はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

歩き納め(小夜の中山・粟ヶ岳)

2013-12-31 21:33:18 | 低山歩き
歩行時間:4156時間55分   休憩時間:0時間55分   延時間:7時間50分
出発時間:8時05分   到着時間:15時55分
歩  数:  38、068歩   GPS距離:26.0km
行程表(2013-11-30
 金谷駅 0:20> 牧之原公園 0:45> 歩き観音 0:30> 火剣山 0:20> 小夜の中山 1:10> 東山
 0:55> 粟ヶ岳  1:30> 青田  1:25> 掛川駅 

観歩記
 歩き納めは西行法師の歌碑のある小夜の中山峠と松島の歩き観音と決めてあたっが、コースは朝の出発時でも
まだ決まってなかった。昨年と同じコースを歩くか、逆コースを歩こうか、それとも中山新道の新しいコースに
するか悩んでいた。決心のつかないまま金谷駅に降りたのだがある物を見て心は決まった。
そのある物とは富士山です。冷え込んで雲一つない東の空に、冠雪した富士山がスッキリした姿を見せていた。
これほどはっきり見えるのはこの地方でも珍しい事だ。それなら金谷で富士山の眺めが一番良いとされている
「牧之原公園」に行かない手は無いと心は決まった。

 毎回の事ながら金谷側から牧の原台地の登りはきつく感じる。電車から降りて冷え込んだ体の調子が出ない
うちの急な登りは体に響く。特に今日はこの地方は冷え込んで、今年2回目の氷が張っている。今の気温は
1℃だが、遠州特有の冷たい空っ風が吹いているので体感気温はそれ以下だった。
それでも一歩上がるたびに金谷や島田の町並みと共に富士山の大きく見えてくる。

  
     牧之原公園からの富士山(大井川の手前は金谷、対岸は島田)

 公園の北の方には南アルプスの白銀の山がほんの少しだけ見えている。山の裾野を走る橋は新東名です。

 牧之原公園には茶祖と栄西禅師の銅像が建っているが、同じ静岡県でも静岡市になると茶祖は聖一国師で、
静岡市狐ヶ崎には聖一国師堂がある。同じ県なのに茶祖が違うという事は、お茶の種類が違うのかと思うが
どうやらそんな事はなさそうだ。静岡県のお茶の木の多くは「やぶきた」で、その茶木は静岡市清水区の人が
明治41年に見付けて、昭和に入ってから普及したものだそうです。
 それにやぶきた以前でも、牧之原は徳川幕府の旗本が江戸から駿府に移住してきたが、士官先を失った士族が
入植開拓をした土地である。なので茶祖は聖一国師で良いように思うのだが ------

      
              少しだけ南アルプスが                   茶祖栄西禅師

 牧の原大茶園を横切り旧東海道の金谷の石畳の上に出る。流石こんなに押し迫った暮に東海道を歩く人は
いなく、歩いているのは暇人の私一人だった。
 松島の歩き観音に今年一年無事に歩けたお礼のお詣りをする。この観音さんは火剣山の参道にひっそりと
立っていたので、村人がさぞ寂しかろうと、賑やかな東海道筋の小夜の中山に移してやっても、すぐ戻ってきて
しまうので「歩き観音」の名前が付いたとか。
居なくなるのではなく何処かへ行っても戻って来るなら。将来の私には丁度良いかもしれない。何しろ家族には
「足が強くて痴呆になったら何処へ行ったか分からなくなる」と心配されているのだから。
 綺麗に整理された参道の片隅に、苔むした双体の地蔵像の石仏が安置されていた。

           
              歩き観音                    双体地蔵像

 牧之原台地に登り一旦下り、また火剣山の登りになる。途中に「蜂の巣注意」と貼紙がしてあり、上を見ると
丸い大きなスズメバチの巣がブル下がっていた。ウーコワ!。
今は冬なので巣の中は空っぽだろうが、夏や秋にはスズメバチが飛びかっていてさぞ怖かっただろう。
この巣はどうするのだろう? 来年この巣には蜂は戻ってこないのだから撤去してもどうという事はないのだが。
それにしてもスズメバチはたった1年のために、こんな立派な巣を作るとは、勿体ない話だ。

 火剣山には火剣坊大権現が祀られているので地元の人が暮の大掃除で来ていた。その内の一人が
「ここから大島が見える」と言っていたが本当だろうか。火剣山から大島まで直線を引き、その間にある
伊豆半島の標高は650m程度、この火剣山の標高は282mで、大島は660m程度。理屈では見えそうもないが
大島の噴煙が見える事はあるかもしれないな。

       
             文殊菩薩                   大日如来

 火剣山から少し下れば小夜の中山に着く。その手前から富士山が見えていたが、この写真を写した場所に
墓地があった。正面に富士山を仰ぐ墓地の眺めは最高だった。昨年墓地の永代供養を契約してしまったので
仕方ないが、もっと早くこの墓地の事を知れば考えたかもしれない。それほど眺めは良かった。

 小夜の中山の西行法師の歌碑に到着。
 「年たけて また越ゆべしと おもいきや 命なりけり 小夜の中山」

西行法師が69歳のとき詠った歌だが、私も年だけは同じになってしまった。昨年の歩き納めにここに来て
来年まで無事歩く事が出来たら、来年の歩き納めもここに来ようと思っていた。その願いが叶い今年も歩いて
来る事ができた。こうなると欲が出てきて来年も来たくなってしまう。
「歳たけて また来てみようと 思うなり 命なりける 小夜の中山」

 
              小夜の中山から                       西行法師歌碑

 小夜の中山から古道1号線の中山トンネルに向かう道は、ハイキングコースになっているのだが余り歩く人が
居ないのか枯れた竹や木の枝が落ちている。踏むと「バリッ」と気持ちいい音がして割れるので次々と踏んでいった。
トンネルの上は明治の初めに出来た中山新道の一部が残っていて、その道を西に下り国1中山トンネルの西側に出る。
さて次は何処へ行こうか、このままトンネルを潜って東海道を金谷に行くには短すぎる。かと言って昨年と同じでは
芸がなさすぎる。そうだ、前に一度行った「七ツ釜」に行ってみよう。でもどうやって行くのか道は分からない。
なーに何とかなるさ。駄目なら止めればいい。と気楽な思いで道を行く。
案内板が立っていて七ツ釜の表示はあるが道がよく分からない。だいたい現在位置が書いてないのだから分りようが
ないと腹が立ってくる。しかしすぐ気分は変わった。正面に見える粟ヶ岳の茶の字がクッキリ浮かび上がっている。
雲は一つも無い。これなら粟ヶ岳からも富士山も見えるだろう。大茶園の上に聳え立つ富士山をブログで紹介できる。
そう思った時から行先は粟ヶ岳になった。道?それこそ何とかなるさ。こんなにハッキリ山が見えているのだから。

 
                  東山の案内板                     粟ヶ岳

 思っていた通り粟ヶ岳の東山登山口は容易に分かった。というか案内板の先を下れば一本道だった。
駐車場で昼飯を食べながらこれからの予定を考えた。ここから山頂まで1時間。山頂からは掛川駅に出る事にして
約2時間だが休憩などを入れて2時間半もあれば掛川駅に出る事が出来るだろう。今は12時だから3時半ごろには
掛川駅に着くだろうから丁度良い時間だ。

 粟ヶ岳の登りは中々キツイ。登山道といえども舗装がしてあるのでズルズル滑らないので歩きやすくていい。
疲れて後ろを振り返るたびに高度が上がっているのが分かり、さっき案内板があったのはあそこで、あの道を下り
あそこで昼飯を食べた。と一目瞭然だ。そのうちに小夜の中山のNTTのアンテナ塔も見えてきて今日歩いて来た
ルートを追う事が出来た。ウーン! 年たけたわりには健脚だと自己満足を感じながら登る。
だが富士山は左の隅の方に見えるだけで清々しない。これでは大茶園越しの富士山の写真は写せない。そうだ
以前車道を下ったときに富士山が見える場所があった、あそこに行ってみよう。と山頂に着く前に交差した車道を
右に行く事にした。途中の法面に「茶」の字の案内板が張り付けてあり、
「昭和7年に銘茶と観光効果を目的に松の木を植えたが松喰い虫の被害にあい、昭和60年に1000本の桧を植えた」
とある。地元の人でもこの茶の字はお茶の木でできていると思っている人がいるが、実際は桧でした。
この案内板の位置は茶の字の右下だった。そしてその農道を行った先に富士山が清々見える場所があった。
しかし想定と違って下には大茶園ではなく普通の山が見えるだけ、残念でした。
そこからは車道を山頂に向かった。

  
                茶の字の案内板                      粟ヶ岳からの富士山

 この山は車でも登る事が出来るので山頂の茶屋の前には何人かの人がいた。暇人は私だけではなかったと少し
ホットする。休憩もせずに神社をお詣りして遠江33観音の札所でもあった廃寺の行く。もう倒壊寸前で建物の
回りには立入禁止のロープも張ってあり、その前に230年前の天明二年と刻まられた石仏が頬杖を突きながら
朽ち果てていく寺を眺めている。如意輪さんは何をおもっているのだろうか、現代人の薄情さを恨んでいるのか。

      
                 倒壊寸前の寺                     廃寺前の石仏

 私が粟ヶ岳からの眺めで気に入っている場所は、廃寺前を真っ直ぐ広場に進み、山道を少し下った所からの
眺めだ。だがこの山道を歩いている人にはかって会った事がない。折角こんな絶景を眺められるのに惜しい事だ。
特に春のお茶が薄緑になる頃は格段とに素晴らしく感じる。是非粟ヶ岳に登った時はここまで足を延ばして下さい。
ただこの斜面の山道は、夏の頃は笹が多く歩きにくいかもしれないが、笹を掻き分ければ道は分かります。
また、下りは道に笹の枯葉が積もって滑りやすいので注意が必要です。


                  粟ヶ岳から大茶園

 粟ヶ岳から西山林道を下るのだが思っていたより時間が掛かった。林道の傾斜は緩やかだが距離が長く感じる。
東山からは傾斜は急だが距離が短く一歩登る毎に山頂が近づく感じがしたが、こちらは景色も見えず張り合いが
感じない。きっとこちらからの他山者は少ないだろう。
 青田のバスの停留所まで1時間程度と思ったが1時間半も掛かってしまった。バス停に着くと掛川駅行のバすが
停まっていた。日曜日の午後は1本しかないバスが停まっているは神様は私にバスに乗れという事か。イヤイヤ
今日はまだ20km程度しか歩いていない。これでバスに乗るようでは来年の海から富士山は登れない。
頑張らなくちゃ。

 掛川駅までの道は知っているわけではないが、途中で1度聞いただけではぼ妥当な道を歩けたようだ。
右側に掛川市の生涯学習センタの建物が見えてきた。ここまで来れば後もうすぐだ。
予想より30分余計に掛かって掛川駅に3時55分に到着。

 
                  掛川生涯学習センタ                        掛川城


    --------------------------------------------------------------------------------------------

 今年1年お世話になりました。良いお年をお迎えください。     
                            はぐれ

駿河百地蔵7回目-4

2013-12-30 15:26:49 | 寺社遍路
  95番目 ~ 100番目 地蔵                              歩行月日2013/10/27

歩行時間:6時間00分 休憩時間:2時間30分 延時間:8時間30分
出発時間:7時00分   到着時間:15時30分
歩  数:  31、339歩  GPS距離:25.7km
行程表
 沼津駅 0:05> 95番 0:50> 香貫山 1:15> 柿田川 0:40> 96番 0:15> 97番 0:15>
 98番 0:10> 99 0:45> 100番 1:15> 仏の里 0:30> 函南駅

