はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

藤枝 月見里神社

2010-06-16 15:51:05 | 寺社遍路
 遠江33観音の8番札所のある袋井市山梨が、古くは月見里と書いて"やまなし"と呼んでいたことは前にも紹介した。そのとき しずおかKさんが藤枝に月見里神社があるとコメントしてくれたので行って来た。

 藤枝は隣町で駅周辺は何度も行くが、神社のある宿場のあったあたりは歩く事が少ないので家から歩い行く事にした。神社を見るだけなので、いつもと違いのんびりムードの歩きになって、所々にある案内板もしっかり読んでいった。

 瀬戸川の右岸を歩いていると気になる案内板があった。そこには「田沼街道蹟」として
「勝草橋の西袂から瀬戸川堤を、110m位南下した、ここ志太4丁目1457-9番地先が、東海道と田沼街道の合流点である」と書いてある。

          

 待てよ?旧東海道はここにも書いてある勝草橋を渡って、そのまま西に向かっていたはずだ。それがこの案内板は橋からわざわざ100mも南下していたと書いてある。普通に考えればそんな馬鹿なことはしないだろう。きっと案内板が間違いだろうと思ったが、それにしては番地まで細かく表示しているのも妙だ。

 勝草橋に着くと、そこは一里塚跡や秋葉さんの常夜灯もあり旧街道と思いたくなる雰囲気がある。案内の略図を見てもここが旧東海道で、田沼街道はここで合流していたように見える。

          

やはりさっきの案内板が間違っていたのだろうと勝草橋を渡っていると橋の欄干に何やら案内が書いてある。
「江戸時代に勝草橋周辺は東海道の渡河地点だったが、瀬戸川には橋が架けられず川越しが行われた。瀬戸川の川越しは瀬戸川の徒(かち)渡りといわれ知られていた。越すに越されぬ大井川に比べて、瀬戸川は川幅も狭く水深も浅いので、徒歩で渡河することが多かったためである」となっている。

          

 これを読んでまたまた想像力が刺激された。川を渡るなら直角に渡るより川下に向かって渡った方が楽だろう。それなら東から来た旅人は瀬戸川の合流部で川に入り、あの案内板の辺りで上陸した。それならそこが東海道と田沼街道の合流地点と書かれた案内も合点が行く。どうでしょうか私の想像は-------

          

 橋の上からNTTの建物を探し、そちらに向かう。月見里神社はNTTより100mほど先にあるらしい。
月見里神社が見えてきた。鳥居の横の標識に月見里と書いてやまなしとルビが振ってある。間違いなくこの神社だ。

          

境内に入ると案内板に「周囲に山が無くて月が良く見える事から月見里と書いてやまなしと読まれています」と書いてあるだけだ。
なんだ つまらない。神社設立の曰く因縁などが書いてあると思っていたのに-----
 神社の横の道に出てみると後方に山が見える。これなら私の住んでいる旧大井川町の方がよっぽど月見里だ。南は駿河湾に面し西は大井川、北は藤枝市街、東は焼津市街と四方八方たいらで、山どころか丘すらない。何しろ一番標高の高い所は東名の盛土部分なのだから、その平さが分るというものだ。きっと日本一平均標高の低い町だったと思っている。

           

 ただこの神社の後ろに聳えているクスの木は大きかった。根回り26.5m、目通9.1mあると書いてある。藤枝市の天然記念物に指定されていた。

                 

さっき覗いた山の袂に寺の屋根が見える。チョット覗いていこう。

遠江33観音総括1

2010-06-12 17:28:08 | 寺社遍路
 駅から遍路の遠江33観音霊場巡りの距離や時間などを集計しました。

1、順路
 1回目 掛川駅-1-2-3-4-5-6-袋井駅(*)
 2回目 袋井駅-7-8-11-9-10-原田駅
 3回目 原田駅-12-13-14-掛川駅
 4回目 掛川駅-18-17-16-15-23-22-24-金谷駅
 5回目 金谷駅-26-25-23-21-20-19-27-28-菊川駅
 6回目 菊川駅-29-30-31-32-33-1-掛川駅
     *1回目の32-33番は省略した

 順路で1番考慮したのは開始から終了までが1本の線で繋げること。そのため3回目は掛川まで歩く事になり距離が伸びてしまった。
次に考慮したのは粟ヶ岳への道を、登りと下りを変えたため、4回目以降の札所の順番が逆になったり、不規則になってしまった。しかし駅を起点としている今回の遍路では、この方がルート的には良かったと感じている。
そして最後は1番にお礼参りをしたかったが、それも実現した。
駅から遍路を標榜している私としては、このコースがベストと思える。

2、距離・時間
 1回目 21.8km 歩行時間 4時間16分 総時間5時間30分
 2回目 32.8km   〃  7時間00分  〃 9時間12分
 3回目 35.7km   〃  7時間46分  〃 9時間25分
 4回目 30.7km   〃  6時間43分  〃 9時間10分
 5回目 26.4km   〃  5時間44分  〃 8時間07分
 6回目 37.9km   〃  7時間39分  〃10時間05分
 合 計185.3km   〃 39時間08分  〃51時間29分
 平 均 30.9km   〃  6時間31分  〃 8時間35分

 1回目が22kと少ないが、これ以上延ばしても意味がなく、かえって駅から離れてしまう。
一番大変だったのが3回目だった。大尾山の山頂にある13番を打ってから掛川駅までが長かった。
最後の6回目は距離は長いがアップダウンが少なく助かった。

 最初に紹介した江戸時代の遍路・鈴木忠兵衛さんは、160kmを6日間で歩いているが、平成のはぐれ遍路は185kmを6日間で歩いた。距離が若干長くなったのは忠兵衛さんの宿は遍路道の近くにあり札所までの距離が短かったが、私は駅までの往復が生じたため長くなったのだと思う。言うなれば似たり寄ったりと言うことだ。


3、札所の所在地
  掛川17ヶ所 袋井4ヶ所 森町2ヶ所 豊岡1ヶ所 
  金谷 3ヶ所 菊川2ヶ所 小笠1ヶ所 大東3ヶ所

 遠江とは言え掛川を中心に集っているだけで、遠江の府中だった見附(磐田)や天竜川以西には札所が無かった。これでは遠江33観音と言うにはおこがましく小笠33観音と呼んだ方が相応しく感じる。
この様に片寄った霊場になったのは、当地を支配していた今川氏が、自分の支配地だけで札所を設定し、それを遠江33観音と称したのではないか。

4、霊場の始まり
 ガイドブックには二つの説を紹介してある。
 一、今川義元の父の氏親が亡き後、その夫人が今川氏を復興させようとして発願した。
 二、1590年代霊場設置の機運が生まれ1673年過ぎに札所の順番が確定した。

 私はこの二つの説のいずれにも疑問を感じる。
 一の説では駿河・遠江二国の守護職だった氏親が1526年に死亡しているが、この頃から義元が桶狭間で討死する1560年までの期間は今川の最盛期だった。となると氏親亡きあと今川が衰退したのは桶狭間以降となる。そして今川が相模の小田原に逃亡したのが1569年なので、この9年間足らずに札所を作った事になる。
義元が討死し武田と徳川に攻められながら、果たして霊場を設置する余裕があったのか。
義元の母親の寿桂尼は稀代の女傑で「女戦国大名、尼御台」と呼ばれていたので可能かもしれないが。

