遠州七福神(弁財天・福禄寿天)2 歩行月日2013/03/23
歩行時間:8時間50分 休憩時間:2時間15分 延時間:11時間05分
出発時間:5時45分 到着時間:16時50分
歩 数: 54、766歩 GPS距離:41.8km
行程表
菊川駅 1:30> 上張南交差点 0:55> 六枚屏風 0:15> 小笠山 1:15> 山本橋
1:15> 馬伏塚城跡 0:50> 松秀寺 1:05> 福王寺 0:45> 大日堂>1:00> 袋井駅
観歩記
山本橋からは県道403号の信号まで西に下って行く。その信号を左折して、今度は太田川の
手前にある中村交差点までは只々県道を歩く分かりやすい道だ。その代り見るものも少なく
面白味のない道でもあった。
山から出てすでに県道を1時間以上歩き11時半を過ぎてしまった。腹も空いてきたので何処
か昼飯を食べれそうな場所を物色しながら歩く。
あったあった「風見の丘」と名前の付いた公園の看板が見えてきた。あそこで昼飯を食おう
と近づくと風見の丘公園へは、まだダラダラと上に登って行かなければならない。
止めた!疲れが増すようなことはしたくない。
馬伏塚城跡の土塁跡 案内板の城絵図
更に10分も歩いて行くと今度は「馬伏塚(まむしづか)城跡」の看板があった。もう腹が空き過
ぎて限界に近い。これ以上歩いたらガス欠になってしまいそうだ。兎も角昼飯にしよう。
帰りに城の案内板を見ると、現在の地形図や古い城絵図などが見やすく表示されていた。
残されている部分は小さく狭いが、絵図の縮図は南北1000mありかなり大きい。
「この城はいつ築かれたのか明らかではないが、文亀元年(1501)に遠江国守護の斯波氏と
駿河国守護の今川氏が遠江国の支配権を巡って中遠地域で激しい戦闘が繰り広げられた頃
今川氏の拠点として登場しており、この時に城塞としての機能を果たしていた事がわかります。
城主として史料に登場する最初は、今川氏の重臣で小笠原春茂親子であ、高天神城の城主も
兼ねていたとされています。
今川氏が滅亡すると小笠原氏は徳川家康の配下となり、天正2年(1574)南遠地方の要であった
高天神城が落城し、徳川方から武田に支配が移ると、家康は馬伏塚城を高天神城攻略の作戦
本部と位置づけ、大改造を行って現在の岡山集落全域を取り込む城郭に造り上げました。
天正9年(1581)に高天神城を落城させるまで、大須賀城と共に戦略上重要な位置を占めます。
しかし、徳川家康による遠江支配が安定する天正10年にはその役割を終えて廃城となった。」
案内板には1501年に斯波氏と今川氏が激しく戦っていたとあるが、その頃はすでにこの辺りは
今川の勢力下だったので、この城の築城の目的は斯波氏の残党の睨みが主だったろう。
それと気になったのが、馬伏塚城の城主が高天神の城主も兼ねていたあるが逆ではないか。
規模も大きく重要性も高い高天神城主が馬伏塚城主を兼ねていたと書くべきではないか。
どちらでも同じ? そうですね細かい事にイチャモンを付ける悪い癖が出てしまった。
松秀寺弁天池 松秀寺山門のミニ草鞋
これから回る5寺は、全て以前に遠州33観音巡りで来たことのある札所だ。その時は専用の
納経帳は持っていたので、ご朱印を打つだけで納経料が100円だった。余りに安くてわざわざ
呼鈴を鳴らして頼むのも気が引けたので、お寺の人に会った時だけ納経を頼んでいた。
今回の七福神は白紙の納経帳に書いてもらう方法なので納経料は300円となっている。
これなら呼鈴を鳴らして呼び出しても、さほど気を使わないで済む。
その納経料はお釣りを貰わないで済むように百円玉を用意してきている。理由は駿河33観音
のある札所で500円出したところ「500円でよろしいですか」と確認されてしまった事がある。
寺側とすればお釣りはお賽銭と思うのかもしれないが、私とすれば500円では高すぎるよ思う。
100円では安くて申し訳なく、500円では高すぎる。中々煩い奴だ。
1時に松秀寺にやっと到着。山か出て2時間半以上も掛かってしまった。しかしこの松秀寺は
気分が良かった。まず山門前の弁天池には睡蓮の新芽が沢山浮かんでいて、花の頃にはさ
ぞかし見事だろうと想像できる。それに弁天さんを祀ってあるなら池が無ければ寂しい。
