はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

藤枝瀬戸川右岸の低山縦走

2014-02-28 18:59:20 | 低山歩き
高尾山・笠張山・菩提山縦走                        歩行月日2014/02/26(水)

歩行時間:8時間00分 休憩時間:1時間30分 延時間:9時間30分
出発時間:8時30分 到着時間:18時00分
歩  数: 40、312歩  GPS距離:29.5km
行程表
 蔵田大杉 1:00> 高尾山 0:45> 笠張山 1:10> 菩提山 0:40> 桧峠1:35>  不動峡 0:40>
 中山公園 2:10> 藤枝駅

      
               歩行ルート1(歩行ルートの黄色の道路は県道)
 観歩記
 この時期に毎年歩いている藤枝奥の低山歩きをしてきました。
藤枝駅前から藤枝市営バスに乗り、日帰り温泉「ゆらく」で乗り換えて、次は自主運行バスで蔵田に向かう。
このバスの違いは良く理解できないが自主運行バスは1回200円の定額制で割安に感じたが、市営バスの方は
駅から200円区間が過ぎると一挙に400円となり、その値上がり幅にビックリした。よく苦情が出ないものだ。
 自主運行バスは乗客が私一人だったせいか登る山を聞かれ「高尾山」と答えると、終点蔵田より先の登山口
入口までわざわざ行ってくれた。

 
            ゆらく                         市営バスと自主運行バス

 バスを降りた所にある「鼻崎の大杉」は県の天然記念物に指定されていて、根回りは14.5mもあるという。
樹齢は書いてないが高根白山神社の参道にあるので神社の建てられたころ植えられたのか? これだけの大杉
なら、何か昔話でもあっても良さそうなものだが-------------

 高尾山には高根神社の参道と反対方向の林道を進む。以前この山に登った時に、時々出合う林道が気に
なったので調べてみたら、この林道が高尾山・笠張山・菩提山の中腹を通っていた。ということは疲れて山頂に
行くのが嫌になったら、この林道を歩いても帰る事が出来るのだった。
 大杉から5分程度で山道に入る。この入口は踏み跡が左右に付いているので迷ってしまうが右の踏み跡を登る。
最初は踏み跡の不鮮明な所もあるが目印もあるので困る事はない。ともかく上に上にと登って行けばよい。

 最初に出合う林道は、左少し先に標識が有りすぐ山道に入る。次の農道も舗装が無い農道で、最初歩いた時は
山道の入口を見落とさないか気になったが、この林道は舗装された林道まで続いているの安心して歩けばよい。
舗装された山道は1分も歩かないで右の山道に入る。最初は着かず離れずの状態で林道の横を進むが、傾斜が
きつくなるに従い林道とは離れていく。林道から15分程度で高尾山に到着。三角点はあるが見晴らしのきかない
山頂で面白味は無い。

 高尾山から笠張山に向かって下りきった所で先ほどの林道に出る。ここには何故か句碑や便所がが建っていて
句碑には 「天高く 高尾の峰を 風が切る」 とあり 「平成十二年 藤枝市長」 となっている。多分この句碑は
林道の開通記念に建てた物だろう。
 この句碑の所から登りになった林道を10分も歩くき、道が下りになり始めた所から笠張山の登山道に入る。
標識が林道と林道の上にもあるのだが、ここから山道の入口が分かりずらい。素直に歩くと林道から鋭角に
曲がって法面に上がり、そのまま踏み跡を林の中に進んで行くと踏み跡が分からなくなる。
仕方なく戻って法面を上った所にある太い丸太の間の薄い踏み跡を登ると、踏み跡には棘の付いた木などがあり
歩きずらいが踏み跡は続いている。
今回は丸太の先の青木の枝に赤い目印を付けておいたので、少しは判断する役に立つだろう。

 
                  高尾山山頂                       笠張山登山口

 歩きづらい道だが晴れていればここから富士山も眺められるのだが今日は近い山でもスッキリ見えない。
そんな道が杉林の所まで来ると 「笠張山 ⇔ 笠張新道登口」 と書かれた標識を見つけてホッとする。
だがホッとしたのも束の間、今度は落葉した雑木林の中の道になる。クッションの効いた落葉の上をガサゴソと
音をたてながら歩くのは気持ちは良いが、道に落葉が被さり踏み跡が不明な所もある。
前方を覗き込むように枝に付いた目印や踏み跡を探しながら上に上に荷と登る。それでもここは上に登れさえ
すれば尾根道に合流するので気が楽だ。尾根道の合流部の標識を左(東)に曲がり笠張山に向かう。
ここから笠張山山頂には5分程度で到着する。

 
           高根山が霞んで見える                     笠張山山頂

 笠張山山頂も視界はきかないが、山頂を東へ20mも行くと前方がひらけ、志太平野や大崩山塊、駿河湾などが
見える場所がある。だが今日は景色は諦めるしかない。
 笠張山から菩提山に向かうには、先ほど高尾山側から登ってきて出合った尾根の標識まで戻り、今度はそこを
直進する。この標識にも先程の道は「笠張新道」となっているが、新道とは名ばかりで余り利用はされていない
ように感じた。
 その新道に対し菩提山に向かい直進する道は、以前からの道なのだろうが今日一番の難所だった。
道は明確だが何しろ急傾斜のうえ笹薮の中の道なので滑ること夥しく、笹をブレーキ替わりに掴みながら下るしか
なかった。この道は余り登りには利用したくない道だ。何しろ一歩登って半歩下る嫌な道になりそうで。

             
                笹薮の下り坂            道はハッキリしているが

 笠張山からの急な下りを20分も下るとまたもや林道に合流する。笠張山の急斜面が嫌なら、林道を歩いてくれば
良いのだが、それでは山に来た甲斐が無い。大変でも登る事に意味がある。
 林道を歩き初め10分ほどで滝之谷峠に出る。この峠は祠に入ったお地蔵さんが安置されていて昔からの峠道の
ようだ。左に下る山道の標識には「滝之谷」との表示がある。滝之谷とは地図で見ると水車村や不動峡の磨崖仏が
ある所のようだが、名前は聞いた事があるが行った事はない。
反対側の下りは標識も道も見当たらないが地図には島田市伊久美への道が載っている。
かってこの峠道は大井川の支流伊久美川周辺で摘んだ茶葉を、藤枝の茶町に運んだ道ではなかったのか。
言うなればお茶の道、茶葉街道だったのだろう。
 滝之谷峠から10分ほど林道を歩くと林道が分岐している。ここが現在の滝の谷峠に当たる所だろう。
林道を右に下れば伊久美へ、左に下れば滝の谷に出るのだから。
そして菩提山は正面の舗装されていないに道に入る。ここで林道とはお別れになる。

 
                滝之谷峠                    現代の滝の谷峠?(菩提山登り口)

 登りながら見る上の景色が何回か山頂のように感じたが中々山頂に着かない。林道から30分ほどでようやく
今日の最高峰691mの菩提山山頂に到着。山頂には宗教的名前を現すかのように小さな石仏が祀ってある。
顔の部分が欠けていて何の石仏か不明だが、今年の注連縄が置いてあるのを見ると、まだ現役の石仏のようだ。
そういえばさっきの滝の谷峠の地蔵には、竹で櫓を組んで飾ってあったが、何を意味するのだろう。
簡単な説明で良いが何か案内があると嬉しいのだが。

  
                菩提山山頂                        菩提山山頂の石仏

 霞んでいて景色は不鮮明で薄い墨絵のような状態だが、一応山頂からの眺めです。
昨日も天気予報では 「爽やかにスッキリ晴れた一日」 と言っていたが、やはり今日と同じで霞んでいた。
若しかして黄砂かと思ったが、車のフロントガラスなどに黄砂の形跡は無かった。春霞がもう始まったのか?
家に帰りニュースを見ていると、昨日と今日は中国からPM25が飛来して各地で注意報が出たようだ。
静岡県に注意報が出たかどうかは分からないが、どうやらあの霞はPM25だったようだ。
 PM25とは微粒子の大きさの単位とは知っていたが詳しい事は知らない。で調べてみたら
「直径2.5マイクロメートル以下の超微粒子。自動車の排気ガスなどに含まれていて肺の奥まで入りやすく、
肺癌や呼吸系・循環器系への影響が懸念される」
のだそうだ。ここで気が付いたのはPM25ではなくPM2.5だと
いうこと。今までPM25とばかり思っていたのだから何とも情けない。知ったかぶりが馬脚を現してしまった。

 
                菩提山から西側                       菩提山から南東側

 菩提山からは下りの連続が続く。杉林の道や雑木林の感じの良い道が続く。今のように冬枯れの時期ではなく
春に来れば馬酔木やツツジも見る事が出来そうだ。いつか季節を変えて歩くのも悪くは無いが、コースは矢張り
同じにしたい。何しろさっき下った笠張山の登りはちょっと遠慮をしたい感じなので。
 山道が終わり農道に出ると茶畑が広がっていた。茶畑はまだ新芽ではないので濃い緑色だが、これが新芽に
なると萌黄色になり優しい感じなる。それにしてもこんな高台にも民家があるが、台風などの時に怖くはないの
だろうか。臆病な私にはとても常駐は出来そうもない。

                
                             桧峠上の茶畑 

駿河百地蔵(宗清寺)3

2014-02-25 11:10:59 | 低山歩き
      駿河百地蔵(宗清寺から岩本山梅園)        歩行月日2014-2-16(日)

歩行時間:6時間35分   休憩時間:2時間30分   延時間:9時間05分
出発時間:8時00分   到着時間:17時05分
歩  数:  41、403歩   GPS距離29.8km

行程表
 新蒲原駅 0:15> 義経硯水跡 0:25> 宗清寺(富士川梅園) 0:25> 岩淵間の宿 0:15> 水神社
 0:10> 雁堤 0:25> 実相寺 0:25> 岩本山梅園 1:20> 曽我寺 1:15> 広見公園 0:10> 博物館
 1:30> 富士駅 
                         岩本山(実相寺)

 雁堤が岩本山に近づくと山の斜面に墓地や寺の屋根が見えてきた。あれが実相寺だろうと堤防を下りて
寺に向かう。山門いや総門に掲げられている扁額には「安国道場」と書かれている。
安国道場? 若しかして右翼の修行所なのか。一瞬不安がよぎった。

 左の石碑には「南無妙法蓮華経」と髭題目が彫られている。待てよ! 南無妙法蓮華経なら日蓮宗なのだから
右翼の心配はなさそうだと一安心。そうだ日蓮宗の開祖日蓮は立正安国論を書いているので、その「安国」なのだ。
と勝手に納得する。

 総門右に建つ石碑には「霊跡本山 實相寺」とあり、その横には「昭和46年宗会に於いて全会一致霊跡本山に
昇格を承認される」
 とあった。ただ霊跡本山の意味が分からず後日調べてみると「日蓮宗では身延山久遠寺を
祖山という。日蓮聖人一代の重要な遺跡及び宗門史上顕著な沿革のある寺院を霊跡及び由緒寺院とし、その
伝統により大本山または本山の称号を用いています。」
とあった。
 
  
           髭題目                   総 門               霊跡本山の碑

 総門を潜ると寺の由緒書があり、それには「当山は久安元年(1145)に鳥羽法皇が命じて建立した勅願の霊山です。
創立当初は諸堂悉く完備した天台密教の巨刹として、日本国内にあまねく知られていました。
 これより以前に唐から一切経二本を招来しており、一本を近江の三井寺、残る一本を当山に開創と同時に安置された。
 鎌倉時代に入り、宗祖大聖人は当山の経堂に入り、諸経典の秘奥を探ること二年、遂に「立正安国論」の構想が成立
されました。」

