はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

賎機山から竜爪へ3

2014-04-21 16:04:13 | 低山歩き
 歩行記録      歩行月日2014年4月12日
歩行時間:10時間25分 休憩時間:1時間10分 延時間:11時間35分
出発時間:6時05分   到着時間:17時40分
歩 数: 43、020歩   GPS距離:26.3km
行程表
 静岡駅 0:20> 赤鳥居 0:20> 140m峰 2:05> 福成神社 0:25> 桜峠 2:35> 東海自然報道合流
 0:55
> 文珠岳 0:15> 薬師岳 0:30> 穂積神社 0:45> 旧道入口 0:35> 平沢バス停 1:15>
 国1バイパス 0:25> 草薙駅
観歩記
 文珠岳山頂の西側に花沢山と同じよう反射板が見えた。反射板の前は視界が開けているかと思い移動すると、
何やら動いている。イノシシ? いや違うカモシカだ。これはツイテいるゾ、慌ててカメラを取り出してカモシカに
向けると、アラー!カモシカが動き出してしまった。と思ったらカモシカは見にくい所から見やすい所へ移動して、
これでいいかとばかりにこちらを向いてくれた。何枚か写真に写したが動く気配が無い。それなら山頂にいた他の
人にも知らせようと、一応そっと下がり山頂にいた人たちに教えた。
 10人ほどの人がカメラでカモシカを写したが一向に動く気配はなかった。カモシカは鹿と違い動きが少なく、
人を見て一旦は移動をするが、じきに立止ってこちらを振り返るようだ。
これが鹿だとピョーンピョーンと跳ねて逃げてしまう。これはカモシカがウシ科の動物なので動きが遅いせいか。
それでは何故「カモシカのような足」と言うのだろう。必死に逃げるときは速いのかな。
 昔の岳人は腰にカモシカや鹿の皮をブル下げていて、懸垂下降時の尻の摩擦防止や休憩時の尻当てにして
いた。岩登りをしない人も真似をして安い皮様の尻当てをブル下げたものだ。かく言う私も真似をした事がある。

 
                                カモシカ

 北峰側の薬師岳の山頂には広場はあるが、周りは樹木に覆われていて視界は効かなかった。一方南峰の
文珠岳は静岡や清水そして富士山も見えていた。それに三角点もあったのだからそちらが主峰か。
しかし標高は文珠が1041mで薬師は1051m。ヤフーやマピオンの地図では山名が文珠岳と竜爪山となって
いるが、国土地理院の地図は文珠と薬師になっていて、両方を合わせて竜爪山と書いてある。
さらに、薬師は如来で文殊は菩薩。仏の位なら如来の方が上だ。となれば薬師岳の方が主峰なのだろう。
 だが遠江49薬師霊場を結願したばかりの私としては面白くない。何故なら薬師如来の脇侍は日光菩薩と
月光菩薩なのだから、文珠岳でなく日光岳の方が自然だ。もっというなら三角点のある山頂を薬師岳として、
その左にある現在の薬師岳を日光岳。少し離れるが若山を月光岳とすれば薬師三尊になる。
とマー勝手な空想をしながら視界が効かなくて面白くない薬師岳を早々に退却して穂積神社に向う。

薬師岳からの急な下りが一段落した所に、四角く広い敷地の中に、小さな祠が一つポコンと建っていた。
奥の院かなと思ったが、そこに案内板が建っていた。
「竜爪山の由来 竜爪山は、薬師岳と文珠岳を総称した呼名です。竜爪山は古くから山岳信仰の場として
神仏習合の民族信仰の霊山でありました。 環境庁・静岡県」

至極当たり前の事しか書いて無く面白くない。山の名前が仏で、その直下にあるのが大きな神社ならば神仏
習合の名残だとは誰でも分かる。
さらに下り穂積神社の境内には旧清水市で建てた案内板があった。
「竜爪山の由来 竜爪山は、薬師岳と文珠岳を総称した呼名です。竜爪山の名の由来は、日本武尊が東征の
とき、山から時雨が襲ってきて衣を濡らしたことから時雨匝山(しぐれめぐるやま)と書き、ジウソウザンと読んだ
ことから「りうそうざん」になったと言われ、又山頂に雲がたなびき、竜が降りて、誤って木の枝に爪を落とした事
から名付けられたとも言われています。
いずれも竜爪山が信仰の対象として人々の生活に密着していたことを物語っています。」

話としてはこちらの方が断然面白い。それにしても日本武尊さんは忙しい。焼津で賊に襲われ峠の穴に隠れたと
思ったら、又もや草薙で賊に襲われ、迎え火を燃して日本平に立ったのも束の間、竜爪にまで足を延ばしている。
人気者は辛いですね。
 山名の由来には他にも、竜の爪と少し似ているが、竜爪山の谷が深いのは竜が爪で掻いたからともあった。
それなら私は、この山に龍が棲んでいたから「竜巣(りゅうそう)山」としたいな。
他にも山名の由来としては、竜爪が双耳峰である事か「瘤双(りゅうそう)山」だからとか、山頂で灯す灯りが
遠方からもよく見えたので「龍灯山」のリュウトウがリュウソウに変化した。などもあった。
いずれにしてもこれといった決定打はないようだ。
 
 穂積神社の境内にポスターが貼ってあった。「龍爪山穂積神社例大祭」とあり、開催日は明日の4月13日と
なっていた。一日違いでお祭りを見れなく残念だが、行事は全て午前中になっていたので、所詮は明日来たと
しても見る事は出来なかった。
その中に「鉄砲祭」の項を見て思いだした事がある。確か竜爪には戦時中は出征する兵士が「弾除け祈願」
登ったと聞いた事がある。調べてみるとこの話が白いのだが長いので、短く端折って紹介します。
「武田の落人の瀧権兵衛が竜爪山に登り、白鹿を撃ったところ正気を失った。家族が熱心に祈ったところ神懸
かりになり、自ら竜爪権現と名乗り山上の亀石の上に小祠を建て自ら神官となったという。
山中に住んでいた権兵衛の子供たちは下山して、山麓の中河内村、清地村、布沢村、吉原村、平山村の小島
藩内に住みつき、布教をして信仰圏を駿河国内や伊豆国に拡大した。当時の祈祷内容は御武運長久、開運
長久、盗賊除け、火難除け、毎月海漁満足、毎月猪鹿除け、などがあったという。
 鉄砲祭りの起源は明らかでないが、権兵衛が銃猟をしていたことが祭祀と結びつき、豊猟、害獣除け、鉄砲
事故除けとつながり、中でも鉄砲祭が竜爪さんの代名詞になった。」

これは伝説ではなく史実で、今でも権兵衛の子孫は平山に住んでいるという。話はさらに続く
「日中戦争が長期化するにつれ竜爪さんは無事帰還を祈る弾丸除け一色になっていく。昭和19年は稀にみる
参拝者の多い年で賽銭合計が426円余。おひねりの米が三表余りになったという。登山口の茶店では「弾除け
羊羹」
と銘うった蒸し羊羹も売り出された。
しかし、ひとたび戦いが敗戦に終わるや、手のひらを返すように参拝者は激減した。」


 
                   薬師岳山頂                         穂積神社

 穂積神社からは車道と山道があったが当然山道を下る。途中道が旧道と新道に分岐していたので、旧道の
方なら石仏があるだろうと予想して旧道を下ったが、石仏は無く代わりに「丁石」があった。
この丁石は一丁から三十六丁まであるが、この三十六とは距離でなく 「金剛界曼茶羅の主要三十七尊」 
なぞらえて立てられたものと言われている。三十七尊なのに三十六と丁石が一つ足りないのは、最後の
三十七尊目は、主尊である大日如来に当てる考え方で、龍爪権現の御本体そのものだという。
この考えも少々納得いかなかった。だって大日如来が本体なら薬師岳でなく大日岳にすべきではないか。
 
 旧道の登り口には「従是龍爪山拝殿迄三十六丁。干時安永9年(1780年) 垢離とり場跡」と書かれた
木碑が建っているる。これは元は石碑だったが台風で押し流され、川底に埋没してしまったので代わりに
建てたとある。また、垢離取り場の渕も、直ぐ下に砂防ダムが出来て埋まってしまい今は無いらしい。
 丁石も古い石製の物、新しい石製の物、更に新しい木製の物があり、地元で復元してくれているようだ。
古い丁石に「十」を二つ並んで書いたものがあり、初めはアレー?と思ったがすぐ納得できた。だが三十は
どのように書いてあったのか記憶がない。印象に残らなかったという事は普通の三十だったのだろうか?

   
          十十三丁目丁石            十二丁目丁石           丁石案内

 旧道の途中には金冷やしいや「肝冷やしの滝まで3分」の案内もあるがパス。川の向うには柱状節理のような
絶壁もある。川床が一枚岩で、水が勢いを増して流れている所もある。そこは「竜走の滝」の滝となっていた。
「りゅうそうの滝」と読ませるのだろうか。
 この川の名前の長尾川は、竜の長い尾から付いたのだろうが、ようは竜尾川で、竜の尾だから時々暴れる。
前回暴れたのは昭和49年7月7日の七夕豪雨で、長尾川の下流を決壊させ、流域に多大な被害を出している。
長尾川は竜爪山から流れ出る砂礫が積り天井川となり、地元では暴れ川とも呼ばれている。

 旧道にはガレ状の所や小さな岩場もあるので、疲れが出始めている脚には要注意だ。小さな突起に躓き、
小砂利で滑る。若し岩場で転んだらと思うと慎重になららずを得ない。でも単調な道が続くよりこの方が変化が
あって楽しいが。
 1ヶ所川を渡る場所があったが、アルミのしっかりした仮橋が掛かっていた。下を流れる川の水量は多かった
が、長尾川の末端近くの天井川の部分になると水は流れてなく、みな伏流水となって地下を流れてしまう。

 途中で左に別れた新道は何処を通っているのか、左は尾根になっていてあの上に新道があるとは思えない。
きっと谷が違うのだろう。次回は新道を歩いてみよう。

         
               ガレ場もある                    仮橋もある

 鳥居を潜ると車道に出た。そこのある案内板の略図を見ると。ここで近道と旧道が合流している。近道?
新道の事なのか? しかも車道? 理解できないが次回は下りに新道を歩けばはっきりするだろう。

 今時間は3時20分。一先ずバス停のある所まで下ってから、その先のことは考えよう。
その鳥居の下に「垢離取り場」の説明があり「垢離を取るということは、神仏にお詣りする前に心身を清めると
いう事です。竜爪山詣りの人々は、この垢離取り場の淵で手や顔を洗い、口を漱いで御山に入りました。」

そうか、今までは富士講の信者が富士登山前に、海や川で水垢離をして、心身を清めてから登山した。などと
読んでいたので、垢離といえば水の中に入るイメージだった。でもこのような場合は「垢離取り」と言うのか
覚えておこう。この行事が簡略されて、神社に手水鉢が置かれるようになったのかな。
では穂積神社の境内に手水鉢はあったかしら? 気が付かなかったが、有ったとすればそれは明治以後に
設置された手水鉢だろう。次回のときは忘れなければ見てみよう。

 垢離取り場から5分ほど歩くと「竜爪茶屋」があった。この茶屋で「弾除け羊羹」を売ったのだろうか、
だが今は営業をしていず建物の横には獰猛な大型犬が何匹も唸り声をあげて威嚇する。
これじゃあ例え店が開いていても入る気はしないな。

 
              旧道入口                          竜爪茶屋

 道の下に小さなワサビ田があり、その上にはヤマブキも咲いている。山の中ではヤマブキは見なかったが、
こうして麓に下りてくると結構咲いている。
民家の庭には満開の石楠花があった。今年石楠花を見るのは2回目だが、いずれも栽培しているものだった。
考えてみれば自然の石楠花は見た事がない。それなら天城の万二郎岳の石楠花を見に行ってみようか。
あそこなら標高が高いので花はこれからだろう。帰ったら調べてみよう。

 
                   ヤマブキ                           石楠花

 竜爪山の丁石参道は神社の参道のため石仏は無かったが、麓のに入っても石仏は見当たらなかった。
だが途中に庚申塔を集めて祀ってある所が2ヶ所あった。その庚申塔は文字だけの物ばかりで、青面金剛像が
彫られたものは無い。
この庚申塔は道の整備で邪魔になったので集めて祀ってあるのか、それとも時代時代に祀った庚申塔なのか。
とても建造年を調べる元気は無かった。
 「馬頭観音大菩薩 大正十四年 荷馬車上組連中」と彫られた、これも文字だけの馬頭観音があった。
これを読めば大正や昭和の初めころは、この平山地区には荷馬車で荷物を運んでいたことが分かる。それも
個人ではなく運搬業者が運んでいたようだ。今年2月に登った藤枝と川根の境にあった桧峠は荷馬車でなく
ケーブルで荷物を運んでいた。傾斜が急ならケーブルを利用できるが、ここまで下ってしまえば、もう馬か牛に
頼るしかないのだろう。ウー!ケーブルで思い出した。今日賎機山でタケノコ採りの地元の農家の人と話した。
その中にこんな話を聞いたので紹介します。(これだから私のブログはダラダラ長くなる)
「昭和30年の終わりころは、ケ-ブルを使い終わっても農家の衆はそのままにしてるのが多かった。そこへ
ハイキングに来た娘が二人座ったもんだから、重みでケーブルが動き出してしまった。娘らは怖くなって籠に
しがみついていたもんで、そのまま麓の台に衝突をして二人とも死んでしまった。
それから当局が煩くなって、使い終わったらケーブルに必ず鍵を掛けるように言われてしまった。だけど上の
台に鍵を掛けたら最後の衆は歩いて降りるしかなくなるもんで、結局下の台だけ鍵を掛けるようになった。」

アレ-そうなると農家の人はケーブルのスピードをどうやって抑えたのだろう?
「荷物を下ろすときは、下にブレーキがあるから必ず下に人がいて、ブレーキをかけながら下したんだよ。
だけど山がの衆は(森林作業者)下になんか人はいないから、自分でケーブルを掴んでスピードを調整しながら
下ったもんだ。そのとき手が熱くなるから檜の葉っぱを利用したよ。あれが一番良かった。」


 オヤオヤ新東名の下に墓地がある。新東名が出来る前は静かな所で、墓の住民もノンビリ寝ていただろうが、
新東名が出来てからは喧しくてオチオチ寝て入れないではないかな。墓の住民は道路公団に損害賠償を請求
したのだろうか。そう云えば日本の憲法9条をノーベル平和賞にノミネートしたら、ノルウェーのオスロにある
ノーベル平和賞委員会が正式に受理したとか。その対象者は日本国民だというのだから面白いですね。
その手で墓の住民と、これから墓の住民になる人が、一緒に裁判所に騒音被害を提訴したらどうだろう。
その時は静岡空港の横にある石雲院の住民も仲間にいれて、
アッ駄目だ!静岡空港は離着陸する飛行機の数が少なくて、我慢の範囲内とされてしまいそうだ。