              番外 函南仏の里

 田福寺から函南仏の里のコースは、百地蔵の中で一番自信の無いコースだった。何しろ5km近い分岐の多い
農道歩きが続き、途中に集落は一ヶ所しかないようだ。分岐を間違えたらそれこそ箱根山中に紛れ込んでしまう
不安もある。これがハイキングコースなら、主な分岐には道標が設置されたり、目印が付いているから余り不安は
感じないですむ。だが農道の分岐では殆どの場合道標は無い。
ここの農道を調べてみると余りに分岐が多すぎてとても覚えきれない。かと言って拡大した地図では目印も無く
ただ農道の線が交差しているだけで場所の特定は難しい。それでも歩く気になったのは、若し位置を見失ったら
南西の方向に下れば三島の郊外に出れそうだし、農道が途中で終わっていたら、引返して別の道を下れば済む
事だと、気楽に考える事が出来たからだった。

 そうそう三島の住民でもない私が何故こんな道を選定できるのか不思議じゃありません?
実は最近のルート設定の手法は、全てヤフーの地図のルート検索を利用しています。
使用方法はヤフーの地図を表示したら「ルート検索」をクリックし、次に「徒歩」もクリックします。出発地を
地図画面の中央に置き、画面左にある出発地をクリックします。(位置がずれたらドラックできます)
次に到着地を画面中央にして、矢張り左側にある到着地をクリックすれば地図上に青色のルートが表示されます。
距離や時間も出ますので大よその目安もつきます。
また、何処か経由したい場所があれば青線のポイントをドラックすれば経由したルートになります。
その後は見やすい大きさに拡大縮小し、必要部分をエクセルに取り込み加工した物を印刷して持参しています。

 田福寺から少し戻った所にあるグラウンドから農道は出発です。折角登って来たのに道はズンズン下って行く。
下りきった頭上には伊豆縦貫道の高架が走っている。クレーンが見えるから、この道はまだ開通前なのだろう。
早速地図には無い道が出てきた。きっとこれは伊豆縦貫道の建設用の道だろうと判断する。

        
                      伊豆縦貫道                         伊豆縦貫道

 暫く歩くと丁字路の先に作業をしている人がいた。多分この道は左折(北東)だろうが、聞いてみると。
「右ですよ」と反対の方向を言う。では左に行くと何処に出るのか聞くと
「塚原(多分)に出て、山に向かってしまい函南には凄く遠回りになる」それでは仕方ない右に行こう。
何しろ最初右と思った事すら根拠があっての事ではないので、簡単に変更する。
 また丁字路に出たが、今度は右側は全面通行止めになっている。回り道の図を書いてあるが理解できない。
しかし何れにしろ右は通行止だから左に行くしかないし、通行止めでなくても左に行く積りだったから問題は無い。
それにここに回り道の地図があるという事は、左の道は何処かに抜けているはずだ。
 前から道幅一杯にトラックが下って来たので「済みません。この道は函南に行けますか?」と聞いてみた。
「行けないよ。この道は山の中に入ってしまい行き止まりだよ」
「エッ!だってその下の通行止めの所に、回り道って書いてあったけど」
「俺は地元じゃないから詳しい事は分からないが、この上は行き止まりだよ」
 どうも納得できない。
この道が行き止まりだと、さっき道を聞いた所まで戻らなければならない。イヤイヤそれどころか田福寺ま
で戻らなければならなくなってしまう。そんな事は今更できないし、やりたくない。だけで納得できない。
そんな不満顔が分かったのか、トラックの人は
「信用できないなら自分で行ってみればいい」
と投げやりに言った。
「はい、もう少し行ってみます」と頭を下げたものの、人に物を尋ねる態度ではなかった。ご免なさい。
 通り過ぎるトラックを振り返ってみると、荷台の左右と後ろのあおり板が下がったままだった。
一体このトラックはどこへ何しに行ってきたのだろう。

 余り利用されていない農道は、舗装の隙間から草が生えだしたり、枯枝などが落ちていて、舗装面も
汚れている。だがこの農道は道幅は狭いが雑草も生えていないし、舗装面も黒く綺麗なものだ。
しかしあんな事を聞いてしまったので何とはなく不安な気持ちが湧いてくる。でも行き止まりまで行くしかない。

道が左に折れ傾斜が増して高台に出ると、下の方に立派な建物が建っているのが見えた。
ヤター! あれは地図に載っている「社会福祉病院」に違いない。たとえ違くてももう大丈夫だ。
建物は間違いなく社会福祉病院で、病院の横の道を下った先が2車線の県道だった。
これから先の地図は目印もありもう迷う事はなさそうで。
県道の両脇に「本山妙法華寺」「玉澤総門」とあるが何だろう。妙法華寺という寺があるようだが聞いた事はない。
調べてみると妙法華寺は日蓮宗の本山(由緒寺院)で、日蓮の弟子の弁阿閣梨日昭上人が開創された寺である。
重要文化財もある由緒ある寺のようだったので知っていればお詣りしたのに残念な事をした・

 
                       社会福祉病院                       妙法華寺の看板

 道脇に賽の神いや道祖神だろう石仏が祀ってあった、この様な形の石仏は静岡県中部では見た事はないが、
東部や伊豆では時折見かける石仏だ。以前下田街道を歩いているとき、この形の石仏の名前を聞いたところ
「道祖神」と返ってきたから、この石仏も多分道祖神なのだろう。
左の男の石仏の頭は取れて無くなってしまったのか、扁平な石を代わりに置いてあり、何とも奇妙な感じだ。
右の女性像は頬がふっくらして、目は細く両側に垂れた顔は、所謂おかめの様な顔立ちの石仏だった。
村の入口を守る道祖神や賽の神なので、この石仏を過ぎた所は玉沢だった。

 仏の里にはあと一つ高台を越して行かなければならない。玉沢のバス停を通り過ぎた所にある、太い道を
右折して高台に登るのだが、県道よりも太く立派な道は200mも行くと終わってしまい、また小型専用のような
農道になってしまった。一体何で200mを太い道に改修する必要があったのか理解に苦しむ。
残された農道も200mほどで高台の道に合流するが、この道とて片側1車線も無いような道だった。

 その尾根の上を走る道を10mも右に行くと東に下る道があった。その道脇にはお地蔵さんの石仏に、右何々、
左何々と地名を書いてあるがよく分からない。しかしこの下る道は昔からの道だと分かり安心して下れる。

 
                     道祖神(賽の神)                       道標を兼ねた石仏

 竹藪の中に木の根元の洞から若い竹が延びている物を見つけた。更に近くには蔓がクネクネととぐろを巻いて
いる。どうしたらあんな形になるのだろう考えたが分からなかった。
案外容易に下の道に合流できた。ここまで来れば仏の里は近い。

        

 仏の里美術館近くの交差点に桑原小学校への案内標識が掛かっていた。この辺りの地名は桑原と書き、
当然読み方も「くわばら」と思っていた。だが小学校のローマ字は「Soson」になっている。
そうそん?へー知らなかったな。今までも桑原には何回も来ているが「そうそん」なんて考えて事もなかった。

 2時30分仏の里美術館に到着。お堂で良く見かける宝形造の屋根が二つ見える。黒っぽく落ち着いた感じ
だが宝珠が無いので、何となく締った感じに見えないのは私だけか。
入館料300円を支払って中に入ろうとすると「65歳以上は250円です」と言ってくれた。歩きの格好はしていても
所詮は老人に見えるのだろうが、喜んでその接待に応じた。ついでに「歩いて来た割引は有りますか」と聞くと
「年齢割引だけです」とツンとして答える。どうやら冗談と取ってもらえなかったようだ。

  
                     桑原=Soson                        かんなみ仏の里美術館
       かんなみ仏の里美術館
 重要文化財の仏像にあれこれ言うような知識は無いので写真だけを見てください。

  
                  阿弥陀如来及両脇侍像(国重要文化財)        同左阿弥陀仏拡大

 真ん中の地蔵菩薩像は私が勝手に指定した今回の百地蔵の総本尊です。

  
 薬師如来坐像(県有形文化財)   地蔵菩薩立像(県有形文化財)  空海上人座像((町有形文化財)

 一昨年ここ桑原に来た時は長源寺の観音堂に所狭しと置かれた仏像は「仏さん」でしたが、今こうして
薄暗い中に鎮座した仏像は「美術品」になっていました。

 函南駅には、その長源寺の横をとおり、高台にあるSoson小学校の前を通り函南駅に下ります。
高台からは仏の里美術館の屋根が少し紅葉が始まった木々の間に見えていた。
考えてみると今日のコースは百地蔵遍路の中で一番変化があり楽しいコースだったともう。これで札所の
参拝は止めて香貫山、柿田川、 源兵衛川、三島大社、農道、仏の里美術館とすれば、山あり、川あり、岡越え
ありの楽しいコースになりそうです。これに今回見過ごした妙法華寺を加えれば立派なウォーキングコース
間違いなしです。どこかの歩こう会で「山と川と岡を越え、神と仏を訪ねる25kmウォーク」なんて名前をつければ
案外人気がでるかも知れないな。その時は下見のコース案内はしますよ。

 15時30分函南駅に到着。残念な事に駅周辺には商店コンビニはおろか、民家も無いような所で、楽しみだった
結願の乾杯をやる事が出来なかった。

 
           小学校の前から仏の里美術館が見えた                    函南駅

駿河百地蔵7回目-3

2013-12-25 17:19:47 | 寺社遍路
  95番目 ~ 100番目 地蔵                              歩行月日2013/10/27

歩行時間:6時間00分 休憩時間:2時間30分 延時間:8時間30分
出発時間:7時00分   到着時間:15時30分
歩  数:  31、339歩  GPS距離:25.7km
行程表
 沼津駅 0:05> 95番 0:50> 香貫山 1:15> 柿田川 0:40> 96番 0:15> 97番 0:15>
 98番 0:10> 99 0:45> 100番 1:15> 仏の里 0:30> 函南駅

              99番目(99番) 小菊堂

 99番の小菊堂は三島大社から南下する下田街道脇にあるので、光安寺からでは少し西に戻る事になる。
しかも小菊堂の次の田福寺は三島の中では一番東の外れなので、今度は東に行かなければならない。
ようは西福寺を打った後、三嶋大社から小菊堂に行き、次に光安寺、田福寺と回ればスムースだった。
これは光安寺を歩き出してから気が付いた事で、昨夜の計画段階では思いつかなかった。何故かと言うと
当初は光安寺を結願としていたので小菊堂から田福寺を回り光安寺に出るつもりだった。それが急遽田福寺で
結願になったため、この小菊堂から田福寺が頭にあってその部分が残ってしまったのだ。
もう少し早くから計画的にコース選定をすれば良いのだが中々そうならない。今回のようなへまをやると反省は
するのだが、結局次回も同じことの繰り返しになる。それに余り早くコースを決めてしまうと、いざ歩く段に
なって、その時決めた理由などを忘れてしまう事がある。歳は取りたくないものだ。

 小菊堂に祀られている「言成(いいなり)地蔵」については下田街道を歩いたとき細かく話しているので
そちらを見てもらう事にして、今日は簡単に話します。
「大名行列が通るとき母親の元に行こうと行列の前を横切った、6歳の娘・小菊が伴先役人に捕えられ、
殿の命令で切られてしまった。大名の言い成りに斬られた処から「言成地蔵」と名付けられた。」

最初にこの説明を読んだ時も感じたのだが、言成りに願いが叶うのではなく、我儘な言成りが通る言成り
だとは驚いた。しかしこの地蔵堂を建立した人たちは「言成りに切られてしまった」娘を思って建てたのだろう。
だが言葉で「言成地蔵」と聞くと、娘を思って建てたとは理解しづらくなる。どちらかと云えば時の権力者の
言成りが成就する地蔵のようにも感じてしまう。そう今の「特定秘密保護法案」のように国民がどう思うか
関係なく言成りになってしまった。まさか誰かさんは、この地蔵をお詣りしたのではないよな。

