はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

宇津ノ谷峠から444m峰

2017-07-31 15:57:16 | 低山歩き
歩行記録                                                           H29-7-23(日)
歩行時間:3時間45分   休憩時間:0時間45分   延時間:4時間30分
出発時刻:10時30分     到着時刻:15時00分
歩  数: 15、307歩(推定距離10.86km)    GPS距離10.1km
行程表
 坂下地蔵堂 0:15> 宇津ノ谷峠 0:25> 蔦の細道峠 1:10> 444m峰 0:30> 鞍掛峠 1:25> 焼津駅

                         宇津ノ谷峠から蔦の細道峠概略図


  どうせこれから歩くなら宇津ノ谷峠と蔦の細道峠の間を歩いて、その差を実感するのも面白そうだ。
それから先はその時考えるとして、兎も角家に4時までに戻りTV桟敷で千秋楽を楽しむ事ができるようにする。
と云う事は焼津駅には3時頃には着かなければならない。マーそんな気持ちで坂下地蔵堂を出発しました。

          
                     蔦の細道との分岐                                髭題目

  地蔵堂を出ると道は分岐していて、直進する道は蔦の細道で左に上る道が宇津ノ谷峠に向かう旧東海道です。
ここの分岐が国の史跡指定の開始点になるのだが、何とも中途半端な気がする。
指定の根拠は 「交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡」 となっているが、説明文は
 「歴史の道整備事業によって地蔵堂跡等を明らかにした。崩落土の除去等をおこない、多くの人々がハイキングを楽しめる
環境を整えた。近世東海道のうち、静岡市と藤枝市との境にある峠越えの道筋を、関連遺構とともに指定する。」
となっている。
ならば宇津ノ谷峠越えの旧東海道だけでなく、蔦の細道や明治、大正トンネルも史跡に加えた方が、歴史街道の変換が良く分
かると思うのだが。史跡の見直しは無いのだろうか。

  旧東海道の道幅は広く、これなら大名行列も通れそうな感じがしたが、それもそのはずで道脇にある案内板にはこの道の事を
 「旧東海道(別名:大名街道」 と紹介していた。内容を読むと道幅の事には触れてなく、読んだか限りでは東海道なら何処でも
 “大名街道” になってしまう感じだった。
しかしこの案内板に書いてある事は私もうなづけることが多く、例えば峠道の開通時期や十団子による鬼退治の事は
 「鎌倉幕府は部隊の行進ができない旧道(蔦の細道)を廃し、新道を開いたのが宇津ノ谷峠道である。上り下り八丁(約870m)の
険路であった。ここで鬼退治にからむ十団子の伝説の生まれたのも、難所であった証拠であろう。」
と書いてある。

  宇津ノ谷峠を紹介するネットの多くは、江戸時代に開通したとしているものが多いが、私は疑問を感じていた。
この案内板にある様に鎌倉時代に宇津ノ谷峠があったかは分からないが、少なくとも今川家が駿府に常駐する頃には有ったと
思われる。今川の部隊は駿府から何度も遠江に遠征に出かけて、その度にここを山越えしていた。
今川の武将の中には地元岡部の岡部氏もいたのに、態々標高も高く傾斜も強い蔦の細道を行進したとは思えない。
地元の岡部氏なら近くに住む猟師や木こりから山の状態を聞く事ができ、険路の蔦の細道の近くに、標高も低く傾斜も緩い鞍部が
ある事を掴んでいたと思う。いやそれより前から地元坂下(岡部)と逆川(静岡)住民は昔から宇津ノ谷峠の道を歩いていたと思う。
もっと言うなら本当に蔦の細道があったのか、私は疑問に感じている。

  なんて言い切ったら、江戸時に “つたの細道” の存在を明らかにした 「蘿径記(らけいき)」 という石碑が建っていた。
現在その石碑は坂下地蔵尊境内にあるが、浅学の私に難し過ぎて読む事が出来ない。
蘿径記は江戸時代の駿府代官が宇津谷の古道を愛し、その消滅を恐れて建てた石碑という事です。
そうなると蔦の細道はあった事になるので、私の妄想的歴史観は成り立たないことになってしまう。しかしそれでも納得できず、蔦の
細道には石仏も無いが、蔦の細道より更に古い日本坂峠には、それらしき石仏や史跡もある。と反論が頭に浮かぶのでした。

          
                     排煙設備との分岐                         宇津ノ谷峠の新しい階段

  太かった東海道が峠の下に来ると突然細くなる。写真右の舗装路は国道1号線の排煙設備に行く道で、峠には柵の所を行きます。
  宇津ノ谷峠には前回も書いたが新しい階段ができていて、「満観峰➜」 の標識も付いていた。
確かにここを尾根伝いに行けば満観峰に行けるし、途中に危ない所は無い。しかしこんな標識と階段を見た初心者がその気になって
入り込んだらどうだろう。きっとハイキングコースの満観峰を想像していた人は、アップダウン多さや距離の長いことに驚くだろう。
矢張りこのような場所の標識は、ハイキングコースから奥まった見えない所に付けるべきだと思う。

          
                       排煙装置                             蛇がいないといいのだが

  なんだかんだと言っても階段があったお陰で難なく排煙設備に行く舗装路に出る事ができた。でも初めての人がここに立ったら
早速悩むでしょう。舗装路を進むのか法面にある階段を進むのか。
マーどちらからでも行けるが最近の私は専ら舗装路歩いている。理由は勿論楽だからです。

  蔦の細道への道は排煙設備の奥の西側から入り込むのだが、雑草が生茂っていて中々入りにくい。蛇がいませんようにと念じ
ながら草を掻き分けて進みます。

 
                 羊歯の道                                 最初のピーク

  雑草の生茂っていたの排煙設備の場所だけで、林の中に入れば羊歯の間の道になり気持ちよく歩く事ができる。
最初のピークは丸みを持った穏やかな傾斜で、名付けるならここを 「宇津の山」 と名付けたくなる。
ここで方向を東に変えるのだが、直進する方向には 注意 これより先行き止まり。下の道路には行けません。」 となっています。
このピークのの標高は227mで峠から62m上がりました。

           
             いい道もあるが                              蔦の細道の峠が見えた

  ピークからの下りは明瞭な道と踏み跡の薄い場所があるが、左の斜面側は下らないようにします。
二つ目のピークは下りだすと放置された畑があり、その横は雑草や低木が生茂り、左に巻く時があるが必ず右に戻ってください。
そうして宇津ノ谷峠から20分余も歩けば蔦の細道に到着です。少し大げさに書いたけどマー普通の道です。

  宇津ノ谷峠から蔦の細道までの標高を比べました。
          標 高    標高差
宇津ノ谷峠   165m      0m
排煙設備    215m     +50m 
ピーク1     227m     +12m 
鞍 部      201m     -26m
ピ-ク2     231m     +30m
蔦の細道    195m     -36m      距離はGPSでおおよそ800mでした。

こんな事を書いて何を言いたいのかって? 
ようは、たったこれしか離れていない場所に、楽に山越えできる鞍部があるのだから、そこを利用しないわけはない。
最初の官道を造るのに必ず地元の住民の協力を得た筈です。それなら蔦の細道が官道になるわけはない。
と、まだ自分の妄想的歴史観に拘っている私です。

  さてこれで一応目的は果たした。昼飯も食べ終わり時刻は11時50分。このまま蔦の細道を坂下に下りバスで帰るか。
それとも静岡側に下り安倍川駅まで歩くか等と考えているとき、どうせなら最初の東海道の日本坂に行ったらと思い出した。
ここから満観峰まで私の足で約2時間弱で、日本坂までなら3時間も掛からず行けそうだが、それでも日本坂峠には2時半
頃にはなってしまう。そこから花沢へ下り焼津駅までを1時間半としても、焼津駅には4時着になってしまう。
焼津駅にはせめて3時頃には着きたいと思っているのでこれでは駄目だ。問題外だ。
なら満観峰まで行って鞍掛峠から焼津駅はどうだろう。これなら満観峰から焼津駅までを1時間半で歩けばなんとかなる。
と、云うことで蔦の細道峠から最初のピークを目指して歩き出した。

                      蔦の細道から鞍掛峠の概略図


                                          (標高は地理院Webにて測定)
  蔦の細道から444m峰の間にある二つのピークは中々上りがいがあり、特に一つ目と二つ目のピークの上りはきつく感じる。
峠から第1ピークまでの標高差は約107mで、次のコルから第2ピークまでは83mある。数値だけ見れば第1ピークの方が
大変に感じるが、中々どうして私には2番目の上りの方がきつく感じる。
 第2ピークから444m峰までは標高差112mもあるが、この間は距離も長いため疲れはするが傾斜は左程でもない。
444m峰から満観峰は、満観峰300m下の分岐までは歩きやすい下りで快調に歩ける。ただ最後の分岐から満観峰は傾斜は
強いものの、距離は短く山頂が近い事もあり左程の事はありません。

 満観峰からの帰りは、分岐までは傾斜は強いので注意して歩くが、分岐から鞍掛峠までは標高差が115mあるものの歩き
やすい下り坂です。

   
          第1ピークへの上り                キノコ                      キノコ

  歩き出すとじきに急な上りが始まったが思ったより快調に歩けた。加齢による脚力の低下と真夏の暑さの中なので心配していたが
これなら静焼アルプス縦走の時より快調そうだ。
もう生え始めたキノコを写す余裕もあり、放置茶畑のある第1ピークに13分で到着した。
第1ピークから急な傾斜を下れば直ぐ最初の鞍部に着く。

  上りだしに調子が良いと感じたのが良かったのか、二つ目のピークも休まず上る事ができた。
この快調さは今月になってから再開した、大井川の河川敷歩きがもたらしたものだろうか。先月までは月に3・4回の低山歩き以外は
家に閉じこもり、その毎日の歩数は300歩から500歩に過ぎなかった。
これには流石の私も驚き、せめて成人男子の平均歩数である7千歩は歩かなければと河川敷歩きを再開したのです。
その効果が早速出た? まさかなぁー。でも調子が良いのはいいことだ。

   
          鞍部近くの大木               鞍部の木の根の道                ここにもキノコが

  二つ目の鞍部の近くには名前は分からないが大木があったり、木の根が張めぐされたネットの上を歩いたりする。
鞍部にはこのコース唯一岩もあり、他とは違った雰囲気を感じさせます。

 
         これがあればピークは近い                               キノコ?

  木の根の鞍部を歩きだした当初は傾斜はきつい物の、すぐに道をゆるやかに登る道になる。
ダラダラと上っていくと道端にモノラックの残骸があり、その手前には農業用のケーブルの架線もある。(頭を引っ掻けないように)
ここまで来ればピークは近いが周りには茶畑はない。これはこの先のピ-クの茶畑の収穫物を、ここまでモノラックで運び降ろし、
ここからはケーブルを利用して麓の逆川集落まで降ろしていた当時の残骸です。

          
                        放置茶畑                              唯一草が生えていた道

  前方が明るくなり高草山から北のピークへ続く尾根が見えてきます。以前はもっとスッキリ見えていたのですが放置茶畑や雑木が
延びて見えにくくなってしまいました。さっきのモノラックはこの茶畑まで続いていたのでしょう。
地理院の地図で見ればこの放置茶畑が426m峰だと思われるが、この稜線は静岡市と藤枝市の境界になっていて、尾根より西は
藤枝市になっている。なのでこの茶畑は藤枝市で、ケ-ブルの先は静岡市になる。
私はこの尾根の下の廻沢集落の住民は、きつい傾斜の上まで茶畑やミカン畑を造り勤勉な人たちだと思っていた。なのにここでは
静岡の逆川の人に越境されている。なら逆川の人たちの方が勤勉なのだろうか?
余裕があるのかどうでもいいことを考えながら歩く。

  放置茶畑の横の道は日が当たるので雑草が延びていた。しかし蔦の細道から満観峰までの間でこんな場所はここだけでした。
このコースは市のハイキングコースンは認定されいないが、ここに公の標識さえ立てればすぐにハイキングコースになりそうです。
静けさだけが取り柄のこの道が賑やかになってしまうのは残念な気がするが、多くの人に歩いてもらいたい気もあります。

          
                    ギボウシ(擬宝珠)                              ギボウシ(擬宝珠)

  444m峰の手前にギボウシ(擬宝珠)が咲いていた。この花は大崩山塊でもよく見かけるが、いつも見るのは葉っぱだけで
花を見るのは久し振りだ。名前のギボウシは橋の欄干にある玉ねぎを逆さにしたような物(擬宝珠)と、この花の蕾が似ている
ことからギボウシになったそうです。
左の写真の一番上にある蕾を上に立てたら擬宝珠に似ていますか。

