はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

芹ヶ谷峠近くの221m峰

2017-12-30 13:32:24 | その他

前回の歩きで気になっていた芹ヶ谷峠入口近くの221m峰へ景色の確認に行ってきました。

 
              我家の2階からの富士山                            アップ

  夜中に小雨が降った朝、2階の雨戸を開けながら富士山の方角を見ると・・・・・・・
我家の2階から富士山は、高草山と花沢山の中間の日本坂峠と水分大神のピ-クの上に見えます。
丁度稜線が低くなった所で良いのですが、正面に送電線の鉄塔がドンと居座っているのが難点です。
眺望権を主張したいのですが、40年前に引っ越して来た時から鉄塔は建っていたのでどうしょうもありません。
それに鉄塔やその点検路には、低山歩きでお世話になっている身としては送電線の悪口は言えませんよね。

マーそんな事はさておき白くなった富士山を見て、急遽芹ヶ谷峠の221m峰に行ってみたくなったが、急いで行かないと
雲が出てしまいそうです。そこで急遽妻を誘って車で行く事にした。


                                  芹ヶ谷峠付近の221m峰より

  221m峰にはアンテナの点検中の人がおり挨拶を交わして、何のアンテナか確認すると 「アマチャ無線用アンテナ」 との事。
共同で管理していると思われるが、共同のアンテナは小夜の中山の火剣山にも建っていたが、随分金の掛かる趣味だと思う。
挨拶を終え写真を撮りだすと、もう一人の人に 「危ないからもっと離れて」 と注意を受けて移動したのだが許してくれない。
 「もっと離れろ、もっと離れろ」 と、最後には 「バカ野郎!出ていけ‼」 と怒鳴りだした。
胸ぐらを掴みかねない勢いで近づいて来る人に、君子危うきに近寄らずで慌てて退散をしました。
                       221m峰の場所

          
                                 芹ヶ谷峠入口付近から

  折角ここまで来たのだからと芹ヶ谷峠入口付近から未練がましく写真を撮っていると、上からトレランの人が駆け下りてきた。
 「高台に行ってきました?」 と聞くと 「人が居たから入らなかった」 そうです。そーそれが正解のようです。


                                  丸山花木展望台より

  折角付き合ってくれた妻をビックリさてただけでは申し訳ないと、徳願寺下の丸山花木の展望台に行く事にした。
展望台からの景色を見た妻は 「さっきの場所より、こっちの眺めのが素晴らしい」 と言ってくれたのは私への慰めかな?

          
                                 丸山花木展望台より

  どちらも似たような景色だが、私にはここからの眺めは安倍川も静岡市街も近すぎるような気もするが、どっちこっちでしょう。 

          
                                 丸山花木展望台より

  丸山花木展望台には以前は無かったこんな案内板も造られていました。
                   丸山花木展望台の場所

城ロマン:大崩山塊城廻り(丸子城趾)

2017-12-24 10:18:19 | 低山歩き
歩行記録                                                           H29-12-2(土)
歩行時間:6時間55分   休憩時間:1時間20分   延時間:8時間15分
出発時刻:7時30分     到着時刻:15時45分
歩  数: 21、685歩(推定距離15.4km)    GPS距離km
行程表
 用宗駅 0:25> 赤坂峠 0:30> 石部立坑換気所 0:35> 赤坂峠 0:30> 御所の前 0:45> 尾根道合流 0:35> 
芹ヶ谷峠  0:35> 222m峰 1:10> 誓願寺 0:25> 丸子城跡 0:25> 匠宿 1:00> 安倍川駅

                             丸子城趾付近の概略図


  今日最後の行程は、丸子城址に西側の誓願寺から登城し東側の匠宿に下城します。帰りは丸子川の遊歩道を歩いて安倍川駅に
向かう歩き慣れた道です。

        
                           誓願寺                               丸子城趾入口

  誓願寺は京都方広寺の鐘に 「国家安康」 と刻み、家康に弁明に来た片桐且元が滞在した寺ですが今日はパスです。
何回も歩いた道で油断したのか道を間違いてしまいました。寺を出て真っすぐ進み、山の麓に来るとその先は道が無くなっていた。
シマッタ! ここは太い道を進むのではなく、駐車場の後ろの細い下水の上を行くのだったと引き返す始末です。
ここには看板があり “看板の後ろを進みます” とか書いてあるが、余りに細くて勘違いしてしまう人も出そうです。

 
                 本丸への道                                 本丸跡

  山道になれば後は一本道だが “初めチョロチョロ、中パッパ” てな感じで、中々大変な登りでした。
やっと本丸跡に出たが、何やら以前より本丸が遠く急になったように感じたのは年のせいでしょうか。

  丸子城は持舟城と違い派手な戦闘は無かったようですが、武田の駿河侵攻時も、その後の徳川による武田征伐の折も、既に
勝敗の行方は決まっていて戦う意味もなかったのでしょう。
そんな丸子城に対し持舟城では二つの戦いで多くの戦死者を出しています。果たしてどちらの城主が名将なのでしょうか。

  
                                    本丸跡の案内図

  分りやすい縄張りが建っていました。今私の立っている本丸は駿河侵攻で丸子城を手に入れて武田方が増設した本丸です。
今川時代の本丸は現在の北曲輪の場所が本丸だったようです。
このように城を大幅に拡張したのは、武田軍が東海道に面したこの地が駿府の西の守りの要になると判断したからでしょう。

  縄張を見ても曲輪の周りを堀が廻らされているのは分るが、実際には更に複雑に多くの堀があります。それも自然の地形か
堀か判断に苦しむ様な堀でなく、一目で堀と分かる様な堀です。
ただ東遠の城廻りで歩いた金谷の諏訪原城の堀に比べると、堀の深さは劣るが数や堀の総延長では負けていません。
なのにあちらは国指定の史跡で、こちらは無指定なのが不自然なくらいです。
国が無理なら県や市の指定では思うのですが、これも素人の私の目と、プロの認定委員の目の違いでしょうか。

でもです。こんな記事も見つけました。
 「丸子城のように、ここまで完璧な戦国山城はそうそうありません。遺構は 「よく残っている」 なんて生易しいもんじゃなく、
 「建物以外そのまんま」 に近い状態で、技巧面でも 「堀切」 「土塁」 「竪堀」 「横堀」 「枡形」 「馬出し」 「馬蹄段」 「武者走り」
などの戦国城郭の定石が隙間なく連続し、まさに 『中世城郭築城技法をすべて見せます!』 的なものになっています。」

どうですか、これで無指定とは静岡市の怠慢と思いませんか?

        
               三角点                                     堀 跡

  本丸跡の隅に四等三角点の “城山” があります。点名を城山としたのは地元そう呼んでいるのでしょうか。標高は139.8mです。
点の記には他にも 自動車到達地点が丸子稲荷駐車場とあり、そこから20分400mともあった。
普通なら西の誓願寺か、東の匠宿の駐車場になると思うのだが、丸子稲荷にしたのはそこから直接登る道があるのだろうか? 
丸子稲荷は東海道に近い場所にあるので、イザという時の攻撃用の道かもしれない。
今度行ったら確認してみたい、なんて出来もしない事をすぐ思うのも悪い癖だ。
それと三角点の土地の所有者が宗教団体名のようだったが、ここが芹ヶ谷峠のようにならない事を願うばかりです。

先程説明した様に堀は何ヶ所もあり、持舟城で勉強した 堀切=尾根を仕切るように作られた堀や 竪堀=斜面に縦に造られた堀
横堀= 平坦部の周りに沿って造られた堀 などの復習もできます。

 
                    北曲輪                                三日月堀

  イエイエそんな生意気な事を言える私の脳ではないのです。縄張を見て匠宿のある泉ヶ谷は本丸を真っすぐ行った先にあると
早合点してしまい、本丸の先で道を探したのですが、あるのは北の駿河峰に向かう道だけです。
ここは城址見学や蕨採りで何度も歩いている道で間違いようもないのにこの始末です。
縄張図に戻り再確認したが分からないので、兎も角駿河峰に向かう北への道を行く事にしました。

