はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

宇津ノ谷からダイラボウ(野田沢峠まで)

2018-02-26 08:56:56 | 低山歩き
歩行記録                                                           H30-2-18(日)
歩行時間:6時間10分   休憩時間:1時間00分   延時間:7時間10分
出発時刻:7時50分     到着時刻:15時00分
歩  数: 25、746歩(推定距離18.28km)    GPS距離16.6km
行程表
 宇津ノ谷峠道の駅0:45> 農道終点 0:25> ロンショウ 0:15> 谷川峠 0:50> 野田沢峠 1:05> 西又峠 0:55>
 ダイラボウ 0:40> 西又峠 1:00> 県道合流(殿) 0:15> もくせいの家BS

 今回は数年来課題だったコースを歩いてきます。
歳と共に行きたくても行けない山が増えてきています。その中でも今回の 「宇津ノ谷からダイラボー」 特に行きたい山でした。
行きたくても行けない理由は 「危険回避」 によるものです。この歳になって 「単独行の老人 山で遭難 無謀登山か」 何て見出しで
新聞を賑わかしたくありませんものね。
この危ない場所もなさそうなコースの危険とは 「道迷い危険」 です。

  他では伊豆山稜の “天城峠~船原峠”も、伊豆山稜縦走コースで未踏破の区間なので是非歩きたいと思っています。
しかしこの区間は1回で歩き切るのは私の体力では無理ですが、途中に宿泊施設がありません。。
体力的に不安を感じているのは富士山もそうです。
古希には “海から富士山” を何とか歩き、喜寿には5合目からを狙ってますが気力・体力が果たしてどうなる事やら。
この二つの危険は 「体力的危険」 かな。
もう一つの危険は 「滑落危険」 があります。
 “八紘嶺~大谷嶺” は体力もさることながら滑落の危険もありそうです。ここは高校時代に大谷崩れの扇の要にテン泊して
八紘嶺を縦走しました。その時は倒木が多く、ただただ大変な山だとの記憶だけで危険だった思いはありません。
それで花の季節にと思ったのですが、最近の山行記録には危ない等と書かれています。そうなると私には怖くて行けません。
怖いと言えば高校時代よく刃渡りをした愛鷹の鋸岳ですが、どうなっているか2年前に行ってきました。しかし見ただけで
怖くなりそのまま割石峠に戻ってしまいました。

 
 
                             宇津ノ谷ーダイラボウ概略図

  この概略図で私が道迷いを気にしている場所は、ロンショウから西又峠の間です。
この間は地図を読めない私でも、谷川峠上の414m峰と野田沢峠上の301m付近は方向も変わり迷いそうだと思います。
その場所に標識か目印がある事をただただ願うだけですが、若しなければ無理をせず引き返す積りです。
離脱地点は野田沢峠と西又峠や谷川峠を考えていますが、そこまでは何としてでも行くか戻るかしなければなりません

  所要時間はロンショウからダイラボウまでは7km程度ですので4時間もみれば大丈夫でしょう。
そこでロンショウ・谷川峠を30分。谷川峠・野田沢峠間を1時間、野田沢峠から西又峠を1時間30分、西又峠からダイラボウを
1時間とみて計4時間。そして宇津ノ谷からロンショウ間を1時間30分としてダイラボウまでは計5時間30分としました。

  帰りコースが問題です。とても駅までは歩く元気は無いのでバス利用になるのですが、バス停は藁科川の両岸にそれぞれあり、
一番利用したい朝比奈川側にもあるが終バスが3時ととても早いので利用できそうもありません。
マー帰りのバスはダイラボウに何時に着くのか分からないのに今考えても仕方ありません。
藁科側のバスの終点には十分間に合うのだからそれで良しとして、帰りの道はその時点で決める事にします。

   
         道の駅 宇津ノ谷峠                               宇津ノ谷集落入口

  静岡側の宇津ノ谷峠道の駅でバスを降り宇津ノ谷集落方面に向かう。
吐く息は白く、途中にあったバケツの氷は厚く押しても割れない。今日も冷え込んでいるが先日粟ヶ岳に行った時より暖かい。
なのに吐く息が今回は白く見えるのは何でしょうね?

  何時もなら左の集落への道を行くのだが、今日は右の県道を進む。

 
             丸子川の渓谷1                              丸子川の渓谷2

  諏訪神社を過ぎた所から始まる農道の横にある丸子川は、下流とは趣を変えた渓谷美を見せています。
尤もこんな感じの場所はほんの少しだけで直に平凡な川になってしまいます。

 
             農道分岐                                  廃作業小屋

  最初の農道分岐は左の西沢農道に入り、暫く行くと茶畑の中で道が分岐しているので横道に入る。
直進する道は飯間山近く稜線に出るが、農道が終った先は踏み跡が不明な部分もあるので余りお勧めではありません。

桧の皮で壁を葺いたような作業小屋があったが、今は使ってないようだ。トタンの壁より風情を感じますよね。

 
             廃炭焼き小屋?                                農道終点

  今度は作業小屋が崩れて屋根だけ残ったのか。それとも炭焼き小屋の屋根なのか判然としないものもある。
この辺りの林は石垣で整備され枝打ちも行われているので整然とした感じがしています。

  農道の終点です。山道の入口に 「飯間山 こっちだょ➩」 の標識があり迷うことなく山道に入れる。

 
             尾根道合流                                 ロンショウ

  途中にあった竹林の中は、竹の葉が落ちて道を覆っていたが目印があるので迷うことなく歩けます。
宇津ノ谷峠から飯間山・徳願寺を結ぶ尾根の縦走路には色違いのテープや何枚かの標識が付いてすぐ分かります。
今日のダイラボウへのコースは、本来宇津ノ谷峠からの予定でしたが、今歩いて来た西沢農道に比べて疲労度は倍以上には
なると思い、道迷いに加え体力的不安も重なっては私にはとても無理なので、楽な西沢農道コースにしてしまいました。

その合流部の先が三等三角 “朝比奈” だが、朝比奈の地名はもっと北の玉露の里付近の筈なので調べてみました。
だが、藤枝市には “朝比奈” の地名は見当たらないので、三角点設置場所の住所を見ると “桂島字朝比奈” となっていた。
本当にこの場所が “字朝比奈” なのだろうかと疑問に感じてしまいます。
だが、もっと疑問に思うのは標識にある “ロンショウ” です。
ここのある標識のお陰で “ロンショウ” の名は知られてきたが、一体何を意味した地名なのか? 本当にここは地元で
 “ロンショウ” と呼んでいたのだろうか? 来るたび疑問を感じてしまいます。

 
            谷川峠分岐                                  分岐の標識

  ダイラボウへの分岐はロンショウの先にある。
以前この分岐には 「谷川・戸沢方面」 の標識だけだったが、ここ数年で 「ダイラボウ こっちだょ」 とか地図のような標識が
取付けられた。
実はこの “谷川” という標識は宇津ノ谷峠にも 「谷川峠へ3時間」 とあって何となく頭の隅に入っていた。
それが駿河33観音で岡部桂島の谷川山梅林院を訪れて “谷川山” の山号に興味を感じて地元の人に聞いてみると。
 「谷川とは寺のある辺りから上を指す地名で、その川を遡ると静岡にも行けた。」と話してくれた。
これで俄然妄想的歴史観に火が点き “谷川峠は丸子城の西への抜け道で、梅林院はその抜道の守りを兼ねた寺だ。” と
思うようになった。
 
突然丸子城が出てきても読んでいる人にはチンプンカンプンでしょうから説明します。
駿河の守護となった今川だが、当初駿府には安倍氏などの豪族が支配していた。今川は一先ず藤枝の花倉に館を築き
徐々に駿府に勢力を延ばしていった。駿府を政略すると駿府の西の要として東海道に丸子城と館を築城する。
丸子城は大崩山塊の中にあり、城の裏の支稜を辿れば梵天山から宇津ノ谷峠に至る主稜に出る事ができる。
主稜を東に行けば歓昌院坂経由で駿河に出れ、西に行けば岡部に出れるのだが、そのまま進むと東海道に出てしまう。
そこで主稜の途中にあるロンショウから谷川峠に下り、梅林院に至る道を整備して丸子城の抜道にしたのだ、と思えてきた。
梅林院に出れば味方の岡部氏の潮城や、朝比奈氏の守る朝比奈城もあり、更に花倉城に行く事もできる。
そんな分けで一度は谷川峠を歩いてみたいと思っていたので今回は丁度良い機会になった。

   
          谷川峠への急坂                                  目 印

  分岐にあった地図の標識に急坂とあったが確かにかなりの急坂だ。分岐から真っすぐ直滑降の状態で下っているが林の中の
道なので地面が柔らく滑ることもなく下る事ができる。そのため踏み跡はハッキリしているので道を探す事はない。

 
               谷川峠1                                   谷川峠2

  思っていた以上に簡単に谷川峠に着いたが、ここを登るのは大変そうで逆コースで良かったと思った。
谷川峠を上から見ると左(西)の桂島に下る道はハッキリ見えている。この道が丸子城からの抜道等と空想しながら歩くのは
私だけだろうが何となく楽しくなる。
右に下る踏み跡もあるが、地図を見ると新東名下りの静岡SAに延びているようだが、峠には飯間山と野田沢峠への標識しかない。

 
          414mピーク                                  414mの標識

  峠から414mピークへの上り返しは思っていより軽かった。これはロンショウの標高が412mでピ-クとほぼ同じ高さだが、
谷川峠とピークまでの距離が長いせいでしょう。
谷川峠までは何の問題も無く来れたが、今日の一番不安に感じている414mのピークが近づいている。慎重に行こう。
何となく高台と思える場所に出ると正面を塞ぐように標識があり右に曲がるようになっていた。
これなら道を見落とすこたはないし、直進する踏み跡も無いので間違いようもないと一安心。
ただ逆コースで来ると、正面に標識はあるが直進する踏み跡もあるので下ばかり見て歩いていると見落とす恐れはある。
標識には西の踏み跡を指して “戸沢・本沢・谷川” とあるのでどこかには続いているようです。

 
              大 岩                                    林の道

  この稜線にも竹林があり竹の葉が踏み跡を隠していたが目印もあるので迷う事はなかった。
右手に大きな岩が見えていたが、このような岩が幾つかあれば磐座とされ祀られていたかもしれないが、今はただの大岩です。
植林された林の中の道も多いが、道はハッキリしています。

 
            この山は???                              ダイラボウか

  右側の樹間越しに山が見えていたが分からない山ばかりだ。山頂にアンテナや鉄塔のある見た事がりそうな山も見えたが
分からない。花も木も山の名前も分からない詰まらない男です。
アッ! あれはダイラボウだ。山頂の植林を伐採した形に特徴があるのだが送電線の鉄塔が見えない。果たしてダイラボウか?