          
                    庚申塔群                      新東名下の墓地

 そんな馬鹿な事を考えていたら平山のバス停に着いた。時間は4時前だが時刻表の見方がよく分からない。
マーいいか、まだ明るいし、もっとバスの便の多い所まで歩こう。
バス停から暫く行くとバスが追い越して行った。疲れで時刻表を見る力も無くなったのか?イエまだ大丈夫。

 「平山温泉 御殿乳母の湯」と白ペンキで書かれた大きな石がある。温泉はともかく「御殿乳母」が気になる
私ですので、調べてみると「今川義元の乳母が入ったことが名称の由来」なんだそうです。
でもその大きな石には「昭和33年開館」と書いてあった。
 
 「竜爪街道」書かれた道路標識が枝垂桜の下に立っている。竜爪街道とは平山草薙停車場線で、静岡市葵区
平山からJR草薙駅に至る県道だとか。標識にも「平山草薙」と書いてある。それなら丁度良いではないか。
前回この道を歩いたのは則沢草薙駅だったが、今回は純粋に平山草薙駅になる。ならば竜爪街道を完歩したこと
になる。と、途中でバスに乗るのは止めて歩く事にした。全くお調子者だ自分でもアホたれるが、草薙駅まで行く
本当の魂胆は・・・・・・・
 草薙駅に5時40分到着。まだ十分に明るい。GPSのスイッチを切り、行った先は駅の横にあるコンビニ。
そして駅のロータリーベンチに座り込んで一人乾杯をする。
掛川駅の草薙駅は買う場所も飲む場所も駅の横にあり好きなゴールです。

 
                   平山温泉                  竜爪街道

 竜爪山では一つ分からない事がある。「文殊菩薩」「文珠岳」の文字の違い。この「殊」「珠」の違いについて、
いくら調べても出てこなかった。それでは仕方ないここは私の妄想的歴史観に頼るしかない。
 竜爪山も神社も瀧権兵衛の鉄砲に縁がある事は分かった。なら鉄砲に必ずなけれればならない物は弾だ。
そうタマなんですよね。殊はタマとは読めない。だが珠はタマともジュとも読める。そこで昔の駄洒落好きの御仁が
「文珠岳」にしたのではないか。どうですか今回の妄想的歴史観は。

大崩:花沢山

2014-04-19 19:09:52 | 低山歩き
 歩行記録      歩行月日2014年4月19日(土)
歩行時間: 3時間00分 休憩時間:0時間30分 延時間:3時間30分
出発時間:10時00分   到着時間:13時30分
歩 数: 12、097歩   GPS距離:7.1km
行程表
 花沢駐車場 0:50> 日本坂峠 0:25> 花沢山0:30> 二輪草群落1 1:00> 二輪草群落2 0:15> 花沢駐車場
観歩記
 2週間前に二輪草がチラホラ咲いていたので、今日あたりは見頃だろうと近所の人と花沢山の二輪草を
見に行ってきた。
 いつもなら焼津駅から歩くのに、今日は花沢観光駐車場まで車で来たので楽な事この上ない。
マー楽といっても所詮は山歩きで、歩き出せばそれなりに大変だが。
 法華寺から日本坂峠をこの時期に歩くのは久し振りだったが、シャガとヤマブキの花がこんなに多かった
のかと思うくらい咲いていた。特にヤマブキは2日前の舟山では、既に時季を過ぎた感じだったが、こちらは
今を盛りとばかり咲いていた。気温が違うのだろうか?

 今にも雨が落ちてきそうで視界は悪い。でもこの時季は晴れていても視界は効かないので、雨さえ降らな
ければ暑くなくてこの方が楽だ。とそんな言い訳をしながら歩く。
一人の時は自分の判断で決めれるが、他人と一緒だと自分の判断といっても気を使う。今日も出発の前は
決行か中止か随分気を使ってしまった。
しかしこんな天気にも拘らず歩いている人が多い。法華寺までで10人位のハイカーに出会い、花沢山への
上りで4組と擦違った。

 さて問題の二輪草だが石部峠下の群落は群れも小さく、花の咲き具合は別の群落の2週間前と同じ程度だ。
同行の人も口には出さないが「ナンダこんな物か」と感じただろう。
実は私の本命は二輪草ではなくクマガイソウだったのだが、こちらもまだ大分早かった。大きい葉の株が
3株と小さな株が2株出ていたが花芽らしきもの分からなかった。

                 
                               クマガイソウ

 せっかく来てくれた同行者をこのまま返す訳にはいかない。そこで道が農道に出合った所でもう1ヶ所の
群落に行く事を提案して、というか押しつけだったがともかく行く事にした。
本来なら農道から水車小屋を経由して駐車場までは、下りの舗装路で30分もあれば行けるラクチンコースだが
もう一つの群落のある砂張屋の道標下に行くには結構急な農道を登らなければならない。時間も駐車場までは
1時間以上はゆうにかかるだろう。他人には気を使う私のこと故、色々話しかけながら行くと、途中でマムシグサ
を見つけた。早速説明しようとするとアレー釣り糸が延びている。これはマムシグサではなくウラシマソウだ。
私自身はこの花をマムシグサと思っていて、釣り糸状のヒゲがあるのを今まで知らなかった。
それを知ったのはつい最近で、時々コメントをしてくれるあやさんのブログでだった。そこに今までマムシグサ
だと思っていた花をウラシマソウと紹介してあり、釣り糸の事も書いてあった。
それを読んでからウラシマソウを是非見てみたいと思っていたのでラッキーだった。

 成程このヒゲが浦島太郎の持っている釣り糸か。納得。それと花が地表近くに付いている。
エッ!まさか十字縦走のとき朝鮮岩の下で今年最初のマムシグサと紹介し、「やけに丈が短く、蝮の模様に似て
いる茎が見えないくせに花だけは大きい。」
と書いてしまった。どうやらあれはマムシグサでなくウラシマソウの
ようだ。失礼しました。

 更に歩いて行くと今度は花の下の茎が長いのがでてきた。この花には釣り糸が付いていないのでマムシグサだ
ろう。よく見るとさっきのウラシマソウに比べ葉の付き方が違う、さっきのウラシマソウは葉の茎が半円を描いて
いて切れ込みの深い細い葉がそれに付いている。
一方マムシグサの葉は何の特徴も感じなかったが、ウラシマソウに比べて切れ込みは無く、巾広の葉が普通に
付いていた。
イヤー私のいい加減な解説では、また間違えるといけないので植物図鑑の解説を紹介します。
「ウラシマソウの葉は、ふつう塊茎から葉が1枚でる。葉は11-17枚の小葉を鳥足状につける。」
「マムシグサの葉は、ふつう塊茎から葉が2枚でる。葉は7-23枚の小葉を鳥足状につけ、小葉間の葉軸は長い。」

のだそうです。

         
                  ウラシマソウ                         マムシクサ

 道標下の群落に着くと同行者の一人が「こっちのが何倍も広い」と言ってくれた。マー何倍は大袈裟だが2倍は
あると思う。花の数も倍以上あったが、曇り空のため項垂れていて開いてくれていない。
二輪草と言えば演歌で有名だが、こんなものもあった。
「二輪草の 一輪すこし おくれけり」 岡林英子
まさにそのような咲き方をする。

         
               二輪草の群落                      二輪草とウラシマソウ

 12時半に駐車場の到着。3時間半で10kmに満たないハイキングだったが、それなりに楽しくそして疲れた。

蕨採り

2014-04-18 11:34:21 | その他
- 蕨採り 今年は何処へ 行ったやら -

昨日(17日)満観峰の舟川口から送電線の巡視路を辿って、放置茶畑の横で蕨を採ってきました。
収穫は大鍋2杯で、マートで売っている一束100円に換算するなら5千円以上はあるでしょう。

灰汁抜きが終わったら味噌汁、お浸し、卵とじ、テンプラなどにして食べます。
テンプラ?と思うかかもしれないが、これは我家の実験作ですが中々好評です。
山菜のテンプラと言うと柿、茶、ユキノシタ、モミジなどの葉があるが、どれもカラカラになって同じ感じです。
そこで採り過ぎた蕨をテンプラにしたところ、茎のグニュッとした歯触りが残り、如何にも蕨と言う感じがします。
同じく取ってきた蕗もテンプラにしたが、こちらはキャラ蕗の方が美味しいと言って以後やってもらえません

蕨採りの場所も最初は採れていた放置茶畑も、茶の木が蔓延ってくると日影になり、羊歯が蔓延して蕨は徐々に
生えなくなります。時々は新しい場所を開拓しないとならないけど、最近はそれも面倒で同じ場所で採っているので
年々収穫が減って来てます。
今年はあと一度別の場所に行こうかなと思っています。

             

   ------------------ ********************** -----------------

先日あるコメントがありました。
それはフジTVの「特ダネ!」と言う番組からで、2011年に歩いた東海道の写真を一枚使いたいとの事だった。
当然「ご自由にお使いください」と返信したが少々疑問が残った。
その写真とは滋賀県大津市のゴミの集積場所にあった家庭ゴミの袋だったのだが、そのゴミ袋は透明な大きな袋で
中のゴミが見えないように袋の周りを新聞紙やチラシで覆い隠してあった物だ。
そんな写真が何故TVで必要なのだろう? 必要なら写真を写せに行けば済むのではないのか?
若しかして現在では大津市も、ゴミの周りを新聞紙で覆ってないのかもしれない、など思ったが真相は分からない。
それでもどうと言う事はないだろう。マーいいか。

我家では「特ダネ!」は見ていないので、若し見た方がおりましたら内容を教えてください。
東海道大津の観歩記はこちらです

賎機山から竜爪へ2

2014-04-17 17:28:53 | 低山歩き
 歩行記録      歩行月日2014年4月12日(土)
歩行時間:10時間25分 休憩時間:1時間10分 延時間:11時間35分
出発時間:6時05分   到着時間:17時40分
歩 数: 43、020歩   GPS距離:26.3km
行程表
 静岡駅 0:20> 赤鳥居 0:20> 140m峰 2:05> 福成神社 0:25> 桜峠 2:35> 東海自然報道合流
 0:55
> 文珠岳 0:15> 薬師岳 0:30> 穂積神社 0:45> 旧道入口 0:35> 平沢バス停 1:15>
 国1バイパス 0:25> 草薙駅
観歩記
 桜峠からの登りは黒いシートが雑草除けに敷かれていた。なるほどこれなら草が生えないだろう。このシートを
JRさんが満観峰の東小坂口に敷いてくれると嬉しいな。なぜならJRが「駅からはじめる山歩き」で紹介したあの
場所は、目の高さまで雑草が延びるのだから。
 そんな事はともかく、このシートの登りが終わり、竹林に入ると早速道が分岐していた。黄色い標識はあったが
針金を竹に回してあるだけで自由に動いてしまう。私が行った時の標識の方向は、丁度分岐の中間を指していて
どちらか分からない。直進する道は少し下り坂になっていて踏み跡は多く、上に行く道はそれに比べると若干歩か
れていない感じだが、はっきりした道だった。多分下の道は巻き道だろうから、一先ず登りを行ってみようと、上り
の道を歩く事に。
私の場合、分岐で道が分からない時は上りの方を先に行く場合が多い。なぜなら若し間違って引返すとき登りだと
気分的に大変になり、更に分岐からも登りになるのが嫌だからだ。
そんな訳で登りの道を行くと道の片側に虎テープが張られていた。ウン間違いなしだ。と登って行った。
だが合流する筈の下からの道は無い。もっと先のこのピークを過ぎた所で合流するのだろうか。

         
                 桜峠の登り道                        桜峠上の分岐

 前方が開けるとそこは新東名の側道だった。立入禁止のフェンスには左を指して竜爪山。手前を桜峠登山口と
書いた紙が貼ってある。その横には「ヤマレコ」でみた写真も掲げてあった。
新東名の上には跨線橋が見えないので、向う側に渡るには新東名の下を通らなければならない。本線は大分下
に見えるが横断する道はさらにその下だ。
そうかさっき分岐で下に行った道は、この新東名の下に出る道だったのだ。大分ロスをしてしまったようだ。

 
                新東名の側道に出た                       新東名

 写真入りの道案内を見ると現在地から左に行く道が新しい道となっている。途中が無くて次は反対側の車線に
廻り左から水平の道を右に行く。そして切通しの右側をピークに向かって登るようになっていた。

     
                     写真の道案内(赤のみ私が記入)

 新しい道を左に向かい黒い急な階段を下に降りる。階段の下は車道になっていてその車道を歩いて新東名の
下を渡る。渡り終わった所に先程と同じような階段があり、そこの板に貼り付けて紙の案内は、階段上が竜爪に
なっていた。
下りの階段では余り感じなかったが、上りの階段では一段一段の高さが身にこたえた。やっと階段を登りきると
右側には鯨ヶ池が見えていた。さらに階段の先は車道がヘアピンになった天頂部に合流していて右下方向と右上
方向に分かれている所だった。
 写真入り地図では切通しの下部を右に進むようになっていたが、今更下る事もないだろう。と勝手に解釈して
上に延びる車道を行くと、またもや階段がある。その階段は切通しの頂点に向かっているようだ。
階段の入口には板が取り付けてあるが何も書いてない。というよりこの板には行先の紙が貼ってあったのが
剥がれてしまったのだろう。階段の手すりの両側には白いテープが巻いてある。これはきっと入口の目印だ。
登るべきか止めるべきか迷ってしまったが、先ほどの写真入り地図では、上に行く道は切通しの右側からに
なっていた。それに下の位置から階段を登るより、斜めに登る車道で少しでも上に行ったは方が楽そうだ。
結局楽な車道を行くと切通しの右の階段に出た。車道は向きを変えて奥に進んでいる。
この辺りで竹林の分岐の道と合流しなければならない筈だと新東名側を見るが道は無い。一体何処で合流する
のだろう。
こちら側の階段には板もテープも無い。少し気になったが写真の地図は切通しの右を登っているのだから
大丈夫だろう。と階段を登り出す。

