はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

天城越え 終点下田

2012-06-27 10:51:30 | ウォーキング
天城越え3-4

お吉が淵~下田

 お吉が淵から旧道の街道を行く。右側に「日本一の総檜大浴場 伊豆下田河内温泉 千人風呂 金谷旅館」の看板が見えてきた。
この千人風呂は日帰り入浴もでき混浴だとは以前から聞いていていたが、まだ入った事はない。千人風呂で混浴となると青森県の酸ヶ湯温泉を思いだす。酸ヶ湯には入った事があるが、湯気でぼやけた広い浴室の中に、ぼんやり見える女性の裸身に気を取られ、落ち着いて入っていられなかった記憶がある。根が○○の私には、どうも混浴は向いていないようだ。

 本郷橋の正面に尖り帽子の山が見えている。これが下田富士なのだろうか?

  
  千人風呂の金谷旅館                         下田富士?

 立野橋を渡るといよいよ下田の街の中に入ったのか海鼠壁の家が出てきた。1階の壁は伊豆石なのだろうか石の模様が浮き出て海鼠壁に調和している。海鼠壁とは「壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の継ぎ目に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る工法。その継ぎ目がナマコに似ていることから呼ばれた」のだそうだ。そういわれてみれば盛り上がった継ぎ目が海鼠に似てない事もないが、色が逆のように感じる。海鼠は黒っぽい色なのに海鼠壁の継ぎ目は白いのだから。

  
  海鼠壁の民家                      1階が伊豆石?2階が海鼠壁の民家

  
 バス停の名前が「反射炉跡」となっている。反射炉って韮山と同じような大砲を造っていた反射炉なのか。これは確認しなければと辺りを見回す。タイミングよくバス停横の小路の先に高年の女性二人が立ち話をしている。
「済みません。バス停が反射炉跡となっていましたが何処にあるのですか?」
「アーあのバス停ね。昔は反射炉があったけど今は何もなくてバス停の名前だけが残っているだけなの」
アレーこの言葉のイントネーションは箕作出身の知人と同じだ。だがその話は後回しにしよう。今は反射炉だ。
反射炉のあった場所を確認すると
「バス停と川の間にあったのは分かっているけど、発掘調査をしても何も出てこなかったらしいですよ」
「いつの時代の反射炉だったのですか」
「ほら韮山の反射炉と同じで、伊豆の代官の江川太郎左衛門が韮山より前にここに建てたけど、黒船が下田に来たので慌てて韮山に移転したらしいですよ」
と教えてくれた。
中々歴史に詳しい方で最後に「貴方のように時々反射炉の事を聞く人がいるので、市も案内板を建てればいいのにね」全くその通りです。

 でもお蔭で疑問が一つ解決した。韮山の反射炉は内陸部にあり、そこで重い大砲を造っても、それを江戸まで輸送するのは大変だったと思う。先ず反射炉から狩野川まで陸路で運び、次に狩野川を下って沼津まで行き、沼津からは海路で江戸まで運んだのだから時間も金も掛かっただろう。
初めは韮山は伊豆代官のお膝元だったので、そこに反射炉があっても疑問は感じなかった。だが今回反射炉の付近を歩いて運搬の大変が分かり、なぜこんな内陸部にと疑問が湧いていた。その疑問が、黒船来航を受けて反射炉を異人の目から避けるため、海岸から離れた伊豆の内陸部に異動したと聞き納得できた。

 下田の人の話し方は方言があると言うより喋り方に特徴があって、話し流れに節があり、上がったり下がったりするように感じる。私の受けた感じは京言葉に似ているように思ったので「下田は昔、京からの流人がいたので、そのイントネーションが残っているのでは」と知人に言ったが、そんな事を言ったのは私だけだと笑っていた。
もう一人同じようなイントネーションで喋る人がいた。その人は大井川沿いの鉄道の終点千頭より更に奥の出身の人で、私はその人に「先祖が平家の落人だから、都の喋り方が残っている」と言ったが、こちらも笑われしまった。
尤も下田の人がすべてそのようなイントネーションだという事ではなく、現にもう一人の婦人の喋り方は私と同じだった。

 バス停反射炉跡の次のバス停は前回紹介した「高馬」のバス停だった。高馬は何と読むのでしたっけ?
そう「たこうま」でしたよね。
バス停には間違いなく「たこうま」と平仮名のルビが振ってあったが、ローマ字の表記は「T AK UMA」となっている。何「たくま」? でもKの後ろが一文字分開いているので「O」が剥げてしまったのか? いやそれではTの後ろも一文字分開いている。これは何だ? まるでミステリーだ。

         
    バス停反射炉跡           バス停高馬

 バス停の反射炉跡と高馬の間に「御神燈」と彫られた常夜灯が建っていた。いやこれを常夜灯と呼んで良いのだろうか? 普通の常夜灯なら火を灯す火袋が必ずあるのに、ここにある御神燈はその部分が平たい石になっている。これでは火は灯せない。
これと同じ常夜灯は湯ヶ島の菊の御紋や化石があった祠にもあった。何か意味があるのか、それとも単なる手抜きの飾りの常夜灯なのだろうか。
それにしてはここの御神燈はしっかりしていて、飾りで設置したとはとても思えない。常夜灯の横を見ると「文政十丁亥歳」と読めるから江戸時代の物だった。

 オヤー民家の庭の高台に宝篋印塔(ほうきょういんとう)と地蔵像がある、どちらも古ぼけていて、何かいわくがありそうな代物だ。自分の下調べ不足を棚に上げて言うのも何だが、下田市ももう少し街道の遺物に対して説明してくれると助かるのだが。、

  
  御神燈                         宝篋印塔

 いよいよ下田の街中に近づいてきたようで、左手には寝姿山が見えている。右から顔、胸、腹と辿って行けば寝姿に見えない事もない。右には先ほどの尖った山がより一層近くに見えるようになった。この山が下田富士か気になり、歩いていた人に確認すると、間違いなく下田富士だった。しかも山頂まで歩いて行けると言う。一瞬その気になったが時間はすでに4時半になっていた。予定では4時には街道終点の湊橋に着く事になっていたので1時間近くは遅くなっている。今回は下田富士は諦めよう。

  
  寝姿山                          下田富士

 左側に線路が何本も見えてきて、いよいよ伊豆急下田駅だ。信号のある交差点の横に寺があったので、街道歩きの無事を感謝してお詣りしよう(実際は少し休みたかった)と境内に向かう。山門の左に「日露談判下田最初の応接所跡」の石碑が建っていた。
日露談判とは安政元年にロシアと締結した「日本國魯西亞國通好條約(日露和親条約)」のことで、この交渉で今問題となっている北方領土の最初の取り決めが行われた。
難しい話はさておき、この交渉を下田でしている時に安政の地震が発生し、ロシア交渉団の乗ってきたディアナ号船が難破して帰国できなくなってしまった。そこで江戸幕府は西洋帆船の技術習得になると、伊豆の戸田へディアナ号を回漕し修理をしようとしたが、またもや途中で嵐にあいディアナ号は難破してしう。
この時乗組員500人を助けたのが現在の富士市の漁民たちだったという。
幕府は再度伊豆戸田において、我国最初の西洋帆船の造船をロシアの乗組員の協力の元完成させる。完成した船は「ヘダ号」と名付けたが、500名の乗組員を載せる規模の船ではなかったので、残りの乗組員は迎えに来たロシア背で帰国したとか、アメリカの貨物船で帰ったとかの節もあるようです。
 早々話を戻して下田駅横の福泉寺の応接所跡とは、談判を行った場所ではなく、ロシア船の乗組員が一時避難した寺ではないだろうか。

 伊豆で開国と言うと、すぐハリスのアメリカを連想してしまうが、このように伊豆はロシアとも関連が深い。今後のロシアと北方領土交渉をするなら、ここ伊豆で行えばロシア側は借りがあるだけ思わぬ妥協をしてくれるかもね。

    
  談判所跡の石碑               福泉寺の地蔵

 下田駅の前を通り国道の橋に向かう。アレー橋の手前にある交差点の名前は中島橋になっている。確か下田街道の起点はみなと橋のはずだ、それではもう一本海側の橋だろうと勝手に解釈して川沿いを下って次の橋へ向かう。
16時45分みなと橋到着。予定より45分も遅れてしまった。これでは下田市内の寺巡りも出来ないし、今が丁度盛りの下田公園の紫陽花見学も無理だろう。仕方ないこのまま下田駅に向かおう。
そうそうみなと橋の右岸には下田街道起点の標識は見当たらなかった。
 
 下田駅で藤枝駅までの切符を3450円で購入。朝は藤枝から修善寺まで1780円、それと水垂までのバス代1370円なので今日の交通費は6600円掛かっている。
それが東海道で一番遠い草津から京都を歩いた時は、青春18切符を利用したので交通費は2300円で済んだ。何たる違いだ。
同じ静岡県でも伊豆はJRが乗り込んでいず、バスの多いので交通費がかかり過ぎてしまう。駅からウォークとか駅から遍路を目指している私としては何ともやるせない事だ。
伊豆には横道33カ所観音巡りや、伊豆88ヶ所霊場巡りなど魅了ある遍路コースもあるが交通費がネックで躊躇してしまっている。

電車の中で氷結で乾杯しながら、次回の街道歩きは何処にしようか空想しながら帰るのも楽しかった。

  
  みなと橋                          伊豆急下田駅

天城越え お吉が淵

2012-06-22 11:59:56 | ウォーキング
天城越え3-3

箕作~お吉が淵

 左側に常夜灯や案内板が見えてきた。案内板まであるなら寄っていこうと、車の合間を見て国道を横断する。
「当砥石山米山寺は、僧行基の開山で、越後、伊予の薬師寺と共に日本三薬師の一つに挙げられる名刹であります。今から1250年前僧行基が伊豆行脚で当地を訪れた際「この地は東方医王の浄刹に似ていて、仏を作り寺を建てるに佳い所である」として、本尊の薬師如来を粉茶と苦芋を合わせて造られた。それを知った土地の信者は挙って神社を建立した」(慨意)

 参道の階段を登り薬師堂にお詣りする。参道入口でも感じたのだが、日本三薬師とはとても思えない様な質素なお堂だった。私の性格から当然日本三薬師を調べてみた。するとあるわあるわ誰が決めたのか、それとも勝手に名乗っているのか知らないが何ヵ所も出てきた。
マーこれも大らかでいいだろう。
 ところで薬師如来を粉茶と芋で作ったとあるが、作るのは簡単でも長持ちするのだろうか? 黴が生えたり腐ったりしないのだろうか? 気になるので覗いてみたいが当然お堂は閉まっていて拝むことは出来ない。

 お堂の横の立札に「山頂奥の院まで37.8m」とある。40mで山頂まで行けるなら行ってみようと歩き出した。だが中々山頂に着かないし着く気配も無い。5分も登るとまた標識があり「山頂まで250m」となっていた。何だコリャ! 急に登る気が無くなりそこから引き返した。
帰りにお堂の標識を確認すると「37.8m」「.」は小数点ではなく、標識を杭に止めてある木ネジの頭だった。
疲れてくると道を間違えたり標識を読み違えたりして、余計な労力を使ってしまう。気を付けなければ-----
それにしても今日はまだ18kmしか歩いてないのに弛んでいる。

