段の四国八十八霊場石仏                          四国八十八霊場一番石仏

参道の階段脇には四国霊場札所の順番に二体ずつの石仏が並べて安置してある。その一体はどれもが丸彫りの僧形の石仏で、
これは弘法大師を表しているのだろう。もう一体は各札所の本尊だと思うが正確なことは分からない。
例えば一番札所霊山寺のご本尊は釈迦如来だが、私には阿弥陀如来のようにも見えてしまう。           

                         
                    正面        板碑(いたび)か石幢(せきどう)か      横面

 余り見かける事のない石仏は板碑(いたび)とか石幢(せきどう)と呼ぶのだろうか。その石碑の正面は4段に分かれていて
下3段にそれぞれ4体の仏像が彫られ、最上段には3体彫られているので計15体の仏像が彫られている。
更に右側面にも9体が彫られている。
すでに大分風化しているので定かではないが、一目では分かるのは右手を頬に当てて歯痛をこらえている如意輪観音で、これは
正面にも側面にも彫られていました。

 
                  本 堂                                  浜名(大福寺)納豆

 本堂前の桜がチラホラ咲きだしていて春遠からじを思わせる。前回来た時は桃の花が満開で丁度弘法大師の御開帳の日に当たり
地元の方に接待してもらった。だが今境内にいるのは私一人だけで初詣客もいない。この五山は初詣の人気は無いのだろうか。

 三ケ日に来た時に買うのは、三ケ日名物浜納豆ですが、この納豆について仁王門の前の案内板には
 「大福寺伝製の浜名納豆は明(中国)の僧から伝来されたもので、日本の納豆の元祖である。足利七代将軍、今川義元、豊臣秀吉、
徳川家康以下歴代の将軍に献上し、ご朱印の外に納豆除地を下符せられた。豊臣時代は唐納豆と言ったが、徳川中期から浜名納豆と
言っている。浜松市教育委員会」
 と紹介しています。
だがこの納豆の名前は浜納豆、大福寺納豆、浜名納豆となどがあるが家康の命名した浜名納豆は余り使われないらしい。
大体本家本元の大福寺でも浜名納豆の名前は使わず大福寺納豆と言っているのだからまさに家康さん地に落ちたりですな。

 そんな事はどうでもよいのですが大福寺の庫裡の入口には 「大福寺納豆 800円」 のポスターが張ってある。
初回の来た時はたかが納豆に700円は高いと思って買わなかったのだが、三ケ日駅近くの酒屋へ氷結を買いによると大福寺納豆が
500円で売っていた。店主が 「大福寺で製造した納豆です」 と云うので1袋買ったがこれで十分でした。
それ以後大福寺では買わずに酒屋で買っていますが、今回は案の定500円が600円と寺と同じように値上げされていました。

納豆の包装紙に書かれた「寺」 という字は、大福寺の仁王門に掲げられている土御門天皇の書いた勅額と同じ文字でした。
それにしてもあれで “寺” と読ませるのですかねぇ。

初歩き:湖北五山初詣4

2017-01-18 11:17:08 | 寺社遍路
歩行記録   H29-1-6(金)
歩行時間:6時間40分   休憩時間:2時間15分   延時間:8時間55分
出発時刻:7時10分     到着時刻:16時05分
歩  数: 40、707歩(推定距離28.9km)    GPS距離29.4km
行程表
 天浜線金指駅 0:15> 初山(しょさん)宝林寺 0:25> 実相寺 0:30> 井伊家発祥の井戸 0:04> 龍潭寺(りょうたんじ) 0:01>
 井伊谷(いいのや)宮 0:10> 妙雲寺 0:04> 渭伊(いい)神社 0:01> 天白磐座遺跡 0:30> 竜ヶ岩(りゅうがし)洞入口 1:00>
 奥山方広寺入口 1:20> 風越峠 0:45> 三ケ日人骨出土の地 0:25> ミカンの里資料館 0:15> 大福寺 0:25> 摩訶耶寺
 (まかやじ) 0:15> 初生衣(うぶぎぬ)神社 0:05> 浜名惣社 0:10> 三ケ日駅

                                     湖北五山概略図



                         天白遺跡から竜ヶ岩洞方面への地図
◎道案内7
 ・磐座遺跡から適宜南西の方角に下る。(正規は神社の横に下ってから、川沿いの道を行く)
 ・すぐ道が二手に別れるので、下に橋が見える左の道を下り学校の裏を進む。
 ・左より狭い橋(奥山線鉄橋跡)から来る道と合流するので右折してその道を道なりに進む。

 
            軽便鉄道奥山線鉄橋跡                             セメント工場?

 天白磐座遺跡の見学が終えたら斜面を適宜川に向かって下れば道に出るので、その道を右に曲がっていく。
この川は井伊谷宮の横を流れていた神宮寺川で、奥山方広寺を過ぎ風越峠までは基本的にこの川を遡ることになる。                       

 学校のの裏を歩いているとやけに立派な赤い鉄橋が見てきた。後で分かったのだがこの鉄橋は浜松と奥山を結んでいた遠州鉄道
奥山線の鉄橋を利用したものだった。
赤煉瓦の橋脚に赤いペンキが塗られ新品のように見える橋桁だが、 「大正12年東京石川島造船所製」 だった。
因みに奥山線は浜松から今回の出発地金指までは大正3年に開通されたが、そこから奥山までは難航して大正12年に開通している。
奥山まで延長した主目的は半僧坊大権現で知られた方広寺の参拝客が目当てだったようだが、昭和38年には気賀・奥山は廃止され、
翌年には全線廃止となったそうです。
今日歩く天白磐座遺跡の鉄橋から奥山までの道は、図らずもこの奥山線の跡を辿っていました。

 西の方角に山を削っている工場が見えるが、採石場所にしては施設の規模が大きく、採掘している部分は白っぽく、しかも埃が
漂っているのが見える。多分石灰岩からセメントを作る工場なのだろう。
引佐には以前は大きなセメント工場があったらしいが、あれの事なのかな?


                         竜ヶ岩洞方面と方広寺への地図
◎道案内8
 ・県道303号に出たら県道を横断して竜ヶ岩洞入口の看板の指示方向に進む。
 ・竜ヶ岩洞入口を右に見ながら直進する。途中分岐があるが道なりに進む。

         
                      竜ヶ岩洞入口                                  竜ヶ岩洞

 左の川沿いの広い空地の横の建物に 「竜ヶ岩洞 あゆ狩り園」 とあったが、やけに広い駐車場だった。
夏場はこの駐車場が車で一杯になるのだろうか?多分そんな事はないだろう。きっと竜ヶ岩洞の臨時駐車場も兼ねているのだろう。
その駐車場の右には公衆便所の看板と竜ヶ岩洞入口の看板がある。大きく立派だったように見えるトイレは今は閉鎖されている。
井の中に虎を描いた旗が一枚寂しげに揺れていた。こんな事じゃ観光客は喜ばない。