 一切経の中身はなどは分からないが「釈迦が説いた「経」と戒められた「律」及びそれを解説した「諭」の三つの事で、
宗教の精神面はもとより天文・人文・医術・薬学・人道など社会全般のあらゆる面を説き明らかにしたもので、
仏教百科事典とも言うべ きものです。」
だそうです。
 さらに日蓮が書いた立正安国論は
「相次ぐ国難の原因は、正法である法華経を信じず浄土宗などの邪法を信じているからだと諸宗を非難し、このまま
放置すれば国内では内乱が起こり、外国からは侵略を受けると唱えた。
逆に正法である法華経を中心とすれば(立正)国家も国民も安泰となる(安国)と説いている。」

成程これで大分物知りになった。(忘れなければね)

 仁王門の前の髭題目には花押のような物が彫られている。初めて見たが他の石碑にもこの花押があった。
本堂前には日蓮の大きな立像があり、そこにも「立正安国」が掲げられていた

  
           仁王門                    鐘 楼              日蓮の立像

 本堂の上にあった祖師堂の前には雪が残っていた。一週間前の雪が残っているとは、この辺りも雪が大分降った
のだろう。同じ静岡県でも私の住む中部の平地では風花も霙も降らず、ただ寒い雨の日だったのに随分違うものだ。
雪はこの後も所々に残っていて、途中にあったミカン畑は真っ白な雪が一面に広がっていた。
 ところでこの祖師堂と名の付いたお堂は誰を祀ってあるのだろう。祖師なのだから実相寺の開祖の天台宗の僧か
それとも日蓮宗の日蓮か。ウーン 判断がつかないな。一体どちらだろう。

 祖師堂の横には円形の平らな石に「高座石」と表示がある。きっとこの上に日蓮聖人が座って僧たちに説教を
したのだろう。ただ今では高座と聞くと寄席を演じる場所のように感じてしまう。
そうだここで講談寄席を開いたらどうだろう。演目は「若き日蓮の苦闘」

 
           祖師堂                              高座石

 前方にテーブルとベンチが見えたてきた。なんとテーブルの上には鉢植えの花が置いてあるようだ。近づいて
見ると、なんだー 極彩色の造花の花だった。テーブルも幾つかあるが景色は木に遮られていて見えない。
上からスピーカーにのった演歌が流れてくる。なんだか寺の奥の院に向かうのではなく花見に行く雰囲気だ。
アッ!そうか、これから行くのは花見だった。梅だって花見には違いないな。
それにしても桜の花見なら酒に演歌でも仕方ないが、梅見には白酒に琴の音のが似合いそうだが。

 頂上の入口に滑り台を兼ねた展望台があり子供たちが遊んでいる。チョト景色を見たくて「おじさんも登らせて」
と仲間入りさせてもらった。滑り台の降り口より上にある展望台に登ると下半身がスーとしてくる。
最近は高い所が苦手になってきているが、高い所を見ると登りたくなる性根は変わらずだ。
それにしても子供たちは元気だ。まだ幼稚園のような子が平気で走り回っていた。

 展望台から雁堤のはぼ全容が見え、鳥が飛んでいる姿と云われる「W]もしっかり見える。かってこの堤を
築いた古郡親子三代も、この岩本山に登り工事の進捗を確かめたのだろう。そして「雁堤」の名前もここから
見た形で思いついたのではないか。そんな気のする景色だった。
 展望台から東を見ると雪で少し白くなっている愛鷹連峰が、さっきより近くに見えていた。左端は最高峰の
越前岳で中央が位牌岳、一番右端が愛鷹山だ。今では愛鷹連峰と呼ばれているが、10万年以上前は富士山と
同じような独立峰で、海抜2500m以上あったという。それが位牌岳辺りの爆発により山頂部が飛び散って現在
の山容になったとか。
 愛鷹山には高校時代に鋸岳を中心に数えきれないほど登っていたが、それが最後に後は一度も登っていない。
最近になり登りたい気が湧いてきて何度か計画をたてるのだが中止してしまっている。今年は愛鷹ツツジが咲く
頃に、十里木から越前岳-呼子岳-鋸岳-黒岳と登って見ようと思っている。

 
            展望台から雁堤                        展望台から愛鷹連峰

 展望台を下りてパノラマ展望台と案内のある山頂方向に向かう。梅は残念ながら二分咲き程度か。何本か開花
している紅梅の木の周りにはカメラマンたちが群がっていた。私は遠慮をしたので花の無い梅園になってしまった。
 今日は宗清寺の富士川梅園を見ているので、左程残念な気持ちを味合わないですんだ。

     
                        岩本山梅園からの富士山

 またしても展望台の上に登ったが、こちらの展望台は低くてがっしりしていたので下半身はスーとしなかった。
この展望台からは天守(天子)山地や、その左の方には低い山だが雪を被った連山が見えていた。展望台の
案内にはその低山を指して「南アルプス」となっていたが本当だろうか? 少なくても南アルプス本体の山容では
なく、前衛の山だが山の名前を知りたかった。

           
                       展望台から見えた南アルプス?


大崩山塊・朝比奈川の河津桜

2014-02-24 09:32:35 | 低山歩き
        大崩山塊:高草山から朝比奈川の河津桜      歩行月日2014・2・23(日)
歩行時間:3時間15分   休憩時間:0時間55分   延時間:4時間10分
出発時間:9時45分   到着時間:13時55分
歩  数:  15、106歩   GPS距離9.1km

行程表
 林叟院 0:35> 笛吹段 0:35> 高草山 0:20> 潮見平 0:25> 方の上城址 0:40> 朝比奈川 0:40> 焼津駅


      
                        朝比奈川の河津桜(2014-2-23)
 
観歩記
 今日は月1回の近所の仲間とのウォーキング。総勢6人の平均年齢は70才、歩きが趣味の人はいないので
方の上城址の急な下りが少し心配だったが、落伍する人も無く全員完歩出来ました。
朝比奈川の河津桜はまだ5分咲き程度で、来週あたりが見ごろになりそうです。是非歩いてみてください。

 付加えるなら方ノ上城跡を下って朝比奈川に出合う場所が、河津桜の見所より200mほど下流だったので
コースを潮見平から右の農道を少し下って三輪口へ下り、神神社から朝比奈川に行けば河津桜の全てを見る
事が出来ます。距離も2k程度増えるだけで、城跡からの急な下りも無いので、こちらの方が楽かもしれません。

      
                        朝比奈川の菜の花(2014-2-23)

駿河百地蔵(宗清寺)2

2014-02-22 12:44:43 | 低山歩き
駿河百地蔵(宗清寺から岩本山梅園)   歩行月日2014-2-16(日)

歩行時間:6時間35分   休憩時間:2時間30分   延時間:9時間05分
出発時間:8時00分   到着時間:17時05分
歩  数:  41、403歩   GPS距離29.8km

行程表
 新蒲原駅 0:15> 義経硯水跡 0:25> 宗清寺(富士川梅園) 0:25> 岩淵間の宿 0:15> 水神社
 0:10> 雁堤 0:25> 実相寺 0:25> 岩本山梅園 1:20> 曽我寺 1:15> 広見公園 0:10> 博物館
 1:30> 富士駅 
                         雁堤(人柱伝説)

 宗清寺から県道を行き、旧東海道に合流して歩いて行くと富士川第一小学校に出た所で道は直角に曲がる。
更に次の直角に曲がる所に「岩淵の一里塚」があった。
案内板を見ると西側の榎は江戸時代からの物で、東は二代目とある。さらに案内板には「付近には岩淵名産
「栗の粉餅」を売る茶店が立並んでいた」
とある。私は宗清寺の茶店で休んだが、江戸時代の旅人も
こんな富士山を見れば休みたくもなるだろ。

          
            岩淵一里塚(西側)                     岩淵一里塚(東側)

 岩淵は吉原宿と蒲原宿の間にある間宿で、富士川の渡しに乗る大名や公家が休憩をした小休(こやすみ)
本陣跡がある。当初私はこの小休を名字かと思っていたのが、実際は少し休むの小休みでした。
マー間宿は宿泊は認められていなかったので休むしかなかっただろうが、それで経営は成り立ったのか?
 以前訪ねた遠州袋井宿の本陣跡に「本陣の経営」の説明があった。
「・料金は決められていず祝儀のようなもので、中には反物や色紙などで支払う事もあった。
 (価値のある色紙なら我慢も出来るが、下手の横好きの殿様の書いた書や絵ではな)
 ・煙管は50本だせば10本帰ってくれば良いほうで備品の補充が大変だった。
  (ホテルから備品を持ち去る輩がいるが、さては大名行列の末裔か)
(括弧内は私が追加)
こんな説明を読むと、武士道とは何だったのかと思えてしまう。 哀れ貧乏大名は出張旅費を浮かす現代の
サラリーマンより品位が落ちたのか。
 東海道を歩いていて本陣の家屋を見たのは二川宿、草津宿、土山宿の三宿しかなかった。これも経営が
苦しかったため廃業と同時に売却してしまったからなのか。
 では本陣より経営が苦しかったと思われる小休本陣が残っていたのは何故か? 
その理由と思われる事が本陣の玄関脇に建っていた案内板に書いてあった。案内板には
「常盤家は岩淵村に渡船役が移ったとき渡船名主と小休本陣を勤めました」
とある。
小休本陣だけでは経営が成立たなかったが、日銭の入る富士川の渡しで赤字分を埋めていたのだろう。

 門の入口に「西條将小休」の看板が掲げられていたが、この意味が分からなかった。家に戻りここで貰った
印刷物を読んで納得できた。これは四国伊予の西条藩の殿様(西条少将)が休憩したからだった。
エッ本陣なのだからもっと大きな藩の殿様だって休憩しただろうに、何故こんな小さな藩なのか?
理由はどうやら正規な記録がこれ以外には無いのだろう。
因みにこの記録とは「西条少将身延山参詣触状写」だそうです。

 
            岩淵間の宿本陣の黒塀                    本陣入口

 本陣の内部は無料公開されていて中に入る事が出きた。殿様が休む部屋は他の部屋より一段高い床の間付の
部屋で名前も「上段の間」と付いている。各部屋は襖で区切られていて、襖を外せば大広間になるようだ。
 庭には富士市の天然記念物に指定されている「常盤家のイヌマキ」があった。これより大きな巨木や、幹がもっと
ゴツゴツした木は見た事があるが、槇でこんなに太くゴツゴツしたのを見るのは初めてだった。

       
                上段の間                     天然記念物のイヌマキ

 小休本陣から坂を下ると旧国1の富士川橋の袂に出た。先程の富士山より更に近づいたので雪煙が上がる
のがハッキリ見る。その富士山の左下に見える低山がこれから行く岩本山だ。
さらに右の写真では雪で白くなった天守(天子)山地も見ている。同じ静岡県でも中部と東部では冬は見える
景色が違う。今回の雪も中部では山に少し降っただけで、その雪もすでに麓からは見えない。それが富士川を
越した東部に入るとこんな雪山も見えてくる。行ってみたいなー と気持ちがザワザワする。
その下には東名高速の富士川の橋も見えていた。