 二の説の1590年になると遠江の城は掛川城の山内一豊をはじめ豊臣方の武将が城主になっている。そんな時に霊場を作り遠江と名付けるのなら掛川周辺に拘る事はない。
どうしても1590年以後とするなら、霊場設置に関わった者は今川家の縁者なのだろうか。

 では素人の私の説はと言うと。今川氏親が駿河から遠州に攻め込み遠江国の中部まで勢力を広げた1494年から駿河・遠江の守護職になる1508年以前だと思う。
この説も突っ込まれれば、すぐ瓦解してしまうだろうが私なりに納得している。

5、おわり
 富士山が臨める駿河一国を歩いた後に歩く遠江は、きっと駿河より面白くないだろうと思っていた。ところがどっこい始めてみるととても楽しく歩く事ができた。行く先々の札所で興味や疑問を感じ、家に帰って調べるのが楽しみになった。調べてもすぐ忘れてしまうが、それはそれでいいだろう。こうしてブログに書いておけば後から見ることも出来るから。

 秋に歩く予定の遠州33観音霊場巡りは更に多くの疑問を感じて、益々長いブログになってしまいそうで今から心配をしている。
それまでに遠江33観音霊場巡りのHPを完成しなければ。

遠江33観音6-4

2010-06-11 15:46:46 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り6-4回目        2010/06/02


    10.9k   7.4k   1.0k   6.2k   5.7k   4.4k  2.3k
菊川駅 -29番 -30番 -31番 -32番 -33番 -1番 -掛川駅
    2:25    1:20   11   1:16   1:06    56   25 

 歩行距離     37.9km
 総時間     10時間05分
 歩行時間     7時間39分
 平均歩行時速    5.0km

  --------------------------------------------------

     32番 今瀧寺へ()
 
 次の札所今瀧寺は1回目の遍路でお参りしているが、その時のルート設定が満足できなかったので再度のお参りになる。前回は南の33番から下ってきたが、今回は東の方向にある31番からの上りなので違う道を歩く事になる。

 東京女子医大を創立した女医の吉岡弥生記念館入口の案内を横目に見ながら歩き続ける。
次に出てきたのは「今蘇る 高天神戦国ロマンの里」と書かれた大きな案内板だった。それによると今川氏により築城された高天神城は、今川義元が桶狭間で滅んだあと武田側の城となった。武田が長篠の戦で敗れた後も武田側の城であったが天正9年(1581)徳川家康の攻撃で落城している。

          
この遠江33観音の地域には幾つもの城があるが、そのいずれも今川、武田、徳川へと遍歴していて、この地が戦国時代の重要な拠点だったことが窺える。
その高天神城址が目の前だというのに通過。遍路をしていると見たい物が道沿いにあれば寄って見るが1kも離れていると中々立ち寄る気になれない。片道1kでも往復すると2k。そして見学時間を入れると1時間以上のロスが生じてしまうからだ。

 県道251号を北上していると見たことのある景色になった。西側に川が流れ山手には大きな工場がある。たしか32番の札所はあの工場の横の谷(沢)の奥にあるはずだ。一度そんな思いが湧くと今日は慎重に歩こうと決心した事など忘れてしまい、即実行に移さなければ気がすまない。結局土方小学校を過ぎたあたりで県道からはなれて小道に入って行った。

          

勘は当り今瀧寺の看板が出てきた。こういう事がやるから朝のように道に迷い方向感覚が狂ってしまうのに、分っていても止めれない困った性格だ。この性格が高じて人の言う事を聞かない偏屈な惚け老人になってしまうのが一番の恐怖だが。

          

 今瀧寺の二重の塔や観音堂が見えてきた。境内に入るとお堂の扉が少し開いている。中を覗くと畳が敷いてありお参りを中でも出来そうだ。靴を脱いで正座してお経をあげる。この様にお堂の中でお参りできる事は殆どないが、たまにやると気持ちよく感じる。

          

 本堂の入口には槇の木が山門の屋根のように覆い被さっている。この槇は掛川市天然記念物に指定されていた。

          

今瀧寺を出た所で「ぼけ封じ観音」の看板があった。ウーンもう少し丁寧に拝んできた方が良かったかな----

          

 県道249号横の小笠川まで戻り県道と並行に走っている旧道を歩く。県道もさほど交通量は多くないが、旧道は全然車が走っていない歩きやすい道だった。その旧道が終わる小笠山入口付近で聞いてみたい事があるのだが、車だけでなく人も全然見当たらない。地図にトンネルのある旧道らしき道が載っているので歩いてみたいのだが、そのトンネルが果たして歩けるかどうか。
トンネルへの入口らしき道はあったが、しかし車は鎖で規制されている。迷いに迷ったが止めた。トンネルが無ければ行ってみるが、トンネルだと崩壊していて歩行者も立入禁止になっている恐れもある。それにも増してトンネルの中が蛇の巣窟だったらと思うと寒気がして進む気が湧いてこない。

           

峠を越えてトンネルの出口と思しき辺りを見ると、工場を作るためか山の斜面は整地されトンネルらしきものは見えない。やはり止めて良かったのだろう。

 歩道の付いた左側を黙々と歩いていた。最後の札所33番岩井寺はまだ先のはずだと思って歩いていたが、何気なく右手に目をやると立札が立っていた。危ない、危ない岩井寺の入口を見落すところだった。

          

この寺も1回目に来ているので勝手は分っている。小川を渡り山手に登る道グルリ回れば赤い2階建ての門が見えてきた。この様な門は何と呼ぶのだろうか山門?楼門?櫓門?二十門?それとも鐘楼?
朱塗りの門は山門には似つかわしくないし、楼門では繁華街や温泉の入口を想像してしまう。城ではないので櫓門ではないし二重門?ウーンそうかもしれないな。でも鐘があれば鐘楼のような気もするし、門を兼ねているのに鐘楼も変だ。
調べてみたがハッキリしない。一番可能性の高い物として
「楼門とは二階建て(重層)になった門。下層に屋根がなくて上層に高欄付きの縁をめぐらしたもの。下層に屋根のあるものは、二重門とよぶ」それなら楼門なのか?
しかし鐘楼を見てみると「山門と一体になった鐘つき堂を鐘門と呼ぶ」ともかいてある。
結論は出なかったが、この門に鐘があったなら鐘門、無かったら楼門という事にしよう。

          

 前回観音堂を探したが見当たらないので無い物と思っていたが、今回ご朱印のとき「観音堂をお参りしましたか」と聞かれた。聞いてみると観音堂は楼門(?)の手前の高台にあると言う。前回はその建物を神社と思い参詣しなかったのだが、矢張り寺の人と話す機会のできるご朱印は必要だ。