 
                 古い石垣も                                 新しい石垣も

 引佐や三ケ日のいわゆる湖北地方を歩いていると石垣の多さに目を惹かれる。斜面が多いので石垣は必然的に多いのだろうが
その石垣に使われている石は赤っぽい石が多い。
以前気になって石垣のある家の人に石の種類を聞いたら 「近所の山石だ。」 と云っていた。
さらに調べると石垣に利用する 「三ケ日石」 なる物がある事は分ったが岩の種類などは分らないままだった。
話が後先になってしまうが三ケ日の 「ミカンの里博物館」「三ケ日地方はチャートと呼ばれる石が多く、それがミカンを美味しく
させている秘密です。」
と聞いた。さらに天白磐座遺跡の巨岩はチャ-トという石だという事も分かった。

 先ずはお得意のウイキペディアには 「チャートは、堆積岩の一種。主成分は二酸化ケイ素(石英)で、この成分を持つ放散虫・
海綿動物などの殻や骨片が海底に堆積してできた岩石。非常に硬い岩石で、色は赤色、緑色、淡緑灰色、淡青灰色、灰色、黒色
など様々な色のものがある。」


 ウーン引佐には竜ヶ岩洞やセメント工場もあり、石灰岩の産地だと思っていたのだが、チャートと石灰岩は違う物なのか?
チャートは “非常に硬い岩石” とあるが、石灰といえば畑の苦土石灰や運動場のライン引きの石灰の粉を思い浮かべる。
また石灰岩でできた鍾乳洞は水にも溶けるので柔らかい岩石と思っていたのだが・・・・・

 石灰岩を調べてみると、チャートと同じように生物の死骸などが固まった堆積岩だが、岩の成分が石灰岩は炭酸カルシウムで
チャートは二酸化ケイ素だった。その違いが何だか理解はできないが、同じような生物の死骸からできているのに違う岩石になると
いう事は生物の種類が違うのか? それにしてもチャートに該当する日本語が無いのは何故なんだろう。
結局私の知能では理解できない事のようで棚上げにするしかなかった。

         
                 露岩しているチャート?石灰岩?                         崩れてもいた

       
                            奥山方広寺への道
◎道案内9
 ・前方に県道が見えてくる所にある、下の写真分岐1を右折する。
 ・右折したら分岐2の写真の場所を左折する。
 (分りにくければ点線のように県道を横断しても合流すれば分かりやすい)
 ・奥山神社を過ぎて下に見える県道の信号を横断する。
 ・川を渡り点線の道と合流した所には奥山線の案内板が建っている。そこを右折して川を右に見ながら進む。
 ・道なりに歩いていくと川を渡る橋との分岐に出るが、橋を渡らずそのまま直進する。


                 分岐点1                                    分岐点2

 この分岐を曲がっても何が有るわけでもないので道なりに進み県道を横断した方が分かりやすい。
ただ細い道は奥山方広寺に続く遍路道だったのではないかと思う。


              神宮寺川を渡る                           浜松軽便鉄道奥山線の案内板

 神宮寺川を渡ったコミュニティーセンター “小斎藤(こざいとう)会館” の横に建つ 「浜松軽便鉄道奥山線の案内板」 を見ると、
天白磐座遺跡からは奥山線の廃線跡を辿ったようで、交通量が少なく歩くのにはよい道で助かった。この会館近くにかっての
 “小斎藤駅” があったようです。

         
                    岩場に立つお地蔵さん                             戦没者慰霊塔

 道の分岐にお地蔵さんが祀られていた。白っぽい露岩の上だが、これはチャートか石灰岩か。どうも気になっていけない。
隣にある戦没者慰霊塔の階段も現地調達の岩で造ったようだが、造作が雑なのか崩れかけている。
危ないので上に行くのは止めよう。

         
                            奥山方広寺への道
◎道案内10
 ・道なりに歩いて行き二か所目の名倉製作所の前で右折して橋を渡る。
 ・橋を渡って合流した道を左折する。


                 奥山方広寺への道(道が一部青くなってしまいました)
◎道案内11
 ・左折して少し行った所に半僧坊の道標があるので、それに従い右の道を登る。
 ・坂を登っていくと広い駐車場がありトイレもあるので昼飯場所に丁度良い。
  県道には駐車場左の階段を登っても良い。
 ・県道に出たら左に進むと右に鳥居があり、参道の門前街を通っていけば方広寺の総門に出る。

 
               駐車場とトイレ                            県道のバス停に立つ石塔

 広い駐車場を後はトイレが無いのでここで昼飯にすると便利です。尤も拝観料を払って境内に入ればトイレはあるでしょうが
ゴールの時間が気になる行程なので当然有料区間には入りません。
昼食が終り階段を登ると斜め右のバス停の後ろに常夜灯と石塔があるのだが、案内がないので何の石塔かもわからない。この上に
東隠院という寺があるのでその関係か。立派な石塔なのだから案内してくれると嬉しいのだが。

 
                奥山名物大あん巻                             小倉あんと苺あん

 奥山名物は大あん巻と油揚げ。まだ油揚げは買った事はないが大あん巻は奥山に来た時は土産に買って帰っている。
甘い物はあまり好きではないが何故かあんこ物は好きで、今も大あん巻を食べながらブログの更新をしている。
あんこは小栗、苺、白の3種類があり白あんは確か50円安かったように記憶している。今回は小倉と苺を買ったが千円だったかな?
チョッと記憶は薄れてしまった。大あん巻の土産物屋は奥山バス停の前ですぐ分かります。

         
                  奥山方広寺入口                                     門前通り

 “淋しさにまけた~ イエ世間にまけた~♬” と大正ロマンを感じさせる佇まいの門前通りだが、実際は平成のシャッター通りだった。
開いていたのは総門前の土産物屋兼ソバ屋と油揚げを売る店だけだった。
大正時代に開通した軽便鉄道は、この方広寺の参拝客を見込んで開通したようだが今ではこのていたらく。
無信心が増えた世の中を方広寺の守り本尊・半僧坊はさぞかし嘆いている事だろう。

 
                  総 門                                 弁天池と山門

 総門は通称黒門と云うようだが法多山の黒門に比べ黒門のイメージは湧きにくい。それより門に掛かった扁額の文字は何と読む
のだろう。HPを調べたが載っていなかった。
方広寺は通称 「奥山方広寺」 とか 「奥山半僧坊」 と呼ぶが、正式には 「深奥山(じんのうざん)方広寺」 と称する臨済宗方広寺派の
大本山です。
開山は無文元選(むもんげんせん)禅師と聞いた事はない人ですが、後醍醐天皇の皇子で井伊谷宮に祀られている宗良親王とは
腹違いの弟になるようです。ならば頼朝・義経の “黄瀬川の対面” のように兄弟の顔合わせが井伊谷でも行われたのではないか。
早速調べてみたが宗良親王が井伊谷に来たのが1338年で無文元選は1371年と大分開きがあった。
1371年頃と云えばすでに宗良親王の南朝方は敗色寸前で、親王自身も各地を逃げ回るようになっていた。
こんな状態では兄弟の対面は難しいだろうが、ウイキペディアにこんな説があった。
 「宗良親王は1385年に遠江国井伊城で薨去。」 なら近くに住む弟なら兄のお見舞いに当然行く。だがそんな説は無いようだ。