  北の曲輪に出ました。ここは今川時代の本丸の後という事で広場になっているが、武田の本丸跡より大分狭い。
あちらが千畳敷と言うなら、こちらは百畳敷とぐらいの広さだ。
駿河の城主今川は家督争いを繰り返していtが、今川義元の父・氏親も父の従兄弟の小鹿氏と家督争いをしていた。
氏親の父・義忠が遠江斯波方の勝間田城と横地城を攻め落とし、凱旋の途中で遠江塩買坂で横地城の残党に襲われ討死した。
そのとき嫡男の氏親はまだ幼く、氏親が成人するまでは小鹿氏が家督を継承することになった。
だが氏親が成人しても小鹿氏は駿府の今川館に居座り家督を譲る気配は無かった。
氏親の母・北川殿は兄(弟)の伊勢新九郎(北条早雲)に助けを求めると、伊勢新九郎は焼津の石脇城で旗揚げし、今川館を
襲撃して小鹿を討ち取り氏親を当主の座に着かせた。

で、それが丸子城に何故関係すのかと言うと、幼かった氏親は小鹿氏を恐れ、母北川殿と隠れ住んだのがここ丸子城とも云われて
います。幼い氏親がこの辺りを駆け巡っていたかと思うと違った意味で丸子城に愛着も湧いてきます。
そうそう、大河ドラマ直虎で、浅丘ルリ子が演じた 「女戦国大名 寿桂尼」 は義忠の正室で義元の母です。

 
                                    北曲輪跡の案内板

  こちらにも城の縄張図が建っていて、この図を見て本丸と北曲輪の位置関係が納得できた。
今までは案内板は見ずに道なりに歩いて疑問も持たなかったが、中途半端な理解で図を見て頭がこんがらかったようだ。
それにしても芹ヶ谷峠の歩き慣れた道での混乱を含め、これからは注意しないといけない事が増えてしまった。ア~ヤダ ヤダ!

  案内板を読んで気になる事があった。案内板に丸子城は 「山城」 と表記されていてるの当然のことながら、先日行った
持舟城のことは現地の案内板は 「平山城」 と紹介していた。
山城と平山城そして平城の違いは何でしょう? 言葉から何となく想像できるものの、持舟城が平山城で丸子城が山城となる理由が
分からりません。それならと例によりネットで検索しました。

 山 城 = 険しい山に建てられる防御最優先の城
 平山城 = 平地にある小高い山や丘に建てられる城
 平 城 = 平地に建てられる城

山城の険しい山は気になるものの、この位の定義なら言葉からでも想像できます。だがこれでは持舟城と平山城の違いが分からない。
さらに調べてみると 「城の基本知識と戦いのための構造がわかる (監修=小和田哲男)」 では
 「近くの平らな部分から標高100m以上であるか否かを基準にする。」 としていると紹介している物があった。
こらなら判定しやすく、また小和田氏なら静岡大学の名誉教授で講演会も聞いた事のある方です。
早速大崩山塊で歩いた城跡を判定してみました。

 方の上城 = 城跡の標高230m 麓集落の標高10m 差120m =山城
 石脇城  =         30m           2m  差28m =平山城      
 花沢城  =         140m          30m 差110m =山城 
 持舟城  =        75m            5m 差70m  =平山城
 丸子城  =         140m          30m 差110m =山城
 この方法なら確かに持舟城は平山城で丸子城は山城に分類されます。ヨシ!今後はこの分類方式でいく事にしよう。

 
                大日如来の元宿山か                              丁字屋
   丸子城を下り国道1号線に出ると正面の高台の上に大きな木が見えた。多分あそこが大日如来のある元宿山でしょう。
旧東海道に入ると “梅若菜丸子の宿のとろろ汁” の芭蕉の句で有名な丁字屋の前を通ります。

 
               221m峰のアンテナか?                             拡 大

  丸子川の遊歩道を歩いていると南側の稜線の上に長い棒状のアンテナが見えた。多分あれは221m峰のアンテナだろう。
今日は天候の加減で眺めが良くなかったが、近いうちにもう一度行ってこようと思います。

城ロマン:大崩山塊城廻り(芹ヶ谷峠)

2017-12-20 11:51:05 | 低山歩き
歩行記録                                                           H29-12-2(土)
歩行時間:6時間55分   休憩時間:1時間20分   延時間:8時間15分
出発時刻:7時30分     到着時刻:15時45分
歩  数: 21、685歩(推定距離15.4km)    GPS距離km
行程表
 用宗駅 0:25> 赤坂峠 0:30> 石部立坑換気所 0:35> 赤坂峠 0:30> 御所の前 0:45> 尾根道合流 0:35> 
芹ヶ谷峠  0:35> 222m峰 1:10> 誓願寺 0:25> 丸子城跡 0:25> 匠宿 1:00> 安倍川駅

 
                  熊野神社                                  御所の前

  赤坂峠の標識にあった熊野神社です。神社前にある案内板は市の天然記念物になっている銀杏の木の事だけで、神社の説明は
ありません。急に上に行く気も無くなり、鳥居の下の一礼で済ませてしまいました。

  御所の前は日本武尊が東征の折に小坂で滞在した館があった所だそうです。
今日はここから農道に入り朝鮮岩のある稜線入口に向かいます。

 
                城山(持舟城址)                               目の毒です

  標高が少し上がってくると持舟城があった城山が見えてきます。
以前朝鮮岩に持舟城の攻防戦の案内がありました。
 「天正年間(1573-91)用宗の城が攻められし時、この岩の上に幕を張り陣取りして城を見下し鉄砲を撃ちしより、城中たまりかねて
落ちたりといひ依う(駿河国新風土記)」

天正年間の持舟城の戦いとなると徳川軍が用宗城を攻めた時なので、徳川の射撃手が朝鮮岩から火縄銃を打ち込んだのだろう。
しかし朝鮮岩から持舟城趾は直線で2km弱あります。果たして火縄銃の弾丸が届いたのでしょうか。
マー殺傷能力は無いとしても、城内に着弾すれば守備兵は驚いたに違いありません。それなのに “城中たまりかねて落ちたりと
いひ依う” 本当かなぁ~

  農道にはみ出して蜜柑がなっています。公徳心の薄い私には、とっても目の毒な眺めです。

 
                朝鮮岩入口                                 獣防止の柵

  農道から朝鮮岩の稜線に出るには、農道の登り坂の途中から入らなければならないので気にしていました。
写真左のモノラックの開始点の先に見える階段が入口ですが、以前と違って階段の上には獣除けのネットが張られていて、その
扉が設置されていました。これなら見落とす恐れはありません。

 
                縦走路合流                                 又もや藪だ

  以前は踏み跡が何条もあった森の中も今はハッキリした道が尾根まで続いています。この道を利用すれば日本坂峠から満観峰、
丸子富士、朝鮮岩の周回コースを歩けます。
モノラックは農道の山道入口にあったレールで稜線の茶畑まで続いています。それにしてもここのレールは赤錆で触れば手も服も
赤くなってしまいそうで近づけません。換気所のレールとは随分違います。

  稜線には農業用索道があるのですが、その向きが北の丸子方面に下っています。モノラックは南の小坂に下っているのだから
向きが逆です。今は使われていないが、一体何を何処へ運んでいたのだろう。

  今日は換気所と芹ヶ谷峠近くの高台からの景観を確認する事と、ここの小坂分岐から芹ヶ谷峠下にある小野寺分岐に通じる道も
確認したいと思っていた。今日は更にもう1ヶ所調べる予定の所もあるが、それは現地にってからの案内としましょう。

  御所分岐から小野寺分岐への道は安倍山系(下)の満観峰にも部分的に 「藪っぽい」 と紹介されている道だが、まだ歩いた事は
なかった。今日は朝鮮岩には寄らなのでこの道を歩いた方が高低差も無く距離も短そうです。

        

  御所分岐から見えていた藪の手前に行くが藪を踏み分けて歩いた気配は無いので、付近を行ったり来たりしたが、徐々に藪の
中に入る熱は醒め “次回小野寺分岐から歩こう” と妥協してしまった。
では朝鮮岩と芹ヶ谷峠の分岐のある330m峰に向おうと、御所分岐に戻れば良いものを藪を突っ切って林に入って行った。

        
               いい道に出た                          丸子赤目ヶ谷方面か

  林に入るとしっかり踏み込まれている道に出て “この道は?” と考えていると、右の上の方から30人くらいの女学生の集団が
下ってきた。だが私の立っている所は通らず、そのまま満観峰に向かって歩いて行く。
彼女たちの歩いていた道は330m峰から下ってきた道とすると、この道は何処へ行く道だろう? ここには330m峰の巻道もあるが、
それは300m峰から下る道の右側を巻いている。なのにこの道は左側だ。
ならこの道は少々立派過ぎるが小野寺分岐への道でしかない。と、これ幸いにと進む事にした。