 
                富士川と富士山                  東名高速と天守山地

 富士川橋を渡ると水神社の社叢があり、その中に色々な石碑が建っている。中でも入口にある太く深く彫られた
宝暦8年(1758)に建てられた「富士山道」の石碑が目を引く。
 当時の富士登山は修験者や御師に引率された、所謂ツアー登山が主流だったようで、西から来たツアーは、ここ
富士川で水垢離をしたあと、富士浅間大社ならぬ村山浅間神社に向かい、そこで参拝して富士山に向かっていた。
他にも田子の浦の鈴川海岸の海で水垢離後をして、富士塚に浜石を奉納し村山浅間神社に向かうコースもあった。
きっとこちらは関東地方からのツアーだったのでしょうか。
水垢離場所はこれ以外にも富士市内や村山浅間神社にもあるので、当時は汗流しを兼ねたのかもしれないな。
 このツアー登山を主催する会社は富士講と修験宗で、富士講の添乗員は御師で修験宗添乗員は修験者だった
のだろう。富士講の現地営業所は吉田(北)口に多くあるが、表口である大宮(富士宮)口では聞いた事がない。
これは表口は本家本元の会社(修験宗)が管轄し、裏(北)口は後発会社(富士講)に譲ったと考えられないか。

 富士山道の石碑の横には平成に建てた「富士川渡船場跡」碑が建っている。説明を読むと
「慶長6年(1601)徳川家康により東海道伝馬制度が定められ、まもなく日本橋と起点とする53次が誕生した。
また、この地から数十メートル南の旧東海道沿いに岩本村が管理した渡船場詰所が存在していたといわれる。」

オッとまた悩ましい事が書いてある。渡船場はここではなく数十メートル南にあったということか? 
疑問に感じ調べてみると、富士川の渡しには上船居、中船居、下船居と呼ぶ3ヶ所の船着き場があり、下船居は
貴人(将軍、公家)専用で渡しと云うより貴人が利用する度に船橋を掛けたようだ。一般用は上、中で、中でも
一番利用されたのが中船居だったと云われている。
また大水の時などの川止めを決定する代官所の役所が水神社の横にあったという記述もあった。
こうなると私の力では判断できないが、個人的には石碑のある水神社より数十メートル下の岩本村の渡船場は
下船居で、水神社は中船居と考えたいのだが。

 調べていて他にも面白い事が分かった。江戸時代以前は富士川に限らず渡し船の料金は無料で、江戸時代に
なって有料化したとか。では船頭の給料は時の権力者が払ったかと思うと、そうではなく周辺の住民から1軒で
1升ごと処出したとか。これを「一升勧進」というそうです。
これでは地元の人は堪りませんよね、そこで徳川時代に入ると受益者負担の考えが取り入れられた。

 中央の写真の馬頭観音は江戸時代の作だが、石像の土台に「両舟場」と刻まれている。一体何を意味しているのか?
若しかして上・中船居、或いは中・下船居が文政の頃からは統合されたのか。 ウーン 知りたい!

        
        「富士山道」                   馬頭観音           「富士川渡船場跡」碑

 水神社の境内には常夜灯も幾つか立っていたが、中でも二つの常夜燈が目に付いた。
左の常夜燈は文化元年に奉納されているが傘の部分が溶岩でできている。溶岩でできた常夜灯など初めて見たが
溶岩でも細工ができるとは知らなかった。
 右は文政元年だが常夜燈の竿の部分が自然石の上に乗っている。オッ!良く倒れないなと見ると、今は台石と
竿の部分はセメントで固められていた。セメントの無い時代はどうなっていたのだろうか。台石に竿の大きさの
穴を開けて挿してあったのか? それと台石には奉納者の名前であろう「仙松、新八、小平」など七人の名前が
彫られていた。これも珍しい事だ。肩書や名字が無いのを見ると船頭が奉納したのかしら。

                  
               溶岩の常夜燈                 台石が自然石の常夜燈

 水神社から旧東海道を離れて北に向かう道に入るとすぐ「雁堤(かりがねつつみ)」に入る。今は堤の上は
遊歩道になっていて散歩する人やジョギングする人たちで賑わっていた。堤防の内部も公園や運動場、畑など
になっていて、のどかに遊ぶ人達が見える。だがここは江戸時代が始まる頃は悪戦苦闘の連続の場所だった。
富士川の流れは雁堤の上までは山地の間を流れてきたが、雁堤の上で左岸の山地、岩本山が終わると、勝手
気ままに流域を変えていた。平家が水鳥の音に驚いて慌てて逃げ出した事で有名な富士川の場所は、現在の
場所よりグンと東で、その河口は現在の田子の浦港辺りだったという。
それが戦国時代になると西に移動して、新幹線富士駅近くの川成島に移っている。そして江戸時代になると
暴れ川の富士川の流れを固定すべく堤防の建設が始まった。
 当時地元の代官であった古郡氏が、山梨県の信玄堤などを視察し「水を遊ばせ流れを受け止める場所を
作ったらよい」
と考え、およそ50年の歳月を経て全長2.7㎞にもわたる堤防を作り上げた。50年もの歳月が
かかった理由は完成する度に増水で決壊してしまったからなのだそうです。そのおかげで、いまだに現役の
堤防で現在は国交省で管理している。

 雁堤(かりがねつつみ)の名前は雁が飛んでいる姿から付いたとされているが、歩いているだけでは
その全容は分からない。途中にあった図を参考にした見取り図を書いたので参照してください。
大きなWと小さなwが連なり、如何にも鳥が飛んでいるように見えませんか。

        
                          雁堤見取り図
               平家越えの地図

 遊水地を利用した運動場の先には東名高速の赤い高架橋や新東名の白いアーチの橋が見えている。
この狭い間を流れてきた富士川は、ここで束縛から放たれ暴れ川に変貌していたのだ。
雁堤の最初の直線の角に護所神社があった。護所神社は雁堤を守護する神社でこんな説明があった。
「雁堤の工事は富士川の洪水との戦いで、堤防を築いては流され、開墾しては流され、既に代官親子三代
50年の歳月と莫大な費用が掛かっていました。
 人々はこの上は神仏に頼るしかないと考え、人柱を立てて堤を守ることにして、この日から富士川を渡って
くる者を数えて、千人目の人に人柱になってもらうことにした。
 千人目に川を渡って来たのは東国の霊場をめぐる老人でした。人々は巡礼に人柱になってもらいたいと心を
込めてお願いすると、最初は驚いていた巡礼も「私の命が万民のお役にたてば仏に仕える身の本望です」
快く引き受け、居並ぶ人々の感激の涙を誘った。
 白木の棺に入った巡礼の読経は21日間聞こえてきた云われています。以来、現在まで巡礼の魂はこの堤を
守っており、里人はこの巡礼を神様と崇め護所神社に祀っています。」


 ちょっと待てよ、何やらどこかで聞いたような話だ。しかもこの富士吉原付近でだ。
そうです、去年駿河百地蔵で寄った田子の浦港の見える丘公園にあった阿字神社もここ護所神社と同じような
人柱の三股伝説が伝わっていた。阿字神社の人柱は若い巫女で、六人の仲間の巫女も悲しんで身を投げて
しまっている。何だか嫌だなー 人柱を立てるなら云いだした人がなればいいのに。

 実は水神社の石碑には「寛永より延宝に亘りて父子三大相継ぎて辛苦すること三十有余年遂に完成し終る。
爾来長堤決壊することなく水流定まりている。」
 
一方護所神社の案内板にも「以来、現在まで巡礼の魂はこの堤を守っており」とある。成程、人柱のお蔭か
どうか知らないが、それ以来堤防は決壊していないのだと理解して堤防の上を歩いていた。
東名を過ぎた堤防の先に石碑が見えたので寄ってみると 「大正3年8月29日 台風による洪水によって、
この地が17間にわたって決壊し、濁流は岩松地区を貫流して柚木 平垣 本町 本市場まで水浸しにする
大災害となった。」 
あれー なんか変ではないのかな?

 
              雁堤から                      護所神社付近

(岩城山梅園の情報を週末前には書こうと思っていたが間に合わなかった。
先週16日時点の岩木山の梅は、一部か二分咲き程度で、見頃は23日か3月2日頃になりそうでした。)

駿河百地蔵(宗清寺)

2014-02-19 15:41:24 | 寺社遍路
駿河百地蔵(宗清寺から岩本山梅園)   歩行月日2014-2-16(日)

歩行時間:6時間35分   休憩時間:2時間30分   延時間:9時間05分
出発時間:8時00分   到着時間:17時05分
歩  数:  41、403歩   GPS距離29.8km

行程表
 新蒲原駅 0:15> 義経硯水跡 0:25> 宗清寺(富士川梅園) 0:25> 岩淵間の宿 0:15> 水神社
 0:10> 雁堤 0:25> 実相寺 0:25> 岩本山梅園 1:20> 曽我寺 1:15> 広見公園 0:10> 博物館
 1:30> 富士駅 
                         宗清寺(義経硯水)

 昨年結願した駿河百地蔵の中で一番大きかった地蔵尊は富士川町(現富士市)宗清寺の「笠被り地蔵」だった。
だがそのときデジカメのメモリを忘れて写真を写す事が出来なかったが、門前の「富士川梅園」の看板を見て
来春に梅見を兼ねて再訪しよと考えた。
そしていよいよ梅見の頃になったこの頃、重い腰を上げて出かける事に-----
 それでも宗清寺だけでは距離が短すぎると、矢張りその時に見落とした蒲原の「義経硯水跡」にも寄る事に
したがそこれでもまだ短い。周辺を調べてみると富士の岩本山の梅が有名だったのでその辺りも歩いてみよう。

 新蒲原を8時に出発。今回は東海道線の南側を歩かず北側の旧東海道を歩いて義経硯水を探してみる。
ほどなく蒲原宿の東木戸に着いて、横にあったお地蔵さんを見に行くと神社の由緒書が建っていた。
「諏訪神社は保元年間、六本松付近に建てられた御宮に始まる。当時六本松辺りまでなだらかな丘陵が続き、
すぐ東側に富士川の奔流が流れ、富士川はしばしば反乱をしては、丘陵を削り付近の住家や農作物に被害を
与えていた。そのため住民は信州上諏訪大明神の御分霊を勧請して水難守護神としてお祀りした。
 その後も富士川の水害が度重なり、御宮も流出の危機に迫られ元和六年の水害の折り現在地に遷座した。」


 この縁起書の意味を考えながら1・2分歩くと、今度は蒲原の一里塚の案内が目に入った。
「蒲原の一里塚は、元禄12年(1699)の大津波で流出して、宿の移転にともなってここに移されました。」
たった2分も歩かないのに諏訪神社では富士川の洪水、一里塚には津波とある。
二つの出来事の年代を整理してみると、
諏訪神社の元の神社が建てられたのは万葉時代の保元(ほうげん)年間で1156-1159年になる。
その後も洪水は繰り返し元和6年(1621)に現在地に移転している。
一方一里塚は元禄12年(1699)の津波によって宿場と共にこの山側に移転している。
さらに一里塚から100mほど東で、旧東海道は突然左に折れて新坂を登り、山中に入って行く。この新坂の道が
完成したのは天保年間(1840年代)だと云う。
それまでの東海道は宗清寺の門前などの高台の道を通っていたが、崖崩れなどが度々発生して、その都度新道を
開通させていたが、最終的に海寄りの高台は止めて、新坂を登り山中を通る街道になったようだ。