 更に遠州には後醍醐天皇の皇子伝説は他にもある。
今年の夏に歩いて挫折してしまった “遠江33観音霊場巡り” の7番慈眼寺にはこんな話が伝えられていた。
 「1335年に後醍醐天皇の皇子が天竜川河口に上陸して、この地にお堂を立て亡くなるまでの17年間を住まわれた。その従者が
皇子の逝去を嘆いて観音堂を建て霊を慰めたのが慈眼寺の始まりです。」

1335年に慈眼寺に祀られた皇子が遠州に来た。その3年年後の1338年に宗良親王も天竜川河口に上陸している。更に30年後に
方広寺の開山も遠州に来ている。
年代だけで追えば、慈眼寺の皇子と宗良親王は当然顔を合わせていると思われ、方広寺の皇子と宗良親王も顔合わせのチャンスは
あった。なのにそんな説を見つからない。
ただ、慈眼寺の皇子は名前も分からず真偽のほどは定かでないので、遍路のブログにはこんな妄想的歴史観を書いていた。
 「天竜川河口で座礁した皇子の船には、京から連れてきた宗良親王の側室も乗っていた。側室は座礁の際の衝撃で怪我をしてしまい、
これ以上一緒に連れ歩く事もままならず、親王はやむを得ずその地にお堂を建てて側室を住まわせることにした。
生活の面倒を見させるため家来のを残し、自らは伊井谷を目指して進軍をした。
 残された愛人は怪我のため歩く事もままならぬ身になり、いつもお堂の中でひっそり暮らしていた。そのため村人はお堂に住む人の
正体が分からなかったが、お堂を建てたり家来もかしずいているので、きっと皇子に違いないと思うようになった。」


どうですか、慈眼寺の皇子と宗良親王は同一人物にして、慈眼寺祀られたのは親王の側室とした私の説は。
そうそう後醍醐天皇から子供を調べようとしたら、何と関係を持った女性は30人以上で、もうけた子供33人もいた。
これは歴代の天皇の中でベスト2の多さだという。因みにNO1は醍醐天皇だそうですが、正に英雄色を好むで羨ましいー。


 総門を潜ると駐車場があり新しい拝観受付が出来ていた。以前は拝観受付が山門の先にあったので五百羅漢の少しと山門も
見る事ができたのに、何ともマー世知辛い事をするものだと自分ケチを棚に上げ愚痴る私でした。

初歩き:湖北五山初詣3

2017-01-13 17:12:28 | 寺社遍路
歩行記録   H29-1-6(金)
歩行時間:6時間40分   休憩時間:2時間15分   延時間:8時間55分
出発時刻:7時10分     到着時刻:16時05分
歩  数: 40、707歩(推定距離28.9km)    GPS距離29.4km
行程表
 天浜線金指駅 0:15> 初山(しょさん)宝林寺 0:25> 実相寺 0:30> 井伊家発祥の井戸 0:04> 龍潭寺(りょうたんじ) 0:01>
 井伊谷(いいのや)宮 0:10> 妙雲寺 0:04> 渭伊(いい)神社 0:01> 天白磐座遺跡 0:30> 竜ヶ岩(りゅうがし)洞入口 1:00>
 奥山方広寺入口 1:20> 風越峠 0:45> 三ケ日人骨出土の地 0:25> ミカンの里資料館 0:15> 大福寺 0:25> 摩訶耶寺
 (まかやじ) 0:15> 初生衣(うぶぎぬ)神社 0:05> 浜名惣社 0:10> 三ケ日駅

                                     湖北五山概略図


           
                         龍胆寺から井伊谷宮までの地図
◎道案内5
 ・龍潭寺の井伊家歴代の墓を通り過ぎれば井伊谷宮の宗良皇子の御陵の前に出る(案内板有)
 ・井伊谷宮の参拝が済んだら鳥居を潜り県道に出る。

 
                宗良親王御墓入口1                          宗良親王御墓入口2

 龍潭寺の井伊家歴代の墓地をお参りして、そのまま進めばあっけなく井伊谷宮の境内に出る事ができる。
この道を知らないと龍潭寺からいったん県道に出て、井伊谷宮の鳥居を潜る正規な道になり、かなりの遠回りになってしまう。
何しろ信心心の無い俄か遍路の私ゆえ、正規な道より近い方が良いと、毎回この道を利用しています。

 井伊谷宮の境内に入るとまず目につくのは宮内庁管轄の宗良(むねなが)親王の墓の入口だが、いつもは必ず閉じられている
その門扉が何と開いていた! 掃除中かしら?と耳を澄ませても何の物音はしない。入口に建つ宮内庁の看板には
 「一、みだりに域内に入らぬこと 一、魚鳥等を取らぬこと 一、竹木等を切らぬこと 宮内庁」 と、どうでもない事を書いてある。
なら今はお墓にお参りするのだから “みだり” ではない。と勝手な言い訳を用意して中に入ることに。

 すると今度は鳥居を構えた入口がある。ここまで来たら当然中でお参りしないと・・・・

 
               宗良親王御墓入口3                            宗良親王墓碑(正面)

 更に鳥居の中にあった第3の扉は閉まっていたが、その先には井伊谷宮の本殿が見えていた。
最後の囲いの中には宝篋印塔の形をした石塔が建ち、そこには 「冷湛寺殿」 の文字が彫られているのが見えた。

 “冷湛寺殿” っていったい何なんだ? 読みは “れいたんじ” か、しかし読みようにっては “りょうたんじ” と読めないか。
仮に “りょうたんじ” なら龍潭寺と同じ読みになる。調べてみると
 「宗良親王は74歳の生涯を終え井伊谷の地蔵院に葬られた。法号の「冷湛寺殿」にちなみ地蔵院は冷湛寺と改称した。」 との
説を見つけた。だが伊井谷宮のHPには
 「当宮は、明治5年に明治天皇の思し召しにより御鎮座、翌6年には静岡県内でも数少ない官弊社(井伊谷宮は官弊中社)という
格式高い神社となりました。」
 と明治時代に創建したとある。
一方先程歩いて来た龍潭寺にあった案内板には
 「龍潭寺は元井伊八幡宮の境内でしたが、五百年前井伊氏がこの地に龍泰寺(現龍潭寺)を造営しました。」 とあった。
更にウイキペディアによれば
  「龍潭寺の寺伝によれば、行基によって開かれ当初の寺号は地蔵寺であったが井伊共保が葬られた際に、その法号から
自浄寺と改められた。戦国時代に戦死した井伊直盛がこの寺に葬られると、直盛の法号から龍潭寺と改められた。」


もうこれだけでも頭はパニック状態だが更にこれから行く渭伊神社に建つ縁起書には
 「風土記に延喜式神名帳中遠江国引佐郡渭伊神社とあり又・・・・・井伊家祖先共保寛弘七年其神井より出生以来産神として
信仰厚し。渭伊神社は往昔今の龍潭寺境内にありしも南北兵乱の時現今の地に移せりという。往今より渭伊二十七郷の
大産神なり、旧地頭近藤氏の崇敬厚し  井伊谷村誌より」