 
               芹ヶ谷峠分岐                                小野薬師寺分岐

  途中に2ヶ所の分岐や左に丸子方面が見える場所もあり、間違いなく初めて歩く道だと意を強くして進んでいった。
傾斜が増してきて変だと思い出したころで前方に見た事のなる標識が建っていた。
何と!何と! そこは330mの朝鮮岩と芹ヶ谷峠の分岐でした。
もうこうなると頭の方向感覚はパニック状態で、何が何だか分からない状態になってしまった。
今歩いて来た道が過去10回以上は歩いている満観峰と朝鮮岩の道なのか?
では何故女学生は違う道を上から下りて来た事になるが、巻道はあんな上から下ってこない。ではどの道を下ってきたのか?
いくら考えても納得できない。戻って確認すれば良かったものの、その時はそれすら思いつかず “今度確認に来よう” と前に行く事に。

  先程の道より薄いがそれでもハッキリした道を下り、ここも見慣れた小野寺と芹が谷峠の分岐に出た。
御所分岐に向かう筈だと以前から思っていた場所には、薄くなっているが踏み跡はありました。
次回はここから御所分岐に向かい、今分からなくなった道を確認することにします。

 
                  狐の大群                                   祈 念力

 分岐の少し上にある送電線23号塔の横を通り登って行くと、摩訶不思議な石塔群のある場所に出ます。
小さな狐の大群は捨ててあるのでしょうか? 祀ってあるのでしょうか?
 「祈 念力」 の石碑の前には2匹の狐とサイコロでしょうか、 “五” の目が出ています。
他にも「平和竜神」「竜巻明神」「八紘大龍神」「大和姫命」「大雄魂」 そうそう 「導稲荷」 なんと石碑もあります。

 
                  至誠通天                                芹ヶ谷峠

  石碑には 「人生相談五十年 至誠通天伸光社」 もあるのでこの宣伝のためだろうか? 尤もこれでは逆効果だろうが。
 「至誠通天」 の意味を調べてみると 「誠を尽くせば、願いは天に通じる」 という意味で、吉田松陰の言葉だそうです。
その石碑の奥には何ともいかがわしい形の物も見えています。本当に何なんでしょう、この石塔群は。

  峠と呼べども307m峰の上にあり三角点もあります。久し振りに 「点の記」 を覗いてみました。
 「点名:丸子宿1 自動車到達地点:丸子橋より東500m沢川下橋、これより農道を南へ約1.3km農道待避所 歩道状況:鉄塔巡視道
 (巾約0.8m) 徒歩時間:約30分(約450m) 三角点周囲の状況:桧林、石碑、芹ヶ野峠」
 等々結構細かく書いてあります。
周囲の状況欄に芹ヶ谷峠の事を “芹ヶ野峠” と書いてあるのは単なる誤記のようで、点の記の図には “芹ヶ谷峠” となっています。
点名の “丸子宿1” の “1” も気になります。1があれば2もある筈と調べてみると、芹ヶ谷峠から丸子宿を挟んだ北にある徳願寺尾根の
梵天山の山頂の三角点がそうでした。因みに丸子宿内にある沢川下橋袂の三角点は 「丸子西」 でした。
私が調査官なら、沢川下橋袂を “丸子宿” 、芹ヶ谷峠を “芹ヶ谷峠” か “丸子南” にして、梵天山の三角点は “梵天山” か “丸子北” と
命名したいと思います。

 
          221m峰のアンテナが見える                          221m峰の西側は採石場

  峠からの林を出るとそこは猪の運動場かと思えるくらいススキなどの背の高い草が倒されていた。これでは初めて来た人はどっちに
向かってよいか分からないだろう。でも私は大丈夫過去何回も歩いているので。
今日は農道待避所下にある巡視路入口(登山口)に向かわず、尾根伝いに221m峰を直接目指そうと思っている。
しかし最初は同じ道を下るのだが余りの背の高い雑草が多く、途中で正規の道も分からなくなってしまった。
でも今日は尾根伝いに行くのだからと、左に寄りの稜線沿いに北に向かうと前方に目的地のアンテナが見えてきた。

 
           フ~完全な蔦の細道だ                             人か獣の踏み跡

  アンテナが見えているので先程のように歩行感覚が狂ったとしてもどうと云う事はないが、ススキなどの上に葛が生茂り まさに
蔦の細道状態になっているのにはイササカ参りました。
藪漕ぎにも色々あるが、この蔦を踏み分けるのも中々大変で、体で押し切れるうちは良いが、蔦が何本か集まると私の力では押し
切れなくなってくる。仕方なく蔦を下げてその上を歩くのだが、これが中々大変で老いた体力は急激に消耗してきます。
以前放置茶畑に蔓延した蔦を越えたが、その時は30mを越えるのに30分以上もかかり体力を消耗しきった事もある。
今日はそれ程でもなかったので何とか進む事ができました。

  蔦の攻撃が済むと今度は又もやススキ類の攻撃だ。蔦より始末が良いが背の高いススキなどを踏み分けるのも中々大変です。

 
           採石所跡の太陽光発電                              もう諦めました。

  稜線に近づき過ぎて採石場の上に出てしまいました。写真では緩やかの見える斜面も実際はもっと傾斜がきつく、落ちたら怪我を
する事は請け負いです。クワバラ! クワバラ! と慌てて稜線から離れました。
雑草の少なそうな所を選びながら進んだのですが、茨状の枝が出たきたので稜線伝いは諦めます。

 
              林の下に林道が                               221m峰直下だった

  下の植林の林に入ってしまえば稜線に比べ全然歩き易い道です。イエ間違い。道はありません。ただ林の中です。
ですが驚いたことに林の下に待望の舗装道路が見えています。あれは芹ヶ谷峠の入口からアンテナの高台に向かっていた農道に
違いない。意気揚々と農道に飛び降りました。

  そして農道を少し登ると、その上には目的地の221m峰の高台が見えていました。

 
                  谷津山方面                               日本平方面

  221m峰から見る景色は期待を裏切らない眺めだったが、何故か写真の写りが悪く、白っぽい平面的な写真になってしまった。
多分これは腕やカメラのせいでもあるが天候のせいでもありそうだ。それなら富士山が見えるときにもう一度来るのも悪くない。
写真を拡大すると清水港のキリン(クレーン)が4頭も写っていたのには驚きました。
そんな訳でここからの写真は、今回の写真では見る人に感激を伝えそうもないので次回紹介します。



  以前芹ヶ谷峠の入口で農家の人が 「昔は大日如来の所から、アンテナのある高台まで歩いていた。」 と聞いたことがある。
なので今日は221m峰のアンテナの高台から大日如来のある高台まで歩いてみる事にします。
昔はよく歩いていた道らしいので、先程の蔦の細道みたいな苦労は無いだろうと予想していますが。

  大日如来とは丸子二軒屋に入口のある農道に入り、途中にある “元宿山 大日如来 登り口 ” の看板からミカン畑の中を登った
高台に大日如来を祀った小さな祠が大木の下にあります。ベンチも設けられていて丸子歩面が良く見える所です。

 
               無舗装の道は続いていた                        無舗装の道は途絶えた

  221mの高台から北に向かう農道は舗装は終っていたが道は続いていた。だがその道もじきに終わると山道が始まる。

 
               多分踏み跡だろう                               茶畑の柵

  ここからは雰囲気的に稜線の右寄りを進みたいのだが、右側は茶畑があり獣除けの柵がしてある。仕方なく柵の左を下ると
水仙群落がありその先が踏み跡らしくなっていた。シメタとばかり分け入ったがその先は急な斜面になっていた。
下れない事はないがそんなに左側を下ってしまっては大日如来に行く事ができないと引き返す事に。
本当なら茶畑を越して右に出たいのだが柵が邪魔をして行く事ができない。仕方なく柵の左横を進むが徐々に木等が邪魔をして
進みずらくなる。そうなれば柵を越えるしかないが、この柵は細い鉄骨でできているので乗ると壊れそうだ。
柵を壊したり倒したりしたら困るので、しばし考えた後で木のある所で木に体重を掛けるようして恐る恐る乗り越える事にした。

 
            振り返れば採石場が見えた                           レールの横を下る

  無事乗り越えた茶畑の中で今来た南の方角を見れば採石場が見えていた。こちらから見れば稜線の下は絶壁に見えている。
あの境を歩いて来たのかと思うとなんとなく嬉しくなった。後ろに見える三角形のピークは芹ヶ谷峠の307m峰でしょうか。