  
  米山薬師参道                          米山薬師の石仏

 伊豆急線の稲梓(いなずさ)駅への入口の表示がある。イナズサとは響きの良い名前だ。そして流れている川の名前は稲生沢(いのうざわ)、これも素敵な名前だと思う。伊豆半島にはこうした響きが良く上品に聞こえる地名や、読めにくい地名が多いように感じる。例えば下田の「田牛」とか「高馬」など知らなければ絶対読めない地名ですよね。因みに田牛は「とうじ」、高馬は「たこうま」と読むそうです。
そこで思い出した、今日これから行く下田の中心部には地名が無いそうです。下田市の後ろが、すぐ一丁目、二丁目となっていて、いわゆる字名が付いていない。昔は殿小路や同心町などの地名があったようだが、効率化優先の市長がそれらの旧名は廃止して番地だけにしてしまったようです。
マー所詮は地名などは分かれば良いのであって、慣れれば丁目だけでも不便は無いかもしれない。だが観光立国ならぬ観光立市を目指す下田市としては、やはりミステークだったと思う。

 左側の高台に伊豆急線が見える。伊豆急線は河津から伊東までは海岸線を走っているが、下田・河津間は内陸部のこの辺りを走っている。その線路が見えてきたという事は下田に大分近づいたという事だ。頑張ろう。

 満昌寺には新旧の石仏がある。古い石仏は境内の中に、新しい石仏は道路に面した小屋の中に安置されていた。

  
  満昌寺の古い石仏                    満昌寺の新しい石仏

 次に出てきた六地蔵、いや一段高い所にもう一体あるので七地蔵? そんな馬鹿な! 
よく見ると一番右の地蔵さんも他の五体と比べて背が高く、立っている場所も少し前になっている。何か謂れがありそうだが説明板が建っていないので分からない。手の位置などそれぞれ違っているユニークなお地蔵さんだった。
いやユニークで言うならば、ここのバス停の名前も変わっている。写真を見ればバス停名は「松尾」で変わった名前でもない。ところが小さなルビを見てみると、何と「まとお」と書いてあった。松尾がまとお? これも難読地名だ。今は読めてもすぐ忘れてしまいそうな地名だ。

 この辺りの山の形は天城山中や修善寺辺りと違って三角に尖った山が多い。それも四国讃岐地方のお結びの形をした単独峰でなく、連続している山の山頂が、それぞれ三角になっている。下田には下田富士があるそうだが、どの山がそうだろうか。

   
  松尾の六地蔵?                     松尾のバス停と石仏

 国道歩きに飽きて嫌になってきた。隣の稲生沢川を覗くと川の畔に遊歩道ができている。マー少しは街道を離れても影響はないと堤防を下って遊歩道に入る。先程から人家も増えてきて、そろそろ「お吉が淵」に着いても良さそうだと思っていたが、川巾は広く葦が茂っていて淵という感じではない。遊歩道の道路側はコンクリの角ばった池が続いていて、池の中の鯉が私と同じ速さで、しかも同じ方向に泳いでいる。餌でも催促しているのだろうが、今は休む気はない。お吉が淵まで頑張らなければ。

 ふと土手の上を見ると小さなお堂のような建物が目に入った。若しやアレはお吉さんを祀ってあるお堂ではないだろうか。慌てて遊歩道を離れてお堂に行ってみた。
ピンポン! 間違いなくお吉を祀ってあるお堂でした。お堂の横の石碑には「唐人お吉投身之跡」とわざわざ赤くしてあった。さらにお堂の正面には「好い女 乱れて泣くは 明からす」と彫られた丸い石碑もある。
この二つの石碑を見て少し腹が立ってきた。何故腹が立ったか、その理由はフリー百科のウィキペディアを読んでもらえば分かると思うので、ここにその概略をコピーしておきます。

「初代アメリカ総領事ハリスが体調を崩し、日本人看護婦の斡旋を役人に依頼する。しかし役人は看護婦の概念が解らず、妾の斡旋依頼だとして、下田一の人気芸者お吉を派遣する。
 当時の日本人は外国人に身を任せることを恥とする風潮があったため、お吉は固辞したが、役人の執拗な説得に負けてしまった。当初、人々はお吉に同情的だったが、お吉の羽振りが良くなっていくにつれて、次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3か月後、お吉は解雇され再び芸者となるが、人々の冷たい視線は変わらぬままであった。この頃から彼女は酒色に耽るようになる。
 その後、芸者を辞めたお吉は、恋人の鶴松と同棲し髪結業を営んだ。しかし周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなく、ますます酒に溺れるようになり、恋人とも別れ芸者業に戻ってしまった。お吉を哀れんだ船主の後援で小料理屋を開くが、にアルコール依存症となっていたお吉は小料理屋を2年で廃業することになる。
その後他所に出たが再び下田に戻り、物乞いをしたりしたが稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。
下田の人間は死後もお吉に冷たく、お吉の実家の菩提寺は埋葬を拒否した。哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬った」


 私が当時の下田住民でも、お吉が羽振りが良くなれば妬んだろうし、お吉の死後も冷淡な態度だったと思う。だが今になってもこのような石碑を建ててある地元の気が知れない。「唐人」とは戦後の「パンパン」と同義語だったようだ。ならこれが「パンパンお吉投身之跡」だったらどうだろう。果たしてそんな石碑をそのままにしておくだろうか。

 一方お堂の前にある「好い女 乱れて泣くは 明からす」の石碑もあるが、読む順番も意味も理解できなかった。何のための石碑かも分からないが「好い女」とか「乱れて泣くは」などとスケベ心を擽るような文句を見ると、多分お吉の事を歌ったのだろう。ただ分からなかったのは「明けからす」の意味で、そのままなら明け方に鳴く不吉なカラスの声かと思うが、それだと歌の意味が通じない。ではと明けからすを辞書で調べると「明け方に鳴くカラスの声。男女の交情の夢を破る、つれないものの例」とあった。これで大よその意味はわかった。多分色事の好きな女が乱れ声を出しているのと、明方に鳴くカラスの声とを掛けたものだろう。
ようはこの歌詞の大意はお吉は好き者だったと言いたいのだろう。
 
 だがそれだけではお吉との関連性が薄いと思い「お吉が淵 好い女」と入れてPCで検索してみた。するとお吉の事を題材にした「下田情話」という歌に行きついた。その3番の歌詞は「泣くな下田の明烏 夢の続きは あの世とやら、あぁ!お吉は・・・もう泣きません」だった。どうやら石碑はこの歌詞を利用したらしい。
だが二つの歌詞を並べてみると雰囲気が違く感じた。
 「好い女 乱れて泣くは 明からす」
 「泣くな下田の明烏 夢の続きは あの世とやら、あぁ!お吉は・・・もう泣きません」
どうですか、上は情交場面の表現していて、下は投身前のお吉の気持ちを歌ったように感じられませんか。

   

 お吉が淵に建つ石碑二塔は、お吉を冷たくあしらった下田の人の気持ちが、今も残っていると感じるの私だけだろうか。さらにここにはお吉の事を紹介した案内板も建っていない。そんなにお吉が嫌いなら観光にも利用しなければよいのに思いながらお吉が淵を後にした

 後味の悪い気分を残して堤防の上を歩く。右は国道でお吉が淵の交差点。左はと稲生沢川を見ると案内板が建っていた。私の早とちりだったと少し戻って遊歩道に下りて案内板の前に行くと、な~んだ。案内板は「堰の放流による 増水に注意」の看板だった。どうもお吉が淵とは相性が悪いようだと思いながら、再度土手に戻って前方に見えた寺の方に進んで行った。

 家に帰りお吉が淵を調べている過程で知ったのだが、お吉が淵にはお堂以外にも新渡戸稲造(旧五千円札の人)が建てたお吉地蔵があるそうです。何故新渡戸稲造か知らないが遊歩道を歩いてしまったからか私はお参りすることは出来なかった。見てみたかったな~ 

  
  お吉の写真(転写)                  お吉地蔵(転写)

天城越え 箕作

2012-06-19 17:44:52 | ウォーキング
天城越え3-2

小鍋峠~箕作

 感じの良い峠だった。如何にも峠らしく左右から山が迫り、前方は下り坂になっている。枯葉で埋まった峠道の横には二体の古びた地蔵が建っていて物悲しい古道の風情を醸している。聞こえてくるのは風が揺らす木の葉の音と鳥の囀りだけだ。
地蔵以外にも歌碑が三基いや四基建っているが私には判読できない。案内板が欲しいところだが、無粋な案内板では峠の雰囲気を壊しかねないので、このままでも良いのかもしれない。
今までも峠と名の付く所は何ヵ所も歩いてきたが、この小鍋峠は私の頭の中にいつまでも残る峠となりそうだ。

 
 小鍋峠                       小鍋峠の歌碑  

 さて心配していた小鍋峠も、ここまでは順調に来る事ができた。次はHPに絶壁の横の急坂を下ると紹介されて所を通らなければならない。ここまでは絶壁などありそうな気配は無かったがそれは分からない。何しろ掛川市の裏にある小笠丘陵は標高は低く、麓からは単なる里山程度にしか見えないが、オットドッコイで一歩コースから外れれば、それこそ断崖絶壁になっている所が何ヵ所もある。私も怖い思いをした事があるので、ここの小鍋峠も油断大敵だと思っていた。
 
 峠からの出だしは小鍋側より太めの山道の下りだった。ただ辺りの木が植林された木ではなく自然林だったので、ここは傾斜が急で植林できなかったのか、などと考えながら下って行く。
確かHPには下りだすとすぐ絶壁があるとなっていたと思うが絶壁は出てこない。10分も下っただろうか、山道の先に林道が見えてきた。エー!そんな~ と思いながら林道を行くと、じきと八木山集落の最初の民家があった。
何だろうな? あのHPの人は全国の街道を歩いていて、嘘や出鱈目を書くような人ではない。下る道が違ったのだろうか?

 何はともかく色々の不安が書かれている下田街道の小鍋峠は、平成24年6月3日現在、道は明瞭で標識もあり危険度は0で歩く事ができます。言い換えれば家族連でも歩ける「ファミリーコース」といっても過言ではないくらいでした。

 八木山の集落には石仏が何体か鎮座していて、そのうち子安地蔵と書かれた地蔵の前には縫ぐるみや湯呑や玩具などが供えられていた。この子安さんは今でも地域の人に大事にされているのだろう。

   
  どうという事も無い山道                 八木山の子安地蔵

 道の左側に石の道標が建っていて、その下の方には今来た道と同じ方向に下る道が見える。道標には「右下川津東うら 左三しま 道」と判読できる。という事はこの道標は下田街道が小鍋峠を通っていた時代の物だろう。そして右下の道は河津へ行く道なのだ。
ウーンそうなると明治入っての馬車道は何処を通っていたのだろう?
藤村も川端康成も湯ヶ野の事は書いてあるが小鍋峠の事は書いてない。書いてないから通らなかったとはならないが、湯ヶ野と小鍋峠を通るには若干無駄な歩きをしなければならない。それに馬車が小鍋峠を越えたのだろうか? いやいやこの峠は天城トンネルを越すのに比べれば数段楽な坂だから、馬車が越しても変ではない。
ウーン!分からない。この河津に行く道が湯ヶ野にも続いていれば、馬車はこの道を通ったとも思えるのだが-----

 家に帰りこの「川津東うら道」を現在の地図で辿って行くと、すぐ先で国道414号に合流していた。この国道は下田と沼津を結ぶ天城越えの国道で、今日も何度か歩いた道だった。では馬車は現在の国道の道を通っていたのだろうか、もう訳が分からない。

 馬車道は諦めて先に進もう。暫く行くと大きな楠木が見えてきた。ハリスの日本滞在記に「素晴らしい巨木で、日本人言うところによると、それは数百年をへたものであった」とあるらしい。この木がハリスが見た木なのだろうか? 
ハリスが見た楠木なら樹齢は500年を越しているだろうが、それにしてはこの楠木は青々とした葉を一杯つけて、樹勢は盛んだ。とても老木のようには見えない。
尤もハリスが通ってから、すでに150年が経過しているので、植え替えたとしてもおかしくない。この木の樹齢が500年でも150年でも私には見分ける事ができないので、ハリスが見たかどうかは何とも言えない。

   
  河津道の分岐       分岐の標識      ハリスの見た楠木?