 観音堂のお参りを終え寺と反対側を見ると階段があり踏跡も付いている。若しかして参道?と思い入って行くと、雑草に覆われているが道があり所々に階段もある。そしてあっけなく、さっき登って行った道に出てしまった。随分近道になったがこちらが正規の参道なのだろう。今では車でしか来る人がいないので、この様な歩きの参道は廃れてきてしまったのだろう。

 県道38号に出た後は、この道を掛川の入口まで北上すればよい。ただこの県道は中々交通量が多くて、歩きづらかった思いがあったので旧道を探しながら歩いた。前方右手に県道と違うトンネルが見える。雰囲気的には古いがレンガのしっかりした作りだ。これは旧道に違いないと入り混むと、嘘のように静かになった。車の騒音と排気ガスから遁れる事ができのんびり歩く事が出来た。途中県道と合流したが次は川沿いの道に入ると、その道は掛川市街の入口の上張南交差点まで続いていた。こういう事があるので不確かな道でも歩きたくなってしまうのだ。

           

 1番結縁寺の端正なお堂の屋根が見えてきた。6回の遍路でようやく結願を迎えることが出来たが、楽しい遍路だった。

           

1回目は1番から33番32番と行ったが気が変わって又1番に戻り2番3番と歩いた。蓋のあいた骨瓶があった寺もあった。44kも歩いたその日は暗くなってしまい大分疲れた。
2回目は森町の歴史資料館での話も楽しかった。そうそう9番清瀧寺の獅子ヶ鼻公園にはもう一度行ってみたい。
3回目は大尾山の帰りに交通止めに遭ったのには焦ってしまった。しかし諦めないで交渉すれば何とかなる事も経験した。
4回目はなんと言っても、あの粟ヶ岳の雄大な景色。お茶の時季にもう一度行こう。
5回目は法印さんと楽しい話が出来て札所の制定の裏話も聞けた。
そして今日の6回目。少しの油断で方向感覚が狂うほどの間違いをしてしまう事を知った。これからの遍路でも低山歩きでも、その事を忘れないで歩こう。

遠江33観音6-3

2010-06-10 22:58:41 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り6-3回目        2010/06/02


    10.9k   7.4k   1.0k   6.2k   5.7k   4.4k  2.3k
菊川駅 -29番 -30番 -31番 -32番 -33番 -1番 -掛川駅
    2:25    1:20   11   1:16   1:06    56   25 

 歩行距離     37.9km
 総時間     10時間05分
 歩行時間     7時間39分
 平均歩行時速    5.0km

  --------------------------------------------------

     30番 青木寺へ(納経帳)

 県道69号を西に向かって歩く。先ほど道を聞いた場所も通り過ぎ、旧道と見間違えた道にも出合った。この道は旧道には違いなかったが、行き先が札所の方角ではなく、旧小笠町の町中に向かっている道のようだった。その位の判断が出来ないようでは、道勘が冴えているとかいえない、今日は気をつけて歩こう。

 道路標識に「黒田代官屋敷」の案内が出てきたので、一瞬寄りたい気も起きたが、それは封印して平田交差点を右折して県道37号に入る。
左手に川の土手が見え、その上に道がありそうに感じる。次の札所はあの川を渡った西の方角になるので、必ず橋を渡るのだからと、さっきの反省も忘れて川の土手に向かった。
今回は正解だった。土手には遊歩道があって次の橋も見える。あの橋を渡れば良いのだ。

 一級河川菊川と書かれた大きな看板が見えてきた。

          

次の札所は菊川と連続している次の川を渡った所から南に下がった方角にある。札所は地図には載っていないので、また苦労しそうだと思いながら橋を渡り終えると大丈夫でした。そこには「遠江観音霊場第30番札所」と彫られた大きな石碑が建っていた。

          

 30番札所の青木寺は今では盛岩院の一角に建っている小さなお堂にすぎないが、この母屋の盛岩院は中々ユニークな寺だった。古い石仏の十三仏があると思えば、真新しい石仏が所狭しと置かれている。
先ず入口には六地蔵、次は七福神、手水場の水は龍の口から出ている。その横には蛙も鎮座している。干支地蔵とでも言うのか十二支の石像も並んでいる。ここまで徹底していると何か楽しくなる。周囲に木も無いので明るい開放的な寺のように感じた。

 

 

ただ気になったのは、この新しい仏像は風雨に強いだろうか?見た感じは石を彫って作ったというより、石の粉を型枠に入れて作ったような感じがした(失礼)。となると昨今流行の酸性雨などを浴びれば、じきにボロボロになってしまいそうな気もする。

 次の31番の札所も地図に載っていない。方角はここより西の方にあるので今来た道を戻る感じだが。でも今日は大丈夫! 秘密兵器を持ってきた。
それはご朱印帳だ。ご朱印を貰うとき住職に次の札所の道を確認すれば、次の札所まではスイスイに行けるはずだ。

 実はこの納経帳は前々回の4回目の遍路のときに購入したのだが、前回の遍路では持参するのを忘れてしまった。最終回の今回は忘れないようにと前日にズタ袋の中に入れておいた。それはよいのだがこの納経帳の"はじめに"を読んで少し違和感を感じた。その序文にはこう書いてあった。

1、賽銭を寄進して霊場が続く様に援助する。
2、巡礼札を納める。
3、ご詠歌を唱え、お経をあげ、或いは写経を納め、その証明として納経帳にお観音様のお身代りのご印を頂く。
4、笈摺を着て道中し、お詣りもして、これにもご印を頂く。
以上が原則ですが、ほかに杖、手甲、脚絆とうは自由です。

いま手元に四国、秩父、遠州の納経帳があるが、この様な押し付けがましいことの書いてある納経帳はない。
1、賽銭は境内を利用する者として当然な行為だと思うし、人から指図されたくない。
2、巡礼札を自分で作るとしても、それを何所に納めればよいのか。納め箱があった札所は少なかった。
3、ご印は頂きたい。しかし無住が多く、しかも管理人の場所も表示してないのに、どうして頂くのか。
4、笈摺を着て? 四国や団体のバスによる参拝なら兎も角、白衣を着てお参りをする風習のない所では、周りに違和感を感じさせてしまう。

本当に遠江の観音巡りを盛んにしたいなら、先ず無住の寺に朱印を受ける場所を明示する。各札所には寺の縁起や本尊の観音様の謂れなどを書いた案内板を設置する。納経帳は1番で購入できるようにする。など準備する必要があるにではないだろうか。
今の時代遍路をするのは宗教心の篤い人より、ウォーキングを兼ねて遍路をする人の方が多いはずだ。それを頭から「何々をしなければならない」と言われてしまうと遍路をする気も失せてしまう。
このように感じるのはひねくれ者のはぐれ遍路だけだろうか。


     31番 菊水寺

 30番の納経のとき住職に道を聞いたので簡単に31番には辿り着いた。距離は1kしかなかったが、道を聞いてなければ曲る場所で迷った事だろう。
 高台にあるお堂を見ると右手に石灯籠がある何の変哲もないお堂だったが----
アレーお堂の横がガラス戸になっている。普通は板を張りつけてあるのに何なんだろう。の人が集会場として使うためなのか?