 
               野田沢峠                                野田沢峠の記念碑

  車の音が聞こえてくる峠の手前で道が合流していた。合流した道は峠から来る太めの道で真っすぐ延びている。
山から下ってきた道は細く踏み跡も薄い。峠から登って来た時は間違って太い道を前進してしまいそうだ。
ただ、細い道の方に目印のリボンが3枚ほど巻いてあったので何とかなりそうだが。

  峠の上から下を見ると舗装された車道の横に石碑が見え、道の向こうには柵のある階段も見えている。
次の西又峠にはあの階段を登って行くようです。
ここまでは何の問題も無く来る事ができたが、ここまでの所要時間は2時間30分になっている。計画では3時間とみたので
まずまずの結果だった。

  野田沢峠に 「山峡拓き 緑風爽やか」 の記念碑と事業経過と題した石碑が立っている。
それによると野田沢峠は古くから静岡市飯間と岡部町野田沢を結ぶ山道として利用していて、峠には両集落から手厚く信仰されて
いる地蔵菩薩が祀られている。
道路工事は平成元年から着手されたが脆弱な土質が起因して工事に大きな影響を及ぼした。平成十年日本道路公団が第二東名
建設に伴い、静岡飯間地内にSA設置のための工事道路として利用することになり、協議して残工事を実施してもらう。

  ここで10分ほど休憩したがその間に5台ほどの車が通過した。山間の道としては利用率が高いようです。             

倉真から粟ヶ岳周回(榎辻から小さな尾根道へ)

2018-02-21 10:56:59 | 低山歩き
歩行記録                                                           H30-2-8(木)
歩行時間:5時間00分   休憩時間:1時間15分   延時間:6時間15分
出発時刻:8時05分     到着時刻:14時20分
歩  数: 22、493歩(推定距離15.97km)    GPS距離km
行程表
 倉真温泉バス停(駐車場)0:10> 百観音 0:40> 県道滝入口 0:20> 松葉(不動)の滝 0:10> 山道入口(滝の上) 0:45>
 粟ヶ岳 0:30> 山道入口(滝の上) 0:20> 千国林道合流 0:30> 東山林道合流 0:20> 粟ヶ岳 0:40> 榎辻 0:30> 宝殿神社
 0:05> 倉真温泉バス停(駐車場)

 
                南平より丘陵                              南平より島田方面

  廃寺の境内には天明とか寛政等の江戸時代の石仏もあり古い歴史を感じさせる。
境内から南平広場に続く場所は、自然か人工か分からないが広い平坦な地が広がっている。造成にしろ自然にしろこんな広場が
あれば大寺院が建っていたとしてもおかしくないのだが、そんな記述は探す事はできなかった。

  南平から富士山こそ見えないが眼下に広がる丘陵の眺めは見事です。ここからの眺めは山頂直下の茶屋からの眺めにも決して
引けを取っていないと思います。粟ヶ岳に行ったときは是非南平からの眺めも堪能してください。
今はまだ茶の葉の色が柔らくないが、4月・5月ともなれば薄緑の色が広がる景色にきっと満足してくれると思います。

 
              茶草場越しの眺め                             下からの茶草場

  南平広場から下に見えている農道に下ります。景色は南平広場からよりも茶草場の中の道を下りだしてからの方が見事です。
でも景色に気を取られススキに足を滑らせ転ばないようにしてくださいね。
数年前までのこの下りは道も細く、倒れたススキが多くてよく滑ったものです。しかもススキの背が高く視界を遮っていました。
それが今は道幅は広くなり(以前より)滑る事も無くなりました。

  草刈り場を下り農道に合流してから上を見上げると、今下ってきた茶草場が見えています。
道は写真右上の草の刈取り済みの隅から下りだし、刈取り前のススキの中に入り、下に見える茶畑の右に下ってきます。
ただ不思議な事は過去何回も粟ヶ岳には来ていたが、ここの茶草場は常に右半分が残っている事です。今まではススキの背が
高かったこともあり、右側の草刈りはしないんだと思っていました。
しかし今日、右のススキの背が低かったのを見て、それが勘違いだったことが分かりました。
そうそう粟ヶ岳は麓から茶の字とアンテナ群が見えることで知られていますが、ここの茶草場も麓からはっきり見えています。

 
                榎 平                                 榎平の道

  山頂から榎平の道は過去何回かも歩いていて特に興味を引いた物は無いが、谷側斜面の茶畑が殆ど放置茶畑になっていた。
人件費や高齢化を考えれば仕方ないかもしれないが、このままだと南平から眺めも失われてしまいそうで淋しい気がする。

 今まで榎平からは掛川に向かう南下する道だけを歩いていたが今回は南下しない道を歩くらしい。それも農道ではなく尾根道だと言う。
榎平は粟ヶ岳・掛川・倉真へ向かう農道の三叉路だと思っていたが、今回は農道ではなく尾根道を歩くらしい。
なので尾根道は榎平から倉真向かう農道を少し行った所から尾根道に入る道があるのだろうと勝手に思っていた。
  榎の木の下に案内板があるので久し振りに読んでいこうと三叉路を左に折れると。アレー! 今回のコースの案内板が建っている。
その先の道は所々に舗装が残っている状態の狭い道だが農道だった事は確かだ。
 「観歩」などと恰好を付けて、何でも見てやると歩いているが、この道の事は知らなかった。イヤ気づいていたが忘れてしまったのか。
それにしてもあのまま右に曲がってしまわないで良かった。

    
                    9号鉄塔                                  ケヤキとブナの夫婦木

  とても自分が運転しては走れそうもない道だが、歩くには支障はない。太陽を浴びながらゆるい下りの道は快適です。
農道と山道の分岐に “見晴しの丘” の標識があるが、今粟ヶ岳で素晴らしい見晴しを堪能してきたばかりなので・・・・
ただ送電線の鉄塔が目についただけ。

  細い尾根の先に木に掴まって立っている人が見えたので 「どうぞ お先に」 と声を掛けたガ黙ったまま動こうとしない。
仕方なく私が傍まで行くと 「この道はどこまで続くのかねぇ」 と聞いて来た。
歳は私より大分多そうで手ぶらのジャンパー姿だ。
 「粟ヶ岳まで続いているけど 何処へ行くのですか?」
 「何処ってわけじゃないが道があったから来てみただけだが、中々終わらないので草臥れちゃった。あんたは何処へ行くんだね。」
 「私は倉真に行くのですが疲れたならここから戻ったらどうですか。」
 「戻るたってここまでも随分あったし、この先で下る所はなかったかね?」
 「この先の榎辻から倉真に下る農道があったけど一緒に戻りませんか?」
 「イイよ 戻るのも大変だから先に行ってみるよ。」

私も初めての道で、この先どの位かかるのか分からないので無理強いもできない。それに榎辻までなら危なそうな所は無かった。
気にはなったもののお年寄りとそこで分かれたが、後日何のニュースも無かったので無事倉真に戻れたのでしょう。

  老人と別れた先の “9号鉄塔 展望台” の立札に誘われて、急な道を登りピークに出ると遥か彼方にひときわ高いビルが見えていた。
周りに二つ三つのビルも見えるが、とても摩天楼いや都会とも言えそうもない眺めだ。それでも写真をと思ったが鉄塔越しなのでピントが
合わず諦めた。代わりに鉄蜘蛛の巣をパチリ。高いビルは浜松のアクトタワーでしょう。

  今度の案内は “ケヤキとブナの夫婦木” となっている。成程根元が合わさり夫婦木と云っても良さそうな木だと思ったが
松理さんのブログでは 「左は楢だと思われる。右は???。そもそもこんな標高が低い所にぶながあるとは思えない。」 となっていた。
俄然興味を感じてネット図鑑で調べると、ブナは 「暖かい地方では高地に生え、樹皮は滑らかで割れ目は無い。」 となってる。
なら確かに山毛欅(ブナ)ではなさそうです。では楢(ナラ)かと調べたが良く分からなかった。
一方ケヤキの方は 「樹皮は、灰紫褐色で雲紋状の薄い片となって剥がれ落ちる。」 とあった。
そうなると右の木がケヤキの特徴に似ているような感じもするがどうかな?