 国道414号に合流。合流した所に「北の沢」のバス停があった。
ここから暫くは街道歩きの中で一番嫌な国道歩きになる。陽射しを遮るものも無く、テクテク歩いていると、車の人が「なんて物好きな」といった顔をしているように感じる。そんな被害妄想にかかった頃、「茅原野集会所」の新し建物の横の大きな石の袂に石仏を祀ってあるのを見つけた。
実はこの時はこの石仏に興味は感じなかったのだが、家で他の事を調べているとき、この石仏が「蛇地蔵」という名前の石仏だということが分かった。
それによると「蛇地蔵は大きな石の脇に寄り添う小さな二体のお地蔵様で、その大石の上には蛇に似た溝がある事から蛇地蔵と呼ばれている。溝の水はめったに涸れる事はなく、溝の水が無くなると、その年は干ばつになると言われている」
イヤー! 残念だな~ 溝の形も水の有無も見てこなかった。こういう場所には案内板が欲しいのだが----

  
    蛇地蔵

 見るものが無く詰まらない国道を歩いていると、右側の稲梓川の対岸に道が続いているのが見えた。今歩いている国道は民家が少ないが向こう側の道近くには民家が散在している。若しかしてあっちの方が街道かと想いだすと無性に渡りたくなった。だが対岸に通じている道は無く、国道を暫く歩いてようやく右に抜ける道が出てきた。その対岸の合流部には常夜灯も見えている。これならきっと向う側が街道だと渡る事にした。
 合流部には古い常夜灯や石仏も何体かあった。これなら街道に間違いないだろう、例え街道でなくても国道よりよっぽども歩きやすい。ただ注意しなければならないのは、この道が街道でなかった事を考えて、国道から目を離してはならないことだ。国道は間違いなく下田に向かっているのだから、心配になったら国道に戻ろうと思っていた。

  
  川越しに見える道                      合流部の常夜灯

 渡った側の道も見るものは無かったが、車が走っていないのでのんびり歩ける。前方に大きな建物が見えてきた。何だろうと思いながら歩いていくと「上原美術館」の看板が出てきた。そうだ下田には大正製薬の会長が建てた美術館あると聞いた事がある。これがその美術館なのだろう。チョット覗いて行こう。
「下田達磨大師」と美術館の入口の坂を登って行くと受付らしい建物がある。覗いてみるとどうやらここで入場料を払うようだ。どうせ美術館に入る気は無いのでそのままUターン。

 美術館はともかく達磨大師の寺ぐらいは入れたってよいのに、とブツブツ言いながら進んで行くと道がT字路に合流。多分合流した道を右(西)に行けばバサラ峠を越えて松崎に行く道だろうと、私は左の下田に向かう道に進む。
稲梓川を渡り太い道に合流。これで国道に戻ったと疑問も感じず右折する。だが道が上り坂になる。下田は下るはずだがと思ったが、マー場所によっては登る事もあるだろうと先に進んで行った。
それにしては上りが続きすぎだと不安が胸によぎってきた。だが左側に国道を見ながら歩いてきて、その国道に合流したなら当然進行方向は右側になる。だから間違いはないと自分に言い聞かせながら歩いていた。

 前方に道路標識が見えてきた。アレー国道のラッキョウの形でなく六角形の形をしている。シマッタ間違えたと標識に近づくと「県道15号」「下田松崎線」となっていた。アーア間違えた。この道がバサラ峠越えの松崎への道だった。
坂道を下りながら考えたが間違えた原因が思いつかない。箕作の交差点に着いたが納得できず、国道を天城方面に逆走してみた。今度は左側に上原美術館が見えている。国道が大きく右に曲がる所まで戻ったが、まだ完全には納得できなかった。だがきりがないので戻る事にしよう。アー疲れた近くにあった日枝神社の境内に入って一服。
結局間違った原因を完全に納得できたのは、家で地図を見てからだった。
再度箕作交差点に到着したのは14時半で、美術館を出てから50分経っている。、おかげで30分ほどの迷走してしまったようだ。

  
  県道下田松崎線                       箕作交差点

 箕作には知人がいて、箕作の地名の謂れを「むかし箕(みの)を作っていたから」聞いた事がある。
それが今回下田街道を調べていると箕作とは「大津皇子に仕え、668年に伊豆に流罪となった礪杵道作(ときのみちつくり)の霊を祀った神社があることからついた」とあった。どっちが正しいのだろう?
更に検索でヒットした歴史民俗用語辞典には、箕作とは「箕を作りまた修繕する者」とあった。 

天城越え 小鍋峠

2012-06-17 11:55:03 | ウォーキング
天城越え3-2

慈眼寺~小鍋峠~箕作

 ハリスの泊まったという慈眼寺は期待外れだった。ハリスの湯ヶ島の宿泊地だった弘道寺では思わぬ物を見る事ができたが、ここの寺は日帰り温泉を併設してあり、寺より温泉に力を注いでいるようだ。狭い境内は更に温泉施設を作るのか基礎工事をしていた。サー次にに行こうと早々に退散した。

 先程の道標まで戻り今度は擁壁側には上らずに、下りの道を行くと橋の手前に石仏が何体かあった。これなら街道に間違いないだろうと橋を渡れば、そこには新しい標識が「至 湯ヶ野1.1km」となっていた。
湯ヶ野の国道は何度となく通ったが、まだ一度も寄った事はないのでホッとした。
理由は言わずと知れた伊豆の踊子の中の文章に「ほの暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場のとっぱなに川岸へ飛びおりそうな格好で立ち、両手を一ぱいに伸ばして何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった」とある。
その踊子が入ったのが共同風呂を見てみたい。そしてあわよくば-------が見れるかも------。
と馬鹿な考えが頭の中をよぎっていた。

 一方島崎藤村の伊豆の旅では、藤村は湯ヶ島から馬車で湯ヶ野まできて、ここで下田行の馬車に乗り換えている。その乗換の合間に河津川の見える宿の温泉には入っているが共同風呂の話は出てこない。

 河津川の向こう岸の上に、国道のガードレールや慈眼寺と隣の温泉の建物が見えるが、その大きさは寺に倍するくらいだ。
標識に「小鍋神社」の表示がある。慈眼寺の手前で道を聞いたときも小鍋の名前が出てきたのだが、実は下田街道を調べたとき小鍋峠の事が幾つかのHPに載っていた。それらによるとこの小鍋峠は下田街道では天城峠気に次いで難所だったとあり、現在でも湯ヶ野側は道が不明な個所があり道なき道だとか、峠を越した河津側はこんな表現をしてあるHPもあった。
「小鍋峠の先に行きかけて、驚いた。すぐ前は絶壁、右に回り込むと、道のようで道ではないような急坂になっている。とにかく下りればいいのだろうと、急坂を滑り落ちるように下りて行った。その際、左の絶壁を避けて、できるだけ右を通るようにした」
そんな訳で小鍋峠は若干の不安と共に頭の中に残っている。その小鍋峠がいよいよ近づいたのだ。では峠での無事を祈って小鍋神社にお参りしていこう。
立ち寄った神社には面白い話が残っていた。「昔、文覚上人が伊豆の源頼朝に父義朝の髑髏を見せ、「疾く、疾く、謀反を起こし、平家を討ち亡ぼして、父の恥をぞ清め、又、国の主とぞなりたまへ」と激励したと「源平盛衰記」に見え、またのちにこの地に義朝の髑髏を埋め弔ったと伝えられている。 文覚が髑髏を葬った場所は、神社の南側にある四抱ばかりの樫の巨木の根本であると伝えられ、この木を髑髏樹と呼んでいる」と境内にある案内板に書いてある。
 
 中々面白い話だったので先ず文覚(もんがく)上人について調べてみた。すると間違いなく文覚上人は伊豆の奈古屋に流罪になり、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得ている。
だが何故文覚が頼朝の父親義朝の髑髏を持っていたのか分からないし、まして蛭ヶ小島と離れたここに義朝の髑髏を埋葬したのか見当がつかない。だいたい頼朝が父親の髑髏を見せられ、そのままにするのが不自然で、普通なら近くに手厚く埋葬するだろう。所詮は他愛のない作り話なのだろうか。
境内の案内板には他にも小鍋の謂れも説明してあった。
「後に頼朝は父義朝の霊を弔うため、二十人ほどの家来を連れてこの地を訪れたのである。当時ではこんな大勢の人の料理を作る大きな鍋が無く、探し求めた結果、漸く大小の鍋を入手した。この時差し出された鍋の大小によって、現在の大鍋・小鍋の名が誕生したという」
百歩譲って文覚上人がこの地に義朝の髑髏を埋め、頼朝がお参りに来たとするなら。当然頼朝はこの神社に領地とか下賜品などを与えたはずだがその事は書いてない。
それどころか地元では参拝に来た頼朝一行に料理を振舞うため鍋を準備している。そしてその時の鍋の大きさで地名を付けたとなると大鍋は良いが、小鍋は気持ちはどうだろう、末代までの恥と感じてしまうのではないか。
下賜品も与えないでいて侮蔑的な地名まで付けるなんて、何と浅はかな男なのだ頼朝という奴は。
頼朝が名付けたのではないって? それなら小鍋が自分たちを卑下して名付けたというのだろうか? それも理解しづらい。
矢張りこれは地名の大鍋・小鍋は頼朝に関係なく他の理由でついたのだろう。よってこの神社に義朝の髑髏が埋まっている事は無い。

   
  河津川越しに慈眼寺が                       小鍋神社の髑髏樹?