 これだけ種々の説があるなら私も参加して妄想的歴史観を披露してもかまわないだろう。
 「地蔵寺と渭伊神社が並び建っていた頃、渭伊神社の御手洗い井戸の脇に捨て子があった。捨て子は成長して井伊共保となり
井伊家の基礎を築き、亡くなるとその法号から地蔵寺を自浄寺と改められた。
南北朝の戦いが始まり後醍醐天皇の皇子、宗良親王が井伊谷に転戦してくると、渭伊神社付近を砦として整備するため神社を
天白に移転し、地蔵寺は砦としての機能を果たすようにした。
時は過ぎ戦国時代に入ると井伊家の当主直盛も桶狭間の戦いのあと殉死し、その法号から自淨寺を龍潭寺にと改名する。
明治に入り建武中興に尽力した人々を祀る神社が作られた中、彦根藩の知藩事・井伊直憲が井伊谷に宗良親王を祭る神社の
創建を出願し、井伊家の菩提寺の横に井伊谷宮を設立した。奇しくもその場所はかって渭伊神社が建っていた場所であった。」


        
           宗良親王墓碑(裏)                              本殿(裏)

 “冷湛寺” の法号から変な方向に話がいってしまったので元に戻します。
実はこの宝篋印塔を見て不自然に感じた事がある。確かに墓の入口から入ってきたのだから、墓碑の正面が入口側を向いて
いるのは分る(墓碑の裏側から写した写真には鳥居が写っている)。
しかし御墓入口3の写真を見てください。墓碑の後ろに本殿が見えています。この写真は墓碑の正面側から写したものですので
墓と本殿が背中合わせの状態になっているのです。
要はお寺の本堂の裏に建つ墓が後ろ向きに建っている状態です。これでは僧の勤行を後ろ向きで聞く状態です。
不思議に思い井伊谷宮のHPを見るとこんな事が書いてありました。
 「宗良親王御墓は、京都(西)に向いてたてられております。」
成程な、それで本殿と墓が背中合わせなのか。なら井伊谷宮自体を西向きにすればとも思ったが、それも何となく不自然かな。

        
               ご神木                                    拝 殿

 ご神木の周りに結ばれているおみくじは、初詣の参拝者が今年の運勢を占った残骸ともいえる。
おみくじは “大吉” が出ればお守りとして持ち帰る人が多いと聞くが、そうなるとこのおみくじは “凶” や “大凶” ばかりのカスなのか。
先日新聞に面白い事が書いてあった。おみくじの吉や凶の順番について定まったものはなく、神社によって違うという。
例えば 「大吉➜中吉➜小吉➜吉➜末吉➜凶➜大凶」 があると思えば 「大吉➜吉➜中吉➜小吉➜末吉➜凶➜大凶」 もあるという。
その理由は色々だが、中吉が吉の上なのは 「大吉と吉の中間が中吉」 との判断で、中吉が吉の下は 「吉と凶の間」 となるらしい。
しかもこれらの呼名の種類も神社により違い、大凶は勿論 凶や中吉などもない神社もあるという。
私のおみくじは何だったのかって・・・・ 私は他力本願的なおみくじや宝くじはやりません。と、建前では言いますが、お金を払って悪い
結果になるのが嫌なだけです。

 
                  拝殿を望む                                    参 道

 時間は丁度9時、まだ早すぎるのか参拝者はホンの少々で写真には、入り込まなかった。
寺に比べ神社の正月は派手に衣替えするので初詣が多いのだろうか。だが例年行っていた遠州三山は、お寺なのに参拝者は
多かった。尤も小笠山を越えて行っていたので時間が11時を過ぎていたのも影響しただろう。ここだって11時ごろになれば
参拝客で溢れる事だろう。

   
                         井伊谷宮から渭伊神社までの地図
◎道案内6
 ・井伊谷宮の正面から県道に出る。県道を北に向かい神宮寺川を渡ったらすぐ団地に入る道を左折する。
 ・新しい太い道に合流したら右折する。(井伊谷宮の横の道をから新しい道に出る事もできる)
 ・2本目の角にある寺が妙雲寺。
 ・妙雲寺を出たら西に向かい丁字路を右折すれば渭伊神社の境内が見える。
 ・神社の左側に2本の道があるので、1本目の道を上に登るとすぐ磐座遺跡がある。

 
                  妙心寺                                   妙心寺案内板

 妙心寺は今までは寺の裏を歩いていたが寄った事はなかった。それが今回の直虎ブームで、妙心寺が直虎の菩提寺で位牌が
安置されていると紹介されたので寄ってみる事にした。
だが妙心寺は無住の寺のようで中には入れ無かったが、入口に新しい案内板が掲げられていた。
読んでみたが直虎に関しては、妙心寺の寺号が直虎の “妙心院殿”ち因むという事ぐらいだった。それよりこんな記述が気になった 。
 「妙心寺周辺は “北神宮司遺跡” という井伊谷でも最大級の遺跡の所在地です。発掘調査を行い縄文時代から江戸時代にかけて
人々がこの地に住み続けた事が明らかになりました。」
だが案内板の写真には甕や皿などで期待した銅鐸は写っていなかった。
実は井伊谷より少し南の旧細江町には銅鐸が6基も発見された 「銅鐸の谷」 があり、そこには銅鐸が出土した様子を再現した
レプリカが展示されているそうです。細江町では他の場所でも銅鐸が発見されており、天白遺跡があるここでも発掘されたのかと
期待したのですが・・・・・

        
                     渭伊神社                                      ご神木

 渭伊神社の境内の一部を整地した場所でゲートボールをやっていた。最近はグランドゴルフが盛んでゲートボールは見かけ
なくなって久しいが、何故ここではゲートボールが残っているのだろう? と、すぐ余計なことを考えるのが私の悪い癖。
でも考える。
二つの競技の違いはゲートボールは5人一組の団体競技で、ゲーム性が高くルールがゲートボールに比べ若干複雑だが、
その分奥深いスポーツらしい。それに比べグランドゴルフは個人競技で、ルールは単純で複雑な技術も必要ないらしい。
こうなれば協調性の低い都会の住民はグランドゴルフに靡き、周りの動向に気を使う田舎ではゲートボールを捨てきれない。
多分ここにはゲートボールの上手なボスがいるのだろう。
私は当面どちらもやる気はないが、やるなら当然グランドゴルフだと思う。強調性が無く、なんでも人のせいにするので、チームの
仲間に嫌われてしまうと思うから。

 
        摂社の社の裏に磐座らしき物が見えた                        矢張り磐座だった

 小さな社の裏山の上に大きな岩が見えている。前回までは気が付かずに磐座まで参道を登っていたが、よく見れば踏み跡もある。
ならばここから登っても罰も当たらないだろうと踏み跡を登り、あっけなく着いた岩場は矢張り磐座だった。

 
               天白磐座遺跡                            磐座の後ろは住宅地だった

 岩場を左に回り込むとそこが磐座の正面で注連縄も張ってある。岩の間を通り磐座の後ろに出ると林の先には住宅が見えていた。
前回来た時はこの丘全体に低い藪があったが、今は綺麗に切り取られている。これも直虎ブームの影響だろうか。