          

早速近づいて除いてみるが別段替わりはない。やはり覗くためのガラスでなく陽を入れるためのガラスだったのだ。とふと天井を見ると何やら絵が書いてある。所謂天井絵という物で四角い格子の中に人物や花や動物などが書いてある。それをみせるためわざわざ、周りをガラスにしたのだろう。ありがたいことだ。

          

 境内にある石灯籠を見ると「寛政二戌年」と書いてあるが意味が分からない。寛政二年が戌年なのか、二十X年なのか(分かる人がいたら教えてください)。兎も角古いことは確かだ。

               

石灯籠の窓を見ると色々な形にくり抜いてある。丸や四角、三日月や丸が三つとそれぞれ形が違っている。この様な形は今までも見たことがあるが、何気なく見ていたので気にならなかった。今回は「戌」で引っ掛かったついでなのか、こっちも気になった。
調べてみたらこんな事を書いてあるブログがあった。
「灯籠の東側の窓は太陽を意味するので円形の窓。向かい側の窓は西側なので月を意味する三日月の窓になっている」写真で確認すると丸の向こうは確かに三日月だ。方角は今では正確なことは分からないが、お堂は確か西を向いていた。そのお堂と前に建っていた石灯籠の正面はウーン三日月だった。どうやらブログに書いてあったのは本当のようだ。
大きな四角は蝋燭などの灯りの取り出し口だろうが、では丸が三つは何だろう?調べてみたが分らなかった。

 

 分らない序でに、もう一つ分らなくなってしまった。石灯籠と常夜灯の違いは何なんだろう。石灯籠は読んで字の如しで石で出来た灯の籠だとは分かる。では石で出来た常夜灯は石灯籠なのか? これもインターネットで調べたがハッキリしない。海上保安庁燈台部で書いた物の中にこんな文章があった。
「神社や寺院に建てられている石灯籠で、夜ごと火を灯すものが「常夜灯」と呼ばれています」この説だと対象となる石灯籠が、灯を燈しているかどうか知らなければ区分できない事になる。こんな説もあった。
「道端や畑の中などに建っているものは常夜灯、神社やお寺の境内に建っているものを石灯籠と表記する」この方がハッキリしている。
今日はこの説で納得する事にしよう。では庭園に建っているのは何-----
 ガラスに張り紙がしてあり、それにはご朱印をする管理人の家の場所が書いてあった。さっきの文句が聞こえたのかな。

遠江33観音6-2

2010-06-09 15:30:12 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り6-2回目        2010/06/02


    10.9k   7.4k   1.0k   6.2k   5.7k   4.4k  2.3k
菊川駅 -29番 -30番 -31番 -32番 -33番 -1番 -掛川駅
    2:25    1:20   11   1:16   1:06    56   25 

 歩行距離     37.9km
 総時間     10時間05分
 歩行時間     7時間39分
 平均歩行時速    5.0km

  --------------------------------------------------

     29番 磯部山へ(今後の予定)

 道草ばかりで中々29番の札所に着かない。しかし札所の案内板も出てきたので札所は近いだろう。
その標識の横に「秋葉道・塩の道」の道標もある。そこには"秋葉道・塩の道踏破研究会"の名前が見えるが、この研究会は私の所属する掛川歩こう会が母体になって設立し、相良から信州飯田までの道筋に立てた標識だと聞いている。この様な標識があるなら一度、塩の道を歩くのも悪くないな、とまたまた悪い癖が出てきた。

          

なにしろ歩きたい所がありすぎて困っている状態なのに、更に候補が増えると収拾がつかなくなり、虻蜂取らずになってしまう恐れがある。
まず今年の夏は富士山一番乗り。これは7月1日の天気が良く、残雪が少なければ決行する予定だ。次に「海抜0米から37776mへ」も1泊目の問題が解決すればやりたい。
更に富士山では「富士麓道一周」も是非やりたい。この麓道は今資料を集めているが、日帰りか車中泊でやる予定で計画を練っている。。
「駅から遍路」の最終番の遠州33観音も秋にはやる予定だ。
これだけでも4項目あり、更に歩こう会の参加が月4・5回はあるのだから中々忙しい。

 今書いたのはほぼ実現可能なものだが、他にも伊豆半島一周、東海道、東海自然歩道などの静岡県内のウォーキングコースモ歩きたい。県外では熊野古道、屋久島も是非歩いてみたい。
外国では韓国済州島のオレル。スペインのサンティアゴの巡礼もしてみたい。ニュージーランドのミルフォード・トラックや前回雨のため歩けなかったトンガリロのトレッキング。そして富士山より高いマレーシアのキナバル山(4095m)にも登ってみたい。

ところで私は何歳でしょう?  ハイ66歳です。
収入はありますか?      ハイ年金のみで生活しています。

「吾唯足不知」の男の世迷い言でした。

 やっと「←駐車場・寺林正・門正」があった。看板通り素直に左折。暫くして駐車場の入口があったが、そこは参道ではなそうそうだった。

          

更に上に行くと木の下に無縁仏らしき墓が何基も置いてある。余り古い墓は見当たらず新しいそうな墓が多い。墓地の整理でもしたのだろうか、それにしても不可解な眺めだ。

          

尾根に出たが寺への入口はない、このまま進むと寺から離れそうなので、墓の中を通り寺の屋根の見える方に行く。

          

途中には閻魔様の石像があったりして少し風変わりな寺なのだろうか。しかし宗派は曹洞宗で別段変わってはいない。

          

寺は思いがけず大きく本堂にお堂が二つあり鐘楼もある。参道はと探すと、どうやら墓とは反対の下の方から続いているようだ。見落とした覚えはないので何所かで間違えたのだろうが、見当が付かなかった。

          

          

寺の縁起を読むと、この寺には今川義忠の墓があると書いてある。今川義忠とは今川義元の祖父で駿河の国の国司だった人だ。
遠州は以前今川の領土だったが斯波氏に奪われていたので、義忠は宿敵斯波氏を打ち破り駿河に帰る途中、この辺りで斯波氏の残党に討たれたという。
そしてその子、今川氏親が遠州を平定して遠州守護職につくと、この地に寺を開いて父親の菩提を弔ったのがこの寺の起源という。

 参拝を終えて参道と思しき道に行く。やはりそこは立派な参道で入口は県道に面していて「古戦場」と彫られた常夜灯もあった。

          

先ほど県道と分かれたのは駐車場の矢印があった所だが、県道側には何も書いてなかったはずだ。又もや方向感覚が狂ってしまったのか、それにしても今日は道勘が悪すぎる。
次の札所は先ほど地図で道を聞いた所まで戻ってから先に進むので、途中確認しながら歩いて行こう。道勘が冴えていない事を認識して歩かなければ。

 駐車場の標識のところまで戻ってきた。標識は「←駐車場・寺林正・門正」と書いてあると思ったら、何と→印を見落としていた。
右にあった→が木の葉に隠れて見えなかったのだ。正確には「←駐車場・寺林正・門正→」となっていた。それにしても慌て者というか馬鹿というかガッカリしてしまう。左の駐車場だけ読んで後は適当に解釈をしてしまったのだろう。本当に情けなくなる。