 私はこの辺りを歩く度に何故岩淵ばかりが山の中の道になり、蒲原宿や由比宿は海岸沿いの街道だったのか
不思議に思っていた。それが今回歩いて何となく整理が出来た感じがする
1、万葉時代の東海道はJR富士川駅前の旧国道1号線と同じようなルートで海岸線を通っていた。
2、江戸時代(元和)には富士川の氾濫が続いたため、現富士川橋辺りから山手に上がり、宗清寺前等の高台を
  通り海側にあった蒲原宿へ抜けていた。
3、元禄の大地震による津波により蒲原宿は流出したため、寄り山寄りの場所に街道と共に移転した。
4、天保になり高台の道の修復ができなくなり、山中を行く東海道になり、それが明治まで続いた。
 こんな具合に街道は変遷してきたと思うが、これはすべて私の妄想的歴史観で正しいという保証はない。。

 今日は新坂を通る東海道には行かず、天保時代以前の東海道を行く。と云うと格好が良いが、要は旧国1を
歩くに過ぎないのだ。道が旧国1に合流した少し先に義経硯水跡はあった。
 義経硯水とは義経が鞍馬寺を逃げ出し、金売り吉次と奥州を目指して東へ下る途中、乗っていた船が難破して
蒲原の海岸に打ち上げられた。義経は病の床に就いたのだが、中々どうしてちゃっかりしていた。
 旅の途中、三河で土地の豪族の娘浄瑠璃姫を籠絡していて、姫に看病に来るように手紙を書いたのだった。
その手紙を書く硯に入れた水が湧いていた跡を義経硯水とよんでいた。
浄瑠璃姫の話は百地蔵の鉄舟寺で紹介してあります。
それにしても義経はマセていたのですね。鞍馬寺を脱出したのが15歳だったのだから。

 義経硯水碑の碑文には、祀られている五輪塔は鎌倉時代の作だとある。幾つかあるうちの五輪塔だが、
そのどれかは浄瑠璃姫の墓なのだろうか。

 
                 諏訪神社の由緒書                       義経硯水跡
          義経硯水の地図

 旧国1から大分高台にある宗清寺の門前の道が東海道で、笠被り地蔵はこの山門の右手に鎮座して旅人を
見守っていたのだ。旅人は大きな地蔵の慈顔に溢れた顔を見ながら、これまた雄大な富士山を眺めれば旅の疲れも
癒やされた事だろう。ここに茶屋があれば繁盛したに違いない。

 
                 宗清寺                            無縁塚
          宗清寺の地図

 おやこの像は何だろう? 右手に軍配、肩には釣竿を担いでいる。顔は丸顔でどうやら陶然としている感じだ。
酔っている? ウーンそれなら酒仙人だ。私もあやかりたいな。
 笠被り地蔵の安置されているお堂の中に珊瑚で彫ったような十一面千手観音も祀られていた。 

          
              酒仙人?              十一面千手観音

 宗清寺は前回も紹介しているので笠被り地蔵の写真だけ見てください。

   
                      笠被り地蔵

 前回は登らなかった寺の上段にある墓地を登って行くと、ドバンと富士山が見えた。昨日降ったで雪を被った
富士山が寺の屋根越しに見えていた。
 視線を右に移すと富士川越しに愛鷹連峰も薄っすら雪を被ってみる。ここからは薄っすらとしか見えない雪だが
現地行けば相当積もっているのだろう。行きたい気持ちはあるが、この齢ではもう無理だろうな。

 
             相輪と富士山                       愛鷹連峰

 墓地の上にある富士川梅園の梅は、まだ5分咲き程度か、それでもこんな写真を写せて満足、満足。
富士山に雲がへばりつくように見えていた。最初は雲と思ったが、よく見るとどうやら雲で出なく雪煙のようだ。
雪肌から舞い上がった雪煙は、少し上空に飛ばされると消えてなくなっていく。
雲ならこんな簡単には消えないだろう。

   
                      富士川梅園

大崩彷徨(花沢山・花沢城址・北のピーク)3

2014-02-17 17:14:25 | 低山歩き
大崩彷徨(鉄道遺跡・444峰・池の平)   歩行月日2014-2-11(火)

歩行時間:7時間55分   休憩時間:3時間00分   延時間:9時間55分
出発時間:7時20分   到着時間:17時15分
歩  数:  31、929歩   GPS距離21.7km

行程表
 用宗駅 1:30> 花沢山 0:15> 石部峠 0:20> 314m峰 0:40> 兎沢遺跡 0:20> 花沢駐車場
 0:20> 花沢城址 1:30> 高草山 0:20> 池の平 0:25> 北のピーク 0:40> 立石神社 0:35>
 堂殿三角点 1:00> 焼津駅 

                         北のピークへ
   
                       兎沢遺跡から花沢城址付近の地図

 花沢城址から高草山に行く道が初めての時は分かりにくいので説明しておきます。
上の地図で花沢城址から下って来たら、変則な五差路を北に直進すると道が左右に分かれます。左は高崎
集落への道で、高草山は右の道に入ります。後は当分農道を上に上にと登って行きます。

 五差路の角に標識がたっているが、高草山の案内はかなり遠回りになる「高草山石脇入口」を案内している。
これはその道が「やきつべの道」で案内したいからなのだろうか?しかし農道を遠回りしても特に見るべき物も
無いので直接を高草山に行く道をお勧めします。なお、標識の石脇入口と高崎不動産の道は同じ道です。

 
              花沢城址から五差路                 五差路の標識

 標高が徐々に高くなるにつれ午前中歩いた山が見えてきた。花沢山から石部峠へは急な下りたったが、
写真を見ても峠の上の傾斜が急に見える。あの辺りが長い階段があった所だろう。峠の先のピークからは
尾根が延びている。あれが314m峰に続く岩の多い尾根道だ。314m峰はあんなに登った覚えはないが、
かなり高いピークに見える。ピークからの下りはよく分からないが多分あの辺りだと思う。

 農道が高草山メインの農道に合流する所で石脇からの登山道とも合流する。ここは登るときは標識がある
ので明確だが、花沢駐車場に下る標識が無いので自然と石脇への登山道を下ってしまう。尤もその通りに
行けば、先ほどの花沢城址の五差路に出るのだから間違いではないが。
しかし私はいつも花沢城址へ直接出る近道の農道を歩いている。

 
              花沢山から314m峰                 農道の合流部
          農道合流部の地図

 山道を登って行くと坂本(林叟院)Aコースの道と合流するが、そこには何故かパンジーを植えた花壇がある。
更に登ったベンチの所が坂本(林叟院)Bコースとの合流部になる。
高草山には何ヵ所もの登り口があり、その代表的なものが坂本(林叟院)口と石脇口で、中でも坂本口は駐車場が
ありAコースからBコースへと周回コースをとれるため利用する人が多いようだ。
石脇口は焼津駅から一番近いため徒歩組が利用しているが、今日紹介した農道を歩けば、花沢駐車場-
(石脇口)-高草山-鞍掛峠-花沢駐車場の周回も出来ます。夏の暑い盛りは木陰の鞍掛峠から登り、
石脇口を下れば暑さを避けることができ良いと思います。

 ところでこのベンチに座っていると、春の一時期は近くの藪の中に入ってい行く人を見かけます。
何だろうと後をつけて行くと、黄スミレの群生地に出ました。
もうこの場所は公然の秘密のようになっているので、この程度の案内をしても許してもらえるでしょう。

 合流部を過ぎ満観峰への分岐の下の道は雪が溶けてグジャグジャになっていた。降ったばかりの雪は
素敵だが、溶けだして汚くなった雪は始末に負えない。だがここは誰がやってくれたのか笹を道に敷いて
くれてあったので余り汚れずに済んだ。

 
             坂本Bコートの合流部                笹を敷いてある道

 満観峰への道の合流部は高草山から富士山を眺めるポイントだが、今日は残念ながら余りにも霞んでいて
写真では判別できなかった。山頂の標識の前のベンチの上には痩せ細った雪ダルマが置いてあった。
前回山頂のドコモの鉄塔の門扉が珍しく開いていたが、どうやら塗装工事をするのか建物の周りに足場を組み
作業している人の姿が見えた。

        
             瘠せた雪だるま                  鉄塔の修復工事

 今日は用宗から石脇口出合までは、石部峠で松理さんと会っただけだったが、石脇口の登りでは何人もの
下山者と擦違い、高草山山頂でも休憩している人がいた。
だが高草山の三角点を過ぎ、富士見峠に行く道に入ると余り登山者に会わなくなる。案の定、今日も富士見峠
と池の平の間では誰とも会わなかった。もうこの先で人に出会うことは無いだろう。

 池の平で公的な標識は終わるが、そこから先も稜線を進む。目印のテープやたまに手製の標識もあり不安は
感じ無いが、送電線の鉄塔を過ぎた所にTVの共同アンテナ(?)が建っている。この場所には目印が二手に
付いていて迷ってしまうが、左に下るのは農道への目印で、北のピークは右へ登る目印に沿って行く。
以前この農道を下った事があるがグルグル、グルグルと随分遠回りをして麓に着いた事があった。
 稜線を進むと三角点がありその辺りからは志太平野の眺めが良くなる。そして道の両側が茶畑になると
北のピークだ。そこの茶畑を見るとモノラックの右の茶畑は刈込まれているが、左の茶畑は整備されていない。
この分だと今年はお茶摘みはしないのだろうか。これで右の茶畑も放置されるようになると茶の木が伸び放題
になり景色も見えなくなる。それだけでなく、今でさえ狭い茶畑の間の道は通れなくなるってしまう。
私が思うに北のピークの眺めは、藤枝市の中でも一、二を争う景色だと思うので、藤枝市で何とかして欲しい
のだが------- この北のピ-クの道が整備されれば、藤枝市の立石神社から北のピーク-高草山-満観峰
-宇津ノ谷道の駅を結ぶ眺めの良いハイキングコースが出来るのだがな。
 今日の北のピークからの眺めは良くなかった。

 
             共同アンテナ?を右へ               北のピークの茶畑

 昨年12月に北のピークに来た時は、ピークから農道までの道が荒れていてHPで紹介するには相応しくなく
感じた。そこでもう一度道の状態を確認してからHPから削除しようと思っていた。しかし今日その道を歩いて
みると前回とは様相が違う。先ず笹の生茂る藪は前回は足元も見えない状態だった、それが今日は写真の
ように笹が切り開かれていた。その藪の中に雪が残っていて足跡が見える。最初は雪の後もこの道を歩いた
人がいたんだと思ったが、足跡を良く見てみると靴の跡ではなさそうに見える。中央の写真の足跡は踵部分と
爪痕が二つ見えるのは偶蹄動物か、ならば鹿の足跡なのだろうか。右の写真は爪先が4個残っている。これは
兎? それにしては大きすぎる様な気もするが。

      
     竹藪の道                    人の足跡と思ったら動物の足跡だった

 前回は蔓が覆い被さり中々前に進めなかった茶畑の道も、こんな具合に整備されていた。小屋を過ぎ前回
間違って左に下り農道に出てしまったが、こうしてみると確かに間違いやすい場所だ。農道に行く方は広く
なっていて山道は藪の中に続いている。しかし藪の中の道には目印が付いているが農道には付いていない。

      
             茶畑の道                   前回間違った場所

 間違いやすい分岐から山道を進み放置茶畑の周りを回って林の中に入る。林の中は目印が次々あるので
方向は分かるが何せただ滑り下ったような跡を降りるので中々疲れる。前回は林までの道が荒れていたので
林の中は楽に感じたが、今日は林の中の方が大変に感じた。
 林を過ぎれば農道に出る。ここから下の景色を見るとホッとする。ここまでで荒れ地を歩くのは終わり
ここからは普通(いやチョット大変かな)の山道になる。