  大崩山塊にはハイキングコース以外にも多数の踏み跡程度のコースがあるが、中には余り必要性を感じない道もある。
それなら芹ヶ谷峠から直接221m峰に繋がるルートはどうだろう。更に221m峰から大日如来に通じる道ができれば利用者はいると
思うのだが。道づくりの名人・岡部のSさんが造ってくれないだろうかな。

  茶畑の右に行ってみたが、ここも細い鉄骨の柵が続いていて体重を逸らす木も無い。
これでは駄目だ越せそうにない。と今度はミカン畑になった畑の中を下る。この時点で大日如来は諦めました。

 
              農道が見えた                                   農道の分岐

  柵を乗り越え畑の中を5分も下ると農道が見えてきた。もうこれで大日如来は100%諦めです。
合流した農道は西が上りで東が下りになっている。それならこの農道は支線で西は行止りだろうと東に下った。
ピンポン! 当たりです。分岐がありました。今度は西に下る道が丸子城址のある二軒屋への道だろう。

 
             国1と旧国1の合流部                              農道終点

  農道の下には二軒屋の国1と旧国1の合流部が見えていた。二軒屋はもうすぐです。

アレー車が道の真ん中に停まっていると思ったら農道はそこで終っていた。間違いでしたこの農道も支線で二軒屋に続くメインの
農道はもう1本下でした。
この時は農道先は見ないで引き返したが、後で地図を見ると二軒屋に下る道が書いてあった。残念!

 
              又もや農道の分岐                                 農道大日如来入口

  農道を引き返し先程下ってきた農道分岐を直進すると、程なくしてまた分岐が見えてきました。
何やら見覚えのある雰囲気です。それもそのはずで、何年か前に登った大日如来の入口でした。
しかし待ってください、入口の階段にはトタン板を被せ鉄のレールを何本か置いて登れないようにしてある。試しにトタンを動かしたが
レールの重みで動かない。若しここに下ってきたらどうしただろう。飛び降りるとしても今の私には出来そうもない高さだ。
踏み跡を見失い、ここに来なかったのは大日如来のお陰なのだと感謝すべきなのだろうか。

  考えてみれば畑の持主としては、知らない人にミカン畑の中を歩いて欲しくないだろう。ここを歩く人の10人が10人、公徳心が
高いとは思えない。中には私のような不心得者もいないとは限らない。なので農家の人が通行止めにする気持ちもわかります。
でも通行止はせめて蜜柑の収穫時期だけにして欲しいな。

 
                丸子城址か                                 二軒屋大日如来入口

  高度はグンと下がり北の方角には丸子城址らしき山が見てきた。丸子城趾は “三角山” に築城したと、何かで読んだ気がするが
あの三角の高台がそうだろうか、チョッと自信が無い。

  やっと旧東海道に辿りついた。農道の入口にはさっき見たと同じ “元宿山 大日如来 登り口” の看板が出ていた。
まさかこの看板を見て大日如来に行く人はいないと思うが、矢張り “現在通行止” 等の表示が必要ではないかな。

城ロマン:大崩山塊城廻り(石部立坑換気所)

2017-12-16 17:58:16 | 低山歩き
歩行記録                                                           H29-12-2(土)
歩行時間:6時間55分   休憩時間:1時間20分   延時間:8時間15分
出発時刻:7時30分     到着時刻:15時45分
歩  数: 21、685歩(推定距離15.4km)    GPS距離km
行程表
 用宗駅 0:25> 赤坂峠 0:30> 石部立坑換気所 0:35> 赤坂峠 0:30> 御所の前 0:45> 尾根道合流 0:35> 
芹ヶ谷峠  0:35> 222m峰 1:10> 誓願寺 0:25> 丸子城跡 0:25> 匠宿 1:00> 安倍川駅

                          御坂堂から持舟城址までの概略図
        

  前回の城ロマン:大崩山塊城址巡りで歩き残した丸子城址にやっと行く気になりました。
以前は冬の寒い時期でも億劫がらず出かけていたのですが、最近は朝の寒い時に自転車で駅まで行くのが辛く、ついつい先送りに
なってしまいます。

 
           芹ヶ谷峠付近の220m峰(下から)                  芹ヶ谷峠付近の220m峰(上から)

  今日の目的は勿論丸子城址に行く事だが、それ以外に
 1・芹ヶ谷峠近くにアマチャ無線用アンテナのある高台(220m峰)に行ってみる事。
   ここは芹ヶ谷峠に行く時に、あそこからなら絶景が見えるだろうと思っていた高台です。それを確認したい。
 2・赤坂峠にあった標識の 「石部立坑換気所」 を確認する事。
   今まで無意識だった赤坂峠の標識に、前回気が付いてから気になっていました。

  以上2点だが多分軽くクリアするでしょう。何しろ今日は前回省略した部分を歩くだけですから。

  
            持舟城址入口の浅間神社                   城山観音               上大沢の観音

  安倍川駅の構内から西に続く花沢山への稜線を見ると、樹木の影から金属製の冠木門(かぶきもん)のような物が見えているが
多分あれが換気所なのでしょう。左程距離はなさそうです。

  前回神社名を見落としたため持舟城址入口の神社に寄ってみたが神社名を確認できなかった。
しかしこの神社は浅間神社に間違いないようです。その神社の横に 「城山観音」 の表示があったが、まさかこれが持舟城址に
祀ってあった 「マリア観音」 の事だろうか。マリア観音とは
 「持舟城主の向井正重の弟が、美しいキリシタンの娘に恋し彼女を妻に迎えた。その妻をモデルにてして石に刻ませた観音像が、
キリシタンの聖母マリアに似ていることから、その観音像をマリア観音と呼び懇ろにお祭りした。」
そうです。
その観音さんの事でしょうか、この “城山観音” は? しかし城跡の案内板には
 「後に城主向井氏の子孫が城跡に観音像を建てて、向井正重の霊を祀っています。観音像は阿耨(あのく)観音(マリア観音)と
呼ばれ、今は大雲寺に安置されています。」
またまた難しい言葉が出てきました。
 「阿耨(あのく)観音は三十三観音の一で、海難除けにの観音さま。像は岩の上に座って海面を見る姿。」 だそうです。

すぐ疑問が湧いてきます。
城主・向井氏の弟は何時観音像を持舟城に祀ったのだろうか? 落城前か、それとも落城後か? 何れにしても不自然ですので、
ここはロマンチックではないが、案内板の説通り、 “向井氏の子孫が城跡に観音像を建てた” のでしょう。
次の疑問は観音像は丸彫りか、線彫りか、浮き彫りかという事でしたが、ネットで見つけた像は立膝をした浮彫の観音さんでした。

  ここのマリア観音とは関係ないが、私がマリア観音で思い浮かべるのは “ビク石” の登山口の一つ上大沢に建つ観音像です。
頭からベールを被り、胸元の首飾りは十字架のようにも見えます。何観音か分かりませんが建っている場所が葉梨川の起点ですので
水難除けの阿耨(あのく)観音でも良さそうです。
そうそう向井氏の子孫が何故水難除けの仏像を祀ったのは、向井氏は武田から招かれた伊勢水軍の長だったからだと思います。

 
                  用宗駅                                     大雲寺

  丁度用宗駅に上りの電車が入っていました。
用宗駅裏の新幹線のガードを潜った所にマリア観音を祀っている大雲寺があります。マリア観音は七年に一度のご開帳との事、
先ずお目にかかる事はないでしょう。
それにしても浅間神社の “城山観音” の事は結局分かりませんでした。神社に仏教の観音さん? それも変ですね。

 
                  赤坂峠                                 石部立坑換気所への標識

  赤坂峠です。換気所の標識は左側に建っています。

    

  石部換気所が地図上に載っていました。こうしてみると換気所は150号線下り線の上にあるが、上り線はどうなっているのだろう?
それに比べ東名の小坂換気所は3本のトンネルの上にあるので、一つの施設で全てを換気しているように見えます。
更に地図を見て驚いたのは石部換気所から西に下る道は載っている事です。地図を確認したのは帰ってからブログを書く時です。
現地では西へ下るか、来た道を引き返すか迷ったが、これを見てたら多分西に下ったと思います。

        
                        石垣の道                                  獣除け

  赤坂峠の上はミカン畑や枇杷畑もあり道はハッキリしていた。換気所への標識も時折あるが、この標識は誰のための物だろう?
作業者用にしては大げさなので見学者用なのかしら。