          
                         444m峰                                 並木道 

  快調さを感じながら444m峰に着いたのは12時57分で、蔦の細道から1時間7分で歩いたことになる。多分ここ2・3年で
一番の速さだったろうと感じた。この気分的快調さは焼津駅まで続き、予想していたより早く焼津駅に着いたと思っていた。

  しかしです。家に帰り平成25年からの静焼アルプス縦走時の蔦の細道・444m峰間のデータを調べてみると、62分、65分、
60分、70分、67分と毎年余り代わり映えはしない値でした。
今回快調だと思った67分も、昨年よりは若干良い程度で大した違いなかった。それに今年は計測開始点の蔦の細道の前には
たったの6.7kmしか歩いていない。
それが静焼アルプスでは、アップダウンのきつい道を倍の13kmも歩いていた。これでは3分速くなったと喜ぶわけにはいかない。

  でもマァー444m峰に着いた時は満足感で一杯で、満観峰に向かう足取りも軽かった。

 
              満観峰・鞍掛峠分岐                               鞍掛峠

  満観峰・鞍掛峠分岐に着いたのが13時15分。ここから満観峰の往復は休憩を入れても約30分で行ってこれるが、更にその先の
花沢の里までが30分は掛かってしまう。となると焼津駅までを45分で歩かなければならない。
これではとても無理なので即決満観峰は止めて、そのまま鞍掛峠を目指して下りだした。

 鞍掛峠に13時31分到着。いいぞ! この調子だと思いながらも花沢の里から焼津駅までの長さを思うと自信は揺らぐ。

 
               アラー!通行止だ                              今日唯一の景色

  鞍掛峠から山道を下りだし最初の農道に出合って考え方を変えた。このまま花沢の里へ下りやきつ辺の道を行くと、距離は長くなり
アップダウンも増えてしまう。それなら農道を花沢城跡へ向った方が距離も短くアップダウンもない。
楽になることならすぐ採用で山道と別れ農道を歩き出した。

  嘘だぁー! 農道に通行止の看板が出ていた。ここの回り道を行ったら急な上りが続き酷い目にあう。それは嫌なのでそのまま
農道を行くことにする。今日は日曜日で多分工事もやっていないだろうし、工事現場では隅を歩けばなんとかなるだろう。
しかし前回の花倉城跡の通行止は、橋が完全に無く渡ることができなかったが、ここは大丈夫だろうか。

  工事は崖側の法面の工事で、山側は車も通れるくらいの巾があった。工事をやっているときは仕方ないとしても、今日のように
工事が休みの時は 「本日規制なし」 と貼紙してもらいたいな。

          
                        ヤマユリ                                    キノコ

  農道法面の崖の中腹にヤマユリが咲いていた。ヤマユリは以前はもっと見たような気がするが最近は見かけなくなった。
ザイルでも使わなければ採れない場所なので盗掘を免れているのだろうか。否そうではなく私が夏に歩くのが少なくなったのだ。

 
              花沢城跡五差路                                  瀬戸川

  花沢城跡の手前でやきつ辺の道と合流する。今時間は14時8分。3時までにはあと50分程しかない。
普通ならここからはやきつ辺の道を石脇口まで行って焼津駅に向かうのだが、やきつ辺の道はアップダウンんが多く大変だ。
それならここの花沢城跡五差路を下って、国道150線の歩道を歩いた方が速そうだ。国道は直線だから距離も短いだろう。

  今回も楽になる話なので即実行して国道150号と新幹線の間の歩道を焼津駅に向かう。
しかしその道は新幹線と車の騒音で喧しいことこの上ない。しかも民家も無いので日陰も無く暑くてたまらなかった。
見る物もない国道の歩道を俯きながら、ただただ歩くのみです。これでは少しぐらい距離が短くなっても辛さは倍増です。
道の選択を誤ったようです。

  午前中に歩いた明治から平成にかけての宇津ノ谷トンネルの名前の事を思い出した。
最初に出来た明治トンネルには 「宇津谷隧道」 銘鈑が付いていて、次の大正トンネルもまるっきり同じ 「宇津谷隧道」 だった。
これが昭和トンネルになると 「新宇津之谷隧道」 と “新” と “之” が増えていた。
サーそうなると次にできた平成トンネルの名前はどうなるでしょう? 既に “新” は使ってしまったので再び “新” は使えない。
果たして平成トンネルの名前はどうなったか?

  話は変わって東名高速道路の話ですが、5年前に新しい高速道路が開通して、その名前は工事段階では “第2東名” だったが、
開通直前になって “新東名” に変わってしまった。
 “新東名” だと、いつの時代か更に高速道路ができた時、 “新々東名” では具合が悪かろう。それなのに何故開通間際になって
 “第2東名” が消えたのか不自然さを感じたものでした。

  話を元に戻し宇津ノ谷トンネルの名前はと云うと、その答えは “無し” でした。
以前のトンネルには銘鈑があったものの、平成トンネルの上にはなにも付いていません。経費節減で止めたのかとも思いますが
若しかして時の道路公団の幹部は、 「新々宇津之谷隧道」 では格好が悪いし、かと言って今更番号を付与するのも不自然だ。
それならいっその事 “名無しの権平” で行ってしまおうと、頬被りをしてしまったのかな。

  そんな例もあるのに東名高速では、またもや 「新」 にしてしまった。懲りない人たちです。

  焼津駅には予定時間の3分前の14時57分に到着出来た。北口のベンチ座り休んでいると 「下り 島田行が間もなく入ります。」
と放送が聞こえてきた。ウン! 島田行なら空いている。これを逃してなる物かと、慌てて階段を駆け上がりトイカで改札を通った。
発車ベルは鳴っていたが、タイミング良く車掌と視線が合い何とか乗る事ができた。
何十年ぶりに駅の階段を駆け上ったお陰で、列車内に入っても動悸は治まりません。73歳の年寄りが必死になって走るなんて
みっともないし危ない。とは分かっていたのですが、大相撲の千秋楽を見たい一心でした。
お陰でシャワーも浴びてゆっくりTV桟敷で観戦する事ができました。

蔦の細道:ハイキングコース調査

2017-07-27 15:59:48 | ウォーキング
歩行記録                                                           H29-7-23(日)
歩行時間:1時間55分   休憩時間:0時間20分   延時間:2時間15分
出発時刻:8時15分     到着時刻:10時30分
歩  数: 9、170歩(推定距離6.51km)    GPS距離5.3km
行程表
 坂下BS 0:30> 蔦の細道峠 0:20> 道の駅 0:15> 慶龍寺 0:15> 宇津ノ谷峠 0:10> 明治トンネル
 0:10> 大正トンネル 0:15> 坂下BS  

                             蔦の細道ハイキングコース概略図
   

  熱中症予防は夏場は安・近・短に限ると今回も藤枝ハイキングコースの調査です。
蔦の細道周辺は会社を辞めて歩き始めた頃は何度も歩いているのですが、最近は静焼アルプス縦走(佐渡山からカンポ下)で
宇津ノ谷峠から蔦の細道を横断するばかりです。
折角ハイキングコースを紹介すのですから最新の情報を発信したく、正直気は乗らないものの出かける事にしました。
何しろハイキングコースと指定されているのは、坂下地蔵堂から蔦の細道を越えたあと、宇津ノ谷集落をから明治トンネルを通って
戻ってくる、たった3.5kmしかないコースですので、いくら安・近・短と言っても食指は動きませんよね。
それならとせめて宇津ノ谷越えの全コースを歩く計画を建てました。

  出発点は宇津の山の西側にある坂下地蔵堂として、先ずは一番古い万葉時代の蔦の細道を歩き東側に出ます。
次は江戸時代の宇津ノ谷峠を越して西に戻って、再度明治トンネルを歩いて東側に出たら、又々大正トンネルを通って西に戻ります。
大正トンネルを潜ったあとは昭和トンネルと平成トンネルを西側入口か見て坂下地蔵堂がゴールです。
に戻る計画です。

 これでも距離は短か過ぎるが、今日は大相撲の千秋楽です。白鵬と碧山が優勝決定戦があるかもしれないので、家に4時前には
戻りたいので丁度良いかもしれません。

 
                 坂下地蔵堂                                     六地蔵

  藤枝駅前から中部国道線のバスに乗り、初めて坂下バス停で降りたが、バス停が道の駅(岡部側)の引き込み線の中にあるとは
初めて知りました。ただバス代が520円もするのも初めて知り、今までなら焼津駅から歩いて来たのにと、勿体なく感じてしまった。

  坂下地蔵堂の前の案内板には
 「坂下地蔵堂の再建は元禄13年で 「鼻取り地蔵」 と 「稲刈地蔵」 の二つの伝説が残されている」 とある。
この話は以前歩いた “駿河一国百地蔵” 紹介しているが、今回は 「鼻取り地蔵」 を再度紹介します。
 「むかし百姓が言う事を聞かない牛に困っていると、どこからか小僧さんが現われ牛の鼻を取って声を掛けると、
牛は楽々云う事をきいた。どこの小僧かと後をつけると地蔵堂の中に消えていった。
それからはこの地蔵は百姓の手助けをしてくれると 「鼻取り地蔵」 と呼び農家の信仰が厚くなった。」


  駿河一国百地蔵ではここと同じ鼻取り地蔵の話が、百地蔵の結願札所の三島の光安寺もあった。
地蔵の名前は勿論同じ “鼻取り地蔵” で、伝説の内容もまるっきり同じだった。
こんな話が複数の場所にあると云う事は、当時の農作業が重労働で少しでも楽になる様にお地蔵様にお願いしたのでしょう。
でも気になるのは、お地蔵さんが祀られている坂下地蔵堂のある場所です。この辺りは既に宇津ノ谷の傾斜地になっていて、周囲に
田圃は見当たりません。イエ畑さえない場所です。そんな場所に何故農作業の手助けを願うお地蔵さんがあるのでしょうか。

 
                一号堰堤吊橋                                 一号堰堤

  坂下地蔵堂の上は “つたの細道公園” になっていて駐車場やトイレもあり、勿論ベンチもあります。
しかしまだ歩きだしてから数分で、休む必要もないし時間的余裕もあるので、ならばと今まで行った事のなない吊橋を渡ることにした。
吊橋の下を流れる木和田川は、明治時代に大規模な山崩れが発生し、そので起きた土石流により下流一帯に大被害を受けた。
そのため幾つかのロックヒル・ダム(石積堰堤)を築いたが、平成15年の豪雨で流されたので再度明治時代の工法で復旧したそうです。

 
                 二号堰堤                                  元の道に戻る

  ここの堰堤は下流から見上げると兜のような形をしているところから兜堰堤と呼ばれています。
二つの堰堤を見終わると元の道に戻る。この上流にも幾つかの堰堤があるが、左程面白いものではなかったので今回はパス。

          
                      蔦の細道西入口                              蔦の細道石碑

  蔦の細道の入口は、上流に続く農道から橋を渡った石碑の所にあるが、その入り口部分は自然石と置石の石畳になっている。
この辺りで石畳と云えば旧東海道の金谷の石畳が有名だが、私はここの石畳の方が気に入っている。
金谷の石畳は丸みのある河原石で、しかも尖った部分が上を向いているので足をグラしやすい。その点ここの石は山石で平らな
部分を上にしているので歩きやすい。たまに動く石もあるので若干の注意は必要になるが。
この蔦の細道と明治トンネルを歩くコースは難易度が上級になっていが、このコースで山道部分は蔦の細道の上り下りだけで、
後は舗装道路です。と、なると上級になった理由はこの石畳しか考えられない。
先週歩いた花倉城跡コースは標識が無く間違いやすかったが初級で、他にも急な下りや沢の渡渉もある高根山も初級になっている。
ならば当然ここも初級と思うのだが何故か上級認定になったいる。どうしてでしょうね。

 
                    猫 石                            蔦の細道峠から富士山が見えた

  「猫石」と案内はあるものの猫とはとても見えない石だと思ったら
 「むかし暗い夜道を歩いていた旅人が、この石の近くで猫の鳴き声を聞き、人家が近いと安心した、との伝説から名前が付いたと
いわれる。」
のだそうです。なんか無理やり作ったような話で、真偽のほどが疑われる話です。