今回の百地蔵遍路の5回目で鉄舟寺の「言いなり地蔵」をお詣りしてきた。あのお地蔵さんは「地蔵菩薩を
建て、供養をすれば如何なる願いも叶う」
と簡単明瞭だ。果たしてどちらの地蔵尊の方がご利益があるやら。

 お堂の中の厨子は閉まっていて地蔵尊は見る事が出来ない。仕方ないお堂の前の地蔵像を百地蔵にしよう。

         
                小菊堂(言成地蔵)                     お堂の前の地蔵像
      小菊堂の地図

              100番目(98番) 田福寺


 小菊堂から歩いていない道を選び北東に進み、東海道に合流したら五本松まで歩く予定だ。
道が大場川の堤防に合流した所に地蔵が祀られていた。露座の地蔵像で大分風化していて名鼻立は分から
ない。横の石碑には「妙法三界万霊」と刻まれている。近くの案内板には
「江戸時代重罪を犯し斬罪となった者の首は、東海道を往来する人々への見せしめとされました。宿外れの
新町橋際にあった獄門台にのせられ、罪状を書いた捨札を立て、番小屋には番人を置き、数日間晒したと
いいます。これらの晒し首で引き取り人のないものを哀れんで、霊を慰めるためいつの頃か地蔵尊が安置
され供養されるようになりました。」

そうか、この辺りには刑場があり、見せしめのために磔や斬首も見物させ、その首も見世物にしたのだろう。
現代の日本人はそんな刑罰があると聞けば、何と残酷な国だと思うが、150年程前までは日本も同じような
事をやっていたのだ。ただ、案内板で気になるのは「東海道を往来する人々への見せしめとされました」
書いてあるが、晒し首は旅人に「三島宿は厳しいぞ」と脅す材料だったのか、私はてっきり住民のガス抜き
と脅しの為と思っていたが。

 地蔵像近くの江戸時代と同じ名前の新町橋を渡る。刑場がこの新町橋を渡った先にあったら、この橋の
名前はどうなっていたのだろう。罪人が名残惜しんで振り返る「見返橋」或いは「未練橋」。また家族との
別れの「涙橋」「見送り橋」。罪人が犯した罪を悔いて「悔悟橋」「嘆き橋」と色々考えられる。
ここまで書いて思い出した。江戸の鈴ヶ森刑場近くの橋は「涙橋」といった。
またイタリアのベニスでは裁判所と牢獄の間の運河を「嘆きの橋」が繋いでいたが、その絵を前回紹介した
ターナーが描いている。

 
                   無縁法界地蔵尊            ターナーの描いた「ヴェネツィア、嘆きの橋」

 五本松交差点で国道1号線を渡り、錦田一里塚手前で右折して細い道を入ると田福寺はあった。
入口の門は鏑木門のように見えるが、これでも山門と呼んでいいのだろうか。ともかくその洒落た新しい門を潜り
境内に入ると本堂も新しくモダンだが落ち着いた感じの建物だった。どうやらこの寺は最近移転してきた寺らしい。
調べてみると田福寺は国道の拡幅場所に直面し、昭和59年に現在地に堂宇等移転したとあった。

 更に気づいたのは田福寺が時宗だった事だ。寺の所属ではない小菊堂を除くと西福寺、光安寺、田福寺と
時宗の寺が続いている。静岡県の仏教の勢力分野は禅宗系の曹洞宗と臨済宗が圧倒的に多く、時宗は少ないと
感じていた。なのに三島市内の百地蔵の札所4寺院のうち3寺が時宗だった。
時宗と云えば、時宗=一遍上人=踊念仏 と受験勉強で覚えた気もするが、三島地方に多いのは多分時宗の
総本山が、隣の相模藤沢の遊行寺に近いのも理由の一つだろうと思った。

 そこで先ほどの光安寺で貰った資料の中の「三島のお寺への誘い(身近な56寺院)」を見てみると
日蓮宗16寺(29%)、臨済宗13寺(23%)、浄土宗10寺(18%)、曹洞宗9寺(16%)、時宗3寺(5%)、浄土真宗3寺(5%)、
真言宗2寺(4%)となっている。
一方百地蔵の宗派別分布で宗派色の無い地蔵堂などを除くと
日蓮宗0%、臨済宗32%、浄土宗7%、曹洞宗27%、時宗11%、浄土真宗4%、真言宗7%、天台宗12%だった。
こうしてみると時宗が三島にだけ多いと云えないようだ。偶々3ヶ所も続いたのでそう感じただけのようだ。
だが日蓮宗はどうした事だろう。三島市内では一番多い宗派なのに百地蔵には一ヶ所の札所も無い。
若しかして日蓮宗は偶像崇拝は禁止なのか? 調べてみたが分からなかった。念のため日蓮宗の総本山
久遠寺のある山梨県の「甲斐33観音霊場」を調べて見たら、日蓮宗は一ヶ所あり如意輪観音が本尊だった。
してみると偶像崇拝禁止というわけではなさそうだ。
さらに調べていくとヤフーの知恵蔵の中に「日蓮宗の教えに地蔵菩薩はありません」との表記を見付けた。
これが本当なら百地蔵の中に日蓮宗の札所が無いのは当然だが。

 
                   田福寺山門                        田福寺本堂
      田福寺の地図
 境内の右側に地蔵堂があり、案内板を見ると「昭和七年に住職が購入し、駿河一国百地蔵尊第98番札所
に加入した」
と随分正直であっさりした事が書いてあった。
 地蔵堂と軒続きの不動堂には面白い言い伝えのあるお不動さんが安置されていた。
「あるとき旅人が三島で病気になり、お金が尽きて困った旅人は、背負っていた不動尊を質に入れた。病が癒えた
旅人は三島を去り不動尊はそのままになってしまった。やがて時が経ち質屋で原因不明の病人が出た。修験者に
見てもらうと、土蔵に放置されている仏様の祟りだという。驚いた質屋は大正元年に不動尊を田福寺に奉納した。
しばらく後に、この不動尊が成田山の上人の夢枕に立ったということで、成田山から数名の僧侶が田福寺を訪れた。
そうした経緯が三島一帯に広まり、不動講が組織された。」

しかし寺の案内板にこの言い伝えは無く「大正元年質店より奉納を受けた」とあるだけだった。この話は大正時代の
話なので今なら調べられるのに調べないのは調べると却って拙いのかな。

 
                 田福寺地蔵堂と不動堂                     地蔵度内部 

 地蔵堂の横に「火傷除け地蔵」安置してある。この地蔵は昭和7年に火傷で亡くなった男の子の菩提を弔う
ために建立されたとあった。

  
  少しだけかを見せている地蔵尊          火傷除け地蔵            火傷除け地蔵
   
 百地蔵のHPに掲載されている「駿河一国百地蔵尊」はこれで打ち終りになった。ただこの表題には少々不満が
ある。このブログを読んでいる人も7回目に入ってから「アレー駿河じゃあないのに」と思った方もいるだろう。
そう今日歩いた三島市内の5ヶ所の札所は、全て伊豆の国であって駿河の国ではない。
想像するにこの駿河一国の表記は、戦国時代に制定された「駿河一国三十三観音霊場」から来ていると思うが、
こちらの札所は島田伊東、沼津以西で駿河以外の札所は入っていない。多分百地蔵が制定された昭和7年は
伊豆も駿河も静岡県になって久しい頃だ。そのため三島も駿河と勘違いしたのではないか、と思う。
 ブログでは「駿河百地蔵」と書いてきたが、これなら一国と云い切っていないので許される範囲だろうと思って
使ってきたが如何でしょう。

 フーこれで一応百地蔵は結願出来た。だが遍路はこれで終わりではなく、次に番外として函南の仏の里まで
歩かなければならない。もう少しお付き合いのほどを。

駿河百地蔵7回目-2

2013-12-23 20:58:37 | 寺社遍路
  95番目 ~ 100番目 地蔵                              歩行月日2013/10/27

歩行時間:6時間00分 休憩時間:2時間30分 延時間:8時間30分
出発時間:7時00分   到着時間:15時30分
歩  数:  31、339歩  GPS距離:25.7km
行程表
 沼津駅 0:05> 95番 0:50> 香貫山 1:15> 柿田川 0:40> 96番 0:15> 97番 0:15>
 98番 0:10> 99 0:45> 100番 1:15> 仏の里 0:30> 函南駅

              97番目(97番) 西福寺

 これぞまさにお地蔵さんの御引き合わせだろう。既に諦めていた源兵衛川遊歩道の入口が目の前に現れるなんて。
これが地蔵尊のご利益でなくして何というのだ。と、勝手に感激して源兵衛川の遊歩道に入る。
 遊歩道には観光客らしき人も3人ほど歩いていたが静かなものだった。水辺を歩くには10月下旬では遅すぎるのか。
夏に小さな子を連れて川の中を歩かせるのには丁度良い川だった。
 遊歩道は楽寿園に突き当った所で終わっていて、突き当りの道を右に曲がるとすぐ太い道に合流する。ここは歩く
予定ではなかったので地図を持っていなかったので、太い道の両側を恐る恐る見ると。なーんだ! 右は白滝公園の
信号の所だった。白滝公園は三島大社に行く道で何度も歩いている。それに次の札所西福寺も大社に行く途中にある。

           
                源兵衛川の標識              源兵衛川の遊歩道

 白滝公園から桜川の途中で川を渡り西福寺に入る。境内の大木の下に石仏が安置されていたが、小さな
地蔵像に馬頭観音二体。それに五輪塔が何体かあるだけだった。境内奥に屋根はお堂のようだが、頑丈そうな
扉には南京錠が掛かった建物が見えた。近づいて見ると軒には駿河百地蔵の標識が張ってあり、近くには案内板
もあった。「亀山天皇の皇孫で南朝所縁の尊観法親王が、平和実現悲願成就を願い地蔵尊を信仰したので
「成就地蔵」と伝えられています。また一説には、この一帯を湧水の氾濫から守るため、桜川を掘削をしたが、
その工事は人柱を立てるほど難航した。そのため人々は地蔵に工事の成就祈願をした。」

湧水が氾濫したとなると、丸池辺りは昔は湧水地だったに違いない。あの辺りには家は建てない方がいいな。

 
                   西福寺本堂                          西福寺地蔵堂 
      西福寺の地図

              98番目(100番) 光安寺

 高安寺に行く前に国の天然記念物になっている三嶋大社の金木犀を見ていくことにした。この金木犀は樹齢は
1200年を越え、秋には薄黄色の可憐な花の甘い芳香は、神社付近は勿論のこと、2里先まで届いたと伝えられて
いる。今日は10月27日で少々遅いが、まだ甘い香りを放っているだろうと期待して境内に入ったが、金木犀の
香りはしない。更に金木犀の咲いて本殿の広場に来ても香りはしなかった。
遅すぎたのかもしれないが、金木犀は花は咲いてはいず、葉も少なく樹勢の勢い感じられない。
残念ながらお地蔵さんの御加護はここにはなかった。

 
                    三嶋大社本殿                   三島大社の金木犀

 三嶋大社の宝物館の横を出て光安寺に向かう。光安寺は百地蔵の札所番号では100番の結願の寺になって
いたが、私の遍路では98番目でまだ結願は出来ない。
当初の予定ではここで結願して三島駅で乾杯する予定だったが、行程が一日延びたため最終日の距離が短く
なってしまった。そこで番外を作ろうと色々考えたが、駅の近くが100番だとその先の候補が無い。そこで
100番の寺は三島で一番遠い田福寺として、番外を函南の仏の里とした。

