天城越え3-4
お吉が淵~下田
お吉が淵から旧道の街道を行く。右側に「日本一の総檜大浴場 伊豆下田河内温泉 千人風呂 金谷旅館」の看板が見えてきた。
この千人風呂は日帰り入浴もでき混浴だとは以前から聞いていていたが、まだ入った事はない。千人風呂で混浴となると青森県の酸ヶ湯温泉を思いだす。酸ヶ湯には入った事があるが、湯気でぼやけた広い浴室の中に、ぼんやり見える女性の裸身に気を取られ、落ち着いて入っていられなかった記憶がある。根が○○の私には、どうも混浴は向いていないようだ。
本郷橋の正面に尖り帽子の山が見えている。これが下田富士なのだろうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/51/22555d753ecf52a335d302b7ffce62d6.jpg)
千人風呂の金谷旅館 下田富士?
立野橋を渡るといよいよ下田の街の中に入ったのか海鼠壁の家が出てきた。1階の壁は伊豆石なのだろうか石の模様が浮き出て海鼠壁に調和している。海鼠壁とは「壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の継ぎ目に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る工法。その継ぎ目がナマコに似ていることから呼ばれた」のだそうだ。そういわれてみれば盛り上がった継ぎ目が海鼠に似てない事もないが、色が逆のように感じる。海鼠は黒っぽい色なのに海鼠壁の継ぎ目は白いのだから。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/c3/9bc2521859109f76f4d7db0bc7dc1afc.jpg)
海鼠壁の民家 1階が伊豆石?2階が海鼠壁の民家
バス停の名前が「反射炉跡」となっている。反射炉って韮山と同じような大砲を造っていた反射炉なのか。これは確認しなければと辺りを見回す。タイミングよくバス停横の小路の先に高年の女性二人が立ち話をしている。
「済みません。バス停が反射炉跡となっていましたが何処にあるのですか?」
「アーあのバス停ね。昔は反射炉があったけど今は何もなくてバス停の名前だけが残っているだけなの」アレーこの言葉のイントネーションは箕作出身の知人と同じだ。だがその話は後回しにしよう。今は反射炉だ。
反射炉のあった場所を確認すると
「バス停と川の間にあったのは分かっているけど、発掘調査をしても何も出てこなかったらしいですよ」
「いつの時代の反射炉だったのですか」
「ほら韮山の反射炉と同じで、伊豆の代官の江川太郎左衛門が韮山より前にここに建てたけど、黒船が下田に来たので慌てて韮山に移転したらしいですよ」と教えてくれた。
中々歴史に詳しい方で最後に「貴方のように時々反射炉の事を聞く人がいるので、市も案内板を建てればいいのにね」全くその通りです。
でもお蔭で疑問が一つ解決した。韮山の反射炉は内陸部にあり、そこで重い大砲を造っても、それを江戸まで輸送するのは大変だったと思う。先ず反射炉から狩野川まで陸路で運び、次に狩野川を下って沼津まで行き、沼津からは海路で江戸まで運んだのだから時間も金も掛かっただろう。
初めは韮山は伊豆代官のお膝元だったので、そこに反射炉があっても疑問は感じなかった。だが今回反射炉の付近を歩いて運搬の大変が分かり、なぜこんな内陸部にと疑問が湧いていた。その疑問が、黒船来航を受けて反射炉を異人の目から避けるため、海岸から離れた伊豆の内陸部に異動したと聞き納得できた。
下田の人の話し方は方言があると言うより喋り方に特徴があって、話し流れに節があり、上がったり下がったりするように感じる。私の受けた感じは京言葉に似ているように思ったので「下田は昔、京からの流人がいたので、そのイントネーションが残っているのでは」と知人に言ったが、そんな事を言ったのは私だけだと笑っていた。
もう一人同じようなイントネーションで喋る人がいた。その人は大井川沿いの鉄道の終点千頭より更に奥の出身の人で、私はその人に「先祖が平家の落人だから、都の喋り方が残っている」と言ったが、こちらも笑われしまった。
尤も下田の人がすべてそのようなイントネーションだという事ではなく、現にもう一人の婦人の喋り方は私と同じだった。
バス停反射炉跡の次のバス停は前回紹介した「高馬」のバス停だった。高馬は何と読むのでしたっけ?
