はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

サッタ峠

2012-02-29 13:06:55 | 低山歩き
場   所:静岡県静岡市清水区
歩行月日:2012/01/25(水)
歩行データ: コースタイム
  興津駅-0:40-薩埵峠-0:40-由比駅-1:00-公衆トイレ-0:25-野外センタ-0:30-浜石岳-1:10-
  銚子口の滝-0:50-本陣公園-0:20-由比駅

 歩行時間:6時間35分 休憩時間:1時間55分 延時間:7時間30分
 出発時間:8時50分  到着時間:16時20分
 歩数:32,800歩 歩幅推測:0,77m 距離推測:25.3km (GPS距離 26.0km)

興津駅~浜石岳-由比駅

 今日のコースは何度も紹介しているので少々端折って紹介します。

 今日の予定は薩埵峠から尾根伝いに浜石岳に行き、あわよくばさらに東にある大丸山に登り新蒲原駅に下る予定だった。だが興津駅を出たのが8時50分と遅い出発になってしまった。
冬の朝は朝起きるのが辛く、布団から中々出れなくて遅くなってしまう。しかも今日はタイミング悪く、来た電車が静岡止まりで、興津行きは次の電車に乗る羽目になってしまった。
それでも歩き出せば体は温まり調子が出てくる。

  
   興津駅                              身延道入口
 
 興津駅を出ていつかは歩いてい見たいと思っている身延道の入口を過ぎる。興津川を渡り近道の国1から踏切を渡る「中官道」を行く。
薩埵峠からの富士山は期待通りの姿を見せていた。平日といえど写真を写している人や東海道を歩いている人などで結構な人と峠道で出合った。だが薩埵峠の駐車場から旧東海道と別れ、東に登る農道に入ると途端に人影はなくなる。多分今日は浜石岳まで誰とも会うことはないだろう。

 登山道入口の標識に何か貼紙がしてある。まさか!慌てて近寄ると貼紙には
「立入禁止 倒木があり、危険なため立入らないようお願いします 静岡市」とある。さらに手書きで
「浜石山頂、但沼、立花 倒木約300本」とも書いてある。
行くべきか、止めるべきか。ウーン! 確か前回このコースを歩いたとき薩埵峠から山頂まで3時間かかったはずだ。それが倒木が300本もあればどの位かかるだろう。4時間?5時間? そうなると今10時だから浜石には2時を過ぎてしまうことになる。
止めた、止めた。このコースは次回にして、今日はオーソドックスの青少年野外センター経由の道にしようと今来た道を薩埵峠まで戻ることに。

        
     薩埵峠                             証拠の枇杷の花

 途中に由比名産枇杷の花が咲いていたので写真に撮っていると「ミカンは盗らないでください」との声が聞こえてきた。自分に言っているとは思わなかったので、そのまま写真を撮り続けると、また「ミカンは盗らないでください」との声が。声の方を見ると工事の車両誘導員が私の方を見ている。「ミカンなんか盗ってませんよ」と言い返す。しかし周りにミカンがあれば疑られと仕方ない、李下に冠を直さずの譬えもあると周りを見るが、幸いの事にミカンは無かった。誘導員に近づき「写真を写していただけですよ」と言い返してしまった。
それにしても枇杷の花はきれいでない。蜘蛛の巣が絡んだようであまり好きにはなれない花だ。
まてよ、そんな事を思いながら写真を写していたので、罰が当たって注意を受けたり通行止めに出合ったりしたのかな、くわばら、くわばら。

 由比駅に10時45分到着。再度ここから仕切り直しだ。
桜エビ通りの看板の上に富士山が白い頭を見せているが、手前の山が無ければもっと綺麗に見えるだろうに何とも邪魔な山だ。多分あの山が大丸山なのだろうか。
今日の目的の一つに、この邪魔の山の上から見える富士山を確認する事もある。もし山頂から富士山の眺めが良ければ「富士山絶景ポイント」に加えてたいと思っていた。
 歩き慣れた農道を登って行くと駿河湾越しに昨年末登った沼津アルプスが見えていた。低いのにかかわらず中々存在感がある山だ。今年は桜の頃に奥沼津アルプスを含めもう一度縦走しようと思っているが、歩きたい場所が多くどうなる事やら。
 急坂な農道はいつ歩いても結構大変だ。なまじ知った道なので、あそこまでは頑張ろうなどと思うので余計疲れる感じがする。今日も公衆トイレまで由比駅から1時間弱。タイムは変わらないが疲れはいつもより多いような感じがする。
 
  
  桜エビ通りと富士山                        沼津アルプス

 トイレを過ぎて途中から山道に入る青少年野外センターまでの間には倒木は無かった。ただ野外センターを過ぎ、薩埵峠からの伸びている尾根に近づく森の中はアチコチに倒木が見え、登山道にも何本かの木が倒れていた。幹の途中で折れた木や、根こそぎ倒れている木もある。それにしても杉や桧の根は根っこの部分が小さい。もっと四方八方に根を張り巡らせていると思っていたが、この程度の根では強い風がまともに当たれば倒れても当然だと感じる大きさだった。杉や桧の根は雑木に比べ小さいのかな?