 何だよーこの階段は。1段1段が高すぎる。足で階段の高さ測ると膝頭の下まである(家で測ってみたら
40cm以上あった)。少しイライラしてきた。この階段を設計した奴は高速道路を設計する片手間にやったに
違いない。車工学は知っていても人間工学の知識の無い奴の仕業だ。いやこんな車に関係ない場所の道は
予算が少なく階段の数を減らすしかなかったのかも。これも猪瀬の奴がイチャモンを付けたからだと八つ当たり
気味になってしまった。
 そういえば国道1号線の島田バイパスの切通しの歩道は、ここと正反対の道の作りになっている。これは
以前にも紹介したが、平らな歩道が10m程横に進み1段か2段上がって、今度は逆方向に平らな道を10m
行く、また1・2段上って・・・・・・・・・の繰り返しだった。
どちらが良いかって? そりゃ今は島田の道が良いが、島田を歩く時はこっちの方が良い。でも真面目な話
設計者は完成後、自分が設計した道を歩くべきだ。そうすれば以後こんな道は作らなくなるだろう。

 何とか階段を登りきった。案内や目印の無い階段だったので行先が心配だったが、階段の上には案内が
あった。板に貼り付けてある案内で半分剥がれている。でも紙には竜爪山の行先は藪の中の細い道を指して
いた。藪だろうが細かろうが案内さえあればもう大丈夫だ。
それにしてもここの案内が剥がれてしまうのは時間の問題だが、若し今回この案内が無かったとしたら
どうしただろうか、藪の中の細い道を進んだか、それとも階段を下りて切通しの左の階段を登り直したか。
その後切通し左の階段の道と、どこで合流するか注意深く見ながら歩いたが合流する道に気付かなかった。
また、竹林の中で別れた道も分からなかった。これらの道は何処に行くのだろう。私はタマタマ正しい道を
歩いたのだろうか? 疑問は今でも解けない。
旧道を潰してしまった「NEXCO中日本」はもう少し案内をしっかりやって欲しい。特に板に貼った紙と写真の
地図は再考の必要がある。

 
             切通し右の階段と車道                    階段上の案内

 藪の細い道はすぐ終わりホッとしたのだが、今度は「静岡県山岳遭難防止対策協議会」で付けてくれた矢印の
標識に問題が発生。右の矢印の先は桜峠とマジックで追加してあり、左の矢印側は「×」が書いてあった。
もう今更引返すのも嫌なので駄目なら駄目になる所まで行ってみようと進んで行くと、2分ほどで板に貼った案内が
あった。あの「×」は悪戯か、それとも通れない時があったのか。何れにしろ初めて歩く身にはいやな表示だった。
 この表示以後変な標識も迷うような道も無く竜爪に登る事が出来た。事前に調べたブログでは新東名付近は
分かりやすいとあったが、初めて歩いた私の感想は、分かりにくく嫌な道だった。

 林道の延長工事をしていた場所の階段を登ると視界が開け眺めが良かった。

 
                ×の付いた標識                     林道工事

 安倍川下流が見え、今苦労をしてきた新東名も大分下になっている。視線を少し右に動かすと静岡市街も
見える。中央に見えるビルは東静岡辺りだろう。その横の山は谷津山だが、左の半島のように伸びている山は
麻機と瀬名との間にある山だろうか。これで正面の杉林が伐採されれば静岡市が一望できるのに惜しいな。
時間はもうじき11時で少し腹が空いてきたが、若山まで頑張ろう。ここではバナナとアンパンで我慢。

 
               新東名と安倍川                        静岡市街(東静岡方面)
          
 何だろう? やけに目印のテープが多くなった。色々な色のテープが道の脇だけでなく林の奥の木にまで
取付けてある。伐採の目印かと思ったが、道脇の槇の木にも連続して付けてある。途中に「倒木の整理を
ありがとうございました」
の貼紙があったが、それでもテープの意味が分からなかった。
 今日初めてのロープ場だが登りには特に必要なかった。
         
                  目印ばかりの道                         ロープ場

 送電線の下に入り上を見上げると巨大な蜘蛛の巣が掛かっていた。この蜘蛛の巣では払っても落ちないけど
面白い形に見えるものですね。送電線といえば他の人のブログを見てると「○号鉄塔」とか号数を書いてある。
あの号数はどうして分かるのだろう。この鉄塔もそうだが号数の表示は無い。それでも近くに巡視路の標識が
あれば見当がつくが、書いてあるのは直接その号数でなく、次と手前の鉄塔の番号だ。「21号鉄塔」「19号鉄
塔」
とあればこの鉄塔は20号と判断できるが、その標識は近くにある事は少ない。
 今年何回も登った大崩山塊の富士見峠近くの「28号峰」は珍しく鉄塔に標識があったので自信を持って書く
事ができた数少ない鉄塔だった。

 道の脇に鎌が吊るしてあった。柄には「登山道用草刈鎌」と書いてある。そうか夏に雑草が生い茂ったとき
この鎌で草を刈るのか。竜爪には黒いシートもそうだったが道の保全に力を入れてくれている。

         
                  送電線                          鎌が

 さっきからミツマタがチラホラ咲いていると思ったら今度は林の中に群生していた。今迄1本2本のミツマタは
見た事があったが、こんなに群生しているのは初めて見た。ミツマタといえば紙の原料だが、日本の紙幣は
ミツマタを原料に使う事で丈夫な紙幣が出来るのだと聞いた事がある。
静岡県で紙といえば吉原だが、アッ!思い出した。2011年に駿河一国33観音で富士宮を歩いたとき、たしか
紙に関する神社があった。家で調べてみると駿河一国33観音27番札所大悟庵でその神社の事が書いてあった。
神社の名前は「倭文(しどり)神社」。アレーこれでは賎機の古名だと私が断じた名前と一緒だが、倭文は
織物のはずだ。では倭文神社の由緒書を見てみよう。
「健羽雷神は星山に永住し、織物製紙の業を興したので、諸神の崇敬を集め当神社に祀られた。
元来当地方には、藤、三椏、楮等が山野に自生して居り、加えて清冽なる湧水も豊富であったので、かかる
産業が必然的に発達する素地があったと解される。今日富士地方は世界的に有名な紙の産地として知られて
いるが、その起源は茲に在るとされている。」
フーン、紙も織物も同じ神様だったのか。
日本の神様は多い上に名前が難しくてとても覚える気にはならないが、浅間神社の神様の中に織物や製紙に
関する神様がいれば面白いと思い調べ出したが。止めた。私には難しすぎる。

 それよりミツマタでこんな事を書いてあるものがあった。
「ミツマタという呼び方は、今日では一般的な呼び方ですが、昔は駿河、伊豆地方の方言のようです。
ミツマタは日本固有の製紙原料ですが、紙原料としてミツマタを使用し始めたのは、今から400~500年も
以前からであるといわれています。また、計画的に生産されるようになったのは、今から200年前現在の
静岡県富士宮市の白糸の滝近くで栽培されたのが最初と記録されています。
ミツマタは日本にも自生物があり、この天然のミツマタから種子を採取して静岡、山梨の両県で最初に栽培され
るようになりました。重要な原料としての需要が増大するに伴って、栽培が次第に中国、四国地方に広がって
いきました。今では岡山県の生産量が第一位で、高知県、徳島県、島根県、愛媛県の順で生産されています。」


 
                  ミツマタの群生                      ミツマタの花

 さっきからズート登っているが若山に中々着かない。2時間たってもそれらしきピークはなかった。標識の表示も
若山もあったが殆どは竜爪山か文珠岳だ。
登り続けて12時半。やっと東海自然歩道と合流した。確か若山は東海自然歩道と合流する辺りにあった筈だが、
標識の文珠岳方面は少し下り気味で、牛妻と書かれた方は上りになっている。若しかして若山はこの牛妻方面に
あるのか。と思ったが既にそちらに向かう気力は無かった。
 そこの標識にはご親切に文珠岳までの距離が1.6km、時間が60分と書かれていた。これが疲れるのですよね。
書かれている時間より遅くなると気分が悪いので、どうしても頑張ってしまう。結果到着した時は疲れ過ぎ状態。
東海自然歩道の標識は次から次へと出てきて、その都度時間が気になってしまった。下りになると時間を短縮し
上りになると超過する。その結果文珠岳までは55分で到着。標識のタイムより5分短かった。これで気分が良く
なるのだから安いものだ。

 少し戻って自然歩道と合流して15分ほど登った所に則沢へ行く道標が建っていて、そこには「送電線巡視路
につき自己責任で」
と書かれていた。
 後日松理さんのブログに「則沢から送電線巡視路を歩いて竜爪に向かう途中でミツマタの群落があった」
書いてあったので、てっきりこの巡視路を歩いたのかと思ったが違ったようだ。この山中にはミツマタの群落が
あちこちにあるのだろう。

 
                東海自然歩道の標識                      即沢への標識

 大崩山塊では見た事のない花がある。小さな青い花は何となく見た事があるが、中央のピンクの花は初めてだ。
他にもまだ葉っぱしかないが、周りに木を差して踏まないよう保護している。花が咲くのかな?
自然歩道と合流部の前には紫のツツジが咲いていて、その近くにはシャガの葉を細くしたような草が一面に生えて
いたが、あれは何だったのだろう。花は咲くのかな?

 
                  ?                             ?

 後ろを振り返ると三角のピークが見えていた。あれが若山だろうか、あんなに下った覚えはないが位置的に
若山としか思えない。今時間は1時丁度。合流部から25分経ったのであと30分も歩けば山頂だろう。
 途中の以前歩いた事のある則沢の分岐を過ぎ、フーフー言いながら標高1041mの竜爪南峰文殊岳に1時半に
到着。静岡駅から約7時間30分。赤鳥居からだと7時間、桜峠から4時間弱の行程だった。
思ったより時間が掛かってしまい当初目論んでいた、竜爪へ12時までに着いたら真富士方面にある富士見峠まで
行ってみる件はあえなく中止。さすが1000m級だけの事はある。

 
                   若山か                        文珠岳山頂

 ウワー! 富士山が見えている。前回文珠岳に来た時は曇っていたのか富士山は見えなかったので、竜爪から
富士山は見えないのかと思っていた。でもその認識は変えなくては。
この程度の富士山が見えて喜ぶのだから可愛いものだ。
 山頂からは静岡市街や清水市街も見えているが霞んでいてはっきり見えない。それでも清水港の折戸湾が
こんなに近くに見えるとは思わなかった

 
                  文珠岳から富士山                    文珠岳から清水方面 

賎機山から竜爪へ

2014-04-14 13:15:03 | 低山歩き
 歩行記録      歩行月日2014年4月12日(土)
歩行時間:10時間25分 休憩時間:1時間10分 延時間:11時間35分
出発時間:6時05分   到着時間:17時40分
歩 数: 43、020歩   GPS距離:26.3km
行程表
 静岡駅 0:20> 赤鳥居 0:20> 140m峰 2:05> 福成神社 0:25> 桜峠 2:35> 東海自然報道合流
 0:55
> 文珠岳 0:15> 薬師岳 0:30> 穂積神社 0:45> 旧道入口 0:35> 平沢バス停 1:15>
 国1バイパス 0:25> 草薙駅
観歩記
 以前誰かに「安倍峠から賎機山まで尾根道が続いている」と聞いた事がある。勿論私がそんな大それた
ルートを歩く事も、考える事もないが、その末端の竜爪から賎機山までは歩いてみたいと思っていた。
それが見ているブログで最近竜爪の事を紹介しているの読み、その気になってしまった。

 コースは賎機山から登るか、竜爪から下るか悩んだが、駅から直接登山路に入れる賎機山の方が
何に付けても便利そうなので賎機山出発とした。
以前「安倍山系」の著者の松理さんと山で会ったとき、このコースの状況を聞くと
「安倍山系は新東名が出来る前に書いたので、その辺りが分からないが、他は分かりやすい道」と聞いていた。
そこで最新の情報を求めて「ヤマレコ」で検索したところ
「新東名には分かりやすい写真入りルートが掲示されていた」
とその写真が紹介されていた。
それなら大丈夫だろう。

 例により始発電車で静岡に。退職するまで通勤していた静岡のメイン通りを歩くのは久しぶりだ。
お上りさんになったようで市役所や県庁の写真を写してしまった。

 
                 静岡市役所                       静岡県庁

 浅間通りの入口に立派な常夜燈がある。この常夜灯は馬場町の常夜燈等として静岡市で二つ指定されている
文化財の常夜燈の一つです。もう一つは安西橋の袂にある常夜燈ですが、こちら駿河百地蔵のとき紹介しました。
この秋葉神社の常夜燈を辿って行けば、遠江の秋葉山に通じているかと思うと一度歩いて見たい気もする。
「駿府の秋葉みちを行く」とか名付けちゃって。

 浅間通りには以前は山田長政の生家跡の石碑があったが、今日目に付いたのは山田長政の胸像だった。
丁髷が無く洋服を着ているので一見現代人のように見え、台座には「山田長政像」とあるだけなので、知らない
人は「昔の市長」かと思ってしまいそうだ。山田長政については以前に話したので今日は止めておきます。
丁髷で思い出した。静岡で銅像といえば徳川家康を思い出しますが、駅前にこんな可愛い竹千代君がいました。

   
           馬場町の常夜燈           山田長政像             竹千代像

 浅間神社の赤鳥居を潜った先は「大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)」だが、そんな名前で呼ぶことは
少なく、一括して「浅間さん」と呼ばれている。その神社で今日の無事を祈って一例をした。
その神社の右手から竜爪いや安倍峠まで通じる長い山脈の上り坂は始る。
まだ6時半だが早朝登山の人達が何人も上から下ってくる。丁寧に挨拶をしてくれる中で、私のザック姿を見て
「鯨ヶ池まで行くのですか?」と聞かれた。
「イエ竜爪まで行く予定です」と内心自慢を感じながら答える。相手が感心して「健脚ですなー」と言ってくれると
更に気分を良くするのは古稀になっても変わらなかった。困ったものだ。

 「賎機山古墳」の看板を見て久し振りに寄ってみた。久し振りと言っても前回来たのは40年か50年前なのだが、
当時に比べると古墳が大きくなった感じがする。かすかな記憶では、道の横に穴が開いてるだけの古墳だったと
思う。きっと整備した結果、円墳の形が現れて大きく感じるのだろう。

 案内板の記述の中に、古墳に使われている重さ14tの石は大崩海岸から運んできたと書いてある。
14tですよ、14t。現代でも大型トラックでしか運べない重さの石を、今から1500年も前に大崩から運んで
きたとは驚きですよね。修羅などを使って引っ張って来ただろうが大したものですよね。
古墳と神社とどっちが古いのかと思い浅間神社のHPで調べてみると
・神戸神社-2100年前
・賎機古墳-1500年前
・大歳御祖神社-1200年前
・浅間神社-1100年前
となっていた。これによば古墳ができる前に神戸神社はあった事になるが、ならば古墳を記録した物があっても
良さそうな気がする。それに古墳の主がそれ程の実力者なら、豊臣秀吉が死後に豊国大明神となり、家康が
東照大権現になったように自分が権現にはなれなかったのだろうか。
何でも神様にしてしまう八百万の神の信徒も、地方人には厳しかったのだろうか。

