はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

秋葉道&塩の道 5

2012-10-30 09:56:17 | 塩の道
塩の道の遠州部分の最終回を明日と明後日にかけて歩いてきます。

行程の初日は前回の最終地の西渡から水窪まで。
2日目は水窪から遠州・信州の国境の青崩峠を越えて和田までを考えています。
本来なら日帰りを繰返して歩きたいのですが、何しろ交通の便が悪く我家からでは水窪には昼頃しか着きません。
しかも水窪~和田間の22kmほどは山越えで、その区間はバスも走っていません。
と、なるとどうしても途中で1泊するしかないようです。

4回目を歩いた後で秋葉神社を地図で確認すると、変な思い込みさえなければ間違えないで済んだような道でした。
今回はその轍を踏まないように、ネットでは地図以外の検索をしませんでした。

歩きの為の宿泊となると四国遍路以来初めての事で嬉しいような少々面倒くさいような-----

塩の道&秋葉道(相良-掛川4)

2012-10-29 15:21:26 | 塩の道
塩の道&秋葉道(相良~掛川4)                    歩行月日2012/10/2

歩行記

 
     応殸教院の山門                  山門の案内板

応殸教院の山門は国の重要文化財に指定されていた。案内を読みと
「この山門は、徳川三代将軍家光が生母追善供養のため静岡市宝台院の山門として
創建されたもので、八脚門の桃山時代の風格を持つ東海地方第一の山門であります。
大正7年宝台院より当山に移築され小笠郡下で最初に国の重要文化財として指定を受けました」

どうも私は野次馬根性が強いのか山門の八脚門より、国の重要文化財に指定されるような価値のある物を
何故宝台院では手放したが気になった。

宝台院は静岡市の駅の近くにあるある代表的な寺で、明治維新には徳川慶喜が謹慎していた寺でも知られている。
宝台院のHPを見ると宝台院は昭和15年の静岡火災で国宝の本堂などが焼失し、昭和20年には戦火にもあって
いたが、山門はそれ以前の大正時代に応殸教院に移築され無事だったようだ。しかしHPにはこの事は書いて無く、
ただ大正7年は「米騒動で境内に約1,200人の民衆が集まる」と記載されていた。
この米騒動が影響して山門を移築した?分からない 次回宝台院か応殸教院へ参拝したときは聞いてみよう。

それよりHPを見て気が付いたのだが応殸教院の案内板には山門について「徳川家光が生母追善供養のため
静岡市宝台院の山門として創建されたもの」
と説明している。
だが宝台院では「宝台院は、徳川家康公の側室お愛の方(西郷の局)の菩提寺です。西郷の局は、27歳より
家康公に仕え、家康公が最も苦難にあった時の浜松城の台所を仕切った人で、三河武士団に最も人望のあった
糟糠の妻だった方です。また、二代将軍徳川秀忠公、尾張の松平忠吉公の生母でもあります」
とある。

ウー!これでは西郷の局は二代将軍秀忠と三代将軍家光を産んだことになってしまう。
これは調べるまでもなく、家光の生母は昨年大河ドラマの主人公だった「江」であって西郷の局ではない。
案内板を建てた菊川市の教育委員会は何か勘違いをしたのだろう。

  
 蛙の面に小便                 河童天国            のんべえ地蔵

それにしても応殸教院は面白い寺だった。参道には双体の道祖神が並び、山門の前には何故か巨大な蛙が
鎮座している(無事カエルを意味しているのかな)。境内に入るとあちこちに石仏があり中でも「蛙の面に小便」
とか小島功の「河童天国」にそっくりの河童たち。「のんべえ地蔵」の額のある樽の小屋もある。その中には
「松竹梅」
「花の舞」が置いてある。どうせ置くなら河童天国の「黄桜」を置けばよいのにと思ってしまった。

  
 お茶地蔵             観音像                 水子供養

まだまだある。なぜお茶地蔵なのか柿の実の表面に地蔵を彫ってある置物。これは茶壺?それとも茶の実?
小さな観音像を幾つも並べた棚の前には七福神や蛇の水石まで置いてある。これは水子供養かと思ったが
違った。水子供養は本堂の裏の大きな地蔵の下に小さな地蔵の置物が一杯置いてあった。
今までに色々な寺を廻ったが、これほど雑多な石仏を置いてある寺は初めてだった。
余程住職が石の置物が好きなのだろう。

   
     山門の標識                   裏参道の石碑

帰りがけに山門に掲げられている表示を眺めて見た。「皇円阿闍梨菩提所・遠州桜が池奥の院真跡・法然上人
番外霊場・皇円.法然.親鸞.熊ヶ谷各上人御旧跡・愛染明王尊霊場・遠州七不思議史蹟・のんべえ地蔵尊霊場・
遠江十二支霊場」
と簡単に書いてもこんなにある。沢山過ぎて有難味が薄れてしまう感じだ。

また裏参道も石碑には「櫻池真蹟」とか「さくらがいけ五里」とか彫ってある。どうやら桜が池と因縁があるようだが
何だろう? 桜が池とは塩の道より南の海寄りの所にある池で、近くには浜岡原子力発電所がある。
また、桜が池では赤飯の入ったお櫃を池に沈め、来年の豊作を占う行事がある事で知られているが、そのお櫃が
諏訪湖に浮かんだので、桜が池と諏訪湖は地中で結ばれているもといわれている。
でも奥の院の話は聞いた事はなかった。桜が池と応殸教院か、それに遠州七不思議など気になる事が幾つか
あるので、いつかここ応殸居員と桜が池を尋ねてみよう。


                          色々な鞘堂

途中にあった秋葉神社の常夜灯の鞘堂は古い物から新しい物まで色々ある。鞘堂とは建造物を守るため、
外側から覆うように建てた建物で中尊寺の金色堂の鞘堂が有名だ。
だが常夜灯を鞘堂で覆ったら常夜灯本来の照らす減少してしまし、しかも石でできた常夜灯より立派鞘堂もある。
中には瓦の屋根に留蓋までついていたり、透かし彫りのような彫刻を施した鞘堂まである。
鞘堂の中を覗き込むと、確かに石作りの常夜灯が入っている時もあるが、中には火を灯す設備だけの物、
秋葉山のお札を祀ってある物、小さな社が置いてある物など色々ある。
写真の左端の鞘堂は今にも崩壊してしまいそうだが、元は立派な鞘堂で屋根には留蓋まである。
しかし中を覗くと何も入っていなかった。


          留 蓋                                 鞘堂の中身

季節外れのお茶の香りがしてきた。そう言えば今日歩いている途中で何度となく乗用型茶刈機でお茶摘みを
している風景を見た。こんな時季なので春の新茶のため茶の木の整枝をしているのかと思ったら、茶刈機に
布袋を付けてお茶の葉を集めている。不思議に思って手伝いをしていた農家の人に尋ねると
「このお茶は秋番茶とか秋冬(しゅうとう)番茶と言って製茶します」と教えてもらった。
掛川茶はTVの「ためして合点」で紹介されたあと、深蒸し茶が有名になり売れ行きを伸ばしていると聞く。
そんな事もありこんな時期でも茶摘みをするようになったのだろうか?