                  
                                          光安寺本堂
                     光安寺の地図
 光安寺には着いたらしいが墓地の入口に出てしまった。最近では入口が何処であろうと適当に境内に入って
しまうようになってしまった。山門から入ろうとすると、広い寺だと遠回りをしなければならない時があり、それが
嫌で裏からも入ってしまっている。本来は良くない事だが許してください。
 本堂の前に行くと坊主頭の青年がボールを蹴って階段にぶつけている。なんて常識知らずな奴だと無視をして
到着タイムなどのメモを始めた。するとその青年が近寄ってきて「何か研究しているのですか」と聞いてきた。
「イエそうではなくて駿河百地蔵を歩いて回っているだけです」と答えると。
「前にもそういう方が、駿河一国百地蔵の地図を作って持ってきてくれました。それをカラーコピーをしたので
貴方に差し上げます」
 と言って庫裏に地図を取りに行った。どうやら寺の人らしい。

       
                            駿河一国百地蔵菩薩霊場一覧

 手書きの一覧表で寺の名前はともかく地図が上手に書けていると思いながら眺めていると
「家のお地蔵さんは鼻取り地蔵と言って、牛の鼻輪を持って田すきを手伝った伝説があります」と云いだした。
待てよ!鼻取り地蔵なら岡部廻沢の坂下地蔵も同じ言い伝えだった。そこで
「その鼻取り地蔵の話なら、岡部の坂下にも同じような鼻取り地蔵の伝説が有りましたよ」と一覧表の岡部町を
探す。だが岡部には坂下地蔵が載っていない。それでは焼津に載っているのか見るが矢張り無い。
何か適当な事を言ったようでバツが悪くなって、必死になって探したが矢張りなかった。他にも私が最初に行った
島田関川庵の吉三地蔵も載っていない。こりゃよく見るれば他にもミスがありそうな資料だ。まーミスについては
私は大きい事は言えない。誤字脱字いい間違い、適用違いと何でも有りのブログを書いている身にとっては。

 そんな話をしていると「是非鼻取り地蔵さんを見て行ってください」と本堂の沙弥壇裏の部屋に案内してくれた。
そこには黒光りをした地蔵が座していて、左手に宝珠、右手は説法印なのか来迎印なのかよく分からないが、
影絵の狐の手つきに似た形をしていた。百地蔵の一覧表と一緒に貰った光安寺の由来には「鎌倉中期後の
運派系の遺品、等身大の寄木造りで奈良春日作とある。運派の作品は伊豆には39件60躯の仏像がある。」

こうしてみると木像だと細かい表現ができ、この地蔵尊も普通な穏やかな顔立ちで親しみが感じられた。
百地蔵では彩色された仏像も見たが、このように木地の色が染みだしたままの仏像の方が有難味を感じる。
因みにこの仏像は三島市の指定文化財だった。
 沙弥壇の上の幔幕も開けてくれて阿弥陀如来も見せてくれた。この阿弥陀さんは最近作ったものだが、
この大きさの物は珍しいと自慢していた。

                          
                    鼻取り地蔵                     阿弥陀如来

ウーン矢張り仏像は間近で鑑賞すれば、その有難味も増し感動もする。色々な遍路はするが、このような機会は殆ど
経験しない。今回は光安寺さんの住職(若者は住職でした)の好意で拝観する事が出来た。ありがとうございました。

駿河百地蔵7回目-1

2013-12-22 23:10:01 | 寺社遍路
  95番目 ~ 100番目 地蔵                              歩行月日2013/10/27

歩行時間:6時間00分 休憩時間:2時間30分 延時間:8時間30分
出発時間:7時00分   到着時間:15時30分
歩  数:  31、339歩  GPS距離:25.7km
行程表
 沼津駅 0:05> 95番 0:50> 香貫山 1:15> 柿田川 0:40> 96番 0:15> 97番 0:15>
 98番 0:10> 99 0:45> 100番 1:15> 仏の里 0:30> 函南駅

              95番目(95番) 蓮光寺

 駿河百地蔵の遍路も今日で最終回だ。今日の予定は前回山門が閉じていた蓮光寺を廻り、次にこれも前回
中止した香貫山に登る。香貫山を下ったら柿田川の自噴を見て、源平川のせせらぎを歩きながら三嶋大社に
向かう。最後の100番目の札所を打ち終ったら、番外として函南に新装となった「仏の里美術館」を見学する。
そこから函南駅をゴールにする予定で、想定距離は30km弱。余裕のゴール予定だ。

 前回閉まっていた山門の扉は開いていた。朝が早いので少なからず心配していたのだが、お蔭で助かった。
境内に入ると本堂の前は砂利に箒目が入り清々しく感じる。その砂利の上に何やらオブジェ風の物が置いて
あるが何だろう。竹で籠を編んだ物や、枯枝を黒く塗った物もある。電灯線も引いてあるのを見るとイルミ
ネーションなのだろうか。それにしては電球が見当たらないが。
本堂の裏の墓地の方に行ってみると、寺は高台に建っていて東海道線の方が低く見える。本来なら富士山も
見えるのだが、生憎今日も姿を見せてくれていない。どうもこの百地蔵の遍路では富士山に嫌われたらしい。
寺が高台にあるので思いついたのだが、前回見付けた沼津城の本丸は狩野川に隣接していた。あの場所に
平山城を築くならこの高台に本丸を置いて、水運が必要な狩野川畔には三の丸でも設ければ、水難にも、
外敵にも防御しやすいと思うのだが。
 本堂の裏には「友愛地蔵尊」が建っていたが、この寺の百地蔵本尊は延命地蔵だからこれではない。
他に地蔵像がないかと探していると、本堂の前の方に立派な地蔵堂があった。その柱には「救世厄除地蔵尊」
と朱書きで書いた札が掛かっている。延命地蔵ではないがこれがご本尊だろう。

 
                        蓮光寺本堂                          蓮光寺地蔵堂
      蓮光寺の地図
 山門を出ると石仏を横に長く並べて置いてある。その中には六地蔵もあるが大量生産型で面白味がない。
その横にこれも大量生産型と思われる三十三体の観音像もある。台座を見るとそれぞれ番号と寺名が彫られて
いて、最後の観音像の台座には「三十三番 十一面観音 美濃国 谷汲山」と見れるので西国三十三観音なの
だろう。こうして六地蔵と観音像を並べてみると、同じ機械彫でも観音像の方は彫も細かく繊細に出来ている。
一方地蔵像はふっくらとした体形で、手に持つものも少なく変化に乏しい。そのため大量生産型の六地蔵を
見るとどれも同じように見えて詰まらなく感じてしまうのだろう。

 その六地蔵と観音像の横には古い石仏を集め露座のまま置いてある。その中に一風変わった子育地蔵が
あった。細身の体で顔を傾けた姿は、キリストを抱いたマリアのようにも見える。
厄除け地蔵ではないが、この地蔵尊を私の百地蔵としよう。

 蓮光寺を後にしてから門前に建っている「南無大師遍照金剛」の事を聞くのを思い出した。だが蓮光寺では
人影は無かったのだから仕方ない。きっと蓮光寺の元の宗派は真言宗だったのだと、これも勝手に断定する。

      
                       西国三十三観音像                        子育地蔵

              番外 香貫山

 沼津警察署の前で旧国1と合流し、その道を横断して狩野川を渡る。狩野川の水量が多いのは今日寄る予定の
柿田川の自噴の水が流れ込むのも一因なのだろう。川にはやはり水が似合う。天竜川や、大井川は上流でダムで
水を堰き止めているので川原は砂漠の状態で干上がっている。まさに河原砂漠の状態だ。かと言ってダムを廃止
すれば電気も水道も、工業や農業用水も早速困ってしまう。一度頼りだすともう後戻りはできなくなってしまう。

 車道を五重塔まで歩く。この五重塔は「沼津市平和塔」で沼津市出身の戦没者慰霊塔だそうです。ここからの
眺めも良いが、今日は更に山道を歩いて山頂に行く予定だ。前回沼津アルプスを歩いた時、山頂からの山道が
分からず車道を五重塔まで下ってしまったのでそのリベンジでもある。
五重塔から山頂に向かう車道の分岐点にハイキングコースの案内板はあった。山道を登り出すと途中に何度か
展望台への標識があったが、それを無視して山頂に向かう。そして五重塔から15分ほどで山頂に到着。
香貫山の山頂は見晴らしが効かないので展望台に移動するのだが、ここで途中にあった展望台の意味が分かった。
あの展望台とはこれから行く山頂直下の展望台の事なのだ。それなら五重塔から香貫山に登るときは、最初に
展望台に寄ってから山頂に来れば無駄な往復はしないで済むのだろう。
でも分からないのは山頂の標識に「右回り 山頂→山道→五重塔」となっていて「左回り 山頂→展望台→
車道→五重塔」
となっている事だ。展望台からは矢張り山道は無いのだろうか。

      
                        狩野川                           五重塔

 富士山の展望台からは富士山が見えなければ興味は半減する。しかも今日は遠くが霞んでいて伊豆半島も見えて
いない。こんな時は早々に退散するに限る。
また山頂への車道を戻り大きな地図を書いてある案内板を見る。この先に行先は狩野川の香貫大橋の袂に出てから
柿田川に向かうのだが、案内図を見ると最適な道は車道を少し東に進み、そこから山道を斎場に向かって下る。
そして一度車道を横断したら次の分岐を「グラウンド」に向かって下れば良さそうだ。
余りジロジロ案内板を見ていた所為か「何処へ行くんですか」声が掛かった。
「このグラウンドと言う所へ行きたい出すが」と言うと、最初は分からなかったようだが案内板を見て
「アー香貫大橋ですね。じゃ私もそっちに行くので入口まで案内しますよ」と言ってくれた。
これ幸いとばかりに一緒に歩いたのだ。山道の入口はすぐのはずなのに車道をずんずん進む。少し心配になり
「柿田川に行きたいのですが香貫大橋から近いのですか」と遠回しに私の行先を告げるが、別段慌てずに
「車道を20・30分も歩けば着きますよ」と言う。仕方ないもう任せるしかない。
ようやく「此処が入口です。分岐が一カ所あるけど右に行けばいいからね」と教えてくれた。言われた通り分岐を
右に取ると香貫大橋はすぐだった。途中に斎場の標識は無かったが、マーいいか。車道歩きで距離も稼ぎ無事
着いたのだから。ありがとうございました。


                      香貫山展望台から沼津港方面6
              95番目(96番) 蓮馨寺(湧水地)

ハイキングコースが県道と合流してアーチ型の香貫大橋を渡ると新しい太い道になった。道の両側も新しい
家が多い。その太い道が細くなり暫く行くと柿田川の駐車場があった。その前に三枝神社があり、その
鳥居の前に「十句観音経二百萬遍供養塔」彫られた石碑がある。その案内に
「十句観音経二百萬遍供養塔は天明9年(1787)建立。柿田川を渡る石橋は狭く(両側は目もくらむ奔流)で
溺死する事が絶えなかった。人々が集まり観音経を二百萬遍唱え亡き霊を弔った。」

そのまま見過ごせば良いのだが矢張り気になる。「両側は目もくらむ奔流」とは何処の川を指しているのか。
当然柿田川だが、柿田川とは全長は約1.2kmの日本で最も短い一級河川で、流水はほぼ全量が湧水から成る。
こうした川が目もくらむ奔流だろうか、マー行けばわかるだろう。