(実は浅間神社のHPを見て初めて知った事がある。これは案外知られていないので紹介しておきます。
「当社では御本社「浅間神社」は「あさまじんじゃ」と申し上げ、神社全体を指す場合は静岡浅間神社
「しずおかせんげんじんじゃ」「おせんげんさま」と申し上げます。本来は「あさま」と申し上げましたが、
その読みに浅と間の文字を当てたのが「浅間」で、後世音読して「せんげん」と呼ばれるようになった
ものです。」
の説明と、神社の写真のローマ字は「Asama-Jinja」となっていた)

 
               赤鳥居                              賎機山古墳
               赤鳥居の地図
 途中にあった静岡市教育委員会が建てた「賎機山ハイキングコースのご案内」を見ると、標高140mの所を
山頂とだけ書いてある。表題が賎機山となっているのだから、山頂とは賎機山山頂と思えるのだが、ネット等は
この140m峰を浅間山と賎機山が混同して書かれている。
この140m峰には、静岡空襲の犠牲者を祭った観音塔と、B-29搭乗員の供養塔があり毎年慰霊祭が行われ
ているが、ニュースなどでは賎機山と紹介されていたと思う。
それが何故浅間山になるのか、二つの事が思いつく。一つはこの140m峰には三角点があり、名前が「浅間山」
となっている。二つ目として、この先に171m峰があり、この場所が「賎機山城址」となっている。
それにより171m峰を賎機山、140m峰を浅間山とする人がいるようだ。
因みに松理さんの「安倍山系」は140m峰を浅間山としている。
では140m峰を「浅間山」とした場合、「あさまやま」なのか「せげんさん」なのか「せんげんやま」なのか???
これを統一するには、最近高草山に立ったような山名杭を建てれば解決するでしょう。
「賎機山 140m」 Or 「浅間山(ルビ) 140m」 なんてね。

 その何て言うか、ともかく140m峰からは静岡市内が一望できる所なのだが、今日は靄が掛かっていてはっきり
しない。それでも富士山が薄っすら見えていたが写真で見えるでしょうか。
 眼下見える寺と墓地は多分臨済寺だろう。新聞に本堂を修復中とあったが、山門の後ろの建物はネットで覆わ
れていた。

 
              賎機山から富士山                          賎機山から臨済寺

 140n峰までは道は何本もあった140m峰からは道が一本に絞られ、早朝登山の人も一挙に居なくなった。
だがここからの道は魅力を増した自然林の尾根になる。名前は分からないが太い木が所々にあり、その根は
丈巾の高い板根のように延びていた。街の近くにこんな魅力のある道のある静岡市は恵まれている。それに
静岡にはここだけでなく谷津山や八幡山も街の中にあり早朝登山が行われている。
私の住んでいる大井川の河口周辺は、平らな道ばかりで毎日の歩きが飽きてしまう。こんな場所があれば
歩くのが楽しいうえ、アップダウンもあり脚力の減退を防いでくれるだろ。
何しろ平成の大合併前の大井川町は、標高が一番高かったのは東名高速だったのだから、日本一平均標高が
低い町だったのではないかと思っていた。

 140m峰から15分ほどで問題の170m峰の「賎機山城塞址」に到着。案内板には
「賎機山城は南北朝の動乱期に、北朝方の今川氏が安倍川西岸の安倍城に陣取る南朝方の狩野氏に備えて
築き、南北朝期以後は今川館の詰城としての役割を果たしたと考えられている。
永禄11年(1568)には武田信玄の駿府進攻によってその支配に降り、その後徳川家康の駿府入りにより廃城と
なった。(中略) 城の中心部は今川氏歴代の菩提寺である臨済寺を、ほぼ真下に見下ろす尾根の上にあり、
三つの主要曲輪から構成されている。この曲輪部分は城の中でも最も標高の高い尾根上にあり(173m)、
静岡平野を一望に見渡せる高所にある。静岡市教育委員会」 
とある。
この狭い空間が賎機山城の本丸とすると随分小さな城しか造れない。では何故先ほどの140m峰の広場に
本丸を造らなかったのだろう? 

 昨年歩いた駿河百地蔵では、南北に連なる賎機山山陵の西側も東側も歩いている。そのとき西側にあった
長栄寺の案内板には「永禄10年(1568)武田信玄が駿河に侵攻の折り、賤機山の砦にいた姫君が家宝を持って
当地に逃げてきた。
とあった。
今川の御姫様が逃げ込んだにしては随分小さい空地で、ここに本丸? とどうしても思ってしまう。
 この城址跡を少し行った鞍部には人為的とみられる掘削箇所があったが、そこが掘割跡かもしれない。
いやここが臨済寺と長栄寺を結ぶ間道かもしれないなど空想は膨らむ。だがその掘割の左右にはロープが張られ
通行止の看板があった。

   
             名前は分からないが大木が道の所々にある            賎機山城塞址
              賎機山城跡と思われる場所

 紫陽花の丘?とかの辺りから家庭菜園的小規模な畑が道の左右に出始めた。麓から農具や肥料などを
持ってここまで来るのも大変だが、水はどうするのだろうか。自然の雨まかせでは野菜は育たないだろうに、
まさか下から背負ってくる? それも大変だ。

 所々で視界が開けていて左右の景色が見える。左の安倍川方面には大崩山塊の徳願寺の尾根が見えている。
いつもと見る方向が違うので山名が分かるのは梵天山位のものだが、こうしてみると低い山だ。
 右側後方には静岡市の中心部が霞んで見える。安倍川方面はスッキリ見えていたのにどうしてなのだろう。
排ガスとか光化学スモックが発生するほど静岡市は都会ではないのに。

 
            西側に見える徳願寺の尾根                 東側の静岡中心部

 二本杉の標識の付いた杉の木の場所から、5分ほどで初めて前方が開けて見えた。ウワーあれが竜爪か。
竜爪の手前にはまだ賎機山稜が続いていて、その先には新東名が見えている。あの辺りに賎機山稜と竜爪を
わける桜峠があるのだろう。さすが500m級の大崩山塊と違い、1000m級の竜爪は遠い。麓に辿り着くまでで
疲れててしまいそうだ。
 左の方には安倍川を渡る新東名の鉄橋が見える。あの鉄橋には歩道も付いていて駿河一国百地蔵を歩いた
ときに渡っている。あの時は暑い時季だったが、車道の下にある歩道は日影で川風が吹いていて涼しかった。
今ここの温度は手持ちの温度計で12度。日影は歩いていて涼しいが、日向は暑く感じる程度で爽やかだ。

 竜爪から右に尾根を辿って行くと二つのピークが見えるがあれが高山だろう。以前に高山から竜爪を歩いたが
なだらかな尾根が続き歩きやすかった覚えがある。こうして見ても確かに楽そうな尾根だ。その左には富士山も
見えているが薄すぎて写真には写りそうもない。

 ここには一本杉の標識があるがどれが一本杉だか分からない。だが赤鳥居から約1時間の場所で眺めも良く
草の空地もあるので休憩には丁度良い場所だ。林の入口には三角点もあった。

 
           二本杉の標識                       遥かかなたに竜爪が

 右の下の方に麻機沼が見える。沼といってもこうして見ると四角く区分されていて、沼と言うより溜池だろうか。
この麻機や賎機の地名については駿河百地蔵3-11で紹介したが、そのとき賎機について
「麻機では麻の織物、服織では絹の織物、そして賎機はいやしい人の着る織物、すなわち木綿の織物を織って
いたとされています。」
と受売りをしてしまった。だが最近面白いいやこちらが正解だと思われる解釈を見つけた。
「倭文(しず)=古代の織物の一つ。麻などの横糸を青や赤に染め、乱れた模様に織ったもの。」
「倭文機(しずはた)=倭文を織る機。」

こうなると賎機は元々は倭文機と書いていたのが、いつしか賎機になったと考える方が自然だろう。
そこで訂正します。「賎機は元は倭文機と書き、乱れ模様の織物を織っていた」 と。

 福成神社に9時到着。神社の案内板の最後に「武田の裏街道の宿泊所となる」の一文が書かれている。
これは一体何を言いたいのか?武田の駿府侵攻後は、当然駿府と甲府とは行き来が盛んになり、街道も
整備されただろう。私の知識でその街道の場所を考えると
一・駿府から東海道の興津に出て、身延道である現在の国道52号で甲府に出る。
二・駿府から瀬名を通り、竜爪の穂積神社から興津川の小島へ抜け、興津からの身延道に合流する。
三・駿府から安倍川を遡り、梅ヶ島温泉に泊まってかから、安倍峠を越して身延道に出る道。
このうち福成神社を通るのは、三の安倍峠を越える道になるのだが、駿府からわざわざこの賎機山稜の尾根道を
歩くだろうか。当時は安倍川が現在より東の山稜の麓を流れていたとも考えられるが、それなら賎機山稜の東側を
歩けば良い。それに足の遅い私でも駿府の赤鳥居から福成神社までは2時間半で来ている。
こんな近距離で宿泊場所??? ?マークが幾つも付いてしまった。

         
                   麻機沼                         福成神社
               福成神社の地図
 この福成神社で今日最初の道に悩んでしまった。神社の左手には公的な標識が建っていて「鯨ヶ池」となっている。
ここまで標識は鯨ヶ池を目指していたので問題はないのだが、たまたま神社の左手にあった貼紙が目に入った。
そこには「縦走路」と書かれている。竜爪に行くには鯨ヶ池を通る必要はないので当然縦走路の道を選んだ。
そしてその縦走路をほんの少し行っただけで農道の開始点(終点)に出てしまった。
農道は当然下に下がっている。だが私は尾根を縦走するのだから、このまま下っていいわけがない。さて困った。
神社からの道と「く」の方向に山道はあるが標識は無い。まだここは神社の近くだ。戻っても多寡が知れていると、
その山道に入った。すると今度は2・3分の所に公的標識が建っていて、直進は鯨ヶ池、左は福成神社となっていた。
これなら神社の左にあった標識に従った方のが簡単で分かりやすかったのではないか。それなら何故「縦走路」
貼紙があったのだろう。疑問と若干の不安を感じながら歩くはめになってしまった。
 その心配も神社から15分の所にあった「サクラ峠の」標識のある分岐で解消した。

 竜爪が近くに見えてきた。今までは山頂のピ-クは二つ見えていたが、ここでは三つ見える。手前に見える山は
若山なのか。何か急傾斜の植林された山のように見えるが、この様な山は大変なだけで面白くない。
それよりまして若山と竜爪の間はどうなっているのだろう。余り下らなければ良いがと不安を感じるだらしなさ。

 
                鯨ヶ池と桜峠の分岐                竜爪が間近に

分岐から一山越すと新東名が目の前に見えてきた。新東名の下に見える道は鯨ヶ池からの道だろう。
ここまで来れば桜峠は近い。
 9時35分桜峠に到着。赤鳥居から約3時間掛かってしまった。誰かのブログに「赤鳥から鯨ヶ池までは、大体
2時間」
 と書いてあったが随分遅くなってしまったものだ。
 桜峠には石仏と共に「東の麻機、西の賎機、南の浅間神社、北へ竜爪、へと至る重要な峠でした。」
案内板があった。
 古代にはこの峠の東側には麻を織る麻機(あさばた)。西には倭文(しず)を織る賎機(しずはた)と絹を織る
服織(はとり)があったのだから確かに重要な峠だったのだろう。
 大陸や半島から渡ってきた渡来人が、安倍川周辺に住みつき織物をしながら暮らしていた。倭文に必要な麻を
麻機の若者が背負って賎機に運ぶ事もあっただろう。そして倭文織の乙女との間に恋が芽生え・・・・・・・
古稀になっても馬鹿は治らない。峠の石仏の製造年は分からなかったが古い物ではなさそうだ。

 
                新東名                          桜峠

大崩:十字縦走2

2014-04-11 16:14:41 | 低山歩き
 歩行記録      歩行月日2014年4月6日
歩行時間:66547時間10分 休憩時間:1時間25分 延時間:12時間35分
出発時間:6時00分   到着時間:18時35分
歩 数: 44、883歩   GPS距離:27.6km

行程表
 安倍川駅 1:10> 朝鮮岩 1:00> 丸子富士 0:25> 満観峰 1:10> 高草山 0:55> 花沢駐車場 0:30>
 砂張屋道標 1:30> 花沢山 0:15> 日本坂峠 0:50> 満観峰 1:10> 蔦の細道 0:20> 宇津ノ谷峠 0:20>
 道の駅
 1:30> 安倍川駅 

 観歩記
 花沢観光駐車場から東名高速、国道150号、新幹線のガードを潜り野秋のに入る。
このの入口にある須賀神社の縁起書には
「日本武尊がこの地において野火の難にあわれたため、かっての村名を野焼村といい、社号を野焼神社と
称したいう。実際、諸郡神階帳に「正四位下 野焼神社」とある。
しかし疫病が流行し、民家もたびたび焼失したため、焼という字を改めて村名を野秋とし現在の社号にした」

と中々興味深い記述がある。その野焼いや野秋を通り、東海道線のガードを潜ると砂張屋の道標に
続く山道になる。
おや、ここにもシキミの花が咲いていると、香りを嗅ぐため葉を丸めて鼻に近づけてみた。確かに仄かだが良い
香りがする。成程、だからコウバナ(香花)と言うのかと納得。
このシキミに毒がある事は古稀山の折に紹介したが、ウィキペディアにはこんな紹介もしている。
「シキミの花や葉、実、さらに根から茎にいたる全てが毒。特に種子には毒が多く、食べれば死亡する可能性が
ある程度に有毒である。実際、事故が多いため、シキミの実は植物としては唯一、毒物及び劇物取締法により
劇物に指定(毒物及び劇物指定令(昭和40年政令第2号)第2条第1項第39号「しきみの実」)されている。」

エーッそんな劇薬指定の植物があちこちで栽培しても良いのか?
疑問を感じて、毒草で有名なトリカブトを調べたが、こちらは毒物指定にはなっていない。
以前トリカブトを使った保険金殺人が世間の耳目を集めた事があったが、トリカブトと違いシキミなら容易に
手に入る。何しろお彼岸の頃はマートにもシキミは売られ、根の付いたシキミも地域によっては売られている
状態なのだから。オッと悪心を抱かないでくださいね。