今日の道は最初牧の原台地への登りの園坂があっただけで、あとは平坦な道だった。だがこれから掛川へ
入るには「陣場峠」を越さなければならない。と言っても海抜108m程度で、標高差は50mも無いので簡単に
峠に着く。
峠と言っても尾根の鞍部ではなく頂にある峠で、塩の道がわざわざ山頂まで登るのか理解できなかった。
峠には掛川市の案内板があり
「今川氏真が駿府を追われ掛川城に入ったので徳川家康は掛川城を攻めた。
その際この山上を陣地として6ヶ月にわたって掛川城を攻めたので陣場峠と呼ばれるようになった。

 
  陣場峠から掛川の街          陣場峠のモニュメント        峠からの下り道

峠から掛川市街が良く見えた。ただ今は樹木の影響で掛川城は見えなかったが、家康の時代なら当然
樹木を切り払っただろうから城内の様子は良く見えただろう。見張所を兼ねた陣地としては最適な
場所だと思った。だが案内板にあるように6か月もの間、塩の道の峠を陣地で占領し、通行止めにしたら
住民は困らなかっただろうか? 
住民は峠を通した? まさかナ それでは陣地の様子が敵の今川方に筒抜けになってしまう。
では真相は! 土台住民の生活道として使われていた道が、わざわざ山頂経由であるわけはない。
ガイドブックや道標はここを塩の道としているが、実際の塩の道は別にあったのではないか。
もっと楽な山の低い場所を通る道が。それが私の感想だ。

陣場峠から塩の道はガイドブックには西に延びているが、旧道は「通行可能・ただし草薮」となっている。
ブログなどを見ると、この峠から先の旧道が分かりずらいとか、藪漕ぎをするなどと不安を煽っている。
さてどうしようと旧道と思しき西に延びる踏み跡の先を見ると、草が生い茂り蜘蛛の巣が二重三重に。
これを見て急に気持ちが萎えてしまい旧道は諦めてしまった。でもそれに代わる道は------

今まであった塩の道のモニュメントは前後の行先を指す表示がされていたのに、ここの物は今まで歩いてきた
菊川への表示はあったが、これから行く掛川方面の行先表示が付いていない。
では研究会の道標はと探してみたが見当たらない。
アレー行けにという事なのか? でも峠の下の道標には峠への矢印が
有ったのに、ここまで誘い込んで後は無視なのか それは無いよなー で、頂の先の方に行ってみると--- 
有りました。結構急な斜面にコンクリの擬木を使った階段が残っていました。


                 手掘りのトンネル

陣場峠を越せば掛川の街は目の前だ。
ガイドブックに東名のガードを越した辺りに「素掘りのトンネル」があると書いてある。
このトンネルもブログには、蛇が居そうとか崩れそうとか書いてあったが、ともかく見るだけは見て、
通る通らないはそれから決めようと思っていた。
東名のガードを越した所の高台で畑仕事をしていた人にトンネルの場所を聞くと
「子供の時に通ったけど、今は通れるかなー」と言いながらも口で説明するではなく、先に立って歩き出した。
そして県道に下りてすぐの藪の中に入りだした
「エーこの先にあるのですか、それじゃ―止めますからいいですよ」
「なに ここがそうだよ。子供の頃はもっとデカかったと思ったが案外小っちゃいよな」
と葛の蔓が絡んだ先を指す。
そこにはポッカリ開いた穴があった。県道からほんの数mの所だが何故か静かな雰囲気を漂わせる場所だった。
蔓を掻き分けトンネルの入口に立ち中を覗き込むが短いせいか明るく底も平らで歩くには支障はなさそうだ。
トンネル自体はしっかりした岩なのか崩壊の痕跡は無い。これなら通っても大丈夫と判断し、案内をしてくれた人に
礼を言ってトンネルに入った。ペンライトを付けたが余り役には立たなかったが平らで草も生えてなく支障はない。
でトンネルを抜け出てみると、そちら側には「崩壊注意」の看板が建っていた。
そしてこちら側の方が草に覆われていて、如何にも蛇でも出そうな雰囲気がする。ブログの人はこちら側から
トンネルを見たのだろう。

掛川に入る前にもう一つ見ておきたい物がある。矢張りガイドブックに「キリシタン燈籠」と紹介されていて、
トンネルとは反対側の県道の西の大日寺の境内にあるようだ。
トンネルから県道に戻り再度東名まで戻って西の道に入り、挙張神社の横の細い道に入る。
左に寺の壁、右に石仏が並ぶ雰囲気に良い道を行くと、お坊さんが道の掃除をしていた。
挨拶をしてキリシタン燈籠の場所を確認すると
「この相良街道を少し戻った所から寺の入口に入り、境内の左側にあります」と教えてくれた。
成程この辺りでは秋葉道でも塩の道でもなく相良街道か。そして相良ではきっと掛川街道と言ったのだろう。
確かにその方が自然な感じがする。

    
   キリシタン燈籠                  塩町の交差点

「江戸時代中期の作と思われる。明治の初め、当寺の東側を通る旧相良街道の傍らに、半ば土に埋もれて
いた物を掘り出した。江戸時代徳川幕府がキリスト教禁止令を布告し、禁制が厳しくなったため土中に
埋めたと考えられる」
 確かにこれでは誰が見ても仏教や神道用とは思わないだろう。
燈籠下部に刻まれた人の姿は何となく聖母マリアに見えなくもないし、燈籠上部の刻印は漢字にも梵字も
みえず、これもアルファベットを図案化したようにも見える。
私は当初キリシタン燈籠とは、寺や神社の燈籠を模った物に、聖母マリアかキリシタンの呪文を隠して
彫ってあるのかと思っていた。
でもこの燈籠では人目に晒すことは出来なかったろう。土の中に埋めたのも頷ける。

案内板には「江戸中期の作」「禁制が厳しくなったので土中に埋めた」とあるがどうだろう。
徳川幕府がキリスト教の禁止令を出したのは2代将軍家忠で、島原の乱が起きたのも3代将軍家光の時代だ。
となるとこの時代は江戸時代中期ではなく初期の時代に当たる。
若しこの石灯篭が江戸中期の作なら禁制が厳しくなったから埋めたのでなく、当初から土の中に埋めて、
その上に何か神仏に関係する物を建てて、あたかもそれをお参りするようにして土中の灯篭をお参りしていた
のではないか。妄想的歴史観は今日も快調だ。

JRのガードを潜ると「塩町」に入る。
この辺りに昔は塩問屋が何軒もあったようだが今はその面影は無い。
さて今日はここまでとして掛川駅に向かおう。そして塩の道1回目の観歩の乾杯をしなければ。



塩の道&秋葉道(相良-掛川3)