   
                   柿田川の流れ                      柿田川の地図

 案内板の供養塔は静岡県では他に見た事のない石碑だった。石碑の中央に観音像を丸く浮き出しにして
上部に文字を書いてある。十句観音経とは四国遍路のときに購入した経本に載っている「延命十句観音経」
ことなのか。それなら私もそらで唱える事が出来る。以前駿河一国、遠江、遠州の観音巡りをしたとき、般若心経
だけでなく、観音さんに縁があるお経がないかと見たところ、延命十句観音経が目に入った。その後札所で読んで
いるうちに自然に覚えてしまった。勿論自己流なのでアクセントも抑揚も適当なので人に聞かせるような物では
ないが。
「観世音(かんぜおん)。南無仏(なぶつ)。 与仏有因(よぶつういん)。与仏有縁(よぶつうえん)。
仏法相縁(ぶっぽうそうえん)。常楽我浄(じょうらくがじょう)。 朝念観世音(ちょうねんかぜおん)。
暮念観世音(ぼねんかぜおん)。念念従心起(ねんねんじゅうしんき)。念念不離心(ねんねんふりしん)

意味ですか。門前の小僧より落ちますので分かりません。

 柿田川を渡り、川の見えない道を遡って行くとお寺が見えた。休憩を兼ねて境内に入ると静岡県では珍しい
青面金剛像が二基もあった。しかもどちらも三猿が刻まれている。ここは清水町で駿河なのか伊豆なのか知ら
ないが、とにかく珍しい。寺の標識は「駿河・伊豆両国横道33観音札所 蓮華寺」となっていたが、伊豆の
横道33観音なら聞いた事があるが、駿河・伊豆両国33観音は初めて聞いた。色々な霊場があるものだ。

   
          十句観音経             青面金剛と三猿             青面金剛と三猿

 事前に清水町の図書館の所から柿田川の湖畔に降りると調べていったので、案外容易に川の畔に降りる事が
出来た。さざ波も無い静かな流れの柿田川をみて、また先ほどの。「両側は目もくらむ奔流」を思い出す。
それでも天明9年の今から226年前は湧水量が多く、柿田川奔流のように流れていたのだろう。としておこう。

 
                  柿田川の遊水地付近                     柿田川湧水地

 柿田川を出て国道1号線を東に進む。次の目標は三島の源兵衛川水辺の散歩道を歩いてみる予定だ。
ただこの目標は昨夜急遽決めたため、源兵衛川の場所がはっきり分からず、地図で玉川とか丸池の地名が
あり、水色の表示がある場所を源兵衛川だと適当に決めて地図を印刷してきた。
国道を右折して小さな川を辿って行くと、正解!池がありました。ここが源兵衛川に違いない。と池を回り込み
上流に行くと、アレ?川が無い。池は丸池と云い記念碑なども経っているが水は淀み清流とはとても呼べない。
それに何処にも源兵衛川の表示が無い。多分間違えたのだろう。それも又ヨシだ。
 丸池の横の県道を歩きながら右側の丸池の上流部を見ると一段下がって川のように見える。しかし今は川は無く
緑地帯と言うか住宅も所々に見えている。かってはきっと川だったろうと思われる。
県道が三嶋大社に続く道と合流した地点が千貫樋の交差点だったが、どうも腑に落ちない。今まで右側は川のように
落ち込んでいたのに合流した県道は平らで落ち込んでいない。そこでハタと気が付いた。丸池の上流はかって
柿田川のような湧水地だったが、今は水が枯れて緑地になってしまったのだ。きっと230年前はここも水が奔流の
ように流れていたに違いない。とまたもや妄想的歴史観が働いた。
それにしても富士山の積雪量が増え、昔の様に湧水が復活したら、この辺りの住宅はどうなるのだろう。横からの
水なら堤防で防ぐ事は出来るが、下からの涌水はどうして防ぐのか----

 千貫樋の事は東海道の時に話したので今回は止めておこう。

      
                   丸池                           千貫樋

 次の札所蓮馨寺は千貫樋から大社に続く道を東に進んだ三島広小路駅の先にあった。
山門を入ると右手に「芭蕉老翁墓」がある。エッ!松尾芭蕉の墓は大津「義仲寺」の義仲の墓の隣りあるのでは。
調べてみると「芭蕉の弟子だった蓮馨寺の住職が安永7(1778)年に建てたもので、墓の左面に
「いさともに麦穂喰はん草枕」
の句が刻まれている。」
とあった。

 ここの百地蔵のは本尊は本堂に祀られている聖徳太子作の日限地蔵で、かつては60年ごとに開帳されていた。
ところが、この地蔵が開帳されるたびに三島市内が大火に見舞われたため近年は開帳されていないという。
では仕方ない地蔵堂に祀られていた子安地蔵を私の本尊としておこう。

      
                  蓮馨寺本堂                     蓮馨寺子安地蔵
      蓮馨寺の地図

 境内の奥に聖徳太子を祀った太子堂がある。これはきっと日限地蔵を聖徳太子が造った縁で太子堂建てた
のだとおもったら、聖徳太子は建築に必要な曲尺を発明したとされており、建築関係の職人たちの守本尊だ
という。それで三島市内の職人たちが大正11年に奈良の法隆寺から勧請した太子像を祀ったものだという。

 聖徳太子像の写真を写すため境内の奥に行くと川が流れていた。その川べりには遊歩道らしき物が見えた。
辺りを見回すと「源兵衛川」の標識がある。ラッキー!既に諦めていた源兵衛川水辺の散歩道が楽しめる。

      
                   蓮馨寺太子堂                  聖徳太子像

駿河百地蔵6回目-4

2013-12-21 17:54:09 | 寺社遍路
  90番目 ~ 95番目 地蔵                              歩行月日2013/10/27

歩行時間:8時間15分 休憩時間:2時間7分 延時間:10時間22分
出発時間:6時33分   到着時間:16時55分
歩  数:  50、783歩  GPS距離:40.5km
行程表
 新蒲原駅 0:35> 90番 2:00> 91番 1:00> 阿児神社 2:30> 92番 0:05> 93番 1:20>
 千本浜 0:05> 94 0:30> 95番 0:10> 沼津駅

              93番目(93番) 清梵寺

 次の清梵寺は松陰寺から200mほどの東で、東海道に出なくても山門前の小道を行けば行けそうな所にある。
でもこういう道が油断大敵で、静岡では小道を出た所で方向感覚を失くしてしまったのだ。だが、今回は大丈夫
無事清梵寺の前に到着。
 この寺は臨済宗だったが白隠宗ではなく妙心寺派だった。松陰寺にこんな近い場所にあるという事は、以前は
松陰寺と関係あったと思われるが、何故か白隠宗にはなっていなかった。気になるなー。

 清梵寺の地蔵にはこんな言い伝えがあった。
「阿波の国の長者が原宿で息を引き取り、この地に葬られました。それを聞いた長者の妻は夫の死んだ原宿を訪れ
梵貞尼という尼になりました。梵貞尼は網元の清信宅にお世話になりながら、夫に墓に向かい朝夕拝んでいました。
あるとき網に一体の地蔵菩薩がかかると網元は心を打たれ、梵貞尼と力を合わせて、お堂を建て地蔵菩薩像を
安置しました。そして、この地に清信、梵貞の二文字を取り「清梵寺」というお寺を建立しました。」
 
 清梵寺のご本尊はこの地蔵菩薩像で本堂に祀られているが、清梵寺は「地蔵のお寺さん」と親しまれているため
本堂脇にも地蔵の立像、地蔵堂の中には40体以上の石地蔵が安置されていた。

 
                    清梵寺本堂と地蔵像                       地蔵堂
      清梵寺の地図

              94番目(94番) 長谷寺(高専柔道)

 清梵寺を出てまた東海道を東に向かって歩く。片浜駅の近くで流石に飽きてきて、駅を過ぎた所で海岸の道に
移った。初めは千本浜の松林の中を歩こうと思ったが、今日は気温もそれほど高くないし風も弱い。それなら
堤防の上の方が気持ち良さそうだと堤防の上を歩く。
 堤防の上からは駿河湾越しに伊豆半島、行く手前方には前に歩いた沼津アルプスも見えている。中央に一番
高く見える山は鷲頭山か、左に見える丸い山頂は香貫山だろう。
今時間は3時だ。これから香貫山の麓まで1時間以上は掛かるし、次の札所長谷寺にも寄らなければならない。
となると香貫山に登り出すのが4時過ぎになってしまいそうだ。
ウーンそれじゃ余りにも遅すぎる。今日の香貫山の下りは車道でなく山道を探そうと思っているから尚更だ。
矢張り阿字神社と田子の浦で時間を掛けすぎてしまった。
仕方ない今日は香貫山は見送って、次回の最終回の朝に登る事にしよう。
そう思ったら急に終盤モードに入り歩くペ-スがダウンしてしまった。

 千本浜の海岸ではモーターボートに引かせたウインドサーフィンや投げ釣りをしている釣り人が見える。しかし
魚が釣れている気配は無い。海岸に地引網の看板を建てた小屋があるが、観光地引網でもしているのだろうか。
堤防の上に車両止めが設置してある辺りから、親子連れなどが急に増えてきたので、道を松林の中に変更した。


                   駿河湾と沼津アルプス

 アレーあそこに見える松の木は「ターナーの笠松」のように上部に葉があるだけで下枝が無い。最近この笠松が
話題になったが、それは夏目漱石の「坊ちゃん」の中で、坊っちゃんと一緒に船釣りに出た赤シャツ教頭が
「ターナーの絵の様だ」と言った。そのターナーの絵画展の東京で開かれて、笠松が描かれた「チャイルド・
ハロルドの巡礼」
の絵が展示されている。そのせいで早速笠松が話題になったのだ。

 残念ながら千本浜の笠松は後ろの松林の緑と重なって、はっきりしないのが難点だ。それにしても
イタリアには笠松が彼方此方あるというが下枝は処理をしているのか、それとも自然に笠状になるのか?

    
                  笠松?                 ターナーの笠松

 千本松原の中は綺麗に整備されていて気持ちの良い遊歩道が続いている。その中に井上靖の文学碑が建って
いた。井上靖と云えば伊豆湯ヶ島の子供時代を題材にした「しろばんば」が有名だが、同じように大学時代の
自伝的小説「北の海」では、自身がやっていた第四高等学校(現金沢大学)の柔道の話もある。
今日はその柔道の話をしたい。
 最近オリンピックなどの柔道の試合が面白くないと思っているのは私だけでだろうか。
組み手争いばかりしていて投げ技が少なく派手さが無い。と思っていたのだが、井上靖のやっていた「高専柔道」
の事を書いた増田俊也の「七帝柔道記」を読んでからその認識が変わった。
 高専柔道とは旧帝大の柔道部で行われている、寝技中心の高専柔道の流れを汲む柔道で、現在オリンピックや
全日本選手権で行われている講道館柔道とは全くルールが異なる、世界唯一の非常に特殊な柔道だそうだ。
なにしろ寝技が中心なのだから寝技への引き込みが認められていて、普通の柔道は投技を掛けてもつれた時のみに
寝技への移行が許されているが、高専柔道では自由に寝技にいける。そのため、試合が始まるや立技を掛けないで
寝技になることが多く、ほぼ全ての試合が初めから寝技の攻防になると言っても過言ではない。
さらに選手の役割が決まっていて、引き分けを狙う「分け役」と、勝ちに行く「抜き役」とがある。分け役は必ず
引き分けなければならず、そのため普段の練習も寝技に引きこんだら、耐える事のみを練習しなければならない。
この様な柔道になったのは試合が15人戦という多人数のチーム編成のため、各学校も未経験者を多数入部させる
必要があり、寝技は立技よりも才能に左右される部分が少なく、かつ短期間で技術の向上ができるため寝技中心に
移行していった。このため講道館柔道のように立ち技中心の柔道では、寝技専門の高専柔道に勝つことができず
互いに別のルールを採用しで分れていった。
それで最初の話題の柔道の試合が面白くないに戻ると、この高専柔道は更に面白くなさそうだ。だが最近の日本
柔道は低迷しているのは、投げ技にこだわった綺麗な柔道を目指しているからだともいわれている。そうなると
この高専柔道が再び脚光を浴びる時代が来るかもしれないが、そうなると柔道の試合は増々面白くなくなる。
ウーン困った問題だ。