 方向を見失った所も2回も歩くと段々理解できるようになってきた。サー次の札所は30番だ。




遠江33観音6-1

2010-06-08 15:54:58 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り6-1回目        2010/06/02


    10.9k   7.4k   1.0k   6.2k   5.7k   4.4k  2.3k
菊川駅 -29番 -30番 -31番 -32番 -33番 -1番 -掛川駅
    2:25    1:20   11   1:16   1:06    56   25 

 歩行距離     37.9km
 総時間     10時間05分
 歩行時間     7時間39分
 平均歩行時速    5.0km

  --------------------------------------------------

   29番 磯部山へ(県道)

 遠江33観音も6回目の今回で結願になる。今日は残りの5寺とお礼廻りで1番結縁寺を打って掛川駅のゴールを予定している。
実際は1回目の遍路で32番と33番は打ち終わっているが、あれは私の判断ミスで、くだらないルートを設定してしまったので、無かった事にして今日再度打つことにしている。

 既に乗り慣れた藤枝6時13分発岐阜行きの電車に乗り、菊川駅を6時40分に出発。
菊川駅は静岡県では珍しく南側に駅の出入口があるので、南の方角にある最初の目的地29番は菊川駅を出たら真直ぐ進めばよい。
札所は駅より南に10k以上行った旧小笠町高橋にある。

           

 静岡県の駅の改札は、と言っても最近は階上駅が増えて南も北もないが一応説明すると。
まず南側がメインの出入り口の駅は三島、沼津、焼津位のもので富士、清水、静岡、藤枝、島田、掛川、袋井、磐田、浜松と殆どの駅が北口がメインだ。静岡県では東西に東海道線が走っているので駅の入口を北口、南口と表することが多く、北口は山側、南口は海側という風になっている。

 では何故三島、沼津、焼津それと小さい駅だが今回の菊川は南側なのか----- 
ここから先は例により私の独断と偏見による解釈になるが、いささか自信を持っている。
例に挙げた駅は入口を作るのに北・南共に地理的条件が付く所は無い。
では北口がメインの駅を見てみると、旧東海道が全て線路より北側を走っている。更に南口がメインの三島・沼津は東海道は南側にある。要するに東海道線が開通したとき駅の入口は旧東海道に向けて作ったのだろう。
では焼津駅は東海道が北にあるのに、何故駅は南口か。それは旧東海道と駅とが離れているため街道に左右される事なく駅が出来たのだと思う。
当り前といえば当り前の事だが、遍路をしながらあれこれ空想するには丁度良い題材だ。

 29番までは県道を37・245・69・244号と歩いて行き、さらに29番の札所は大きな寺のようなので道に迷う心配はない。と思っている。

          
県道245の小笠高校や市立病院を過ぎ、横地城址の看板があった頃から、道は登り坂になって、カーブが多くなってきた。交通量はさほどでもないがスピードが出ている。歩道は狭い白線が引かれているだけだ。更に道の脇は雑草が生茂っているので、どうしても白線からはみ出してしまう。
カーブで前が見にくいのに更に雑草が覆被さって前が見難い。こちら側から見にくと言う事は、それ以上に車から私が見えにくいだろうと不安を覚える。その証拠にカーブでインコースを走ってきた車は私を見つけると慌ててハンドルを切っている。中でも恐いのはバイクで、雑草に触れるぐらいインコースで走ってくるので、勢い私は雑草の中に除ける事になる。
通勤時間帯だったせいもあり、普通ならなんでもない道だが恐怖の道になってしまった。

この様な道は右側を歩くより左側を歩く方のが目立つような気がする。車が路肩に寄るのは左カーブの時だから、そのとき歩行者が同じ方向に進んでいれば見つけやすい。それが歩行者がこちらに向かってくるとカーブから突然現れる格好になりビックリしてしまう。と思うのだが左を歩いていて事故になったらこっちが悪い事になってしまう。結局右側通行をするしかない。

 やっと峠のトンネルに着いた。先も見える短いトンネルだが懐中電灯を支度して渡り始める。
前回暗いトンネルで恐い思いをしたので、今は遍路の前夜に必ず点灯するか確認している。その効果が有るか無いかわからないが兎も角狭いくせにスピ-ドが速いので恐い。
次回この道を歩く時は県道でない道を探さなくてはならないな。

          

 県道ばかりで飽きてきた。左側にさっきから細い道が続いている。思い切ってその道に入ったら、何の事はない、また県道に戻ってしまった。判断が遅すぎる。
今度は右側の鞘堂の所から山裾を縫うように道が始まっている。きっと旧道だろうとその道に入った。更に少し離れた川沿いにも道が見える。地図で確認すると県道は川の向こう側にあるのでかえって好都合だとその道を進む。しかし----
何とその道は突然無くなってしまった。ウーン今日は道勘が冴えていない。

          

 元の旧道に戻り前進する。しかしその道は右へ右えと向かって行く。県道は左の川の向こうにあるのに何か変だ。道を聞く人はいないかと辺りを見回すとハウスの中に作業をしている人が。
「すみません。正林寺に行きたいのですが、どう行けばいいのでしょうか」と尋ねると、懇切丁寧に教えてくれた。余りに細かく憶えきれないので寺でなく県道までの道を教えてもらう。要は左にある川を渡れば県道はあるようだ。礼を言って細い道を川に向かう。

 県道に出た所に川中公民館があった。都市地図を見るが載っていない。この先は右に行くべきか、左に行くべきか当も付かない。右の方の信号の所に人が見える聞いてみよう。
今度は作戦を変えて「すみません。ここはこの地図のどのあたりでしょうか?」と聞いてみた。
地図をあちこち回して「見にくいね」と言いながらも解ったらしく。
「ここは、ほらこの郵便局がここで、あの学校が東小だから地図ではここだよ」と指差してくれる。
地図上の場所は分かったが何故自分がこんな所にいるのか理解できなかった。どうやら方向感覚が狂ってしまったようだ。
更に正林寺までの道を聞いて歩き出したが方向感覚は狂ったままで教わった通りに歩くしかなかった。その内正林寺の看板が出てきて道の不安は無くなったが以前地図と実際の場所がしっくりこなかった。

 橋の袂に「一級河川 小笠高橋川起点」と書かれた看板が立っている。川は小さく巾も狭くて、とても一級河川には見えない。しかもまだここは山の中腹で川も上に続いている。なのに起点と表示してある。ではこの標識から上は高橋川でなく、ただの「川」になるのか?そんな馬鹿な。

          