そう「たこうま」でしたよね。
バス停には間違いなく「たこうま」と平仮名のルビが振ってあったが、ローマ字の表記は「T AK UMA」となっている。何「たくま」? でもKの後ろが一文字分開いているので「O」が剥げてしまったのか? いやそれではTの後ろも一文字分開いている。これは何だ? まるでミステリーだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/9c/4f510cfa5e0d85b0634c9cfc9a9c81d1.jpg)
バス停反射炉跡 バス停高馬
バス停の反射炉跡と高馬の間に「御神燈」と彫られた常夜灯が建っていた。いやこれを常夜灯と呼んで良いのだろうか? 普通の常夜灯なら火を灯す火袋が必ずあるのに、ここにある御神燈はその部分が平たい石になっている。これでは火は灯せない。
これと同じ常夜灯は湯ヶ島の菊の御紋や化石があった祠にもあった。何か意味があるのか、それとも単なる手抜きの飾りの常夜灯なのだろうか。
それにしてはここの御神燈はしっかりしていて、飾りで設置したとはとても思えない。常夜灯の横を見ると「文政十丁亥歳」と読めるから江戸時代の物だった。
オヤー民家の庭の高台に宝篋印塔(ほうきょういんとう)と地蔵像がある、どちらも古ぼけていて、何かいわくがありそうな代物だ。自分の下調べ不足を棚に上げて言うのも何だが、下田市ももう少し街道の遺物に対して説明してくれると助かるのだが。、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/fb/33c2a9cf4b5bd68978ab15d10553bedf.jpg)
御神燈 宝篋印塔
いよいよ下田の街中に近づいてきたようで、左手には寝姿山が見えている。右から顔、胸、腹と辿って行けば寝姿に見えない事もない。右には先ほどの尖った山がより一層近くに見えるようになった。この山が下田富士か気になり、歩いていた人に確認すると、間違いなく下田富士だった。しかも山頂まで歩いて行けると言う。一瞬その気になったが時間はすでに4時半になっていた。予定では4時には街道終点の湊橋に着く事になっていたので1時間近くは遅くなっている。今回は下田富士は諦めよう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/b9/b194f486d9ce3763564a697c8a898a19.jpg)
寝姿山 下田富士
左側に線路が何本も見えてきて、いよいよ伊豆急下田駅だ。信号のある交差点の横に寺があったので、街道歩きの無事を感謝してお詣りしよう(実際は少し休みたかった)と境内に向かう。山門の左に「日露談判下田最初の応接所跡」の石碑が建っていた。
日露談判とは安政元年にロシアと締結した「日本國魯西亞國通好條約(日露和親条約)」のことで、この交渉で今問題となっている北方領土の最初の取り決めが行われた。
難しい話はさておき、この交渉を下田でしている時に安政の地震が発生し、ロシア交渉団の乗ってきたディアナ号船が難破して帰国できなくなってしまった。そこで江戸幕府は西洋帆船の技術習得になると、伊豆の戸田へディアナ号を回漕し修理をしようとしたが、またもや途中で嵐にあいディアナ号は難破してしう。
この時乗組員500人を助けたのが現在の富士市の漁民たちだったという。
幕府は再度伊豆戸田において、我国最初の西洋帆船の造船をロシアの乗組員の協力の元完成させる。完成した船は「ヘダ号」と名付けたが、500名の乗組員を載せる規模の船ではなかったので、残りの乗組員は迎えに来たロシア背で帰国したとか、アメリカの貨物船で帰ったとかの節もあるようです。
早々話を戻して下田駅横の福泉寺の応接所跡とは、談判を行った場所ではなく、ロシア船の乗組員が一時避難した寺ではないだろうか。
伊豆で開国と言うと、すぐハリスのアメリカを連想してしまうが、このように伊豆はロシアとも関連が深い。今後のロシアと北方領土交渉をするなら、ここ伊豆で行えばロシア側は借りがあるだけ思わぬ妥協をしてくれるかもね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/c5/849e00a768472a1116c7feb7e7e912b1.jpg)
談判所跡の石碑 福泉寺の地蔵
下田駅の前を通り国道の橋に向かう。アレー橋の手前にある交差点の名前は中島橋になっている。確か下田街道の起点はみなと橋のはずだ、それではもう一本海側の橋だろうと勝手に解釈して川沿いを下って次の橋へ向かう。
16時45分みなと橋到着。予定より45分も遅れてしまった。これでは下田市内の寺巡りも出来ないし、今が丁度盛りの下田公園の紫陽花見学も無理だろう。仕方ないこのまま下田駅に向かおう。
そうそうみなと橋の右岸には下田街道起点の標識は見当たらなかった。
下田駅で藤枝駅までの切符を3450円で購入。朝は藤枝から修善寺まで1780円、それと水垂までのバス代1370円なので今日の交通費は6600円掛かっている。
それが東海道で一番遠い草津から京都を歩いた時は、青春18切符を利用したので交通費は2300円で済んだ。何たる違いだ。
同じ静岡県でも伊豆はJRが乗り込んでいず、バスの多いので交通費がかかり過ぎてしまう。駅からウォークとか駅から遍路を目指している私としては何ともやるせない事だ。
伊豆には横道33カ所観音巡りや、伊豆88ヶ所霊場巡りなど魅了ある遍路コースもあるが交通費がネックで躊躇してしまっている。
電車の中で氷結で乾杯しながら、次回の街道歩きは何処にしようか空想しながら帰るのも楽しかった。
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みなと橋 伊豆急下田駅
お吉が淵~下田
お吉が淵から旧道の街道を行く。右側に「日本一の総檜大浴場 伊豆下田河内温泉 千人風呂 金谷旅館」の看板が見えてきた。
この千人風呂は日帰り入浴もでき混浴だとは以前から聞いていていたが、まだ入った事はない。千人風呂で混浴となると青森県の酸ヶ湯温泉を思いだす。酸ヶ湯には入った事があるが、湯気でぼやけた広い浴室の中に、ぼんやり見える女性の裸身に気を取られ、落ち着いて入っていられなかった記憶がある。根が○○の私には、どうも混浴は向いていないようだ。
本郷橋の正面に尖り帽子の山が見えている。これが下田富士なのだろうか?