 
                  千本松原の中                             井上靖文学碑

 千本浜公園入口の高台に次の札所の長谷寺はある。この寺は駿河一国33観音の札所でもあるので寄った事が
あった。特に何があると云った寺ではなく、本堂が竜宮城の様だった記憶しかない。今回も寺の階段を登り境内に
入るが特に何が有る分けではなく、百地蔵の本尊は「境内露座」となっていたが、それすら見当たらなかった。
こういうお寺は面白くなので早々に出る事にしよう。
階段の降り、石碑の文字を見ると「観音 駿河一国31番札所 駿豆両国13番札所 霊場」となっていた。
やはりお地蔵さんはお呼びではないのだ。

      
                     長谷寺本堂                   参道入口の石碑
      長谷寺の地図

              95番目(95番) 蓮光院()

 香貫山に登るのを止めたため気分的に落ち着いたというか余裕が出て、いつもは殆どしない下調べの
していない寺に入った。この寺はさっき千本浜公園にあった銅像の案内に「増誉(ぞうよ)上人 旅の僧が
戦で焼けた松原を経文を唱えながら何年もかかって千本の松を植えました。増誉上人は千本山乗運寺の
開祖です」
とあった寺だ。
山門の左右の提灯には千本山と乗運寺の文字が揚羽の蝶の紋と共に書かれている。まるで料亭の入口の
ようで、少し気後れしたが千本松原を植えた僧に惹かれて山門を潜った。当然どうという事はないのだが、
境内は手入れの行き届いた植木類が所狭しと植えられている。
これほど裕福そうなお寺は高野山では見たが他に記憶は無い。開祖した増誉上人は旅の僧だったが子孫が
優秀だったのだろう。

 
                       乗運寺山門                          乗運寺本堂

 境内には気になる仏像もあるが若山牧水の墓があったのには驚いた。牧水は晩年を沼津で暮らし、
千本浜には記念館もあるが、墓の場所は知らなかった。それがこんな風に遭遇するとは----
墓の前の左側の歌碑は牧水の歌で「聞きいつゝたのしくもあるか松風の 今は夢ともうつつともきこゆ」
右側の歌碑は夫人の喜志子の歌で「古里の赤石山のましろ雪 わがいる春のうみべより見ゆ」とあった。

                
                                   若山牧水の墓

 この左の仏像は襟巻をしていて、右の仏像は頭巾を被っている。一体何の仏像だろう。
やけに細長い層塔(そうとう)もあったが少々バランスを欠いた細さだった。外にも大小の五輪の塔、何妙法
蓮華経なら「髭題目」だが、南無阿弥陀仏は何と呼ぶのだらう。髭題目と同じような筆遣いで書いた石塔が
二基。外にも気になる物が有るので、次回機会があったらまた寄る事にしよう。

    
            襟巻仏像              頭巾仏像             スリムな層塔

 乗運寺を出て狩野川の畔を歩く。狩野川は静岡県の川には珍しく水量のある川で、今日も流れているのか
いないのか分からないぐらい穏やかな川の流れだった。
その狩野川のあゆみ橋の袂の中央公園の中に沼津城本丸跡の記念碑が建っていた。沼津城がこの辺りに
あるとは知っていたが、具体的な場所は初めて知った。これも観歩のお蔭だ。だが今日は時間も遅い
最後の札所蓮光院が暗くなってしまうといけないので先を急ごう

 
                     狩野川御成橋                         沼津城本丸跡

 矢張り遅かったか。蓮光院の山門は既に閉まっていた。仕方ない山門前を見たら今日はこれで終わろう。
ここは沼津駅に近いから次回の最終回に蓮光院に寄ってから次に向かえばよい。うん。これで気が楽になった。
山門の階段横に古い石碑が建っていた。薄くなっている字を見ると「南無大師遍照金剛」と読める。
では蓮光院は真言宗なのか? イエ山門の右手には大きな石碑で「臨済宗 蓮光院」と彫られている。
でも真言宗の弘法大師の宝号である南無大師遍照金剛の石碑が何故ここに建っているのか、きっと元は真言宗で
途中で臨済宗に宗旨替えをしたのだろう。調べてみるとこんな記述を見つけた。
「蓮光寺の創建は北条時頼が開いたのが始まりと伝えられている。当初は大岡院と称し車返し牧の御所の旧地に
あったが天正8年(1580)の小田原北条氏と甲斐武田氏の兵火をはじめ何度も焼失や洪水などの被害を受けた。
その後、徳岫禅師が再興、臨済宗に改宗し寺号を蓮光寺に改め現在地に境内を移した。」

これでは元の宗派が何宗か分からないが、今日の所は真言宗にしておこう。次回チャンスがあれば聞けばよい。

 
                    閉じていた蓮光院の山門         南無大師遍照金剛




駿河百地蔵6回目-3

2013-12-20 16:54:17 | 寺社遍路
  90番目 ~ 95番目 地蔵                              歩行月日2013/10/27

歩行時間:8時間15分 休憩時間:2時間7分 延時間:10時間22分
出発時間:6時33分   到着時間:16時55分
歩  数:  50、783歩  GPS距離:40.5km
行程表
 新蒲原駅 0:35> 90番 2:00> 91番 1:00> 阿児神社 2:30> 92番 0:05> 93番 1:20>
 千本浜 0:05> 94 0:30> 95番 0:10> 沼津駅

              92番目(92番) 松陰寺(富士塚)

 阿字神社の里宮から「海から富士山」の出発地の田子の浦漁港に向かった。
今年の夏は漁港が工事中だったため、海岸に降りる事が出来ず、海抜0mの出発ができなかった。
漁港の工事もそろそろ終わっている事だろうと、来年のために現地を確認する事にした。
 漁港の工事は思惑通り終わっていて、例年出発地にしているテトラポットのある海岸には無事降りる事が出来た。
海から富士山を歩き始めた時は、海水をペットボトルに汲んで剣ヶ峰で撒こうかと思ったが、海水を汲むのが
中々大変で結局諦めてしまった。来年の区切りの古稀の登山ではどうしよう。海水を汲むべきか、汲まざるべきか。

 
                    田子の浦漁港                     漁港の隣の海岸

 海岸から富士塚に向かう。何時もは早朝のため富士塚もハッキリ見えないが今日は案内板も読むことができた。
「鈴川の富士塚は、富士登山の前に身の穢れを払う場で、登拝者は海岸で水垢離の精進潔斎を行い、玉石を砂山に
積み上げて登山の安全を祈願した。身を清めた登拝者は村山浅間神社に至る村山道を通り、富士山頂を目指した。」

 案内板には書かれていないが、毎年浅間神社がこの富士塚で神事を執り行うそうだ。その際、富士塚の次に
阿字神社でも神事を行うそうだが、その理由として「富士宮浅間大社の湧く玉の池の龍が、潤井川を辿り阿字神社の
池に訪れる」
からとする説があった。
チョット待ってよ、この案内板を見ても分かるように、ここからの道は富士宮浅間大社ではなく村山浅間神社だ。
この龍の話は、諏訪湖の龍が湖底同士が繋がっているとした遠州桜ヶ池に現れる話を真似したのではないか。
ただ阿字神社の池が余りにも小さく、湖底が繋がるには無理があるとして潤井川を使ったのだろう。
余り見え透いた話では却って品が落ちてしまう。
 そうそう先日の新聞に、諏訪湖と桜ヶ池の間を龍が渡る時の休憩池と云われている、遠州水窪の幻の池の
調査が行われていると載っていた。この幻の池とは浜松市天竜区水窪の亀の甲山の中腹に、7年に一度出現
する池で、縦70m、横40m、水深1.2mほどの大きさだという。
折角伝説として話すなら、このように神秘的で規模の大きいものにしてもらいたいものだ。

 私の場合は水垢離は行わないが、海岸では唯一覚えている般若心経を唱えた後、小石を持ってきて富士塚に
奉納している。現在の富士塚は玉石をコンクリで固定しているが、昔の富士塚はケルンのように石を積み上げた
物だったのだろう。今日は富士山には登らないので小石は持参しなかった。
 案内板の登山コースは「村山道」となっているが、私の歩く道は「須山口登山道」で村山道より宝永山に近い
登山道だ。最初は私も村間古道を歩く予定だったが、調べていくと私の足では村山古道は2泊必要と思えてきた。
一方須山口は1日目で6合目の山小屋まで歩けるので1泊するだけで登山が可能の判断し、今も続けている。

 富士山をバックに六地蔵の写真を写したかったのだが、生憎富士山山頂だけが雲で塞がれている。
カメラが使えない時はバッチリ富士山が見えていたのに、いざ写そうとするとこんなものだ。
これも日ごろの行いが悪いせいか。

 
                    富士塚                            六地蔵
      富士塚の地図
 六地蔵から海岸の高台を下り線路沿いに東海道を歩く。南(右)側は10mから15m位の小高い砂山が阿字神社
から続いている。これはまさに天然の防潮堤のような物にに思える。
見付宿が高波などの影響で今井地区に移転になったとあったが、電柱の住居表示が今井になっている。その内
元吉原宿と同じ元吉原小学校も出てきた。しかしここに移って来た宿場も、津波の被害を受け移転している。
この高台を越す津波とは一体何mの津波が襲ったのだろう。
富士市の防災マップを見て気が付いた。この辺りの津波は海岸から高台を越してくる津波ではなく、港から
沼川を遡ってくる津波にやられたのではないかと。しかし富士市の防災マップは沼川周辺は津波の被害想定は無く
街道の南側に急傾斜地危険地域の色付けがされているだけだった。これは河口付近の防潮堤が整備されせい
なのだろう。それにしても海岸を襲う想定津波高が2.7mとは低すぎるように感じるが。

 桧交差点の近くに「(元)吉原宿跡」の表示杭があった。それにしても元吉原の元に()があるのは何故だ。
そう云えば見付宿の案内板にも(元)吉原宿と書いてあった。
アッそうか。元吉原とは吉原宿が移転した時、新しい場所を吉原と表示し、以前からあった場所を元吉原と
呼んだのだ。それゆえ吉原宿と書くと混同するので元吉原宿。だが実際には元吉原宿は無かったので仮の
名前だと知らしめるために(元)吉原宿と書いたのだろう。
(これに気づいた時は得意だったが、いざ書いてみると当り前の事の気がする)

 六王子神社は生憎工事中だったので境内に入るのは止めた。ここの案内板の最後に書かれている
「おあじは鈴川の阿字神社に祀られています」の一言で、随分楽しむことができた。ありがとうございました。

