はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

志太の微笑仏を訪ねて3

2012-09-29 15:28:34 | 寺社遍路
志太の微笑仏を訪ねて3(常楽寺・)

 勢岩寺を出て高草山の石脇登山口にある公衆便所所に出る。そこから少しやきつべの道を
登った所に常楽寺への参道があった。
参道と農道を兼ねた道に入るとすぐ道はに分岐していて、一方は山に向かって直登する道
だったので、多分これが参道だろうと見当を付けて登って行く。
急坂で細い参道は軽トラの4輪駆動でなければ登れないような道だったが、ピンポン!
予想通り赤い涎掛けを掛けた六地蔵が鎮座していた。
そしてその横の石段の上には、寺とは思えない様な建物だったが、間違いなく常楽寺だった。

 
    常楽寺                      常楽寺の鰐口

 ところで鰐口って寺にも神社にもあるが何故だろう?気になって調べてみるとWikipediaに
「鰐口(わにぐち)とは仏堂の正面軒先に吊下げられた仏具の一種で、神社の社殿で
使われることもある」
となっている。では何故鰐口と呼ぶのか?
「鰐口を下から見ると、その割れ目が鰐の口のようだから」と書いたものがあった。
なるほどね! 言われてみればそんな気がしないでもない。
でも神社では鰐口でなくて鈴を下げた物が多いが、この鈴は何て呼んでいるのだろう?

   
    案内板                      案内板拡大

 常楽寺には薬師如来の木喰仏があるらしい。だが参道の入り口にあった案内板は、
文字の色が退色していて読むことが出来なかった。
それではとまた焼津歴史資料館のHPを見たがアレー常楽寺の事は掲載されていない。
今日出かける前に調べた志太地域のローカル情報サイトには歴史資料館になっていたのに----
更にネットで検索すると「静岡観光おでかけガイド」
「平成3年(1991年)6月20日の不審火による火事で常楽寺が全焼し、木喰仏も焼失しています」
とあった。これで納得。そんな訳で常楽寺の微笑仏の詳細は不明です。


   
     古墳の表示                     色づき始めたミカン

 寺の墓地があったので名字の確認に近づいて行くと、墓の下に白い杭の案内標識が目に付いた。
何だろうと近づいて見ると「筧沢(ひよさわ)古墳群筧沢支群」とある。
高草山周辺には古墳が多いと聞いていたが、こんな所にもあったのだ。それにしても眺めの良い場所だ。
ここより少し上にある「笛吹段古墳」も眺めが良い場が、古代人も墓地の選定に眺めの良さも
加えていたのだろうか。 古墳の付近にあるミカン畑のミカンが色づき始めていた。



              古墳から焼津の市街を

 どうですか、こんな具合に焼津の街を眺める事が出来るのです。(だいぶピンボケすが)
そうそう墓石の名字は一つの名字だけで、それも海には関係していませんでした。

 古墳下に見える農道に下りて左側に焼津の街を見ながら歩いて行く。
農道が終わり車道に出たが、なるべく交通量の多い県道には出ないよう山手の道を選んで歩いていく。
以前この道は駿河一国の遍路で歩いたが、確か「旧地名 東海道」の標識があったはずだ。
旧東海道は先程の常楽寺参道入口の、やきつべの道から公衆トイレに下り、方向を北に変えて
ここへ続いていたのか。
そしてここでまた方向を西に変えて小川(焼津)宿に向かっている。随分無駄な歩きをしているが
地名から考えれば旧東海道はこのルートに違いない。

 
     案内地図拡大                  高草山関方登山口      

 東海道の標識を確認して更に北に向かうと、道は県道に出てしまった。
県道は歩きたくないが山がすぐ近くまで迫っているので、県道を歩かないわけにはいかない。
右側に大きな看板が立っている。眺めて見ると、ここは高草山の登り口で、登山道沿いには、
鰐口のような形の「六鈴鏡(市文化財)」のイラストが描いてある。
少し興味を覚え遠回りになるが行ってみる事にした。

 
     六鈴鏡(案内板拡大)              六鈴鏡出土古墳
 
 銅鏡といえば馬鹿の一つ覚えのように「三角縁神獣鏡」しかしらないが、六鈴鏡なる物が
あったのだ。焼津市教育委員の案内板を見ると
「日本古代においては鏡は姿見としてではなく、呪術的な道具として考えれている。
鈴についても呪具祭器として使用されている。こうした祭儀用の鏡と鈴を一緒にしたのが
鈴鏡で日本特有の鏡である」


鈴というからには、あの丸い部分が鈴になっていて音を発するのだろうが大したものだ。
丸い空洞を造るのも大変そうだが、その中に小石を入れてあるのだから尚更技術を要しただろう。
なのにこの六鈴鏡も市指定の文化財にすぎない。
日本製で、あちこちから出土しているためなのか? 美術的に拙い技巧なのか?