2012-10-26 15:59:20 | 塩の道
塩の道&秋葉道(相良~掛川3)                    歩行月日2012/10/2

歩行記

 
  溜池の先に塩の道の分岐が見えた           研究会の道標

昔は塩買坂は正林寺に向かって直接延びていたようだが、今は車道を西に下り途中から細い農道に入り
北に向かったあと県道に合流したら、更に今度は正林寺のある東に戻る随分遠回りの道になっている。
その最初の農道に入る道が不安だったので、ネットで溜池の先を右折するのを確認してある。
その溜池と農道が前方に見えてきた。と同時にそこには小さいながらも白い縦長の標識も立っている。
あれは研究会の道標に違いないと近づいて見ると、まさしく塩の道の道標だった。
これならもう事前にネットで道を確認す必要もなさそうだ。

細い農道を下り始めると四辻にまた道標が立つっている。有りがたい事だとチラリと道標の矢印を見て左に
進んで折角下った道をまた登り出す。しかも今別れたばかりの車道の方に向かっている。
アー矢張り車道に出てしまった。矢印を見間違えてしまったようだ。四辻まで戻り道標の矢印を確認すると、
ウーン何とも言えない感じだ。さっき私は標識の手前から歩いてきたので、標識の「秋」の字の方の矢印から
来て上に伸びる矢印に向かった。だが戻って下側から見れば、私の来た道は上の矢印で、向かう方向は下の
矢印だとも見える。見る位置によって微妙に方向が変わってしまうようだ。
でもガイドブックで確認すれば間違える事はない。
それ以後も判じ物のような矢印が何ヵ所もあったが、不安に思ったらガイドブックを確認すれば問題なかった。

   
  正林寺本堂                       正林寺観音堂                      

ようやく遠江33観音の札所でもある正林寺に到着。
正林寺は塩買坂で討死した今川六代当主義忠の菩提を弔うため、嫡子氏親が父義忠の追善のため建てた
寺が始まりで、当初の昌桂寺が昌林寺、次に正林寺と寺名が変換して今日に至っている。
この氏親が六代目当主になる時に、叔父の北条早雲の力を借りた話は「木喰仏を訪ねて」の石脇城跡で
紹介しましたので、ここでは塩買坂で義忠が討死した背景を少し紹介しておきます。

応仁元年(1467)に応仁の乱が始ると、義忠は将軍足利義政の警護のために上洛し東軍に付いた。
一方遠江守護職の斯波氏は西軍に付いたため、これを攪乱すべく義忠は、駿河に帰国し斯波氏と交戦状態と
なった。文明8年(1476)遠江の国人横地氏(菊川市)と勝間田氏(榛原町)が義忠に背き斯波氏に内通した
のをみてこれを討ち取り、その帰途の塩買坂で横地氏と勝間田氏の残党に不意を襲われた。享年41才。

        
  今川義忠の墓の祠             今川義忠の五輪塔

今川義忠の墓は、嫡子の今川家中興の祖ともいわれる氏親が建てた割には余りにもお粗末な五輪塔だった。
もっとも静岡の増善寺にある氏親自身の五輪の塔も、お世辞にも立派とは言えない物だが、この当時の人は
墓に見栄を張らなかったのだろうか。
(今年我家では墓地を購入したが、思い描いている墓は両人の墓より高そうな物になりそうだ。いいのかな?)

  
  今川廟(静岡増善寺)               氏親の墓

話は変わって、義忠の孫にあたる今川義元が桶狭間で織田信長に討たれたあと、今川家は弱体し義元の子の
氏真の代で今川家は滅亡してしまった。なのに当主の義忠が討ち取られ、相続問題が発生したのにも関わらず、
氏親の代では今川は更に大きくなった。その違いは何だろう。ここからはまた私の妄想的歴史観になります。
・負けた時の兵力の違い
 義忠は今川家の兵力の一部で500人。義元は2万余の全勢力が壊滅的打撃を受けた
・周囲の敵の状況
 義忠の時は遠江に斯波氏の勢力があったが弱体していた。義元の時は織田、徳川、武田の強敵がいた。
・保護者の有無
 義忠の子・氏親は叔父の伊勢新九郎(北条早雲)がいた。氏真は舅の北条氏康がいたが援助が限定的だった。
これらの状態が重なり氏親は今川家の勢力を増大し、氏真は今川家を滅亡させてしまったのだろう。

  
  いちんばの常夜灯       数字のバス停         川中のお地蔵様
  
正林寺からの坂を下り平らな道になると民家が増えてきた。その中に「いちんば(市場)」の常夜灯が立っていた。
先ほど見た三夜燈に比べ、こちらの常夜灯の方が太くてしっかりしているが、角ばった格好は似ている。
秋葉神社式常夜灯という形式の常夜灯はあるのだろうか、有れば面白いのだが。

バス停に数字が書いてある。この数字は何に使うのだろう? まさかバス停の名前?それは無いだろうな、
私のように自分の車のナンバーも覚えられ人間にとっては、数字だけでは混乱してしまいそうだ。
なら、整理券番号? ウーン分からない。

川の土手に「川中のお地蔵様」があった。覗いてみると赤い毛氈の幕が張って花も活けられている。
今日最初に見た馬頭観音もそうだったが、この辺りの人は古仏を大事にしているようだ。

小笠町の街中に入る手前で、今まで西に向かっていた塩の道は北北西に進路を変える。
ここまで相良から約13kmの道を牧の原台地の園坂や塩買坂を越えてやって来た。
だがここを南に向かえば8kmほどで大きな砂丘のある海岸に出る。しかも坂はなく平坦な道だ。
なら何故塩をその砂丘で作らず、わざわざ相良で作ったのか疑問に感じていて、以前ブログに書いたら
「この辺りの地形は江戸時代の宝永地震で大きく隆起した結果砂浜ができた」と教えてもらった。
確かにここより少し西にある横須賀城跡の案内に、横須賀(旧大須賀町)にあった入江の港は地震で
陸地となり使用不能となったとあった。だが宝永地震は1707年に起きているので、塩を道が利用されて
いた明治維新までは、地震から160年余もある。それなのに何故近くの浜で塩の製造をしなかったのだろう。
歩きながら考えていると色々な事が思いついた
・相良の浜は駿河湾に面していて波が静かだが、ここのは太平洋の遠州灘に面し潮の流れが速く波が荒い。
・相良海岸は遠浅で夏は海水浴場になるが、この辺りの浜には海水浴場は無い(遠浅でない?)
・塩を煮詰める燃料は相良では浜の後背地で調達できるが、ここは隆起した平坦な土地で近くにない。
・相良には漁港があり塩と一緒に魚介類も運搬できるが、この辺りに漁港は無い。
強引にこじつけた感じもするが、これらが原因して小笠の浜では塩が作られなかった事にしよう。

  
 半鐘              半鐘              黒田邸の案内板

半鐘といえば普通は高い火の見櫓の上にある物だが、ここでは火の見櫓がなく低い所に半鐘が付いていた。
近くに消防団の詰所も見当たらないので、火事の火を見ながら鳴らすのではなく伝達用の半鐘か?
次に有った半鐘は先ほどの物より若干高い位置にあるが、火事を見ながら鳴らす程でもない。
現実には火の見櫓から火事を見付ける事はなさそうなので、高い所に登らないで済むこの方が合理的か。

「代官屋敷 黒田邸」の看板が建っていた。確か国指定の重要文化財で梅の花で有名な所だ。
その看板に100mとあったので寄っていこうかと思い、よく看板を見ると「100m先 左折」だった。
歩きの場合はその左折の後どのくらい歩くかも問題だ。今回は止めておこう。