河川法なる物を調べてみたがよく解らない。代わりに一級河川の事が解った。
一級河川とは「国土交通省が国土保全上または国民経済上特に重要として指定した水系」ここまでは分る。では何故この細い名前も聞いたことが無いような川が一級なのかと言うと、一級河川の支流は全て一級河川に指定されているので、その支流がどんなに細く短くても一級河川になるらしい。
因みにこんな事も分った。
静岡県の一級河川は狩野川、富士川、安倍川、大井川、菊川、天竜川の6河川で、中でも菊川は河川延長距離がが28kmと一番短く、その距離は日本の一級河川の中でも最短だった。
しかもこの遍路でも何回か出合った大田川水系の河川延長距離は43.9kと菊川より、よっぽど長く大きい。何故だろう、どうしても気になる。更に調べていくと
「菊川流域は牧之原台地と小笠山に挟まれた低平地で、蛇行が激しく過去にたびたび水害をもたらしてきた。しかし流域は幕府直轄領や大名・旗本の領地が交錯する権利関係の複雑な場所であったため、本格的な河川改修が行われるようになったのは明治維新以降のことである。現在では一級河川の指定を受けているが、一級水系としては小規模な河川の部類に入るため、二級河川への指定替えが議論されたが、国土交通省は「引き続き国の管理のもと河川改修を行う必要がある」としている」

 初めて見た川の基点標識だったが、お陰で勉強になった。

 道に迷い、方向感覚が狂ったせいか長くなってしまった。まだ札所には着かないが今回はこれで終ろう。



遠江33観音5-4

2010-06-07 17:18:00 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り5-4回目        2010/05/28


    3.1k  1.5k  5.5k  0.9k  2.9k  0.9k  5.5k  4.7k  1.4k
金谷駅-26番-25番-23番-21番-20番-19番-27番-28番-菊川駅
    45   22   1:21  15   37   11   59   60  14 

 歩行距離     26.4k
 総時間      8時間07分
 歩行時間     5時間44分
 平均歩行時速   4.6k

  --------------------------------------------------

   27番 慈眼寺へ(法印さん)

 次の札所は国道1号やJR東海道線を越した菊川市西片の永宝寺の中にある慈眼寺だ。
今歩いてきた道を国1の八坂ICまで戻るのだが、先ほどとは道を変えて歩く。
途中に「遠江国二十番 子安観音道と彫られた石塔も建っていた。更に国1歩いていると、国道横の逆川(掛川城の横を流れている川)を挟んで神社があった。しかし鳥居は国道側にある。どうなっているのかと覗き込んでみると、狭い沈下橋状の残骸が残っていた。
大水が出て壊れてしまったのを、そのまま放置してあるようだ。確か四国の沈下橋で流されないように板を紐で結んで岸の杭に縛ってあった橋があったが、ここもそんな対処をした方のが良いかな、など余計な事を考えながら歩く。

               

 今日は朝から道勘(?)が冴えていて順調に来ている。今もT字の交差点で少し迷ったが左に曲ると直に寺の案内があった。古い書体で「瀧之谷永寶寺」と書かれた大きな看板の下に何やら手作りのお地蔵さんが建っている。チョット看板や石塔とそぐわないが子供達の作品か?

           

 この寺は三つある溜池(上池・中池・下池)の下池の畔にあり、時季になると蛍が飛び交う自然豊かな場所だ。
寺の入口は民家の門のような感じだが大きな看板があるので間違いはない。別の看板には小児疳虫封・病気平癒・金神除など色々書いてある。

          

それにしても金神除ってなんだ? 金の神様を除けたら貧乏になってしまうのに? 家に帰り調べてみたがよく解らなかったが「金神は年・月に応じて、坐(ま)す所を移し、そこを侵せば凶事が起るとされ、その障(さわ)りを除くのが金神方除です」という記述があった。また墓を作るとき家の地鎮祭の時と同様に金神除をするとあるので、鬼門にいる悪霊を追い払う儀式なのかもしれないな。
やっぱり金運を除けるお払いじゃなかったんだ。   当りまえか。
看板には更に「易占運命鑑定」として結婚・恋愛・家相なども書いてある。こんな札所は初めてだったので、何かいかがわしさを感じながら境内に入っていった。

          

アレ??? 観音堂や本堂らしき入口にしめ縄を張ってある。神社でもないのに何故だ。よく解らない寺だ。

          

お参りをしていると有髪で羽織袴の男性が出てきて
「ご苦労様です。私はこの寺の別当をしていて地元では「法印さん」と呼ばれている者です」と自己紹介をしながら話しかけてきてくれた。
またまた聞いた事はあるが理解していない言葉が出てきた。本当は質問してみたかったが話の腰を折っても悪いので知ってるような顔をして聞いていた。
(別当=本官のあるものが別の役職を兼ねる場合に、それを補佐する役職。神社に属しつつ仏教儀礼を行う僧侶のこと)
(法印=山伏や祈祷師(きとうし)の異称。僧に準じた医師・絵師・儒者等に与えられた称号)

「この寺は真言宗を名乗っていますが、明治までは修験道のお堂で山伏達の修行する場所だった。それが明治の廃仏毀釈で修験道は禁止される事になり、危機感を持った山伏はお堂を神社や仏教に宗旨替えをした。なかでも真言密教は修験道と似ていたこともあり真言宗になったお堂が多い」
「札所めぐりの始めは、山伏が修行のため全国を渡り歩くとき泊ったお堂が札所になった例が多い。だから貧乏寺が多くて、ご開帳をして人を呼び寄せて喜捨を受ける。また地元も泊り客で儲けるようになった。だが毎年やっては有難味が薄いので、33の札所が年を違えてご開帳をするようにしたので御開帳が33年毎という寺が多い」
確かに遠江の札所も33ヶ寺のうち19ヶ寺が33年毎のご開帳だった。中々説得力がある。
「しかし最近作る観音めぐりは観光化してしまい大型バスが入れるような大寺でなければ、なれなくなってしまった」そういえば昭和に出来た遠州33観音は大寺が多い。

話をしていると中年の女性が入ってきた。法印さんは「いらっしゃいませ」と言って本堂に入っていった。どうやら参拝客でなく「易占運命鑑定」の方の客のようだ。もっと話を聞きたかったが仕方ない、諦めるとしよう。

 境内を眺めていると庫裏から出てきた女性が「どちらから来られたのですか」と聞いてきた。
「旧の大井川町から来ました」
「そうですか、大井川といえば、この横の池は大井川用水の水ですよ」
「エッ!大井川から隧道か何かで、ここまで来ているのですか」
「サーそれは解らないけど大井川の水である事は確かです。農家の人は用水の使用料を払っていますから」フーンそうなんだ。それじゃさっき見た田圃の中で水が湧き出している管があったが、あれも大井川からの水だったんだ。この札所では色々な事が聞けた。別れ際に
「この辺りは夜になると蛍が舞って綺麗ですよ。一度見に来てください」と言ってくれた。

          

境内の隅に「野猿施設の利用について」と書かれている。横には頑丈そうな野猿があったが頑丈な鎖で縛られていて乗ることができない。残念だ。オット野猿を知らない人がいるかな。
野猿とは橋の代用品で、川を渡るのにロープを張りかごを乗せ、自分の力で綱を引っ張って向こう岸に渡る原始的な乗物です。と書いてあった。

          

    28番 正法寺へ


 池の横を通って次の札所に向かう。途中田圃の中に何ヶ所も太い管から勢いよく水が噴出していた。これが大井川用水の水だろう。大井川の本流には水が少ないが、こんな使われ方をしているとは知らなかった。