 
                    元吉原宿跡                           六王子神社

 東海道を原宿の松陰寺に向かって歩くが余り面白味のない道だ。東海道が国道1号線になった道は昔の街道の
面影はなくなり、見る物少なくなっている。この道も今は国1はバイパスの方に移り、旧旧国1の県道になって
交通量こそ減ったものの、ただ歩くだけの道だった。
 そんな中、原宿の松陰寺に13時50分にようやく到着。途中随分道草を食ったため遅くなってしまった。
松陰寺と白隠禅師な事は色々なブログに載っているので、今日は少し切り口を変えて紹介する。
まず、松陰寺の山門の屋根だが、一見瓦葺に見えるがこれは石瓦葺きで、幅約30cm、長さ約1mの石を1面3段
54枚、裏表合わせて108枚を用いて葺かれており、白隠禅師の考案といわれる。
さすが白隠さん、僧侶のだけの事はあって、石の数を108枚にしている。この108と言う数は仏教では・煩悩の数・
数珠玉の数・除夜の鐘が撞かれる回数などがあるのだから、当然白隠さんも意識して作ったのだろう。
他にも108に関して面白い事を最近知った。「茶寿」という長寿のお祝いは108才のお祝いだという。理由は
草冠「艹」を「十十」、「𠆢」を「八」、「ホ」を「十八」と見なし、十 + 十 + 八十八 = 108だという。
これで白隠さんが108才で亡くなったのなら最高だが、亡くなったのは84歳だった。

 山門に「白隠宗」「大本山松陰寺」の額が掛かっている。白隠宗?聞いた事がなかったので調べてみると
「現在の日本の臨済宗は江戸時代に白隠が再興したものであるが、松陰寺は大正時代臨済宗妙心寺派から
独立して白隠宗と称するようになった」
とウィキペディアには書いてある。
では臨済宗の宗派を見てみると白隠派は載っていない。何故だろうな。
因みに静岡県の臨済宗の総本山と名乗っている奥山方広寺は、方広寺派として主に静岡県内に170ヶ寺の
末寺があるとなっていた。
また、百地蔵の札所でもあった静岡の臨済寺は妙心寺派だった。

 境内に地蔵像を何体も安置してある地蔵塚があった。一体何体あるのか数えようと思ったが途中で分からなく
なりそうなので止めた。

 
                   松隠寺山門                           松隠寺地蔵群
       松隠寺地図

駿河百地蔵6回目-2

2013-12-19 16:56:39 | 寺社遍路
  90番目 ~ 95番目 地蔵                              歩行月日2013/10/27

歩行時間:8時間15分 休憩時間:2時間7分 延時間:10時間22分
出発時間:6時33分   到着時間:16時55分
歩  数:  50、783歩  GPS距離:40.5km
行程表
 新蒲原駅 0:35> 90番 2:00> 91番 1:00> 阿児神社 2:30> 92番 0:05> 93番 1:20>
 千本浜 0:05> 94 0:30> 95番 0:10> 沼津駅

              番外 阿児神社(おあじ)

 陽徳院の次の札所は原の白隠寺だが、その前に以前から気になっていた阿字神社に寄って行くことにした。
東海道を歩いているとき、東田子の浦の柏原六王子神社の境内にこんな案内があった。
三股の伝説・三つの川が合流する三股渕に龍が住んでいて、毎年若い女を奉げていた。
ある年、関東の巫女7人がここを通りかかり、巫女の中で一番若い「おあじ」が生贄に されてしまった。
仲間6人は国許に引き返す途中、ここ柏原まで来て悲しみの余り世を儚んで浮島沼に身を投げてしまった。
村人は6人の亡骸を祀ったのが六王子神社といわれている。おあじは鈴川の阿字神社に祀られています」

なるほど、柏原の村人は仲間を生贄にされ、力を落とし浮島沼に身を投げた6人の巫女を祀っていた。
これを読んで感じたのが、六王子神社は心優しき村人が建てた神社で、案内板も書きやすいだろう。
では巫女を生贄にした鈴川の村人は、どんな理由を神社の由緒書に書いて「おあじ」を祀ってあるのだろう。
と、当時は興味津々だったが、どうしても阿字神社を見つける事が出来なかった。。

 阿児神社を探しながら、この話をネットで検索すると、富士市役所のHPにも紹介されていた。
「生贄にされるおあじは覚悟を決めていたが、徳川家康に毒蛇退治を命令されていた地元の僧侶が三股渕で
読経すると、毒蛇は鱗を何枚か残して退散してしまった。
命の助かったおあじは仲間を追って柏原まで戻り、そこで仲間の死を聞いて、余りの悲しさに同じ沼に身を
投げてしまった」
と、おあじは柏原で身を投げて死んだ事になっている。
しかし 柏原の六王子神社にはそんな事は一言も書いてない。もしこれが本当なら心優しき柏原の住民は
六王子神社を七王子にして一緒に祀ったに違いないのだが。
それにいつの間にか龍が毒蛇になってしまっている。

さらにこんな話しも
「生贄になるおあじは、京にどうしても行かなければならない用事がり、用事を済ませたら必ず戻る事を
約束して京に向かった。
生贄になるために吉原へ戻るおあじの話が帝にも知れ、おあじを生贄にしてはならないという宣旨も出た。
一方毒蛇は僧侶達の読経で逃げてしまったので、おあじは生贄にならないですんだ。
だがおあじは大蛇の霊を慰めるため三股渕に堂宇を築き一生を終えた」
 とあった。

伝説とはこんなもので、話をする場所や人により都合よく変わってしまうのだろう。
では私の妄想的歴史観では-----
「毎年洪水で悩まされていた鈴川の村人は、人身御供をして三股渕の流れを鎮めようと、京に向かう7人の
巫女の一人おあじをかどわかした。
おあじを人身御供で三股渕に沈めてしまった鈴川の住民達に、暫くして柏原の住民が、身投げをした
おあじの仲間6人の巫女を、神社に祀って供養しているという話が聞こえてきた。
それを聞いた鈴川の住民たちは、このまままでは自分達が悪者になってしまうと、慌てておあじは人身御供に
しなかったとして、阿字神社を建てて別の話を作った」
 となります。

 それが1年ほど前に阿字神社を話題にしたネットの記事を見付けた。それによると阿字神社は吉原駅の裏の
公園にあるらしく、何時か尋ねてみようと思っていた。
今回の百地蔵では鈴川付近には札所は無いが、丁度今日は時間的にも余裕があり、少し遠回りをするだけで
阿字神社に寄る事が出来そうなので寄る決断をした。

 阿字神社に寄る前に田子の浦港の前を通った。港を見てみようと寄ったが、フェンスに鍵が掛かり中には
入れなくなっている。港ってこんなに厳重なの? 漁港しか知らない私は、港の岸壁は魚釣りをする場所と
思っていたが、どうやら間違いのようだった。

 吉原駅の南口の前に公園がある。ここは海から富士山の帰りに歩く場所なので良く知っていた。だが
場所は知っていたがここに阿字神社があるとか知らなかった。
公園に来てみると新しい津波タワーが完成していた。これで何人の位が乗る事が出来るのだろう。
一番上に登ることができなくて、津波に浚われる事はないのだろうか。

      
                  田子の浦港                      津波タワー

 公園の中や周りを探したが阿字神社は見つからない、散歩中の人に聞いたが知らないと言う。
仕方ないので田子の浦港から見えた仏舎利の方に行ってみようと、公園から高台に登り西に向かう。
途中にあった人におあじの伝説を説明して神社の事を聞いたが
「この辺りには神社は無いし、そんな話も聞いた事がない」
とつれない。
妙法寺というお寺が出てきたが近くに仏舎利塔は見えなかった。寺の前を通り道なりに下ると、先程通った
田子の浦港に行く道に出た。もうこれじゃ仕方ない阿字神社は諦めて、今年の海から富士山の時は工事中で
海岸まで下りる事が出来なかった田子の浦漁港を確認にすることにして歩き出す。
すると道路脇に「海の見える丘公園」の標識が建っていた。
折角ここまで来たのだから高台から港を見てみようと、今下った道を登り直し、更に西にむかった。

 妙法寺の裏から高台の道は西に向かって延びていて、その入口に「阿字神社」の石碑が建っていた。
フーやっと見つけた。ネットに書いてあった公園とは、この港の見える丘公園の事だったのだろう。1年前に
見ただけなので私の記憶違いだったのだろう。
高台の上にあった阿字神社の鳥居には「阿字神社奥宮」の額が掛かっている。神社はコンクリ製で頑丈だが
風情は感じられない。案内板は立派な石碑で「阿字神社由緒」と彫られているが非常に見難いものだった。
ただその内容は一番最後に紹介した「京から戻ったおあじは、股渕に堂宇を築き一生を終えた」説でした。

 奥宮の近くに里宮の案内もあった。高台を下り港からの車道の脇に阿字神社の里宮はあった。そこにも神社の
由緒書があり、こちらはまだ新しく読みやすかった。
「阿字神社は天正の昔三ツ股渕の毒蛇に人身御供として進んでその身を捧げ人々の難儀を救おうとした
少女阿字と善龍と化した八大竜王をこの池を守る水穂の守として祀ったものである。(以下略)」

アレアレこの説明では、おあじは進んで人身御供になったとしてある。しかも柏原で身を投げた6人の巫女の
事には触れていない。さらに初めには毒としていたのが、善に代ってしまっている。これは誤って書いた
ものなのか、それとも故意に書いたのか。故意ならまさに毒善的だ。

里宮の前に小さな汚れて池があった。この池について由緒書には
「神池は竜王の棲む心字池として阿字神と竜王の聖地としたものです」 とあった。

 
             阿字神社奥宮                                阿字神社里宮
      阿児神社の地図
 この阿字神社のあった高台には他にも気になる物が建っていた。それは「見付宿跡」の記念碑だった。
吉原宿が津波の被害で、海岸から内陸に宿場が移った事は知っていたが、こんな海辺でしかも高台に宿場が
あったとは知らなかった。しかも宿場の名前が磐田と同じ見付宿とは驚いてしまった。
ともかく「見付と元吉原宿」の案内板を読んでみよう。
「鎌倉時代の初めころ、この辺りに見付が構えられ、東海道を往来する旅人を改め、吉原湊から対岸の前田まで
舟渡しをしていました。
 その後、南北朝から戦国時代になると、吉原湊が、軍事的、商業的に重要視され、この見附には、道者商人
問屋も置かれ、宿場、港町としての機能を合わせ持つようになりました。
 しかし、この地は港からの高波や、砂丘からの漂砂の害がひどく、天文年間(1532~1554)に、今の鈴川今井
地区へ所替し、まもなく吉原と改名され、東西の旅人で繁栄しました。
 慶長6年(1606)に至り、徳川家康によって、東海道駅伝制が敷かれ、吉原宿として指定されました。
しかし、この地も寛永16年(1639)に度重なる漂砂や高波の被害で、依田橋村西方に所替しました。」


理解しやすい説明で吉原宿の移転の経緯は分かった。だが見付の解釈が私の知識とは違っていた。
案内板では「見付で旅人を改め」とあるが、徳川時代では見付は枡形と同じような宿場の簡易防御施設で、関所の
ような役目が無かった。これは鎌倉時代は見付で関所のように人改めをやっていたという事なのか。
更に記念碑には「見付宿跡」と彫られているが、案内板の表示は「元吉原宿」とあるのだから紛らわしく感じる。

 吉原宿の変遷について「この駅の替わる事三度、往還の替わる事五度、駅名は昔古は見附宿と言えり。
鈴川村の西入口を今に元吉原という字残り、古帳面に鈴川村西灯籠川添い砂山きわに阿ち神下と有り。」

と古文書には記載されているようだが、実際は「見付宿⇒元吉原宿(鈴川今井地区)⇒吉原宿(依田橋)⇒
吉原宿(依田原)」
と4回変わったようだ。
 さらに追加するなら、この見附宿から舟で対岸に渡ったとあるが、ここから蒲原宿の海岸にも渡し船は
出ていたともあり、この見附宿はかなりの賑わいを見せていたようだ。