    
                           渭伊神社境内にある「磐座」の解説図

 磐座を簡単に言うなら 「神が降臨する岩石」 なのだろうか。なので山上の巨岩が磐座になると思っていた。
今まで見た静岡県の磐座で、ここ天白磐座遺跡と粟ヶ岳の磐座巨石群は、正しく 「神が降臨する岩石」 と思われた。
だが島田金谷巌室稲荷神社の巨石や島田波田の立石稲荷の巨石は、巨石であるのは違いないが、山の麓で神がこの降臨する
岩石を見つけるのは難しそうだ。
更に焼津石脇の旗掛石や静岡日本坂峠下の巨石は大きな平らな一つの岩で、降臨する岩と云うより神座、要は神の座る場所と
いった風情だった。

 私としては当然山上の磐座が好きなので、ここ天白の磐座も気に入っているのだが、そんな思いを壊すような説を見つけた。
 「天白遺跡の発掘(昭和59年)が行われる以前は、ここは地元では 「おがみ所」 と呼ばれていたという。拝み所とは聖なる山を
仰ぎみる遙拝所であり、祖霊を祀る祭祀の場であったので、天白遺跡が拝み所とすることは十分に考えられる。
更に古代遺跡の正面には必ず三角形の神山があり、神山は死者の魂が山に帰ると信じる「祖霊信仰」に基づくものでもある。
ここ天白遺跡も、今は杉林に隠れて見ることができないが、北東約3kmの地点に三岳山(みたけやま・467m)がある。三岳は
御嶽(みたけ、おんたけ、うたき)に通じることから、古代から信仰対象(神山信仰)の聖なる山であったと思われる。」

ウーン! 説得力があるなぁ。となるとここの巨岩は、聖なる山、高草を仰ぎ見る神神(みわ)神社の三つ鳥居のような物か。
完全には納得しないものの頭の隅に入れておこう。ここ天白遺跡が祖霊信仰の拝み所だった可能性があるという事を。

  
           天白磐座遺跡の測量図(『聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』新泉社より)

 「もっとも大きい西側の【A石】は、高さ7.39m、南北10.3m、東西6.8m。石の種類は、チャートと呼ばれる堆積岩の一種。
東側の【B石】は、高さ5.2m、幅約7m×4.1m。北側の【C石】は、高さ2.7m、底辺3.5mである。
巨石が織りなす超自然的な配置の妙は、じつに隙なく、みごとなコンポジションとしておさまっている。
また、A石の西側直下からは、手づくね土器や鉄矛、滑石製勾玉(まがたま)などの祭祀に用いられた遺物が出土し、
古墳時代の祭祀場として限定された。」


 色々な説がある事は納得したが、不可解なのはこの天白遺跡の傍には縄文時代から江戸時代にかけて人が住んでいた
 “北神宮司遺跡” があることだ。なのにこの遺跡が発見されたのが昭和の後期。
人々の記憶は簡単に無くなるのかもしれないが、当然この丘にも薪を取りに住民は入り込んだだろう。
それとも禁忌の言い伝えが残され、この丘には人は入らなかったのか。新しい疑問は湧いてくる。

初歩き:湖北五山初詣2

2017-01-11 17:09:01 | 寺社遍路
歩行記録   H29-1-6(金)
歩行時間:6時間40分   休憩時間:2時間15分   延時間:8時間55分
出発時刻:7時10分     到着時刻:16時05分
歩  数: 40、707歩(推定距離28.9km)    GPS距離29.4km
行程表
 天浜線金指駅 0:15> 初山(しょさん)宝林寺 0:25> 実相寺 0:30> 井伊家発祥の井戸 0:04> 龍潭寺(りょうたんじ) 0:01>
 井伊谷(いいのや)宮 0:10> 妙雲寺 0:04> 渭伊(いい)神社 0:01> 天白磐座遺跡 0:30> 竜ヶ岩(りゅうがし)洞入口 1:00>
 奥山方広寺入口 1:20> 風越峠 0:45> 三ケ日人骨出土の地 0:25> ミカンの里資料館 0:15> 大福寺 0:25> 摩訶耶寺
 (まかやじ) 0:15> 初生衣(うぶぎぬ)神社 0:05> 浜名惣社 0:10> 三ケ日駅

                                     湖北五山概略図


  
                         実相寺から井伊谷浄化センターまでの地図
◎道案内3
 ・実相寺の境内を通り御廟の塚の方に出る。更に境内を進むとお稲荷さんやお願い地蔵があり、その先の細い道を左に行く。
 ・墓の北側の下り坂の道を行く。
 ・道なりに進むと井伊谷宮の森や禊橋等が見える見晴らしの良い場所に出る。
  細い分岐はあるがすぐ下の橋を目指して下れば良い。橋は車道の橋でなく細い橋を渡る。
 ・川沿いの井伊谷浄化センターに向かいセンターの入口を右折する。後は田圃の中を道を禊橋を目指して進む。

 
                          井伊谷浄化センターから龍潭寺ままでの地図
◎道案内4
 ・禊橋を渡ったら北西に向かう斜めの小道が龍潭寺への近道。
 ・右に龍潭寺の駐車場があるが左折してうなぎ屋の横の道に入る。
 ・2本目の角を右に曲がり左が田圃の道を進む。正面に牧野医院が見える。
 ・牧野医院の手前を左に折れ、田圃の中の白塀に囲まれた所が井伊家発祥の井戸。
 ・龍潭寺には牧野医院まで戻り、そのまま直進すれば車道に出るので、そこを右に曲がれば左に龍潭寺の細い参道が見える。

  
              あの岩は石灰岩か?                               柿 畑

 実相寺から奥山方広寺の細い遍路道を西に行くと前方が開けた所がある。そこからは井伊谷の里やかって井伊家の山城があった
三岳山が見えている。この広いようで狭い土地が 「井の国」 だったのだろうか。
私はかっては井の国とは浜名湖の北側に位置する、三ケ日、細江、引佐で井の国を構成していると思っていたが、龍潭寺前にある
 「井の国と井伊氏発祥の地」 の案内板には 「ここ遠州井伊谷は古代 「井の国」 と呼ばれていました。」 とある。
となると、井の国とは狭い井伊谷を指しているようだ。

 更に面白い話も見つけた。実相寺に祀られている近藤秀用が元和5年徳川幕府の初期に 「井伊谷藩」 の1万7千国の藩主つまり
大名になっていた。しかし秀用は子供たちに所領を分割して与えたため、格々が1万石を割り込んでしまい、大名でなく旗本になって
しまった。そのため井伊谷藩は消滅して旗本の直轄地になっていた。

 秀用が何故こんな事をしたかは分からないが、近藤家と井伊家の間には反目があったと言われている。
それは女城主直虎に育てられた初代彦根藩主井伊直政は、名将だったが冷徹な一面があり、家臣にわずかな過ちがあっただけで
惨殺することも珍しくなかったと云う。そのため小田原征伐で戦功を挙げた秀用は、直政の横暴から逃れるため、徳川家康に直政の
家臣(陪臣)としてではなく、家康の家臣(直臣)として仕えたいと嘆願した。
しかし井伊直政の妨害に遭い、秀用は一時逃亡して浪人になっていたほどでもあった。
それが関ヶ原の戦い後、井伊直政が戦傷が元で死去すると、家康の直臣として召し出された秀用は順調に出世して井伊家が彦根に
転封された後の井伊谷に領地を賜り、井伊谷藩を設立し藩主にまでなってしまった。
だが、既に大大名になっていた彦根の井伊家に対し恐れを抱いていた秀用は、井伊家と関係が出来そうな大名は捨てて、直参旗本に
なった。と、最後は私の妄想的歴史観は訴える。