   
  応殸教院                     双体道祖神

ガイドブックに「旧相良往還」と書かれた田圃の中の直線の道を歩いていると、右の方に「応殸教院」
看板が見えた。この寺は遠江33観音で歩いたとき、札所ではないが寄りたい思っていた。
しかしその時は疲労が激しくパスしてしまっていたので、今回を寄って行くつもりでいた。
しかし寺は相良往還より一本右の県道沿いにあり、寺に行くには戻らなければならない。
疲れてくると注意力が不足して見落としが多くなる。それで余計疲れてしまうので注意をしなければ。
寺の参道に着くと双体の道祖神が幾つも並び彼岸花が咲いていた。

塩の道&秋葉道(相良-掛川2)

2012-10-24 11:49:11 | 塩の道
塩の道&秋葉道(相良~掛川2)                    歩行月日2012/10/2

歩行記
 
   国道の合流部                  国道の先を左に入れそうだ
                 
 小田宮明神で時間を取り過ぎたので先を急ぎたいのだが、前方に
「この先、歩行者・自転車通行できません」の立札が立っていて、生意気にも国道150線と473号線の
合流部が立体交差になっている。手持ちのガイドブックは12年前の地図なので、この新しい道は載っていない。
こういう場所に塩の道の道標があると良いのだが、新しい道には古い街道の道標は少ない。
工事者に旧道を遮断する場合は新しく道標を付けるように義務付ける事は出来ないのだろうか。

昨夜ネットで調べた塩の道は国道の南(左)になっていたので、左を覗き込んだが地下道も歩道橋も見えない。
それより右側の国道でない道を西に向かへば国道の下を通って左に出れそうだ。
正解でした。山の付根に国道の下を通り抜ける道あり、その先には石仏や標識が立っていた。



ただ標識は後ろ向きで何の標識か分からない。
そこで前に行ってみると ピンポン!大当たり塩の道でした。

       

しかしどうやら塩の道の旧道は今来た道でなく、進入禁止の立札の所を左に行った方が正解のようだ。
あそこに塩の道の道標が一本あれば迷わないで済むものをと、早速愚痴が出てしまった。

石仏は大正時代の馬頭観音だが、やけにハッキリした姿でとても80年前の石仏には見えない。頭部には黒く
墨入れがしてあるので馬の顔が浮き出ているようだし、唇にも赤く塗ってある。アッ!足も黒くしてある。
街道歩きをしていると時々化粧をした石仏の出会うが、ここの石仏は可愛く淑やかな印象な石仏だった。

道は今日最初の上り坂になるが大した事は無い。この坂を園坂と言うらしいが次郎右衛門さんの園村と
関係あるのだろうか、この辺りに水路を彫ったのだろうかと勝手な空想をしながら歩く。

 
 馬頭観音                  塩のお供え物              道標

最初の馬頭観音から15分も歩いた所に、祠に入った馬頭観音があった。入口の隙間から覗くと祭壇には花も
飾られていて、今でも手厚く祀られているようにだ。入口には塩の袋とポカリスエットがお供えしてある。
以前東海道の見附(磐田)の日本左衛門の処刑された刑場にも塩をお供えしていたが、遠州地方では塩を
お供えする風習があるのだろうか?
それとこの馬頭観音の馬頭は、細長い馬面でなく丸顔の猫のようだし、耳は顔に比較して大きすぎる。
そうだディズニーのミッキーマウスに似ている。しかも観音さんの両手はだらりと垂れ下っているのも
不自然に感じた。少々気になり馬頭観音を調べてみると
「馬頭観音は両手で、「馬口印」(まこういん)という特殊な印相を結ぶ」あった。

祠の前には塩の道のモニュメントと「秋葉道・塩の道踏査研究会」の道標が立っている。
今日はこの道標を始めて見るが、掛川地域を歩いているとこの道標をよく目にする。
この道標は静岡県内の塩の道の要所要所に立っていて、この道標と「塩の道ウォーキング」を参考に
すれば静岡県内の塩の道は歩けると聞いた事がある。だが今日は国道の合流部で早々に迷ってしまったが
あの場所は新しい道ができのだから仕方ないのだろう。

   
   三夜燈                       塩買坂・車坂

県道と別れしばらく行くと四辻の角に「三夜燈」と刻まれた慶応四年の常夜灯が立っていた。
またまた知らない言葉だが、ネットで調べてみたが、この言葉はあまり使われていないのか中々見つからない。
ようやく探し当てた文章を紹介しておきます。
「かつて月待(つきまち)の信仰の行事の一つで、二十三夜待の講中が建てたのが「三夜燈」です。
集落の中で「二十三夜講」を作り、石塔に「廿三夜」「三夜燈」などの文字を刻み、月の出を待ちました。
十五夜から8日過ぎた二十三夜(下弦の月)の月は、真夜中頃に東の空から昇ってきて、真夜中まで一緒に
行動を共にすることで、絆を確かめ合ったのは「庚申講」とよく似ています」

待てよ前回木喰仏を訪ねたとき十七夜観音があって、その十七夜の別名は「立ち待ち」だった。
しかし二十三夜では更に月の出は「寝待ち(十九夜)」「更け待ち(二十夜)」より遅くて、私流に言うなれば
「飲み待ち」ではなかろうか。
「講」というと宗教的にも感じるが、実際は集落の娯楽の一つではなかったのか。
月を待つ間に飲み食いしながら世間話をしている村人たちの姿が想像できる。
それにしても二十三を省略して三夜にするとは、昔も今も言葉の省略は流行っていたのだな。

三夜燈から坂を下って行くと右側に。「塩買坂と車坂」と書かれた標識が見えた。
いよいよここが疑問に感じていた塩買坂だが、その疑問は車坂の呼称を聞いて更に深くなってきた。
車坂を言葉通り受け取れば荷車が通った道になる。ではその荷車に積んでいた物はとなれば、当然塩だろう。
ならその荷車は信州の人が信州から引いて塩を買いに来ていたのか、いやそれはとても考えられない。
多分遠州の人が塩を荷車で運んでいたのだろう。しかし塩買坂と車坂の名前を忠実に判断すると、この坂で
塩を運んでいた人は塩を買いに来た人と言う事になる。若し相良の人なら「塩売坂」と呼んでいただろう。

私には信州からここまで塩を買いに来たとは到底考えられないので、本当は「塩売坂」ではないかと思っていた。
だが今回「相良の塩づくり物語」を読むと少し考えが変わってきた。それによると各種古文書には塩買坂は
「塩買坂・塩見坂・塩貝坂・性海坂・塩月坂」とも書かれていたとあった。
さらに「塩見坂は塩替坂の同等で相良の魚と塩と、遠州の小笠郡の米と麦とをここで交換した地名」とある。

今まで塩の道と聞くと、信州の人が山奥から海まで塩を買いに来て、長い道のりを塩を背負って帰って行った
イメージだったが、どうやらそれは私が勝手に作り上げていたイメージのようだ。実際は相良の海の人は
この辺りまで塩を運び、隣の郡の小笠の人と米や麦と物々交換をする。そして次は小笠の人は掛川辺りの人と
物々交換をしていく。そのように塩は区切り区切りで色々な物と交換されながら信州の山奥に運ばれた。