 山道の入口のお地蔵さんに手を合わせ山道に入る。

  
               シキミの花                      地蔵と通行禁止の貼紙

 期待していた二輪草はまだ早すぎた。それでも10日前の静焼アルプスで通った時は3・4輪しか咲いていな
かったが、それよりは大分増えている。二輪草の株も去年より増えているので期待は持てそうだ。
花の盛りは2週間後くらいではないだろうか。そう4月20前後かな。、

         
             二輪草の群落                     二輪草

 砂張屋の道標の所には当然簡保下までの通行止の貼紙はある。その横で昼飯を食べながら貼紙を読んでも
通行止め解除の事には触れていない。尾根の下を通る旧150線さえ復旧の目途が立っていないのだから、山の
上のハイキングコースの復旧なんて更に遅くなるだろう。当分この道は諦めるしかなさそうだ。

 昼飯を終え大日堂の切通しを通る。この道は今はハイキングコースとしての役目しかないが、江戸時代には
久能方面と焼津を結ぶ道として利用されていて、その折にはこの大日堂に手を合わせたという。
その大日堂の祠から2分程の所に焼津市の建てた標識が有るが、今日はその標識を無視して違う道を進もうと
思っている。

 
              砂張屋の道標と通行止の貼紙                 大日堂と切通し

 前回静焼アルプスを歩いたとき 「簡保下へ」 と書かれた新しい標識を目にした。その標識はこの先にある
道了権現より花沢山側にあり、そこから海側を下るようになっていた。道々その出口を気にしていて、見つけた
のが、この切通しの先の標識だった。
その事をブログで紹介すると、松理さんがコメントを書いてくれて
「現在は,道了権現の場所を縦走路が通っていますが,15年ほど前は,公的道標の所で簡保側から見ると
直進し,尾根の右下を進んで,道了権現の東方にある鞍部に行っていました。
 その道を何年か前に調べたところ,一部が崩れていまして,それが閉鎖された原因だと思われます。」

と教えてくれた。なら多分この道がかっての道で、この先は新しい標識の所に出るのだと判断していた。

 10日前には満開だった桜が葉桜になっている道を直進する。平坦でハッキリした道を1分も行くと道は崩れ
始めていたが踏み跡は付いている。そこを通り過ぎると大崩山塊ではお馴染みの、茶色の擬木の杭や砂止の
板が崩れた状態で残っていた。ここが崩壊したためハイキングコースを尾根に変えたのだろう。

 
                この標識を無視して直進した              砂止めの跡がある。

 更に5分も行くと。今度は 「かんぽ下 花沢山頂」 と書かれた、それこそお馴染みの公的標識が建っている。
ウン!これなら間違いはない。さっきの少しガレた場所が問題個所で、あとは大丈夫だろうと安心した。
その標識から踏み跡を辿って行くと、すぐに踏み跡が三つに分かれてしまった。
まず、上に行く踏み跡を行くとザラザラのガレ場で、石の中には擬木の折れた物も混じっている。上を見ても
踏み跡は無く戻る事に。
次に真っ直ぐ伸びた踏み跡を、蔓や木の枝を避けながら行くとミカン畑に遭遇。下には元小浜の浜と民家が
見えている。ミカン畑は上は尾根の近くから下は旧国道まで続いていて、その周りは高圧線を廻らしてあった。
まず尾根に向かう高圧線に沿って登ったが道らしき跡は無い。その先を見ても道は無く、例えミカン畑の上に
登っても最後は藪を登らなければならない。
また分岐点に戻り、斜めに登る踏み跡を行くと、杉の木にビニール紐が巻かれていた。最近の物ではないが
多分これは目印だろうと先に進んだが、さっきと同じミカン畑の横に出てしまった。

 
               こんな標識があった                  ミカン畑から元小浜集落

 この道に入って既に15分経った。今戻ればロスタイムは30分以下で済む。ここを強引に行っても尾根道に
出るだろうが、若し引返す羽目になったらロスタイムは1時間近くなってしまうだろう。
そうなると安倍川駅到着は7時半を過ぎてしまう。止めよう、静焼アルプスと同じように十字縦走も途中で止め
るのは嫌だ。と引返す事にした。
 少し戻って上を見れば尾根と思える場所は、ほんの10mほどしかない。道は無くガレ場だが危険は感じない。
エイ!行ってしまえ。と登り出すと、たった5・6分で尾根道に遭遇した。お蔭でロスタイムは20分程度で済んで
しまった。アー良かったナー。
 出合った尾根道は、道了権現を越した鞍部から登りになった所で、前回見た新しい標識は多分もっと先に
あるのだろうと歩き出す。その新しい標識は、擬木の階段を登り7分も掛かった所にあった。
新しい標識の日付は2週間前の「2014-3-22」となっている。今歩いた道の状態ではとても2週間前に、道を整備
したとは思えない状態だった。となるとこの標識の先は何処に行くのだろう。いずれにしても
・ミカン畑の上を行く ・ミカン畑の中を横断する ・ミカン畑の下の旧国道を行く
の三つしかないと思うが、今歩いた感じではいずれれの道も余り価値を感じられない。
尤もこの標識から歩いた訳ではないので大きい事は言えないが。

 道了権現のピークを通る道には一つメリットがある。ここ簡保の尾根は東西に連なる尾根で、その東側には
主峰の花沢山があって東に位置する富士山を見る事が出来ない。だがただ一ヶ所(私の知る限りでは)道了
権現の裏に日本平と富士山が見える場所がある。そのメリットを考えれば中腹の道より、道了権現経由の道の
方が良いように感じる。

         

          目印らしい紐                   新しい標識

 余計な所を歩いて疲れたのか石部峠手前のピークの登りが大変だった。そのピークを少し下った所に公的
標識と共にテープや紐の目印が付いている。ここは314峰経由で兎沢遺跡に通じる道の入口だが標識は無い。
だがここを少し入って行くと手作りの標識が付いている。つまり尾根道を歩く一般のハイカーの目に、標識が
見えないようになっている。これは一つの見識だと思う。ハイキングコース脇の標識に「花沢へ」などと書かれ
ていれば、ハイカーが入り込む恐れがある。その危険性を防いでいるのだ。
 その点先程の標識は尾根道脇にあり誰でも目にすることができるので、私のような物好きが居ないとも限ら
ない。あまり整備されていない道の標識は、一般道から見える場所には安易に付けるべきではないと思う。

 そんな事を思っているうちに石部峠に到着。ここから花沢の水車小屋への道は、以前は標識が無く目印だけ
だったが今は手製の標識が付いている。だがこの道は整備され誰でも心配なく歩けるし、どちらかと云えば
公的標識があった方が良いと思う。
 一方反対側の石部の海岸に下る道は、下るには支障ないが、登りは若干注意がいる。だがこちらも手製の
標識が付いていて、さらに面白いのは、この峠から10m程上の道の無いような所に、公的標識が「石部」として
建っている。本来ならこの標識をここまで降ろしてきて、水車小屋への行先を追加するのが一番だと思うが。

 さて十字縦走後半の最難所花沢山の階段が始まった。下を向き一歩一歩と歩いて行くと案外簡単に階段が
終わった。ホッとしながら桜がチラチラ舞い落ちる中を、用宗からの道の合流部に向かう。幹に大きなこぶを
抱えた桜も今は花びらを盛んに散らしていた。

 花沢山に1時半に到着。新しい標識の事が何か書いてあるかと思い、山頂ノートを見たが何も書いてない。
それより簡保下から縦走してきたと云う記述が幾つかある。日付を見ても最近の物だ。
一体どういう訳だ。以前は通行止の貼紙がなかった砂張屋の道標の所にも、最近になって通行止の貼紙が
貼られたという事は、崩壊が進んで来たのかと思ったがどうやら違うようだ。
 私の場合は、このような通行止の表示があれば無理して歩かないようにしている。だがどうも正直者が馬鹿を
見る場合が多い。例えば2011年の台風で日本坂峠が倒木で通行止になったとき、私は貼紙を忠実に守った。
だが実際は早い段階で復旧は終わっていたのに貼紙だけが残っていたようだ。同じ台風で薩埵峠から浜石岳の
尾根も倒木で通行禁止になった。知らずに現地に行った私はその貼紙を見て引返した事がある。だが実際は
皆通っていた。さらに昨年には海から富士山を早い段階に行きたかったが、富士宮口が通行止だったので解除
されるまで我慢した。だがこれも実際は何の支障も歩いていた。
 役所も何か事故があれば責任問題になるので、ズルズルする例が多くなるのは分かるが、もう少し実態に
合わせてくれればと思う。それには地元愛好会などの協力を仰げばスムーズに行くと思うのだが。

 
                  花沢山の反射板             花沢山の航空灯台の土台と山頂ノート箱

 花沢山は以前にはこんなに景色が見える場所は無かったように記憶しているが、最近では静岡側も焼津側も
綺麗に見える場所がある。静岡方面は相変わらず雲が多く富士山は見えていない。一方焼津側は雲が少なく
明るく見えていた。

 
                   静岡市街                       焼津市街

 高草山側から見て桜の多かった三角点の山は、反対から見ても山桜が多かった。矢張りその理由は植林の
際に桜を残して植えた人がいたからだろう。きっとその植林をした人は私のように花を愛する人だった??

 日本坂峠は先ほど紹介した2011年の台風の時の倒木が残っている。だがこの倒木のお蔭で日本坂峠は明るく
なり、少し上がれば富士山も見えるようになった。

         
             丸子富士と三角点の山                    日本坂峠
 
 富士山の裾野と雪の部分が少し見えるようになった。この分では満観峰から久し振りに富士山が見えるかも。
チョット富士山がハッキリしないが丸子富士の横に見えていた。このように本物の富士山と並んで見える山に、
富士の名前が付けるなら、もっと立派な山容の山にして欲しかった。きっと丸子富士の名前を付けた人は、ここ
から二つの富士を見た事がなかったのだろう。

 残念! 満観峰からは富士山は見えなかった。時間は3時。2人のハイカーがいた。

 
             丸子富士と富士山                  満観峰山頂

 444m峰を過ぎた辺りから突然暗くなって風が音をたてて吹き出した。ヤバイ!雷雨がくるのか。
顔に当たる雨が痛い。これは雨ではなく霰か雹だ。困ったぞ、今日は合羽を持ってきていない。
霰か雹は一瞬の事で次は大粒の雨が顔に当たる。足は自然に早くなり、よくこんな元気が残っていたと思う
くらい足早になる。これで雷が鳴りだしたらどうしよう。雷のときは大きな木の下は避けると言うが、回りは
皆高い木ばかりだ。こんな場合をどうしたら良いのだろう。高い木を避ける訳にはいかないので、触らない
ようにすべきかなど考えながら歩く。
お蔭で雨もほんの短い間だけで止んだので助かったが、風は相変わらず強いままだ。それでも雨も雷も無い
ので一先ず安心した。

 いつ風が止んだのだろう。蔦の細道に着いた時は無風状態で陽が射している。いやいや青空も出ている。
何とも変な天気だったが、この程度で済んで助かった。富士山は結局最後まで顔を出してくれなかった。

蔦の細道まできてしまえば十字縦走は完歩したも同然だ。慌てる事もないのでゆっくり宇津ノ谷峠に向かう。
そして最後の最後の難所(?)の峠への道を滑り降りて宇津ノ谷峠に4時45分に到着。
これで健脚コース2本の豪脚コースを完歩したが、今日はまだこれで終わりではない。この先には安倍川駅
までの8km余りの車道歩きが残っている。頑張らなくちゃ。

          
              蔦の細道                          宇津ノ谷峠への下り

 宇津ノ谷峠を見降ろす場所に山ツツジが咲いていた。こんなツツジが山の中にも咲いていれば、大崩山塊は
もっと人気のある山になるだろう。 

 
              宇津ノ谷集落                      石仏と桜

 途中のコンビニで氷結をしっかりゲット。だが安倍川駅が工事中でいつも休む屋上の休憩所に入れない。
アレー山では見えなかった富士山が見えている。意地が悪いなー と富士山を睨みながら乾杯した。

  
                         安倍川駅からの富士山

大崩:十字縦走

2014-04-09 11:17:44 | 低山歩き
 歩行記録      歩行月日2014年4月6日
歩行時間:66547時間10分 休憩時間:1時間25分 延時間:12時間35分
出発時間:6時00分   到着時間:18時35分
歩 数: 44、883歩   GPS距離:27.6km

行程表
 安倍川駅 1:10> 朝鮮岩 1:00> 丸子富士 0:25> 満観峰 1:10> 高草山 0:55> 花沢駐車場 0:30>
 砂張屋道標 1:30> 花沢山 0:15> 日本坂峠 0:50> 満観峰 1:10> 蔦の細道 0:20> 宇津ノ谷峠 0:20>
 道の駅
 1:30> 安倍川駅 

      
 観歩記
「海から剣ヶ峰」挑戦資格審査第2弾「大崩:十字縦走」に挑戦しました。と、勝手に名前を付けて、一人悦に
入っているのだから笑ってしまう。それでも概念図を見れば何となく「十字」に見えるでしょ。
 海から富士山の1日目は海から六合目まで。翌日は剣ヶ峰までを往復しなければならない。近頃は足が
遅くなった事もあり、昨年は朝3時半から夕方5時までの13時間以上歩いて、やっと六合目に着いた始末だ。
こんな過激なコースは突然挑戦しても失敗するのは目に見えている。もし途中でダウンしたら原生林の中で
一晩過ごさなければならない。当然仮泊する装備はないし、あの原生林の中で一晩一人で過ごすかと思えば、
とても歩く気にもならない。
そのため海から富士山に登るために、この二つの資格審査コース歩くようにしている。

 静焼アルプスは距離は25km程度で時間は12時間。十字縦走は距離が28kmで時間が12時間から13時間。
数字上では十字縦走の方が大変そうに見えるが、実際歩いてみると十字縦走の方が楽に感じる。それは距離は
長いが山道が少ないからだろう。宇津ノ谷峠を下り、道の駅から安倍川駅までの1時間30分の8kmは全て下りの
舗装路だ。それに比べ静焼アルプスの舗装路は簡保下から焼津駅の2kmで30分以下しか無い。

 朝方まで降っていた雨も上がり、今日の天気予報は午前中20%で午後は雷雨の予報もあり、40%になっていた。
合羽は随分迷ったが持ってこなかった。荷物が重くなり途中離脱を恐れての事だが、随分気弱になったものだ。
 朝は前回と同じように朝靄が出ていた。富士山はどうだろう? 今日は富士山の眺めの良いコースなので、
是非とも富士山が眺められますように、と祈りたい感じの出発になった。