 小鍋神社の不気味な伝説とは裏腹に、神社の横は棚田になっていて明るい感じの所だった。
神社から小鍋のを通り川を渡った所に新しい標識が建っていた。そしてその先の道の法面には地図入りの案内板があった。さっき慈眼寺の下の標識に「湯ヶ野1.1km」とあったので、そろそろ湯ヶ野温泉に着く頃だと地図を見ると、アレーこの地図では湯ヶ野には行かないようになっている。
なんか変だなー 下田街道を歩いた川端康成も島崎藤村も湯ヶ野では温泉に入っている。なのにこの地図は下田街道が湯ヶ野を通っていない。でも道は川沿いについているので、きっと湯ヶ野には寄るだろう。と自分に言い聞かせるようにして歩き出した。
するとどうだ、案内板の先の分岐では川側でなく山側に向かう道の方に「小鍋峠」の標識が張ってある。エッ!今ここで山に入っては完全に湯ヶ野には行けなくなってしまう。慌てて案内板に戻り地図を確認した。


  小鍋神社横の棚田         小鍋集落の標識           案内板先の分岐

 改めて見ても分かりにくい地図だった。現在地の所の分岐がはっきりしない。しかしよく見るといたずら書きのように黒い線が湯ヶ野温泉に延びている。分かりにくいので誰かが後で追加したのだろう。
もうこうなると湯ヶ野温泉は諦めるしかない。わざわざ温泉まで行って、またここまで戻るのも馬鹿らしい。この先には難所の小鍋峠が控えているのだから我慢しよう。湯ヶ野ならまた来ることもできるのだから。

 最初の分岐を山側に登って行くと、更に3ケ所ほど悩みたくなるような分岐があった。だがそのいずれの分岐にも標識がありスムースに通過できた。道はいよいよ山道に入り小鍋峠へと向かう。期待と若干の不安を胸に抱きながら歩いていくが、道ははっきりしっかりしていて、今のところ何の心配も無い。

 おや道の先に顔のないお地蔵さんがある。どれどれ顔に丁度良い石がないかと辺りを見回すと、細長いが底が安定している石を見付けた。その石を地蔵さんの上に載せてみると。オッ!カッコいい!まるで鞍馬天狗が覆面をしているように見える。いやいやよく見ればイースター島のモアイ像の顔のようでもある。自分が乗せた地蔵の顔にすっかり満足して延命十句観音経を唱えた。風と鳥の鳴き声だけの中では、私の下手な経もいつもよりマシに聞こえた。

 今度は道標が建っている。左の面に「従是普門院参道」右の面に「従是下田道」となっている。先ほど見た地図入りの案内図に普門院の紹介があり「普門院は鎌倉公方足利持氏が開基とされる曹洞宗の寺院。応時は末寺49寺を有していた。峠道の途中にある下田街道と普門院へ通じる分岐点には、元文2年(1737)年に建てられた道標が残る」とあった。その道標がこれなのだろう。
今から275年前の道標にしては文字がはっきりしていて、一見しただけで読み取る事ができた。石材が良いのか、それとも森の中なので陽射しや風雨が弱いので劣化速度が遅くなるのだろうか。

 でもチョット待った(また始まった)この道標には「下田道」と書いてあるが、川合野バス停手前にあった道標は「天城街道」とあったが、その違いは何だ!
これは簡単に推理できた。川合野の道標は明治に入り完成した馬車道を案内したもので、こちらは徳川時代の道標だ。という事は天城街道という呼称は明治に入ってからのもので、それまでは下田街道と呼んでいたのだと思う。
ついでに言うと江戸時代の天城越えの峠だった「二本杉峠」だが、何故天城峠と呼ばなかったのだろう。東海道の難所箱根は箱根峠、鈴鹿は鈴鹿峠と地域全体の地名を峠名にしていて、峠名を聞いただけで場所が分かるようになっている。なら下田街道最大の難所なら下田峠か天城峠が妥当と思うが、ここでは何処の境か分からない二本杉峠という名前だ。何故だろう?

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  案内図拡大         首無地蔵にモアイの首を       普門院道標

 それにしても街道は道なき道にはならず、標識もあり何の不安も無く順調に続いている。この先がそうなのかと思いながら歩くのだが途中には営林署の治山工事の使用前、使用後のような写真入りの看板もあり、道なき道になりそうな気配はなかった。
最近登山道の整備でもしたのだろうかなどと考えているうちに上の方が明るくなり峠に着いてしまった。
地図入り案内板の分岐から40分、山道に入って30分であっけなく峠に到着。

  
  小鍋峠(小鍋側)                      小鍋峠の歌碑

天城越え 湯ヶ野

2012-06-15 11:41:58 | ウォーキング
天城越え3-1

場   所:静岡県河津町
歩行月日:2012/06/03
歩行データ: コースタイム
 水垂バス停-0:25-七滝P-0:40-慈眼院-1:00-小鍋峠-1:30-上原美術館-1:00-米山薬師-0:35-お吉がガ淵-1:00-港橋-0:10-下田駅

 歩行時間:6時間20分 休憩時間:1時間20分 延時間:7時間40分
 出発時間:9時15分  到着時間:16時55分
 歩数:35,890歩 GPS距離:25.4km

七滝~慈眼寺
 天城越えの2回目を5月5日に歩いて、すでに1ヶ月近く経ってしまった。その理由は2回目の時に七滝が通行止めだったので、それが解除になってから歩こうと思っていたのだが、七滝の遊歩道は一向に修復される気配が無かった。このままでは天城越えがいつ終了するか分からなくなってしまうので6月3日に出発した。

 修善寺駅から河津行の始発バスに乗り水垂で降りるのだが、湯ヶ島支所を過ぎると乗客が私一人になってしまった。すると運転手が私に声を掛けてきて色々面白い情報を聞かせてくれた。その幾つかを紹介すと
・七滝の遊歩道は去年の秋の台風でやられてそのままになっているが、多分2、3年はこのままの状態だ。理由は被害が大きかった事もあるが、崩壊現場の近くの民家は修復をコンクリの吹付を望み、観光業者はそれでは景観が悪くなると反対をしている。
・七滝も下田も去年の震災以後、観光は壊滅状態で一向に回復の兆しは無い。業者の中には見切りを付けて逃げ出す者もいる。
・前の静岡県知事に勲章が授与される事になったが、理由の中に富士山空港の設立が上げれたので反対する人が多く辞退した。
・年々赤字が増えている富士山空港は、あと2,3年この状態が続けば廃港を提案する県会議員が多くなる。etc etc

とマーいろいろ話をしてくれたが、このまま七滝が修復されないでは、今年の秋に再度昭和の森から七滝まで歩く予定をしている私にも影響がある。若し七滝が通行止めのままなら、このルートは中止して天城山の縦走だけにするしかない。

 水垂バス停を9時15分出発して5分も歩くとループ橋の上部に到着。初めはこのループ橋は歩行者が歩けるのか不安だったが、河津町のHPに4月から迂回路が歩けるようになったと出ていたので安心をした。
ループ橋の迂回路とは橋の中央の柱の周りに螺旋階段でも付いているのかと思ったが違った。迂回路はループ橋の手前の国道から斜面に入り、そのままジクザクに下って行く道だった。


  ループ橋入口                        ループ橋

 七滝の一つ大滝遊歩道の入口はやはり閉鎖されていて「町営遊歩道は安全基準に達していないため現在、閉鎖しております(2011年9月台風災害による影響)」と貼紙されていた。
仕方ないそれでは石仏群があるという町営の駐車場に行ってみよう。
さて石仏は何処にあるのか、駐車場をフラフラしていると地元の人が声を掛けてきた。
「何を探してるんだね」
「この駐車場付近に石の仏さんがあると聞いてきたのですが」
「あーそてなら そこの同報無線の電柱の横からの道を上に行けばあるよ」
と教えてくれた。
教えられたように行くと、ありました、ありました、黒地に白く書かれた標識の下に幾つかの石仏がありました。
写真を撮っていると今度は女性が話しかけてきた。どうやら石仏の後ろの家の人だ。
「仏さんを見ているのですか? こんな石の仏さんならこの道を登って行けば幾つもありますよ。でも道は途中から歩けなくなっているらしいけど」と教えてくれた。
道の先を見ると舗装された狭い道が上に向かって続いている。そうかこの道が昔の街道で、川底を避けて山の中腹を通っていたのだろう。そして前回バーベキューを接待してもらった宗右衛門園地で川を渡って二本杉峠に行ったのだろう。
興味を覚え少し道をさかのぼって行くと、左のすぐ下には駐車場も見えてきたが、石仏は無く民家が出てきた。これ以上行くと後が大変になると不安になり下る事に。

 若しこの道が今でも二本杉峠まで続いていたとしたら私は歩くだろうか? 七滝巡りの遊歩道と、石仏が少しあるだけの道、答えは当然で絶対七滝巡りを歩くだろう。そんな考えの人が多くなり、この古道を歩く人は無くなり道は荒れてしまったのだろう。
滝といえば昔の下田街道を歩いた旅人は、浄蓮の滝や二階滝、七滝を見物したのだろうか。
島崎藤村は見ていないようだ。修善寺温泉から馬車で下田まで乗りぱっなしで滝の事は何も書いてない。では伊豆の踊子はどうだったのだろか、天城峠や湯ガ野の事は覚えているが滝の話は記憶が無い。またハリスはというと日本滞在記にこんな事を書いている。
「(天城峠からの)下り道は、登りの時より険しくなかったので、その三分の二は再び馬に乗った。山を下りると谷地が開け、私は大変綺麗な小瀑布の掛かっているのを見た」とある。
 下田から天城を越えての下り坂だから当然湯ヶ島側の事であり、湯ヶ島側の滝となれば浄蓮の滝となるのだが、ハリスの書いた文章には少し引っかかる。まず「馬に乗って下ると滝が見えた」とあるが、浄蓮の滝は滝壺まで随分下って行かなければ見えない。当然街道から滝を見る事は出来ないだろう。
次に浄蓮の滝が小瀑布だろうか、日本人の目からすればあの滝は小瀑布とは思えないが、大自然が雄大でナイアガラの滝などがあるアメリカ人の目には、浄蓮の滝は小瀑布にすぎなかったのか、でも疑問は残る。若しかして小瀑布とは滑沢渓谷の事かとも思うが、あの流れでは小瀑布とは言いそうもない。
まーハリスはともかく、昔の旅人は目的地にたどり着く事が主目的なので、途中の寄り道は余りしなかったのだろう。私が気になる所があっても先へ先へと急ぐように。


  大滝入口                    駐車場上の石仏群             石仏群の上の道

 道を石仏群の所まで引返し、今度は駐車場の方には行かず道なり進んで行くと、さっき見た大滝の入口に出た。この下には温泉も滝もある。なのに寄らないで通過したのだろうか? という私もそのまま通過。
 ループ橋の根元に細い道があったのでその道に入って行く。余りに細すぎて当然街道ではないだろうが近道に様に感じた。真下からのループ橋を眺めながら細い道を行くとやはり車道に合流。そしてその先には今度は旧道のような道があった。その入り口に金属製の道標が建っているのだが何も書いてない。何だろう?変な事をして。


   ループ橋         表示のない道標            ループ橋

 また石仏群が出てきた。天城の北側の湯ヶ島から峠までは余り石仏が無かったが、南の湯ヶ野側は石仏が多いのか。
その石仏群を過ぎると今度は「関戸義信の墓」があった。案内板には「延徳3年の北条早雲の伊豆攻略に奥伊豆の土豪は降伏した、下田深根城主の義信のみ降伏せず抵抗を続けた。しかし多勢に無勢で北条勢に攻め込まれ親子で逃げてきたがここの地で自刃した」とある。
今流の解釈なら「無駄な抵抗」と思うのだが当時は義理が幅を利かせていたのか。いや以前読んだ本に戦国時代の土豪は自分の領地を守る事に「一所懸命」で裏切りなど朝飯前だと書いてあった。やはり関戸義信は先を読み力がなく、一族郎党を滅ばしてしまったのだ。

 更に街道を進むと今度は道祖神があった。三島かr修善寺かけてよく見た単座の道祖神ではなく木の祠の道祖神だった。


  石仏群                  関戸義信の墓                道祖神

 国道と合流する手前に「伊豆踊子ハイキングコース湯ヶ野へ」の立札が建っていた。はて街道はどちらだろうと思案を始めると国道よりに古い道標らしきものが見えた。近づいてみるとその石塔には「左湯ヶ島近道 右天城街道」と彫ってあった。
素直にこの道標を見るなら、今歩いてきた道が左側になり湯ヶ島近道になるらしい。そして右は現在国道が走っているが、そこが天城街道という事になる。少し考えてハタと分かった。これは明治時代天城トンネルが開通した後の道標で、現在の国道が当時の馬車道だった。そして従来の二本杉峠を越える道は急坂だったが近道だったのだろう。
そういえばハリスの日本滞在記には二本松峠の事をこんな風に書いてあった。
「今日は天城山を越える。高さ3500尺。道は余りに険阻で、私は馬から籠に乗り換えなければならなかった。道は往々にして35度の角度を成し、8人で担ぐ駕篭棒の長さに(22尺)満たないほど曲がりくねった所もあった」
それに比べ旧天城トンネルからの道は馬車も通っていたので、そんな急坂は無かった。その代りぐるぐる回って傾斜を緩くしたので距離は延びたのだろう。そこでこんな道標ができたのか。しかし道標の建造年は分からなかった。
国道と出合った所のバス停に「川合野」と書いてあった。