  獣除けは電気柵や鉄のフェンス状の物をよく見るが、ここにあったのは板に何本もの釘を打ち抜いて、板を逆さまにして釘を
剣山のようにして置いてある物だった。これが木の間の獣が入りそうな場所に置いてあったが効果はあったのかな。

        
                      用宗が見えた                              何処までも続くレール

  途中から用宗港や日本平が見える所があった。他にも長いモノラック用レールと一緒になるミカン畑の所からも静岡の街が見えて
いたが写真を撮るのを忘れていました。
このレールは初めは農業用のレールかと思ったが、余りにも何処までも続いているのを見ると、換気所に向かっているようです。
レールには赤錆びが浮いておらず値段も高そうにみえるので、多分公の施設の換気所の資材運搬用でしょう。

 
              石部立坑換気所かな?                             シメタ! 扉が開いてる

  途中でレールとも別れ思ったより時間が掛り、そろそろ換気所があっても良さそうだと思いだした所で道が分岐していた。
右は向きを北に変え上に登り、左は若干南よりに下る道だ。さてどうしよう? いつもなら先に上に行く方を確認するのだが、今回は
左に下る道を先に確認することにした。理由は換気所用と思われるレールが左に向っていたからです。
で、左に下りだすとすぐ標識があってフェンスが現れた。

  建物の敷地には。大丈夫でした扉が開いていました。

 
              途中と同じ景色                                石部立坑換気所

  無断で敷地内に入らせてもらって周りを一周すると、駅から冠木門(かぶきもん)のように見えた金属も建物の上に見えます。
更に進むと先ほど見た景色と同じような景色が見えてます。
建物の中央部には 「HITACHI 石部1号排風機」 の銘板があります。ならここは換気所ですので “排風” があれば “送風” も
あって然るべきと探してみたがありません。
そこでネットで検索してみると 「日立トンネル換気 - 日立評論」 を見つけました。
 「石部の換気方式は “立坑排気式”と呼び、トンネルのほぼ中火付近に立坑を設け、排風機により排ガスなどで汚染された空気を
誘引して、立坑を通し大気中に排気する方式だそうです。新鮮な空気はトンネルの両坑口から空気を吸い込んでいる状態にあり
付近への環境汚染の心配がない換気方式です。」
この方式はお隣の東名小坂トンネルにも採用されていました。

 
               レールの終点                                反対(西)側の下り

  換気所の敷地の中にモノラックのレールの終点があった。資材などの運搬用だが作業員も乗るのかな? モノラックには荷物専用の
物や人運ぶものもあり、一般的に農業用の物は荷物専用で、林道建設や保守用は人間の乗る事ができるようです。
大井川上流の山犬近くにある林道工事の現場では、レールの先を覗き込むだけで鳥肌が立ち、とても乗る気にはなりません

  敷地内を一通り見た後、敷地を出てフェンスの周りを下りの道を求めて一周したが道らしいものは見当たらない。
多分ここだろうと思う所は、扉のあったところで、そこにはモノラックのレールも下に下っています。
下を見れば新幹線の線路とトンネルらしきものも見えていて、距離は赤坂峠からの1/3も無さそうです。さてどうしよう!
問題は下りの道より新幹線横に出てからだ。ここにモノラックのレールがあるという事は、新幹線横から旧150線に抜ける事は
出来るだろうが、また用宗駅に戻り再度赤坂峠へ登り直さなければならない。例え下りが1/3でもその後は何倍かになってしまう。
ウーン! 矢張り止めよう。元来た道を引き返そう。

 
                小屋の残骸                                   いい道があった

  換気所上の道が分岐している所でまた助平心が湧いてきた。この登りの道を行けば一山超えて東名の換気所に出れるかもしれない。
それならそこから小坂集落に出て安養寺から農道を登っても芹ヶ谷峠の入り口には出る。ヨシ行ってみよう。

  途中小屋の残骸を横に見て更に登ると槙を両側に植えた感じの良い道に出た。ラッキー!と思いつつ先ず西に向かう道を行ったが、
残念直ぐ朽ちた小屋の所で道は終っていた。

 
               農業用索道                                 モノラックの始発点

  次に東に戻る道を行ったが、こちらも農業用索道の先は藪と化していて、とても入り込む気にはならなかった。
ここで余り時間を費やし過ぎても後が忙しくなる。と、潔く撤退に決めた。

  来た道を赤坂峠に戻り、前回と逆に峠から150号線のトンネル入り口の所に出る。150号線の取付道路はそこで終り、鎖で封鎖された
空地があり、そこの作業用小屋の中にモノラックのレールは延びていた。この小屋が換気所の資材置き場なのでしょう。

  フ~これで今日の目標の一つが終った。思ったより時間は掛かったがこれで気掛りの一つは解消した。

城ロマン:大崩山塊の四城址巡り(持舟城址2)

2017-12-11 17:12:00 | 低山歩き
歩行記録                                                           H29-11-15(水)
歩行時間:7時間25分   休憩時間:1時間20分   延時間:8時間45分
出発時刻:7時50分     到着時刻:16時35分
歩  数: 歩(推定距離km)    GPS距離18.7km
行程表
 関方BS 0:40> 方の上城跡 1:30> 石脇登山口 0:15> 石脇城跡 0:45> 花沢城跡 1:40> 満観峰 1:00>
 小坂堂 1:10> 持舟城跡 0:25> 用宗駅

                          御坂堂から持舟城址までの概略図


  今回地図を見て驚きました。何と赤坂峠の道が地図に載っていました。

 
              用宗の街が間近に                              持舟城址登り口

  神社横の農道を登ると “汐見坂” の標識があり海が見えていた。それは当たり前だが大崩山塊には富士見峠下に海の見えない
 “潮見平” もある。東海道の白須賀宿の潮見坂は、広重の版画では広々とした海が描いてあるが今はチラリとしか見えない。
坂の途中には最近できたような城の見学者用の駐車場もあり中々親切です。 

 
                 本曲輪跡                                  持舟城址石標

  登り口から5分も掛からず出た公園のように広い空地が持舟城の本曲輪の跡でした。今は何もないが2000年頃までは、お堂が
建っていたが老巧化が進み撤去されたようです。
そう言えば今日回った四つの城跡は文化財に指定されていないのだろうか。ここの石碑にも城の名前しか書いてない。
城の名前と言えば広場にある案内板には、こんな事が書いてあった。
 「用宗の地名は、湊(港)を意味する 「持舟」 が転化したものと言われます。」 成程、持舟とは港の事なのか。
それが 「船を用いる城という意味にもとれるため、持船-用船-用宗となった。」 とウイキペディアにはあった。

  案内板には他にも
 「持舟城は築城から廃城までの間に、今川・武田・徳川によって三度の攻防戦が行われ、数百もの将兵が討死する記録が残る事は
静岡周辺の他の城砦に比べても例がなく、この城の戦略的価値が如何に高かったかを物語っています。」

戦略的価値が高かったのは、今川時代は駿府を守る水軍の駐留地であり、武田の時代になると遠州高天神城への海上物資の運搬
地として重要な役目を担っていたからだが、徳川は遠州から武田を追い出すため、高天神城を海から支援している持舟城と、陸から
支援しいるを諏訪原城を先に落城させ、物資の輸送を絶ってから高天神城を攻撃していた。
高天神城を落城させ武田勢が遠州・駿河からいなくなると、それらの3城は全て廃城となってしまった。

  徳川が持舟城が必要なくなった理由は、海からの物資を駿府城に運ぶには、安倍川は急流で川底が浅く、しかも時々大水が出る
安倍川よりも、東の清水湊から巴川を遡り、上足洗から横内川の運河で場内に海からの物資を搬入するようになったからだろう。
しかし実際には舟運だけでは足らず、多くは牛馬により運搬したようです。

  持舟城の三回の攻防戦は、本曲輪跡の案内板より、用宗駅近くの 「城山烈士供養塔」 の案内板に詳しくあるので紹介します。
 「今川義元が桶狭間で討死すると勢いに弱まった駿河に永禄十一年末侵攻して持舟城を攻略。城主は兵と共に討死、城は武田
水軍の支配下に入った。」
と簡単に説明している。
当時の今川の領主氏真は戦闘意欲が低く、父親を討った織田信長に復讐戦もせず、人質だった徳川家康が駿府に戻らず岡崎城に
陣取っても何も出来ない始末だった。
そんな状態の時、甲斐の武田が駿府に攻めて来たのだから、氏真慌てふためき山道を掛川城に逃げ籠るしかなかった。
それを知っている今川の将兵に最早城を護る気力はなく、簡単に落城してしまうのは当然なことだと思うが、それが城主が討死する
まで戦ったとは立派なものだ。
駿河の古い寺の多くは、この武田の駿河侵攻の際に焼失していて、駿河にとっては正に “憎っくき信玄” です。