 朝鮮岩下の鉄塔の所に、今年最初のマムシ草が咲いているのを見つけた。やけに丈が短く、蝮の模様に似ている
茎が見えないくせに花だけは大きい。この食虫植物のようなマムシ草は、大崩山塊のどこでも見られるポピュラーな
花の一つでもある。マムシ草は花にも特徴はあるが、秋になると真っ赤な手榴弾のような恰好をした実を付ける。
花からあの実を想像することができないし、実から花を想像する事も出来ない変わった植物だ。

 矢張りヤマブキが咲いていた。この花も大崩山塊に多く、特に麓に多い花で、中でも農道脇の上から垂れている
ヤマブキは見応えがある。
ヤマブキといえば太田道灌の例の話を思い出したのでその一節を
『太田道灌が鷹狩に出かけたとき、にわか雨にあい、 みすぼらしい家に駆け込みました。
「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか」と道灌が声をかけたところ
少女が出て来て、黙ってそっと差し出したのは蓑ではなくて山吹の花が一輪でした。
山吹の花の意味が分からない道灌は「花が欲しいのではない」と怒り、雨の中に出ていってしまいました。
その夜道灌は近臣達にこの事を話したところ、近臣の一人が進み出て
「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・仲務卿兼明親王が詠まれたものに
【七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)一つだに無きぞかなしき】という歌があります。
その娘は蓑一つない貧しさを、山吹の花に例えたのではないでしょうか」
と言いました。
驚いた道灌は、己の不明を恥じて、この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。』


ですよね。でもここに咲いているヤマブキは七重八重ではなく一重だ。調べてみると山吹には一重咲と八重咲が
あるが特に八重咲が園芸種とも書いてない。さらに一重の山吹には実が付くが、八重には付かないというという。
すると道灌が暮らしていた関東地方には、八重の山吹が咲いているのだろう。
私は今まで七重八重の意味は花の形ではなく、山吹の枝が重なりあい、それこそ七重にも八重にも見える姿だと
思っていたが、どうやら勘違いのようでした。

 
              マムシグサ(蝮草)                   ヤマブキ(山吹)

 小野薬師寺の参道から静岡市街を覗き見すると、静岡市街は朝靄の中にぼんやり見えるが、その後ろに見える
筈の富士山はダメ。どうやら今日も縁のない一日になってしまうようだ。昨日は一日中ハッキリと見えていたのに
何とも口惜しい限りだ。これも日頃の心掛けが悪い証拠なのか。
 写真の左の山頂付近が、まるでジャンダルムのように見える山が佐渡山です。

 朝鮮岩からも富士山は見えなかった。山頂近くには山桜が咲いていて花びらが舞ってくる。そうだこんな花曇りの
時季に富士山を見たいと思うのがどうかしている。日頃の心掛けが悪いのではない。

 
              佐渡山と静岡市街                     朝鮮岩から静岡市街

 朝鮮岩を出るとすぐ道は二手に分かれる。実はこの朝鮮岩から満観峰までの間は分岐が多く、初めて歩く人は
迷う事が多いので、今日はその分岐道の話をしたい。
 まず朝鮮岩の分岐は、直進(右)は小さな岩場を通りピークを越す道で、左は岩場とピークを避ける平らな道の
巻道になっている。岩場といっても登りは杖を突きながら歩ける程度の登りで、下りは横に張られているロープを
少し利用する位の岩場です。ピークの上には芹ヶ谷峠に行く分岐点があります。ただし標識は無い。
岩場の嫌いな人とか団体の場合は巻道を利用すると良いでしょう。

 最初の巻道が合流した先に、今度は放置された茶畑の脇を入る巻道がある。その左の巻道側には最近付けられた
「朝鮮岩 ←バイパス道→満観峰」の小さな目印があるが、いつまでもつだろうか。
この巻道は二つのピークを巻いて小坂に下る分岐の手前で合流している。

 次の分岐は右の登りが縦走路で黄色の標識がある。左の下り気味の道は場所からいって巻道とは思えないので
まだ歩いた事はない。そこから少しの登った所の分岐は、どちらにも標識は無いが右がピーク越え、左がピークを
避けた巻道だが、どちらを歩いても大差はない。

 次の登りにさしかかる所にある分岐は、左の黄色の標識が「第一展望台」のある縦走路で、右が巻道になる。
展望台には第一と書かれているが第二展望台の場所を私は知らない。

 第一展望台から5・6分で次の巻道がある。ここにも左の登りの方に標識が有り「紅葉台」を通る縦走路になる。
右は林の中の巻道で、どの巻道も同じだが視界は一切きかない。
とはいえ、第一展望台も紅葉台も素晴らしい展望という分けではなく、視界が開けた場所と思った方が良いでしょう。
それでも紅葉台には「檀香梅」が1本あり、3月上旬に行くと黄色い花を咲かせている。この檀香梅は梅と書くので
梅の一種かと思うが、実際はクスノキ科の木なのに黄色の花を付ける。花の形は梅には似ていず、どちらかと言えば
ウーン!分からない。では何年か前にここ紅葉台で写した写真をアップしておきます。
 檀香梅を植物辞典で見てみると雌雄異株となっているがここの株はどちらだろう。秋に来て実が付いていればメス
かもしれないが、果たしてどちらか。それにしても何故名前に梅が付いたのか、どの辞典にも記載が無かった。
 ところで私が何故この花の名前が分かったか、それはこの木の幹に「檀香梅」の名札が付いていたからです。

          
               檀香梅(2010/3/3 紅葉台にて)

 これだけ分岐があると心配になるかもしれないが大丈夫です。縦走路は尾根に着いているので、分岐で迷ったら
上に登る道を行けば満観峰に辿り着きます。
 巻道の数は大崩山塊の中でもこの尾根が一番多く、それだけ尾根の視界がきかず、面白くないので巻道がある
のかと思ってしまうくらいです。この巻道を全て利用すれば朝鮮岩から満観峰まで30分は短縮出来そうです。
ただ丸子富士から歩く時は、案外この巻道が目に入らないで通り過ぎしまう場合が多い。

 
               第一展望台                       紅葉台

 最後の巻道は丸子富士の登りにある。この巻道は東の朝鮮岩と西の満観峰側の入口に標識が付いている。
これもここの巻道が一番利用価値が高い巻道だからだろう。何しろ分岐から急な登りを7・8分登り、やっと
着いた山頂は一切眺望は無い。それでも取り柄を探すなら、三角点と石の小さな祠がある事くらいか。
でも今日は山頂の山桜が満開で、いつもは暗っぽい山頂も少し明るい感じがしてた。
 丸子富士の山頂からの下りは、ここまでで一番の急な下り坂になり気が抜けない。往復15分ほど掛かる
山頂経由も、巻道を歩けば5分程度で済んでしまう。しかも疲れずに。
一度は登っておきたい丸子富士だが、二度三度となると避ける人が多いのか、巻道はしっかりしている。

 
               丸子富士山頂                      山頂の山桜

 今朝藤枝駅で「駅からはじめる山歩き」というJR発行の冊子を貰ってきた。何しろ私の歩きの主旨にしている
「駅から遍路」とか「駅からウォーク」にどんぴしゃりだった。で、中を見ると最初に満観峰が載っていた。
コースは用宗駅~花沢山~満観峰~小坂東分岐~小坂~用宗駅になっていて、駅主体ならこんなものか
とも思うが、コース自体より小坂東分岐から小坂集落へ下る道が気になった。その道を昨年6月に歩くと雑草が
背の高さぐらい伸びていて足元が全然見えなかった。以前は登山道の周りの茶畑は栽培されていたので雑草は
刈られていたが、茶畑が放置されてからは雑草が伸び放題になってしまった。
地元のハイカーはそれを知っていて、雑草が延び始めると西の分岐口を歩いていた。だがこのパンフレットを見て
ハイキングに来た人は焦るだろうな。雑草が伸び放題で足元が見えなく、更にそこが急な下り坂ときている。
高々50m位だがJRさんは草を刈ってくっるだろうか。多分そんな事は無いだろう。
それではこの山にいつもお世話になっているので俺が・・・と思ったりしたが・・・・・・・

 満観峰からも富士山はダメ。今日も富士山は諦めるしかなさそうだ。
時間は9時50分で山頂には3組6人の人が休憩している。今日は春真っ盛りの日曜日なので、これから混んで
くるのだろう。鞍掛峠までの道が混まないうちに下ってしまおう。

 
               満観峰山頂                      満観峰から高草山と焼津港

 鞍掛峠からは登って来る人は思ったより少なく4組程度だったが、鞍掛峠から高草山では誰とも会わなかった。
日曜日なのにどうした事だろう? 午後は雷雨の天気予報だったので避けたのだろうか。
 後ろを振り返ると満観峰から日本坂峠に続く尾根の斜面に山桜があちこちに咲いているのが見える。この山に
こんなに桜があったのかと驚くぐらいだ。特に三角点のあるピークの山腹に多くあり、植林された杉の木の間から
桜が頭を出して咲いている。
マテヨ! 戦後に植林された杉の木の間にあるという事は、植林後に桜を植えたとは思えない。
なら以前から桜はあった事になる。それが残っているという事は、あの山に杉を植えた人が桜を残したのかも・・・・
きっと桜が好きな人だったのだろうと勝手な想像をしながら歩く。
 
 私の見ているブログに高草山の中腹に「コシノコバイモ」が咲いていると写真が紹介されていた。花は下垂して
切込みの入ったベットランプのような形状で、色は外側は白っぽく斑点がある。どちらかというと淋しい花だ。
名前は漢字は「越の小葉芋」ではないかと思ったが、これは見事に外れで「越の小貝母」だった。
「越し」は越後(新潟県)、「貝母」は中国名で「越後の小さい貝母」という意味らしい。日本では「アミガサユリ
(編笠百合)」
の別名もあるという。
是非この花を見たいと思いながら両脇をキョロキョロしながら歩くが見当たらない。それもその筈でキョロキョロ
とはいえ、少し登りがきつくなれば下を向いてハーハーしながら歩いているのだから。

  
               山桜が点々と(三角点の山)                 満観峰

 満観峰から高草山まで1時間10分も掛かっている。そのうち鞍掛峠からは48分も掛かってしまった。
コシノコバイモを紹介してくれた人は、この間を30分で歩くというが、何という違いだ。こうなると口惜しいを通り
越して諦めしか感じなくなる。最近は脚力が落ちてきていて、中でも速度はガタ減りだ。だがせめて距離だけは
減らしたくないと思うのだが、今度はゴールの時間が問題になる。暗くなった道を歩くのは嫌なので、朝早く出る
しかないく、一番電車が増えてくる。そうなると弁当を作ってくれる妻が早く起きなければならない。
そして私は妻に頭が上がらなくなる。

 高草山山頂は賑わっていた。団体もいるのかとても数える気にはならなかった。

 
               高草山大権現                      山頂の山桜

 黄スミレの群落地には誰も居なかった。それもその筈で黄スミレは既に終りを迎えていて、黄色の花はカメラの
ズームを使わなければ写せない状態だった。来年若し十字縦走をするなら、もう少し早い時期にしなければ。

 
               黄スミレの群落                       黄スミレ

 何時も見慣れた景色だが今日は海の色が濃く見える。

 
                   坂本A・Bコース合流部から志太平野

 簡保の尾根が見えてきた。前回の静焼アルプスでは砂張屋の道標から簡保下の尾根を省略したが、こうして
見ると、そのため随分楽になったのが分かる。少し距離を増やした位では追いつかないだろう。

 今日の十字縦走の簡保尾根も簡保下までは行かずに、砂張屋の道標から始めるので、この区間を省略する。
そのため1時間以上は短縮されるだろう。
今の私の足では簡保下から歩く力は無いので、通行止は良い言い訳材料になる。

 
                             簡保の尾根

 お茶の新芽が出始めていて、その先にはこれから登る花沢山が見えている。花沢城址の山腹は桜や木々の
新芽、竹の葉などが、同じ緑とはいえ微妙な色違いを見せていた。

         
          茶の新芽と花沢山                   花沢城址

 フー! 11時20分花沢観光駐車場に到着。ここまでで健脚コースを1本歩き終わったのだが、まだ
この先にはもう一つの健脚コースが待っている。そして2本の健脚コースが終わっても、更に付録のコースが
残っている。健脚+健脚=豪脚。またまた私の造語だが、健脚コースの上のランクを豪脚コースと名付けたい。
どうですか豪脚コース。格好いいでしょう。

古稀の日に古稀山へ3

2014-04-07 11:01:56 | 低山歩き
 歩行記録      歩行月日2014年4月1日
歩行時間:7時間10分 休憩時間:1時間25分 延時間:8時間35分
出発時間:8時40分   到着時間:17時15分
歩 数: 40、871歩   GPS距離:30.6km

行程表
 修善寺駅 バス> 大曲茶屋 0:40>  船原峠 0:45>  土肥P 0:25> 古稀山 0:20> 達磨山 0:40>
 戸田峠 0:15> 金冠山 0:25> 達磨山レストハウス 2:00> 奥の院 1:10> 修善寺 0:30> 修善寺駅 

 観歩記
 ここまでは問題なく来れたが、今日はこれから先がよく分からない。昨夜地理院の地図で修善寺温泉から
桂川を辿ってみたら無事戸田峠まで通じていた。だが途中に卍マークは無く奥の院の場所は分からなかった。
でも道さえあれば何とかなる、奥の院の場所は聞けばよいと簡単に考えていた。

 レストハウスの前の県道を横断して「きよせの森」のゲートから桂川の下流を目指して下って行った。
すると途中に足の速い女性が休憩している。「奥の院に行くのですか」と聞くと
「イエここで終わります。水の音がしたので下って来ただけです。」と言う。
どうやら普通の登山はここが終点のようだ。これから先はモノ好きが歩くだけなのだろう。

 途中の分岐を下流方向の道に入ると、枯枝が散乱していて余り歩いている形跡は無い。だが川の横の道に
合流すると、石がゴロゴロしているが幅もあり以前は車も走っていた気配もする。更に下ると道の横に電柱が
建っているのに気づき一安心する。電柱があるという事はこれを辿って行けば町に出るという事だ。
念のため電柱の標識を確認するとNTTの電柱番号は一つ一つ若くなっていく。これなら間違いなく町に出る。
(東電の電柱番号は何だか理解できなかった)

 太目の車道を2回横断すると「県道18号 修善寺戸田線」の標識も出てきた。何故この車が1台も通らない
道が県道なのか? きっと新しいバイパスでもできたのだろう。と勝手に解釈する。
道は下り勾配で、車も無く軽快に歩けるこのような道は、距離を稼げるから好きだ。レストハウスまでの道は、
たったの12.5kmしかなかった。折角遠出をしたのだから30km位は歩きたいので、この道は嬉しかった・

        
         道が良くなった                  県道の標識がある道

 道路の横はシイタケ栽培が行われていて、動物除けの高圧電線が張られている。田圃や畑にある低い位置に
ある線ではなく、私の背ぐらいまで高さまで、高圧線が張られている。更にその内側にはネットまで張ってある。
どうやらこれは動物は動物でも人間も含めた動物除けのようだ。
ネットの中を覗きこむと、有る!有る! 椎茸が榾木からポコンポコンと生えている。確かにこれでは手が届けば
一つ二つ失敬したくなってしまうだろう。

 上から花がぶら下がっている。午前中見た花と違い房が細く長い。一つ一つの花も大きいのでトサミズキかな。
「トサミズキ:マンサク科 開花期は3月下旬~4月、葉が出る前に枝からぶら下がるように黄色い花を咲かせます。
花穂は長く伸びて7輪前後の花を付けます。雄しべの先端の葯(やく)が暗い紅紫色をしています。」
だがこの花は
7輪前後どころか30輪近くの花を付けている。しかも花の先端は赤くはなっていない。
トサミズキではないのだろうか?