  坂下地蔵堂から25分程度、入口からは15分も掛からず峠に到着した。この峠道が官道の東海道になる前は、此処より標高の
高い日本坂峠を越していたので楽になった事は確かでしょう。足の強かった昔の旅人も少しでも楽な方が良かったのでしょうか。
  峠からは薄っすらと富士山が見えている。以前は木が邪魔をして富士山は見えなかったが、静岡側の樹木を伐採してからは見える
ようになったのは嬉しい。だが峠にある在原業平の 「駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人にあわぬなりける」 の歌碑は一応
石碑だが、彫は浅く白い安っぽい石材で文字が読みにくい。折角歌碑を建てるのだからもう少ししっかりした物にして欲しかった。

          
                      宇津ノ谷峠の標識                                水 場

  峠から下る標識に現在地を 「宇津ノ谷峠」 と書いてある。この道が官道の東海道であった頃は、この山越えの道を 「宇津の
山越え」
とか 「蔦の下道」 と呼んでいたようなので、この峠を “宇津峠” とか “蔦の峠” など言っていただろう。
それが江戸時代には更に北側の “宇津ノ谷集落” を通るようになったので、その峠を “宇津ノ谷峠” と呼んだ。とは思う。
だが、果たして蔦の細道の峠を本当に “宇津ノ谷峠” と呼んでいたのだろうか。
高々1kmも離れていない場所に同じ名称を使うと紛らわしくて敵わない、できるなら蔦の細道の峠名を変更できないだろうか。

  静岡側の道は岡部側に比べ急な道だが、峠から20分程度で東側の入口に着いてしまう。確かに日本坂越えより楽です。

 
               蔦の細道東入口                                国1跨道橋入口

  静岡側の蔦の細道入口には 「国定史跡指定 宇津ノ谷峠越え」 とか 「蔦の細道 山越え旧東海道 明治トンネル 伝説十団子
延命地蔵尊 御羽織屋」
の看板が建っている。場所が蔦の細道の東側入口にあるため、国が指定した峠越えの道は蔦の細道かと
思い文化庁の 国指定文化財等データベース を調べてみた。
すると思いもかけない事が書いてあった。
 「我が国近世の交通の歴史を知るうえで重要であることから、近世東海道のうち、宇津ノ谷峠を越える全長約1.25kmの区間の
うち、間(あい)の宿の雰囲気をとどめる宇津ノ谷集落内の道と往時の道形が良好に残る合計約1kmの道と、それに関連する
地蔵堂跡、ひげ題目碑を合わせて史跡に指定し、その保護を図ろうとするものである。」
となっている。
しかも地図に表示される道は、西は坂下地蔵堂上の蔦の細道と宇津ノ谷峠への分岐点から始まり、宇津ノ谷峠を越して集落を通り
越した県道のと合流点までだった。
と、いう事は蔦の細道は国指定の 「東海道宇津ノ谷峠越」 には入っていないことになる。
それではこの看板が建つ場所は余りにも悪すぎだ。東海道を歩く人がこの看板を見たら、当然この階段を行った先に江戸時代の
宇津ノ谷峠があると思うだろう。

  いつもならトンネルに近い車道の跨道橋を渡るのだが、今日はハイキングコースに忠実に歩道橋を渡った。
折れ曲がった階段は車道を歩くより面倒で疲れる感じだった。

 
               歩道橋から国道1号                              宇津ノ谷集落入口

  歩道橋からはトンネルは見えなかったが国道1号線と宇津ノ谷集落の入口が見えた。
 
 
                宇津ノ谷集落                                 慶龍寺

  ここ宇津ノ谷集落はもう国の指定した文化財の範囲内です。途中にある十団子で有名な慶龍寺に立ち寄ると、十団子の謂れが
書いてあった。
 「むかし宇津ノ谷峠に旅人を食べてしまう鬼が出たため。旅人の難を救おうと在原業平の祈願によって地蔵菩薩が旅僧に姿を
変えて宇津ノ谷峠で鬼と対決した。旅僧は人間の姿で現れた鬼に 「本体を現せ」 と言うと、鬼は6mの鬼の姿に変身した。
すると旅僧は 「お前の力はたいしたものだ。今度は小さくなって、わしの手のひらに乗ってみよ」 と言います。
褒められた鬼は気をよくし 「よし」 と答えて小さな玉に姿を変えて旅僧の手のひらに飛び乗りました。
それを見た旅僧はすぐに持っていた杖でその玉を粉砕して 「おまえはこれで仏になった。これから旅人を苦しめてはならぬぞ」 と
悟し、砕かれて十粒になった鬼を飲み込んでしまった。」


  私は十団子に出てくる鬼は江戸時代の宇津ノ谷峠に出没したと思っていたが、この説明には平安時代初期の “在原業平” が
出てくるのだから、鬼は蔦の細道の峠に出たことになる。
実は慶龍寺は駿河一国百地蔵の札所で延命地蔵が本尊とされている。その地蔵尊にはこんな話も伝わっている。
 「延命地蔵は弘法大師の作と言われ。高さ80cm程の石造りの座像で、両手で宝珠をもっている。もとは宇津ノ谷峠に祀られて
「峠の地蔵」 と呼ばれていたが、明治44年に麓の慶竜寺に下ろされた。地蔵は左甚五郎作の厨子に納められていて、11年毎に
開帳される」
とある。
本尊の延命地蔵が十団子に出てくる地蔵かどうかは明確ではないが、江戸時代の峠にも地蔵が祀られていたようです。

  
        十団子茶屋                    昔の十団子                     今の十団子

  十団子を食べて事は無いし、何処で売っているのかも知りません。

          
                      宇津ノ谷峠東入口                              宇津ノ谷集落

  集落の中の階段を登った先に宇津ノ谷峠東入口がありますが、ハイキングコースは宇津ノ谷峠には登らず左の明治トンネルに
向かいます。それでは余りにも詰まらないので私は宇津の山越えの歴史順に行歩く事にします。
先ずは江戸時代の宇津ノ谷峠越えでが、入口には蔦の細道と同じ 「国定史跡指定 宇津ノ谷峠越え」 の大きな案内板が建って
いるのですぐ分かります。
山道を登りだすと嘉永年間に建てられた馬頭観音があり街道の古さを感じさせます。その先からは今歩いて来た宇津ノ谷集落や
明治トンネル前の広場が下に見えてきます。

 
                地蔵堂跡                             江戸時代の地蔵堂(案内板より)

  峠の下の地蔵堂跡の案内板には、江戸時代に書かれた歌舞伎の 「蔦紅葉宇津ノ谷峠」 の粗筋も紹介されていた。
 「盲目の文弥は、座頭の修行代として姉が身売りして用立ててくれた百両を持って京に上る途中、護摩の灰や借金を抱えた
商人と鞠子宿に投宿する。
文弥の百両欲しさに商人が宇津ノ谷峠で文弥を殺害してしまう芝居の山場 「文弥殺し」 の舞台がここ延命地蔵堂前である。」


  案内板の絵は江戸時代の屏風絵で、説明には 「峠の地蔵を祀る祠と、旅の無事を祈る旅人。」 となっている。
左端の旅人が祈っている小さな祠が峠の地蔵で、その下の藁葺の家が7軒ほど建っているのが宇津ノ谷間の宿だろうか。
それとも十団子を売っている峠の茶屋なのだろうか・・・・・・・・

     
                        宇津ノ谷峠                               新しい階段が

  以前と変わらない宇津ノ谷峠にみえたが、その最頂部に行くと大きな違いがあった。
毎年歩く静焼アルプス縦走では北側から宇津ノ谷峠に下り、南側を登っている。その時登る南側の取っ付きは、草木の無い土の
斜面で毎回苦労をしていた。
それが昨年は斜面の途中に1本の細い杭?ボルト?のような物を埋め込んでくれたので、容易に登る事ができ感謝していた。
そして今来て見るとそこにはなんと階段ができていた。
ウーン! ここは一般のハイキングコースではないので個人が作ってくれたのだろうが。ウーン! だ。

 
                 明治トンネル                                 明治トンネル内部

  他の事に気を取られてしまったが、宇津ノ谷峠は蔦の細道の比べ数段楽な宇津の山越えだった。
次に向かうのは楽だった宇津ノ谷峠より更に標高の低い明治トンネルです。

  明治トンネルは東海道を旅する人が多いのに目を付け、宇津ノ谷峠の下に隧道を掘って通行料を徴収しようとして動き出した。
隧道の東西から掘り始め明治9年に開通した隧道は、内部を合掌造りの木型で支えた全長223m、幅5.4m、高さ3.6mだった。
だが一直線の隧道とはならず “く” の字に折れ曲がった隧道になってしまった。その原因は当時の技術水準が原因との説もあるが、
はっきりした理由はわかっていない。
とは云え江戸時代の初めに箱根芦ノ湖から箱根外輪山を越えて深良(裾野市)まで水を通した深良用水は長さが1280mもあった。
芦ノ湖側と深良側から掘り進めた2本のトンネルが出会った地点は、上下に1mほどの段差があったが、これは上流の芦ノ湖側は
高めに、下流の深良側は低めに掘り進めた結果だった。
それなのに深良用水から200年以上経った明治で、しかも200m程のトンネルなのに “く” の字に曲るとはとんだお粗末な話だ。
当時の技術水準云々とする記述もあるが、欲から出発した計画は杜撰で、必要な経費もケチったのだろう。
折角できた日本最初の賃取り隧道だったが宇津ノ谷峠と近く、しかも左程の短縮ともならず利用者は少なかったようだ。
更に20年後の明治29年には照明用のカンテラから失火し、トンネルの一部が崩落して通行できなくなってしまった。
その後は静岡県がトンネルの補修を行い、現在のレンガ造りのトンネルとなると一刻は賑わいを見せたが、、鉄道の開通など時代の
変遷の中、主役の座を追われ利用者も減っていってしまった。

  そんな経緯も知らず明治トンネルを見ると、明治時代の優れた遺産と感じるが、どちらかと云えば 「挫折のトンネル」 です。
こんな事を書くと関係者に悪いかな? ご免なさい。
宇津の山越えは更に楽になった。

 
                 大正トンネル                                 大正トンネル

  明治トンネルを出て再度宇津ノ谷峠入口の前を通って大正トンネルに向かう。
一応ここでは大正トンネルと書いているが、このトンネルは大正時代に着工され、完成したのが昭和になってからなので正確には
昭和第一トンネルのようです。しかしここでは分かりやすく大正トンネルとしておきます。

  自動車時代が到来すると横巾は狭く、高さも低い明治トンネルは時代に合わなくなった。そこで横幅が3.3m、高さが0.4m高い
大正トンネルが作られ自動車時代に対応した。このトンネルは今も現役で県道208号として大型車も通行可能です。
歩いてて越すには明治トンネルの方が楽で、時代は歩きの道から自動車の道へと完全に変貌していく。

                
             人力車の宇津ノ谷越え                      明治トンネルまでの道

  大正トンネルを出て県道を下って行くっと宇津ノ谷峠や明治トンネルに向かう道に出る。その道に入り直ぐ下る道が明治の道です。
明治トンネルを出た旅人は現在の蔦の細道公園側には行かず、真っすぐ下るこの明治の道を歩いたようです。
この道は名前こそ明治の道ですが特段それを感じさせる物はありません。ただ途中に2枚の浮世絵が掛けられ当時を偲ばせています。
明治トンネルが開通するまでは、荷車や人力車は宇津の山越えは出来ず、専ら駕籠や馬に頼る時代でした。それがトンネル開通と共に
 “車” で宇津の山越えができるようになったのはこのトンネルの最大の功績でしょう。

浮世絵の横に鉄道の浜松~静岡間が開通した前後の明治トンネルの交通量が記載されていました。
          歩行者   人力車  小 車  空 車
鉄道開通前   1353人   246台   96台   42台
鉄道開通後   160人    10台    10台    4台

小車や空車が何を指すのか不明だが鉄道開通とともに通行車が激減している事がわかる。これでは採算が合わなかったでしょう。
 
 
                  昭和トンネル                                 平成トンネル

  明治の道を下った所は国道1号上り線の横だった。現在はそこには歩道橋があり南側の下り線側に渡る事ができる。
最初に見えるトンネルはは昭和トンネルで、正しくは昭和第二トンネルです。
幅9.0m、高さ6.6mのトンネルは完成時には日本最大の幅員を持つトンネルでしたが、時代の流れには対応できず、宇津ノ谷峠は
渋滞の名所として名を成すようになりました。
そして出来たのが、現在国1の下り線として利用している道幅11.25m、高さ6.58mの平成トンネルです。昭和トンネルと比べ横幅が
広いのは歩道が設置されているからでしょうか。(でもとても歩く気にはなりませんが)