  
                                    井伊家発祥の地

 田圃の中に二本の定規筋が引かれた白壁に囲まれている場所があった。どうやらあれが井伊家発祥の地と云われている井戸が
あった場所のようだ。なぜここが井伊家発祥の地かと云うと
 「時は寛弘(かんこう)7年(1010)元旦、八幡神社の宮司が御手洗の井戸の傍らで泣いている男児を見つけた。
子供は高貴な面立ちをしていて貴人の相もしていたため手元で育てていたが、7才の時に遠江国司・藤原共資の養子に出し、子供の
名前を藤原共保と名付けた。成長した共保は井伊谷に館を設け、名字を 「井伊」 と改め “井伊共保” と名乗った。」
その共保が井伊家初代の当主になったのでした。

 この話を聞いたとき最初に感じたのは “高貴な面立ちをした捨て子” とは、井伊谷宮に祀られている後醍醐天皇の皇子・宗良親王の
隠し子かと思い、慌てて年代を調べてみた。だが宗良親王が生まれたのは1311年で、捨て子事件はその300年も後の事だった。
それはそうだ遠州に来た宗長親王は、井伊谷の井伊家に身を寄せたのだから、すでにその時は井伊家は成立していたのだ。

 田圃の中の風情の無い佇まいの発祥の地に近づくと、正面に井伊家の家紋 「彦根橘」 と旗紋 「彦根井筒」 が彫られている。
井伊家がこの家紋を使ったのは、発祥の地の井戸の側に橘が生えていた事に由来するとされている。

 以前東海道を歩いていて袋井に日蓮宗の妙日寺というお寺を見学した事がある。この寺は日蓮宗開祖 日蓮聖人の先祖である、
豪族 貫名(ぬきな)氏の邸宅跡だと伝えられていた。
貫名氏の初代は井伊家六代目当主井伊盛直の三男で、成人して遠江国山名郡貫名郷に所領を得て、初代貫名氏となりました。
日蓮上人は貫名氏四代目の貫名次郎の子供として生まれています。

 何故そんな事を言いだしたかは、井伊家の橘の紋を見たからです。実は日蓮宗の宗門は 「井桁に橘」 で、橘を井桁で囲んだ
この井伊家発祥の地をそのままデザインしたものだと思いだしたからです。


               
          祖霊之地碑                        井伊家発祥碑                     家紋と旗紋

 白塀の中の正面には井伊家の発祥の地を表す 「祖霊之地」 の石碑。その後ろに家紋にもなった橘が植えられている。
その橘の木をよく見るとミカンが生っている。橘って柑橘類だとは知っていたが、こんな大きな実がなるとは知らなかったので
驚いてしまった。

 祖霊之地碑の横には中央に 「井伊氏祖備中守藤原共保出生之井」 、右に 「八幡宮」 、左に 「御手洗」 と彫られた碑がある。
これらの意味ははもうお気づきですよね。藤原とあるのは共保が養子に出されて遠江国司の姓で、左右にあるのは共保が
八幡宮の御手洗の側で拾われたからでしょう。いつ建立された石碑か確認するため裏に回ったが何も彫られていなかった。

         
                   井伊家発祥の井戸                                 井戸の中

 白塀の中の左端にあるのが井伊共保が捨てられていた井戸なのだろう。がっしりと石で井桁に組まれた立派な井戸だ。
最近の物とは思えないが、かと言って千年以上前の井戸とも思えない。
この辺りは井の国で水が豊富な土地だ。若しかして今も水を湛えているかと竹の蓋を動かして井戸の中を見たが、残念空井戸だった。

 6年前に湖北五山を歩いた後で 「女(おなご)にこそあれ次郎法師:梓澤要著」 を読んだ。そこには次郎法師が(直虎)が悩む
たびにこの井戸に訪れ思索に耽ったとあった。その状況からして井戸のある場所は木の生茂った場所と思っていたのだが、来てみれば
この通りの田圃の中にポツンとあるだけ。これが30万石の彦根藩の祖霊之地にしては余りにもお粗末すぎる。きっと彦根藩は祖先の
墓を彦根の龍潭寺に移したので、井伊とは縁を切ったつもりなのだろうと勝手に想像する。

                   
                龍潭寺参道                                龍潭寺山門

 龍潭寺の参道は土産物屋と駐車場に挟まれ狭くなってしまったように見える。昔はこの参道が発祥の井戸まで伸びていたと云うが
龍胆寺は元々八幡宮の境内に建てた寺なので、手水場で身を清め参道を歩いて社にお参りしたと考えれば位置的に問題なさそうだ。

その参道はまだ時間が早いのか初詣の人はいなく、直虎の幟も数本しか建っていない。
NHKで盛んに 「おんな城主 直虎」 を番宣しているが、その割にここには直虎関連の物は少ない。
尤も今では “井伊直虎” の名前も知られるようになったが、放送予定が発表される前は静岡県人否 引佐の住民で直虎を知っていた
人はいただろうか? きっと一般の人は知らなかっただろう。
直虎ブームで井伊の国を訪れる観光客は、静かで素朴な直虎の地を求めて来るのではなく、派手に装いされた施設を求めている人が
大多数だとすると、きっとこの地に来たらがっかりするだろう。そして直虎の視聴率は下がり続ける・・・・・
そんな事にならないよう大河ドラマを見た事のない私も見る事にする。

 
               仁王門への参道                                 仁王門

 「龍潭寺は井伊城南の守り砦の役目を果たしてきた歴史があります。この参道石垣などに小規模ながら城郭造りの跡が残されて
います。」
案内板にあるように石畳と石垣の参道は落ち着いた佇まいをみせていた。

 仁王門は昭和60年代に建てられたのだそうです。

        
                        本 堂                                    開山堂

 6年前に来た時は本堂は改修中で幕が張られてみる事はできなかったが、今はスッキリした姿をみせていた。
この本堂の廊下は左甚五郎作の鴬張りの廊下として有名なのだが本当だろうか。大体龍潭寺が侵入者を恐れて廊下を鴬張りに
しなければならない理由が私には分からない。
 本堂を再建したのは延宝4年(1676)で27代井伊直與の手によるとなっているが、この時は既に井伊家は彦根に移封してから
76年も経っている。井の国は井伊家が憎き裏切者とした近藤家も藩主は返上して旗本となり恭順の意を表していた。
なのに態々名人左甚五郎を連れてきて鴬張りの廊下を造るだろうか、私なら廊下の代わりに竜の彫り物でも依頼するだろう。
大体左甚五郎が逝去したのは1651年頃らしいので、ここを再建した時は既に亡くなっていた筈だ。
私の考えは龍潭寺の鴬張りは老朽化した所為だと思っています。(ご免なさい)