 
          垂れ下がって咲く花                     トサミズキ?

 レストハウスから40分以上歩いてようやく民家が出てきた。集落の入口に「これから北又」の標識が有った。
集落には数軒の家しかなかったが、それぞれの家の周りは花が咲き誇っていた。いいなーこんな感じは。
家の前の畑で老夫婦が草取りをしていた。早速奥の院の事を聞くと
「奥の院はこの山の向こう側で、こっちへ来過ぎてしまっただよー」と南の山を指す。
エッ!では途中横断した舗装路を南に向かえば良かったのか。
「戸田峠を下ってきて途中に2本舗装された道を横断したけど、その道を行けば良かったのですか?」
「戸田峠を下って来たのかねー。そんならこの道を川に沿ってもっと下って、湯舟のから右に入って行けば、
奥の院に行けるよ。湯舟までは4k位あるから、その辺に行ったらまた聞けばいい」
という事だった。
でもおかしいなー、レストハウスから川を下って来たので谷を間違うはずもないのに。
ついでに修善寺温泉への道を聞くと「温泉には、この道を下ればいい」だって。

 どうやらまた地図を適当に見た罰が当たったようだ。レストハウスからの川は確かに修善寺温泉の桂川だが、
奥の院はこの川ではなく支流の川沿いにあるのだろう。だから地図に寺の卍マークが無かったのだと、何となく
納得できた。

 

 もう石楠花が咲いていた。それも一種類ではなくいろいろの色の花が咲いている。
「今年は石楠花が咲くのが早いですか?」と聞くと「そんな事はない。去年より1週間は遅い」との事だった。
伊豆の石楠花は5月の連休に天城越えをした時は花の時季が過ぎていた、どちらかといえばツツジと同じころ
咲くのかと思っていたが桜の時季と同じとは・・・・・

     

 遠江49薬師を歩いても路傍に石仏は殆どなかったが、ここでは石仏を良く見かける。馬頭観音は勿論、
道祖神や庚申塔もある。田圃の脇に古い墓石には花が活けられている。家の前の高台にある墓は、まるで
家を見守っているようだ。こんなお墓に入る事が出来れば子孫を見守る事も出来るし、また先祖に守られて
いるように感じられるだろう。墓とは本来こうあるべきだと感じた。

 大岩の上になんだろう。両手には包丁?に、棍棒? を持ち交差させいる。頭の上部は欠けているが何と
なく髪が横に垂れている恰好は女性ポク見える。賽の神だろうか?
その大岩の下には、こちらは両手を胸の前で組んでいるが頭が無い。ウーン案内板が欲しいところだ。

 オット今度は襟巻をした石仏だ。これは多分頭と胴が分離してしまったのでセメントで固めたのだろう。
だが違った。近づいて見ると布のバンドを作り首に回してある。ネックレスの積りかしら。
石仏の頭部は、というと。これはまた珍しい、2段で10の顔が付いている。オッ!これは十一面観音だ。
路傍で十一面間の石仏を見たのは初めてのような気がする。

 今度は土手の上に庇のやけに長い祠がある。道祖神か地の神さんか。チョット登るのは大変そうだ。

     
          賽の神?             十一面観音              地の神?

 道を聞いた所から、もう40分ほど歩いたので道を聞きたいが人がいない。キョロキョロしながら歩いていると
縁側で洗濯物畳んでいる人が目に付いた。早速「奥の院に行きたいのですが」と聞くと
「次の分れ道を右に下って、橋を渡ったら川沿いに下りるとまた橋がある。そこの別の川沿いに登って
行けば奥の院です」
だって。こりゃタイミングいい時に聞いた。

 時々「桂谷八十八所」と書いた立札と石碑がある。これは天城越えをしたときにも見た物で
「昭和5年、修禅寺38世老師が四国八十八ヶ所の全霊場の土を持ち帰り、その土を修善寺温泉周辺の
八十八ヶ所に分けて移しました。そして自らの筆になる弘法大師の像と四国札所本尊の梵字、名号を
刻んだ石碑を建立し「桂谷八十八ヶ所」を開きました」
と云うものです。
 桂谷と云うのは桂川の事だろう。いよいよ奥の院は近くなってきた。

 
          桂谷八十八ヶ所七十三番                     桂谷八十八ヶ所五十九番

 色々な花が咲いていて単調な道も気分は紛れる。その中にちょっと変わった花が咲いていた。
シキミ(樒)の花です。シキミは香花(こうばな)とも言い、葉だけの枝を墓や仏壇に供えてあるのはよく見かける
が、花を見る機会は少ない。この花名の語源は「悪しき実」がシキミとなった説もある。
これはシキミは花や葉、実、さらに根から茎にいたる全てに毒を含み。特に種子は食べれば死亡する可能性も
あるらしい。本当かしら? 植物の毒ならトリカブト(鳥兜)は有名だがシキミにそんなに毒があったとは。

 雪柳の枝が腕のように長く、風に舞いながら動くさまは、妖しい気な感じがする。

 
               シキミ                            雪柳

 二つ目の橋を渡り支流と思しき川の上流に向かう。金冠山からズート緩やかな下り坂が、ここから登りになる。
既に疲れが出始めている体は少しの登りでもハーハーしてしまう。それにしても桂川の本流と離れてしまうが
間違いないだろうか、しかし周りには人気は無い。一体何処にあるのだ。奥の院は。

 太い道に合流した川の袂に「奥の院」の標識が有った。アーやっと奥の院の痕跡に辿り着けた。
レストハウスから1時間半は歩いている、はたしてここから奥の院まではどのくらいある事やら。
 川の袂には他にも桂谷の石碑と共に石塔が立っていた。その正面には「や 奥の院道」、側面には梵字の下に
「弘法大師」と刻まれている。この石塔はと一瞬考えてしまったが思いだした。前回天城越えのときに調べた中に
修善寺から奥の院までの道は「いろは道」と言い、「い」から「ん」までの48文字を彫った「いろは石」が立っていると
あった。その石塔なのだろう。
ところでここにある石塔には「や」となっているが、「や」は何番目だろう。先は長いのか短いのか・・・・
「いろはにほへとちり・・・・・・・」ウ~ン分からない。何度か指を折りながら数えたが馬鹿な頭は途中で分からなくなる。
これがアイウエオなら「や」は終わりの方だとすぐ分かるのだが。
 次のいろは石は上が欠けていて判読できない。その次の石は「け」で、その次は「ふ」そして「こ」だった。
 ここまできてようやく理解できた。「おくけふこえて」なのだ。すると残りは「あさきゆめみしえひもせすん」となる。
残りはまだまだありそうだ。
 いろは歌は作者が弘法大師だという説もあるから、道案内としただろうが、丁目石のように「一丁目・二丁目」 の
方が理解しやすい。参考にいろは歌を書いておきます。
いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす ん
は匂へど   散りぬるを 我が世たれそ 常ならむ  有為の奥山   今日超えて浅き夢見じ    酔ひもせず ん

     
  弘法のいろは石「や」               「せ」                  「ん」

 奥の院に3時10分到着。レストハウスから2時間も掛かってしまった。案内板を見ると、まだ奥には植物園などが
あるようだが片道30分と書いてある。往復1時間として、急いで行ってもここに戻れば4時半にはなってしまうだろう。
それから修善寺駅までは1時間半は掛かるだろう。すると駅到着は6時を回ってしまう。ヤメタ!。ここで打止めだ。
 奥の院にあった石仏や石碑、石塔は白ぽっい苔に覆われていて、まだら模様で少々薄汚い。左程古くない明治の
物も同じようになっているので、ここの湿度などが影響しているのか。そう丁度古い梅の木に白っぽい苔が付いた
状態と同じです。
 奥の院は昭和36年の台風により崩壊されたままで再建がなされていない。その奥の院のあったと思われる階段の
上は進入禁止になっていた。フー助かった。

 
                 奥の院の石仏                     奥の院のあった場所
               奥の院の地図
 最初は気にしていたいろは石も、途中からどうでもよくなってしまった。数も多いし、その都度いろはを最初から
云うのも面倒になる。気にならなくなれば自然と道も適当になり只々下って行った。
それにしても今回の山行は、事前に国土地理院の地図で確認したのにこの始末だ。地理院の地図には奥の院の
表示は無かったが、ヤフーやマピオンの地図にはしっかり奥の院の表示はある。
私がネットの地図を事前に見るときは、山は地理院、町はヤフーとマピオン。そのため今回は古稀山がメインに
なので、地理院の地図しか見てこなかった。そのため奥の院が桂川の本流でなく支流の湯舟川沿いだと気付かな
かったのだ。
尤も、気づいたとしても道を聞く回数が減っただけで、歩いた道は変わらなかったのだから良しとしよう。

 相変わらず色々な花が目を楽しませてくれる道を下って行く。

 

 サテサテようやく源範頼の墓に着いた。ここは天城越えのときに寄ったが、ここまで来れば温泉はすぐだ。
桂川に架かった桂橋越しに和風の温泉宿が見えてきた。サーあと一息。
 川の中の温泉「独鈷の湯」に着いた。今は足湯になってしまった独鈷の湯には、小母さんたちがゾロゾロいる。
誰も入らない温泉より、皆が楽しめる足湯の方が観光地には適している。が私は入らない。
終点の駅はまだ先だから。

 
                かつら橋                         独鈷の湯

 修善寺に16時40分に到着。奥の院から1時間10分も掛かってしまったが5時前だから良しとしよう。
修善寺は工事中で山門は閉鎖され脇から入るようになっていた。その為いろは石の「い」の字の事をすっかり
忘れてしまった。その代り境内にあった達磨石を写したので勘弁してください。

 
             修善寺                            境内の達磨石
               修善寺の地図
 温泉場のバス停で、駅行の時間を見るとまだ28分もあった。ここから駅までなら30分もあれば行けるだろう。
寒くなってきたし、バスがここを出る頃には、歩けば駅に着いているのだからと歩き出した。全く好きですね
イヤバス代をケチったのかな。ともかく駅に17時15分到着。山道のレストハウスまでが12.5kmでそこからが
18.1km。これで低山歩きと言えるだろうか。

古稀の日に古稀山へ2

2014-04-04 16:49:27 | 低山歩き
 歩行記録      歩行月日2014年4月1日
歩行時間:7時間10分 休憩時間:1時間25分 延時間:8時間35分
出発時間:8時40分   到着時間:17時15分
歩 数: 40、871歩   GPS距離:30.6km

行程表
 修善寺駅 バス> 大曲茶屋 0:40>  船原峠 0:45>  土肥P 0:25> 古稀山 0:20> 達磨山 0:40>
 戸田峠 0:15> 金冠山 0:25> 達磨山レストハウス 2:00> 奥の院 1:10> 修善寺 0:30> 修善寺駅 


 観歩記
 古稀山を下った所に戸田駐車場があり、ここに車を置いて古稀山に登れば、上り15分、下り10分ほどで往復
可能なので誰でも登れる。駐車場から下を見れば戸田湾の鳥の嘴のような砂嘴(さし)が見える。 
アレアレここの駐車場の表示は880mになっている。HPとまた食い違っているが、もういいや!。
 最後の上りになり後ろを振り返ると古稀山が見えていた。何とも貧弱なピークで手前の名前の無いピークの方が
高い。何故あのピークが古稀山なのか、何故古稀と云う名になったのか興味が湧く。

          
                戸田湾                       古稀山

 戸田駐車場から15分ほどで達磨山山頂に到着。ここの三角点は一等三角点だが地味なものだ。先日国土
地理院が全国の87山の標高を変更すると発表した。そのうち静岡関連では国内4位だった間ノ岳が1m増えて
3190mとなり北アの奥穂と並んで国内3位に昇格した。伊豆では天城の万二郎も1m増えている。低くなった
方では私のの故郷の山、金時山が1m低くなってしまった。
しかしこの三角点の場所は必ずしも山の最高点にあるわけではない。例えば富士山の剣ヶ峰に立った人は、
記念写真を写す三角点横の「日本最高峰富士山剣ヶ峰」より、少し離れた奥の方が高いと思いませんでしたか。
これは 「剣が峰の最高点の標高は、平成3年の国土地理院の測量成果によると3,776.24mです。
また、剣が峰近くの二等三角点の測定結果は3,775.63mです。」
とある。
どちらも四捨五入すれば3776mになるので今のところ支障はないが・・・・・・
 最近私のホームグラウンドの高草山の標高も気になっている。地理院の地図では501.4mで通常501mと思って
いた。だが双耳峰の高草山は三角点のある西峰より、高草権現のある東峰の方が高くて、その東峰に502.9mの
杭が最近建った。そうなると高草山は501mなのか503mなのか紹介するに迷ってしまう。
 それもこれも達磨山の三角点横の岩を見て感じた次第です。

 
               達磨山山頂                      達磨山山頂

 本来なら達磨山は360度の景観を誇り、伊豆や箱根の山々、丹沢山塊、南アルプスに富士山。そして眼下には
淡島を浮かべた駿河湾など一望できる景勝地ですが、残念ながら今日は富士山は見えないし他の景色も霞んで
いてハッキリしない。景色を望むならこの山は冬に登るべきだろう。
 これから行く金冠山の山頂のアンテナが見えているが富士山は見えていない。この景色では金冠山から修善寺
奥の院に下るべきだろう。そうなると早いゴールになりそうだ。

 
               金冠山方面                       沼津淡島方面

 達磨山から戸田峠に向かう道はアセビ(馬酔木)のオンパレードだった。写真には馬酔木の並木と書いたが
並木ではなくアセビ林の中の道と云ったほうが正確だ。道の両側だけでなく奥の方までクネクネした枝振りの
アセビが続いている。
 ここのアセビは園芸種のアセビと違い、花が小さく色も真っ白ではなく、少し薄緑がかっている。そのため
向かい側の山の斜面にアセビが何本も見えるが、余り目立たないので桜のような派手さは無い。

 
               アセビの並木                      満開のアセビ

 丁度12時に戸田峠に到着。まだ昼飯を食べていないが、もう少し我慢して金冠山の山頂で食べよう。
峠から金冠山へと続く太い道を15分も掛からず山頂に到着。
山頂には古稀山手前で追抜かれた女性が食事をしていた。挨拶をして少し話をすると、私と同じように大曲茶屋
までバスで来て、そこから歩いて来たと言う。私が乗ったバスは私一人だったので次のバスに乗ったのだろう。
そうなると私より30分も遅く出発したのに、私が歩き始めて1時間50分の所で抜かれたのだから、彼女はそこまで
1時間20分で歩いた事になる。ウーン! 彼女が早すぎるのか、私が遅すぎるのか???