今回塩の道を歩いてみたいと思ったのは、古代の人が重い塩を背負って長い道のりを歩いたその道を歩こうと
思ったのがきっかけだった。だがその思いは初回にして覆されたようだ。

塩の道(秋葉道)

2012-10-22 17:39:02 | 塩の道
塩の道&秋葉道の4回目の昨日は、秋葉神社下社から山頂の秋葉神社を抜けて佐久間町西渡まで歩いてきました。
事前の調査で橋が崩壊しいて沢を渡らなければならない事と、秋葉神社境内からの道が分かりにくい事が
わかったので、前日雨が降った土曜日は止め日曜日決行とし、分かり難い場所の写真を頭に入れ万全の
態勢で挑みました。

所がどうしてどうして、境内では道を見失い、やっと見つけた塩の道では迷ってしまい散々な目にあいました。
お蔭で予定していた16:26のバスに20分の差で乗り遅れ、次のバスは2時間30分も待つことになりました。

そこで今日は今年塩の道を歩く人に私が間違った所を紹介します。

 
 ①秋葉神社社務所横の道標(コピー)          ②皐月の植栽の間の道標(コピー)

①の道標は社務所に向かって左側の、車の参道の脇に倒れていました。
その矢印に従い意気揚々と綺麗に整備された参道を駐車場へ下って行くと、途中右に行く道があったが、
写真②では植木の間を左に曲がっていたので、私は左側の階段を下りているので大丈夫と無視。
しかし幾ら階段を下っても②のような場所はありません。結局第1駐車場に着いてしまいました。
そこで引返せばよかったのですが、たまたま見たイラストの案内板に塩の道の文字を見付けてしまいました。
これが運の尽きで歩き始めた道はグングン下がり、後悔し始めた頃はすでに引返すのも一苦労な場所でした。
なまじ写真で左に曲がる事が頭に入っていたため、資料も確認せず下ったのを反省しています。
今資料を見れば①の場所から茶屋などの脇を通った後すぐに右に曲がってるのが分かります。
それを私は左の階段を下ってしまったのですからどうしょうもありません。
時系列も分からない1枚の写真に頼りすぎたという事です。
グングン下がった道は途中で秋葉ダムへの道への分岐から、今度は登り返しが始まりました。
結局第2駐車場の塩の道の入口を見付けた時は、①の場所から45分過ぎていました。
正常な道を歩けば15分程度で着く道を、私は必死で45分、疲れたー
ようは秋葉神社で塩の道が分からなくなったら第2駐車場に向かって歩けばよいようです

次に迷ったのは第2駐車場から少し先の奥の院への分れ道で茶屋跡から山道に入った所です。
藪漕ぎが続き顔や腕がヒリヒリし嫌だなーと思っていると、塩の道の横に藪を伐採して歩きやすい道が
さっきか塩の道と合流したり離れたりしています。
その道には黄色の杭が20m置き程に打ってあり分かりやすい事この上もない。ついつい誘惑に負け
その道歩く事に。最初は杭を頼りに快調に歩いて行くと、その内登りがきつくなり踏み跡もかすかに。
アレー? と思う間もなくピークに到着。そこには道標ならねコンクリの杭が、そして黄色の杭は
今来た道を直角に左に曲がり急降下。でもこれで安心、左にはこれから再度合流する筈のスーパー
林道がある。杭を頼りにまた歩きやすくなった道を進んでいると。今度は右側から車の音が??
山道は疑問を感じる間もなく林道に合流。そしてその先には何と先ほど必死で歩いてきた第2駐車場の看板が。
後を振り返れば、こちらもさっき茶屋跡から入った山道の入口があった。
何とマー一周してしまったのだ
間違えた所はほぼ分かっているが、一瞬このまま林道を歩いてしまおうかと誘惑にかられた。
再度山道に入り杭とは分かれ藪漕ぎの道に入って行くと10分も歩かないうちに塩の道の標識があった。
この一周に25分かかってしまった。

  
右の開けて杭のある道は迷い道。塩の道は左の藪の中      間違って行ったピ-ク

橋の崩壊場所は4ヶ所あり最初の2ヶ所は思惑通り水が一滴も無く楽しく渡れた。
後の2ヶ所は水はあったが何とか水に入らないで渡る事は出来た。ただ最後の場所は完全に橋が流されて
いるので、対岸に上がったものの道が分からず暗くなってきていたので少々焦ってしまった。
注意深く岸を探していくと、有りました頼りの研究会の道標が立っていました。

 
 橋の崩壊1ヶ所目                      橋の崩壊2ヶ所目

 
 橋の崩壊3ヶ所目                      橋の崩壊4ヶ所目

沢の渡渉より注意が必要だったのは、道が崩れていて油断をすると滑り落ちそうな場所が何カ所か
あった事です。
それと大変だったのは、森林を伐採をしている場所があり、お蔭で塩の道が遮断されていてテープに沿って
直登しなければなりませんでした。ビニールテープだから手を掛けるわけにもいかず、たった30mほどの
直登だが大変だった。
この辺りで4時台のバスは諦める気になってしまった。

 
  滑りそうな道                         どっちを歩こう?

こんなわけで道さえ間違わなければどうと言う事はないのですが、これからここを歩く予定の人は
道を間違えないよう充分注意してください。コース自体は変化もあり楽しい道です(水がなければ)。


塩の道(秋葉道)

2012-10-21 04:10:52 | 塩の道
4回目の塩の道に行ってきます。
予定は秋葉神社の下社から秋葉山を通り西渡までですが、出来たら少しでも先に進みたいと思っています。
しかしそれはどうやら難しいようで、下調べ段階では秋葉山から西渡にかけての山道部分は明確でなく
間違いやすいようです。さらに途中の橋は崩壊していて沢を渡る部分が3ケ所ほどあると書いてありました。
こういう道は余り気が進みませんが、それが塩の道や秋葉みちなら歩くしかないと諦め状態です。

 先週スリーデーで思わぬ不覚を取ったので今日は慎重に歩く積りです。

塩の道&秋葉道(相良-掛川1)

2012-10-20 10:12:53 | 塩の道
塩の道&秋葉道(相良~掛川1)                    歩行月日2012/10/2
歩行時間:6時間45分 休憩時間:1時間05分 延時間:7時間50分
出発時間:9時10分  到着時間:17時00分
歩数:39.300歩 GPS距離:30.4km

行程表
 相良海岸 0:15> 塩の道起点 0:40> 御前崎市 1:10> 正林字 2:30> 応殸教院
 1:25> 陣場峠 0:20> 素掘り隧道 0:25> 掛川駅