          

 又軽い峠を越えて新幹線のガードを潜り。JR東海道線の踏切を渡って今日最後の札所正法寺に着いた。

          

入口に槇の木を誘引して門の様にした下を通って境内に入ると左手の梵鐘の下が大きな灰皿のような蓋をした穴があいている。そこには何やら書いた木札が置いてある。きっと鐘の音響をよくする装置の事だろうと読んでみると「この梵鐘は平和・長寿の鐘と言います----」なんだつまらない。

               

 今日のゴール菊川駅にはJRの線路の北側を辿っていく。今日は道勘が良くて一度も迷わなかったのは、遠江の道に慣れてきたのか? そんな事はないな。今日はたまたま分かりやすいだかったのだろう。慢心を避けるためそう思うことにした。

           

遠江33観音5-3

2010-06-04 16:08:30 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り5-3回目        2010/05/28


    3.1k  1.5k  5.5k  0.9k  2.9k  0.9k  5.5k  4.7k  1.4k
金谷駅-26番-25番-23番-21番-20番-19番-27番-28番-菊川駅
    45   22   1:21  15   37   11   59   60  14 

 歩行距離     26.4k
 総時間      8時間07分
 歩行時間     5時間44分
 平均歩行時速   4.6k

  --------------------------------------------------

   21番 光善寺へ(日坂)

 日坂の宿の入口でまた旧東海道と合流。
日坂宿は江戸から25番目の宿で距離は54里余で東海道三大難所の一つと大きな看板で紹介してある。
東海道の三大難所というと何所だろう。箱根は分るが後は薩埵峠、宇津の谷峠、大井川、鈴鹿峠の何所だろう?
調べてみると三大難所には箱根と鈴鹿は必ず入っているが、後一つは薩埵峠と小夜の中山峠に分かれている。ただ薩埵峠を難所と紹介する内容に「東海の親不知」と表現しているものがあるのは、峠道が出来る前は海岸を歩いた時の名残だろう。そうなると峠道が出来てからは中山峠の方が難所になったのではないか。
峠を実際歩いてみれば起伏の激しい中山峠の方が断然大変だと分る。となれば東海道の三大難所は箱根峠、鈴鹿峠、中山峠で決まりだ。尤も私は箱根も鈴鹿も歩いた事はないが。

 日坂宿の中を歩く。各家に屋号を書いた看板が掛かっている。時折古い建物も残っていて当時の面影を偲ぶ事も出来る。本陣だった扇屋の門は扇の紋が染め抜かれた幔幕が張られていて、代官所といった雰囲気で、とても本陣(宿屋)には見えなかったが。

          

この本陣の当主片岡清兵衛は「五百十六俵様」と呼ばれる義民だったという。
慶長年間は役人や大名の人足の賃金の支払いは3年後に履行する習慣だった。そのため生活に窮する者が続出し、それを見かねた清兵衛は江戸幕府に直訴した。結果清兵衛は死罪になったが日坂宿には年間560俵の米が毎年支給されるようになった。それ以来清兵衛のことを五百十六俵様と呼んで敬うようになったという。

          

 秋葉神社の常夜灯の写真を撮っていると後ろの方に赤い幟が見える。若しかしてと近づくと遠江33観音の幟だった。常現寺から1kもなく簡単に着いてしまった。マーたまにはこんな事があってもいいだろう。

          

 21番光善寺も今は相伝寺の中にお堂だけ間借り(?)している状態だが、観音堂の周りには由緒ありげな石仏が何体も安置されている。中でも六地蔵の隣には六面に彫った六地蔵や一列十一体、それが三段ある三十三観音や、赤い半纏に何故か赤い布で頬被りをした日限り地蔵もある。きっと昔は大きな寺だったのだろう。
墓を見ると古く大きな墓に片岡家の名が見える。これが義民清兵衛の家の墓なのか?

          


   20番 観音寺へ(事任神社)
 
 相伝寺を出た所に昔の高札場が再現されていた。
ここにも気になることが書いてあった。私のイメージでは高札とは幕府や藩、或いは代官所の周知や命令がその都度掲示されるものと思っていた。例えば指名手配された犯人の人相書きなども当然貼られただろうと。しかし案内にはこんな風に書いてある。
「高札の内容は、日坂が幕領だったため公儀御法度が中心で年代により若干書き換えがあった」更に「日坂の高札は設置したとき五枚(親子、切支丹、火付、伝馬、毒薬)の高札が幕末まで掲げられた」となっている。

          

 日坂宿からでて旧国1に出る。そこに変わった名前の神社があった。事任神社と書いてコトノママと読んでいる。歴史のある神社で平安時代には、ことのままの神が都にまで伝わっていて、清少納言の枕草子の中に「ことのまま明神いとたのもし」と書かれた項があるという。ことのままの神は「願い事をことのままにかなえてくださる神」として都にも伝わっていたようだ。
更にこの神社は遠州一宮だともいう。今まで遠州一宮は森町にある小国神社とばかり思っていたが、ここも遠州の一宮だという。となると遠州には一宮が二つあることになる。そんな馬鹿な!と調べてみると、有るは有るは山城、摂津、伊勢、志摩、尾張と拾い出したらキリがなく出てくる。何故こんな事になったのか?事任神社では戦乱のおり祭神を一時小国神社に疎開させたためと言っているが定かではない。

          

 事任神社を過ぎた右手に山裾沿いに行く道に入る。今日は道に関しては勘が冴えているので大丈夫だろう。少し太い道に出る。そこを右折する。次の札所は小さなお堂だけのなのか都市図には載っていない。PCの地図を拡大して2個目の十字路を右(北)の山側に右折して行く事を確認してあるので多分大丈夫だ。一つ目の十字路は登り坂で民家はありそうもないのでパス。二つ目は民家もありゴミの収集小屋も有る。ここで間違いないだろうと右折する。少し不安になってきた頃、前方の民家の影に赤い幟が見えた。矢張り今日は勘がいい。

          


   19番 慈明寺

 観音寺を出て先ほどの十字路まで戻る。次の札所は更に西に一山越した谷の違う場所にある小さなお堂だ。迷う間もなく十字路に着きここも右折する。そして不安を感じる前に着いてしまった。
ここのお堂はお堂らしくなく標識や幟が無ければ見落としてしまいそうな建物だった。さっきの札所の地名は大原子、こちら小原子。大と小、そんな事は関係ないか-----

           

 境内にまだ左程大きくないが見事に垂れた乳垂れ銀杏の木がある。植物図鑑を見ると「古株になると、まれに乳が垂れたような気根を見ることが有る」とあるが、この木はまだ古株ではない。どちらかと言えば勢力旺盛で乳が張ってる感じだ。
ところで銀杏は雌雄異株なのだから、このおっぱいの有る木は雌?