 
               金冠山山頂                       金冠山山頂

 山頂の防火帯は戸田方面に続き、その先に戸田が見えている。この防火帯を下れば戸田に行く事が出来るのか、
次回は戸田側に下るのも面白いかもしれない。
 一方沼津側は前回下っている。どの辺りの下ったのだろうと海辺のを探すと案外近い距離に見える。
だが今日は修善寺に下るので、それより近くなってしまう。楽すぎるかな?
 沼津アルプスが霞んで見えるが、あの入道雲の上を切取ったような尾根筋は見えている。4日前に歩いた
静焼アルプスに比べ、沼津アルプスを楽だと言いすぎた。こうしてあの山脈を見ていると決して楽そうには見えない。

 
              金冠山から戸田湾                    駿河湾と沼津アルプス

 金冠山山頂から達磨山から見えていたアンテナの横を通って次は展望の良い「達磨山レストハウス」に向かう。
こんな山道を今まで歩いた事があっただろうか。防火帯を利用した道は芝生が敷かれ、まるで芝生公園のよう
でもある。そんな柔らかくクッションのような道が1km以上も続いていた。これで景色が見えれば申し分ない
のだが両側はアセビや雑木、或いは植林された木なのが残念だ。

         
              金冠山のアンテナ施設                 レストハウスへの道

 金冠山からノンビリ歩いて25分で達磨山レスストハウスに到着。ここからの写した富士山の写真を昭和14年に
行われたニューヨーク万国博覧会で展示したところ、日本の代表的風景として有名になったそうです。
その景色を一度見てみたいと寄ってみたのだが、やはりその絶景は霞んでしか見えない。
それでは万国博で飾った写真を見つけたので紹介します。

 
            レストハウス手前で県道合流                レストハウスから内浦湾
          達磨山レストハウスの地図


 ニューヨーク万国博で展示された富士山の写真(伊豆市HPより)

古稀の日に古稀山へ

2014-04-03 17:09:29 | 低山歩き
 歩行記録      歩行月日2014年4月1日
歩行時間:7時間10分 休憩時間:1時間25分 延時間:8時間35分
出発時間:8時40分   到着時間:17時15分
歩 数: 40、871歩   GPS距離:30.6km

行程表
 修善寺駅 バス> 大曲茶屋 0:40>  船原峠 0:45>  土肥P 0:25> 古稀山 0:20> 達磨山 0:40>
 戸田峠 0:15> 金冠山 0:25> 達磨山レストハウス 2:00> 奥の院 1:10> 修善寺 0:30> 修善寺駅 
 観歩記 
 昭和19年(1944)4月1日 これが私の誕生日で、本日をもって70才になりました。
 何年か前に達磨山から富士山を見るため伊豆山稜線歩道を歩いたとき、達磨山の横に古稀山の標識のある
山があった。なだらかな頂で標識が無ければ見落としてしまうような山頂だったが。何故その山の名前が記憶に
残っていた。そして今年70才の古稀を迎える年になり、その名前が甦ってきた。
”そうだ 古稀山に登ろう!”と、そしてどうせなら古稀になった日に登って見よう、と。
 山といっても古稀山の横には伊豆スカイラインが走っていて、駐車場からなら10分もすれば着いてしまう程度の
山なので、それでは面白くない。そこで船原峠から古稀山、達磨山、金冠山まで歩き、そこから先は景色の見え
具合で変える事にした。
天気が良く、富士山が見えるなら前回と同じく木負(きしょう)の海岸まで歩く。富士山が見えないようなら修善寺の
奥の院に行く。こんな予定で出発した。

 前回ここを歩いたとき大曲茶屋から50mも行かない所で道を間違え、変な道に入り込み、最後には道が消えて
しまった。それに懲りて今回は事前に地図を見て間違った道も確認した
           大曲茶屋の地図                迷い込んだ道の地図

 そもそも間違いの原因は、伊豆市のHPのハイキングコース案内に「大曲茶屋で下車、国道をそのまま進んで、
旧道に入り、およそ3km先の船原峠へ」
の言葉を鵜呑みにして50mほど先にあった道に入り込んだからだった。
これも事前に確認さえすれば何でもなかった事で、すべて自分に原因があったのだが・・・・・・・・
今回再度伊豆市のHPで確認すると、ハイキング案内の中に「伊豆市ハイキングコース24選 達磨山の注意事項
について」
として、その間違いやすい個所の案内がされていた。
これは若しかして私のブログを見て追加してくれたのかと思ったが、マーそんな事はない。

 転んでもただでは起きない性格なので、前回間違えた道を行けば若干短くなると分かっていた。
そこで今回もその道に入り、国道を若干シュートカットする。そこは間違える人が多いのか、それともショートカット
する人がいるのか踏み跡がついていた。
でも短くなったと言っても高だか20か30mに過ぎないの、素直に国道を歩いた方が無難でしょう。
旧道の入口には「牧場の家 13km」の大きな看板が建っています。

 
           大曲茶屋バス停                         旧道入口
               旧道入口の地図
 旧道に入れば途端に車は通らなくなり静かなものです。そんな爪先上がりの車道を25分も歩けば船原峠に到着。
西伊豆スカイラインの高架の下を通った右側にある「伊豆山稜線歩道」の標識のある階段を登る。
階段を登りきった所に休憩所があるので最初の休みを取る。
今回はスムースに歩いて来たので距離にして1.5km短く、時間にして20分ほど早く着いている。あの時は金冠山から
木負海岸までの様子が分からず、しかも木負から沼津駅までの最終バスの事もあり、焦っていたのに比べ、今日は
気分的にも体力的にも余裕がある。

          
                船原峠                           伊豆山稜線歩道入口

 船原峠から山道に入ると毛虫のような房が一杯落ちている。山では良く見かけるが名前を知らない。上を見ると
この房を付けた枝が見える。下に垂れた房や、若い房なのか上を向いているのもある。アレーその枝の途中には
こげ茶色のイガイガした実が付いている。写真を頼りに家で調べてみるとクヌギ(椚)のように見えるがクヌギの
花はもっとほっそりしている。確かトサミズキ(土佐水木)の花も垂れ下がっていたと調べたが、トサミズキの花は
一つ一つの花がもっと大きかった。良く見かけるのだが名前が分からない。

         
             ??                               ??

 今日の予報の降水確率は20%で雨の心配はないが晴れ時々曇りになっていた。更に季節はこの時期なので
景色は半分あきらめていた。だが景色が有名な山なのでどうしても期待してしまう。しかも朝の電車の中から
富士山が見えていたので尚更だ。しかし案の定、春霞なのか黄砂か花粉か知らないが、遠くの景色は薄ボンヤリ
近くの景色もハッキリ見えなかった。それでも土肥湾が見えていたので1枚写す。

 道の横に奇怪な枝ぶりの木が並木のように並んでいた。この木は葉を見ればビンカだと分かる。だがビンカでは
植物図鑑に掲載されていなくてツゲ(黄楊)とかイヌツゲ(犬黄楊)となっている。ツゲは生垣に用いられているので
一般的だが、ビンカとは言わないのか? ネットで調べるとビンカは日日草としてはあったが、ツゲとして紹介した
物は無い。どうやら自分の記憶違いかと思った時に、やっと期待通りの記述を見つけた。
「ビンカとは、モチノキ科の常緑小高木で、学名イヌツゲ。 暖地に自生し、庭木としても鑑賞される木です。
雌雄同株で、枝は小正月のもち花(まゆ玉)を作るのに用いられたそうです。」

そうです、まさにその通り。1月14日の道祖神の前に、山野から取ってきたビンカの枝を整枝して、その先に
餅で作った花や俵をつけ、家の大黒柱に括り付けて飾ります。そのビンカを何度か山に取りに行った経験がある。
今はその風習はどうなっているのか? 道祖神のメインのドンドン焼きでさえ止めてしまった地域が多い今、
その付属的行事は尚更続いてはいないだろう。

 
              土肥湾                         イヌツゲ

 船原峠からの道は山道や車道を歩くが、山道は全て車道の左にあるので、車道は左側を歩いていれば道標を
見落とす事はない。今日は平日の事もあり車は殆ど走っていなかったが、休日でも多分少ないだろう。
無理して右側に渡るより交通ルールには違反するが左側歩行の方が良いでしょう。

 標高800mの土肥駐車場に到着。ここには何故か鉄棒もあるが、何に使う積りだったのだろう?
山道に入ると両側が熊笹の気持ち良い道になる。吹抜ける風は爽やかと云いがたく、冷たい北風でジャンパーも
トレーナーも脱げないでいる。背中に付けた温度計は9度を指しているが、体感気温はもっと低い。だが暑いより
この程度の方が歩きやすく疲れも少ない。

         
             土肥駐車場                        熊笹の道

 伽藍(がらん)山の標識は車道の横にあり、車道を横断した先はもっと高い所がある。これはハイカーが車道を
横断する危険を避けるため、伽藍山の山頂標識をこの位置に移動したのではないか。何故ならさっきあった
土肥駐車場には800mと標高が書いてあったのに、伽藍山の標識には標高が書いてない。
そして5分ほど歩いた所にある小土肥駐車場には標高900mと書いてあった。

 
             伽藍山                            小土肥駐車場

 熊笹の中に立ち枯れたような木が見える所は、道の両側にネットが張ってあった。これは木の皮を鹿が食べるのを
防ぐために張ってあるようだ。更に1本の1本の木の幹にも金網で囲ってある。それでも木は枯れているのか新芽は
出ていず枯れたようにも見える。保護が遅すぎたのか、それともこれから新芽が出てくるのか。
素人考えで鹿は樹皮より熊笹の葉の方が食べやすいのではないかと、日本鹿をウイキペディアで調べてみたら
「ニホンシカ:植物食で、草や木の葉、ササ、果実などを採食し、餌の乏しい冬季には樹皮も食べる。」とあった。
ここの熊笹なら一年中あるのに・・・・・・・・・・
私の場合は調べて解決する度合いより、疑問が多くなる率のが高い。

         
              食害にあった木々                     食害防止のネット

 20代前半に見える女性に追い抜かれた。歩き方は軽快で私のように一歩一歩踏みつけて歩くのではなく、膝の
後を延ばさないままサッサと歩いている。何処から来たのだろうか、途中まで車で来たのか。
いつも自分の写真は写した事はなかったが、今日は記念の山行なので古稀山の標識と一緒に写真を一枚写した
かった。出会ったハイカーは彼女一人。これからもハイカーに出会いそうもない。写真を彼女に頼もうかと少し
スピードを上げたが、とても追いつける速さではない。下手をすればこちらがバテテしまいそうだ。諦めるしかない。

 やっと北の方向が開け山が見えてきた。前方中央の山が古稀山か。まだ30分ほどは掛かるだろう。
手前のピークにさっきの女性が歩いていた。早いなーと感心してカメラのズームをあげると、何やら標識のような物が
見えた。となるとあのピークが古稀山で中央の山は達磨山なのか。これなら思ったより楽に着きそうだ。

 
            達磨山が見えた                      古稀山山頂

 古稀山に10時40分到着。古稀山の標高は標識には920mと書いてある。だが事前に調べた伊豆市のHPには
870mとなっていた。そこで古稀山の位置を国土地理院のWEBマップで調べたが870mでは達磨山の手前の鞍部に
なってしまう。不思議に思っていたが原因がほぼ分かった。
HPには達磨山と古稀山の間に駐車場があり、その標高が870mになっている。
ようは古稀山の標高を駐車場の標高からコピーして、訂正するのを忘れたのだろう。私もよくやるミスだ。

 私の誕生日は4月1日。この4月馬鹿の日の誕生日の人は色々の思いがあるだろう。
まず子供の時は4月馬鹿とか嘘つきとか云われ余り嬉しくなかった。そのため長じても人前で誕生日を言うのが
何となく面映ゆく、それは今でも続いている。
現在は4月1日生まれは早生まれに分類されるが、昔は、と言ってもいつまでかは分からないが、私の子供の頃は
4月1日生まれは早生まれでも遅生まれでも選択できた。
そのせいで同じクラスに1年違いの誕生日の子がいたりする事もあった。私は早生まれだったのでクラスの中では
一番幼く、高校時代には女生徒から「弟は黙っていて」などとからかわれる事もあった。
マー一般的には子供に楽をさせるため遅生まれが多く、早生まれは私しかいなかった。
何故私を早生まれにしたか親に聞くと「1年でも早ければ徴兵検査に落ちる確率が高かった」と言っていたが、
小学校に入学する年齢なら兎も角、20歳では何の影響も無かったろう。捻くれていうなら「口減らし」を早くした
かったに過ぎない。と思っている。
 またこの誕生日は区切りの日でもあるので、良かったり悪かったりすることがある。
今年から医療保険の制度が変わり、今まで70才になれば医療費は1割負担になったのが、昭和19年4月1日
生まれは2日から1割負担になり、4月2日生まれ以降は75才まで2割負担が続くらしい。これは大きい。

 もっと差が付いたのは、会社の先輩に昭和17年4月1日生まれで遅生まれだった人がいた。
会社が60歳定年だったので同期の人より1年早く退職することになった。マーそこまでは良いのだが、会社が
その年に早期退職を募り、何百万円かの早期退職手当を支給した。先輩と同期の人はそれに応募して早期
退職手当を受け取った。
その先輩は更に不運が続いて、会社都合で退職した人は失業手当を延長して貰えたので、ここでも百万円ほど
差が付いたらしい。そんなこんなで腹を立てた先輩は退職の送別会にも顔をを出さなかった。
同じ誕生日の私には先輩の悔しさがよく分かった。

 山の話が変な方向に向かってしまったが、4月1日の誕生日の事を誰かに話したかった。
古稀山では昼飯には少し早かったのでバナナを食べながらそんな回想をしていた。

 
            古稀山から南側                      古稀山から達磨山