 
  須々木海岸の塩田風景(昭和21) 相良の塩づくり物語より複写

歩行記
 塩の道の起点の遠州相良は田沼意次の城下町とも知られていて、意次も塩田を奨励したという。
だが塩づくりの元は、文禄4年(1595)徳川家康が相良に釜場を築かせて直煮法により塩の生産を
始めたとされている。
しかし相良の近くの塩の道には「塩買坂」(菊川市)と言う地名の場所があり、その塩買坂では文明8年
(1476)今川家六代目当主義忠が地元の郷士に襲われ討死した所でもある。
その乱のについて今川記には「義忠は塩買坂で討たれた」と記してあるのを見ても、相良では家康以前に
すでに塩づくりが盛んに行われていて、他所にも販売していたことがうかがえる。

 相良地方の塩づくりは「揚浜式塩田法」を採用していて、その製塩方法は海岸の砂地を均し、そこへ
海水を汲み上げてきて何回か撒き、乾いたのちに塩分の濃い砂を集めて、海水で砂についた塩分を溶き
その濃い塩水を釜で煮つめて塩をとる方法だった。
この揚浜式製塩法に必須な条件は、遠浅な海と豊富な燃料がある事だが、相良には夏は「相良サンビーチ
海水浴場」
になる遠浅で波の静かな海岸と、裏山には牧の原台地があり、燃料のマキには困らなかった。
そんな事もあり、この地方は古くから製塩が盛んだったのだろう。

  
     相良波津海岸                      難破船

 塩の道の出発点は街中にあり、どうせ塩の道を歩くなら塩を造った海岸から歩こうと波津海岸に向かう。
実際の塩づくりが、この波津海岸で行われていたか分からないが、波津海岸は想像していたより狭かった。
冒頭の写真の須々木海岸はここよりもう少し西の浜だが、今日は行くのは止めておこう。この浜だって砂は
細かく綺麗で何となく塩づくりの風景を思い描くことは出来る。矢張り海を出発地にして良かった。

 早速面白い光景に出合った。
一昨日の台風17号の風に流された外国の鉱石運搬船が相良の海岸に座礁したとTVで放送されていたが、
まるで接岸したように上手に堤防に横付けされていた。
ニュースを聞いていなければ堤防に停泊している船と勘違いしてしまいそうだった。

その後、満潮の時にタグボードで離礁を試みたが遠浅な海のため失敗し、再度タグボートを増やしてやっと
離礁したとニュースで報道されていた。この事でもこの海岸が遠浅な事が分かる。

   
   塩の道起点の常夜燈                   塩の道起点のモニュメント

 何とも見栄えがしない常夜燈だ。元は凝灰岩の2m近い常夜燈だったが、風化が激しくて倒壊の危険も
ある事から建て替えられたらしいが、大量生産の味気ない常夜燈だった。

その常夜燈の後ろには塩の道のモニュメントも建っていた。こちらは静岡県の旧東海道の所々に建っていた
物と同じ作りで、道標も兼ねているらしいのだが、この類のモニュメントは道標としての効果は殆どない。
マー言うなればこれを建てた役人は満足だろうが、目にする旅人には気休めでしかない代物だ。
そのモニュメントに「塩の道 日本海⇔太平洋 350km」とある。
塩の道って海から海? そうかな~ 矢張り海から山間地ではないのかな。
ここ太平洋の相良の塩は信州塩尻に向かい(南塩ルート)、日本海の越後糸魚川の塩も塩尻に
向かった(北塩ルート)のだから、塩の道のゴールは飽く迄も信州塩尻だと思うのだが。

  
 塩の道案内所(小田宮明神)                 塩の道起点のスタンプ

 道の右側に黒い社があり、そこに「塩の道 相良案内所」の看板が見えたので寄って行くことに。
特段興味を引く物は無かったが「小田宮明神の由来」と書かれた薄い冊子があったので貰ってきた。
その概略は
「江戸時代ここ園村は水不足で悩んでいたが、西の隣村の須々木村や東隣の平田村は豊富な水源があり
水に困る事は無かった。そこで園村の住民は役所に隣村から水を分けてくれるよう願い出たが許してもらえない。
そんなおり園村の住民・次郎右衛門は、水を得るには須々木村の水源から水路を作るしかないと決心して、一人
村境の山に入っては水路作りに励むようになった。
そんな次郎右衛門の姿を見ても園村の人は、最初は相手にしなかったが、やがて半年、1年と経つと次郎右衛門に
協力する人も現れてきて、遂に水路が完成した。
怒った須々木村の住民が役所に訴え出た結果、役人は水路はそのままとしたが、次郎右衛門は捕えて江戸
送ってしまった。江戸の牢獄に入れられた次郎右衛門は園村住民の願いもむなしく処刑されてしまう。
園村のため一身を捧げた紅林次郎右衛門を、住民たちは小田宮明神様として祀り、その社の名前を小田宮様と
呼ぶようになった」


 何処かでも似たような話がありましたよね。ソー去年の今頃「富士箱根トレイル」と勝手に名前を付けて
籠坂峠から箱根峠まで歩いたときに、箱根の湖尻峠の下を貫通する「箱根(深良)用水」でも首謀者が死罪に
なっていた。だがここからが根本的に違ってくる。
相良園村では死罪になった次郎右衛門を神様としてその功績を讃えているのに、一方の箱根用水の完成で
恩恵を受けた深良村では、社どころか石碑すら建てていない。
随分薄情な村人だとその時はブログで文句を並べてしまったが、この件で新しい情報を見付けたので紹介します。
その前に箱根用水について簡単におさらいをしておきます。

      
         箱根(深良)用水 深良川出口

「富士山と箱根外輪山に挟まれた深良村は、毎年水不足に悩まされ新田の開発もできなかった。
村の名主・大場源之丞は、新田開発のために湖尻峠の真下に隧道を堀り、深良村に水を引こうと計画し、幕府の
許可を得て、江戸の商人・友野与右衛門の協力のもと工事を開始した。
隧道の長さが1,342m、高低差は9.8mもある隧道を両側から掘り進む工事は難工事の連続で、着工後4年の
歳月を持ってようやく完成した。だが幕府にも出来ぬ大工事を町人や農民の手で成功すれば、幕府の威光は地に
落ちると考える役人により、与右衛門達に陰険な妨害を加え、終いには与右衛門は刑死、源之丞は破産、追放と
してしまった」

これが一般的に知られている箱根用水の完成時の経緯ですが、これを聞く限り恩恵を受けた地元の深良村は
友野与右衛門や大場源之丞を神や仏の如く敬っても不思議ではない。いやそうするのが当然な話だと思うのだが
二人を祀った形跡は見当たらず不思議に感じていた。それが最近こんな情報を見付けた。
「箱根用水の偉人伝説の実態は、友野与右衛門は工事による収益が思うように上がらないため公金を横領して
しまい、それが幕府に露見して刑死させられてしまう。
また大場源之丞は、他の村の名主同様、小田原藩の命令に従ったが、工事を中心的に行った形跡はない。
では何故偉人伝説に置き換わったのか。それは明治時代になって静岡県と神奈川県が芦ノ湖の水利権争い起り、
静岡県側の証拠として「与右衛門や源之丞が水利権を箱根権現に願い出て、初穂料を納めて許可を得た」
だから水利権は静岡県側にあると主張し勝訴してしまった。
この時その二人が横領犯では説得力が少ないので、偉人に仕立て上げた」
とある。

これで二人の記念碑や顕彰碑が無いのは、なんとなく分かった。
ようは当時の住民は、自分たちは無償で労働奉仕をしたのに、その陰で旨い汁を吸った与右衛門や源之丞を憎んで
いたのだろう。そのため顕彰碑は無く、勿論神社なども造られなかった。
それが明治に入り横領犯が一転して偉人になってしまったのだら地元では驚いた。、だが住民はそれを無視黙殺し、
従来のまま何の行動も起こさなかった。となるのだろうか。
そんな事を知らない私は「箱根風雲録」などの偉人伝説の映画を見て、深良の人は郷土の恩人を敬わないと勝手に
憤慨していた。
だが江戸時代に難工事を完成させ、今でも御殿場市の一部や裾野市、長泉町、清水町など面積500ha余りの水田に
潅漑用水を供給している事実であるのだから、箱根(深良)用水の深良側に案内板ぐらいは建ててほしい。

ところで私は今どこを歩いているのだろう。 箱根路か? それとも塩の道か?