 登山道にある倒木を跨いたり潜ったりしたが、この程度の倒木ならどうと言う事もない。これが200本とか300本ではお手上げだが。
薩埵峠との合流地点に来たが、標識には倒木の貼紙はない。何故だろう?市役所の人が車で来られない所は貼紙をしないのだろうか?

  
  野外センターから浜石岳                            倒木

 山頂の芝生の先に富士山の頭が見えてきた。休日に来るとこの山頂はハイカーが一杯で、このような景色は中々見ることができないが、今日は平日とあって一人もいなかった。ラッキー!
一歩歩く度に富士山が少しずつ顔を出してくる。どこかで見た感じだ。そうだ思い出した。伊豆3山の発端丈山もこんな感じの山頂だった。一歩ごとに富士山が顔を出してくる。フー!堪らないな、こんな景色を独り占めできるなんて。

  
  浜石山頂                              浜石山頂
            
              清水港
 
 浜石岳の一般的ルートは、由比駅を出て青少年野外センターから山頂に登り、帰りは銚子口の滝経由で由比の本陣公園に下るコースだろう。ただこのコースは「長い舗装道路を歩くのが嫌だ」と言う人もいる。確かに山頂から10分余りで農道に出ると、後はひたすら舗装道路を2時間以上歩かなければならない。それでも途中に銚子の滝があるので何とか我慢できるが。

 今日もその道を歩く。何故なら東に見える大丸山の登り口を見つけるにはこの道しかないのだから仕方ない。だが結局大丸山への標識は見つけることができなかった。
(これは後で分かったのだが、県道76号に合流する入山親水公園の所に標識が建っていた。何故気が付かなかったかというと、その標識のある所より上で近道を歩いてしまったから)

  
  九十九折の農道                           嘉永年代の馬頭観音

 銚子口の滝に2時40分到着。たとえ大丸山への道を見つけても登れるような時間ではない。それなら久し振りにゆっくり滝見物でもしよう。
誰もいない滝への道は大人げない事もできる。いつもなら滝口の鉄製の階段に沿って滝を見るだけだが、今日は時折手すりを乗り越えて滝を覗き込んだりした。

  
銚子口の滝・上3段               4段目                        5段目

 滝見物を終え再度車道歩きが続く。県道76号に近づいた所で、急な細い道を歩いてくる子供がいた。早速「この道は近道?」と聞くと「超近道だよ」との返事。それではとその近道を下った。
近道が県道に出た場所はJA駿河路の営業所の前で、川沿いに細長い親水公園の終わりの所だった。これなら確かに近道だ。以後はこの道を利用しようと。(この近道のため大丸山への標識を見落としてしまった)

 本陣公園のトイレを利用し由比駅に向かう。道々酒屋を探しながら歩いたが見当たらない。由比には漁港もあり必ず酒屋はあると信じながら探したが、駅までついに見つける事ができなかった。そして駅には売店は無し。
由比の人は酒を飲まないのかと悪態をついてしまった。

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 今日は大丸山への登り口が分からなかったので、次回は大丸山から浜石岳に向かって歩いてみよう。そして薩埵峠の倒木が整理されていたら浜石から薩埵峠に抜ければよい。よし近いうちに実行しよう。

烏帽子形山・花倉城跡ウォーク2

2012-02-26 22:58:47 | 低山歩き
花倉城跡~藤枝駅

 分岐からわずか20分ほどで本丸跡に到着してしまった。ウーンこれでこのまま下ってしまったのでは全然物足りない。距離も此処まで13k足らずしか歩いていない。ならもう一度分岐まで戻って、当初の予定通り花沢城跡のハイキングコースを最初から歩いてみようと、またもや来た道を戻る私でした。(本当に好きだな、自分でもアホたれてしまう)

 コンクリの急な道はゆっくり歩こうとしても徐々に早足になってしまう。だがここで転んでは怪我をしてしまいそうだと、落葉が積もった山側を下った。
しかしハイキングマップに何故この道を載せないのだろう?烏帽子形山から花沢城跡に行き、その後ここに戻り温泉に行けばよい。そうしないのはこのコンクリの道が危ないからなのか?
いや違うだろう。一度花倉城跡に行ってしまうと、そのまま下ってしまい、再度ここまで戻って温泉に行くハイカーは居なくなってしまいそうだ。そうなると市営温泉の客が減る。なるほど、だから分岐に花倉城跡の新しい標識が無かったのだと、勝手な解釈で悦に入る私でした。