            
            竹やぶの道                川の底を歩く道                サンコウチョウ

  尾根道には写真の他にも “三光鳥の鳴く道” “歯朶の群生林” “根っこの尾根道” “風の吹く尾根” など色々の案内板があった。
何でもない道でも案内板が立っていると、何となくその気になるから不思議です。
中でもサンコウチョウの鳴き声は聞いてみたいな。なんでも 「ツキ(月)ヒ(日)ホシ(星)ホイホイホイ」 と鳴くので名が付いたとか。
ネットで鳴き声を聞いたが最後のホイホイホイは分かったが、肝心のツキ、ヒ、ホシは分かりませんでした。
サンコウチョウは静岡県の鳥に指定されていて 「中西部では標高の低い地域に集中、小笠山、天竜川、安倍川、大井川流域で確認
されました。」
とあるので、ここでも鳴き声を聞けそうです。時期は4月下旬頃に南方から渡来して来る渡り鳥なので夏なのでしょう。
ジュビロ磐田のエンブレムにデザインされている鳥はサンコウチョウだそうです。そう云えば月、日、星も描かれている。

 
                宝殿神社                              宝殿神社境内

  宝殿神社とは、宝物を納めてある御殿が想像でき縁起が良さそうな名前です。そうなれば当然宝の中身が気になりますよね。
しかし残念なことに境内には案内板も無くネットで調べてもヒットしたものはありませんでした。
なら仕方ないと自分の妄想に頼るのだが、この辺りに鉱山があったとも変わった産物があったとも聞いたことは無い。
ウーン! で、思いついたのは温泉です。
今でこそ温泉の掘削技術が発達し1000m以上も掘れるので あちこちに温泉があるが、昔は掘削技術も掘削場所の特定も難しく
自然に湧出した温泉を見つけていたので温泉地は少なかった。
静岡県西部地方で有名な温泉といえば舘山寺温泉や寸又峡温泉があるが、いずれも明治以後に開発された温泉です。
一方倉真温泉は400年も前に岩の割れ目から湧き出ていた温泉を見つけたといいます。なら当時は遠州地方で唯一の温泉だった
かもしれません。
そのため山峡の地の倉真には湯治客が押寄せ村は潤っていました。その感謝の意味で温泉を祀った神社を建立し、毎日温泉を
捧げていたのですが、湯治客が減少していくとその風習も廃れ、今では神社の名前の謂れさえ忘れ去られてしまったのです。
どうも今日は私の妄想的歴史観は冴えませんね。

  最近山城巡りをしているせいか境内にあった土の凹凸が土塁に見えてしまいました。

 
                宝殿神社の鳥居                            出発地が見えた

  神社の鳥居を出てどの道を行くのか眺めると。何と出発地の駐車場が直ぐ近くに見え、私の愛車も見えています。
山を下ったら当然車道歩きがあると思っていたのでラッキーです。これなら仲間と歩いても喜ばれるでしょう。

倉真から粟ヶ岳周回(粟ヶ岳)

2018-02-17 09:54:25 | 低山歩き
歩行記録                                                           H30-2-8(木)
歩行時間:5時間00分   休憩時間:1時間15分   延時間:6時間15分
出発時刻:8時05分     到着時刻:14時20分
歩  数: 22、493歩(推定距離15.97km)    GPS距離km
行程表
 倉真温泉バス停(駐車場)0:10> 百観音 0:40> 県道滝入口 0:20> 松葉(不動)の滝 0:10> 山道入口(滝の上) 0:45>
 粟ヶ岳 0:30> 山道入口(滝の上) 0:20> 千国林道合流 0:30> 東山林道合流 0:20> 粟ヶ岳 0:40> 榎辻 0:30> 宝殿神社
 0:05> 倉真温泉バス停(駐車場) 

     
           対岸の道                    近道だった                天井覗き

  滝からは分岐まで戻り農道を行かなければならないが、滝の手前に気になる標識が立っていた。余りに滝に近い場所で
ワザワザ標識を建てなくても良さそうな場所だ。
若しかして・・・・・・ と、覗き込んでみるとピンポン! 大当たりでした。対岸には登り道がありロープまで張ってある。
この道は多分先程分岐した農道の先へ直登できるのだろう。道もしっかりしているしロープも張ってあるのだから悩む事は無いと
都合よく解釈をします。
急坂だったが上りならどーと云う事はなく5分ほどで農道に合流。そこには 「近道 不動滝へは右に降りる」 と標識が立っていた。
この程度なら仲間でも十分歩けるので、この道を仲間ウォークでは採用します。

  何々 「不動滝の天井覗き 近づきすぎないでください」 だってぇー!
高度恐怖症のくせに怖いもの見たさで、こんな事が書いてあれば見逃す事ができない。
しかし写した写真には滝は写っていなかった。何しろ身を乗り出すなんてことは私にはできない相談ですから。

 
                 登山道入口                               アルミの橋

  農道とも言えないような道はまだ着いているが、ここが粟ヶ岳の直登ルートの入口です。
林の中に入った道は手頃な傾斜で歩きやすく、途中のアルミの橋に 「加重50kg」 とあったが、この橋は地元の人が
トレッキングコースをが造るために架けてくれたのだろうか。有難い事です。
黒い樹脂の階段や送電線の案内標もあり、元々は中電の巡視路をトレッキングコースに採用したのでしょう。

       
      木の根の道                                    岩もある

  尾根に出ると傾斜が増してきたが、私の好きな木の根の道や全然怖くない岩を乗り越えたりの変化のある道で楽しかった。
しかし仲間ウォークにはどうかな? 滑りそうで下りには向かないが、上りなら一歩一歩踏みしめて登れば何とかなりさそうだ。
と、この時点では合格。

            
              階段の材料                           階 段

  階段の部材が置いてあったので黒い杭を手に取ってみると、先端は尖っているがこれを固い地中に打ち込むのは大変そうだ。
この杭が下まで打ち込めず飛び出していたのを見た事があるが、足を引っかけそうで危なそうだった。
しかしそれでも階段が有った方がありがたく助かります。中電さんありがとうございます。

  今日初めて会う人が下ってきた。挨拶のあとで滝の氷の状態を聞かれたので 「余りだった」 と答えておいた。
その方は粟ヶ岳には良く来るそうで
 「この道は昔は倉真から粟ヶ岳に参拝する道だったが、林道が通じると歩く人が居なくなり廃道になっちゃた。それが
今度ハイキングコースを造ることになって地元の人が改修した。」
のだそうです。


       
          山頂の遊歩道                粟ヶ岳最高点                   残 雪

   階段の中々きつい上りがやっと終わり上の方が明るくなってくれば山頂は近い。道が平坦になったと思ったら山頂の遊歩道に
遭遇した。農道分岐からここまで約40分。平均年齢74歳の仲間は、果たしてここを登りきれるだろうか。
以前大崩山塊の北のピークから高草山までで足を攣って歩けなくなった仲間もいたが、あそこに比べればはるかにここの方が大変だ。

  どうするかは後回しにして一先ず粟ヶ岳の最高点に続く道を行く。この道を直進すると神社の後ろを通りNHK送信所の横に出る。
神社は後で参拝すとしてそのまま道を進んでいくと、途中の藪の中には先日降った雪の残骸があった。

 
               伊豆半島は見えるのだが                       富士山は見えているが

  休憩所の前に出ると以前は休業していた茶店が開いていていた。店の前には 「東山いっぷく処」 とあるのを見ると麓の店が
譲り受けて再開してくれたのだろう。今日は平日なのに店内には客が数人いた。
景色は東の高草連山や駿河湾方面は霞んでいたが富士山方面はバッチリ見えた。
エッ! 富士山が分からない ですって?


                              干支の戌と富士山

  どうですかこれならバッチリ見えるでしょう。
休憩をしながら今登ってきた道が、果たして仲間ウォークで歩く事ができるか考えると自信が無くなってくる。
上りが駄目なら下りはと思うが、あの坂を下るのはもっと危なさそうだ。しかし一度は粟ヶ岳に皆と一緒に来てみたい。
そんな時、以前農道を登ってきた女性が 「松葉の滝から来た。」 と言ったのを思い出した。
それならあの急坂を歩かななくても山頂に来る道があるのだ。ヨシ! その道を確認しよう。

          
             引き返した急坂                      こりゃ農道ではないな

  急坂を下るのは気が進まないが同じ道を登るよりいい。それに仲間と歩く道を確認するなら滝の上から確認しなければと
登ってきた道を今度は下る私です。我ながら 好きだなぁー! と思います。
途中でさっき会った人が下から登ってきたので、。お互いビックリして行先を尋ねあうと、山頂から滝までのピストンだそうです。
私が農道の道を探しに行くと言うと、 「歩いた事はないが、あそこは全部舗装道路ですよ。」 と言う。
ピストンが好きでない私と、舗装道路が嫌いそうな人とは、お互い “よく歩くよなぁ” って感想を持ったようだ。

  滝の上の農道合流点を写すのは忘れてしまったが、山頂からの下りは見た目より容易に下る事はできた。しかし初心者や
団体歩行には向かないと思う。まして山に不慣れな年寄りグループは避けた方が無難だ。

  合流した農道は、いや昔は農道だったかもしれないが、今は自然に帰りつつある状態で、この先の道が心配になる。

 
                農道に合流だ                              凍った池

  山道同然の農道の先に放置茶畑と舗装された道が見える。松葉の滝の駐車場からここまで茶畑等の農地は無かったので折角
道を造っても走る車も無いのだろう。それなのに道を造るなんて。なんて思うのは、天に唾する事ですネ。

  合流地点に溜池があり、その水が凍っていたのでストック先の金属部分で突っつくがビリッともしない。
池の縁は斜めになっていて滑りそうで足は延ばせない。それではと沢の中から大きい石を拾ってきて思い切り投げ込んだ。
バシッ! スー! と重い石でも氷にひびを作る事もできずスーと滑ってしまった。
白い部分が石の着地した所で、左の石は私と同じような事を考えた人が以前に投げ込んだ石のようです。

 
                  千石林道合流                           山頂が見える

  太い道に合流したがこの道は東山からの道ではなさそうです。道脇の標識には今来た道をして松葉の滝、車道が下る方には
倉真温泉6.5kmとある。なら粟ヶ岳は標識の無い上り方向でしょう。
車道を登りだすと右手に粟ヶ岳の山頂が見えてきたので安心して進む事ができた。

 
                  東山からの道に合流                     視界が開けた

  前方の木が無くなり明るくなると、そこが東山からの道との合流点で視界が開け景色も見えていた。、
道脇の標識には 「粟ヶ岳山頂1km」となっていた。山頂まではもうすぐだ。

 
                 茶文字の説明                        茶文字の先端

  東山からの合流点までは上り坂だったものの、傾斜は緩く歩き易かった。ところが合流してからの道は、傾斜も強く太陽を
もろに受けての上りは汗が滲んできてしまった。数年の一度の寒波が襲来している筈なのに何という事だ。

道の法面に茶文字の説明があった。
 「昭和7年、銘茶の宣伝と観光効果を目的として松を植えました。遠方よりの眺めやすい様に構想を練り、縄に新聞紙を
つけて遠くから眺め形を造ったといいます。トランシーバーや携帯電話のある時代と違い当時の苦労は、並大抵ではなかったと
思います。しかし松くい虫には勝てず、昭和60年に約1.000本の桧に植え替えられました。」

成程木を植える予定地に縄を張り、それに新聞紙を付けて遠くから見えるようにしたのか。
では縄の位置が正しいか否かの連絡はどうしたのだろうか? 
アッそうか。縄の位置を監視している人は手旗信号で植林している人に指示をしたに違いない。一先ずそうしておこう。
ここは視界が効く範囲内なので、苦労はしたものの何とかなるだろう。だがペルーのナスカの地上絵は飛行機からでないと
その絵の全体像は確認できなという。ここより比較にならない昔の事なのに、どのようにして描いたのでしょう? 