           全 長   横 幅   高 さ   標 高
明治トンネル   203m   4.0m    3.9m    115m  
大正トンネル   227m   7.3m    4.4m    107m
昭和トンネル   844m   9.0m    6.6m    70m
平成トンネル   881m   11.25m   6.58m   70m 
(蔦の細道)                         210m
(宇津ノ谷峠)                        170m
(数値はネットで探しだした値で正確かどうか確かめてありませんので参考値です)

  歩道橋の西側は下り線のバス停の傍だが、まだ時刻は10時30分で終わるには早すぎる時間だ。今昼飯も食べずに帰れば妻に
体調が悪くなったかと心配をかけてしまう。それでは困るが、さてどうしよう。

花倉城跡:ハイキングコース調査2

2017-07-22 11:49:55 | 低山歩き
歩行記録                                                           H28-7-15(金)
歩行時間:7時間25分   休憩時間:1時間20分   延時間:6時間25分
出発時刻:7時55分     到着時刻:14時20分
歩  数: 28、002歩(推定距離19.88km)    GPS距離19.0km
行程表
 蓮華寺池入口BS 0:35> 葉梨小学校 0:35> 上川池 0:20> 城址入口分岐 0:10> 花倉城趾入口 0:20>
 城址散策・展望地 0:10> 花倉城趾入口 0:40> 山寺BS 0:10> 藤枝霊園 0:45> 長慶寺 0:50> 蓮華寺池入口BS  

                           花倉城跡ハイキングコース概略図
       


 
              展望地からの景色                              花倉城跡裏入口

  花倉城跡から抜け出した所にある展望地は、農道と思われるが車が走った形跡はない。この農道を西に下ると鞍部になっていて
そこを北に下れば葉梨の西方や瀬戸谷の本郷を結ぶ県道81号に出る。
更に鞍部から西に登っていくと烏帽子形山と三角山の鞍部に出て、そこを下れば今川の跡目争いに敗れた玄広恵探が自刃した
瀬戸谷の普門寺に出る。多分玄広恵探はこの道を必死に逃げてにげていったのでしょう。

  ところで 「花倉城跡」 と云う名前だが、私は今まで 「花倉城址」 と書いてきた。だが今回のハイキングコースを歩いてみると、
標識や城の案内板は全て “城跡” となっていたので今回は “城跡” と書くことにした。だがこの違いは何でしょう。
色々講釈を書いたものがあるが、私が思うに “跡” は常用漢字にあり、 “址” は常用漢字に入っていない事が大きいと思う。
そのため公的機関が城の紹介をするとなると、当然常用漢字の “城跡” を使わざるを得ないので、その漢字が主流になった
のではないだろうか。
因みに静岡市内にも 「安部城跡」 と呼ぶ山があるので調べてみると、殆どが “城跡” だが、標識の中に “城址” も混じっていた。
個人的には “花倉じょうせき” より “花倉じょうし” の方が呼びやすいが大勢には逆らえない。今後は極力 “城跡” と書くようにします。

 
                  倒 木                                ハイキングコース標識

  帯曲輪の手前のハイキングコース標識の所に戻ってきました。
この標識をよく見ると 「花倉城跡ハイキングコース 烏帽子形山山頂➜」 となっています。となるとこのコースは烏帽子形山まで
延びているように思いますよね。しかし花倉城跡のハイキングコースは、この城跡から引き返す事になっています。
この標識を見た初心者のハイカーは、烏帽子形山に行ってしまうかもしれません。しかし初級の花倉城跡に対し、烏帽子形山は
上級ですので少々心配です。ここは “花倉城跡ハイキングコース” の文字は消すべきだと思います。

と、言いながら私が花倉城跡のコースを設定すると、どうしても烏帽子形山が入ってしまいます。
先ず車を新東名藤枝PAに置いて 藤枝PA - 三角山 - 烏帽子形山 - 花倉城跡 - 花倉の里 - 藤枝PA のコースか、
ゆらく線のバスの中山上で下車して 中山上バス停 - 烏帽子形山 - 花倉城跡 - 葉梨神社 - 白藤の滝 - 三ツ石バス停 が
お進めです。尤も三ツ石バス停は休日にはバスが走っていないので平日に歩くほうが良いでしょう。
このコースを4月下旬ごろ歩けば、葉梨神社近くでクマガイソウを見る事ができるかもしれませんよ。

 
                 可哀想に                                   入口の土橋

  前回も見た無残に切られかけている木がそのままになっていた。この木はこれで年月とともに切断箇所は埋まり再生するのか、
それとも樹皮の切断で栄養が上にいかず枯れるのか。気になります。

  入口の土橋に戻ってきました。この土橋は入口側から見るより、城の中側から見た方がハッキリわかります。

 
              間違いやすい分岐                                ???

  コースは城の入口からは来た道を戻り、最初の分岐を左に向かうのだが、この分岐には左右に標識は建っているものの、その
どちらの標識も左側の案内をしていない。ここは矢張りコースのチェックポイントでもある “盤脚院” の案内をするべきです

  何でしょう? 大き目な木の枝に豆の莢がぶら下がり、地面には黒い小さな豆が落ちている。見た覚えがあるような無いような。
そんな木が数本続けてあったので春に来たときに花の写真を写してないかと思ったが、残念写真は無かった。

 
              間違いやすい分岐                                ギョリンソウじゃないよね

  またしても分岐が出てきたが、ここにも標識はない。道なりに太い道を行くなら左に鋭角に曲がって下るのだが、ハイキングコースの
盤脚院は直進の細めの道を進みます。この分岐にも標識は絶対必要です。
因みに葉梨神社に行くには左へ曲る道を下った方が良いでしょう。

  何だか薄気味悪い物が生えていた。白くてヒョロヒョロっとしているので、ギョリンソウのなれの果てかと思ったがどうも違うようだ。

 
               ホタルブクロ(蛍袋)                       ヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙)?

  大崩山塊でよく見かけるホタルブクロは色が薄い花が多いが、ここのホタルブクロの花の色は濃かった。
更に目にも鮮やかな朱色の花は ヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙)らしい。
この花も日本古来の花ではなく帰化植物のようです。名前のヒオウギはアヤメ科の中で葉が広いことからつけられた名前らしいが、
これは葉が広くない。そのため頭にヒメが付いたのだろうか?
農道脇から林にかけて群生していました。

 
                  県道合流                                ゴールの山寺入口バス停

  バスの走っている県道に合流。今日はバスは走っていないと分かっているが一応ハイキングコースのゴールになっているバス停を
確認するため山寺入口まで行く。
このバス停の “山寺” とはどこの寺を指すのか興味があったが、通りには人っ子一人いない。地図で見れば近くにある寺は盤脚院だが
今その前を通り過ぎてきた。それに盤脚院は大きな寺で家康も度々立ち寄ったといわれる古刹で、とても山寺と呼べない。
地図に載っていない小さな寺があるのか、それも既に廃寺になった寺があったのか、とても興味があります。
気分的にはここをゴールにしたいがバスが走っていないのでは仕方ない。一番近そうなバス停の蓮華寺池を目指すしかない。

          
                      盤脚院                                     藤枝観音

  盤脚院の名前は、徳川家康が駿府城に隠居していた折り葉梨の里に鷹狩りに来てしばしば盤脚院に訪れたと云う。
その折に和尚と碁を楽しんだ事から 「盤脚院」 の寺号を授かったとの言伝えもあるが、実際は家康が訪ねる前から寺は盤脚院を
名乗っていたようです。ただ住職と囲碁を楽しんだのは確かなようで、住職は家康と碁を打つために駿府に隠居寺を建てたそうです。
そんな話を “駿河一国百地蔵” の遍路で訪れた、駿府の浄元寺で知りました。

  藤枝観音は平成に入ってから藤枝霊園の目玉として建てられたようです。私は本来このような形式の寺は好みではないのですが
何故かこの霊園に墓地を買ってしまいました。

  私たち夫婦は以前から古希になったら墓地を決め、喜寿になったら墓を建てようと話をしていました。ところが私の実家は日蓮宗で
妻の実家は曹洞宗ですが、現実には墓参りと法事で立ち寄るだけでどちらの宗派にも特段の親しみは感じていません。
私のブログを見ている方は “遍路が好きなのに” と思うのでしょうが、私の遍路は悲しいかな宗教心ではありません。
あくまでもウォーキングのコースとして霊場を歩き、立ち寄る札所はチェックポイントでしかないのです。
それに若干の歴史的興味と旺盛な好奇心が重なって、何ヶ所となく霊場歩きを繰り返しているにすぎません。
お陰と云うか霊場歩きをしたため般若心経等も暗唱できるようになりましたが、これとて門前の小僧より劣っています。
そのため墓地を建てるより永代供養や樹木葬、散骨に興味を感じていたのですが、妻は余り乗り気ではなかった。
そこで宗派に関係のない共同墓地ならと、たまたまビク石の帰りに寄った藤枝霊園の事を妻に話したところ、気に入ってしまい
早速契約してしまいました。なので私たちの葬儀は個人葬を予定しています。

          
                    込み合ってきた墓地                             富士山があった

  そんなわけで買った当時はチラホラしかなかった我が区画も、今は前後左右共に新しい墓が建っています。
中には富士山を彫ってある墓石もあり羨ましい限りです。
我家の墓は洋式の横型の墓石にして、表面には “ありがとう” とだけ彫って、苗字も入れないつもりでした。ただ周りの墓を見ると
同じ考えの “ありがとう” “感謝” “穏やか” “愛” などがあります。ズラズラあります
さてさてどうしたら良いだろうか、また悩みが増えてしまいました。

 
               ウワー蛇が出そうだ                           ハグロトンボ(羽黒蜻蛉)

  藤枝霊園からの車道歩きを避けて葉梨川の堤防を歩いていると、除草されていない所に出てしまった。戻るのも面倒だが、かと言って
蛇を踏んでしまいそうな草の中を歩くのも嫌だ。
不思議なもので山の中ならこの程度の草なら平気で進むのだが、選択肢のある麓の道は怖くて迷ってしまう。それでも戻って距離が
長くなるのも嫌なので草を踏み分けて進みました。お陰で苦手な蛇には遭遇しませんでした。

  以前はよく見かけたハグロトンボも最近は余り見る事が無くなってしまった。

 
          やっと長慶寺入口に戻ってきた                            長慶寺

  フ~何とか一周回って長慶寺の入口まで戻ってきた。ここからは長慶寺に寄って、またここに戻り、工事中の中田橋まで歩かなければ。
そこから先は・・・・ 行きと違ってズンズン選択肢は減ってもはや残された道は、朝歩いた道を引き返し蓮華寺池入口からバスに乗るか、
それとも藤の里トンネルを通って勝草橋に出るかのどちらだ。マーそれはもっと先で考えよう。
  「今川家ゆかりの寺」 とか 「今川家菩提寺」 「駿河今川氏三代 今川泰範菩提寺」 などの案内のある臨済宗長慶寺です。

  駿河今川家の墓所はあちこちに点在していて、そのうち何ヶ所か歩いて行ったか事があります。それを今川家の年代順並べると
一代範国(のりくに) 墓所:磐田市城之崎 福王寺
二代範氏(のりうじ) 墓所:島田市大草 慶寿寺 藤枝市花倉遍照寺  花倉城築城
三代泰範(やすのり) 墓所:藤枝市中野郷 長慶寺
六代義忠(よしただ) 墓所:菊川市高橋 正林寺 横地城・勝間田城を攻略後の帰途、塩買い坂の戦いで討死
七代氏親(うじちか) 墓所:静岡市慈悲尾 増善寺 家督争いで叔父の北条早雲(伊勢新九郎)の手助けを受ける。
九代義元(よしもと) 墓所:豊明市栄町 豊明市桶狭間古戦場  花倉城攻撃 桶狭間の戦いで死去 

個人的感想としては、長慶寺に葬られた三代泰範が、何故今川館や詰城の花倉城もあった遍照寺に葬られなかったのか疑問です。

 
           駿河今川家第三代泰範の墓所                            大原雪斎の墓所?