今まで焼津と藤枝の二ヶ所の七福神を巡ったが、弁天さんが本尊の寺なのにどちらも弁天池
が無かったので余計に嬉しく感じた。これでこそ弁財天の札所だと思った。
山門の脇には幾つかの石仏が堂宇の中に鎮座していて、その堂宇の格子には小さな草鞋が
幾つも吊り下げてある。足の神様なのだろうか?後で聞いてみよう。
弁財天祭壇 弁財天ご本尊
ご朱印をお願いに行くと「お詣りをどうぞ」と言って本堂に案内してくれた。本堂左に弁財天の
祭壇を祀ってあり、そのご本尊の厨子の扉が少し開いていた。写真は駄目なのかなと思った
が誰もいないの良い事に写してしまった。罰が当たりませんように----
納経所に行くと「これをどうぞ」と言って「御福銭」と「つもりちがいの十条」それに「東北復興の
ため東北の人が書いた仏画のカレンダー」を差し出してくれた。しかもお茶付きで。
こういうお接待は何より嬉しい。1回目では車のお接待を誘われ、今回はこのようなお接待で
遠州七福神はご利益がありそうな感じだ。
もっとも弁天さんは音楽、芸術、水、財産の神様らしいので私には関係ありそうもないが。
そうそう御福銭とは、五円玉が御福銭と印刷された熨斗袋の中に入っている物で、中々気の
利いたお接待だ。
お金のお接待は四国で何回か受けたが、そのお金は三途の川の渡し賃として、そのまま仕
舞ってある。この御福銭もその中に入れておこう。
それと「つもりちがいの十条」も面白いので紹介します。
一条 高い つもりで 低いのが 教養
二乗 低い つもりで 高いのは 気位
三条 深い つもりで 浅いのは 知識
四乗 浅い つもりで 深いのは 欲の皮
五条 厚い つもりで 薄いのは 人情
六乗 薄い つもりで 厚いのが 面の皮
七条 強い つもりで 弱いのが 根性
八乗 弱い つもりで 強いのが 我
九条 多い つもりで 少ないのは 分別
十条 少ない つもりで 多いのが 無駄
私にも該当しそうな項目が幾つかあるので気を付けなければいけないな。
茶を貰い少し話をして1時半に松秀寺を出発した。次の札所は福禄寿天の福王寺だ。
折角雑談までしたのに山門にあったミニ草鞋の事を聞くのを忘れてしまった。
歩行時間:8時間50分 休憩時間:2時間15分 延時間:11時間05分
出発時間:5時45分 到着時間:16時50分
歩 数: 54、766歩 GPS距離:41.8km
行程表
菊川駅 1:30> 上張南交差点 0:55> 六枚屏風 0:15> 小笠山 1:15> 山本橋
1:15> 馬伏塚城跡 0:50> 松秀寺 1:05> 福王寺 0:45> 大日堂>1:00> 袋井駅
観歩記
山本橋からは県道403号の信号まで西に下って行く。その信号を左折して、今度は太田川の
手前にある中村交差点までは只々県道を歩く分かりやすい道だ。その代り見るものも少なく
面白味のない道でもあった。
山から出てすでに県道を1時間以上歩き11時半を過ぎてしまった。腹も空いてきたので何処
か昼飯を食べれそうな場所を物色しながら歩く。
あったあった「風見の丘」と名前の付いた公園の看板が見えてきた。あそこで昼飯を食おう
と近づくと風見の丘公園へは、まだダラダラと上に登って行かなければならない。
止めた!疲れが増すようなことはしたくない。
馬伏塚城跡の土塁跡 案内板の城絵図
更に10分も歩いて行くと今度は「馬伏塚(まむしづか)城跡」の看板があった。もう腹が空き過
ぎて限界に近い。これ以上歩いたらガス欠になってしまいそうだ。兎も角昼飯にしよう。
帰りに城の案内板を見ると、現在の地形図や古い城絵図などが見やすく表示されていた。
残されている部分は小さく狭いが、絵図の縮図は南北1000mありかなり大きい。
「この城はいつ築かれたのか明らかではないが、文亀元年(1501)に遠江国守護の斯波氏と
駿河国守護の今川氏が遠江国の支配権を巡って中遠地域で激しい戦闘が繰り広げられた頃
今川氏の拠点として登場しており、この時に城塞としての機能を果たしていた事がわかります。
城主として史料に登場する最初は、今川氏の重臣で小笠原春茂親子であ、高天神城の城主も
兼ねていたとされています。
今川氏が滅亡すると小笠原氏は徳川家康の配下となり、天正2年(1574)南遠地方の要であった