 
                  やっと一周                            阿波々神社

  フ~! やっと一周できた。
滝の上の山道入口から山頂までが約45分で、分岐から農道経由粟ヶ岳が1時間20分。農道経由は楽だが時間が掛かり過ぎだ。
距離も1.5kmと3.9kmで倍以上になっていた。
さて仲間ウォ-クではどちらの道を歩こう。短距離短時間の厳しい上り坂か、長距離長時間の農道経由か。
今の段階では結論は出せないが、一先ず両方の道が分かったので後は仲間ウォークをやるとき悩めばいい。 

  粟ヶ岳山頂にある 「阿波々神社」 の祭神は 「阿波比賣命」 とか。どちらも聞いたことも無く読み方も分かりません。
それでも阿波々神社は “あわわ神社” と分かったのですが、阿波比賣命は分かりません。しかもその存在も不明でした。
分からない事は置いといて先に進みます。

   
                                無限の井戸

  神社の横に遠州七不思議の 「無限の井戸」 があります。
 『粟ヶ岳山頂の無間山観音寺に 「あの鐘を撞くと大金持ちになれるが、死んだあとは地獄に落ちる」 という鐘がありました。
それを聞いた欲の深い人は 「今が良ければそれでいい」 とばかりに険しい道を登り途中で足を滑らせ谷底に落ちる者が続出した。
鐘の音も一日中鳴り響き困った和尚は 「そんな考えで鐘を突きに来るのなら、無い方がいい」 と、栗ヶ岳の頂上にある古い井戸の
中に投げ入れ埋めてしまいました。それ以来、無間山観音寺の無間の字をとって 「無限地獄に落ちる」 意味の 「無間の井戸」 と
言われるようになったそうです。」

  現世利益と死後の無間地獄を比べれば、ウーン! どうしよう。私は鐘を撞く欲の深い人間かな?
それにしてもこの井戸は人工的に掘ったものように見るが、何時の時代に掘ったのか、水は出たのか気になります。

 
                 磐座1                                  磐座2

  神社と井戸を見たら次は磐座に向かって下ります。
磐座の岩の隙間に 「地獄穴」 があり、この穴は欲望のままに無間の鐘を突いた者が地獄に落ちたといわれる穴で、この奥は知る
人ぞ無しとされています。
後世の人工的な無限の井戸より、この岩の裂け目に鐘を落とした方が自然で良さそうですが、我が身がこの穴に落ちるとなると・・・・
よく考えてみたら現代の “現世利益” の代表格であろう宝籤。私はその宝籤は買いません。と、云う事は私には縁の無い穴ですね。

  
                廃神社の階段(上から)                        廃神社の階段(下から)

  現在山頂にある神社は昭和62年(1987)に遷座しているが、以前の神社は磐座の下に木枠になって辛うじて残っている。
昔の粟ヶ岳には先ず鳥居があり、神社の本殿がありその上に磐座があったが、今では磐座の上に神社がある。
ここに来て神社跡を見るたびに、阿波々神社を遷座した人は磐座の意味を知っていたのか疑問に感じてしまう。
磐座とは古代、神が天上から降下したり昇天した場所であり、神の依り代として神聖な場所でした。
その場所を祀るなら人は下から仰ぎ見る物であり見下ろす物ではありません。それが今の阿波々神社は磐座の上にあり磐座を
見下ろしているのですから気が知れません。昔磐座の下に神社を建てた人が、今の阿波々神社を見たらきっと嘆くだろうな。
尤もこれは私の勝手な思い込みで実際の説ではありませんが。

 
                廃寺(現在)                             廃寺(2010年)
 
  無限の井戸のあった無間山観音寺の跡です。今では何時倒壊しても、いや倒壊してないのが不思議なくらいの状態です。
8年前に遠江33観音霊場巡りで参拝した時は、まだ入口には格子戸も残っていたのですが今は後ろの景色も透けて見えています。
阿波々神社も観音寺も元の建物は同じように廃墟を曝しているが、何か意味があるんでしょうか?
お参りに来て何も無いより、こんな状態であった方がいいとも思うが、何とも侘しいですねぇ。
観音寺は遠江33観音霊場23番札所でしたが、現在は日坂の常現寺でご本尊の十一面千手観音を祀りし、ご朱印も頂けます。

倉真から粟ヶ岳周回(松葉の滝)

2018-02-13 16:27:57 | 低山歩き
歩行記録                                                           H30-2-8(木)
歩行時間:5時間00分   休憩時間:1時間15分   延時間:6時間15分
出発時刻:8時05分     到着時刻:14時20分
歩  数: 22、493歩(推定距離15.97km)    GPS距離km
行程表
 倉真温泉バス停(駐車場)0:10> 百観音 0:40> 県道滝入口 0:20> 松葉(不動)の滝 0:10> 山道入口(滝の上) 0:45>
 粟ヶ岳 0:30> 山道入口(滝の上) 0:20> 千国林道合流 0:30> 東山林道合流 0:20> 粟ヶ岳 0:40> 榎辻 0:30> 宝殿神社
 0:05> 倉真温泉バス停(駐車場) 


                             粟ヶ岳周回ルート概略図

  今年2回目の “数年に一度の寒波” が来襲するとの予報で、八高山の大垂滝に氷瀑(?)を見に行く予定を立てていたのですが
松理さんのブログに “粟ヶ岳の倉真側に新しい周回ルートができた” と紹介していた。
粟ヶ岳には以前から仲間ウォークで行きたいと思っているが、コースの設定で悩んでいた。一般的には粟ヶ岳の東山からのピストンが多い
が私にはどうも気が進まない。では東山から南の掛川に抜けるコースとなると、脚力の落ちた仲間には掛川駅まで歩くのは無理だろう。
バスを使っても良いが、そうなると近場の割に交通費が高くなり全員年金生活者の仲間にはきつい出費になってしまう。
そんな時の周回ルートの情報。それに倉真には松葉の滝もあるので若しかして氷瀑も・・・・・・・これは確認しないと。

        
             駐車場料金ポスト                           倉真温泉バス停(駐車場)

  倉真温泉バス停前の駐車場の気温は-5℃だが、この温度では静止している水なら氷るが、流れ落ちている水は凍るだろうか?
多分凍らないとは思うが、周りの飛沫はツララにはなるだろう。
兎も角、案内板で松葉の滝の場所を確認すると、ありました! ありました! 粟ヶ岳西側直下に名所マークと共に書いてある。
当然横にはハイキングコスーもあり “松葉の滝入口まで45分” とも書いてある。
これで今日のコースは決定。松葉の滝から粟ヶ岳に上り、帰りは榎平から倉真に戻る事にする。多分1時ごろには戻れるでしょう。

        
                       百観音                                犬を連れた観音さん?

  百観音850mの案内が出ていたのでそれに惹かれて脇道に入る。手入れの良い擬木の階段の道が続いていて、上からは新東名の
排気音が聞こえてくる。更に登ると新東名らしき所を車が走っているのも見えた。
擬木の階段が終る所には舗装された車道もあったが何処から何処へ行く道なのかは分からない。

  古い観音さんの石仏を期待して行ったのだが、全ての石仏は新しく座像と立像の違いはあるものの同じような像容だった。
一番メインの観音像の前には大きく 「南無阿弥陀仏」 の石碑もあるが、観音さんなら 「南観世音菩薩」 ではないのかな。
更に色の変わった観音像あり、近づいて見ると犬を連れた女性像だった。エッ! と驚いたが案内板には、
 「この地に住む女性が、山の頂上で埋もれていた百体の観音様のお祭りを行い、その後、自ら百数十体の勧進奉安した。」 とある。
それなら山頂にあった観音像もここに祀ればと思うのは貧乏人の考えで、金持ちは全て自分が造りたいのだろう。

  来た道を引き返し松葉の滝に向かって行くと、左に分岐する道に 「掛川PA」 「百観音」 の案内がある。
どうやら百観音の所にあった舗装路がここに続いていたのだ。 分かっていれば近道だったものを。

        
                         廃旅館                                  深い谷底

  倉真温泉は山の中の民宿並みの温泉と思っていたが、どうやらそうではなさそうです。掛川PAへ行く分岐の所にあったのは
決して民宿ではなく立派な旅館でした。
更に県道を進むと今は何の看板もないが、次々と増改築したような建物もあったが、これも元は旅館だったのだろう。

        
              松葉城址入口                              松葉神社

  松理さんのブログでも紹介されていた松葉城に到着。当然城内を見学する積りだったが 「通行止です」 とロープが張ってある。
仕方ない看板でも読むか 「松葉城(河合氏古城) 明応5年(1496)松葉城は勝間田城主と志戸呂城主に攻められ落城した。」
あり、後は城跡の状態説明だけ。一番知りたい河合氏の事や当時の状況については何も書かれていない。これでは面白くない。
落城時の様子を書いたものを見つけましたので紹介しますが真偽のほどは分かりません。
 「松葉城城主河合氏が開基した寺の記録には、城主が城で酒宴を催しているとき、たまたま城に来ていた勝間田城主は酒宴を
チラと見ただけで帰ってしまった。
河合氏はその非礼を咎める使者を勝間田城に遣わすと、一旦は勝間田氏は謝ったものの内心は河合氏に恨みを抱いてしまった。
その後、勝間田氏は松葉城内の重臣を取り込み内応の約束をさせたうえ、金谷志戸呂城主の鶴見氏を誘って松葉城を攻めたてた。
勝間田、鶴見の両軍の猛攻と城内の内応によって松葉城は落城し、城主河合氏は自害し、妻子は淵から身を投げて自決して果てた。」
 