  長慶寺の墓地には、駿河今川家第三代泰範の五輪塔と右側には小さな無縫塔があり、その横にはまだ新しい無縫塔も建っている。
寺の案内板には 「左側の五輪塔は今川泰範の墓と伝えられています。(中略)右側の無縫塔は雪斎の墓と伝えられいます。」 とある。
これで紛らわしいのは大原雪斎の無縫塔は五輪塔横の小さな無縫塔なのか、その横に建っている新しい無縫塔なのか分からなくなる
事です。新しい方の墓碑の最初には 「開山 勅諡宝珠護国禅師」大原孚大和尚」 となっているで余計迷います。

  長慶寺に今川三代当主のや大原雪斎の墓もあるので今川ゆかりの寺だとも思う。だが今川家菩提寺の表現は私には引っかかる。
 “菩提寺とは先祖代々のお墓がある寺” と思っていたので、たまたま今川家の一人の墓地があるだけで “菩提寺” になるのでしょうか。


  長慶寺からハイキングコースを中田橋まで戻ってきた。これで調査は終ったので帰りは何処を歩いてもいい。
しかし日差しの中を歩いて来た身は、もう選択肢はなかった。藤の里トンネルを潜るのも、清水寺の上でサカキカズラ(榊葛)を確認する
気も既になく、今は一時も早く涼しい所で休みたい一心だった。そうなれば朝歩いた道を戻るしかありません。

暑い!暑い! とただそれだけを想いながら歩き終わり、やっと乗ったバスはとても涼しかったが、なぜか汗が拭いても拭いても噴き出して
きた。一体何だったのでしょうか。それでも何とか熱中症にもならず家に戻る事ができました。

花倉城趾:ハイキングコース調査1

2017-07-19 09:59:36 | 低山歩き
歩行記録                                                           H28-7-15(金)
歩行時間:7時間25分   休憩時間:1時間20分   延時間:6時間25分
出発時刻:7時55分     到着時刻:14時20分
歩  数: 28、002歩(推定距離19.88km)    GPS距離19.0km
行程表
 蓮華寺池入口BS 0:35> 葉梨小学校 0:35> 上川池 0:20> 城址入口分岐 0:10> 花倉城趾入口 0:20>
 城址散策・展望地 0:10> 花倉城趾入口 0:40> 山寺BS 0:10> 終の棲家 0:45> 長慶寺 0:50> 蓮華寺池入口BS  

                           花倉城跡ハイキングコース概略図
       

  暑くて気は進まないが家の周りを歩くだけでは欲求不満になってしまう。とは言え遠出は億劫だし長距離も街歩きも暑すぎる。
ならば街歩きと低山歩きを兼ねた藤枝市のハイキングコースの調査が良いかもしれなと、思いついたのは花倉城跡でした。
花倉城跡には過去何回も行っているし、今年春にも烏帽子形山から歩いている。ただ藤枝市のハイキングコースに指定された
中田バス停から上川池ルートは面白味を感じず歩いていなない。
ハイキングコースの案内は藤枝市に指定されたルートを忠実に歩いて紹介しているので、一度は歩こうと思っていた。
今が別にいい機会と言うわけではないが、他に思いつかないのでしょうがなく歩いてきました。

 
                 蓮正寺                                    スターバックス

  ハイキングコースの出発点は葉梨小学校前の中田バス停からになっているが、葉梨線はバスを途中で乗り換える必要がある。
それも面倒だし料金も割高になるので、それなら蓮華寺池公園までバスで行き、そこから先を歩く事にした。

  バス停の前にある寺は 「熊谷山 蓮正寺」 です。クマガヤと聞いて思い出すのは、今年の春に烏帽子形山-花倉城址-天王山と
歩いて天王山の 「クマガイソウ」 を見た事です。(その時の記事はこちらです
そのクマガイソウと寺の山号の熊谷が、たまたま同じと思うかもしれませんが、イエイエそうではありません。
クマガイソウの花の名前の謂れになった 「熊谷直実」 はこの蓮正寺と深い関係があったのです。
以前紹介したものを要約しました。
 「一ノ谷合戟で平家の貴公士敦盛を討った熊谷直実は後年出家をして蓮生と名乗った。
直実が、母の見舞いのため故郷の熊谷庄に帰る途中、遠州小夜の中山で賊に襲われて、路銀を奪われてしまった。
蓮正は藤枝の宿まで来たものの、ここで路銀が尽きてしまい、藤枝宿の長者に借金の申し込みをした。
長者に 「質草が無ければ貸すことはできない」 と断わられると、蓮生は 「然らば大切な十念を質にいたそう。」 と言い、
長者に向かい 「南無阿弥陀仏」 と唱えた。
すると不思議な事に直実の口の中から金色の阿弥陀仏が現れ、一緒に唱えていた長者の口中に入っていった。
10度唱え10体の阿弥陀仏が長者の身体の中に収まると、感激した長者は直ちに路銀を蓮生に差し出した。

 蓮生の介護も空しく、母の死を弔い、翌年京に帰る途中、福井長者の屋敷を訪れ、借りた銭を返し
 「質に入れた念仏を戻して下さい。」 と申し入れた。困った長者がどうしたらよいか蓮生に尋ねると
 「ただ、南無阿弥陀仏と称えなさい。そうすれば必ず戻ります。」 と答えた。
そこで長者は手を合わせ、心の底から念仏を唱えると、口の中から阿弥陀仏があらわれ、蓮生房の口中に戻った。
9回くり返し九体の阿弥陀仏が戻されるのを見ていた長者の妻は、最後の一体となった時、
「できることなら、あと一遍の唱名と一体の阿弥陀様を私達にお預け下さい。」 と懇願した。
蓮生は長者夫妻の真剣さに打たれ、快く承知して旅立って行った。そして長者は蓮生の弟子となり仏門に入った。
藤枝の岡出山の麓にあった福井長者の屋敷を念仏道場の蓮生寺としたのが、蓮生寺開創の由来である」


  源氏の武将・熊谷直実は出家して “蓮正” と名乗っている。その名前をそのまま寺の山号と寺号にした 「熊谷山・蓮正寺」 では
季節になるとクマガイソウと共にアツモリソウを展示していて、参拝者の屋の目を楽しませてくれています。 なんて事になれば、
山でクマイガイソウを見落としたハイカーが参拝するのではないかな。そしてお賽銭が・・・・・ とすぐ妄想の世界に入ってしまう。

  蓮華寺池の駐車場中にスターバックスが新しく(?)できたが、まだ時間が早いため人影はない。
コーヒーの香りは好きだが味は良く分からず、豆を挽いたものも、インスタントも違いが分からない状態です。
妻に言わせれば 「勿体ない」 そうだが、自分だけ贅沢は出来ないのか今はインスタントばかりです。

 
                 蓮華寺池公園                                蓮華寺池の蓮

  気持ち良さそうな青空だが内心は恨めしく曇ってくれることを願っていた。どうせ今日のコースは景色は期待できないので、炎天下の
路上温度が40度越えより、雲に太陽が遮られて35度以下の方が全然歩きやすい。
しかも今日のコースで山道は花倉城跡の中だけで、他は全て舗装道路なので照り返しも厳しくなる。思っただけでも熱くなってきた。

  蓮華寺池をよく見ると池の半分近くが蓮の葉に覆われている。蓮は山道の雑草と同じで、秋から春にかけては枯れたような状態に
なっているが、春になると目を覚まし暑さと共にその勢いを増すのだろう。尤も今日の工程では雑草に悩む場所は無いが。
 
 
               櫻宮神社の鳥居                                櫻宮神社の蓮

  鳥居から入る参道の左右に池のある桜宮神社です。この何でもなさそうな鳥居に謂れがあって案内されていた。
 「二つ池の桜並木の入り口にある石造の鳥居は、元々、田沼意次(老中)が、明和四年(1767)に初代相良藩主となり
築城した相良城内にあった荒神社(地の神)の鳥居でした。
意次が、次の老中松平定信により失脚させられた際、相良城は徹底的に破壊され、神社の鳥居までもが競売にかけられ、
櫻宮神社に移されました。」

 意次の居城だった相良城の物を競売で買った中では、藤枝市藤枝の大慶寺の客殿が有名だ。この客殿は元は相良城の
御殿で、当時の金で700両で買い落とし大慶寺に移築したそうです。
こんな調子だから田沼家は落ちぶれて絶えてしまったと思っている人が多いでしょうが、あにはからんやです。

  天明7年(1787)意次から家督を継いだ田沼意明(おきあき)は、陸奥下村藩1万石に転出。相良城は廃城とされ、翌年には
徹底的に破壊された。
それから36年後の文政6年(1823年)に、6代目田沼家の当主田沼意正(おきまさ)は、遠州相良への復帰を許されたのです。
以後明治に至るまで田沼家は相良城主として相良藩を治めていました。

 
              櫻宮神社の二つ池?                            櫻宮神社の二つ池?

  案内板に “二つ池” とあるが、これが二つある池の総称なのか、それとも一つ池と二つ池と別々の名前かなのかは分かりません。
なので左右で紹介します。先ず神社に向かって左の池には蓮でビッシリ埋まっていた。所々には蓮の花や蕾も見えている。
蓮の花が早朝に開く時は 「ポン」 と音をたてて咲くと聞いた事がある。その人曰く、
 「彼岸の頃に蓮華寺池に蓮の花を取りに(盗みに?)行くと、この花が開く音をよく聞いた。」 と言っていた。
それがですよ。今日(17日)の新聞にこんな事が書いてありました。
 「いつからかハスは神秘的な音を立てて咲くものだと思い込んでいた。石川啄木の 「しづけき朝に音立てて 白き蓮(はちす)の
花さきぬ」 という断定調の詩がある。 (中略) 埼玉県行田市の 「古代蓮の里」 には
 「本当に音がしますか、何時ごろ鳴りますかという問い合わせをいただく。でも私ら職員は一度も聞いたことがありません。」と話す。
実際に聞くのは 「花が散って葉に落ちた時のドサッという音」 (後略)」
 
  私が音がすると聞いた人は既に話をすることはできません。でも嘘を言うような人では無いのですがねぇ。
蓮の品種の違い? なのでしょうか。誰かハスの花の開く音を聞いた人がおりましたら教えてください。

  一方右側の池には蓮は無く茶色く濁った水が溢れている。この違いは何だ? 
ウーン左の池は蓮を栽培して花を楽しみ蓮根を採集する。一方右の池は溜池本来の目的のための農業用水の提供用か?

          
                        中田バス停                             中田バス停の時刻表

  観歩を目指しているとはいえ、スタート地点に着くまでにダラダラ文章が続いてしまい申し訳ありませんでした。
ここ中田が藤枝市の指定する花倉城跡ハイキングコースの出発点で、ここを出発点にしたのはバス停があるからでしょう。
しかし “駅から遍路”や “駅からハイク” “駅から低山” を目指していた私は、ここからは歩いた事がありませんでした。
そこで今回ハイキングコースを紹介するために一度は歩かなければと思い立ったのです。
なら藤枝駅からここまで歩いてくればいいのではないかと思いますよね。そうです本来は私もそうしたいのですが、昨年あたりから
急に脚力が弱まり、かって歩けたところが歩けなくなったり、無理して歩くと熱中症や転倒したりと散々な目にあってしまいます。
そこで最近は “駅からハイク” ではなく “バス停からハイク” と語呂まで悪くなった目標に切り替えました。


  それならここまでバスで来ればとなるのですが、最初に説明したようにここにくるにはバスの乗り換えがあり結構不便です。
そんな事ならたったの3k程度。歩いた方が速いと判断しました。
で、時刻表を見てみましょう。今日は土曜日なので右側の赤枠の中なのですが、そこに書いてあるのは 「運行しません」 だって。
エ~! チョッと待った。スタートはここまで歩いて来たから問題ないが、帰りのゴール場所は、この葉梨線の奥にある “山寺入口” だ。
なら帰りにはバスに乗るわけにはいかない。ウーン! 帰り道はどうしよう。歩きながら考えよう。

 
                 橋が無かった                              城壁のようは新東名

  葉梨小学校を過ぎた所から花倉の里方面に向かおうと信号を左折すると道一杯に通行止の看板があった。
 「新しい中田橋をつくっています。」 とあるが、歩行者なら歩く場所はあるだろうと川を覗き込んでみた。
残念!借りの橋どころか川には何もなく水が流れているだけだった。これだけスッキリしていれば諦めるのも早く、川沿いに続く
細い道を次の橋を目指した。

  正面に盛り土された新東名が城の土塁のように見えている。当然あの上を越すのではなく何処かのガードを潜るのだろうが。

 
                 長慶寺入口                                    上川池

  新東名の取付道路を左に行きハイキングコースに出合うと今日最初の標識があった。
そこから “今川家菩提寺 長慶寺” に行くには丁度良いが、ここから中田橋の間の道も調べなければならない。
それなら再度くるより、今日の帰りにここに戻って調査すれば良い。長慶寺もその時見れば良いだろう。
そこから先は・・・・・・ その時の調子で考えよう。