                

遠江33観音5-2

2010-06-03 16:27:02 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り5-2回目        2010/05/28


    3.1k  1.5k  5.5k  0.9k  2.9k  0.9k  5.5k  4.7k  1.4k
金谷駅-26番-25番-23番-21番-20番-19番-27番-28番-菊川駅
    45   22   1:21  15   37   11   59   60  14 

 歩行距離     26.4k
 総時間      8時間07分
 歩行時間     5時間44分
 平均歩行時速   4.6k

  --------------------------------------------------

   23番 観音寺へ(境)

 歩き観音のお堂を出るとき道の選択で迷った。昨晩地図で見る限り、一度来た道を戻り、川を渡った所から、太い道を北上して旧東海道に出る道しか分からなかった。
しかし歩き観音の紹介には「村人は旅人の多い小夜の中山峠に地蔵を背負って行った」とある。ならば地蔵を背負った人が、一度下ってから旧東海道に出て、更に中山峠に登る事などするだろうか。私なら旧東海道に出合った所に地蔵を設置する。
若しかして、お堂の横を登っていけば中山峠に直接行ける道があるのではないか。
しきりに誘惑にかられたが何とか諦めた。今日の遍路はまだ始まったばかりだ。朝から疲れては予定をこなせないと困る。

 鞘堂に入ったお堂の横から見たことのある建物が見えた。若しかすると、と思い細道を通り近づいて見ると、案の定「菊川間の宿」の菊川の里会館だった。
間(あい)の宿とは、宿と宿の間に旅人の休憩に便宜をはかって作られた宿で、通常は3~4里ある場所に作られるが、金谷・日坂間は1里24町しかなかったが、急所難所が多かったため間の宿が置かれたらしい。

           

 歩いていて気が付かなかったが、いつの間にか旧東海道に入っていたようだ。まだ休憩するほどの事もないので、そのまま前進。
間の宿を出て道が直角に曲りその先が登りになる所に、まだ新しい四角い石柱が立っていた。
石柱には「榛原郡、山名郡、佐野郡、城東郡」と彫られている。ここがかっては四つの郡に接していた記念に立てたのだろう。だが記憶では「四郡橋」と言う橋の名前だったはずだが-----周りを見るが今では橋とは言えそうもない状態だ。
ただこの説には異説があって四郡橋はヨコオリ橋と呼んでいるので、この直角に曲る様を表わしてヨコオリ橋となったと言う説もある。
どちらが正しいか分らないが面白いものだ。

          

 中山峠の急な坂を登っているが、今日はいつもと違い余裕がある。いつもは歩こう会の集団の中で必死になって歩いているので周りを見る余裕もなく、まして写真など撮っている時間も無い。それが今日は一人自分のペースで、しかも何でも見てやろうと思っているのでキョロキョロしながら歩いている。

          

道端にはこんな花が咲いていた。

          

分ります? ユキノシタです。真近で見ると可愛い花ですね。
更に今日もお茶尽くしです。旧東海道からもこんな景色が見えるのですね。
北の方角には前回歩いた粟ヶ岳が見えています。例の「茶」の字もはっきり見えていました。

           

 中山峠には沢山歌碑が建っているのですが、今日はこんな歌碑に気づきました。

「甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれて越ゆる さやの中山」

私に歌の良し悪しなど分るはずもない。なのに気になったのは冒頭の「甲斐が嶺」だ。ここから見える山梨県の山となると富士山を除けばウーン!あるだろうか?
南アルプスで見えそうなのは聖岳、赤石岳だろうが、それらは信州(長野)だ。となると富士山しか思い当たらない。
静岡から見て富士山を山梨の山とは承服しがたいが、この歌が続後選和歌集に載っているとなれば、当時の人は富士山は甲斐の山と思っていたのだろうか?
現在でも富士山頂は県境未確定領域になっているが、神代の昔からここは国境未確定領域だったのだ。

 旧東海道と別れて国道1号線に向かう。下りの斜面は茶畑が一面に広がりお茶を蒸す香りも漂ってきて、耳にはウグイスの鳴声がひっきりなしに聞こえてくる。そうなると思い出すのは「目に青葉 山ホトトギス 初鰹」だが、これには川柳の返句があって「目と耳は ただだが口は銭がいり」となるらしい。昔の人は面白いこと言うものですね。それなら私は全て銭が要らない「目に青葉 山ホトギス 茶の香り」全て盗用の一句でした。お粗末。

           

 ところで茶畑に中に林立する鉄柱は何だと思いますか。ファンが付いているので暑さよけ? 違います。
これは霜対策で霜が降りそうな日はファンが回って霜を吹き飛ばしてしまう装置です。他県の事は知りませんが静岡県の大きい茶園には必ずと言っていいほど立っています。
しかし4月の寒波の時は、このファンも効き目が無く、牧の原の茶園では大被害を受けたようです。現在ではこの防霜ファンでなく、更に効果の出るスプリングクーラーが徐々に普及してきているらしいです。

 国1脇に建っている23番観音寺は、粟ヶ岳山頂の崩れかけたお堂の中の観音様をこの地に迎えて祀ってあって、粟ヶ岳に登らなくても、ここでお参りすれば良いと言っていた寺だ。今では23番札所は常現寺内観音寺と表示されて、本尊は粟ヶ岳にあった十一面千手観音となっている。そのこと自体は不自然ではないが、実はこの常現寺は遠州33観音の札所でもある。そして遠州側には寺名は常現寺、本尊は同じ十一面千手観音と書いてある。
同じ観音像が二つの寺の本尊? いいような気もするが不自然なような気もする。どだいそんな事に疑問を感じるのは私ぐらいだろうが。

 この寺で珍しい石塔を見た

           

今までも日清戦争や日露戦争の慰霊碑は見たことがあるが、三つの戦争の慰霊碑が一箇所にあるのを見たのは初めてだ。石碑の頭部が軍帽になっているのも愉快だ。大東亜戦争は鉄兜になっているが軍帽だと日清日露と同じになってしまうからなのだろう。
次はどんな軍帽かって? とんでもないもうこれ以上慰霊碑は増えっこない。
ただチョット気になるのは「大東亜戦争」という表記だ。この言葉に先の戦争を肯定する響きを感じるのは私だけだろうか。といっても「太平洋戦争」では対中国戦等が含まれないような気もしてしまうし判断は付きかねる。
このような問題は国が敗戦後はっきりさせておけば良かったのだが、責任の所在を明確にせず、都合の悪い事全てうやむやにしてしまう政治家や官僚。そしてそれを「良し」としてしまう国民に問題がありそうだ(勿論私を含めて)。

 境内を出るとき又不思議な石仏があった。謂れは見当たらなかったが-------

          

遠江33観音6回目

2010-06-02 18:30:56 | 寺社遍路
遠江33観音の6回目の遍路に行ってきました。
これで遠江33観音巡りも終わりです。
日数は番外を除けば駿河一国と同じ6日間かかりましたが、気分的には随分楽だったような気がします。しかも時季が良かったせいもあるが、お茶の緑とウグイスの声が一杯の気持ちよく清々しいウォークでした。

 しかし結願の今日は厳しかった。
気温は上がり、陽射しは強く体力を消耗してしまいました。
もうこれからの時季、町中を歩くウォークは避けたほうのが無難かも知れませんね。