この話はこの話としておくが、問題は松葉城が落城した明応5年(1496)です。この年に松葉城を攻め落としたのが勝間田城主
となっているが、勝間田城はその20年前の文明8年(1476年)に、今川義忠との戦いで落城しています。
私が勘違いしているのか、それとも案内板等の年代表記か攻撃者の名前を間違っているのか分かりませんが??です。

  松葉城登場は諦めて県道を行くと川の向こうに神社が見えています。どうやらこれがバス停にあった案内板の松葉神社のようだが
入口の橋は通り過ぎてしまったようです。と、諦めていたら大丈夫! 橋がありました。
神社の拝殿の中に感謝状2枚と 「神社等級認証書」 があり 「静岡県神社應神社等級規定により十三等級神社に決定した事を認証
します」
とあった。
今まで見てきた神社は村社とか郷社が多かったが、松葉神社は “十三等級神社” となっている。
ネットの受売りだが、明治以降続いた村社、郷社などの制度は 「旧社格」 と言い、明治時代に神社の等級制度を設けて現在は
15等級に分類されている。等級は事実上氏子の申請(上納金)により上げることができるそうです。
15等級の中の13等級では余り高い等級ではないが、上納金を納めてまで等級を上げる必要もないだろう。

  松葉神社で私の知りたかったのは、松葉神社や松葉の滝の “松葉” の由来がだが、神社には案内板も無く何の説明もない。
 “クラミ” とか “マツバ” の言葉に何となく優雅さを感じていたので、由来を知りたかったのだが残念。
後でネット松葉神社の由来を調べると
 「創建は不詳だが、伝承としては大宝年間に愛知県津島市の津島神社より勧請したという。そのため大宝天王とも称した。
明治になり現社号に改称。松葉の名は当社から少し離れた所に松葉の滝があり、それが当社号の由来か。」


        
             岩床の川底                                クマンハチの巣?

  川が県道の横を流れるようになると、岩床の川底が良く見えるようになった。
粟ヶ岳が岩山との認識はないが山頂にはゴツゴツした大岩があり “磐座” として祀られている。では粟ヶ岳は岩山かな? まさか。

  松理さんも紹介していた、軒先にスズメバチの巣のある家があった。タイミング良く隣家のお婆さんが洗濯物を干していたので
 「おはようございます。あそこに見えるのは何ですか?」 と話のきっかけに聞いてみた。
 「アーあれはクマンバチの巣だけど、今は蜂はいなくて夏はアカショウビンが住んでいるよ。」
クマンバチ? まさか~ あれはスズメバチの巣でしょうと聞き返したかったが止めておいた。アカショウビンも? だったが
どうせ私が聞いても分からない、後で調べればいいやと聞かなかった。聞いたのは
 「おっかない蜂なのに何故撤去しないんですか?」
 「そりゃぁ取って貰うにゃ金が掛かるからだよ。業者に取って貰うと一個2万円もするからねぇ。」
 「でも危なくないのですか」
 「こっちが手を出さなけりゃぁ蜂も向かってこないさ。そうしてれば何時かは蜂はいなくなるよ。ほらあっちの家の軒先にも
見えるらぁ」
と指さした家の軒先にも大きなハチの巣が見えた。

  後でクマンバチの巣を調べてみると 「熊蜂の巣は正六角形を隙間なく集めたハニカム構造の巣ではなく、 一円玉くらいの
木製の丸い穴です。巣は古い枯れ枝や、人家の軒下部分など雨が降り込みにくい向きに、木を丸く削り作ります。」

となるとこれはクマンバチの巣ではない。ではお婆さんは・・・・・
イエイエそんな失礼な事を思ってはいけません。痴呆イエもとい 「地方によってはスズメバチのことをクマンバチと呼ぶ」 のだ
とウイキペディアには書いてあります。アカショウビンも調べてみました。
 「 体長は約27cm。翼開長は約40cmでヒヨドリと同じくらいの大きさで、名前の赤翡翠は燃えるような赤い嘴と体全体が赤色を
していることによる。 夏に日本に渡ってくる渡り鳥」
だそうです。更にこんな事も書いてあった。
 「巣穴は崖や、キツツキの古巣を使って営巣する。スズメバチの古巣を使った営巣記録が報告されている。」のだそうです。
恐るべしお婆さん! クマンバチと聞いた時は疑ってしまい失礼をしました。

 
                  松葉の滝入口                             松葉の滝駐車場

  スズメバチの巣の話をした家の先で、登山道は県道と別れ農道に入る。 “松葉のカヤ(栢)の木” を見ながら農道を5分も行くと 
 「⇦松葉の滝駐車場」 の案内板のある広場に着いた。ここが駐車場か、それとも矢印の先に駐車場があるのか、一瞬迷って
しまったがよく見れば駐車場の文字の下には小さく 「松葉の滝まで04km」 とも書いてある。
こんな明解な所で一瞬でも迷うなんて何とも情けないが、迷ったのはここだけで後は標識が完備していて迷う事はありませんでした。。

        
           滝が見えたが松葉の滝?                              丸木橋

  駐車場からすぐの所から滝が見えていたが樹木が邪魔をして良く見えない。滝の案内板も無いし駐車場からは1分位の場所なの
だから松葉の滝ではないだろうと先に進む。
道が左右に分岐していて、右が粟ヶ岳で左が不動の滝となっている。どうやら滝見台まで行ったらここに戻り粟ヶ岳に向かうようだ。

こんな丸木橋を渡るのだが、下に溜まっている水は凍っていない。ウーンこりゃ氷瀑は無理だ。ツララも無理かも。

        
                      松葉の滝(不動の滝)                          少し氷結した松葉の滝(不動の滝)

  どうやらここが松葉の滝のようです。最初に松葉の滝の名前を聞いた時は、滝口は一つで途中に左右に分かれている滝と想像
したが、それは間違いでした。
今は渇水期なので右端の滝しか水は流れていないが、梅雨時などの水量の多い時は左側にも水が流れ、更に多い時は正面にも滝が
できそうな感じもします。しかし松葉とはとても思えそうにない。

この時はこの程度の感想だったが、帰りにバス停の案内板にある100円のパンフレットを買うと、そこにはこの辺りを指して
 「松葉三滝ルート」 と書いてあり、入口から順に 「夫婦滝、女滝、松葉の滝(不動の滝)」 と案内している。
駐車場を出てすぐの樹間に見えた滝が夫婦滝だろうが女滝は気が付かなかった。そして三番目のこの滝は不動の滝でしょう。
不動の名は沢辺の小さな祠にお不動さんが祀られているからのようです。
でも “松葉の滝(不動の滝)” と書いてある意味は何だろう。この滝には二つの名前があるのだろうか?
松葉神社の由来を書いたブログには 「松葉の滝は雌雄二つの滝があり、優美な雌滝と迫力ある水の音とともに、勇壮に流れ落ちる
雄滝が楽しめる。」
と紹介されていた。
それなら混乱を招く不動の滝の呼称は止めて、松葉の滝1本にした方が分かりやすいと思うが。

  オット! 肝心な滝の氷結状態の話を忘れていた。マー説明が後になる位だから氷結は多寡が知れていると分かりますよね。
それでも水の流れている右側の、多分雄滝の方は凍っていました。しかし水が少ないのか氷結部分は少なく、大袈裟に書く事が多い
私でも、とても “氷瀑” だったとは書けません。それでもツララは垂れ下がっていました。
単純になりそうなコースに、この滝の存在はいつの季節でも有難いですね。

城ロマン:掛川3城廻り(横須賀城趾)

2018-02-09 17:33:53 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-1-20(土)
歩行時間:8時間00分   休憩時間:0時間50分   延時間:8時間50分
出発時刻:7時25分     到着時刻:16時15分
歩  数: 38、253歩(推定距離27.16km)    GPS距離km
行程表
 掛川駅 0:10> 掛川城 2:00> 小笠山 0:05> 小笠山砦 0:05> 小笠神社 1:20> 高天神城趾入口 0:50> 本丸跡
 0:35> 高天神城趾出口 0:45> 県道合流 0:40> 横須賀街道合流 0:25> 大須賀図書館 0:25> 横須賀城趾入口
 0:40> 横須賀城趾出口 0:02> 西田バス停


                        高天神城址から横須賀城址までの概略図

        
             県道249号線                        旧大須賀町MH

  県道249号に合流した後の南への道は、緩やかな傾斜の下り道で歩き易いのだが、見る物がないのでつまらない。
両側に見えている山並が終らなければ横須賀街道には出ないのだが、まだまだ終わる気配は無く山並は続いている。
因みに横須賀街道とは、相良城から横須賀城を結ぶ街道とのイメージはあるのが、正確な事は知らなかった。
で、調べてみたがネットでヒットするのは “遠州横須賀街道ちっちゃな文化展” ばかり。
漸く探し当てたのはネットではなく5年前に歩いた遠州七福神の自分で写した写真の中でした。

 「通称横須賀街道遺跡 横須賀街道の名は徳川家康の第十一子頼宣が、駿府から横須賀に移封に決まったが、在府のまま
横須賀領を治める為に駿府、横須賀間の街道を整備し、駿府、相良間に馬次を開いたことに始まると言われています。
(中略)明治二十二年東海道線が開通し、堀之内(現菊川駅)が開設され、それに伴う県道が整備されるにつれて横須賀街道の
名は次第に薄れていきました。」


  成程と終わりたいが、文中で気になるのは “駿府、横須賀間の街道を整備し” です。この頃は既に駿府の東西には東海道は
開設整備されていました。そうなると東海道の何処から横須賀街道は分岐していたのでしょう?
ヒントは “駿府、相良間に馬次場を開いた” だと思うが、相良と聞けば思いつくのは 「田沼街道」 です。
その田沼街道とは江戸時代中頃、幕府の老中だったが賄賂政治を行い失脚した田沼意次から付いた名前です。
相良城主になった田沼意次は権力を使い、海寄りの藤枝から相良を結ぶ地点に、渡渉禁止にもかかわらず街道を造って
しまったと言われています。
尤も大井川の渡渉禁止は、東海道の島田・金谷間では厳しかったが、上流や下流の住民は大井川を渡って行き来をしていた
ようです。