  新東名辺りのは “下之郷” らしいが、途中にあった町内会館は “上川町町内会館” とあった。これから行く池の名前は
 “上川池” なので、この辺りは藤枝市下之郷字上川なのだろうか。それにしては地名になるほどの川は流れていない。

  民家も終り道は完全に農道状態になったが、この方が所々に木陰があり有難い。何しろ暑いので早く池の畔で涼風を浴びて
一休みしたい。しかし着いた池は茶色く濁ったどぶ池で涼風など無縁だった。。
その池のアチコチから “ヴァオォー ヴァオォー” と食用蛙(牛蛙)の声が聞こえてくる。水路の近くから聞こえるの鳴き声は
エコーがかかっていて中々迫力がある鳴き声だった。休憩もそこそこにして、池から分岐する上りの農道を歩く事にした。

          
           ヤブミョウガ(藪茗荷)                             分 岐

  日当たりの良い農道脇にヤブミョウガ(藪茗荷)が咲いていた。この花は大崩山塊の林の中では見飽きるほどある花だが、
こんな日向にあるのは珍しいように思える。このヤブミョウガと似た葉のハナミョウガ(花茗荷)も、大崩山塊ではよく見かけるが、
花倉城跡では目に入らなかった。
ヤブミョウガとハナミョウガは似たような名前で、葉も似ていることから最初は混同してしまったが、最近は判別できるようになった。
ただ一見大株で葉が群生しているハナミョウガが藪のように見えるので、余計に勘違いしやすい。
このハナミョウガの名の由来は、葉が茗荷に似て目立つ花を咲かせる事からで、一方ヤブミョウガは藪に生え、葉が茗荷に
似ていることから付いたそうです。(矢張り似ている)
更にヤブミョウガは茗荷の名は付いてもショウガ科ではなくツユクサ科だそうです。(露草には似ていないが)
序にハナミョウガはショウガ科で、根がショウガに似ているそうです。また、その実は漢方薬では伊豆縮砂(いずしゅくしゃ)といい、
芳香性健胃薬として用いられるそうです。
そうなるとこちらを “ヤブ” とは云いずらいかな。いや薬としての効能を聞いたことも無いので矢張りこちらが “ヤブ(医者)” か。
たもや頭が混乱してきてしまった。

  今年の春、藤枝観音に行くのを間違えてこの分岐まで下ってきたしまった。あの時はすぐ引き返したが今日だったらどうだろう。
多分諦めてそのまま下ってしまっただろう。青空が憎くなるほど暑いです。
 
 
                花倉城跡                                    花倉城跡分岐

  こんもりした花倉城跡が見えてきた。右側の平らになっている所が城跡の入口で現在は茶畑になっています。
反対側の木が伐採され草原のように見える所が展望地で、見晴らしがよく休憩場所に適した所です。

  前回はこの分岐を間違えてしまったが左が花倉城跡で直進が藤枝観音です。このコースを歩いてきたら間違いようもない分岐だが、
これが城跡から下ってくると藤枝観音への標識が無いので間違ってしまいます。(と、言分けを)

 
                 天王山                                    大崩山塊

  分岐から城跡への農道に入ると視界が開け景色が見えてきます。まず目に入るのは天王山だが、この山を見るたび頭が混乱する。
天王山の山頂は左側のピークで、下には葉梨神社や安楽寺が微かに見えている。
そこから岡部やビク石に行く一宇坂峠には、山頂から左に延びる平坦な尾根道を30分程行ったピークから、峠に向かって急な道を
下って行く。だがこうしてみると天王山の左はすぐに下りの斜面で平坦な場所はない。
一方右側は平坦な尾根が続いているが向きが違う。このため最初は天王山の山頂は右端のピークではないかと思った事がある。
地図で見ると左端の天王山の後ろに平坦そうな尾根が続いているので納得はするのだが、こうして見るとまた混乱しそうです。

 
                花倉城跡入口                                  花倉城跡縄張図

  花倉城跡の入口に到着です。ここまでが舗装路で城跡の中のみが山道の日陰になります。
入口には花倉城跡の縄張図がありますので、それを利用して城跡内のルートを簡単に説明します。

先ず入口から土橋を通り古道を進みます。日陰は日陰ですが急な坂道で汗は日向と同じようにかきます。
更に悪い事は日陰になったと同時に “ブゥーン” の羽音共に蚊の襲撃です。
勿論防虫剤なんて洒落た物は持っていません。仕方なく汗を拭いていたタオルを振り回しながら進みます。
オット道案内です。古道を登っていくと 「花倉城跡ハイキングコース」 の標識の下から、右に見える帯曲輪側に行きます。
帯曲輪を過ぎてから空堀を渡って上に出ればそこは本丸跡です。
本丸から向きを変え尾根にある空堀を渡って二の丸に出ます。二の丸から更に空堀を渡り広くなった尾根を行くと突然前方が
開けた場所に出ます。そこが休憩場所に適した展望地です。
帰りは来た道を最初の空堀まで戻り、そこを二の丸にはいかず右に下ると、行きに見たハイキングコースの標識に出ます。
後は来た道を下るだけですが、このルートは私のように城音痴用で、城マニアの方はもっと面白いルートがあると思います。

 
                 古 道                                    帯曲輪
 
  古道と云っても何もありませんし、ただ歩きずらいだけです。それでも行きは古道で帰りは新道を下りました。
ハイキングコースの標識の右にある “帯曲輪” とは、字の如く 「帯曲輪は細長く帯状に城を囲む曲輪」 なのだが曲輪と云うほどの
事はなく、私の目には単なる細道としか見えません。でもともかく帯曲輪に向かいます。

 
                  本 丸                                    物見台?

  帯曲輪の上の広場は本丸で、この場所が一番高くなっています。ここにどんな建物があったか想像もできないが、ここが今川家の
お家騒動の決着がついた 「花倉の乱」 の主戦場です。

  今川家中興の祖の氏親の死で今川家を継いだ嫡子氏輝は、当主になって10年足らずで死亡してしまうが、不思議なことに実弟も
同じ日に急死してしまう。そこで後継者の名乗りを上げたのが実弟の義元と、義元より年上の側室の子の玄広恵探だった。
話し合いは持たれたものの氏親の正室寿桂尼や、太原雪斎などの有力者が義元側につき恵探側は不利になってきた。
そこで恵探は起死回生とばかりに駿府の今川館を襲撃するが失敗。慌てて自城の花沢城に逃げ帰り籠城をする。
義元側は恵探側の城、方の上城(焼津)を攻め落とし、余勢をかって一気に花倉城に攻め寄せた。
籠城用に築城した花沢城だが、恵探の指揮が悪いのか、それとも城兵の士気が低かったのか、恵探は隣の烏帽子形山を越えて
瀬戸谷に逃げ込んだものの普門寺で自刃してしまう。

  正直玄広恵探にはガッカリです。
自分から今川館に攻め込んだのに簡単に失敗してしまうし、逃げ込んだ花倉城を簡単に落城させてしまい、更に城から落ち延びた
のに味方がいる遠州にも逃げられず、すぐ自刃してしまうなんて何ともだらしがない。
と、マーそんな事を本丸のベンチに座って考えようと思ったが、ここに座ればただ蚊に餌を与えるだけだと早急に移動した。

  本丸から北に向かって明瞭な道が続いて縄張り図には、この先に物見台となっています。その道をしばらく進むと平坦な場所に
出るがなんの標識も無い。道は更に急な下り坂になって続いているが、さてどうしよう。
今までは蚊は煩いものの蜘蛛の巣は無かった。だがこの先は下草も伸びていて蜘蛛の巣もありそうだ。
それに花倉城の物見台なら敵が攻めてくる南にある筈で、北側に物見台が有るわけはない。なんて都合よく解釈して “物見台” は
この平坦地だと勝手に判断して引き返す事にしました。

 
                本丸から二の丸を                               二の丸

  本丸まで戻り更に空堀を越して二の丸に向かいます。二の丸跡は本丸より一段低いが広くて木も切ってあるので清々する感じです。
南の一部から景色が見えるのでベンチを置いてあるが、ここに座っても蚊の給餌場になってしまいます。

 
                空堀を渡って                                  展望地に

  二の丸からは西側から空堀を超えると簡単に次の広場に出る事ができます。
何の案内も無い所は素通りして尾根道を南に向かって行くと、前方が開けて景色が広がっています。
日が当たっているので林から少し離れた桜の木の下に座って景色を見ながらの昼飯です。
蚊は途中に日向があるのでここまでは押寄せて来ません。とは云えこの時期にここに来るときは防虫スプレーなどを持ってきた方が
良いでしょう。城跡に入ってシャツの袖は戻し、蚊の襲撃場所は顔に集中したのですが、何故か目に飛び込んでくる蚊が多かった。
蚊は黒い物を好むらしいが、頭髪が白いため少し黒さが残った睫毛や眉毛を目指してくるのだろうか。本当に煩かったです。

MHシリーズ4

2017-07-15 12:00:10 | マンホール
                夏と云えば・・・・・・・                        (MH季節シリ-ズ)

  夏至も過ぎ、真夏日や猛暑日、熱帯夜、更には熱中症が頻繁にTVで流れるようになりました。
そこで今回の “MH季節シリ-ズ”は当然その夏をテーマにしましょう。

  既に時期遅しですが、夏の最初の風物詩の 「七夕」 は外せません。
それに時季遅れとと云っても “月遅れ” も “旧暦” の七夕もあるので、この時期の七夕も良しとしてください。
  さて七夕と云えば東北三大祭りの一つ “仙台の七夕” ですが、残念ながら宮城県は歩いた事がありません。
そこで静岡県の七夕の代表の清水の七夕のMHを探してみましたが、こちらは七夕の絵柄はありませんでした。
私がMHを見つけられなかったのか、それとも元々清水には七夕の絵柄のMHは無かったのか・・・・・
それでは仕方ないと矢張り七夕で有名な隣の神奈川県平塚のMHの写真を調べてみました。
平塚は東海道を歩いた時に一度だけ歩いただけですので自信は無かったのですが・・・・

                            「平塚 七夕祭り」
          
                           神奈川県平塚市(2012.3)
  お江戸日本橋を出て相模川に架かる馬込川を渡った付近で写した写真です。
大きな七夕飾りに歓声を挙げている群衆の上には、ビルの谷間に大きく輝いている織姫と彦星が見えます。
その上には相模灘イエ湘南の海を疾走するヨットとカモメが飛んでいます。
中央にある丸に囲まれた “下” のマークは何でしょうね? 多分平塚の市標とは思うのですが・・・・・

                            「平塚 七夕祭り」
          
                           神奈川県平塚市(2012.3)
  七夕のカラー版もありました。カラーだと随分ハッキリと綺麗になりますね。
場所は平塚駅を過ぎた辺りでしたが、蓋に書かれている “赤石町” は町名を表しているようです。
MHが地番表示を兼ねているなんてのは他では見かけた事はないが、これを見た時はそこまでは気づきませんでした。
それに町名表示以外にも “1973” や “1966” 書かれた数字は、設置年月?それとMH枚数? 
何れにしても単価の高いMHになった事でしょう。
 気になっていた多重丸に囲まれた “下” マークは、多重丸は平塚市の市標だったが “下” は分かりませんでした。
若しかすると “下水” の事かもしれませんね。
そうなると蓋の下にある “合流” は下水が合流している場所のMH? 気にはなるがハッキリした事は分かりません。

  序に歩道に貼り付けてあったプレートも紹介します。平塚市の七夕に入れる熱が伝わってきますね。

                        「平塚 七夕祭り」 歩道プレート
          
                           神奈川県平塚市(2012.3)


  七夕の次に夏と云えば 「花火」 です。静岡県で花火と云えば “ふくろい花火” 、“新居の手筒花火” そして “安倍川の花火”
等があるので早速調べました。
ところが袋井市も湖西市も静岡市にも花火の絵柄のマンホールはありませんでした。だらしがないぞ “袋井、湖西” ですよね。