     
            最初の農道からの景色              農道下の道

 3ヶ所農道を横断する場所があるが、いずれもそれぞれの入口には目印が付いているので分かると思う。
ただ最初の農道の下り口は林の中から降りた場所と少し離れている。農道に出たら農道を少し右に行き
カーブになった出っ張りの所から下る道になるので目印を確認してください。ここから先の道は基本的には
窪地になった沢の部分を下るが、一部窪地が崩れている所もあるが巻道がついています。
現在はともかくこの道は以前は大いに利用されていたのではないかと思える道です。
 落葉が積りクッションの利いた道になると、そろそろこの道も終点で、正面の窪地が笹や雑草に遮られた
所で左に抜ける道がある。そこを登れば立石神社の裏手に出ます。
 神社から北のピークに登るときは、立石神社左側一番奥の境内社の左側から登山道に入ります。

 今日歩いた限りでは十分歩くことはできるのでHPから削除する事はない。だが夏場の草の生茂る時期は
避けた方が良いだろう。私自身も夏には歩かないし歩きたくない道だ。
 
      
       落葉の積もった道                  立石神社の境内社

 次の予定は近くにある筈の「内谷三角点」を探す予定だったが、すでに時間は3時半を過ぎている。
この三角点について石部峠で松理さんが「見つけたら儲けもので、見つけれなくて当り前」と言っていた。
さてどうしよう、そんな探しにくいのでは、今から探しに行くのでは駅に着くのが遅くなってしまう。
止めた! またしても終りがけの藪漕ぎを恐れて簡単に中止してしまった。
 三角点の有る筈の高台を見ながら歩いていて少々反省した。こんな事をしていたらいつまでたってもHPが
完成しない。とは云え今から戻るのも嫌だし------ そうだ神神社の近くにある「堂殿三角点」なら標高も
低くお寺の墓地の高台にあるということだ。そうだそこの三角点を探してみよう。

 当初予定していなかった通称「高草街道」と呼ばれている県道213号を焼津に向かって歩き始めた。
三輪登山口の大きな看板を過ぎ十輪寺の入口にある墓地に入る。さて高台は何処にあるかと見渡しても、墓地の
上は全て高台だった。イヤイヤ良く見れば小高いピークの上に何やら祠らしき物が見える。きっとあれに違いない
と墓地を横切り登り始めた。この高台のあちこちには木蓮の木が植えられていて大分膨らんだ蕾を付けている。
そういえば十輪寺は木蓮の名所で、春には木蓮祭も開かれている。自分の趣味ばかりに浸っていないで、たまには
妻もこんな場所にも連れて来てやらなければと反省した。(実行は中々伴わないが)
今年の十輪寺の木蓮祭は3月16・17日に開催するそうです。木喰上人の微笑仏も拝観できるのでお勧めですよ。

 想定に違わず高台に三角点があった。そこから神神社の社叢がすぐ近くに見えるが、余りに近すぎてここが
神神社の御神体では有難味が欠ける気がする。それを証拠立てるように高台にあった祠は、神神社に背を向けて
いて、中には新しい木蓮観音と馬頭観音が祀られていた。これでは神社の御神体ではないな。

      
     北のピーク(左端)と十輪寺                 三角点から神神社の社叢

 三角点を下れば完全に終盤モードに入りのんびり歩きになってしまった。何時になく西の尾根がクッキリ
見えていたので写真を撮る。一番左が北のピークで右端の鉄塔が高草山の祠のある山頂なのだが、この
位置から見ると、少し左の三角点のある頂の方が高く見える。
最近祠側についた標識には標高が502.9mと書いてあり、三角点は501.4mなのだから明らかに祠側の方が
高いはずなのに不思議なものだ。


      西の尾根

 2月26日には近所の人と高草山に登り朝比奈川の河津桜を見に来る予定をたてている。その時の開花
状況が気になり土手を歩いてみるが、小振りの木は花を付けていたが、大きな木は蕾の状態だった。
一人で来る分には咲いていなくても簡単に諦められるが、他人を連れてくるとなると神経を使ってしまう。
幾ら神経を使ってもどうにかなるものではないと分っているのだが。

 
           朝比奈川の河津桜                    瀬戸川と簡保の尾根

 今日歩いたコースを少し変更して今の時季が最高のコースを考えてみた。
用宗駅-鉄道遺跡-石部峠-314m峰-兎沢遺跡-高草山-北のピーク-立石神社

今なら大崩の旧150号が通行止で車が少ないので車道歩きには適しているし、石部峠や314m峰の他人の
歩かない道も楽しいものです。線刻画のある兎沢古墳も一度か見るのも良い。尤も古墳の外からは線の
有る無しは判別できないが。そして北のピークは今の時期が一番良い。雪を被った富士山や南アルプス
を是非堪能してください。そして慣れない人には少し辛いかもしれないが整備が確認された立石神社に
下る道も経験してみてください。県道に出れば焼津駅行のバスが何本も走っています。

大崩彷徨(花沢山・花沢城址・北のピーク)2

2014-02-15 09:31:58 | 低山歩き
大崩彷徨(鉄道遺跡・444峰・池の平)   歩行月日2014-2-11(火)

歩行時間:7時間55分   休憩時間:3時間00分   延時間:9時間55分
出発時間:7時20分   到着時間:17時15分
歩  数:  31、929歩   GPS距離21.7km

行程表
 用宗駅 1:30> 花沢山 0:15> 石部峠 0:20> 314m峰 0:40> 兎沢遺跡 0:20> 花沢駐車場
 0:20> 花沢城址 1:30> 高草山 0:20> 池の平 0:25> 北のピーク 0:40> 立石神社 0:35>
 堂殿三角点 1:00> 焼津駅 

 
         井尻峠付近の地図(黄=今回歩いたコース  赤=ハイキングコース)
                         314m峰から花沢城址

 簡保の尾根から314m峰には2本の道があり、1本は石部峠の30m下辺りから左の斜面を横断するような
比較的平坦な道と、あと1本は峠から砂張屋の道標に向かったピ-クの上から下る道がある。
この道の使い分けは、花沢山から石部峠に来た時は、石部峠を下る道の方が楽に行け、道標側から来た時は
ピークから下る道の方が楽で便利です。
 石部峠を花沢の水車小屋に向かって30mも下ると、左の杉の木に赤ペンキで丸い印や目印のテープ類が
あるので、探す気になって歩けば見落とす事はないでしょう。その分岐から左の斜面の登り気味な道を行けば、
すぐピークからの道と合流します。石部峠からは5分も掛かりません。
 ピークの分岐個所は、道標側から来た時、石部峠手前のピークに公的標識が建っています。ここにも目印の
テープが幾つもあるので注意していればわかるでしょう。その目印から尾根を2分も下ると合流部に出ます。
 
 合流部から314m峰の尾根道は、大崩山塊では他では見る事のない無い岩尾根(大袈裟)で、左側(南)の
方には焼津の町が樹間からチラチラ見えています。尾根道は赤ペンキやテープの目印が付いていて迷う事は
ありません。
 
      
                         314m峰に向かう尾根道

 合流部から小さなピークを2ヶ所越え、約13分ほどで少し平らになっった314m峰に到着。
折角のピークだが周りは背の高い木で目隠しされていて視界はきかないが、北の方向の木の間から日本坂峠の
鞍部が見えている。一昨年の台風で日本坂付近は倒木の被害が多かったが、まだその倒木が点々と見えていた。
山頂には大正9年に花沢区の建てた祠が祀られていて、その横の木には竹竿が建ててある。という事はこの祠は
まだ現役で祀られているのだろう。なら下る道も整備されているのかもしれないと、淡い期待を抱いてしまった。

        
                314m峰                          314m峰から日本坂峠方面

 淡い期待は簡単に打ち砕かれ大崩山塊名物の林の中の急斜面に入る。だがここの斜面は先週下った444m峰
から廻沢林道への下りと比べ随分楽だった。傾斜も緩いし距離も短い。ただ勘違いしないでください。楽な道とは
云っても階段が有るわけではないし、一定の幅の道が続いているわけではない。ただ林の中に付いている踏跡と、
目印を目当てに下るだけですから。
 そんな道の途中から高草山が見えてきた。高草山の高さからいって大分下がってきているので、農道に出合う
のも間近だろう。その合流する農道を右(北)に向かえば、石部峠から水車小屋。更に進んだ行けば日本坂峠や
鞍掛峠の入口に通じている。反対の左(南)に行くと兎沢遺跡からの農道と合流し、さらに行けば砂張屋の道標の
峠の入口に通じている。だがこの山道がその農道のどの部分に出るのか分からないが、出来る事なら農道の
最上部を過ぎてから合流して欲しい。何故なら中々急だった登りの農道を歩きたくない --------

 314m峰から10分も掛からず農道に合流した。そして出た場所は何と期待通り農道の最上部の場所で、前に
行っても後ろに行っても下り坂だった。
しかしこの合流した場所から山道の入口は分かりずらかったので、目印のテープを付けてきたが、付近は背の
低い笹竹しか無かったので分かるかどうか。ともかく農道の最上部で、左側の側面は岩になっていて、右側は
笹竹を踏みつけた跡がある。そこを少し入って上を見れば目印のテープが木にぶら下がっています。

        
               高草山が見えた                  農道と山道合流部

 農道を快適に下りはじめ、余りの快適さに深く考えずに最初の農道分岐を右に下ってしまった。100mほど
下ったカーブの先は------- 何と道の上には雑草や落葉が散乱していて車が走った気配が無い。
そうです、この道はすぐ行き止まりです。最近2度もこの道は歩いていたのに油断して間違えてしまった。
仕方ない分岐点まで登り返して先に進もう。
 山道と農道の合流部から15・6分程度で兎沢遺跡に通じる農道に合流した

  
              最初の農道は下ってはダメ           ここを右に下る

 分岐点には梅の花が咲いていて花の奥には高草山が見えていた。更に高草山の下にはこれから行く花沢城址の
ある山が見えている。その山の正面は急峻な崖のようで、東名高速のある左側も傾斜がきつい。
これなら花沢城は難攻不落の城だっただろう。
 前回行った方ノ上城跡は山の斜面にあったが、ここは山頂部分が平になっているので、素人の私でも城跡の
痕跡が分かるかもしれないな。

 
              分岐点に梅が咲いていた                   花沢城址のある山
           兎沢古墳の農道分岐地点の地図

 農道の分岐点から3分も下ると「兎沢古墳群」の立札が右側法面の鉄柵に立っているので、見落とさないで
ください。遺跡の入口を登ると下には東名高速や新幹線が見えている。この景色を見ると古代人も眺めの良い
場所が好きだったのだと改めて感じてしまう。
 
 
             兎沢遺跡入口                        兎沢遺跡から東名や新幹線が見えた

 兎沢遺跡について興味のある人は前回の記事を参考にしてください。

        
                            兎沢遺跡の古墳跡

 兎沢古墳から農道をテクテク下る。途中にミカンと梅の花が一ヶ所に咲いているのを写したり、自分が古墳を
作るなら見晴らしが良く、石の多い所が良いなどと辺りを見ながら下って行く。そんな目で見ると、その条件に
合う場所があちこちにある。
 314m峰の尾根もそうだったが、この辺りは岩が多いように感じる。その圧巻だったのは、農道が終わるころの
東名の排煙施設のある付近には大きな岩が幾つもあった。こんな場所は大崩山塊では見た事がないが、付近の
雑草や樹木を伐採すれば、古墳どころか磐座が現れるかもしれない。そんな感じだった。