  二回目の戦いは前述した高天神城攻略のための武田と徳川の戦いだったが、城山烈士供養塔には熱を込めて案内している。
 「三河に勃興し遠州に勢力を拡大した徳川勢と度重なる攻防戦を繰り返し、なかでも天正七年九月の戦は最も残虐であった。
それは織田信長に今川と結び謀反の疑いをかけられた家康が、今川方の血をひく正室築山御前を自らの手の者に殺させ、
また長子信康は二俣城中で自刃して果てた。
我が妻子の無念を思う家康のやるところなきうっ憤の吐け場となり激闘壮絶を極め、武田方の城将向井伊賀守正重、甥の兵庫、
叔父伊兵衛政綱、長男政勝ら悉く悲惨な討死を遂げた。」


  築山御前(瀬名姫)が暗殺されたのが天正7年8月29日、信康は9月15日に切腹している。そして持舟城の二回目の攻防は同年
9月とあるだけで日にちは分からないが、多分信康切腹後だったろう。
そうなると家康にとっては我が子を切腹させ、正室を暗殺した負い目もあり、その腹いせ相手に持舟城に求めて城の将兵を殺し
まくったのだろう。
尤も徳川軍は遠州堀川城の戦いでも、住民も立ち籠っていた城を攻め、一方的に殺戮しているジェノサイドの前科がある。
時代は残虐極まりない戦国時代のことで、死生観の違う現代人が考えても理解できないでしょうね。

  

  案内板には持舟城の縄張りもあったが、それには困ったことが載っていた。縄張りの右の円内には 「船溜り・蔵屋敷」 があり
 「城の北側の城の下は沼地と深田が広がり、南側は海に近く船溜りと蔵屋敷があり、湊(港)と平山城の条件が整っていた。」
その船溜まりとされる場所が、今歩いて来た新幹線横の熊野神社跡があった辺りで、城山への急傾斜の場所だ。
ここまで海が来ていたなら今川時代は現代より海が山に接近していたことになる。と、なると大崩街道は崖の縁まで海が来ていて
歩けない事になる。では大崩街道とは簡保の尾根を通っていたのだろうか?
嫌々そんな筈はない。ここの船溜まりは運河を拓き船をここまで引き込んでいたのだろう。そういう事にしておこう。

 
                大堀切の中の社                              大堀切の先

  縄張りには本曲輪の先は大堀切があり、その先に二の曲輪となっていたが、大堀切の中に井戸曲輪とも書いてある。
堀の中に曲輪がある? 本当かな? と急に大堀切に興味が湧いてきた。


  今日歩いてきた方の上城址の案内板は堀を指して “掘割” とあったが、持舟城址では “堀切” 。他の城ではどうだったろうと
調べてみた。
 「堀」   = 諏訪原城、花沢城
 「堀切」 = 持舟城、 石脇城、勝間田城  「切堀」 = 横地城、
 「掘割」 = 方の上城、
だったが “堀” と “堀切” や “掘割” の違いが分からない。
では堀とは何だろう。ウイキペディアによれば 「敵や動物の侵入を防ぐため、城などの周囲に掘られた溝のこと。」 正にその通りだ。
そして堀切には 「尾根を仕切るように作られた堀」 。 成程、持舟城の彫は確かに尾根を分断している。
更に斜面をよじ登ってくる敵を防ぐ堀は 「平坦部の周りに沿って造られた堀は横堀」 で、 「斜面に縦に造られた堀を竪堀(たてぼり)
と呼ぶ」
のだそうです。

これで一応理解できたが、まだ方の上城の掘割が残っている。ウイキペディアや他の城の説明にも無く、一般の辞書で調べると
 「堀割は地面を掘ってつくった水路。堀は横堀と呼ぶ。」 と、あったが納得できない。
それに方の上城に “掘割” の案内板があったのは尾根を分断している溝の所にあった。そうなると “堀切” の可能性が高いのだが。

  前置きが長くなってしまったが大堀切に下りててみると確かに幅が広い堀で、諏訪原城の堀を見てなければ 名前の前に“大” が
付いても納得できただろう。だが少し山城に目が肥えてきた私には大袈裟な表現だと感じてしまった。
堀切の北側は倒れかけたフェンスの中に、これも壊れかけている社があった。これが井戸跡? それとこれも案内板に書いてあった
 「マリア観音」 を祀っていた観音堂の事だろうか? さらにこの堀の中に曲輪があった? 分からない事ばかりだ。
もう体も頭も疲れてきた。この斜面を登れば二の曲輪があるらしいが林の中は薄暗くなってきた。
楽しみは後に残しておこうと、未練もなく来た道を引き返す事にしました。

 
             城址の東側は明るい                            こんな景色が見える筈だが

  安倍川西岸の高台からは東側の見通しさえ開けていれば、静岡の街を前景とした富士山の大パノラマが見えます。
今までも大崩山塊の富士山ビューとして、満観峰を初めとして、朝鮮岩、芹ヶ谷峠中腹、徳願寺下の丸山花木展望台を紹介してきたが
果たして持舟城址からはどうでしょう。案内板には 「城山さんビュー 富士山方面」「 安倍奥方面」 の2枚の写真が紹介されていた。

 
            残念!富士山は雲の中                             現在の用宗港

  ウーン残念!富士山は雲の中でした。しかし眼下には用宗から静岡にかけての街並みが一望できた。
左手前から右奥の日本平方面に延びている緑色の高架は東名高速で、その手前のすぐ下に下る高架は国道150線です。
その二つの高架の下を潜って行くのは新幹線です。
写真中央を左右に通っている緑の線は安倍川だが、ここの標高が低くいのでハッキリしません。

  右の写真は現在の用宗港ですが、案内板には
 「江戸時代には、この地は駿河湾に面して東・北に深く入江が形づくられた天然の良港でした。」 とあるが、現在の用宗海岸は
凹凸の無い海岸線で、現在の用宗港も天然どころかすべて人工の港にしか見えません。
駿河湾沖に見える島影は伊豆半島です。

  
                城山烈士供養塔                                 用宗駅

  途中で紹介し 「城山烈士供養塔」 は、用宗駅東側の道脇にあります。 ここの案内板が家康憎しの表現をしているのは、持舟城の
城主が、説明の中にあった家康の正室 「築山殿(瀬名姫)」 の父・関口親永であり、その関口親永は娘婿の家康が今川氏を離反した
ため、今川氏真から離反を疑われ切腹させられていた。それもあり供養塔の著者は判官びいきとなり家康を悪く言っているのだろう。
だが瀬名姫ファンの私として嬉しい事で、もっと地元で瀬名姫がフィーバーしてNHK大河ドラマの主人公になる事を願っています。

  安倍川駅に着いたのは4時35分。丸子城址を止めたのに遅い到着だった。これで無理して丸子城址に行っていたら、今頃は
不安な気持ちを抱きながら芹ヶ谷峠辺りをフーフー言いながら登っていただろうか、それとも止めていたかな。
駅に着いて最後の疑問が湧いた。この駅は 「用宗駅」 だが、昔のこの辺りの地名は 「持船」 だったらしい。
案内板には、その持舟が訛って用宗になったとあったが、仮名が振ってないので読みが分からない。当時この城を “もちふね城” と
呼んでいたのか、それとも “もちむね城” と呼んでいたのかどちらでしょう?