                            「豊橋 手筒花火」
          
                           愛知県豊橋市(2011.5)
  静岡県民の私は “手筒花火” と云えば新居ですので、当然新居が手筒花火の発祥の地と思っていました。
ところが東海道を歩いていてその思い違いに気が付きました。どうやら手筒花火の発祥の地は愛知県の豊橋のようです。
豊橋の中でも市内にある吉田神社が発祥の地で “吉田神社略紀” には
 「花火の創始は永禄3年(1560)当時今川氏の支配下にあった吉田城の城代が花火を始む」 とあるそうです。
しかし1560年は6月には今川義元が桶狭間で討死しているのですよね。それに当時貴重だった火薬を、何故神社の祭りに
使えたのか疑問が残ります。義元の尾張征伐の景気づけだったのでしょうか?
更に面白い事には静岡市の静岡祭でも手筒花火が奉納されていて、その理由に
 「慶長18年(1613)にイギリス国王使節が駿府城の徳川家康を訪ね、鉄砲や望遠鏡などを献上し、城の二の丸で花火を立て、
家康がこれを見物したとあります。これが、花火についての信頼できるもっとも古い記録とされています。」
だそうです。更に
 「これを機に徳川家康が三河の砲術隊に命じて、観賞用の花火を作らせるようになったのが、日本における花火の起源です。」
                            「豊橋 手筒花火」
          
                           愛知県豊橋市(2011.5)
  最初に手筒花火を打ち上げたのは今川(豊橋)か、それとも徳川(静岡)なのか。
今川びいきの私としては今川が駿府で最初に打ち上げたとしたいのだが、どうもそれには無理がありそうです。
ここは素直に静岡祭りで紹介している “駿府で初めて打ち上げて、豊橋で最初に作った” と言う話を信じることにします。
ただMHの花火に関して言えるのは、豊橋(三河)側の圧勝で、新居(遠江)も静岡(駿府)も形なしという事です。


  七夕、花火ときたら、お次は “ふね” ですね。ふねはふねでも勿論こちらの 「舟」 です。

                         「伊東 タライ乗り競争」
          
                           静岡県伊東市(2012.6)
  静岡県の夏の風物詩として毎年TVで放送されるのが伊東市松川のタライ乗り競争です。
タライ乗り競走とは大きなタライに乗り、しゃもじで漕ぎながら川を下る非常にユニークなレースで、外国人や浴衣姿の人、
仮装をした人などが参加していて、その殆どか途中で転覆してしまう面白いレースです。
MHの絵柄が、その競争内容に合った漫画チックなのも面白い。蓋右上にある “水(?)” の字を、10枚の葉っぱで
囲んであるのは伊東市の市標です。葉っぱに見えるのは伊東の “い” だそうで、それが10個で 「い十」 ➜ 「いとう」とか。
何から何まで “ユニーク” で統一してあるようで中々面白いですね。

                            「茅ヶ崎 伝馬船」
          
                           神奈川県茅ヶ崎市(2012.3)
  茅ヶ崎海岸沖の海上にある尖った岩は、誰が見てもその名前は想像できそうです。そう勿論その名は 「えぼし岩」 です。
 藤枝にも “烏帽子” と名の付く “烏帽子山” や “烏帽子形山” があるが、そのどちらも “烏帽子” とは全然想像できません。
それが一目で “烏帽子” が想像できるなんんて、これはこれで大したものです。
もっとも えぼし岩 の正式名称は 「姥島(うばじま)」 だそうです。
  えぼし岩周辺は、恰好な漁場で毎日に渡し舟が釣り人を渡しているそうです。その渡し舟を描いたのがMHの絵柄・・・・・・と
言いたいところですが、えぼし岩は沖合1.4kの所にあり手漕ぎの伝馬船では無理なようでプレジャーボートが使われています。

 ところで “島” と “岩” の違いは何でしょうね。
早速調べたのですが諸説あるようで、まず国連海洋法条約では
 「自然に形成された陸地であって、水に囲まれた高潮時においても水面上にあるもの」 とされているそうです。
そうなると、岩頂が常に水面上に露出しているえぼし岩は当然 “島” に分類されるわけですね。
ところがです。この定義が日本の海上保安庁では、さらに
 「島の外周が100m以上(満潮時)」 という定義を加え、 「これに満たない大きさのものを岩」 と分類しています。
更に更にですよ。国土地理院は 「航空写真に写る陸地」 を島と定義しているそうです。

  何年か前に日本と韓国との間にある、長崎県肥前鳥島周辺海域で領海問題が発生して、当時この海域にあった三つの岩礁の
「北岩・中岩・南岩」 を、慌てて 「北岩➜・北小島・中岩➜中小島・南岩➜南小島」に変更している。
こんな事なら領海問題の発生しそうな場所にある “岩” は、国連海洋法条約に乗っとり、事前に “島” にしておいた方が良さそうです。

                            「沼津 帆船ヘダ号」
          
                           静岡県沼津市(2016.6)
  この写真を写したのは戸田だったが、今回この写真を見た時は、大瀬崎と西浦湾に浮かぶスカンジナビア号だと思った。
しかしあの帆船レストランは既に10年以上前に営業を止めている。それなのにMHはまだ新しい。
で、気が付いたのは一見蜘蛛にも見える高足蟹の姿です。高足蟹とくれば戸田以外ないのですから、正面に見える砂嘴は
御浜岬で、そして駿河湾を挟んで愛鷹山と富士山が見えています。
ここまでは誰もが分かるでしょうが、では木造二本帆の帆船は何でしょう。湾内を走る遊覧船? イエ違います。
ここでまたもや知ったかぶりが始まりますが許してください。

  江戸時代末期の安政の地震の際、折から日露国交樹立交渉のため下田に寄港していた露西亜の帆船 「ディアナ号」 は、
被害を受けた。その修復のため戸田港を目指していたが、航行中の強風と大波にあい田子の浦沖で座礁転覆してしまった。
田子の浦の漁民に助けられたロシアの乗組員は、日露和親条約締結後、帰国ための船の建造を幕府に願いでて、伊豆の
戸田村にて帆船の建造を許された。日露合同で日本史上初ともいえる造船が戸田で行われ、2本のマストを備えた小さな
帆船が 「ヘダ号」 が竣工すると、ディアナ号の乗組員を乗せ無事ロシアに帰国したそうです。

                            「三ケ日 ヨット」
          
                           静岡県浜松市(2017.1)
  ヨットに主眼を置いたため、この絵柄を夏にしてしまったが、これは明らかに私のミスです。
このMHで紹介したかったのは、飽くまでも “三ケ日ミカン” でしょう。
しかしこの絵を細かく見て行くと疑問が湧いてきます。先ず蜜柑が色づいているのにミカンの花が咲いている。
それは許容範囲としても、もっと気になるのは前方に見える橋とヨットの関係です。
三ケ日と云うと浜名湖に面した町とのイメージが強いが、実は三ヶ日町の大部分は前方に見える橋の両側から始まる
猪鼻湖に面しているのです。
この極端に狭まった間には2本の橋が架かっていて、1本はマンホールにあるアーチ橋、もう1本は近代的吊橋です。
そのどちらの橋も水面からさほど高くはありません。ウフフ・・・・私の疑問が分かりましたか?
そうです。帆のあるヨットがあの橋の下を潜って猪鼻湖の中に入ってこれるかどうか。それが私の疑問です。
  次回三ケ日に行ったときに確かめることにしましょう。

仲間ウォーク:須走口コノスジ中途道

2017-07-10 18:46:16 | 低山歩き
歩行記録                                                           H28-7-7(金)
歩行時間:5時間25分   休憩時間:1時間20分   延時間:6時間45分
出発時刻:6時20分     到着時刻:13時05分
歩  数: 17、220歩(推定距離11.4km)    GPS距離10.0km
行程表
 須走口5合目 1:25> 6合目・長田山荘 0:30> 須走口砂払5合目分岐 0:50> 吉田口6合目 0:40> 砂払5合目分岐
 0:40> 登山道合流 0:10> 砂払5合目 0:30> 小富士入口 0:20> 小富士 0:20> 須走口5合目

                                コノスジ中途道概略図


  7月の仲間ウォークは去年初めて歩いて石楠花を堪能した “富士山須走口コノスジ中途道” にしました。
時季も昨年と同じく富士山マイカー規制が行われる前にして無駄な出費は押さえました。何しろ全員年金生活者ですのでネ。

 今日の交通費は割勘なので少し贅沢をして “大井川藤枝焼津スマートIC” から御殿場ICまで東名にしたところ、昨年より30分近く
短縮して五合目に着く事ができました。どうやら道が空いていれば新東名より東名の方が速いようです。
去年は家から少し離れた新東名藤枝岡部ICから御殿場まで新東名を走り料金は2550円。今年は2700な円なので150円高。
4人で割るので断然この方が得ですよね。

 ICに入ると早速仲間が 「焼津さかなセンターに行く人が、この大井川藤枝焼津ICの名前に焼津があったので、ここで下りてしまい
苦労をしたらしい。」
と言い出すと
 「新東名のICだってそうだ。 “新清水” なんて、ありゃ俺だった下りてしまうぜ。」
確かにそうです新東名の “新清水IC” は国道52号線の宍原近くにあり、興津の国1に出るより山梨県境の方が近い場所です。
矢張りここは “清水宍原IC” 辺りが妥当だと思うし、先程のスマートICも “藤枝大井川” の方が理解しやすいだろう。
何て早速行政批判。こんな話なら誰も傷つかないで済みますからね。

 
              須走口五合目                                    3779ナンバー

  先ずは須走口五合目の標識の前で記念撮影。梅雨の合間とはいえ青空も見えています。
 「オイオイここの標高は2000mだって。ならここは今までの最高点だぜ。」
 「そうかな~ 前に行った御殿場口の双子山の方が高いじゃない? ねー」
私に返事を求めてきた。
さて困った。御殿場口の標高は富士宮口の2400mより約1000mくらい下だとは覚えていたが双子山は?
何とも頼りにならない案内人だが、一先ず 「多分双子山の方が低いと思うよ」 と答えておいた。

  五合目の小屋を通り過ぎると小屋の車が何台か停めてあり、そのうち2台の車のナンバーが “3776” だった。
これは勿論 “皆(37)南(7)無(6)” とか “皆(37)成(7)る(6)” の富士山の標高ですよね。
この2台の車の横には “2000” のナンバーの車も。これで須走口の標高で、中々粋な事をやっている。

 
            ハンショウヅル(半鐘蔓)                           コタヌキラン(小狸蘭)

  今年も6合目までの登山道はキツイ。仲間が一緒なのでなるべくゆっくり歩いた積りだったがきつい事には変わりはない。
こんな調子で喜寿の歳に富士山に登れるだろうか? いや喜寿どころか今だって怪しいものだ。
途中で単独行の男性2人に追い抜かれる。勿論追い抜いた人はいない。

  六合目の小屋の人にコノスジ中途道の途中から下山道の五合目に抜ける道の状態を確認すると
 「忙しくてここ何年か整備してないが、倒木が少しある位でどうと云う事はないよ。何かあれば連絡が来るから。」 と言いながら
 「ちょっと来てごらん。」 と小屋の横に誘い 「これがまだ開いては無いが半鐘蔓で、こちらが小狸蘭だ。」 と教えてくれた。
ハンショウヅルは何となく想像できるが、コタヌキランは見当もつかない。聞いてみると
 「ほらこの部分の色や模様が小狸に似ているだろう。」 ウーン! 確かに似ていそうだが本当かな?