高天神城が落城し、徳川方から武田に支配が移ると、家康は馬伏塚城を高天神城攻略の作戦
本部と位置づけ、大改造を行って現在の岡山集落全域を取り込む城郭に造り上げました。
天正9年(1581)に高天神城を落城させるまで、大須賀城と共に戦略上重要な位置を占めます。
しかし、徳川家康による遠江支配が安定する天正10年にはその役割を終えて廃城となった。」
案内板には1501年に斯波氏と今川氏が激しく戦っていたとあるが、その頃はすでにこの辺りは
今川の勢力下だったので、この城の築城の目的は斯波氏の残党の睨みが主だったろう。
それと気になったのが、馬伏塚城の城主が高天神の城主も兼ねていたあるが逆ではないか。
規模も大きく重要性も高い高天神城主が馬伏塚城主を兼ねていたと書くべきではないか。
どちらでも同じ? そうですね細かい事にイチャモンを付ける悪い癖が出てしまった。
松秀寺弁天池 松秀寺山門のミニ草鞋
これから回る5寺は、全て以前に遠州33観音巡りで来たことのある札所だ。その時は専用の
納経帳は持っていたので、ご朱印を打つだけで納経料が100円だった。余りに安くてわざわざ
呼鈴を鳴らして頼むのも気が引けたので、お寺の人に会った時だけ納経を頼んでいた。
今回の七福神は白紙の納経帳に書いてもらう方法なので納経料は300円となっている。
これなら呼鈴を鳴らして呼び出しても、さほど気を使わないで済む。
その納経料はお釣りを貰わないで済むように百円玉を用意してきている。理由は駿河33観音
のある札所で500円出したところ「500円でよろしいですか」と確認されてしまった事がある。
寺側とすればお釣りはお賽銭と思うのかもしれないが、私とすれば500円では高すぎるよ思う。
100円では安くて申し訳なく、500円では高すぎる。中々煩い奴だ。
1時に松秀寺にやっと到着。山か出て2時間半以上も掛かってしまった。しかしこの松秀寺は
気分が良かった。まず山門前の弁天池には睡蓮の新芽が沢山浮かんでいて、花の頃にはさ
ぞかし見事だろうと想像できる。それに弁天さんを祀ってあるなら池が無ければ寂しい。
今まで焼津と藤枝の二ヶ所の七福神を巡ったが、弁天さんが本尊の寺なのにどちらも弁天池
が無かったので余計に嬉しく感じた。これでこそ弁財天の札所だと思った。
山門の脇には幾つかの石仏が堂宇の中に鎮座していて、その堂宇の格子には小さな草鞋が
幾つも吊り下げてある。足の神様なのだろうか?後で聞いてみよう。
弁財天祭壇 弁財天ご本尊
ご朱印をお願いに行くと「お詣りをどうぞ」と言って本堂に案内してくれた。本堂左に弁財天の
祭壇を祀ってあり、そのご本尊の厨子の扉が少し開いていた。写真は駄目なのかなと思った
が誰もいないの良い事に写してしまった。罰が当たりませんように----
納経所に行くと「これをどうぞ」と言って「御福銭」と「つもりちがいの十条」それに「東北復興の
ため東北の人が書いた仏画のカレンダー」を差し出してくれた。しかもお茶付きで。
こういうお接待は何より嬉しい。1回目では車のお接待を誘われ、今回はこのようなお接待で
遠州七福神はご利益がありそうな感じだ。
もっとも弁天さんは音楽、芸術、水、財産の神様らしいので私には関係ありそうもないが。
そうそう御福銭とは、五円玉が御福銭と印刷された熨斗袋の中に入っている物で、中々気の
利いたお接待だ。
お金のお接待は四国で何回か受けたが、そのお金は三途の川の渡し賃として、そのまま仕
舞ってある。この御福銭もその中に入れておこう。
それと「つもりちがいの十条」も面白いので紹介します。
一条 高い つもりで 低いのが 教養
二乗 低い つもりで 高いのは 気位
三条 深い つもりで 浅いのは 知識
四乗 浅い つもりで 深いのは 欲の皮
五条 厚い つもりで 薄いのは 人情
六乗 薄い つもりで 厚いのが 面の皮
七条 強い つもりで 弱いのが 根性
八乗 弱い つもりで 強いのが 我
九条 多い つもりで 少ないのは 分別
十条 少ない つもりで 多いのが 無駄
私にも該当しそうな項目が幾つかあるので気を付けなければいけないな。
茶を貰い少し話をして1時半に松秀寺を出発した。次の札所は福禄寿天の福王寺だ。
折角雑談までしたのに山門にあったミニ草鞋の事を聞くのを忘れてしまった。