城ロマン:大崩山塊の四城址巡り(持舟城址)

2017-12-08 09:13:41 | 低山歩き
歩行記録                                                           H29-11-15(水)
歩行時間:7時間25分   休憩時間:1時間20分   延時間:8時間45分
出発時刻:7時50分     到着時刻:16時35分
歩  数: 歩(推定距離km)    GPS距離18.7km
行程表
 関方BS 0:40> 方の上城跡 1:30> 石脇登山口 0:15> 石脇城跡 0:45> 花沢城跡 1:40> 満観峰 1:00>
 小坂堂 1:10> 持舟城跡 0:25> 用宗駅

 
            花沢観光駐車場への分岐                           法華寺への分岐

  昼飯は満観峰を予定していたが、各城跡の見学時間が長くなり花沢城址を下るときは11時半になってしまった。
ここから観観峰までは1時間半は掛かりそうなので、一先ず花沢城址で昼飯を食べることにしたが、この調子だと満観峰に着くのは
1時半過ぎで、丸子城址入口の誓願寺には3時としても、城の見学をして反対側の匠宿には4時ごろだろう。
そこから芹ヶ谷峠と赤坂峠を越えて持舟城址に着くのは6時頃になってしまいそうだ。
それではとても丸子城址に行く時間は無いので、今日は丸子城は中止することにした。楽になる事は簡単に決断できます。

  花沢城址の四辻を下りだすとすぐ花沢観光駐車場への分岐に出る。やきつ辺の道は右の道を下り花沢集落を経て延びているが
今日は満観峰に行くには近道で傾斜の緩い左の農道を当然選択する。
次の分岐は右は日本坂峠入口に通じている道なので一瞬迷った。左の農道は鞍掛峠から満観峰への道で、持舟城址に行くなら断然
日本坂峠の方が近くて楽だ。しかしな~、今日は丸子城址を中止したのだから、これ以上楽な道を行くのもな~。
 “無理せず 楽せず 程々に” をモットーにしている私としては、これ以上の楽な道は歩けない。仕方ない観観峰に行くとするか。

     
              満観峰山頂                           満観峰から焼津方面

  流石人気の満観峰で鞍掛峠からはすれ違うハイカーが多くなる。山頂からの富士山は何とか見える程度。
既に丸子城址は完全に諦めているの早々に丸子富士方面に下りだした。
さて次なる悩みは用宗にどの道で行くかという事。予定では丸子城址から芹ヶ谷峠を越えて御所の前に下る筈だったので、
一部でもその道を歩くか。それとも満観峰直下の東小坂分岐を下り御坂堂から小坂集落に出るか?
決断はすぐに出た。御所の前の道は次回丸子城址へ行くときに歩く事にして、今日は久し振りに御坂堂に下る道を歩く事にした。
理由は尤もらしいが本当は単に御坂堂経由の方は楽だからにすぎません。

  
                              東小坂分岐から御坂堂への山道

  静岡側から満観峰に登るには、以前は御坂堂の駐車場に車を置き、長い農道を登って東小坂分岐から満観峰に登った。
満観峰からは尾根伝いに日本坂峠に行き、峠から最古の東海道と云われる道を御坂堂に下る周回ルートがメインだった。
ところが東小坂の茶畑が放置されてしまうと、道を補修されなくなり草が茫々と生茂って足元も見えない状態になってしまった。
するとハイカーは今まで歩く人の少ない満観峰南鞍部に出る南小坂分岐から満観峰に登るようになっていた。
ただこのコースだと満観峰と南小坂分岐の間をダブって歩く事になり、私てしては好きではないコース設定になってしまいます。
その東小坂分岐の道が今はどうなっているか、確認したいと思っていましたの丁度良い機会です。

  結論から言えば山道には邪魔になるような草もなく、以前と同じような感じでした。誰かが整備してくれたのでしょう。感謝!!
風で折れたのか杉の葉や枝が積もっている所があります。フカフカした感触で気持良いのです、小枝が股に挟まり注意しないと
転びそうになります。
右に小沢が見えてくれば農道はもうすぐです。農道に出て右に登れば南小坂分岐行き、左に下れば御坂堂に出ます。

        
            不動尊と翡翠の滝                             お堂の中から

  滝を背にしてお不動さん祀った小さなお堂がある。滝も小さいが名前は “翡翠の滝” と中々立派な名前が付いている。
道を挟んだ反対側には、駿河一国33観音霊場11番札所の聖観音を祀ってある観音堂があるが、今日はパス。

 
                 御坂堂                                     分岐と駐車場

  日本坂峠と満観峰への農道の分岐に建つ 「御坂堂」 だが、何と読むのでしょう。
地区の地名は “小坂(おさか)” だから “おさかどう” かしら? それとも普通に読んで “みさかどう” なのか疑問に思っていた。
今日は建物の前にある看板をよく読むと 「御坂堂は史跡 “小坂” から出発したささやかな茶店です。」 とある。
なら多分 “おさかどう” なのだろう。更に “朝市もやっている” とも書いてあるが、客が来るのかな?

        
             史跡・御所の前                             持舟城址の山

  小坂集落が終った所に 「史跡・御所の前」 の石碑があり、日本武尊が東征のおり、この地に館を建てた跡だそうです。
次回丸子城址へ行くときはここから芹ヶ谷峠を越えて行くつもりです。

  国道150号に近づくと正面に持舟城址がある小山が見えてきた。城の入口は小山の反対側にあるので左側から回り込んで
行けば簡単だが、今日は小山の右の先にある赤坂峠を越えて城の入口に向かいます。
わざわざ遠回りする意味は特にないが、久し振りに赤坂峠を越えてみたくなっただけです。

        
                        国道の側道を行く                            赤坂峠入口

  国道を渡ったら国道の側道を西のトンネルに向かいます。トンネルの上に出たら側溝に鉄板を渡した所が峠の入口です。
少し見にくいかもしないが踏み跡を覗き込めばすぐ分かります。
入口こそボサボサしているが、中に入れば以前はミカン畑だった道でしっかりしています。

 
                赤坂峠(南より)                              峠からの海

  今まで “峠” と書いてきたのでさぞ大変だろうと思ったかもしれませんが、入口から峠までは3分程で着く峠です。
海側に下る道は北の道より楽で、舗装された農道が新幹線の横まで続いていて、たった1~2分で下れてしまいます。

なんだ~と思われるかもしれないが、昔はこの峠は価値があったと思われます。標識を見てみます。

              
  上の標識は峠に建つ標識で 「赤坂峠(38.6米)石部-熊野神社 」 と読めます。因みに石部とは海岸沿いにある地名で、熊野
神社は国道のトンネル手前にあります。
そして海側の峠の入口の標識は 「最古の??? ???? 大崩街道-赤坂峠」 とあります。
?マークは判読不能だが、これと同種の標識から判断すと 「最古の東海道 万葉の道 大崩街道-赤坂峠」 と判断できます。

  でも疑問が湧いてきます。 “万葉の道”とは、先程満観峰から下ってきた御坂堂から、日本坂に溯る峠越えの道です。
それがここで海側に下ってしまえば当然日本坂峠に行く事は出ない。更に “大崩街道” とあるが何処を指すのか分からない。
今でこそ旧国道150線だった海岸沿いの中腹を走る道はあるが、当時絶壁の中腹に道があったとは思えません。
そうなると大崩街道とは親不知子知不のように海岸伝いにあったと考えられる。しかし海岸沿いは海が絶壁まで押し寄せていて
とても歩く事はできません。
待てよ!そういえば焼津と用宗の間は大正時代まで地元の人は海岸沿いに歩いていた聞いたことがあります。
また焼津ではかって建物があった地が、海進により今では海の中になったとの言い伝えもあります。(林叟院など)
ならば日本坂に官道が拓かれ迄は海岸沿いを歩いた事は十分考えられる事です。
多分標識は “万葉の道” ではなく “古代の道” だったのかもしれませんね。
勝手に解釈してしまった、マーそう云うことにしておきましょう。

そうなると海岸沿いに安倍川まで出ればとの疑問も湧くが、それは万葉時代には安倍川(藁科川)の西岸は湿地帯で、日本坂を
下ってきた官道は小坂集落から平地に出ると、大きく北に迂回し井尻峠を越えて丸子に出たと言われています。
なので海岸から赤坂峠越えて内陸部に出たら、山際を井尻峠に向かったと思われます。

 
               新幹線沿いの道                              用宗駅(振り返って)

  峠入口の標識の所を左折して新幹線の横の道を東に向かいます。途中新幹線のガードを潜ればそこは用宗駅です。

 
                  浅間神社?                                  持舟城址入口

  持舟城址には鎮守の森のある神社の横を登るのですが、神社の名前がハッキリしません。津島神社、熊野神社、八幡神社、
城山観音などが祀られていましたが、肝心の本殿の神社名を確認するのを忘れてしまいました。
写真の神社名はマピオンの地図に載っていた神社名です。

  持舟城址入口の標識には 「城山登り口」 とあります。電柱にある住所地番には 「用宗城山町」 とあるので、持舟城址のある
山は地元では “城山” と呼んでいるようです。