 国道を少し下るとまた南に下る横道が出てきた。街道かどうかに自信は無いが、多分大丈夫だろうと下り始めたが、右側にそそり立つ国道の擁壁が続き、これは間違えたと後悔してしまった。しかし道の横には電柱が続いているのだから、この先には民家があるはずだ。民家があれば道は行き止まりでなく通り抜ける確率が高い、とそのまま擁壁の横の道を下っていた。
矢張り今日は冴えている下の道と合流した所に、またもや道標が建っていて、そこには「右三嶋 左下田道」とあり、その横面には「嘉永■申寅年」となっている。
擁壁の横の直線の道が旧街道とは思えないが、入口は間違いなく旧街道だった。これでいい。


川合野の道標  擁壁の横の道                 擁壁下の道標

 しかし街道であることは間違いないが、下田に向かう道が下っていて、今来た北の方向に戻っている。さて困った。雰囲気的にはこの道標を無視して出合った道を南に進みたいのだが。どうしたらよいだろう。
このように正反対の分岐には困ってしまう。今日出合った分岐は全て南の方向だったので左程迷うことなく決断できた。だがここの分岐は南北に分かれているので、もし間違った場合は歩く距離が2倍になってしまう。よく考えなければ。

またまたタイミングよく地元の人が下から歩いてきた。早速
「こんにちは、チョット教えてください。下田はどっちに行けば良いのでしょうか」と聞くと少し考える風にして
「どっちでも下田にゃ行けるが、お宅はどっちから来たのかな」
「この道を天城から下ってきました」
と国道の擁壁の道を指す。
「それならこの道を下って橋を渡ったら、すぐの右の道を行けば小鍋に行ける」小鍋? アッ!小鍋峠は先日下田街道を調べていたら出てきた小鍋峠の事だろう。そのことを確認し更に疑問に感じていたことも聞いた。
「この南の道は何処へ行く道ですか」
「河津に行くが途中で別れれば下田にも行く、車が通る道だ」
これで納得できた。
だがもう一つ聞いてみたいことがあった。この人なら分かるかもしれない。
「幕末の時ハリスが梨本に泊まったと読んだのですが、何処に泊まったか知ってますか」
「アーそれならこの上の慈眼寺さんだ」
と上の国道の方を指す。
「此処からは見えないが、ほらあの斜面にある急な道を登ってもいいがちょっと危ないから、その先の小川の手前にある舗装した道を登ればいい」と教えてくれた。
ラッキー! 迷ったおかげでハリスの泊まった場所も分かった。今日はツイテいる。

 国道への急斜面にギザギザ曲がった道が付いている。この道を登ってもいいがさっきの人がまだいるので遠慮をして舗装された道を行く事にした。
国道に出ると正面に「禅の湯」の旗が何本も立った日帰り温泉の駐車場だった。禅なら寺が経営している温泉だろうと解釈して石段を登って行くと温泉の建物入口で寺に行く道は無かった。石段を下りさらに国道を行くとようやく寺の山門に着いた。山門の横には禅の湯の旗と共に「ハリスの舊蹟」の石碑が建っていた。

 
  慈眼寺への急な道          禅の湯の駐車場         ハリスの石碑

天城越え 七滝

2012-06-12 16:39:18 | ウォーキング
天城越え2-6

天城峠~七滝
 トンネルを抜け湯ガ野側に出ると車もグンと少なり歩行者はいなくなった。彼らは天城トンネルで引返して水生地下の駐車場に戻るのだろう。どうやら天城で一番面白くない道を彼らは歩く事になりそうだ。尤もこちらの道も車道なので、滑沢渓谷やゆうゆうの森付近の道とは比較にならないが、それでも水生地からトンネルまでの道よりは雰囲気は良い。
 
 寒天橋! どこかで聞いた名前だ。そうだ浄蓮の滝で掛かっていた石川さゆりの「天城越え」の歌詞にあった。
「わさび沢 隠れ径 小夜時雨 寒天橋 恨んでも 恨んでも からだうらはら あなた…… 山が燃える」 ウーン何とも意味の分からない歌詞だが、石川さゆりが歌うと切なくかつ情熱的に感じる。その寒天橋がここにあるが 橋は普通で何の趣も無い。ただ橋の横には「日本道100選」の記念碑が建っていた。

 
  寒天橋から                          日本の道100選の記念碑

 寒天橋からすぐの所に「二階滝」がある。この滝の説明に「河津七滝を持つ河津川の一番目の滝で巾6m高さ20mあり厳冬時には一条のつららになる」と紹介してあった。
へー静岡県の滝が凍って一条のつららになるなんて本当かしら、一条のつららになるのではなく、一条のつららができるの間違いではないのかな。
そんな事はともかく国道を横断すると道が山道になった。その道の近くにワサビ田があり、近くには蕗が生えている。ワサビと蕗の葉は似ているがワサビの葉は艶々しているので一目瞭然だ。だがこの蕗が艶蕗だったらどうだろう、もっと似てくるかな。
余り葉の形が似ていたので同種かと思い調べてみると、ワサビはアブラナ科で蕗はキク科でした。

 道に水が流れ込み沢のような状態になってしまった。靴が濡れるのを恐れて脇を歩いていた所為か、いつの間にか道からずれてしまったようだ。踏み跡が薄くなりどうにも変だと慌てて沢状の道まで引返し水の中を進むと林の中に行く道があった。アー良かった。

 
  二階滝                           蕨と蕗

 歩きながら天城ウオーキング推薦コースを考えてみた。出発地は昭和の森、いわゆる天城越え道の駅に車を置いて、滑沢渓谷、ゆうゆうの森を通り水生地下に出る。水生地から少々面白くない道だが天城トンネルを越えて二階滝を見て、この山道に入る。(山道と書いたがここも踊子歩道です) そして七滝を見学して七滝のバス停から道の駅までバスで帰る。
余裕があれば太郎杉を見たり、温泉好きの人なら大滝温泉に入るのも良いだろう。どうですか紅葉のころなら景色もバッチリだと思いますよ。
自分が歩けばよいって、そう歩きたいですが一人だとこれでは物足りなくなって余計な道を歩いてしまいそうです。例えば帰り道を二本杉峠を通って、歩いて道の駅に戻りたくなってしまいそうです。

 上の方に国道が見えている。ここは踊子歩道と名付けられているが街道ではなかったはずだ。明治入ってからの馬車の通った街道は、こんな川の近くでなく、もっと上の方についていたはずだ。そう今見える国道の方にあったと思う。
そしてそれ以前の街道は二本杉峠経由なので、ここより下の宗太郎園地と言う所で分岐している。だからここは街道ではなくハイキングコースだと思う。
 
 
  登山道横の沢             平滑の滝?          国道が見えた

 宗太郎園地に4時丁度に到着。案内板にここから七滝最初の滝まで30分。その先のバス停までは35分となっている。バスの時間あは17時15分だから十分間に合う。旧街道の二本杉峠に行く橋を渡ったりして様子を見ていると声が掛かった。
「お父さん、良かったり焼きそばを食って行かないかね」と道の奥でバーベキューをしている人からだった。一瞬迷ったが今時間を確認して十分余裕がある事が分かっているので甘える事にした。大盛りの焼きそばに大きな器に入った味噌汁をお接待してもらいながら話をしていると「さっき二本杉から下って来た人が「二本杉からの道は水が出ていて何度も川を渡り大変だった」と言ってたが、お父さんはどうだった?」
「エッ!二本杉って旧道でしょう?それなのに道がそんなに悪いのですか?」
「ウン途中に地蔵さんが二個あったと言っていたから旧道に間違いないと思うよ」

アー良かった。ゆうゆうの森でもし強気の心が勝っていたらとんでもない事になっていた。楽な天城トンネル越えでも、ここ宗太郎園地に4時に着いたとなると、二本杉峠越えでは5時近くにはなってしまっただろう。そして終バスに間にあわずどこかに泊るはめに------
フー良かった! 普段の心掛けが良いからイザという時に天は味方してくれる「南無大師遍照金剛・南無大師遍照金剛・南無大師遍照金剛」だ。


  宗太郎園地の分岐の橋          接待の焼きそば    バーベキューの人達

 雑談を交わしながら大盛りの焼きそばと味噌汁を飲み終わり、そろそろ出発しなければと思い時計を見ると、4時15分になっていた。最終バスまで後1時間あるが、ここからバス停まで65分掛かると書いてあった。そろそろ出ないとバスに間に合わなくなってしまう。 
お礼を言って歩き出すと終バスの時間が気になり自然に早足になる。街道になったせいか道脇にはまた石仏が出始めたがゆっくり見ている暇は無い。
さらに進むと何やら貼紙が何枚もしてある木道の入口があった。貼紙を読んでいるの時間も惜しくそのまま木道に入る。
この木道は手摺まである立派な木道で七滝に向かっているのは間違いないだろうが、向かっている方向が逆のような気がした。向きが今歩いてきた方向に戻っているように思うのだ。だが木道はグングン下がって行くので川に向かっていることは間違いない。しかし次の滝に向かうのに、この木道を戻るとなると大変だ。不安が頭をよぎる。こんな事なら入口の貼紙をしっかり見ておくべきだったと後悔をするが今更遅い。
ようやく目的地なのか看板が建っていて、そには「猿田淵」と紹介してある。何!猿田淵? 滝ではなく淵だって? やいやい七滝以外の場所に来てしまったのだ。見えている流れは滝ではなく川幅の狭くなった所に水が集中して激流になっている。どこかで見た景色だ、そうだスケールは違うがニュージーランド北島のフカホールもこんな感じだった。滝でもないのにホールと呼んでいたが滝にも劣らない様な激流が流れていた。

 
  題目塔                            猿田淵

 イヤイヤそんな事を考えている余裕はない。先に進まなければバスに間にあわなくなる。道はまだ下流に続いているが果たしてこの先に七滝があるのか? 標識を探したが見当たらない。今更さっきの木道を戻るのも馬鹿らしいと更に道を下って行った。
 やっと標識が出てきた。この先に釜滝があるようだ。釜滝に16時40分に到着。終バスの時間までにあと35分ある。確か宗太郎園地の標識には七滝からバス停まで35分と書いてあったはずだ。それなら多分間にあう筈だと少しホッとする。
釜滝はすごい水量で滝の近くにある展望台は水しぶきが凄い。写真を一枚写してほうほうの体で退散した。


  釜滝

 少し余裕が出てきて下から登ってきた親子連れに「この上の滝は凄いよ」と声を掛けたが何の反応も無い。失礼な奴らだと思いながら岩肌に付いた急な道を下る。釜滝から2、3分で着いたえび滝は落差が小さく大した事のない滝だった。写真を撮り次の滝の行こうとすると、何と、何と遊歩道が通行止めになっている。それも簡単に貼紙やロープ1本で入らなくしてあるのではなく、ロープを何重にも絡め頑丈に封鎖してある。

   
  えび滝

貼紙にはなんて書いてあったのだろう?今は思い出すこともできないし、その時は写真を撮る余裕も無くなっていた。
もう一刻も早く戻るしか手は無いのだが、疲れてきた体に急な上り坂はきつかった。早く、早くと気は焦るのだが一向にスピ-ドは上がらない、いや上がるどころか速度は下がってきている。
釜滝を過ぎた所に猿田淵と水垂の分岐があった。そこに確か「バス停への近道」とか書いてあったような気がしたが確かではない。先ほどの親子連れを追い越したのだが、子供が私に負けずに歩き出した。その子を追い越したいのだが駄目!追い越せない。いやいや子供の方が余裕があって私から付かづ離れづ歩いているようだ。
アー!疲れた。もうゆっくり歩きたい。だがここで速度を下げたら1万円の出費が必要になってしまう。宿は七滝温泉にあるだろうが宿代が惜しい。ケチな私は疲れながらも必死に歩くのでした。
これで心掛けが良いから天が味方するだって。とんでもない。そんな慢心をするから天は早速罰を与えたのだ。クワバラ!クワバラ!