  しかし田沼意次が相良城主になる以前の、徳川頼宣(よりのぶ)が横須賀城主になった頃は田沼街道はありませんでした。
そうなると横須賀街道の分岐点で考えられるのは、駿府藩の巡検使が相良に向かって歩いた 「巡検使の道」 です。
巡検使の道は駿府から東海道を金谷宿まで行き、金谷からは牧の原台地を下って相良に向かっています。
今ではどちらの道が頼信が整備した横須賀街道か分かりませんが、何れにしろ江戸時代初期から横須賀街道はあったようです。

  何も興味を引く物も無く、飽き飽きしながら歩く県道ですが今までと絵柄の違うMHが出てきました。
MHに書かれている 「大須賀町」 の文字を見て気が付きました。
そうだ! 横須賀は大東町ではなく大須賀町だったと。これでは当初考えていたウォーキング名の “大東 城廻り” の名前は成立
しませんね。イヤイヤ採用した 「掛川3城廻り」 が正しかったとは、掛川市の “掛川3城ものがたり展” のお陰です。
それとこのMHには私の苦手な英語が使われていて 「WE LOVE OSUKA」 なんて書いてある。
意味兎も角 “OSUKA” では “オスカ” とも取れますよね。街中で見かける “KOBA”も “コバン” と読んでしまうが、マー今回は
ヘボン式の疑問については過去何度も書いているので止めておきましょう。

  MHには似顔絵もあるが、顎の部分は遠州灘の波を表し、頭は小笠山を表現しているのかな? これが大須賀町のシンボル?
でもどうせなら町外の人も知っている横須賀城や三熊野神社祭の山車の方が大須賀町と分かりやすいと思うのだが。
それにしても大須賀とか横須賀と共に 「須賀」 が付いて紛らわしいが、須賀という言葉の意味は「砂浜、砂丘、砂州」の事
らしいです。
なので大須賀には “大きな砂浜” があり、その隣にある小振りな砂丘は、横の砂浜、即ちち “横須賀” になったと思う。
そう言えば東海道の遠州に白須賀宿もあるが、ここは砂浜は白かった事から付いたとか。今なら “白浜” かな。

 
               遠鉄横須賀営業所                               大須賀番所跡

  横須賀街道に出たが先ず駅に戻るバスの確認をしなければなりません。期待半分いや期待も不安も八分づつでバス停の標識を
探しながら県道69号となった横須賀街道を歩きます。
そんな不安を直ぐ解消すべくバス停の標識がありました。しかもバスの本数は平日1時間に2本、土日でも1本ありました。
これなら安心です。ただ行先は掛川駅ではなく袋井駅しかありません。ここは掛川市なのにどうした事でしょう。
多分掛川から横須賀までは小笠山の山中のため乗降者が少ないのでバス路線は無く、平地で住宅地の多い袋井駅に路線が出来た
のでしょう。暫く歩いて行くと道の左右には遠鉄バスの横須賀営業所があり、バスも数台停まっていました。

  大須賀番所跡だそうです。番所は元は横須賀城の追手門の外の街道脇にあり、城に出入りする人を見張っていたそうです。
一寸見は民家にも見えるが、一時は民家として使われていたと案内されています。

  
               大須賀図書館                                徳川家康着用の甲冑

  番所の傍には支所と公民館と図書館があるが、今日の目的の 「掛川三城ものがたり展」 が何処で開催されているか忘れてしまった。
先ずは番所に近い大須賀公民館に行ったが外れで、聞いた職員は 「知らない」 と言う。
一瞬焦ったが奥にいた職員の 「図書館でやっていますよ。」 の声で一安心でした。

  物語展を行っている2階に行くと中央に3城のジオラマが並び、周囲には縄張を含めた印刷物が貼ってある。
中で一番風変わりなのは甲冑だった。この甲冑は徳川家康が関ヶ原の戦いで着用した物を模写したそうです。
名前は 「大黒頭巾兜 歯朶具足」 だそうですが “大黒頭巾兜” は理解できるが “歯朶具足” は分かりません。
具足は脛を守る物としても “歯朶” は何でしょう。よく見ると口の周りが黒く覆われているが、そのことを云うのでしょうか?
見当がつかないのでネットで調べると大外れでした。
まず知っていると思っていた具足は、足の脛の保護など全然関係なく甲冑そのものの事でした。更に歯朶(しだ)も歯なぞ関係なく
 “羊歯(しだ)” の事で、鎧の上の飾り(前立てと云うらしい)が羊歯の葉を図案化した物を指すそうです。
よって歯朶具足とは、 「歯朶の前立てが添えられている甲冑」 という事のようです。


                              高天神城趾ジオラマ

  今、歩いてきた高天神城のジオラマがありました。このように立体的に見ると理解がしやすくなります。
これを見ると今日行かなかった二の丸や三の丸を増々見たくなります。そして甚五郎の抜道も気になります。
近いうちに再訪したい気がますます強くなってきました。

  ものがたり展はそれなりに収穫はあったが、どうしてもバスの時間が気になります。折角ビデオで3城物語が放映されていたが
見ずじまい。印刷物も読まない。で、写真に写して来ました。

 
               横須賀街道八百甚                             旧郵便局

  県道と別れて古い町並みの残る横須賀街道に入ります。ここ横須賀地区では秋になると 「遠州横須賀街道ちっちゃな文化展」
行われる事が有名です。これは普段生活している家の軒先や部屋、土間にバラエティ豊かな芸術作品が飾られます。
私も一度行ったのですが中々のアイデアで、住民が一体となって協力している事が感じられました

  街並みに入り三熊野(みくまの)神社は鳥居の外から眺めてパス。どうしてもバスに時間が気になります。
ここを通るときは必ず写す八百甚をパチリ。次は造り酒屋だったと言うが、玄関の屋根瓦には郵便局の 「🏣」 があるので
大元は郵便局だったのでしょう。そこもパチリ。
オッ! そこには 「凧揚げ まつり」 のポスターが貼ってある。そう言えばここ横須賀には 「横須賀凧」 があり、猿回しの猿が舌を
出している凧が有名だ。
そうだ! ここのMHの絵柄は、この凧がピッタリだ。横須賀凧の絵柄なら多くの人は横須賀を思い出すだろう。

  それにしても歩いていて 「大須賀」 の名称は役所関係の支所、公民館、図書館ぐらいで、後はみんな 「横須賀」 だ。
チョッと気になり旧大須賀町を調べてみると、何と!何と! 大須賀町は昭和31年に大浜村と横須賀村が合併して誕生した町名だ
そうです。なら大砂丘の横の砂丘だから横須賀との私の説は、大須賀と大浜の違いはあるものの一応正解かな。

  今日の土産は横須賀の愛宕羊羹と決めてあったが、ついつい街道を歩いて通り過ぎてしまいパス。
めったに土産を買わない私ですが、ここ横須賀の愛宕羊羹、森町の梅衣、奥山方広寺の大餡巻、三ケ日の浜納豆は必ず買ってます。
でも今日は気づいてもバスの事が気になり戻って買う気は起りませんでした。


                               横須賀城縄張1

  ものがたり展にあった横須賀城の縄張です。
最近歩いた山城と比べ如何にも城の縄張の感じがしますが、この縄張で気になる事があります。
まず縄張の中央には城の絵が描かれ 「天守閣」 となっています。山城には無かった天守閣がこの城には建っていたようです。
天守閣と云えば頑丈な物見櫓とか、権威を誇示するための建物ですが、しかし横須賀城は物見台が必要なら、近くには標高の
高い場所が無数にあります。なので城内にわざわざ頑丈な物見櫓を建てる必要はない。となるとここを建てた人物を象徴する
ための天守閣だったのでしょう。

物語展にあった資料を抜粋してみます。
 「高天神城が武田の奪われると現在の大東町付近から東は武田氏の勢力下に入った。
高天神城の奪回を目論む家康は、遠州平野の東は小笠山の北にある掛川城を陸の大動脈東海道の押さえとし、南の海上交通の
押さえとなる横須賀には、高天神城奪還の拠点とし地元の家臣大須賀氏に築城を命じた。
横須賀城の築城の場所は、小笠山南西部の沖積平野に深く入り込み、小笠山の支脈が長く延びて三方が入り江と沼や深田に
囲まれた要害の地で、入り江には横須賀湊もあり物資の補給地点としても有利な地点でした。」

この時点で家康は横須賀城を高天神城奪還するためだけの砦としてででなく、城を奪還後の遠州経営も考慮していたと思いたい。

気になるとと言えば横須賀城築城を命じられた “大須賀氏” の姓も気になりますよね。大須賀町は大浜村と横須賀村が合併して
誕生した町でしたが、この地に大須賀氏が存在してたという事は、当時は大須賀の地名があった事は十分考えられます。
何しろ武将の姓は地元の地名を名乗ることが多いのですから。という事は大浜村とは、地名だった大須賀を時代に合わせ大浜と
改名したとも考えられ、私の横須賀の地名説は大正解という事になります。

  オット天守閣の事を忘れていました。横須賀城に天守閣が建ったのは高天神城奪還後の豊臣方の武将が城主となった時です。
当時掛川城も豊臣方の山内一豊が城主となり天守閣を完成させています。これは豊臣とは縁の無かった遠州の住民に豊臣の力を
鼓舞する意味があったのでしょう。


                               横須賀絵図

  縄張で一番気になるのは縄張下に書いてある 「入り江」 です。
横須賀絵図を見てください。ここには “内海” とか “塩田” とも書いてありますが、運河に塩田があったとは思えません。
掛川市のHPにはこの横須賀城と掛川城の関係をこんな風に書いてあります。
 「横須賀城築城当時、この入り江は同じ市内にある掛川城の外堀となっている逆川の河口だったと考えられており、当時、
横須賀城と掛川城は船で直接行き来することができたと考えられています。」

何とも大胆な説で、今の逆川は途中で太田川と合流し、ずっと西の福田漁港に注いでいます。その川が7km東を流れていたとは。
しかしその大胆な説も、横須賀湊があった場所が、地震の隆起で海から2kmも内陸に入ってしまい、湊としての機能を失った
のですから十分考えられる説です。
この原因となった地震とは江戸時代中期に起きた宝永地震で、横須賀地区では土地が隆起して海退が起こったようです。
それでも横須賀城は太田川河口から運河を拓き、海上輸送を細々と続けていたようです。