 話を戻して小田宮明神の由来の冊子に
「次郎右衛門が獄死したのは、天正3年(1575)で、この頃武田勝頼と徳川家康が遠州地区で激戦を繰返していた」
ウーン!まてよ。そうなると次郎右衛門が送られた江戸(武蔵野)は、その頃は誰の領地だったのだろう。
勝頼と家康が争っていた時代なら当然秀吉の小田原征伐の前になる。なら江戸はまだ後北条の領地だったろう。
それに相良地区はその少し前の1571年に武田方が相良城を築いている。となると当時の相良は武田領だと思われる。
水争いの起きた年が1575年なら次郎右衛門は、江戸へ護送されたのではなく駿府か甲府ではなかったのか。
それに何故小田宮明神なのだろう?地名でもないし、人名でもなさそうだ。
少々疑問も出てきたが、これ以上話をしていると前に進まなくなる。そろそろ歩き出すとするか。

秋葉道&塩の道

2012-10-18 11:02:07 | 塩の道
 秋葉山は遠州を代表する信仰の山だ。
その秋葉山を目指す信仰の道は各所から通じていて、古来から「あきは道」と呼ばれている。
またあきは道は遠州から信州の間を結ぶ生活物資等を運ぶ生活道でもあった。
信州からは米や麦、遠州からは塩や魚や茶などが運ばれいて、中でも動物が生きていくために
必須の塩はその代表的な物のため、この道をいつからか「塩の道」とも呼ぶようになった。

このように秋葉道と塩の道は重複しており、一般的に秋葉道は掛川から秋葉山に向かう道で、塩の道は
海岸(相良)から掛川・秋葉山を通って信州に向かう道である。
だが秋葉山へ向かう秋葉道は各所から出ており、遠州浜松や三河からの道は天竜で合流し秋葉山に向かう。
同じ遠州でも袋井や掛川からは森町に出て秋葉山へ、駿河や江戸からは駿府から川根を通り秋葉山へ。
また信州からは青崩峠を越えて西渡から裏参道を通って秋葉山に向かった。
これらの道は全て広義の意味で「あきは道」と呼んでも良いだろう。



 今回の街道歩きは太平洋岸の相良から掛川・森・春野・秋葉山・西渡・青崩峠までの静岡県内の秋葉道&塩の道を
歩く予定だ。その先の塩尻までは静岡県内を歩き終わってから決めようと思っている。
街道歩きの途中で何を見る事が出来るか、遠州の庚申塔には三猿が彫られているか興味の種は色々ある。
またこれらの道は今までに何度か歩いている地域でもあり、その折に疑問を感じたものもある。
1・重い荷物(塩)を背負って何故山の中腹を捲かず山頂(秋葉山)を越してたのか
2・塩は信州から買いに来たのか、それとも遠州から売りに行ったのか
3・何故遠い相良の塩なのか
4・塩の道の呼称は昔から使われていたのか
など幾つか疑問があるが、これらも歩いて行くうちに解決できる事を期待して歩こう。


 今回の街道歩きで利用するガイドブックは
①「塩の道4ウォーキング」¥1300 静岡新聞社 2000年12月版 購入先インターネット「e-hon]
②「古道案内 信仰の道秋葉街道」¥1300 白馬小谷研究所 購入先 掛川城こだわりわっぱ」
                   問合せ 0261-71-8031


     ①塩の道4ウォーキング       


②古道案内 信仰の道秋葉街道


内容や使い勝手は実際に使用した後で紹介します。


志太の微笑仏を訪ねて7

2012-10-10 10:30:25 | 寺社遍路
志太の微笑仏を訪ねて7(常楽院)

  常楽院から藤枝駅へ
 

 新東名の藤枝岡部ICへの取り付け道路の下を潜ると、右手の山の麓に寺の屋根が見える。
どうやらあそこが今日最後の寺の常楽寺のようだ。サーこの寺では果たして微笑仏を眺める事が出来るか。
色鮮やかな青い花の向こうに見える本堂の入口は閉まっているが横の窓は開いているようだ。

 
    常楽院                      遠くに見えた木喰仏

境内に入り庫裏の方を見たが玄関は閉まっていて人の気配はしない。
仕方ないと本堂へお詣りを済ませ開いている窓から中を覗くと、右の方に木喰仏らしき仏像がが見えた。
遠くて肉眼では何の像かは分からないが兎も角写真を写しておく。
家で写真を拡大してみると毘沙門天像と毘沙門天に踏みつけられている邪鬼の拡大写真も写っていた。

       
  案内板拡大           毘沙門天像       踏みつけられている邪鬼

境内の入口ある木喰仏の案内板を紹介します。
「木喰上人作 毘沙門天 微笑仏で知られる木喰仏の一つで、甲冑を身につけ憤怒の相を表して
邪鬼を踏みつけて立った姿の毘沙門天像である。
元は常楽院境内の外の観音堂にあったが現在は本堂に安置されている。
木喰仏特有の穏やかな微笑仏とはやや趣が異なり、像は厳しい表情をみせる毘沙門天であるが、
木喰が最も仏像を多く造った円熟期の作品である。像高1.23m 藤枝市指定有形文化財・彫刻」


 これで一応志太の木喰仏を安置してある寺のすべてを回った事になる。しかし実際に木喰仏と
対面できたのは二ヶ所の寺の四体の木喰仏で、後の三寺四体と焼津歴史資料館の三体は見る事が
出来なかった。寺に保存されている分については、お寺さんに拝観を願い出れば拝観できるようだが、
どうも私にはその勇気が無い。
というかお詣りが終わったあと、お布施というのかお賽銭というのか、それを幾ら包んで、どのように
渡せばよいのか分からない。人によりそのまま何もしないと言う人もいるが、そうはいかないだろう。
森町の蓮華寺のように拝観料は300円と書いてあると割り切れるのだが-----
しかし蓮華寺は萩の寺で名前を売った観光寺だから、そんな事も可能なのだろう。