ようやく宗太郎園地から続いていると思しき太めの道に出た。標識にはこの先に「水垂」のバス停があると書いてある。私の目指したバス停は「河津七滝」だが水垂は多分天城峠寄りのバス停だろう。それならバスの時間は七滝より遅くなるだろう。ここで少し余裕が出てきた。
そうか、さっき親子連れに「上に大きい滝がある」と教えたのに返事がなかったのは、失礼だからではなく「そんな事は百も承知だ」という事だったのだろう。折返しの道を戻ってく人に道を教える変な人と思われたかもしれないな。

 国道に合流。そしてそこには水垂のバス停の標識が建っていた。時間はジャスト17時。バスの時間は17時35分。こんな事なら慌てる事は無かったが、このバス停の事は知らなかったのだからしょうがない。なにはともかく間にあって良かった。勿論次のバス停とかは目指しませんでした。それにしても久し振りに焦ってしまった。 アー疲れた。

天城越え 天城トンネル

2012-06-11 16:00:29 | ウォーキング
天城越え2-5

昭和の森~天城峠
 昭和の森からの踊り子歩道への入口はすぐ分かった。標識もあったが入口の場所が進行方向にあると探しやすい。
踊り子歩道に入ると道の右側にはロープが張られ立入禁止になっていて、立札には「有料施設につき立入禁止」となっている。ロープの中は観光客がそぞろ歩きをしたり、ベンチで休んでいるのが見える。
民家のような建物が見えてきた。確かこの建物は井上靖の住んでいた家のはず(間違いかもしれません)だが、今日しろばんばの里を歩いて「上の家(井上本家)」を見てきているので少し腑に落ちない感じがした。何故なら井上靖が子供のころ住んでいたのは「倉の家」で、本家の上の家にはおぬい婆さんが死んだあとに少ししか住んでいないはずだ。気になって伊豆市のHPで調べてみると、このように説明されている。
「◎井上靖旧邸 実際に井上靖が住んでいた井上邸を移築して、当時の雰囲気を今に伝えてくれています。当時を伝える造りですが、大変保存状態が良いため、今でも十分住めるようになっています」
では上の家以外にも井上靖が成人してから湯ヶ島に居を構えて住んでいたのだろうか?

 環境庁の設置した「御礼杉」の案内板があった。「天城山を徳川幕府が所有していた頃、「天城七木制」といわれる禁伐制度がありました。山付きのに雑木や下草を利用させた際、その開けた跡地に杉を植えるという森林保護を目的とした政策造林を行っていました」とある。なるほどな、このような政策もあったから天城の山は守られ、現在に引き継がれているのだろう。徳川幕府というか伊豆代官江川太郎左衛門が偉かった証拠だ。

 昭和の森には石楠花があると聞いていたが、今まで歩いてきた道には見当たらなかった。有料施設の中にあるのだろうか? それともこの先にあるのだろうかと思っている間もなく、昭和の森の出口に来てしまった。そこは木の柵を砦の出入り口のように立ててあり、旧天城トンネルまでの距離等が表示されていた。
サーいよいよここから先は登山道になるのだろう。気を引き締めて歩こう。

  
  井上靖邸                           昭和の森の出口

 狭くなった川幅の狩野川を右に見ながら山道にしては太い道を進む。左に走る国道から逃れて休憩している車もある。
木の鳥居の神社というより祠があり、その説明板には「山神社」と書いてある。さらにその説明板にはこんな事も書いてあった。
「この神社付近には、江戸時代に伐採を禁止されていた「天城七木」があります。七木とはスギ、ヒノキ、サワラ、マツ、ケヤキ、クス、カシで、後にモミ、ツガも追加して九木としました」
これを読んで疑問に感じていた七木と九木の問題が解決した。最初からこのように書いてあれば悩まないで済んだのに、と思ったが、こんな事にこだわる人間は余りいないだろうなとも思った。

 「滑沢渓谷」の表示もあり「伊豆最大の一枚岩の間を白布の如く流れている」と書いてある。今日は水量が多く白布というより「阿修羅の流れ」に近そうだ。だがそんな流れを眺めている余裕は余りない、先を急ごう。
さらに進んで行くと左から水が登山道に流れ込んでいて、注意して歩かないと靴が濡れてしまいそうだ。一昨日の大雨の影響なのだろうか、余りいい気がしなかった。
そんな場所を通り過ぎ、道が車道と合流する。その車道を少し行くと橋があり案内板には「太郎杉方面」とある。当初は太郎杉を見てから二本杉峠に進む予定だったが、今の時間は1時15分。さてどうしよう。ここから太郎杉まで往復で約2.5kmとある。なら4,50分は掛かってしまいそうだ。
一方天城トンネルまでは4.5kとあるので1時間半は見ておきたい。あわせて2時間を越してしまう。さらに私の予定は天城トンネルではなく江戸時代の街道の二本杉峠だが、その案内は無い。だが天城トンネルよりは時間はかかりそうだ。
さて太郎杉はどうしようーーーー  結局安全策をとって太郎杉は行かない事に。

  
  山神社と鳥居                         太郎杉分岐

 車道と別れて登山道の階段を登って行く。今度は「天城街道」の案内板が建っていた。案内板の説明ばかりで恐縮だが、この案内板にも気になる事が書いてあった。
「明治38年に天城トンネルが開通するまでの86年間、歴史上の人物などが行き交いました」と書いてある。という事は島崎藤村や踊り子たちはこの道は歩いていないのだ。言うなれば馬車道は今歩いてきた道では無い事になる。それも当然だと思った。
大体昔の街道が川の畔にあるなど考えられない。川のそばでは雨のたびに道は水に覆われたり、酷い時は道が流出してしまう。現に天竜川沿いの塩の道も川底を避けて秋葉山の山頂や中腹についている。その点ここ天城だって同じことで、川のそばを川に平行に街道を付けたりはしなかったろう。
この案内板の建っている場所も狩野川の畔だが、先ほどの滑沢渓谷の道よりは高台にある。きっと江戸時代の街道は先程の太郎杉の分岐の手前で山の方に迂回していた気がする。

 それにしても歩きやすく気持ちがいい道だ。時折ベンチなどもあるので家族ずれのピクニックにも良いだろうし、道の駅に車を置いて散歩するのも良いだろう。
道はようやく天城トンネルと二本杉峠の分岐点の「天城ゆうゆうの森」に到着。
サーここからメインの道から離れ、荒廃していると言われる二本杉峠に向かうのだが、なんだか気分が乗ってこない。先ほどの道路に水が冠水していた辺りから少しずつ不安感が芽生えてきていた。そんな気持ちの表れで太郎杉に行くのは止めてしまったのだ。
ここでもその弱気といつもの強気が葛藤し初めてきて大いに迷ってしまった。結局私には珍しく弱気が勝ってしまい、二本杉峠は諦めて旧天城トンネルに行く事にした。
 天城ゆうゆうの森は大川端キャンプ場とも言うようで広々ととした広場もある。そこには昔森林鉄道で使用したトロッコも置かれていた。

  
  川のそばの山道                     天城ゆうゆうの森

 ゆうゆうの森からの道がまた良かった。ここを秋に歩けば紅葉も素晴らしいだろう。これならわざわざ奥入瀬渓谷まで行かなくても十分その雰囲気を味わえそうだ。そうだ今度は秋に歩いてみよう。今日は逃げてしまった二本松峠にリベンジするのも良さそうだ。
 今日は子供の日だというのにハイカーが少ない気がする。昭和の森からゆうゆうの森の間で太郎杉に向かう散歩がてらの観光客と、天城の方から下って来た2人組にしか会っていない。このコースは人気が無いのか、それとも一昨日の大雨の影響を恐れて来るのを止めたのだろうか。それにしてもこんなに気持ちの良いコースなのに惜しい気がする。
 対岸にワサビ田が続いている。そのワサビ田に向かうモノレールの橋が架けられているが、その入り口はバラ(薔薇)線が何重にも張り巡らされている。こんな山の中でも山葵を盗む奴がいると思うと腹が立ってきた。

  
  紅葉しそうな木々                    ワサビ田

 ゆうゆうの森から20分ほどで国道端にある水生地下に到着。ここで旧天城トンネルに向かう旧道と合流する。
この道は藤村の乗った馬車も通った道だろうが、水生地下からゆうゆうの森への道は川に近すぎ街道には不向きな道だ。きっと馬車は現在の国道と同じ道を走ってのだろう。
 それにしても先ほどの道と違いここを歩く観光客が多い。皆、水生地下の駐車場に車を置いて天城トンネルを目指しているようだ。時折車が通るが、この人たちは一歩も歩かず天城トンネルを見ようとする横着者だ。
その人気のある道だが先程の自然一杯の道を歩いてきた身としては今一、今二の道だった。デコボコした車道を横着者の乗った車を避けながら歩いていては楽しさも半減してしまう。

 左側に北アルプス上高地のウェストン碑のように人の顔のモニュメントをはめ込んだ記念碑があった。近づいて見るとその人物は川端康成で伊豆の踊子の文学碑だった。そこには天城峠に向かう一文が掲載されていた。
「道がつづらおりになって いよいよ天城峠に近づいたと思うころーーーー」 そうだ確かに伊豆の踊子の中にこんな一文があった事を思いだした。当時その本を読んだときは天城の道が馬車道とは思っていなかったので、電光形のように折れ曲がった道を想像していたのだが随分イメージが違う。
 今度は案内板が幾つかある氷室園地の広場に着いた。案内板には「氷室園地には、天然の氷を造った製氷池や貯蔵していた氷室があった。(中略)松本清張の推理小説「天城越え」の舞台にもなっています」とある。
また思い出してきた。あの小説では下田から家出してきた少年が、途中で不安になり下田に引返すとき娼婦と連れになった。淡い恋情を抱いた少年だったが、娼婦は行連れの土工と交渉を持ってしまった。それを盗み見した少年はその土工を殺してしまう。その場所が確かこの氷室辺りだったと思う。
 そんな事を考えながら歩いているとまた記念碑が見えてきた。きっと松本清張の文学碑だと思い近づくと、今度は半身像のモニュメントで帽子を被った近代的な格好だ。どうもで松本清張らしくない。近づいて見ると「江藤延男」と知らない人だった。このひとは「天城を守る会」の初代会長で、環境省の地域環境保全功労で大臣賞を受賞した人だそうです。それにしては立派な記念碑だ。

   
  川端康成文学碑                     江藤延男記念碑

 記念の先のカーブを曲がると遂に旧天城トンネルに到着。時間は14時35分で予定より少し早い。トンネルの手前には休憩所やトイレもあり車も何台か駐車している。トンネル横からは天城峠に続く道も延びていて、仁科峠まで15.1kmで345分と書いてある。
今回の下田街道を歩く前は、修善寺の達磨山から仁科峠そしてこの天城峠までの伊豆山稜線歩道と、天城峠から天城の主峰の万次郎と万三郎へ登り伊東に出る天城縦走路を歩く予定だった。だが仁科峠近くにある宿泊施設牧場の家が休業中だったため、この下田街道に変えた経緯がある。
その仁科峠までこの天城トンネルから6時間とすると、ここを10時に出ても4時にはなってしまう。そして仁科峠にはバス停は無く、麓の湯ヶ島まで歩かなければならない。そうなると仁科峠あたりで一泊しなければ伊豆山稜線歩道は完歩出来そうもない。
だが天城縦走路だけなら、ここから6,7時間でバス停まで行ける。それなら紅葉の頃歩いてみるのも面白いかもしれない、いや歩いてみよう。これで歩く目標が一つできた。