  ダラダラ長くなってしまったので続きは次回とします。

城ロマン:大崩山塊の四城址巡り(花沢城址)

2017-12-04 12:12:51 | 低山歩き
歩行記録                                                           H29-11-15(水)
歩行時間:7時間25分   休憩時間:1時間20分   延時間:8時間45分
出発時刻:7時50分     到着時刻:16時35分
歩  数: 歩(推定距離km)    GPS距離18.7km
行程表
 関方BS 0:40> 方の上城跡 1:30> 石脇登山口 0:15> 石脇城跡 0:45> 花沢城跡 1:40> 満観峰 1:00>
 小坂堂 1:10> 持舟城跡 0:25> 用宗駅 

                               石脇城址から花沢城址への道
             

  石脇から花沢城址に行くなら、やきつ辺の道で行くのが妥当だが、方ノ上から来た時その一部を歩いているので、あえて違う
道をと高草山の南麓の平らな車道を歩く事にした。
格好をつけて言えばそうなるが、正直な所はアップダウンのあるやきつ辺の道を避けただけです。
しかしこうして平らな道を歩いていると、なぜ古の東海道が平らな所でなく、敢えて起伏のある道にしたのか考えてしまう。
まず考えられるのは、この南麓が湿地帯で歩けない時期が発生する事だが、それを証拠付けるような地名の 「吉津」 がある。
吉津の地名で想像できるのは当然葦の生えた湿地帯ですよね。

  更にこの道の先には 「野秋」 という地名がある。そこに建つ須賀神社の案内板にこんな事が書かれていた。
 「日本武尊がこの地において野火の難にあわれたため、かっての村名を野焼村といい、社号を野焼神社と称したいう。
実際、諸郡神階帳に「正四位下 野焼神社」とある。
しかし疫病が流行し、民家もたびたび焼失したため、焼という字を改めて村名を野秋とし現在の社号にした。」

如何にも尤もらしい説だが私はこの説は地元の “身贔屓説” だと思っている。イエそれは兎も角、この事でここには燃えやすい
植物(葦類)が生えていたことが分かります。
そのため高草山の南麓は湿地帯で歩きにくかったので、古代の東海道はそれを避けて中腹にやきつ辺の道を開通したのでしょう。

  ただ案内板に書かれている “野焼村” についてはこんな説もあるので紹介しておきます。
 「現在の野秋という地名は、もとは「野焼」と書かれていた。 高草山周辺では近世に焼畑が行われていたことや、 春先に茅場を
焼くこともあったと推定される。」
となると、湿地帯に畑を作る事ができたのだろうかと考えてしまう。
湿地帯でなければ起伏のある道を歩かなくてもと、また元の木阿弥になってしまいます。

 
             高草山と花沢城址                            花沢城址入口の四辻

  麓の平らな道を離れ花沢城址入口のあるやきつ辺の道の四辻に向かうと、高草山と花沢城址のある小山が見えてきます。
その間に見える白い物は、焼津市内で一番標高の高い所にある高崎集落です。
何故こんな高台に家を建てる必要があったのか、疑問に思える場所です。

  四辻を右折して花沢城址に向かうと、四辻が良く分かります。右はやきつ辺の道で花沢集落に向かう道。
左はやきつ辺の道経由で石脇登山口に出ます。正面の登り道は高崎集落と高草山へ向かう道ですが、何故か標識には高崎集落しか
書いてない。そのため花沢観光駐車場から高草山に登る多くの登山者は、やきつ辺に道を直進した登山口から登っているようです。
しかし実際には10mも高草集落に向かうと右に農道が延びています。その農道を上ると登山口を上って最初に会う農道の三辻に
合流します。大分距離も短いし眺めもあるのでお勧めです。

        

  四辻には案内板があるが位置関係が分かりずらく頭を悩ましてしまうが、兎も角 「花沢城址」 の杭の建つ農道を進みます。

 
             花沢城址登り口                                  整備された道?

  四辻から農道に入り分岐にでたら右の山の西側の道を進みます。程なく 「花沢城址」 の標識があります。
昨年焼津歴史博物館の公演で講師が 「花沢城址の整備をする」 と言っていたので期待が持てます。
しかし入口付近では整備された気配は見当たらないが、途中の階段や手摺は新しいような気もする。多分これも整備の一環でしょう。

 
                 イヌタデ(犬蓼)                               高草山と高崎集落

  一の曲輪のある山頂付近の樹木が伐採された所にはイヌタデが群生している。珍しくもない雑草で妻は子供の頃はままごとで
 “あかまんま(赤飯)” と呼んでご飯の代わりに利用していたという。
  諺に 「蓼食う虫も好き好き」 と言うのがあるので、このイヌタデの事かと思い調べてみました。すると “言語由来辞典” に
 「このタデはヤナギタデのことで、ヤナギタデには葉や茎に苦みがあるが、これを好んで食べる蓼虫がいる。」とあり、最後に
 「諺から蓼虫しか食べないと思われているが、人間も刺身のつまや蓼酢ととして食用にしている。」 本当かしら?

  高草山の中腹に高草集落が見えていた。今寄ってきた石脇城付近は標高10m以下で、あの高崎集落の場所は95mほどもある。
別に平坦地があるわけでみなく、近くに大きな農園も無い。なのに何故あんな高台にわざわざ集落を造ったのだろうか?
前回来た時こんな構想的歴史観を紹介している。
 「花沢城に平地はあるが将兵が生活するには狭すぎる。そこで身分ある侍たちは高崎集落や麓の館に住んでいたのではないか。
なら高崎集落の住民の先祖は花沢城の重臣だったに違いない。
高崎集落についても調べてみると、このな記事があった。
「高崎は明治8(1875)年に馬場村(高崎上)と成沢村(高崎下)が合併して成立した。 一般に「ばんば」と呼んでいる馬場村は、
花沢城の馬場が置かれたのが地名の由来という。」 マー当たらずとも遠からずだ。」
と妄想していた。

            
                                一の曲輪にある縄張り

  一の曲輪にある縄張り図にも画面右の赤丸の中に 「馬場」 と書かれています。多分この馬場で城の馬を飼育していたのでしょう。
となると高崎集落には馬場の担当者、今で言えば厩務員の住宅だったのです。(本当かな?)

  花沢城の歴史は四辻立つ案内板で紹介します。
 「花沢城址~駿府の西の要~
  花沢城は日本坂・小坂間の街道を押さえる駿府の西の守りとして、今川によって築かれた戦国時代の山城です。
築城に時期は不明だが、甲斐の武田信玄による駿河進攻にともない激戦地となった事で著名です。
信玄は花沢城の進攻にあたり、城を見下ろす西側の高草山山中に陣を構え、永禄13(1570)年正月4日攻撃が開始された。
天然の要害を利用した城の造りと城兵の勇敢な抗戦により、落城したのは正月の27日だった。」


  この中に気になる事が書いてあった。 “信玄は花沢城の進攻にあたり、城を見下ろす西側の高草山山中に陣を構え” とあるが
花沢城の西となれば丁度高崎集落のある辺りがそうだ。ただ集落周辺の標高は100m程度。花沢山の一の曲輪あたりは140mある。
それでは見下ろす事はできないが花沢城は良く見える。多分信玄はこの集落付近に陣を構えたのだろう。

 更に信玄は花倉城の攻略に3週間の日にちを費やしていながら、攻略すると花沢城をそのまま廃城にしている。
素人が考えると焼津湊の海上警備や日本坂峠の監視に必要な城だと思うのだが、廃城にしたつけが後日現れることになる。
前回の石脇城で紹介した “青木の森の戦い” は、花沢城に武田軍が駐留していれば徳川勢はチョッカイを出すこともなかった。
尤もそうであっても時の勢いは武田には無く、所詮武田は滅びる運命だっただろうが。

  この縄張りは専門家向けなのか、私のような素人には理解しずらく、現在地も曲輪名も書いてありません。

 
              花沢城址一の曲輪                            一の曲輪から焼津市街

  一の曲輪周辺も整備された気配はない。これから整備するならせめて曲輪の名称や土塁や掘割の表示が欲しい。
あの小さな方の上城址ですら表示があるのだから。

 
                 掘割か                            この先は藪だった

  掘割らしきものも目に付いたが藪状になっていて区別がつかない。更に一の曲輪の先は藪になっていて入る気も起きなかった。
大々的な整備も期待したいが、せめて名称板などの設置は欲しいものです。