 
            シャクナゲ(石楠花)                              どこまで行っても・・・・

  六合目で長めの休憩を取り、いよいよ石楠花の小径コノスジ中途道です。
小径に入ればすぐシャクナゲの木は出てくるのだが花が咲いていない。行っても行ってもシャクナゲの木はあるものの花はただの
一輪も咲いていない。
実は六合目で 「今年はどの花も遅くて、ここのシャクナゲもまだ咲いていない。この分だと下旬ころになりそうだ。」 と言っていたが
仲間には伝えてなかった。だって “じゃ止めた” なんて言い出されても困るもののね。

  蕾状のものはあるがどれもが細長く葉っぱの芽のようだ。花芽の丸い蕾は殆どなく、これでは下旬になっても花はどうだろうか。
 「多分今年はシャクナゲの裏年だよ」という事で諦めることに。この後もシャクナゲ林は続いているが狂い咲きの花すらなかった。

 
              ツマトリソウ(褄取草)                              イワカガミ(岩鏡)

  今日は植物の師匠格のYさんがいるので、花の名前を色々教わりながら歩く事ができた。
 「これはツマトリソウ」 と小さな白い花を指す。妻取り草?へ~変な名前だ。
理由を聞いたが流石の師匠も分からなかったので、家に戻ってから調べてみると、 “妻取” に非ず “褄(つま)取” でした。
褄とは着物のふちの事だそうで、そこから花弁の縁が少しピンク色になるこの花の事を “赤くふちどられる” ➜ “赤く褄とる” で
 “褄取草”になったとか。一応名前の謂れは納得したが、富士山で見た花は白かった。
確認のため写真を拡大してみると、確かに縁がピンクになっていました。

  ところで “左褄を取る” なんて言葉があり、これが芸者を指す言葉だとは知っていたが、何故 “左褄” なのか知らなかった。
それがツマトリソウを調べていて理由が判明しました。
  芸者は着物の裾が開かないように左手で褄を持ったが、素人は右手で抑えたそうです。何故か?
左手で右にある裾を抑えるには腕で前を塞ぐようにしするので、 “芸は売っても身は売らぬ” と芸者の心意気を表したそうです。

  ツマトリソウはコノスジ中途道のあちこちに咲いていたが、イワカガミは数カ所にあっただけだった。
それも比較的小さな花で師匠曰く 「これは姫イワカガミそうだ。」 と言ったが、その違いは分からなかった。

 
                  ???                                 マイヅルソウ(舞鶴草)

  この花は瓦礫地帯に結構咲いていたが名前は分からなかった。
一方樹林帯の中の草地に咲いていたマイヅルソウは、最初師匠は 「チゴユリかユキザサかもしれない。」 と自信なさげだったが
後で寄った小富士の遊歩道には “マイズルソウ” の標識が立っていて無事解決。
チゴユリは今年島田の双子山で見たが、確か星形の花が一輪づつ咲いていた。ユキザサの方は見た事が無いので調べてみると
確かに花のつき方は似ていたが葉の形が全然違く、ユキザサの方は名前の如く、笹の葉に似ていなくもなかった。
  舞鶴の名前の謂れは、小花が幾つも咲く姿が鶴が舞っているように見えることからと思ったら、何と葉っぱからついたそうだ。
何でも葉の模様が家紋の舞鶴紋に似るからとのことだった。

 
                   舞鶴紋                                  マイヅルソウの葉

  参考に舞鶴紋とマイヅルソウの葉っぱをアップしておきました。ウーン! この丸い葉っぱの形なら ウーン! と言ったところかな。

 
                滑沢(なめさわ)                                吉田口の残雪

  鳥の鳴き声が途絶えることないのんびりした樹林帯の道だが、溶岩流跡の滑沢は一瞬気を引き締めてくれる。
そんな樹林帯の道がガレ状の沢に出れば吉田口は近い。上を見れば吉田口の下山道を下っている人の姿も見える。
昨年は無かった雪が今年はまだ大分下の方まであるのは、雪が多かったのかそれとも気温が低かったのか。
花も去年は吉田口近くで咲いていたサンショウバラ(山椒薔薇)だが、今年は一輪も咲いていなかった。
ただ吉田口の登山者は去年と同じように多く西洋人の姿が目についた。尤も中国や韓国の人は見分けがつかないけどね。

 
           倒木もあったコノスジ下山道                              首掛幹

  帰り道はコノスジ中途道の途中から砂払いの五合目に抜ける道を下ることにした。
仲間ウォークでは必ず歩いた道だけを案内してきたが、今回はそれに反して初めての道を下る。
でも多分大丈夫でしょう。五合目で確認したところ倒木が若干ある程度と言っていたし、去年聞いた時は団体が利用しているとも
聞いていた。それでも一応念のため先頭を歩く事にした。

  分岐の下はシャクナゲが一杯で、これから高度を下げて行けば花を見る事ができるかもしれないと期待したが、残念!だだの
一輪も咲いていなかった。
道はコノスジ中途道より若干薄い程度だったが悩むような場所もなく、下り勾配の道を楽に歩く事ができた。

 
             ヤナギ??                                  モミと思っていたが・・・

  師匠は “ヤナギ” と言っていたが調べても分からなかった。
次の写真は山では “モミ(樅)” と思い込んでいたが写真を見ると自信が無くなってきた。葉の付き方が違うし葉が固くなく柔らかい。
新芽だからかと思ったら今年の実や古い実もあるから新芽ではなさそうです。

 
             シロバナヘビイチゴの群落                      シロバナアヘビイチゴ(白花蛇苺)

  シロバナアヘビイチゴ(白花蛇苺)は今日のコースの中で一番見かけた花で、それこそ何処にでも咲いているといった感じでした。
中でも一番多く咲いていた場所は、分岐を下ってきて登山道と合流する手前では群落になって咲いていました。
ヘビイチゴと云えば普通は黄色い花で実は食べられないが、このシロバナヘビイチゴは食べられるらしい。ある方のブログには
 「シロバナヘビイチゴは、名前からすると食べられそうにありませんが、とても美味しい野イチゴです。一番最初に熟す実の方が、
後から熟す実よりも大きくて美味しいと思います。」
とあった。
誰か挑戦して食べてみませんか。そして結果を教えてください。

 
               キノコだが?                            ベニバナイチヤクソウ(紅花一薬草)

  動物の糞かと思ったらキノコだった。でも調べる気も湧きません。
先程のヘビイチゴも、このイチヤクソウも富士山では名前の前に花の色が付いているという事は珍しい花なのでしょうか。
通常のイチヤクソウは白い花で山林に自生しているのに対し、ベニバナイチヤクソウ(紅花一薬草)は亜高山から高山帯の草地や
樹林の下に咲いているそうです。
名前の謂れは利尿や脚気の薬だった事からきているようです。でも採らないで下さいね、貴重な花らしいので。
ベニバナイチヤクソウの下ににはコケモモが咲いていました。

 
                 無事戻れた                                  ???

  分岐から午前中に登った登山道の砂払い五合目の小屋が見える所までは快適に歩く事ができたが、そこから五合目に行く道が
分からなくなってしまった。
登山道沿いにはロープが張ってあるのでロープを跨いでは入りずらいし、微かな踏み跡も見えない。
そのまま登山道を下っても良いが、折角富士山に来たのだから仲間にミニ砂走を経験さてやりたい。
そんな執念が実り、踏み跡とは言えないような足跡を見つけて火山灰の中に入って行った。順調に足跡を辿って行くと、前方に
ブル道が見えてきた所で沢に遮られて足跡は途絶えてしまった。
沢と云っても火山灰の事で、水も無く少し深い凹みになっているだけなのだが、足跡の人はここで止めたらしい。
一人なら当然突破する程度だが今日は仲間と一緒だ。さてどうしようと一応考えて、まず私が様子見で下って大丈夫そうなら皆も
下ることにした。
真っすぐ下らず斜めに下りだすと、一歩下るごとに砂がズズーと崩れる。砂走の中の大砂走を下るより気持ちがいい。
それを見ていた仲間も “これなら大丈夫そうだ” と判断したのか、声を掛ける前に下りだしていた。
上りも若干ズルズルと一歩登って半歩下がる状態だったが、何しろ距離が短いので却って面白い位だった。
そんな事もあったが無事に古御岳神社下のゲートの所まで下る事ができました。

  ここから小富士への遊歩道が始まるので、皆に行くかどうか確認すると 「遊歩道で25分程度なら行く」 と全員一致した。
小富士への道はコノスジ中途道とは雰囲気が違い、シラビソやカラマツなどの林の中の道で、これはこれで気持ちいいものです。

 オッ! これは何だ。折れて腐った幹の上に黄色のペンキを塗ったような、いや錦卵をのせたように真っ黄色な色が付いている。
キノコでもなさそうだし何でしょうね? 気持ち悪くて触る気にはなりませんでした。

 
                 根張り                                     小富士にて

  大きな岩が幾つかある辺りの木は、下が岩盤で根が深く張れないのか土の表面を根がのたくっていた。
こうなると木を支える力が弱いのかあちこちに倒木があった。

  残念ながら小富士からは富士山山頂は見えなかったが、何故ここだけ火山灰の丘になったのかと興味津々で話したり、何とか
見えた砂払い五合目の高さや、コノスジ中途道が何処にあるのかと話題は尽きず長い休憩になった。

  こんな調子で7月の仲間ウォークは終ったが、これから中途道に石楠花を見に行く人は、山小屋へ石楠花の開花状況を確認して
から行くことを進めます。六合目長田山荘でも五合目の東富士山荘でも電話で開花状況を教えてくれるそうです。
尤もその東富士山荘の方が 「今年はシャクナゲの裏年らしい」 なんて言っていましたけどね。

コノスジ中途道のお勧めコースは、今日のコースと同じコースが断然お勧めです。中途道をピストンするより、帰りは分岐地点から
砂払い五合目に下るルートは、下り坂で距離も短かく楽だし、違った雰囲気の道を歩くのも楽しいものです。
登山道に出てからは、そのまま登山道を下るの良いし、私たちのように少し冒険するのも楽しいです。勿論小富士にも寄りましょう。

一日の歩数

2017-07-04 10:07:46 | その他
  6月21日の新聞に 「歩いて 健康もポイント」 の記事が掲載されていました。
記事の内容は健康のために歩いてポイントをためると景品と交換できる制度が各地に自治体で進んでいる事の紹介です。
私にはポイントには興味は無かったが、記事の中に描かれていたイラストが気になった。



  私の年齢になれば全ての病気が罹患対象でしょうが、中でも高血圧症は現在治療中でもあり一番の気がかりな病気です。
薬は朝晩1錠づつの薬を飲んでいますが、数値は上が130台で、下は70台の上であまり改善されていません。
しかし日常生活では自覚症状を感じた事はないので、気がかりではあるが薬の服用以外の対策は取っていません。

それがイラストには “1日8千歩 歩けば高血圧が予防できる“ となっているではありませんか。更に記事には成人男子の
1日平均歩数は7千歩強となっています。それならウォーキングを趣味と公言している私なら当然達成可能な歩数です。
と、思い早速翌日には朝起きてすぐ歩数計をセットし、一日の歩数を確認することにしました。
歩数計はウォーキングでは必ずセットするのですが家では付けた事はありません。それでも平均が7千歩なら半分の3千か
4千歩は歩いているだろうと思っていました。

  私の日常生活は、朝起きてゴミの日はゴミ出しをして食事をして新聞を読む。新聞を読み終わったら午前中はPC部屋に
入ってPCを弄ってます。(妻はこんな私を “引籠り” とからかいます)
昼飯が終ると妻のTV鑑賞に3時頃まで付き合い、その後は小説を読んだりグダグダしています。
夕食が終るとまたTVを見たり本を読んだりして過ごし11時頃布団に入ります。

  で! 1日目の歩数の結果は、何とたったの 280歩 だった。 280歩ですよ、決して2800歩の間違いではありません。
この結果にショック受け、歩数計が壊れているのではないかとも思いました。
仕切り直した2日目は、丁度ゴミの日だったのでわざと2回に分けて運んだり、家の中でも極力歩くようにした結果。
なんとか 550歩 とほぼ倍近くになりましたが、でもねぇーこれだって目標値の1割にも満たない数値です。

  これではいけないと、先ずは自分の歩行距離の現状を把握しようと取り出したのが下記のグラフです。

  グラフは過去8年半の私の歩行距離と体重の推移を月ごとに表したものです。
しかしこのグラフだと細かすぎて、かえって理解しにくいですよね。そこで月表示を年表示にまとめたのが下のグラフです。


2009年の65歳の時はHPで大崩山塊を紹介しようと一人で歩き回っていた頃ですが、それでも一日の平均歩数は6500歩程です。
66歳になると歩こう会に参加したのでウォーキング熱に火が点き 「1日10k」 を目指して歩き回りました。
それが69歳までの4年間続いたのですが、次第に平地歩きだけでなく山も歩きたい気持ちが復活したのが70歳の時でした。
そして71歳の夏、知多半島の遍路で熱中症に罹り、病院のお世話になった頃から歩行距離は落ちています。
それでもまだ一日平均6kは歩いていたので、まだ趣味は 「低山歩き」 を公言しても良いでしょう。

それが昨年は夏に2回も熱中症になり、なんとか家には着いたものの、翌日は歩く事か出来ない程の重症になってしまいました。
更に輪をかけたのが花沢山での転倒です。なんでもない道の下り坂での転倒は、自尊心を傷つけ自信まで失くしてしまいました。
そして昨年はその傷を引きずったままになり、歩行距離は減少を続け、一日平均2kmになっています。
これではもう趣味が “ウォーキング” とか “低山歩き” とはとても言えないですよね。

  それでも今回の新聞記事で自分の歩行状態の現状把握ができた事は良かったと思っています。
しかしこのジレンマから脱出するには歩くしかないのですが、この暑い時期に歩く自信はありません。
そこで立てた計画は、暑い7月8月は遠出の歩きは極力止めて、代わりに近くの大井川の河川敷をこまめに歩く事です。
高血圧症の発症を抑えるには一日8千歩とか。なら一先ずこれを目指す事にしました。
                       目標 一日平均8千歩!
はたしてどんな結果になるか9月が楽しみです。