 旧天城トンネルは道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定されているが、その風情は左程でもない。私には東海道の蔦の細道の近くにある明治トンネルの方が風情があるように感じるがどうだろう。さらによくないのが天城トンネルは車が走っていて、眩しいライトと耳を塞ぎたくなるようなクラクションがすることだった。

  
  旧天城トンネル                     天城山隧道

天城越え 昭和の森

2012-06-09 11:53:11 | ウォーキング
天城越え2-4

浄蓮の滝~昭和の森

 石川さゆりの「天城越え」がスピ-カーで流されている中を滝に続く道を下って行く。さすが浄蓮の滝は伊豆一番の名瀑とあって観光客の数も多い。途中の釣堀の店の前は釣客と滝の見物客が重なり渋滞状態になっていた。
一昨日伊豆地方は大雨が降り、道路の彼方此方が土砂崩れで通行止めになったようだ。本来なら私も昨日歩く予定だったが、その水を恐れて一日延期して今日歩いている。その大雨のせいだろう浄蓮の滝の水は多く、それこそ怒涛の如く流れていた。
滝への遊歩道には女郎蜘蛛や弁財天の伝説を紹介してあるが興味を覚えるものではなかった。その中に「天城の九木制」という制度の説明があり読んでみると
「現在の国有林は、維新の前は徳川氏の所領に属し、代官江川太郎左衛門が代々管理していた。元禄11年天城全山を狩野、大見、仁科、河津に分け、それぞれに保護監守の山守を置き、山守には米3石5斗と名字帯刀を許した。また村内の杉、桧、松、欅、楠、樫、カヤ、樅、栂の9種を制木と定め、公用以外斫伐を禁じた。称して之を天城の九木制という」
 伊豆には他にも「函南の原生林」があり、ここも幕府の御用林で一般の伐採は禁じられていた。江戸に近い事もありいざという時のために伊豆の森林は大事されたのだろう。
東海道を歩いているとき、近江の草津付近には天井川が多かったが、その原因の一つに京の寺院などの建築のため、森林を伐採しすぎたとあったが、それに比べれば伊豆は恵まれていたと言えるだろう。

   
  浄蓮の滝                             踊り子像

 伊豆の踊子の像が建ち、一高生が山を指している。あの方向は何処だろう? 天城万次郎かそれとも天城峠か。私は次の昭和の森を目指して歩いて行こう。
ところでここ浄蓮の滝から始まる「踊り子歩道」の入口は何処だろうと駐車場の周りを歩いたが分からない。観光客に聞いても分かるはずはない。さて誰に聞こうと見回して見ると、居た居たボンネットバスの横に踊り子の衣装を着たバスガールが立っている。彼女なら分かるだろうと声を掛けた。だが残念ながら分からない。踊り子はバスの中の運転手にも聞いてくれたのだが、こちらもはっきりしない。ただ「国道を渡ったバス停の下から道が延びている、多分それではないか」とヒントをくれた。一高生スタイルではなく普通の格好の運転手に礼を言って国道を横断する。

 ピンポン!当たりでした。浄蓮の滝より少し下がった所にあるので探しきれなかったが、道の入口には「踊り子歩道」の標識が建っていた。その道は先ほど歩いた天城遊歩道と同じように車も通れるほどの道だった。
車が通らず国道より断然歩きやすいが、私には余り面白味のない道だった。それでも山の古道らしく木の鳥居の神社や「賽の神」と彫られた石碑もある。

  
  木の鳥居                             賽の神

 左側に島崎藤村の「伊豆の旅」の文学碑がある。「茅野(かやの)といふ山村の入口で吾儕は三人ばかりの荒くれた女に逢つた」で始まっている文章だが余り面白そうでもない。それでも茅野の地名が気になり家に帰り地図で確認すると、この文学碑が建っている所より少し下の民家のある辺りだった。
それなら「伊豆の旅」には、他にも天城の地名や街道の事が書いてないか気になり検索してみると、見事ヒット!しました。(興味のある人は覗いてください
伊豆の旅は島崎藤村が明治41年(?)秋に伊豆を友達4人で旅をした情景が書かれていて、コースは東京から大仁まで汽車。大仁~修善寺温泉まで歩いて、修善寺に泊まっている。修善寺温泉からは馬車に乗り湯ヶ島に泊まり、翌日また馬車で下田まで行き宿泊。その次の日は石廊崎見物などをして、帰りは下田から伊東は汽船に乗って帰っている。

 「伊豆の旅」の中で気になる所が何ヵ所かあったので紹介しておきます。
大仁から修善寺に行く街道は大仁橋を渡ったのか、それとも水晶山の横を通ったのか一番気になったがその部分は何も触れてなかった。修善寺温泉の温泉については宿の内湯か、それとも外湯か分からないがこんな表記も
「湯も熱かつた。谷底の石の間から湧く温泉の中へ吾儕は肩まで沈んで、各自めい放肆(ほしいまゝ)に手足を伸ばした」とある。谷底の温泉となると独鈷の湯に入ったのだろうか。
次に湯ヶ島に向かう途中「ある村へさしかゝつた頃、吾儕は車の上から四十ばかりに成る旅窶れのした女に逢つた。其女は猿を負つて居た」藤村は踊り子ならぬ猿廻しに会っていた。
湯ヶ島の宿は「(乗合馬車は)温泉宿のあるところ迄行くと、そこで馬丁は馬を止めた」「(宿は)谷底の樫の樹に隱れたやうな位置にあつた」と書いてある。
乗合馬車の停車場なら、そこは下田街道だろう。となると街道は谷底に近い場所となる。では私が歩いた道は何だったのだ? 街道と思って歩いていたが狩野川とは遠く離れていて谷底などとても見る事は出来なかった。
気になったので後で地図で確認にするとそれらしき道がある。その道は湯ヶ島支所の横から狩野川の方向に行く道で、その道を辿って行くと間違いなく狩野川の近くに行く。更にその近くにはしろばんばの洪作少年が利用していた共同風呂の河鹿の湯があった。
これで正しい下田街道が分かったと思ったがそうはいかなかった。伊豆の旅にはさらにこんな事も書いてある。
「夕方から村の人は温泉(宿)に集まつた。この人達はタヾで入りに來るといふ」「不相變(あひかはらず)湯は温ぬるく」「僅かにふくらんだばかりの處女らしい乳房」最後は蛇足だが村人たちは近くに共同風呂があるのに、この宿の温泉に入りに来たのだろうか。理由が分からない。私の街道の場所の想定が間違っているのか? ウーン分からなくなってしまった。

 もう一つ宿の食事の話も紹介したい。
「昼飯には鷄を一羽ツブして貰つた。肉は獸のやうに強かつた。骨は叩きやうが荒くて皆な齒を傷めた。しかし甘かつた」
鶏をつぶして食べるのは分かるが、骨を叩き潰してどうしたのだろう。歯を痛めたとあるので潰れた骨を噛んだのだろうか? 骨の髄を食べたのか? それが甘い?? 
昼に着いた彼らはそのまま同じ宿に泊まっている。
「生憎只今はなんにもございません時でして―野菜も御座いませんし、河魚も捕れませんし」と内儀さんは氣の毒さうに言ふ。 夕飯には吾儕の所望した芋汁は出來なかつた。お菜は、鳥の肉の殘りと、あやしげな茶碗蒸と、野菜だった」
当時は旅館とは言え質素な夕食だったことがわかる。

   
  島崎藤村文学碑                       天皇御手植え杉

 きりが無いので先に行こう。
藤村の文学碑の先には猪村だったと思しき建物が見えたが、現在は休業中で寂れた姿をさらしている。
平成天皇が皇太子の時に御手植えした杉の記念碑を過ぎ国道に合流し、さらその先に見える踊り子歩道に向かう。ひっきりなしに通る車の合間を見付けて、やっと国道を横断できた。横断歩道が無いので仕方は無いが、一台として停まってくれる車は無かった。尤も恨むわけにはいかない。自分だってこんな場合歩行者のために停まる事はなさそうだから。

 国道を横断して入った道はすぐに昭和の森に着いた。そう今まで昭和の森と紹介していたが、現在では道の駅も併設されていて昭和の森と呼ぶより道の駅天城越えと呼んだ方のが通りが良いのかもしれない。
駐車場の中に「天城越え」と書かれた大きな案内板が建っていた。そこには気になる事が色々書かれていたがじっくり読んでいる暇は無い。後で読もうとデジカメで写しておいた。ただその中に「天城の七木」として松、杉、桧、樅、欅、栂、花柏(さわら)の伐採が禁じられていたとある。浄蓮の滝では「天城の九木制」として松、杉、桧、樅、栂、欅、楠、樫、カヤが挙げられていたがどっちが本当なのだ。道の駅の案内板は営林署で建てた物なので、天城の七木の方が正しいと思うのだが-----

 下田街道の道の案内板もある。これから歩く旧天城峠は二本杉峠と書いてあり「安政4年ハリスの旅」注釈がある。更に踊り子が通った旧天城トンネルには「明治38年」と書いてあるので、藤村が伊豆の旅をしたのは明治41年なのでトンネルができて間もなくだったのだ。
因みに伊豆の踊り子の作者川端康成が天城を歩いたのが大正7年で、その前年に天城峠はバスで越えれるようになっていた。伊豆の踊子の中にバスの事が書いてあったのか忘れたが、川端康成は藤村たちに比べ質素な旅だったことがわかる。 

   
  昭和の森の案内板                      下田街道の変遷

 時間は12時45分。想定ではここを1時には出発する事になっているので、ほぼ予定通りだ。少しエネルギーを補給しようと観光客の少ない所で握り飯を食べる事に。

天城越え 浄蓮の滝

2012-06-06 11:21:16 | ウォーキング
天城越え2-3

湯ヶ島~浄蓮の滝
 この2回目の天城越えもコースの距離も測らず時間も計算しなかったが大よその時間配分だけは立てていた。
それはゴルーの七滝バス停の最終が17時15分である事を確認して、七滝バス停には17時着とした。
次に天城峠から七滝まで2時間。昭和の森から天城峠まで2時間。昭和の森~浄蓮の滝が1時間。浄蓮の滝~湯ヶ島が1時間で計6時間。とすると湯ヶ島を11時には出なければならない。
前回の報告で湯ヶ島を11時に出たいと思ったのは、こんな理由があったからです。
因みに湯ヶ島~修善寺は電車到着時間から8時出発とみて、3時間と踏んでいました。
湯ヶ島では計算通りの11時に出る事ができたが、仮に5時までに七滝までつかないときは、手前にある二階滝や水生地下、あるいは最悪昭和の森のバス停を利用する積りだったが、先ずそんな事にはならないと思っていた。
 逆に七滝へ早く着いてしまった場合の方を心配をして、若し早く七滝に着いてしまった時でも、先には進まず早いバスで帰る積りだった。
何故! だって先に進むと今日のバス代も次回のバス代も高くなるし、最終回の歩く距離が短くなり過ぎてしまいそうだからです。

 さすが観光地の国道で頻繁に車が走っていて煩いといったらない。しかも歩道も無く白線の区切りがあるだけだ。
そんな道を少し行くと左側に新しい鞘堂があった。中にあった祠は特に興味は湧かなかったが、左に置いてある自然石を積み上げた常夜灯、いや灯りをつける場所が無いから何というのだろう? 兎も角そんな石が積み重ねてあった。
だがその常夜灯よりもっと興味を感じる物がそこには二つも置いてあった。
一つは何故か菊の文様を刻んだ台座である。菊の花びらを数えるとナント!16枚あった。ならこれは十六弁菊で皇室の菊の御紋なのか?不思議に思いながら台座の上の石を見たが何だか分からない。
その横の方にも理解できない石が置いてある。白っぽい石を割ったようだが、その割れ目には鳥なのか昆虫なのか分からないが翼の模様が付いている。私の眼には化石と思うのだが、そんな大事な物をこんな道端で、しかも雨ざらしにしておく訳がない。では一体何なんだろうか。私の拙い知識では分から筈も無く家に戻り調べてみた。だがこの様な模様の化石は見つける事ができなかった。
それから菊の御紋も調べてみるとる皇室を表す紋章は「十六八重表菊」で、花弁と花弁の奥に更に花弁があるものだった。そういえば菊の紋は神社や寺で時折見る事もある。ならこの祠もその類なのだろう。きっと十六八重表菊以外の紋なら誰が使っても不敬罪で捕まる事も無かったのだろう。だけどあの小さな祠の名前をしっかり見ておくべきだった。

 
  大滝の祠                 台座の菊の御紋章         化石?