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千人風呂の金谷旅館 下田富士?
立野橋を渡るといよいよ下田の街の中に入ったのか海鼠壁の家が出てきた。1階の壁は伊豆石なのだろうか石の模様が浮き出て海鼠壁に調和している。海鼠壁とは「壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の継ぎ目に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る工法。その継ぎ目がナマコに似ていることから呼ばれた」のだそうだ。そういわれてみれば盛り上がった継ぎ目が海鼠に似てない事もないが、色が逆のように感じる。海鼠は黒っぽい色なのに海鼠壁の継ぎ目は白いのだから。
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海鼠壁の民家 1階が伊豆石?2階が海鼠壁の民家
バス停の名前が「反射炉跡」となっている。反射炉って韮山と同じような大砲を造っていた反射炉なのか。これは確認しなければと辺りを見回す。タイミングよくバス停横の小路の先に高年の女性二人が立ち話をしている。
「済みません。バス停が反射炉跡となっていましたが何処にあるのですか?」
「アーあのバス停ね。昔は反射炉があったけど今は何もなくてバス停の名前だけが残っているだけなの」アレーこの言葉のイントネーションは箕作出身の知人と同じだ。だがその話は後回しにしよう。今は反射炉だ。
反射炉のあった場所を確認すると
「バス停と川の間にあったのは分かっているけど、発掘調査をしても何も出てこなかったらしいですよ」
「いつの時代の反射炉だったのですか」
「ほら韮山の反射炉と同じで、伊豆の代官の江川太郎左衛門が韮山より前にここに建てたけど、黒船が下田に来たので慌てて韮山に移転したらしいですよ」と教えてくれた。
中々歴史に詳しい方で最後に「貴方のように時々反射炉の事を聞く人がいるので、市も案内板を建てればいいのにね」全くその通りです。
でもお蔭で疑問が一つ解決した。韮山の反射炉は内陸部にあり、そこで重い大砲を造っても、それを江戸まで輸送するのは大変だったと思う。先ず反射炉から狩野川まで陸路で運び、次に狩野川を下って沼津まで行き、沼津からは海路で江戸まで運んだのだから時間も金も掛かっただろう。
初めは韮山は伊豆代官のお膝元だったので、そこに反射炉があっても疑問は感じなかった。だが今回反射炉の付近を歩いて運搬の大変が分かり、なぜこんな内陸部にと疑問が湧いていた。その疑問が、黒船来航を受けて反射炉を異人の目から避けるため、海岸から離れた伊豆の内陸部に異動したと聞き納得できた。
下田の人の話し方は方言があると言うより喋り方に特徴があって、話し流れに節があり、上がったり下がったりするように感じる。私の受けた感じは京言葉に似ているように思ったので「下田は昔、京からの流人がいたので、そのイントネーションが残っているのでは」と知人に言ったが、そんな事を言ったのは私だけだと笑っていた。
もう一人同じようなイントネーションで喋る人がいた。その人は大井川沿いの鉄道の終点千頭より更に奥の出身の人で、私はその人に「先祖が平家の落人だから、都の喋り方が残っている」と言ったが、こちらも笑われしまった。
尤も下田の人がすべてそのようなイントネーションだという事ではなく、現にもう一人の婦人の喋り方は私と同じだった。
バス停反射炉跡の次のバス停は前回紹介した「高馬」のバス停だった。高馬は何と読むのでしたっけ?