 六鈴鏡を出土した古墳は、神社の後ろの北向きの余り眺めが良いとは言えない場所にある。
さっきは古代人も眺めの良い場所が好きだと言ったが、どうやら古代人も百人百様のようだ。

 ところでこの六鈴鏡が出た古墳は「猪之谷(いいのや)神社」の境内にあるのだが、
字こそ違え遠州の引佐の井伊谷(いいのや)と音が同じだ。
若しかしてこの神社は井伊谷と関係があるのではないかと突飛な思いに取り付かれ調べ出てみると、
面白い事が分かった。
今朝渡った瀬戸川の入江橋の上流に若宮八幡宮がある。そこに彦根藩第二代藩主の井伊直孝
(なおたか)の産湯の井戸が残っているとあった。
猪之谷神社がいつ出来たかは分からないので判断できないが、面白い偶然だ。

 
    いぼ地蔵                    萩の花

 猪之谷神社の横にあった「いぼ地蔵 長福寺」の看板に惹かれて神社の隣の長福寺に寄ってみた。
山門の手前にいぼ地蔵の説明があった。それによると
「この地蔵は元は裏山にあったが、田中城の殿様がこの辺りを通りかかると、急に馬が棹立ちになり
殿様が落馬することが度々ありました。易者に伺った処、お地蔵さんを読経が聞こえる所に安置する
よう告げられ現在の地に祀られました。お地蔵さんのお顔に疣の治った跡があると言われ、台座周りの
丸石で疣を撫でると疣が治ると、参詣人がありました」


 小石で疣をこすると疣がとれる? まてよ疣と小石と聞いてある事を思い出した。
それはやきつべの道を登り詰めた日本坂峠に、日本武尊が隠れたといわれている古墳に
「穴地蔵」と呼ばれるいぼ地蔵が祀られている。
その穴地蔵には穴の開いた小石を紐で吊るしたものが奉納されているが
あの穴の開いた小石で疣を取ったのではないか。穴の中に疣を入れてむしりとる!
何か痛そうだが、ここの平らな石で擦るより効果は抜群だろう。
今まで穴の開いた石の意味が分からなかったが、きっと疣取用だったに違いない。 
またまた妄想が始まってしまいました。

 長福寺を出てしばらく行くと再度県道に合流。そしてほどなく焼津市と藤枝市の市境に出た。

志太の微笑仏を訪ねて2

2012-09-27 15:34:25 | 寺社遍路
     志太の微笑仏を訪ねて2(宝積寺・勢岩寺)



 石脇浅間神社から東名高速に向かい、東名の側道を登れば宝積寺はすぐあった。
尖った三角の屋根があり寺にしては一風変わった造りの建物で、寺の案内板には東名高速の
建設で寺を移転したと書いてある。更に案内板には
「天台宗花沢法華寺寺坊の一つとして、元小浜に在りしが波のため欠損したので、
今から530年前に建立した」
とある。
フーン天台宗の坊だったに、本寺の宗旨に背いて改宗するも事も出来たのか。
宗教界って案外甘いものだな。今まで歩いていて天台宗や真言宗の寺が曹洞宗になった
例が多かったが、宝積寺は現在臨済宗だった。

 焼津では他にも海岸にあった寺を山手に移転したと聞いたあるが、この辺りは陸地が海に
浸食されているのだろうか? それとも津波の所為なのか。

 さて微笑仏に話を戻して、
この寺には微笑仏が保管されているが、生憎墓参りの人も本堂の扉も開いていない。
これでは拝観は諦めるしかないので、仕方ない焼津市の立てた案内板で我慢しよう。