 -- この海退は前回訪れた持舟城のある用宗でも起きていて、城の下にあった持舟湊が使えなくなっていました。
    一方焼津地区では海退とは逆の海進が起きていて、高草山の麓にある林叟院の元の場所は今では海の中だそうです。 --

        
            横須賀城水堀                                    玉石の城壁

  山城の堀は空堀で水が無いが横須賀城の堀には水があったものの、現在残っている堀はこの狭い範囲だけです。
横須賀城の特徴は、普通一つしかない大手門が東西にあり 「両頭の城」 といわれていた事です。
私が登場した場所は大手門の一つ 「東大手門」 側からでした。

  東大手門跡を入りまず目につくのは 「玉石積み」 と呼ばれる河原石を用いた石垣です。
これもこの城の特徴の一つとしてあげられているが、私にはこの石垣の玉石積みが最大の特徴ではないかと思えます。
城の石垣といえば巨石を組み合わせた石垣を思い浮かべるが、横須賀城の石垣は丸い河原石を積み重ねたように見えます。
それもそのはずでこの丸石は天竜川の石を船で横須賀湊まで運んだそうです。

 
               天守閣跡                                 城址から南方の眺め

  石垣の上は天守閣跡の広場になっています。山城と違い清々とした感じがしますね。
南の方を見ても海は見えません。海が遠くなった事もあるのでしょうが、城の標高が高くない事もあるでしょう。


                                玉石の城壁

  まさしく玉石の城ですね。この城壁に座って絵になるのは誰でしょう? 
勿論私のような年寄りではありません。私の頭の中にはセラー服姿の女生徒と学生服の男子が頭に浮かびます。
流れるバックミュージックは “わたしの城下町” や “古城” ではなく、梶光夫の“青春の城下町” です。
 “♬ ああ 青春の思い出は わが故郷の城下町 ♬” エッ!知らない? そんなー!
そうか あれから既に50年 半世紀以上前の流行歌を知っている人は少ないですよね。

  そんな空想が湧いてくるのは、城の空が広く明るく、地面は芝で公園の趣がするからでしょう。
それだけではなく横須賀城は過去一度も城内での戦は無く、戦死者も出ていない事も関係すのかもしれない。
何しろ今まで歩いた他の山城の全ては、多かれ少なかれ城内で戦闘が行われ戦死者が出ていました。
中には持舟城や高天神城のように城兵の多くが惨殺された城もあり、そんな城には戦死者の怨念が漂い空気を
重くしているのかもしれません。

  明るい爽やかな城壁を見ていると、まだ見た事はないが沖縄の城と似ているのではないかと感じます。
沖縄の城のイメージは、木も無い広場に建つ城壁だけの城って感じですが、横須賀城もスケールこそ小さいが似ていると感じます。
しかし沖縄の城は江戸時代の昔ではなく、そう私が生まれた後にも戦死者が出ていたのですから空気は重いかもしれません。

 
               玉石の城壁                                 バス停

  横須賀城が明るい理由がもう一つ有りました。普通古い石垣には苔が生え重みを増してきます。だがここの石垣は河原の玉石の
せいか、表面がツルツルしていた苔が生えていません。一方階段に使われている平らな石は黒くなっています。
玉石の城壁は重厚さは感じないものの明るい清潔感がいつまでも保たれるようです。

  西大手門跡か退出しバス停を求めて来た道を戻ります。
バスは1時間に1本あるのに何故か気が焦り、中途半端な見学に終わってしまいました。
次回は高天神城と横須賀城の2城を時間を掛けて見学したいと思っています。

城ロマン:掛川3城廻り(高天神城趾2)

2018-02-04 10:27:32 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-1-20(土)
歩行時間:8時間00分   休憩時間:0時間50分   延時間:8時間50分
出発時刻:7時25分     到着時刻:16時15分
歩  数: 38、253歩(推定距離27.16km)    GPS距離km
行程表
 掛川駅 0:10> 掛川城 2:00> 小笠山 0:05> 小笠山砦 0:05> 小笠神社 1:20> 高天神城趾入口 0:50> 本丸跡
 0:35> 高天神城趾出口 0:45> 県道合流 0:40> 横須賀街道合流 0:25> 大須賀図書館 0:25> 横須賀城趾入口
 0:40> 横須賀城趾出口 0:02> 西田バス停


                           高天神城内の想像図

  地理院の地形図に高天神城の史跡の場所を記入してみましたが、あくまでは私の想像ですので間違いは許してください。

        
             南口(大手門)入口                        大手門址

  無駄な労力を使ってしまったが、いざ高天神城へ登城!
有名な城の割には貧弱な鳥居を潜ると 「追手門」 と書かれた杭が建っていた。
エッ!こっちが大手門? と思ったが、兎も角案内板を見ると、 「追手門(大手門ノ址)」 とあった。
大手門、追手門の何方が書かれていれば気にならないが、このように二つが同時に書いてあると、その違いが気になり調べてみた。
 「追手とは城の裏側から兵を出し、敵を正面に追い込むことを意味する。この追手が大手に転化した。」
ウッ! 良く分からない。敵が攻めてきたら裏門から兵を出し、敵を正面の門に追い込む? 納得できず他を探したが適当な物は無い。
得意のウイキペディアには
 「大手門とは、日本の城郭における内部の曲輪へ通じる大手城門。正門にあたる。元は追手門(おうてもん)と書かれていた。」
違いについては書いてなかったが仕方ない、追手門とは大手門と同じと理解しておこう。
それにしてはこの大手門の場所は斜面の途中で、とても城の正門があった所は思えない。これなら北口の方が大手門に相応しそうだが。

        
                倒木で進めない                        こちらも通行止

  メイン通路から外れた道があったので這入りこんででみたが、倒木の隙間に何とか跡と書いた杭は建っているものの読む事ができない。
当然進む事も出来ないのでメイン通路に戻るが、今度は “土砂崩れのため立入禁止” となっていた。復旧する気はないのかな?
この通行止の先は 「二の丸・高天神神社」 となっていて、メイン通路は 「三の丸・本丸」 となっていた。

  次の標識は二の丸方面に行く道と、三の丸・本丸への道と別れていて、更にその先は三の丸と本丸に行く道が分かれていた。
何か違和感を感じる。私のつたない城の知識では本丸の近くには二の丸があり、次いで三の丸があった。
敵は本丸を攻めるには二の丸や三の丸を壊滅してから本丸に向かわなければならなかった。
それが高天神城は本丸の横に三の丸があり二の丸は遠く離れている。まだそれは良いとしても、それぞれの曲輪の下に2本の通路が
あるのは理解しずらい。これでは敵は三の丸が強そうならそこを避け、本丸や二の丸に取りつく等、自由に選ぶ事ができる。
戦闘状態でなければ通路があった方が便利だが、山城は戦闘のための施設なのだから普段は不便でも防御を固めるべきだ。

 
               お前曲輪跡                                 お前曲輪跡から

  先ずは本丸からと、本丸に上がり一瞥して三の丸に向かった。で、最初に眼に入ったのは鎧姿の侍と奥女中風の顔出しパネルだった。
観光地でもあるまいものを、何でこんな物を・・・・・・
横には 「高天神戦国ロマンの里 大東町 城主・小笠原与八郎長忠 奥方」 と裏切者の小笠原の名が書いてあった。
前回紹介したが小笠原とは今川氏親の娘を貰い、義元と義兄弟になった縁で高天神城主になっている。それなのに徳川家康の甘い
誘惑にのり今川を裏切り、主君でもある今川氏真が籠る掛川城を攻撃までした裏切り者だ。
しかも彼は武田勝頼との第一次高天神城の戦いで敗れ、高天神城を武田の手に渡した張本人だ。
そんな男の顔出しパネルを作るなんて大東町の歴史感が分からない。

  まだ腹がたつことがった。パネルの横に立つ案内国は、ここは 「お前曲輪跡」 となっている。ここは三の丸だろ。何故 “三の丸” と
書かないのだ。おまけに “お前曲輪” の “お前” とは何のことだ。解説でもしておけ。なんて八つ当たり気味。

  パネルの後ろにコンクリの土台は 「昭和9年に地元出身の軍医少将が、故郷を偲び2層の模擬天守閣を建てられました。
残念なことに昭和20年落雷によって焼失(一説には陸軍が駐屯していたので目につきやすい事から自ら爆破させたとも)・・・? 」

何が故郷を偲びだ!。偲ぶなら派遣された先に建てればいい。地元に建てるという事は、立身出世した己の見せびらかせたいだけだ。
もうイライラの焔は消えそうもありませ。。

  お前曲輪の一部から東方面の景色が見えていた。
ここが437年前に武田と徳川が死闘を演じた戦場ととても思えないのどか風景でした。
実はこの時はてっきりお前曲輪が三の丸だと思い込んでいたので、そのまま本丸の方に移動してしまったのです。
ところが後で資料を見てその勘違いに気付いたが、その時は後の祭りで宿題を残してしまいました。

 
               元天神社                               本丸址

  お前曲輪と本丸の間には元天神社が祀られています。この神社は神社本庁の由緒によれば
 「創建年代詳ならず、(中略)今川了俊当山に城郭を築き、筑紫太宰府の天満宮を御同殿に斎き奉り、城中守護の神となす。
元亀天正の頃戦場と化し、古記類等失亡して往古を知る由もないが、慶長6年(1601)横須賀城主大須賀出羽守忠政武運長久を祈り、
霊験をもって新たに6石の地を寄進し社殿を造営す。」
とあります。
更に現在地元で行われる高天神神社の祭は、東峰の社に神様が里帰りされる行事として行われているそうです。
と、いう事は高天神で激しい戦闘があった頃は、この神社しかなかったのでしょう。

  本丸跡は中々広く周りには土塁も残っています。西南戦争や日清戦争の慰霊碑もいくつもある。
本丸の案内板は高天神城の三つの戦いを列記したものだったのでここでは省略。
高天神城の決死の突撃については、地元大東公民館の案内板に “あやうし高天神” と突撃前夜の哀しい話が書いてあったので、
いつか紹介したいと思います。

 
                石窟跡                              鏡曲輪跡?