 本堂の裏手には小堀遠州作・龍潭寺庭園(国指定名勝庭園)があるが、拝観時間は9時からなので見る事ができない。
残念ながら見学は次回にしよう。(嘘です。最初から見る積りはありません)

                  
                   青面金剛像                            役行者(多分)

 開山堂の裏手には古い石仏が祀られている。それぞれが趣があるが今日は青面金剛と役行者を紹介します。
青面金剛(しょうめんこんごう)は庚申信仰の本尊として集落の入口で祀られることが多いが、静岡県ではその殆どは 「庚申塔」
とか 「庚申」 と書かれた文字塔が多い。ところが隣の神奈川県ではこの青面金剛像を見る事が多かった。 
写真が小さく見にくいが、一番下には 「見ざる・言わざる・聞かざる」 の三猿を彫られていて、青面金剛の足は邪鬼を踏みつけ
ている。脚の左右には鶏がいて頭上には月と太陽がもある。顔相は忿怒相で手は六臂で二臂は合掌、四臂はそれぞれ宝輪や弓、
矢、剣を持っている。
路地に安置されていながらこれだけハッキリ識別できるのは静岡県では余り見かけない。ただ庚申の文字が無いのは何故かな?

 役行者は頭巾を被り高下駄を履いて左手に経巻を持ち、右手に錫杖を持って座っている姿多いが、正にその通りの格好だ。
ただ錫杖は折れてしまったのか持っていないが、手の恰好を棒を持っている形になっている。
龍胆寺と役行者の関係を調べたら 「宝暦10年(1760) 谷津城山の中腹に役の行者石像が建立された。昭和58年に、これを
地主が龍潭寺へ移す。」
との記述があったが、それ以上の話は見つからなかった。
でもにこやかな笑顔のいいお顔をした役行者さまですよね。

 
                井伊家歴代の墓                                井伊家歴代の墓

 井伊家歴代の墓所の正面には二基の墓があり、向かって右が井伊家初代井伊共保の墓で、左が直虎の父親で22代当主直盛の
墓です。
墓の左に五基ある五輪塔は、左から初代彦根藩主直政。直虎の恋敵でもあった直親夫人。三つめが直虎の許嫁で直政の父親の
直親の墓です。その隣が今回のドラマの主人公の井伊直虎(次郎法師)です。直虎の隣は直虎の母親の直盛夫人です。

 しかし歴代の墓に何故直虎の墓があるのでしょう。ドラマは女城主となっているが井伊家の系譜には直虎の名前はない。
なのに直虎が歴代の墓の中で重要な位置を占めている理由が分からない。世間では知られていなかった直虎だが井伊家では重要な
人物とされていたのだろうか。
それにしても死んでからとは言え許嫁の隣に墓を建ててもらい直虎も満足だろうだろう。

初歩き:湖北五山初詣1

2017-01-09 15:00:14 | 寺社遍路
歩行記録   H29-1-6(金)
歩行時間:6時間40分   休憩時間:2時間15分   延時間:8時間55分
出発時刻:7時10分     到着時刻:16時05分
歩  数: 40、707歩(推定距離28.9km)    GPS距離29.4km
行程表
 天浜線金指駅 0:15> 初山(しょさん)宝林寺 0:25> 実相寺 0:30> 井伊家発祥の井戸 0:04> 龍潭寺(りょうたんじ) 0:01>
 井伊谷(いいのや)宮 0:10> 妙雲寺 0:04> 渭伊(いい)神社 0:01> 天白磐座遺跡 0:30> 竜ヶ岩(りゅうがし)洞入口 1:00>
 奥山方広寺入口 1:20> 風越峠 0:45> 三ケ日人骨出土の地 0:25> ミカンの里資料館 0:15> 大福寺 0:25> 摩訶耶寺
 (まかやじ) 0:15> 初生衣(うぶぎぬ)神社 0:05> 浜名惣社 0:10> 三ケ日駅

                                     湖北五山概略図


 今年の初詣は5年続けていた小笠越えの遠州三山を止めて、6年ぶり4度目になる 「湖北五山」 を歩いてきました。
湖北五山とは浜名湖の北に位置する初山宝林寺、龍潭寺、奥山方広寺、大福寺、摩訶耶寺の五寺で構成する霊場です。
詳しくは6年前に歩いたこちらを参考にしてください。

 前の3回は家から電車で出発地の天浜線金指駅まで行ったのですが、金指到着が8時31分着と遅く、当時より大分歩行速度が
落ちた今では、ゴールの三ケ日駅に到着するのが5時過ぎになってしまいそうです。
そこで早い電車を調べると藤枝駅を5時34分と暗いうちの出発になり、更に都合の悪いことに、天浜線に乗換えの掛川駅で30分
以上の待ち合わせになってしまいます。暖房の効いていない待合室で30分も潰すのは気が進みません。
ではと車を調べると、吉田ICから浜松西IC経由で行けば1時間ほどで着く事が分かり、料金も電車で1500円で東名は1600円
程度とほぼ同じくらいでした。それなら車にしようと家を出たののが6時5分でした。

 金指駅は遠鉄利用者には無料の駐車場が準備されているので、帰りに三ケ日駅からここまで電車に乗るのだから良いだろうと
自分に都合よく解釈をして利用させてもらいました。


                    金指駅から初山宝林寺までと実相寺分岐までの地図

◎道案内1
 ・天浜線金指駅前から国道362号に出て東に向かう。10分ほど歩くと左側に「初山宝林寺」の看板がある。
 ・実相寺には今歩いてきた国道を西に戻り、最初の信号を右折して登り道に入る。

 
               赤い幟は直虎のか?                              山門は工事中

 宝林寺の看板の先に赤い幟が見えるが、あの幟は今月8日から始まるNHK大河ドラマ 「女城主 直虎」 の宣伝用幟かと期待したが
残念違っていた。幟は宝林寺の願掛けの「鎮守龍文坊大権現」を祀る物でした。
龍文坊大権現にはこんな話が言い伝えられているそうです。

 「今から300年ほど前、地元の村に神童と讃えられている子供がいました。子供は成長すると宝林寺の小僧となり、名を 「龍文」 と
名乗りまして。
当時寺には大勢の修行僧がいましたが、竜門は非凡な才能を発揮して、住職の補佐が出来るまでになりました。
ある日、龍文は裏山に入ったきり帰って来ませんでした。その夜、宝林の総本山で京の都にある萬福寺の庫裡が火事になり、その時
 「初山の龍文」 と名乗る僧が火を消したと伝えられています。
この宝林寺が300年も厄火もなく続いたのは、龍文さまの守護があればこそと昔の禅堂の後に龍文堂を建てました。
現在でも 「火伏せ」 「家内安全」 「商売繁盛」 の神として信仰されてます。」


このような話を聞くとへそ曲がりな私はすぐに次なる興味が移ってしまう。
龍文さんの出身地でさえお堂を建て祀っているのだから、火事を防いでもらった萬福寺は当然感謝の気持ちから龍文さんを大切に
祀っている事だろうと、京都の萬福寺のHPを見て見たが、龍文さんの事にも火事の事にも触れられていない。
そうなるとどうなんでしょうね、この言い伝えは本当に有った事なのか、それとも作り話なのか分からなくなってしまいますね。