         
   地蔵菩薩像(案内板から)                宝積寺扁額

「焼津市指定文化財 地蔵菩薩像
この地蔵は左手に宝珠を持ち、右手は袂を掴んでいる。木喰仏としては珍しく、材質が桜の木である。
しかもまことに慎重で、一部丸のみが使用され、足指の爪まで掘り出されている。
制作は寛政12年(1800)7月と推定される。像高77cm 木喰五行上人作」


 
  宝積寺                        西国三十三番観世音菩薩

境内に江戸時代に、近隣住民によって勧請建立した西国三十三番観世音菩薩があった。

 次の勢岩寺は、今来た道を東名のガードまで戻り、そのガードを越すとすぐ分かった。
入口に機織地蔵尊の由来を書いた案内板があり、それによると
「弘法大師の甥の円珍の夢枕に、大和国長谷寺のご本尊を造刻された時の霊木で、
不動明王を造刻して駿州花沢の法華寺の十二坊の一坊に納めて、永く衆生を済度せよと
お告げを告げた。
円珍は造刻した不動明王を持って石脇まで来ると、金色の光がさしている場所があった。
その光が消えたあと機織の石の上に地蔵さまが御座されておりました。
これぞ霊夢のお告げの通りと、円珍は当山に御本尊をお納めになりました」

これでは機織地蔵の由来なのか不動明王の由来なのか分からない。
更に機織地蔵のご利益は「子授け、安産、家内安全、商売繁盛、学業成就、交通安全」
機織に関する物は無かった。

 
    機織地蔵                    勢岩寺の屋根
 
 勢岩寺の屋根に静岡県では珍しい留蓋(とめぶた)が付いていた。しかも獅子ではなく人物だ。
最近よく見る韓国の時代劇では、御殿の屋根に動物状のものが4匹も5匹も乗っているが
それは日本では見た事がない。日本では獅子が逆立ちしているのを何度か見た気がする。
それが勢岩寺のは、老人が瓢箪を持っているのだから珍しい。きっと左党に違いない。
老人でアルコール依存症気味となると私の事のようだ。何か誓願寺に親しみが湧いてきた。

 因みに留蓋を調べてみたら「神社仏閣の屋根の4隅に、半球状の瓦に飾り物のついたものを
よく見かけますが、これは留蓋(とめぶた)といい、隅蓋(すみぶた)、巴蓋(ともえぶた)
ともいいます。本来は雨漏りを防ぐためのものですが、装飾や魔除けの意味もあります」

へー飾りだけでなく雨漏り防止になるんだ。でも半円状の瓦なら分かるが、あの飾りが
どうして雨漏り防止になるのだろう?

 
   庚申塔                     庚申塔拡大

 勢岩寺では更に気になる物を見付けた。
東海道の相模を歩いているとき、何本も手のある青面金剛(しょうめんこんごう)像の下に
見ざる、聞かざる、言わざるの三猿を彫った庚申塔を幾度となく見た。
しかし静岡県を歩いてはこの石仏には余りお目にかかる事はなく、今年下田街道を歩いた
時も見る事が出来なかった。
ただ同じく今年、島田千葉山智満寺の伊田丁仏街道入口にあった庚申塔の下にかすかに
それらしき物が彫られている石仏を確認した。
それに比べ、ここの猿ははっきり三猿だと確認できる状態だが、庚申塔には青面金剛は
彫られていず「奉 庚申」と書かれた文字の塔だった。
三猿も正面に聞かざる、側面に見ざる、言わざる一匹づつ彫られたいるのも変わっていた。
庚申塔の塔自体も自然石の形を利用してあり、中々感じのいい庚申塔だった。

 微笑仏以外に気を取られて、気もそぞろになった訳でもないが、ここでは微笑仏の案内を
確認するのを忘れてしまった。
仕方ないのでここの仏像を保管している焼津歴史資料館のHPの記述を紹介します。
弘法大師像 小さいながらもまことに丁重に彫刻された美しい座像であり、必ず幸福を
もたらしてくれそうな木喰仏である。制作年代は不明だが、光背が宝積寺のものと同形式であり、
台座は大日堂のものと同じであることから、同時期に造られたものであろうと思われる。
像高17cm」


 ヘーここの微笑物は小さいんだ。しかも弘法大師像とは変な感じだ。
だってこの勢岩寺は天台宗の坊だったのだから当然天台宗だろう。それが天台宗の
宗敵である高野山の真言宗の御本尊弘法大師をお祀りすなんて事があるのか。理解できない。
そういえば機織地蔵の由来には、弘法大師の甥が御本尊の不動明王を造刻いて持ってきたとある。
ここにも真言宗が出てきたので、若しかして真言宗に改宗したのかと思ったが
現在の勢岩寺は曹洞宗だった。