 農道が花沢観光駐車場に行く道に合流。兎沢遺跡からここまで15分程度で下ったが、かなり傾斜のきつい農道
だった。合流部を東名のガード側には行かず右折して駐車場に向かう。
11時20分花沢駐車場に到着。少々腹が空いてきたが、もう少し我慢をして昼飯は花沢城址にしよう。

 
              梅とミカン                          花沢観光駐車場
          花沢観光駐車場の地図

 花沢観光駐車場からやきつべの道の坂を登ると花沢城址の看板がある。その案内板の城の縄張りを見ると、
今歩いて来た道の切通しは城の堀の一部だと書いてあった。だとすればかなりの規模の城のように思える。
縄張りの曲輪の下部は採石場と書いてあるが、ここは農道の上から見た東側斜面の崖なのだろう。
さらに図では現在地より上の部分に等高線が無く平坦に見えるが、これは等高線が省略されているだけで
実際の地形は全て斜面です。
 こうしてみるとこの城の攻撃口は余り無く堅牢な城に思えるが、実際はどうだったろう、案内板を見てみよう。
「花沢城址~駿府の西の要~
 花沢城は日本坂・小坂間の街道を押さえる駿府の西の守りとして、今川によって築かれた戦国時代の山城です。
築城に時期は不明だが、甲斐の武田信玄による駿河進攻にともない激戦地となった事で著名です。
信玄は花沢城の進攻にあたり、城を見下ろす西側の高草山山中に陣を構え、永禄13(1570)年正月4日攻撃が
開始された。天然の要害を利用した城の造りと城兵の勇敢な抗戦により、落城したのは正月の27日だった。」

 どうですか思った通りの難攻不落な城で、武田信玄がこんな小城の攻略に3週間の日にちを費やしている。
これで今川にもう少し過日の勢いがあれば援軍が来たのだろうが、義元亡きあとの今川の大将氏真は駿府を逃げ
出し、遠州掛川城に匿われていた。これではいくら堅牢な城とは云え落城するしかなかったろう。

   
              花沢城の縄張り(赤字は追加)

 城址の中の農道に入ると「花沢城址 一ノ曲輪・二ノ曲輪」の立て看板があった。そこからら山道を登ると
山頂の一ノ曲輪の平坦地に出る。思っていたより広い空地でそこには花澤城址の記念碑や稲荷神社、より
詳細な縄張り図などがあった。

 
               花沢城址入口                        花沢城址
          花沢城址の看板の地図

 城跡からは西の方向が開けていて焼津の町が見える。更に北の方角には高草山が見えていた。
その高草山の麓には高崎集落も見えている。今迄このが何故こんな高台にあるのか不思議に思っていたが
この花沢城から集落を眺めていると、ある妄想が浮かんできた。
この花沢城は一応平地はあるが将兵が生活するには狭すぎる。そこで身分ある侍たちは高崎集落や麓の館に
住んでいる詰城と館の関係だったのではないか。きっとそうだ、そうなら高崎集落の住民の先祖は花沢城兵
だったに違いない。早速高崎集落について調べてみた。
結果は満足するようなものは見つからなかったが、このな記事があった。
「高崎は明治8(1875)年に馬場村(高崎上)と成沢村(高崎下)が合併して成立した。
一般に「ばんば」と呼んでいる馬場村は、花沢城の馬場が置かれたのが地名の由来という。 」

マー当たらずとも遠からずだ。

 昼飯を食べ二ノ曲輪に向かったのだが、広場の先は雑草や樹木や放置された茶の木などが生茂っている。
一段低くなっているのは空堀なのだろうが、私には自然の地形にしか見えない。これでは先に行っても猫に
小判だ。と簡単に諦めて来た道を下ってしまった。

 それでも出合った農道を行き止まりまで行ってみたが、何も目に付くものは無かった。

 
               花沢城址から焼津                   花沢城址から高草山と高崎集落

大崩彷徨(花沢山・花沢城址・北のピーク)

2014-02-13 10:00:48 | 低山歩き
大崩彷徨(鉄道遺跡・444峰・池の平)   歩行月日2014-2-11(火)

歩行時間:7時間55分   休憩時間:3時間00分   延時間:9時間55分
出発時間:7時20分   到着時間:17時15分
歩  数:  31、929歩   GPS距離21.7km

行程表
 用宗駅 1:30> 花沢山 0:15> 石部峠 0:20> 314m峰 0:40> 兎沢遺跡 0:20> 花沢駐車場
 0:20> 花沢城址 1:30> 高草山 0:20> 池の平 0:25> 北のピーク 0:40> 立石神社 0:35>
 堂殿三角点 1:00> 焼津駅 


                         花沢山

 今日の目的は石部峠から314m7峰を通り、兎沢遺跡近くの農道に出る道を歩く事と、何度も延期していて
未だに寄った事のない花沢城址に行く事だ。
 用宗駅を前回と同じく7時20分に出発し、海岸の堤防の道を西に向う。生憎の曇り空で伊豆半島は薄墨色で
富士山も見えていない。駅から15分も歩いた所の堤防に「東海自然歩道(満観峰コース)」の案内板が張って
あり、そこから堤防の道を右折して離れる。旧国道150号を横断してJR東海道線石部踏切を渡る。

 
             堤防の案内板                       石部踏切から

 踏切を渡り新幹線の横の農道は中々賑やかな所で。新幹線と東名高速が花沢トンネルに入る時の衝撃音が
響いてくる。
 農道法面の階段の横に貼ってあるバイパスコースの案内図を見て、迷わず階段を登ってしまったが、メインの
コースにしては余り歩かれていない感じがする。道に散乱している細い倒木を取り除きながら進むが、どうも
おかしい。山道に入ってすぐにこんな荒れ状態になるなど考えられない。どうやら早速間違えてしまったようだ。
と思った頃、前方に農道に登る鉄の階段が見えた。ともかくあの階段まで行ってみよう。
 この道は何年か前に一往復しただけだが、分り易い道だったので事前調査はしてきてない。しかしハイキング
コースの入口は農道の左側だった記憶があるので、そのまま農道を進むと、ありました。
農道左の左側にバイパスの案内板と登山道入口の標識が。

 
          最初の案内板の階段はダメ                 入口の道標の入口を入る

 普通大崩山塊では農道から山道に入っても、茶畑やらミカン畑があるのだが、ここは傾斜がきついのか植林
された林ばかりだ。そのため視界は効かない急な山道だが、東海自然歩道のバイパスコースだけの事はあり
標識はしっかり建っている。
 山道に入って20分も歩くと左手が明るくなった。晴れていればきっと海が見える場所だろう。ならばこの下は
大崩海岸の海上橋の上あたりか。ならあの崩壊ヶ所の上でもある。クワバラクワバラ君子危うきに近寄らずだ。
 「花沢山 6分」の標識を見て想定より意外に早かったので気を良くして歩いて行くと、前回見た覚えのない
物があった。「石部山お飾りの碑」とあり「石部山のおかざりは  酒に酔ってまっ赤ぞ ------ 」とある。
これは平成22年に地元の石部町内会で設置したとあるが、文中にある「石部山」とはどの山を指しているのだ
ろうか。まさかこの花沢山の事を用宗側は石部山と呼んでいたのか?
 このあたりから道は稜線を進むようになる。さっき見た「あと6分」から10分以上経ったが一向に山頂に
着かない。いやその前の簡保の尾根からの合流部にも着かない。傾斜を増してきて道をブツブツ言いながら
歩いていたが、15分以上経っても着かないのは私が標識を見間違えたのだろう。
アーア写真を写しておけばハッキリしたのに。

 
               石部山お飾りの碑                     石部山お飾りの碑

 花沢山山頂付近は三日前に降った雪が少し残っていて、この山には珍しい景色を見せていた。実はこの山行の
当初の予定は、二日前の9日に来る積りだったが、雪に恐れをなして自宅待機なってしまった。何が怖いかって?
それは雪の中に履いてくる靴がないからです。今はウォーキングシューズは4足もあるが、キャラバンシューズの
ようなハイカットの靴は、3年前に手入れが悪く、ビブラム底が破裂してしまってから買っていない。
歳と共に靴も軽いのを好むようになってきて、最近では低山歩きでもすべてウォーキングシューズで間に合せて
いる。そんなわけで雪の中を歩くのは怖くなってしまうのです。

 花沢山山頂で登山ノートの入った箱を開けてみた。すると中からA4版の鉄道遺跡の写真が出てきた。へーと
思いながら日付を見るとつい最近の日付だ。若しかして、と思い登山ノートを見てみると。 ピーンポン!
私が鉄道遺跡に行ったとき石部峠下で出会った藤枝のNさんが写したものだった。あのときNさんに行ってきた
ばかりの鉄道遺跡の話をしてデジカメの写真も見せた。するとNさんは「行ってみる」と言ったが本当に行ったんだ。
何となく嬉しいな。私の言葉を信用して行ってくれたとは。
尤も私も今日はNさんに教えて貰った、石部峠から314m峰に抜ける道を歩きに来たのだから同じようなものだが。

 
              花沢山頂の反射板                     花沢山山頂の航空灯台の土台

 花沢山から石部峠への道に入った所は山桜の大木が何本もあり、春の桜の頃に来るとチラホラ散る花びらと、
その花びらが辺りを覆い風情のある道に変わる。その桜の木の中にまるで疣と云うか太鼓腹というか奇妙に
幹の一部が膨らんだ木がある。何故こんな風になったのか分からないが少々気色悪く感じる木だ。
 その木が過ぎると花沢山名物の長い階段になる。ここは大崩山塊の中でも一番長い階段で、これを嫌って
花沢山を避ける人もいるが、この階段があるお蔭でこの山も登る気になる人もいる。
これでこの階段が無ければ花沢山は静かな山のままだったろう。
 大崩山塊で階段が無い坂としては先週行った444m峰や28号峰もそうだ。それに今日行く北のピークや徳願寺
尾根の梵天山もそうだが、それらの全ては静かな山で貸切状態を楽しめる。
そうだ今日これから行く314m峰の農道への下りはどうだろう。当然階段は無いだろうから林の中の下りとなるが
雪の影響でズルズルしてないと良いが。

      
       瘤取り桜                     上を見ても下を見ても長い階段

 石部峠に着くと先客が一人いたので挨拶をしてメモを書きだすと「はぐれさん?」と声が掛かった。
「エッ!」ナントマー 先週に引き続き松理さんと遭遇。これで3回山中で松理さんに会った事になる。
偶然が3回も続くと必然だとも言うが、松理さんとは何かご縁があるのかもしれないな。
 松理さんは「安倍山系 下巻」執筆の調査で314峰に来ていたのだが、こんな道も紹介してくれる本なら
発売されたら是非一冊購入しなければ。その調査も今日が最後なので今春には発売すると言っていた。

大崩彷徨(鉄道遺跡・444峰・池の平)4

2014-02-08 16:09:24 | 低山歩き
大崩彷徨(鉄道遺跡・444峰・池の平)   歩行月日2014-2-1(土)

歩行時間:6時間45分   休憩時間:2時間45分   延時間:9時間30分
出発時間:7時20分   到着時間:16時50分
歩  数:  25、287歩   GPS距離17.1km

行程表
 用宗駅 0:40> 鉄道遺跡 1:10> 石部峠 0:45> 鞍掛峠 0:35> 444峰 0:40> 廻沢林道
 0:35> 28号峰 0:40> 池の平 0:45> 三輪バス停 0:05> 神神社 0:50> 焼津駅 