 国道に面した宝林寺の山門は工事中で防護幕を張られ中が見えなくなっていた。
今年は直虎ブームで参拝者が否、観光客が押寄せてくる可能性があるのに何とも無粋なことだ。
この山門の扁額は日本にインゲン豆を伝えた隠元禅師の書いた 「初 山」 の文字が金色に輝いていたのだが。

 
            仏殿(国指定重要文化財)                          方丈(国指定重要文化財)

 拝観時間は10時からでまだ3時間ほど早すぎる。ここは少々失礼させてもらって境内だけ見せてもらう事に。
正面にデンと構えた建物は国の重要文化財に指定された仏殿(本堂)です。
宝林寺の宗派は 「黄檗宗(おうばくしゅう)」 と余り聞くことのない宗派だが、江戸時代に明国の隠元禅師が伝えた禅宗の一派だという。
宝林寺の開祖は隠元禅師と共に日本に来た禅僧なのでかなり格式の高いお寺なのだろう。 創建当時は七堂伽藍も整い、5万坪を
超える敷地に20棟余りの諸堂が建ち並んでいたと言うのだから立派なものだ。
それが明治になると廃仏毀釈の波に飲込まれ数多くのお堂が倒壊しまったらしいが、全くバカな事したものだとつくづく思う。

 方丈とは1丈(約3m)四方の部屋の事で、禅宗寺院の住職の居室や建物を、さらには住職をも意味するらしい。
確かに住職を 「方丈さん」 と呼んでいるのを聞いた事はある。
ここの方丈の建物は昔の庄屋のような萱葺の建物で、当然3m四方ではない。ならこの建物の中に3m四方の部屋があるのだろう。
拝観料をケチるとそれも確認できない。
そうそう仏殿も方丈も私の目には純和風な建物に見えるが 「中国明朝風様式を現代に伝える大変貴重な建物」 だそうです。

         
            弥勒菩薩半跏思惟像                         金鳴石(きんめいせき)

 仏殿の裏に弥勒菩薩の半跏思惟像が祀られている。私は仏像の中でこの半跏思惟像が好きなのだが、ここの像は首が真っすぐ
すぎて、余り考え事をしているようには見えない。もう少しく頭を曲げていた方が思索的だと思うのだが。
尤もロダンの考える人のように体まで曲げてしまうと、思索的と言うより悩める人になってしまう。

 「金鳴石」 は前回も叩いたが、今回も軽く叩いてみた。金属を叩いたように甲高い音でとても石の音のようには聞こえない。
案内板には 「独湛禅師が中国から持ってきた摩訶不思議な石で、叩くと “お金の成る石”」 とある。
前回も叩いたが結局お金を手にする事はなかった。今年は果たしてどうだろう。
 「奥浜名 参れ立ち寄れ 宝林寺 願い叶える 金鳴の音」 お金も欲しいが、それよりも今年一年健康で歩けますように・・・・・・

 
             阿弥陀三石仏と方丈                                石仏五如来

 阿弥陀三石仏は 「勢至菩薩 阿弥陀如来 観音菩薩」 とあり、左の合掌した女性姿の勢至菩薩。中央は来迎印を結ぶ阿弥陀如来、
右には観音菩薩が宝珠と花(?)を持つ女性像になっている。

 五如来とは阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来、薬師如来、宝生如来とあるが、宝生如来はあまり聞いた事のない名前だ。
ウィキペディアによれば 「日本における宝生如来の彫像は、五仏(五智如来)の一として造像されたものが大部分であり、宝生如来
単独の造像や信仰はまれである。」
とあった。
ここで思い出したことがある。東海道53次の岡部宿に 「五智如来公園」 があり、そこに安置されている如来は、宝林寺の五如来と
一つ違っていて、薬師如来の代わりに “阿閦(あしゅく)如来” だった事だ。
どうやら五智如来あるいは五如来は宗派によって祀る如来が違うようです。

 宝林寺にある三石仏や五如来は宝林寺独特なもので 「初山系石仏」 に分類されると云う。
だが何処が初山系なのか見ただけでは分からない。矢張りは移管料をケチってはいけないな。


                       初山宝林寺から実相寺までの地図

◎道案内2
 ・実相寺には国道を西に戻り信号を右折して登り道に入る。最初の西に向かう道を左折して暫く直進する。
 ・道がT路でぶつかったら右折して北に向かう。
 ・最初の角を左折して西に向かう。引佐赤十字病院の前を通り交差点を直進する。
 ・次の交差点で右折する。歯医者の前を通り、道なりに進む。
 ・突き当たった道を右折して暫く行くと左側に金指小学校と実相寺がある。

 
                古民家                                    金指の街並み

 引佐赤十字病院を過ると道が上り坂になってきた。前回も気になった頑丈そうな民家はまだ建っていたが、物置としてでも使われて
いるのだろうか。
更に上っていくと左に金指小学校の入口があり、その横が実相寺の山門に続いている。道の横に句碑が建っている場所からは、今
歩いてきた金指の街並みを見る事ができる。

 
             実相寺の鐘楼門                                開基近藤家夫妻の廟

 実相寺は初山宝林寺の開基近藤貞用が父季用(ひでもち)の十七回忌供養のため、奥山方広寺の末寺新正院にあった墓を当地に
移転し、併せて実相寺の寺観を整えたのが始まりと云う。秀用は小田原城の戦いで一番乗りを果たし秀吉から青毛黒馬の下賜される
など数々の武勲を立て、家康の近侍に取り立てられていたという。
言うなれば宝林寺より格が上なのだろうが、死んだ父親より先ずは自分の事を優先して宝林寺に力を入れたのだろう。
でも何となく腑に落ちないのは、実相寺を建てたのは息子で、祀ったのが父親。それで開基が父親になるのだろうか?

そうそう実相寺の名は季用の戒名からとったのだそうです。

         
                                 実相寺庭園(県指定名勝庭園)

 庭園の築山の後ろに近藤夫妻の墓の一部が見えているが、この庭園自体が近藤夫妻の廟を遥拝し、菩提を弔うための庭園だった
らしい。それにしては墓の見える部分が少なすぎると思えるがこんな物だろうか。
庭園の入口に釦を押すと庭園や建物を案内してくれる装置があり押してみた。確かに石の配置など案内されれば、なるほどと納得
出来たが、聞き終わった時点でもう忘れてしまった。

ついつい録音を聞いてしまい予定より長く休んでしまった。先はまだ長い少し急がないと。

                         前回の初山宝林寺と実相寺のブログ

謹賀新年

2017-01-01 11:05:55 | その他
     

        新年明けましておめでとうございます。
        本年も 「無理せず 楽せず ほどほどに」「観歩」 を続けたいと思っています。


           

               初日の出は例年通り満観峰で迎えました。
               昨年に続き今年も雲もなく風もない暖かな山頂で初日を迎える事ができました。
               山頂には約200人を越える登山者で大賑わい。甘酒のお接待もありました。


      

             今年は5合目から富士登山を目指しています。

              

                  初詣は日本坂峠のお地蔵さん。
                  日本武尊のようにとは望みません。穏やかに観歩のできる1年を。


              

                山頂の賑わいは噓のよう。
                静になった花沢の里です。