志太の微笑仏を訪ねて1

2012-09-25 10:41:26 | 寺社遍路
 志太地方に残されている木喰上人作の「微笑仏(ほほえみぶつ)」を訪ねて高草山の麓を散策してきました。

 微笑仏とは江戸時代中期の木喰上人が全国を行脚しながら彫った1000体の木彫りの仏像の事で、
普通木喰仏と呼ばれているが、その仏像が微笑んでいる事から微笑仏とも呼ばれているようです。

ここ志太地方には木喰上人は2ヶ月近く滞在して、13体の微笑仏が彫ったが、
現存しているのは12体だそうです。
そのうち5体は焼津、7体が藤枝市の残っており、焼津市の4体は寺には無く、
焼津市歴史民族資料館に保管されいるが、通常は展示されていないようです。

 大日堂/吉祥天像・不動明王像/資料館蔵
 宝積寺/地蔵菩薩像
 勢岩寺/弘法大師像/資料館蔵
 常楽寺/薬師如来像/資料館蔵
 十輪寺/虚空蔵菩薩像・子安地蔵菩薩像
 光泰寺/准胝観音菩薩像・聖徳太子像
 梅林院/薬師如来像・子安観音菩薩像
 常楽院/毘沙門天像

 以前駿河一国33観音の時、微笑仏を保管している藤枝の梅林院に寄ったが、
一人では参観を申し出る勇気もなく、また、許可されてもお布施(賽銭)を幾ら包めばよいのか
判断がつかず諦めてしまった事があった。
そこで墓参りの人が多いお彼岸に行けば、寺の本堂も解放されていて気楽に微笑仏を
参拝できるのではないかと皮算用をして彼岸の中日に出かけました。

     

 最初の大日堂は高草山の石脇登山口の近くにあり、焼津駅から歩き慣れた道を進み、
東益津小の信号を右折して、最初に見えだした山に向かって進む。
そして地図にも表示されている入口に道を探すのだが----無い!
付近を何度か確認するが地図に出るような太目な道は無い。あるのは畑の入口のような狭い道だけだった。

 付近には朝も早く歩いている人もいないので、思い切ってその狭い道に入る事に。
最近は歩いた人もいないのか、何重にも張られた蜘蛛の巣を枝先で払いながら進んで行く。
道が斜面になると簡単な階段にコンクリの擬木が使われていた。ウンこれなら間違いは無い。
この先には何かがあるはずだと安心をして先に進む。
低い丘のような山なので、すぐ地図の表示通りに城山八幡宮があり、その先に大日堂があった。

 
       大日堂              大日堂の縁起書

 大日堂の縁起書には
焼津市指定文化財 吉祥天像 木喰五行上人作
吉祥天は、正しくは大吉祥天女といい、福徳を司るといわれ、種々の善根を施したので
美しい顔になったといわれている。髪はふっさりと肩までかかり、親しみを感じる
にこやかな童顔をしている。高さは94cm」

「焼津市指定文化財 不動明王像 木喰五行上人作
この仏像は、 吉祥天像が完成した二日後に出来上がった。岸崖の上に踏ん張り、
渦巻きとなって燃え上がる火炎の中に立ち、不動の気魄を十分に表しながらも
木喰仏らしい人間味が出ている。高さは94cm」


 実物を見てないので何の観応も感じないが、記述に不動明王は二日間で作ったある。
そうなるとまさに粗製乱造のように感じてしまうが-------
その所為なのか文化財の指定は、県や国ではなく市指定に過ぎなかった。

 また、木喰上人の名前が「木喰五行上人」となっているのは何だろうと調べてみると
「kotobank」には「寛政5(1793)年から「天一自在法門 木食五行菩薩」と名を改める」とあった。
それはまさに縁起書の仏像の裏の墨書の「天一自在法門 木食五行菩薩」と一致していた。
しかし自分の名前を「菩薩」とするとは、この木喰さんは作品の穏やかな微笑仏と違い
自信過剰な性格だったのか、それとも菩薩の心境で仏像を彫っているという事なのか?