 そこで提案。木喰仏を安置している寺が合同で「志太の木喰(微笑)仏まつり」を開催したらどうだろう。
その時は焼津資料館に保存されている木喰物も本来の寺に里帰りさせるともっと良い。
料金は無料と言いたいが、木喰仏の写真や解説書入り、更にスタンプ作成して各寺で押印するようにして、
それをパスポートがわりにして1枚千円としてどうだろう。勿論子供は無料。
開催時期は十輪寺の木蓮の花の時季とか、朝比奈川堤防の河津桜の頃も良いだろう。
秋の彼岸は暑すぎるが春のお彼岸ならドライブ・サイクリング・ウオーキング何でも最適な時期だ。

どうかこの提案が関係者の目に留まりますように。

 当初常楽院からは朝比奈川の堤防を歩いて焼津駅に行く予定だったが、寺の門前からゴール方向に
見える高草山や花沢山を見て考えが変わった。ゴールが見えていては歩いていて面白くないし、
朝比奈川の堤防は過去に何回も歩いている。それならこの常楽院の裏山伝いに藤枝方面に歩いて
みようと方針転換した。勿論この辺りから藤枝へも歩いているが、県道沿いを歩く事が多く
まだ山沿いの道は歩いた事は無かった。なにか面白い物に遭遇すると良いのだが------

 屋根の上に金色の鯱のような物がのっている。あれは何だ!

 
   鯱?ですかネー                   十七夜観音寺

 近寄って行くと「真言宗醍醐派 普照山十七夜観音寺」と派手な看板に書いてある。
それにしても「十七夜」とは何とよむのだろう?「じゅうななや」と素直に読めばよいのか?
確か「十六夜」「いざよい」と読んだはずだ。で調べてみると
「十七夜 たちまち「立待ち」。立ちながら待っていても疲れないうちに出て来る。
 十八夜 いまち 「居待ち」。座って待つことで立って待っていたのでは疲れてしまうから。
 十九夜 ねまち 「寝待ち」。月の出が遅く、もはや月は寝て待つということになる。
 二十夜 ふけまち「更け待ち」。夜も更けてからようやく出る月と言う意味」

だそうです。中々面白いですね。
でもこの寺が「じゅうななや観音寺」なのか「たちまち観音寺」なのか分からなかった。

 それにしてもこの寺は普通の民家のように見えるが、看板には「開基永長元年(1096)」と書いてあり
歴史は古い。以前遠江33観音の27番札所永寶寺(慈眼寺)にお詣りしたとき、その寺の住職(別当)に
「寺は真言宗を名乗っていますが、明治までは修験道のお堂で山伏達の修行する場所だった。
それが明治の廃仏毀釈で修験道は禁止される事になり、危機感を持った山伏はお堂を神社や仏教に
宗旨替えをした。なかでも真言密教は修験道と似ていたこともあり真言宗になったお堂が多い」

と話を聞いた事を思いだした。確か永寶寺も「小児疳虫封・病気平癒・金神除・占い」などの看板が
出ていて、初めは少々いかがわしく感じていた。ここの十七夜間の寺もその類の寺なのだろう。

 
     土手の彼岸花                   五十海バス停

 咲いていないと思っていた彼岸花も、この辺りは日当たりが良いのか蕾が開きかけてきている。
先日ラジオで「彼岸花は娘のつけ睫毛に似ている」と言っていたが、どこが似ているのだろうか?
本物のつけ睫毛(?)を見た事がないので良く割らないが、管の伸びた部分かな。

 西に向かっていた山裾が急に北向きになった。ヤバイ!これ以上進んでしまうと方向違いの
方に行ってしまう。慌てて山裾を離れて西に向かう道に入った。
太い道に出て左右を眺めると、何となく見た事のある場所だと感じたが何処かは思い出せない。
左手(南東)の方に立体交差の大きそうな交差点が見える。一先ずあの交差点に行ってみよう。
交差点に向かう途中でこの場所に気が付いた。

 そうだこの道を西に向かえば例の今川家の花倉館に行く道だ。
こうしてみると「丸子館(城)→梅林院→花倉館(城)」の抜道はあながち私の妄想でもないようだ。
東海道を通らないで城から城へ抜けられ、さらに言えば花倉城跡からは烏帽子形山を通って
もう一つの今川の駿河進出の拠点だった島田市大草の城(慶寿寺)へも行く事が出来る。

 大きな交差点は「薮田西交差点」だった。ここまでくれば後は何度か歩いている道になる。
藤枝マイホームセンター入口のバス停が「五十海」となっていた。どう読めますか?
こたえは「いかるみ」です。
今日歩いた途中にも外にも「村良・策牛」等の難読の地名があったが読めますか?
最初のは素直に読むと「むらよし」ですが正解は「むらら」と重箱読みです。
次の策牛はどうでしょう? これはまず読めないでしょうね、これで「むちうし」ですって。
一体なぜ策が無知なんでしょうね、当て字といっても何か意味があるだろうに見当もつかない。

寺や神社の名前は難読な物が多いが、特に神社は読めない場合が多いと感じる。
今日立ち寄った「神神社」がみわ神社も知らなければ読めないし、「猪之谷神社」なんかも
普通なら「いのや」で「いいのや」とは読みませんよね。

           
              蓮華寺池

そうしているうちに藤枝の名所「蓮華池寺」に着いた。
暑くて少々疲れたが池の周りを回って帰れば歩行距離は30kmを越すだろ。。

歩行時間:6時間45分 休憩時間:2時間20分 延時間:9時間5分
出発時間:7時25分  到着時間:16時30分
歩数:42、050歩 GPS距離:31.5km

行程
 焼津駅 0:35> 大日堂 0:10> 宝積寺 0:05> 岩勢寺 0:10> 常楽寺 0:40>
 猪之谷 0:10> 神神社 0:10> 十輪寺 0:30> 常昌院 0:25> 光泰寺 0:45>
 梅林院 0:45> 常楽院 1:20> 蓮華寺池 1:00> 藤枝駅

塩の道(秋葉道)

2012-10-09 10:44:16 | 塩の道
 昨日の塩の道は戸綿駅(森)から秋葉神社下社(春野)まで歩いてきました。

出発時間は7時40分の到着時間が14時10分で距離が24kmとほぼ想定通り。
予定ではゴール時間が早ければ光明山にお詣りして天竜に出る予定でしたが
ゴール近くの秋葉橋で見た道路標識は「天竜 20km」となっていて予想を大分上回っていました。

これでは真っ直ぐ天竜に向かっても4時間以上かかり、到着は6時を過ぎてしまいます。
しかも天竜に向かう目的は光明山に行く事ですので、途中から車道を離れ山に登らなければならず
6時どころか7時過ぎになる可能性も考えられます。
結局光明山は諦めて近くの犬居城跡に向かったのですが、これもバスの時間の都合で
途中から引き返してまいました。何とも情けない結果で我ながらもアホたれています。

次回の塩の道は今週末が「掛川スリーデー」があるので当分先になりそうです。

そうそう2回目の塩の道で、森から先は自主運行バスを予約をしなければならない、と書きましたが
間違っていました。遠鉄バスが三倉まで乗り入れています。

こんな事なら2回目に掛川から三倉間(約37km)を歩いておけば、3回目は楽々光明山経由で
天竜まで歩けたのにと残念でなりません。