                         28号峰から池の平・三輪

 ここは何処だろう。444m峰を下って合流した林道の場所が分からない。林道の横に川が流れていて、上空には
送電が見えている。だが他に目ぼしい目標物は無い。こうなると私の地図を見る能力ではどうしょうもない。
合流した場所を詳細に言うと、林道の登り方向の左に小さな茶畑があり、その上には給水施設がある。
そのためか林道は一部太くなっていて駐車スペースもある。茶畑の入口には大きな石もあるので次回は見落とす
事はないが、今時点のこの場所の位置が分からない。
 廻沢林道は大きく分け、集落と28号峰への林道分岐の間。28号峰分岐と高草山への林道分岐の間。そこから
鞍掛峠までの間に分ける事が出来る。この合流地点がその何処に当たるか、ヒントにしたのは川の位置だった。
まず鞍掛峠の下の部分で水が流れている沢は見た覚えがないので除外。高草山分岐と28号峰分岐の間も沢の
記憶はないが、28号峰へ行くのに右の橋を渡るのだから川は右側にある事になる。集落から28号峰の分岐までは
川は林道の右にも左もなったような記憶がある。これでは結局分からない。
さてどうしよう。右に行くべきか左に行くべきか。ハムレットの悩みになった----- そうだ何も悩む事はない。
一番困るのは集落に出てしまう事だから、林道を下らず登って行けばよい。それで28号峰の分岐があったら
28号峰から池の平に向かえばよいし、高草山への分岐だったらその林道を登り廻沢峠から花沢城址に行こう。
そして鞍掛峠に出たら矢張り花沢城址に向かえばよい。ただそれだけの事だ。
(国土地理院の地図では正確な場所の特定はできなかったが、マピオンの地図には給水施設と思われる印があった。
また28号峰の林道にも前回紹介した酒屋の小屋や登山道登り口の橋が記載されていた。地図にはここからどうぞ)

 行先の決断がつき、いざ出発しようとすると上から先程出会った人が下りてきた。実は山道で出会った時に
体つきから、昨年暮れに北のピークで会った松理さんではないかと思ったが、更々自信は無く黙っていた。
だが林道に浜松ナンバーの車を見て、松理さんが掛川在住っだたの思い出し、若しもの感が強くなっていた。
挨拶を交わした人が車に行くのを見て「浜松から来たのですか」と聞いてみると「掛川から来ました」との返事。
「若しかして松理さんですか」と聞くと「はい松理です」ピンポーンだった。

 このブログに時々コメントを書いてくれる松理さんの事を紹介ここで少し紹介します(松理さんいいですよね)
松理さんこと松浦理博氏は安倍山系 -登山道詳細-」の上・中巻を2009年と2011年に発行しております。
本の内容は拝見していないため案内できませんが、北のピ-クや444m峰でお会いしたという事は、一般の
登山道に限らず、およそ踏み跡のある所は全て紹介してくれてあるのではないかと思います。
さらに今年の春には、高草山・満観峰の大崩山塊や日本平の周辺を網羅した下巻を出版予定しているそうです。
松理さんは、このような安倍山系の詳細案内をするのが「自分の使命」だと感じているそうです。

 使命感に燃えている松理さんと比較して、何と程度の低い私なのだろう。いや自分と比較すること自体が
おこがましい事だ。私の低山歩きの目的は、ゴールで乾杯する程度の事なのだから。
こんな私でも5年前には大崩山塊の全コース紹介と、山塊に含まれる寺や神社、城跡、三角点、草花などを
総合的に案内するHPの作成に取り組んでいた。一応完成し公開していたのだがパソコンを入替えたときに
未完成のデータを転送して壊れてしまった。その後修復に挑戦していて、コース案内は9割方終わったが、
他の項目の修正が遅々として終わらない。
理由は簡単でHPを見てくれる人が殆どいなく、HPの1年間がブログの1日分にもならない状態です。
だいたいHPの管理人本人が長ったらしいアドレスを覚えていないし、検索するワードも分からない状態だ。
こんな状態なので修復する意欲は無くなってしまいました。
しかし松理さんにお会いして再度HPに挑戦しようかと思い始めました。松理さんは紙ベースで、私はネット上で
詳細なコースを案内して大崩山塊を歩く人の役に立とう。と、でもどうなるか-----------
一応HPのアドレスを紹介しますのでご意見などを聞かせてください。
   http://www.geocities.jp/s_kiisan/index.htm

 またここで30分ほど話し込んでしまい歩き出したのは1時10分。時間的にはまだ何処にでも行ける時間だ。
林道を100mほど歩いて行くと前方には見た事のある風景が。そう28号峰への林道の分岐点でした。
こうなれば先ほど決断したように28号峰から池の平に行くしかないと、連続3回目の28号峰の登りに向かった。

 28号峰の登りはきつく感じるが、444m峰と比べてどうだろう、或いは高草山の石脇口に比べたら----
主観的には28号峰、444m峰、石脇口だが客観的には分からない。そこでこんな事を思いついた。
      山頂標高 登り口標高   差    直線距離    角度
28号峰  318m    171m    147m    223m    56.6°
444m峰  444m    136m    308m    730m    22.9°
高草山   502m    213m    289m    1100m   14.7°
 (登り口標高は地理院Web地図、直線距離はマピオン地図の距離測を利用した)

こうして見れば28号峰の登りがいかにきついか分かるが、距離が短いのが救いです。
どうですかこの方法は、余り正確ではないが主観的よりは正しそうな気がするが。

 一汗かいて28号峰の尾根に着くとタラの木が目に付いた。ここの西側の斜面は最近樹木を伐採したのか
低木だけが生えていて、その中にタラの木がチラホラ見える。春に来ればタラの芽の土産があるかもしれないな。

 高草山からの尾根道に合流し、今日は北のピークへと向かって歩き出す。若干下り勾配の尾根道が何と楽な事か。
池の平に14時30分到着

 
                池の平                        道の下がほじれていた
          池の平の地図

 池の平から案内標識に従って下り、茶畑の出口に赤い目印のテープを巻いておいた。これで次回は上りの時も
間違いなく歩く事が出来るだろう。
前回この道を歩いたとき、時石から農道までが「通行禁止」になっているが、支障なく歩けると紹介した。
今回そこを歩いてみると、下っている時は気づかなかったが、下から上の道を見たら道の下が一部崩れていた。
大袈裟に言えば道が庇状になっているので、谷側を歩けば崩れるかもしれません。矢張りここは指示に従い
歩くのは止めた方が無難でしょう。
ただ、池の平から下って来た時は回り道の表示はあるが、時石から池の平に向かう登りは分かりにくい。
時石で池の平への通行禁止の標識を見て、潮見平に向かい山道から農道に出る分岐点には潮見平への
標識は有るが池の平への標識が無い。
池の平に向かうときは、この農道を少し下り、次に農道の分岐する所で、右の上りの農道に行かないと池の平へ
行く事が出来ない。相変わらずこのコースは一方通行を貫くつもりのようだ。
この先は赤いテープを見落とさないで行けば、近道になるハイキングコースを歩く事が出来ます。

 今迄池の平から時石の道は何回も歩いているが「大杉」の標識が有るのにも拘らず、大杉を見た事がなかった。
近くのミカン畑の農家の人に聞いても「有るには有るが周りに杉の木があって分からない」との事だった。
それが今回歩いてみると「ここは大杉」の石碑と案内板が設置されていて、大杉の前の木が伐採されていた。
案内板によると「大杉の落枝や枯葉などを家に持ち帰り、焚き付けや薪にして使うと、一家総死か一家総病に
なると言い伝えのある、ありがたみの無い大木です。」
とあった。そうか、そのため今まで隠してあったんだ。

          
           顔を出した大杉                          時石

 神(みわ)神社については、今までに何回もブログで紹介してきたので簡単に紹介します。
 奈良県桜井市三輪にある大神(おおみわ)神社は、日本最古級の神社で本殿は無く、三つ鳥居の先にある
三輪山を神体として崇めた、古代信仰の形態を残している神社です。ここ神神社も奈良の大神神社と同じ神を
迎え入れて、同じ三つ鳥居の先の山を神体として崇め、悪病退治を祈願している。
また神社の地元の地名も、大神神社の場所と同じ「三輪」と名付けられている。
 これを知った当初は、この三つ鳥居の先の御神体の山はてっきり高草山だと思った。だが何故三輪山ではなく
高草山か理解できなく、きっと高草山の名前は後世になって変えたのだろうと思っていた。
だが高草山の名前は江戸時代の古文書や、文明五年(1473)に藤枝の蓮華寺池公園の高台で
「富士はなお 上にぞ見える 藤枝や 高草山の峰の白雪」とも謳われている。
そうなると高草山改名説は成り立たない。しかも高草山山頂にある社は「高草山大権現」で神でも三輪でもない。
さらにその社は神神社の方角に後を向けた格好で建っている。

 
                神(みわ)神社                       三つ鳥居
           神神社の地図

 そして今日は方位磁石と地図で三つ鳥居の先を調べてみようと思っていた。
高草山は三つ鳥居の下から見る事が出来ないが、見える範囲の一番近い場所からは北北東30°の方向にある。
一方三つ鳥居の向きは東北東50°位の向きに建っているので高草山とは一致していない。
しかし三つ鳥居の先を伸ばしていくと三角点のあるピークに到達する。ならば神神社の神奈備(かんなび=
神が居ます場所、神が隠る所)の山は、この三角点のピークではないのか。
と妄想的歴史観は叫ぶのですが。

 大崩山塊の三角点の調査をやるには今が一番向いている時季だが、今日はもう4時に近い。とかなんとか
理由をつけて行かないのだからどうしょうもない。さっき松理さんの使命感に感心して自分もと思ったのに
早速逃げている。これではHPの完成は何時になる事やら。

 
        朝比奈川の河津桜の蕾は固い                  と思ったらこんなのもありました

大崩彷徨(鉄道遺跡・444峰・池の平)3

2014-02-05 17:31:24 | 低山歩き
大崩彷徨(鉄道遺跡・444峰・池の平)   歩行月日2014-2-1(土)

                             444峰へ

 海岸の鉄道遺跡から旧150線に戻り西に進むと、すぐ青い屋根の喫茶店がある。この家は前回も見たが、
まさか家の下にトンネルは無いだろうと、屋根を見ただけで引返してしまった所だ。
店には車が停まっているので人は住んでいるが、店は開いているか閉まっているかは分からなかった。
 店の先のカーブを曲がれば石部峠の入口だが、標識がないので道路標識に赤い目印を捲いておいた。

 
              旧150号の喫茶店                    石部峠の入口の道路標識

 今日は富士山が見えないので小浜の大崩海岸は中止して、前回と同じように石部峠に向かう事にした。前回
歩いてからまだ2週間も経っていないが相変わらず、登りは分かりにくい道だ。所々に目印の赤いテープを付け
ながら登って行って、沢が分岐している場所で右の沢を登って行った。これは前回のブログでも紹介した
「沢の分岐は右の沢を行く」が頭に残っていたからだ。
しかし30mも登って行くと見慣れない風景になった。細くなった沢の先が小さな岩場になっていた。こんな場所は
今まで来た事はない。間違ってしまったのだ。付けた目印を外して沢の分岐まで戻る。
何の事はない、そこには標識が付いていて左には目印も付いていた。要は歩いたばかりの道なので、慢心して
いたのだ。危ない!危ない! 気を引き締めよう。