 更に案内板には、昨晩地図を調べていて気になった「城山」の説明もあった。
「石脇城跡 この城は「駿河記」によると文明年間に今川義忠が伊勢新九郎(後の北条早雲)を
住まわせたとある。
伊勢新九郎は応仁の乱の影響で今川の当主、義忠が遠江の塩買坂での戦死により、次代をめぐる
家督争いが起きた際、嫡子の竜王丸(後の氏親)を助け活躍した。伊勢新九郎はこの功績により
富士下方十二郷を与えられそれ以後伊豆平定にのりだし、やがて関東八国を治めた戦国大名北条家
(後北条)の基礎を築いた」

ここで書かれている今川の家督争いとは、以前紹介した花倉城が舞台となった今川義元の家督争い
ではなく、その一代前の義元の父親、氏親(竜王丸)の家督争いです。

 因みに伊勢新九郎の姉(妹)の北川殿が今川義忠の側室で竜王丸を生んでいるので、
新九郎は甥を助けた事になる。
また「Wikipedia」にはこんな事も書いてあった。
「伊勢新九郎は長享元年(1487年)、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めた。
同年11月、早雲は兵を起こし、敵の駿河館を襲撃して破り、龍王丸を駿河館に入れた」
とある。
そうして聞けば、この何でもない小山も何やら曰くのある城跡に思えてくる。

 
      六地蔵                石脇城跡入口

 大日堂のすぐ下に小さな墓地があり、何気なく見てみると海に関係ある名字に気が付いた。
「塩沢、塩原、海野」とある。矢張りここは海の近い影響なのだろうか。
帰りは海側の道を下ると、道は整備され蜘蛛の巣も無く、参道の入口には六地蔵が安置されていた。
更に車道の入口には「石脇城跡」の標識も建っている。そうしてみると私の登った道は裏道で
南側(海側)が表参道なのだろう。

 
     マムシ注意               旗掛岩

 よしそれなら次の目的の地宝積寺(ほうしゃくじ)も南側から行ってみようと東名の横の道を行く。
しかし残念ながら道は宝積寺までは延びていず、団地の中をグルリ回って戻ってしまった。
タイミングよく歩いていた人に確認すると「歩いているなら」と細い道を教えてくれた。
その道の入口には「マムシ注意」の看板が建っていたが、細いながらも舗装された道だった。
マムシならさっきの大日堂の方の道の方が、よっぽマムシが出てきそうだった。
 
 前方の道路に大きな石が見えてきた。若しかしてあれは旗掛石かと思い近づいて見ると
案の定「旗掛石」だった。旗掛石とは案内板によると
「浅間神社の登り口右側にある大きな岩が二つある。旗掛石、または鞍掛石という。
本来この二つの岩は、我国の古い信仰である神の依りつかれる磐座(いわくら)であった。
徳川家康が天下を取ってから、しばしばこの辺りで鷹狩を催し、その際家康の旗を立て掛け、
馬の鞍を置いたのでこの名がある」
のだそうです。

 今は舗装された道から大きいが余り高くない石がピョコッと出ているだけだが、昔はもっと高く
登るの大変だったと聞いた事がある。それが水害で道を嵩上げした結果今のようになったらしい。
確かにこんな状態ではとても磐座だったとは思えない。だが神代の時代はこの辺りは樹木が生茂り
鬱蒼としていたに違いない。そんな所に大岩が二つあれば注連縄を掛けてお詣りしたくなるのも道理だ。
 そうそうこの辺りの地名は「石脇」と呼ぶが、それはこの石に由来しているそうです。

     
   石脇浅間神社                 手水鉢

 旗掛石の横にある石脇浅間神社に気になる物があった。
それは「征露記念」と彫られた新しい手水鉢だが、これが古ければ気にもならないが、
余りに新しいので設置年を確認すると昭和55年だった。
この頃ロシアを相手に「征露」と言えるような何かあったのか? 当然何もない。
きっと日露戦争の戦勝記念に造った手水鉢が古くなり、新しいのに取り替えたのだろうが
少々違和感を感じた。

北八ヶ岳・横岳

2012-09-05 08:37:21 | 低山歩き
北八・横岳                        歩行月日2012/9/1
歩行時間:2時間25分 休憩時間:0時間35分 延時間:3時間00分
出発時間:12時30分  到着時間:15時30分
歩数:6.145歩 GPS距離:3.9km