 
                       見付宿跡                         見付宿の案内板

 仏舎利塔は阿字神社山宮の隣に建っていた。その時はおあじの事や東海道の事で頭が一杯で仏舎利塔の由緒を
確認するのは忘れてしまった。
 湊の見える丘公園は仏舎利塔の隣で高台の西の果てにあり、その先の一段下は田子の浦港になっていた。
ネーミングは港の見える丘公園だが、実際は松が成長していて、港は樹間からしか見えない。その代り砦のような
感じの展望台があり、そこからは沼川や富士山が見えていた。(港は清々見えなかった)

       
                仏舎利塔                       港の見える丘公園の展望台

 田子の浦港に注ぎこむ沼川は、海水の逆流で周辺の農地は甚大な被害を受けていて、明治18年に石の水門を
造り、海水の逆流を防いでいた。その記念碑が公園の展望台の下に建っていた。
「石水門は、当時の最先端の土木技術を取り入れ、オランダ人の助言を受けて設計した静岡県最初のセメントを
使った石造アーチである。水門の開閉については、水位差を利用して自動的に閉まるよう工夫され、天候悪化の
際は手動で門を閉じる事が出来た。伊豆石を用いた六連式アーチの美しさは「六ツ眼鏡」の愛称で親しまれた。
しかし昭和41年に田子の浦港築港と沼川防潮水門の建設により撤去された。」

 
 
                  展望台から沼川と富士山方向           沼川石水門記念碑  


駿河百地蔵6回目-1

2013-12-18 16:18:38 | 寺社遍路
  90番目 ~ 95番目 地蔵                              歩行月日2013/10/27

歩行時間:8時間15分 休憩時間:2時間7分 延時間:10時間22分
出発時間:6時33分   到着時間:16時55分
歩  数:  50、783歩  GPS距離:40.5km
行程表
 新蒲原駅 0:35> 90番 2:00> 91番 1:00> 阿児神社 2:30> 92番 0:05> 93番 1:20>
 千本浜 0:05> 94 0:30> 95番 0:10> 沼津駅

              90番目(90番) 宗清寺(東海道)
 5回目の遍路が日没ゴールになってしまったので百地蔵も後2回歩く事になった。だが残りを2回に分けると
なると距離が少なすぎるので、今回は最後に沼津の香貫山に登る予定にしている。更に気が向けば途中で
東海道を歩いた時から気になっていた、阿児神社も探してみようと思っていた。ようは今日は楽勝ペ-スで
距離も延びない予定だ。でも電車は相変わらずの始発電車で、自分の小心さをあらわしている。

 蒲原駅の出口は南側にあるが東海道は線路の北側にある。この配置は静岡県では珍しいケースで普通は
東海道が通っている方向に駅は向いている。三島と沼津は東海道が海側の南を通っているので改札も南側。
それ以外の原、吉原、富士、蒲原、興津、清水、静岡、藤枝、島田、掛川、袋井、磐田、浜松の各駅は全て
東海道が山側の北を通っているので北側に改札がある。
ただ古い駅で唯一例外は金谷駅で、東海道は駅の直前でガードを潜って反対側に出ている。そのため駅の
改札のある付近では東海道と改札が反対向きになってしまっている。
 駅が出来た当初は東海道がメイン通路だったのだから当然な事だが、新しい駅はそんな事は考慮する事も
なくなっている。この新しくできた新蒲原駅は東海道とは反対向きだが、狭い街道側に駅を造るより、広く
開けた南側に駅を作った方のが安く、広く利用できて正解だったと思う。
 でも今日はその南側の駅の出口が災いしてしまった。駅を降り駅前広場で、東海道は何度も歩いているので
今日はこのまま線路の南の道を歩いてみよう、と歩き出してしまった。
駅から30分も歩いて道が製紙会社に当たった丁字路を左折。踏切を越え旧国1に出た所で思い出した。
今日は義経硯水と浄瑠璃姫の墓を見る予定だった事を。
今更引返すの癪だし、場所も分からないのだから諦めた方のが良さそうだと簡単に中止してしまった。

 宗清寺は旧国1の左の山の手にあるので、途中で左折して住宅地の中に入る。上に延びていそうな道を探し
ながら登って行くと寺らしき屋根が見えてきた。義経硯水は外れだったが宗清寺は当たりだ、と機嫌も治る。
では山門前で宗清寺の写真を写そうとシャッターを押す。アレー「記録ができません」と表示が出る。
もう一度電源を入れ直すと「カードがありません」と出た。慌ててSDカードを確認すると入っていなかった。
前回写真をPCに取り込んで、カメラに戻すのを忘れてしまったのだ。
ワー!地獄だ。これでは今日の遍路の記録ができない。ガクッとやる気が失せてしまった。
 それでも気を取り直し境内に入ると富士山が見えている。今まで見えなかったのにこんな時に限って見え
やぁがる。神さんは意地が悪い。しかも境内には他にも気になるものが幾つもあった。

 山門には富士川梅園の立看板もある。何々ここに梅園があるなら来年は富士川駅から、ここの梅園を見て
富士の岩本山の梅園までのコースを考えてみよう。その時写真を写そうと気を取り直す。
でも写真が無いと読むだけでは臨場感が出ないので、ここは申し訳ないがネットの写真を利用させてもらう。

 
                   宗清寺山門                       宗清寺の墓地からの富士山
      宗清寺の地図
 宗清寺の地蔵は通称笠被り地蔵とか福地蔵と呼ばれる延命地蔵尊です。お堂の前の案内板によると
「頭上に大きな笠(直径1m)を被り、手には宝珠をもち、結跏趺坐しています。像高1.5mで、信州高遠の
石工が製作しました。 当初は山門右側に安置され、前面を通る東海道に向かっていたので、街道を往来する
旅人たちは「笠被り地蔵さん」と、口々に伝えたので、東海道の名物として評判になりました。」

 ここの石仏も信州高遠の石工が造っていた。こうなると静岡県の石屋さんの先祖は、高遠出身という家が
有りそうな気がする。知人の石屋のNさんはどうなんだろう。こんど聞いてみよう。

 更に気になったのは「前面を通る東海道に向かって」の文言だ。宗清寺前の道は現在は東へは抜けれるが
西方向は一度下の平坦地まで下りなければ道は無い。それが寺の前に東海道が通っていたとは---
俄然興味を覚えてきた。
以前東海道を東から歩いた時は、富士川を渡ると川の右(西)岸の高台を登り、岩淵の間の宿や一里塚を経て
山中を歩いて蒲原の新坂を下り、平坦な場所にある蒲原一里塚に出た。これは富士川駅辺りの平坦な場所が
津波や富士川の氾濫に襲われたため、山中の道になったと想像していた。
元の東海道は現在の旧国道1号のルートで、富士川を渡ったら、高台の下を廻るようにして富士川駅を通り、
蒲原一里塚に出ていた。これなら平坦だし距離が短いのだから当然このルートだと思っていた。
だが高台にある宗清寺の前が街道となると話が違くなる。
 調べてみるとどうやら寺の案内板は正しいようで、東海道は慶長六年(1601)から天保十四年(1843)までは
宗清寺の前を通っていたことは確かなようだった。コースは蒲原一里塚を過ぎた辺りで、高台の中腹を東に
向かい宗清寺の前に通じていたようだ。宗清寺からは下には下りず、現在の県道を北に登っって岩淵一里塚に
出ていたようだ。
それが災害か何かで宗清寺までの道(七難坂)が通行不能となり、高台に登る所から北の山中に行く新坂を
開通させ、その道が東海道として明治まで続いていた事になる。
ようは富士川駅付近の平坦地は、当時は湿地帯か富士川の河川内で歩行が困難だったのだろう。

 クドクド書いてしまったが、東海道を歩けば岩淵付近ではきっと「何故こんな山中を」と疑問に感じると思う。
宗清寺の笠被り地蔵が山門の前で旅人を見守っていたなら、確かに良い評判になっただろう。

      
     笠被り地蔵                    笠被り地蔵

 地蔵堂の中に珊瑚を彫った十一面千手観音像が安置されていた。この様な仏像は本堂の沙弥壇の上に祀ら
れているのが普通で、こんなに間近に置いてある事は珍しい。中々気風のいいお寺さんだ。
境内には微笑観音や観音さんの石画もある。その石画の周りには番号の書いた札を置いてあるのを見ると
西国か四国の写し霊場か。
富士山も見えるし、何かゆっくりして居たい雰囲気だが、カメラのSDカードの事が気になり落ち着かない。
ともかく富士市まで行って電気屋に寄ってみよう。
 
  
                   十一面千手観音                       観音様

              91番目(91番) 陽徳寺

 初めの予定では宗清寺から旧東海道の岩淵の一里塚に向けて歩く予定だったが、SDカード購入に、より確率の
高そうな旧国道1号を歩く事にして富士川駅前に下って来た。どうせ富士市内までは無理だと思いながらも。
セブンイレブンがあるが、コンビニでSDカードなど売ってはいないだろうが、聞くだけ聞いてみようと中に入る。
「ハイ、4Mで950円です」ウワッ!高! 電気屋の倍はするが仕方ない。と購入する。これでカメラの心配はない。

 富士川の土手を歩いて富士川橋に向かう。静岡県の川は大雨のあと以外は水量も少なく穏やかな様相を見せて
いるが、一旦大雨が降ると濁流に変身する。これを見た昔の人は、駿足・駿馬の駿を使い「駿(はやい)河(かわ)」
としたようだ。中でもこの富士川は日本三大急流の一つで駿河の語源になった川でもある。

 富士川を渡ると水神社があり、その境内に「渡船場跡」「富士山道」の石碑が建っている。
渡船場は東海道の渡船場だった証で、富士山道は西から富士登山に来た人は、ここで身を清め富士山に向かった
場所だ。この場所からなら登山口は富士宮口で、かっては村山登山口だろう。

 
        富士川と旧国1富士川橋                          渡船場址と富士山道

 陽徳院は吉原岳南鉄道吉原本町駅の横で、目標がはっきりしていて分かり易い。富士川橋も吉原本町も
東海道の道順にあるので、街道を歩く積りではなくても時々標識があったり、見覚えている場所があったりした。
陽徳院は駅の隣とはいえ少々分かりづらかった。お寺というより庵かお堂といった感じの建物で、寺の正面に
行かないと見分けがつけにくい。
境内には六地蔵の他にも地蔵が安置されていて、そのうち一つは小さな笠状の物を被っていた。
また、「法界塔」と銘打った石幢(せきどう)には座像や立像の六地蔵が彫られていた。
本堂の軒下には百地蔵の標札と御詠歌が張ってあった。案外小さい寺の方が、この標識はあるようだ。

  
                地蔵堂                               石幢

      陽徳寺の地図

大崩山塊(朝鮮岩・満観峰)

2013-12-16 08:32:48 | 低山歩き

                        朝鮮岩から

                        満観峰から

 昨日は近所の人4人で、安倍川駅から朝鮮岩-丸子富士-満観峰-焼津駅を歩いてきました。
下では風が強く寒い日だったようですが、山の中では風は余り感じる事もなく、寒さも歩き出せば汗も出る状態でした。
このルートの目的は富士山の展望ですが、最近の富士山は機嫌が良く、ほぼ毎日顔を出してくれています。
昨日も写真技術が稚拙なため、写真は上手には写せませんでしたが、端正な姿を見せてくれていました。

 富士山を見るならこの時季はお勧めです。是非このコースを歩いてみて下さい。
昨日のメンバーは70才前後の男性ばかりで、山歩きは初心者のコースタイムを紹介しておきます。

安倍川駅   -   朝鮮岩   -   満観峰   -   石脇口   -   焼津駅
 8:30        9:40 10:00      11:30 12:05     13:30 13:35       14:10 

 朝鮮岩のロープ場と丸子富士は捲き道を歩いています。
余裕があるなら満観峰から高草山へ登り、志太平野を眺めるのも楽しいですね。