          
        沢の正面が岩場になっていた                ここを左に行く

 峠近くの3軒目の小屋の下の木に、足掛かりの付いたロープが取り付けてあった。小屋の持ち主がこの木に
登って海の景色でも眺めたのだろうか。それにしても林の中の何も見えない場所に何故小屋を建てたのだろうと
毎回疑問に感じながら通過する。小屋を過ぎた所から別の踏み跡があるが、その先は倒木で歩けそうもなかった。
 実は石部峠を20mほど花沢山側登った所に焼津市で建てた標識が建っている。その標識の「かんぽ下 花沢
山頂」
は正しいが、下を指している「石部」方面は踏み跡の無い場所を指している。
きっとここを強引に下れば先程の倒木の道に通じているだろう。だが今はここより下の鞍部が峠になっていて、
南は石部、北は花沢の水車小屋への手製の標識がついており、もっぱらその道が利用されている。
焼津市は一昨年、山頂下に「□△山頂まで ○○m」の標識を建ててくれたが、そのときこの標識も移動していれば
更に良かったのだが。

       
            ロープのある木           倒木の道             石部への標識

 石部峠を下り林道の合流近くで今日最初のハイカーに遭遇すると「早いですね- どちらから来たのですか」
声を掛けられた。私が「鉄道遺跡から来た」と答えると、鉄道遺跡に興味を示し、話に花が咲いてしまった。
今写してきたデジカメの写真を見せながら道を説明すると「今日は150号線の上道の整備に来たので、ついでに
行ってみる」
と言う。道の整備? それではまさかあの人か 慌てて「岡部のSさんですか」と聞くと
「いや違います。Sさんなら今日は満観峰にいますよ」との事だった。
それからも道の話や花の話などで盛り上がったが、その中で石部峠のからこの道を通らずに、314峰経由で
農道に出る道も最近整備したという。
それなら兎沢遺跡に行くには、ここを下るよりに近くなるので今日歩くのも悪くなさそうだ。
だが更に魅力的な話も出てきた。「一昨年Sさんが444峰の山頂から直接廻沢に下る道を作った」と言うのだ。
ウーンそれなら前回歩いた28号峰の尾根に続くルートが出来るかもしれない。ならそっちの方が良さそうだ。
今からそこへ行ってみるのも悪くないな。ウーンどっちにしよう兎沢遺跡か、それとも444峰か。

花の話では「この山に咲くのはアツモリ(敦盛)ソウではなくクマガイ(熊谷)ソウで、以前は10株も咲いていたが
一昨年は7株になり、去年は3株になってしまった。だが秋に見たら1株しかなかったが今年は咲くかどうか」

「二輪草も昨年土砂が被ってしまってしまい駄目だった」そんな訳で場所は教えて貰ったがここでは書きません。

 それでも今年はこの花を見に来るつもりなので花の特徴を調べてみた。
花の色はアツモリソウは赤花で、クマガイソウは白花なので一目で判別できそうだ。名前の由来は
「膨らんだ形の唇弁を昔の武士が背中に背負った母衣(ほろ)に見立て、がっしりした方を熊谷直実(くまがい
なおざね)に、優しげな姿の方を平敦盛(たいらのあつもり)にあてたものである。花色がそれぞれ白、赤っぽい
ため源氏の白旗、平氏の赤旗に見立てたための命名ともいわれる。(ウィキペディア)」

成程でも何故名字と名前になるのだろう。敦盛草なら直実草。あるいは熊谷草なら平草のが自然と思うのだが。
面白い小話があったので紹介します。

「アツモリ(敦盛)ソウはクマガイ(熊谷)ソウに合わせて、苗字の平草にしたらどうかと言うと、アツモリソウは
動揺することなく、平家(平気)な顔をして黙っていた。
そこで今度は源氏のクマイガイ(熊谷)ソウに対し、名前のナオザネ(直実草)ソウにしたらどうかと言うと
クマガイソウは動揺することなく こう怒鳴ったそうだ。「名前は直さねー(直実)」


 この平敦盛と熊谷直実と似た話が、この簡保の尾根の下にあった青木の森でも伝えられている。
「武田と徳川が青木の森での戦の折、武田の武将須藤左門は、徳川勢の初陣の若者石川某をあっさりと
組伏せてしまった。だが須藤は石川の余りの若さが息子の顔と重なり、そのまま背を向けると後から討たれて
しまった。須藤を討ち取った手柄から石川家は旗本の身分に出世をしたが、何代後かの石川家の当主が、
駿府城に行くたびに急死をするので、須藤左門の怒りを鎮めるため石祠を造り青木の森に祀った。」

詳しくは以前紹介したこちらをどうぞ。

 他にも藤枝には熊谷直実に縁の深い「熊谷山蓮生寺」もあるので、それも簡単に紹介します。
「一ノ谷合戟では、心ならずも平家の貴公士敦盛を討ち、泣く泣く首を落とした事実が、後年熊谷直実の出家の
動機になったもいわれている。
 出家して蓮生と名乗った直実が、母の見舞いのため修行中の京より、故郷の熊谷庄に帰る途中、遠州の
小夜の中山で賊に襲われたが、蓮生は賊言うままに路銀を与えてしまった。大井川を渡り藤枝の宿まで来ると
路銀が尽きてしまったので、藤枝宿の福井長者に借金の申し込みをした。
長者に「質物として置いてゆく物が無ければ貸すことはできない」と断られると蓮生は、
「然らば大切な十念を質にいたそう。」と言い、長者に向かい「南無阿弥陀仏」と唱えた。
すると不思議な事に直実の口の中から金色の阿弥陀仏が現れ、一緒に唱えていた長者の口中に入っていった。
10度唱え10体の阿弥陀仏が長者の身体の中に収まると、感激した長者は直ちに路銀を蓮生に差し出した。

 蓮生の介護も空しく、母の死を弔い、翌年京に帰る途中、福井長者の屋敷を訪れ、借りた銭を返し
「質に入れた念仏を戻して下さい。」と申し入れた。困った長者がどうしたらよいか蓮生に尋ねると
「ただ、南無阿弥陀仏と称えなさい。そうすれば必ず戻ります。」と答えた。
そこで長者は手を合わせ、心の底から念仏を唱えると、口の中から阿弥陀仏があらわれ、蓮生房の口中に戻った。
9回くり返し9体の阿弥陀仏が戻されるのを見ていた長者の妻は、最後の1体となった時、
「できることなら、あと一遍の唱名と1体の阿弥陀様を私達にお預け下さい。」と懇願した。
蓮生は長者夫妻の真剣さに打たれ快く承知して旅立って行った。そして長者は蓮生の弟子となり仏門に入った。
藤枝の岡出山の麓にあった福井長者の屋敷を念仏道場の蓮生寺としたのが、蓮生寺開創の由来である」


こんなに志太地区とクマガイと縁があるなら是非ともクマガイソウを見てみみなければ--------

     
               アツモリソウ                        クマガイソウ

 立ち話をしてい居る二人の横を5組のハイカーが通って行った。そろそろ話を切り上げないと迷惑になってしまう。
そうして別れたのは会ってから40分は経っと頃だった。藤枝のNさんありがとうございました。

 農道に出たら兎沢に行くなら左、444峰なら右の鞍掛峠に向かわなければならない。さてどちらにしよう。
でもNさんに444峰の道の事を聞いた時点で心は決まっていた。444峰に行ってみると。

 農道から花沢が見えている。この景色は宇津ノ谷峠から見た宇津ノ谷集落とそっくりな感じがする。
鞍掛峠から見える444峰(多分)は傾斜もなだらかで踏み跡さえ分かればどうという事のない山のように見えた。
 鞍掛峠には私より歳の多い女性が休んでいた。靴も服もズボンも山の格好で老山ガールといった風情だ。
「80過ぎたら孫が一緒に連れて行ってくれなくなったので一人で来るしかなくなった」と話しかけてきた。
スゴイナ― 80歳過ぎても一人で満観峰に来るのだから大したものだ。感心して少し話をする。
老女は立ち上がり出発の気配だ。私は写真を写したり時間や距離をメモしていて、少し出遅れてしまい内心
困ったと思った。私が先に出るなら「お先に失礼します」と言って出かけられるが、途中で追抜くとなると
どうしよう。そんな事を考えながら数歩後を歩いていた。
だがそんな心配は無用で、二人の間は徐々に離れていく。無理をすれば追いつける速さだが無理はしたくない。
私が蔦の細道の分岐に着いた時、その女性は休憩から立ち上がり歩き出すところだった。
何分休憩していたか分からないが、私の脚力の低下は隠しようがない。特に最近は早足で歩く事が苦手に
なってしまってい、今もこんなザマだった。
 
          
          農道から花沢集落                      鞍掛峠から444峰

 蔦の細道分岐から珍しく2組のハイカーと擦違ったので「蔦の細道からですか?」と聞くと、どちらも「そうだ」
返ってきた。この道を歩く人させ少ないのに廻沢から444峰へ来る人はいないとは思ったが、若し廻沢林道
から来たのなら降口を聞こうとしたが駄目だった。
 前回紹介した444峰手前から南アルプスと満観峰の見える場所の入口に赤いテープを張っておいた。
これなら誰でも分かるだろう。今日は満観峰は勿論見えるが南アも富士山も見えていなかったが、丸太の
ベンチに腰かけて昼飯を食べる事にした。

 平らな444峰の山頂は普通なら見落としてしまいそうな場所だが、道はここで向きを西から北に変えている。
そして山頂部分には何故か線が張ってあり、その線に赤い目印が付いている。これはここで向きの変わる尾根道を
踏み外さないために張ってあるようにも思う。
 さて廻沢林道に下る道は何処にあるか。慎重に辺りを見回すと、線の裏側に沿って踏み跡が付いている。その
踏み跡を少し辿って行くとすぐ目印のテ-プを見つける事が出来た。

 
          蔦の細道分岐                      444峰山頂

 目印は一ヶ所だけでなく下って行く踏み跡の先に先にと付いている。更に少し行った所には岡部のSさんの
「←廻沢」の標識もあったので、もうこれで安心だ。前回歩いた時は444峰山頂より北の尾根にあった茶畑から
林道への道が延びていると予想したが、山頂から直接下る道だった。
私としてはこの方が有りがたく、下って出合う林道の場所がなるべく鞍掛峠や28号峰の入口に近い方が
次のコースを考えやすくなると思っていた。

 この道は最近作った感じではなく、以前からあった山の点検用の道を利用したようで、しっかりした踏み跡の
所や、斜面を横断する場所は踏み跡の判断をしにくい所もあった。だが注意して前方を見れば、必ず目印が見えて
いたので不安は感じないで済んだ。それに持っていたテープを追加して付けたくなる所もない状態だった。

          
                Sさんの標識                      林の中の薄い踏み跡 

 途中ロープも張ってあったが危険防止用というより道案内用といったロープだった。ただこの辺りはロープより
左奥の木に目印が幾つか見えていたが、それは無視してロープに従って下ると、しっかりした道に出た。
しかし下に下ってくると鞍掛峠から見た緩やかな斜面とは、とても思えないような斜面になり、これがあの山?
といった感じだった。山頂から40分も下ると水音が聞こえ沢の上部に出るとSさんの標識があった。この標識は
山道の入口や出口でなく、少し入った所にある場合が多いので、ここでも林道はもうすぐだろう。
案の定沢に沿って下って行くと林道が見えてきた。

 この道の途中からの景色は皆無で、登りの時は上りだけ、下りは下りだけの道で面白味は無く、この道を
目的に歩きたくなる道ではない。ただ28号峰と関連付けられれば周遊コースの設定も出来そうだ。
果たして合流する林道の場所は何処だろう。

 実はこの山道の途中で擦違った人がいたのだが、それは次回紹介します。

 
            ロープがあった                       林道合流