行程表
 ピラタスケ-ブル山頂駅 1:00> 北横岳ヒュッテ 0:13> 横岳南峰 0:04> 横岳北峰 0:15> 
北横岳ヒュッテ  0:53> ケーブル山頂駅

歩行記

 北八ヶ岳にある横岳、通称北横岳に登ってきました。
今回の山行はいつもの一人旅と違い、ハイキングツアーとの同行で私としては初めての経験です。
ツアーの顔ぶれは私と同年配や、やや多い人もいたが、一番多いのは私より少し若い女性だった。
ツアーの人の格好は皆それなりの格好で、靴などは私のウォーキングシューズより立派な登山靴が多く
普段格好には余り頓着していない私でも、我が身がみすぼらしく感じてしまった。

静岡県から八ヶ岳は近いようで遠く、浜松を7時前に出発したのにケーブルの麓駅に着いたのは既に12時頃。
当初は山頂駅に着いてから昼飯の予定だったが、生憎の雨模様で急遽麓駅の施設内でとる事に。

昼飯を終え100人乗りのゴンドラで山頂駅に着くと気温は15℃。涼しいを通り過ぎ薄着の身には寒いくらいだ。
丁度というか生憎というか雨模様だったので、合羽を着ても暑さを感じないで済んだ。
ツアーの一行は50人。そのため速度はゆっくりでヒュッテへの上り坂になっても息の切れる事は無かった。
尤も大人数のため、下ってくる人たちとの擦違いに時間が掛かり立止る事が多っかた為かもしれないが。

石楠花が出てきた。ここの石楠花は「白山石楠花」と表示されていたが、先週登った天城の石楠花は
「天城石楠花」でピンクの花が咲くとあった。この白山石楠花は何色の花が咲くのだろう?
石楠花の高さは天城石楠花は大きく、枝が長いせいか樹の姿は乱れていて四方八方に向かっていた。
一方ここの白山石楠花は背は1mくらいと低く枝の乱れもなく通常見る石楠花だった。

  
    横岳南峰より蓼科山           南峰より北峰を

 北横岳ヒユッテから横岳の何峰に15分も掛からず到着。これで目的に到着かと思うと少々ショック。
いや大分ショックだが、マー初級のハイキングツアーだから当然なのかもしれない。

この横岳は通称北横岳と呼ぶのは、南八ヶ岳にも同じく横岳があり、その標高は2829m。
一方こちらの横岳の標高は2471mと大分低い。
そこで紛らわしい名前を避けて北八ヶ岳の横岳を縮めて「北横岳」と呼ぶようにしたそうだ。
また、北横岳は双耳峰で南北に山頂があり、北峰の標高は2480mと何峰より若干高い。
なのに通常北横岳と言うと南峰側を指すのは、南峰側に三角点があるからだとか。

 雨は降ったり止んだりで、時折ガスの切れ間に蓼科山が顔を出すが左程の事ない。
有名な縞枯山は残念ながらその縞枯模様を見る事は出来なかった。

  
   北峰山頂                 北峰山頂の道標

南峰と北峰は平坦な道で繋がっていて5分も掛から移動できる。

        
         七つ池の内の二の池

 さて今日のコースはこの北峰から引き返すことになっている。ここまで歩いた歩数は2530歩。
距離もたったの1.6kmと欲求不満になりそうなコースだが仕方ない。
雨の2時過ぎとなると登ってくる人も少なく、下りはすれ違いに時間も掛からなかったのでヒュッテから
「七つ池」に行く事になった。ラッキー!

  
       坪庭                        坪庭

 山頂駅近くの坪庭の周遊路は一方通行になっていて、嫌でも坪庭は一周しなければならないようだ。
「坪庭」とは溶岩地帯の少ない土にハイマツがへばりついていて、所々に溶岩の奇岩が顔を出している
景色は確かに庭といっても名前負けしないだろう。
富士山の須山口三合目あたりの「御殿庭」に比べれば、はるかに坪庭の方が庭らしく感じる。

 3時30分ケーブルの山頂駅に到着。
バスで片道5時間近く掛けて来て、歩いたのはたったの2時間30分。距離も4km程度とは恐れ入りました。
でも良い経験になった。自分も後何年かすると、このようなツアーにお世話になるのかもしれないと思うと。