  本丸を下り罪人を押し込めていた石牢があるとの標識があったので見に行きました。
 「大河内幽閉の石風呂(石窟)」 とあり、第一次高天神城の戦いで徳川方の軍監大河内何某が武田勢に捕らえられ、この石窟に
8年も閉じ込めれていた。第二次高天神の戦いで徳川が勝利して漸く石窟から救出されが、足掛け8年も石窟に押し込まれて
いたため歩行困難がだった。と案内していた。
今は牢内は土砂で埋まったのか内部は見えず、石窟と云うより土牢の方が相応しい感じです。

  石窟から弓矢の訓練をしたという “的場曲輪” を通り、北口(ここの案内板には搦手門とある)に抜ける場所に出ます。
今は三辻だがかっては北に下れば搦手門、西に登れば二の丸や西丸、北に上れば今歩いて来た本丸。更に南に下れば大手門に
通じる重要な場所だったようです。今は南に下る大手門の道は土砂崩れで通行止になっています。

 
                井戸曲輪跡                             かな井戸

  広くなっている四辻の上は井戸曲輪で城内の飲料水を供給した井戸があった場所だという。
井戸の中はどうなっているか覗いてみたいが、進入禁止の垣根があって中に入れない。それにしても井戸がある場所の北も南も
急斜面の尾根筋なのに、よく水が湧くと分かったものだです。
ここでまた失敗をしてしまった。正面に見える白い板には “二の丸” と書いてあったのに、下の文字に気を取られ二の丸を見逃して
しまった。これも家に戻ってから気が付く後の祭りで、こうなったらもう一度高天神には来なければならないな。

 
              高天神城合戦将士英魂碑                       井戸曲輪を上から

  高天神城の戦死者の慰霊碑です。この慰霊碑の他に旧大東町には “千人塚” でも戦死者の慰霊をしているそうです。

  2枚目の写真は井戸曲輪を上から見ています。こんな尾根筋の井戸で千人もの飲料水を賄う事ができたとはとても思えません。
多分戦時以外は麓の水場から水を運んでいたのでしょう。

        
                   西の丸址(社務所)                              堀 切

  一段目の階段を登った場所には今は社務所が建ってるが、昔は西の丸だったという。確か第一次の戦いでは武田軍に西の丸を
破られ落城したとあったが、今こうして歩いてみても、本丸付近には幾つかの曲輪があるが、西の丸は井戸曲輪しかない。
武田軍はこの手薄の西側を破ってから本丸攻撃をしたのだろう。高天神を占領後武田軍は弱点である城の西側を補強したという。

  社務所の前の杭に 「堀切 この社務所の裏尾根伝い」 と書いてあったので、社務所の裏に行ったが堀切は無く、山道が
尾根伝いに延びている。ここまで無駄な時間を使っているので迷ったが、今日はまだ堀切を見てないので行ってみる事にした。
3分ほど歩いたが何もなく引き返すか悩みだしたときに、右に下る道と分岐した。下れば上らなければならないので当然直進する
平らの道を行くと、すぐとても下れそうもない急斜面になってしまった。諦めて下を見ると “堀切” と書いた白い杭が見えている。
そこは尾根の鞍部を更に深くした形跡も見えるが、とても下る気は起きないので、上から写真を写して引き返した。
堀切から先にも道は延びていが何処に続く道だろう。ハイキングコースかな?

 
                 馬場平                              馬場平から
 
  堀切を確認して西の丸まで戻り、更に階段を登り高天神神社の前に出る。で、またここでミスをした。何と神社の写真を撮るのを
忘れてしまったのだ。どうも高天神城とは相性が悪いようだ。
神社の裏の浅い堀切を渡ると馬場平に出た。馬場平の名前から想像すると馬の訓練場所と思えるが、それにしては狭すぎるので
馬を飼育していた場所かと思った。
だが、ここは城の南部を見張る見張台があった場所だという。確かに南側が開けていて見張台になりそうだ。

 
                甚五郎抜道                             三日月井戸

  高天神城では第二次高天神の戦いで、城が落城した事を甲斐の武田に知らせるため、城から脱出した話を聞いたことがある。
その 「甚五郎抜け道」 が馬場平にあった。案内板には
 「天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、是より
西方約一千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った。この難所を別名「犬戻り猿戻り」とも言う。」

こういう説明を聞くとすぐイチャモンを付けたくなる悪い癖。

犬戻りは今日小笠山で、犬戻りの上の橋を歩いて来たし、小笠池の上の細い道も写真で紹介したので怖い場所だとは分かります。
では、猿戻りとはどんな道だろう? 身軽な猿させ戻るのだから犬戻りよりもっと怖い場所ではないか。そんな場所を馬が駆け抜ける?
いや通れることが出来るだろうか。
それと “信州を経て甲州へ” ともあるが、私なら大井川に抜けて井川から安倍川に出て、更に安倍峠を越えて甲斐に行く。
それが信州経由だと徳川の領地を通り天竜川に出て、塩の道をから信州に行く遠回りの道となる。
脱出した兵が徳川兵ならその道でも分かるが、抜け出したのは武田兵だ。それなら武田の勢力の残る大井川に出、武田の金山が
あった井川・梅ヶ島の道を行くだろう。
まだある。確か北口の案内板には甚五郎抜道から北口に戻る道があったが、ここには “西方約一千米の尾根続きの険路を辿って”
なんて書いてある。と、いう事は北口には行かず、そのまま小笠山に通じる尾根に延びてしまうのか。
この後、横須賀城に行くには西に見える尾根を越していくのだから、何処かでこの抜道に出合うかもしれない。だがそんな不確かな
事でまた無駄な労力を使うわけには行かない。それに犬戻り猿戻りも恐ろしい。と、引き返してしまいました。

  接近しすぎていて全体が分からない写真ですが、井戸ではありません。これは水溜まりです。と云っても良いような井戸です。
アッ! チョッと待ってください。杭に上にある案内には
 「この水は、飲料用ではないようです。武田方が領した時、几水の事から作ったと言われており、岩から水がしみ出ています。
飲料の井戸は城の中頃辺に確保されている。」

そうだろうな、こんな水溜りの水は非常のときは兎も角、通常の時は飲む気にはなれない。
それにしても “几水” って何だ? 調べてみたが分からない。 “几” という文字は机とかひじ掛けの意味らしいが、それに水で
何を意味するのだろうか? 折角の案内板なのに意味が不明では意味がない。
そうそう几水を調べていたら三日月井戸の古い画像があり、そこに写っていた案内板にはこんな事が書かれていた。
 「天正二年七月より篭城した武田勢は飲料水に恵まれるようにと水乞いの祈願をこめて、井戸を造った。今も極わずかながらも岸壁から
しみ出る垂れ水が絶えることが無い。」

ご免なさい、古い話を持ち出して。これも “几水” の意味を説明さえしてくれてあれば調べなかったのですが・・・

 
                 地 層                              搦手門址

  小笠山の地層は小石交じりの物が多いが、ここの地層はシッカリした岩盤に見える。さっき見た石窟も本当に石だったのかも。
大手門の道を倍する太さの道にようやく 「搦手門址」 の案内があった。矢張り城は南口、北口より、大手(追手)門、搦手門の
方が雰囲気がでる。高天神の地図の案内板はなぜ南口、北口にしたのでしょうか。
案内板には 「搦手門 城の裏門に当り、城南から出て来る者を搦め捕る意味からこの名がある。(後略)」
 “城南” の意味は分からないが、この搦手門の解釈は初めて聞いた。一般的にはこれとは逆で
 「搦め手とは余り注意が向けられていない箇所を指す場合にも用いられる。転じて、裏技を用いるといった意味合いで用いられる
場合もある。 搦手門は有事の際には、領主などはここから城外や外郭へ逃げられるようになっていた。」


 
               高天神城の山                               通行止だった

  手間取った高天神城がようやく終わり、次の目的地の横須賀城に向かう。
高天神では色々ケチを付けてしまったが、決して高天神が面白くなかったのではありません。イエどちらかと言えば見る物が多く
楽しくさえあった。それなのに入口探しで無駄骨を折ってしまったため嫌味を垂れ流してしまったのです。
いつまで経っても子供ですが、見残しの多い高天神城には近いうちにもう一度来ようと思っています。

  高天神城を出て西に向かう車道を行けば横須賀に向かう県道に合流するはずです。若しかすれば途中で甚五郎抜道と合流する
かも知れない。など考えながら気軽に歩いてました。
ところがなんていう事だ。道の前は掛川水道局の入口で、その門は閉まっている。門の中を覗き込んでも上に行く道は見えない。
そんな馬鹿な~。今から高天神まで戻って南の海岸方向に向かうのでは、とんでもなく遠回りになってしまう。困った。
今でさえ想定していた時間より遅れているのだから、これ以上遅れてしまったら横須賀から東海道線の駅まではどうしよう。
若しバスが無かったらタクシーとは思っていたが、それは最悪の状態で心の中では掛川駅は無理でも愛野駅までなら何とか歩けると
思っていた。だがこんなに無駄な事に時間ばかりかけてしまうとそれさえも無理だ。
ウーンどうしよう。悩んでいても仕方ない、戻るしかない。

        
                    この道でいいのかな?                          大城隧道

  こうなったら横須賀城趾は諦めて高天神まで戻って掛川に帰ろう、なんて考えながら来た道を下って行くと、今歩いている
道より大分細めだが舗装された道が西の尾根に向かって延びていた。若しかしてこの道?
よく見れば入口には掛川市の 「凍結注意!」 の貼紙もある。若しこの道が農道ならこんな貼紙をしないだろう。それに電線も先に
延びている。マーいいか。例え農道で道が途中で行止りだったら引き返して掛川に戻るだけだ。と細めの道を前進することに。

  途中で電柱は無くなってしまったが、道はそれなりに交通量がある感じで雑草や落葉も積もっていず続いている。
だが車が1台も通らない事に若干の不安はあったものの、前方のトンネルを見て安心した。もうこれで100%大丈夫!

 
               県道合流                                    ??池

  トンネルを出てからは思ったより早く県道に出た。合流した先は溜池もあり、横須賀にはこの道を下るだけだ。