そう「たこうま」でしたよね。
バス停には間違いなく「たこうま」と平仮名のルビが振ってあったが、ローマ字の表記は「T AK UMA」となっている。何「たくま」? でもKの後ろが一文字分開いているので「O」が剥げてしまったのか? いやそれではTの後ろも一文字分開いている。これは何だ? まるでミステリーだ。
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バス停反射炉跡 バス停高馬
バス停の反射炉跡と高馬の間に「御神燈」と彫られた常夜灯が建っていた。いやこれを常夜灯と呼んで良いのだろうか? 普通の常夜灯なら火を灯す火袋が必ずあるのに、ここにある御神燈はその部分が平たい石になっている。これでは火は灯せない。
これと同じ常夜灯は湯ヶ島の菊の御紋や化石があった祠にもあった。何か意味があるのか、それとも単なる手抜きの飾りの常夜灯なのだろうか。
それにしてはここの御神燈はしっかりしていて、飾りで設置したとはとても思えない。常夜灯の横を見ると「文政十丁亥歳」と読めるから江戸時代の物だった。
オヤー民家の庭の高台に宝篋印塔(ほうきょういんとう)と地蔵像がある、どちらも古ぼけていて、何かいわくがありそうな代物だ。自分の下調べ不足を棚に上げて言うのも何だが、下田市ももう少し街道の遺物に対して説明してくれると助かるのだが。、
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御神燈 宝篋印塔
いよいよ下田の街中に近づいてきたようで、左手には寝姿山が見えている。右から顔、胸、腹と辿って行けば寝姿に見えない事もない。右には先ほどの尖った山がより一層近くに見えるようになった。この山が下田富士か気になり、歩いていた人に確認すると、間違いなく下田富士だった。しかも山頂まで歩いて行けると言う。一瞬その気になったが時間はすでに4時半になっていた。予定では4時には街道終点の湊橋に着く事になっていたので1時間近くは遅くなっている。今回は下田富士は諦めよう。
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寝姿山 下田富士
左側に線路が何本も見えてきて、いよいよ伊豆急下田駅だ。信号のある交差点の横に寺があったので、街道歩きの無事を感謝してお詣りしよう(実際は少し休みたかった)と境内に向かう。山門の左に「日露談判下田最初の応接所跡」の石碑が建っていた。
日露談判とは安政元年にロシアと締結した「日本國魯西亞國通好條約(日露和親条約)」のことで、この交渉で今問題となっている北方領土の最初の取り決めが行われた。
難しい話はさておき、この交渉を下田でしている時に安政の地震が発生し、ロシア交渉団の乗ってきたディアナ号船が難破して帰国できなくなってしまった。そこで江戸幕府は西洋帆船の技術習得になると、伊豆の戸田へディアナ号を回漕し修理をしようとしたが、またもや途中で嵐にあいディアナ号は難破してしう。
この時乗組員500人を助けたのが現在の富士市の漁民たちだったという。
幕府は再度伊豆戸田において、我国最初の西洋帆船の造船をロシアの乗組員の協力の元完成させる。完成した船は「ヘダ号」と名付けたが、500名の乗組員を載せる規模の船ではなかったので、残りの乗組員は迎えに来たロシア背で帰国したとか、アメリカの貨物船で帰ったとかの節もあるようです。
早々話を戻して下田駅横の福泉寺の応接所跡とは、談判を行った場所ではなく、ロシア船の乗組員が一時避難した寺ではないだろうか。
伊豆で開国と言うと、すぐハリスのアメリカを連想してしまうが、このように伊豆はロシアとも関連が深い。今後のロシアと北方領土交渉をするなら、ここ伊豆で行えばロシア側は借りがあるだけ思わぬ妥協をしてくれるかもね。
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談判所跡の石碑 福泉寺の地蔵
下田駅の前を通り国道の橋に向かう。アレー橋の手前にある交差点の名前は中島橋になっている。確か下田街道の起点はみなと橋のはずだ、それではもう一本海側の橋だろうと勝手に解釈して川沿いを下って次の橋へ向かう。
16時45分みなと橋到着。予定より45分も遅れてしまった。これでは下田市内の寺巡りも出来ないし、今が丁度盛りの下田公園の紫陽花見学も無理だろう。仕方ないこのまま下田駅に向かおう。
そうそうみなと橋の右岸には下田街道起点の標識は見当たらなかった。
下田駅で藤枝駅までの切符を3450円で購入。朝は藤枝から修善寺まで1780円、それと水垂までのバス代1370円なので今日の交通費は6600円掛かっている。
それが東海道で一番遠い草津から京都を歩いた時は、青春18切符を利用したので交通費は2300円で済んだ。何たる違いだ。
同じ静岡県でも伊豆はJRが乗り込んでいず、バスの多いので交通費がかかり過ぎてしまう。駅からウォークとか駅から遍路を目指している私としては何ともやるせない事だ。
伊豆には横道33カ所観音巡りや、伊豆88ヶ所霊場巡りなど魅了ある遍路コースもあるが交通費がネックで躊躇してしまっている。
電車の中で氷結で乾杯しながら、次回の街道歩きは何処にしようか空想しながら帰るのも楽しかった。
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みなと橋 伊豆急下田駅