 祠の前はバス停「大滝」となっているから滝でもあるのだろうか?聞いた事は無いが。さらにバス停の標識の前には「湯道」と彫られた石碑と、その後ろの方には四角柱の石を三個ずつ束ねた物が三つ並んでいた。これも意味不明で、湯道とは温泉を引き込んだ水路の事なのか。だがあの石造物は何なんだろう。
これもネットで調べてみると「湯道」とは、この先にある共同風呂に地元の人が通った道で、その道を観光客向けに遊歩道にしてあるらしかった。だが石の建造物と大滝に関しての情報は見つける事ができなかった。

  
 大滝バス停の石造物                         湯道の標識

 好奇心を起こさせてくれた祠を離れて、また喧噪の国道を歩く。本来なら右側を歩くべきだろうが、あえてここでは左側を歩く事にした。歩道が無くカーブが多い道は、右側を歩いていると道が左に膨らみ、その先で右カーブしている場所は恐ろしい。膨らみの先で顔を出したとき、前方からの車のドライバーは慌てて右にハンドルを切る。もしこの時ドライバーが私に気付かなかったらと思うとゾーとする。
一方左を歩いていれば事前に私の後姿も見えるだろうし、カーブを曲がった後で私を発見しても、その左カーブで車はセンターラインよりを走っている。イヤイヤ本心は、どうせ事故にあうなら恐怖を感じる間もなく突然あった方のが良い、そんな勝手な理由を付けて今も左側通行をしている。

 湯ヶ島から湯ヶ野の間には「踊り子歩道」と名付けた歩道があると聞いていたので、色々調べてみたが出発点は浄蓮の滝からと紹介している物ばかりだった。地図で調べてみるがこの国道の下には発電所へ行く道があり、上には与一坂と呼ばれている道もあるようだった。だがどちらも国道の途中から始まっていて、湯ヶ島温泉を出た当初は国道を歩かなければならないようだった。

 そのうちにバス停の名前が「与一坂」になってい所に着いた。左上に伸びている車道もある。ここが地図で確認した与一坂なのだろうが「踊り子歩道」とかの標識は無かった。
さて与一坂に入るか、それともこのまま国道を進むか悩んでしまった。
だが与一坂を見ると急な登りの坂が上に伸びている。一方国道はなだらかな登りの道が続いている。少し迷ったすえ結局距離も短く傾斜も緩い魅力に負けて国道を選んでしまった。なんとも情けない奴だ。

 右にホテルらしき建物が見えてきた。看板に「天城山荘」とある。
そこから二人の従業員が長靴を履き、手には軍手をはめて袋を持って国道を横断してきた。そして左の法面にある階段を登って行った。山菜でも採るのだろうかと思い私も連られて階段んを上る。
と、そこには「天城遊歩道」の標識が立っており「←湯ヶ島温泉2.05km 浄蓮の滝0.75km→」と書いてあった。

  
  天城山荘                           天城遊歩道の標識

 ラッキー!残りの距離は1kmも無いが、あの二人は私にとっては八咫烏の旅先案内人だった。更に標識の近くには古い石仏もあったから、この道が下田街道なのだろう。道理で国道沿いに石仏などが無かったはずだ。
ここにもう一つ記念碑が建っていた「踊り子と いえば 朱の櫛 あまぎ秋」映画監督の五所平之助の作だとある。きっと伊豆の踊子の映画を撮影した人なのだろう。

  
  天城山荘前の石仏                       五所平之助の句碑

 歩道と名がついていても車も通る道だが今は1台も走っていず国道の喧騒が嘘のようだ。だがそんな静けさも束の間で、じきに交通の多い車道に合流した。遊歩道の標識は車道を横断し先に進むようにになっている。でもこの車道は何処に向かっている道なのか? これが与一坂からの道なのか? それにしては交通量が多い気がする。でもマーいい。遊歩道の標識ははっきりしているのだから。
 再度静かな遊歩道を進むと何とまた交通量の多い車道に合流した。車道の先には今歩いている遊歩道とと同じような道がまだ延びている。また合流部にはバス停(岩尾)まであった。
 方向感が狂ったのか、何が何だか分からなくなってしまった。一度なら兎も角二度も車道に出るなど幾ら考えても分からない。そしてさらに困った事には今度は遊歩道の標識が建っていない事だ。ウーン!困った。右に行くべきが左に行くべきか、はたまた直進すべきか。
 右は登り坂で西に向かい、左は下りで東に向かっている。さらに前方には遊歩道らしき道も続いている。こうなれば仕方ない安全で原始的な方法で判断していこうと、右の上り坂の道を進むことにした。
何故かって? それはこれから天城を越えるのだから道は上り坂であるべきだし、車道なら最悪人に聞く事もできるからです。

 
  二度目の合流部

 前方の道が左に曲がっていて先が見通せなかったが、少し行くとカーブの先に車が何台も停まっているのが見えててきた。更に進むとバスも停まっていて、そこが大きな駐車場だと分かった。そして見えてきた看板には「浄蓮の滝」とあった。

 先に進む前にこの道を調べて結果を書いておきます。
まず二度も車道に出合った原因は、分かってしまえば何の事は無かった。天城山荘の横を通った国道は、その先のヘアピンカーブでUターンし最初の合流部に出ます。次にまた国道はUターンして二度目の合流部を過ぎて浄蓮の滝に向かっていました。言うなれば「Z]の字のような道の真ん中を遊歩道が通っていたことになります。なので遊歩道は随分近道だった事になります。

 次に二度目の合流部の先に伸びていた遊歩道と同じような道は、そのまま進むと浄蓮の滝から昭和の森に続く遊歩道に接続していました。だから正確には下田街道はこの道が正解だったようです。でも車道を歩いてよかった。あのまま遊歩道を歩いていくと浄蓮の滝に寄らずに昭和の森に行ってしまったのだから。

 次に湯ヶ島から始まる「天城遊歩道」について調べてみたら簡単に分かりました。伊豆市HPにも記載されていて天城遊歩道は「湯ヶ島温泉口-瑞祥橋-水恋鳥広場-天城山荘-浄蓮の滝」と続いていました。帰りのバスで天城山荘の前を通ったとき注意して見ていたら、天城山荘のバス停の横に狩野川に下りて行く方句を指した遊歩道の標識が建っていました。次回歩くときはこの遊歩道を歩いてみよう。

 

上倉沢棚田+α

2012-06-02 20:05:11 | ウォーキング
上倉沢の棚田ウォーク+α

 昨日の棚田コースだけででは、このブログを見てる方には短すぎて欲求不満になりかねません。
そこでもう少し距離を伸ばしたコースを紹介します。
イエイエご心配なく、無理に伸ばしただけではなく、中々楽しいコースですから是非歩いてみてください。


・棚田を見終わり間の宿に向かう途中を左折して西に向かう。
 場所はJRの下りと上りの線路を通過し、右側に農協の営業所と左に常夜灯のある交差点を左に曲がる。
 前方の橋を渡り、道なりに山に向かい農道を登って行く
・遠江33観音札所の25番岩松寺に着く。このお堂は歩き観音といわれ、小夜の中山からここまで、自分で歩いてきたというお地蔵さんです。お詣りすれば歩きのご利益があるかもしれませんね。
 
 松島の歩き観音                      歩き観音の案内板


・島田市と菊川市の市境の標識から10mほど先の左に壊れた標識があり、その指示に従い山道に入る。
 山に入るとハイキングコースの標識が要所要所にあるので、それに従い登って行く。
・途中の分岐の標識は無視して火剣(ひつるぎ)神社を目指して直登する。
・神社手前の広場の奥からは牧の原台地の眺めが良い。


・火剣神社の神社らしからぬ建物の横から小夜の中山への道がある(標識あり)
・途中で山道は終わり農道や太い舗装路を中山に進むが、いずれも標識がある。
・NTTのアンテナを左に見ながら進み「御上井戸」を過ぎると旧東海道の茶屋の前に出る。
 
  火剣神社                     小夜の中山の茶屋


・久遠寺を過た三叉路の左にある標識に右がハイキングコースと書いてあるが、その道はタンクで通行止め。
 次の溜池と民家の間の道を左折する。
・すぐ茶畑になり、T字になるが右側に曲がる。少し行くと左側に溜池と弁財天の祠がある。
・再度T字になるが左は林で猪の罠が仕掛けてある。右側は舗装された道だが、前方に「道幅狭し通行注意」の看板がある。
・入口は草が生い茂り嫌な感じだが、林の中は草も無く快適な山道で注意して歩かなければならない個所は無かった。
・途中この辺りでは珍しい連続した岩の道があるが、一枚岩なのだろうかと興味を覚えた。
・少し太い山道に合流。右も左も国1となっているので、この道が曾の「中山新道」と思われる。
・その道を西に行くと車道に合流する。標識には右は御林、左国道となっており左に曲がる。


 通行注意の山道入口         岩の山道            中山新道出合

・新旧の国道1号線の高架橋を渡り、旧国1の歩道に出て、中山トンネルを潜って行く
・トンネルを出た右側に子育飴の小泉屋の横に「夜泣石」の表示があるので、その階段を登る
・階段の上には夜泣石と菊石が置かれている
 
  新旧の国1の中山トンネル              子育飴の小泉屋

・さてどちらが本物の夜泣石でしょう? 
 
  久遠寺の夜泣石                     小泉屋上の夜泣石


・小泉屋から下って行くと左側に「喜多向地蔵尊」の看板があるので寄って行く。
・そこに菊石がある
・旧国1に戻り道を横断して民家に行く道に入り、すぐ右折していくと「中山新道」の説明板がある。
   
    中山新道の説明板

・旧国1に戻り東に下って行き橋を渡った先を菊川に行く道に入る。
・バイパスのガードを潜り間の宿のさんぽ亭(?)の標識に従い左の道を行く
・四郡橋を渡ると間の宿の休憩所になる。ここには菊石が置かれている
  
・さてどれが何処の菊石でしょう?

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手抜きでご免なさい。
若し明日ウォーキングを計画している人がいると困るので急ぎました。
「中山新道」については次回この道を歩いたとき話したいとおみます。