 分岐から北に下るハイキングコースは沢沿いの道で、周りは植林された杉や檜で薄暗い道だった。今は冬、しかも下り坂なので体が冷えて陽射しが恋しいが、夏ここを歩けば涼しい爽やか道になるだろう。
そんな道を歩きながら考えた。烏帽子形山の下りで間違えて滝沢の方向に下ってしまったが、あの道をそのまま下っていくと島田に抜ける道に通じている。それなら花倉城の抜け道になるのではないか、麓から敵に攻められたら山沿いに島田に抜けて遠州に落ち延びることができる。
だが謀反を起こし花沢城に立籠もった玄広恵探は、城の麓で自刃してしまった。そうなるとこの抜道は無かったのだろうか?
家に帰り再度花倉の乱を調べてみると、麓で自刃した恵探だが、その麓とは瀬戸谷とある。ならば滝沢と同じ谷にあるだ。
そうか恵探は花倉城を脱出して、間道を通って遠州に逃れようとしたのだ。だが同じ今川の攻撃陣は、この間道の事を知っていたので麓で待ち構えていたのだろう。それを知った恵探は「最早これまで」と自刃してしまった。アースッキリした。

 県道81号に合流。ハイキングコースはここを左に曲がり温泉に向かうが、私を右折して西方に向かう。そこから再度花倉城跡に登る予定だ。それにしても車が通らない県道だ。結局西方の信号まで約25分、1台も車に出合わなかった。
 
 道の奥に大きな観音像が見えていた。入り口には「藤枝霊園」の立看板がある。きっと商売っ気の旺盛な寺の墓地だろうと思ったが、観音さんが気になり寄ってみることにした。
墓地といえば私は新所帯なので墓を準備しなければならない。いや私個人は墓になど入らなくても散骨で充分と思っているが、妻はそうはいかない。妻は墓に入りたいだろうし、私が先に逝ったとき散骨をするなどと言えば、たとえ私の遺言があったとしても、私側の親戚に猛反発を受けるだろう。それは可哀そうだ。
そんな思いはあるが信仰心薄い私は、寺の墓地でなく集団墓地を望み、故郷の富士霊園を候補に考えていた。しかし子供たちがこちらに根を下ろし御殿場とは縁が薄くなっていいる現状を見ると、私の我儘で富士霊園にするのも気が引けてきていた。
どこか良い霊園が無いだろうかと思う気持ちもあってか、ついつい寄り道をしてしまった。
観音さんの立つ最上部まで行き墓地全体を眺めながら、こんな場所でも好いかなという思いも湧いてきた。帰りに墓地のパンフレットを貰い妻にも見せてやろう。

  
  藤枝霊園                               藤枝霊園

 霊園を出るとすぐ花倉城跡の入口の看板がある。またここから城まで登り返さなければならない。だがこのコースは初級コースなので大したことはないだろう。
農道を登りだすと下に藤枝霊園が見えてきた。何だよ、私を誘っているのか?縁起でもない。
 舗装された農道が伸びていて、その周りにはミカン畑が多い。ここにもミカンを収穫せず、そのままになった木が時折出てくる。一度味を占めてしまった私は、またもや失敬して味見をしてしまった。

 農道は城の入口まで伸びていて全て舗装道路だった。これなら確かに初級コースだろう。時間も入口から20分で着いてしまったのだから。
さっきは本丸跡に行っただけで城跡の中は歩かなかった。今度は丁寧に見てやろうと早速入り口にある看板を読んでみた。塗装がが剥げかかり見にくかったが概略はこうだった。
「花倉城は足利将軍に駿河守護職の命を受けた今川が花倉に居館を構え、その背後の山に詰城として花倉城を築いた。その後本拠を駿府に移すまでの60年間は今川の本拠地として栄えていた。
駿府に移転後も一族を花倉遍照光寺の住職にして花倉城を駿府の西の守りとした」


 私は幕府から地方の守護職を任じられれば、家臣団を引き連れ堂々と府中に進軍してきたかと思っていたが、どうも違うようだ。当時の地方には地元の豪族がいて、その豪族たちを平定なり納得させなければ守護職として認められなかったのだろう。
今川家も任命当初は駿府には入らず、ここ花倉に拠点を構え、徐々に勢力を拡大していったのだろう。そして駿府に移転後も花倉は駿府の西の守りの拠点として一族を残していった。

 だがこの説に少し疑問を感じてしまった。以前駿河一国の遍路で島田の慶寿寺を訪れたときの案内では、今川家が駿河に入って最初に今川館を築いたのは島田の大草で、その後葉梨(花倉)に移ったとあった。館跡に建った慶寿寺は中世の城郭形式を残しているともあったので、館とはいえ砦のような機能をもっていたのだろう。さらに慶寿寺には今川家2代目今川範氏の墓もあった。
それなのに花倉が駿河今川の最初の拠点??

 また看板には「駿府の西の要」ともあるが、花倉の地は東海道とは離れていて、本当に西の守りの役に立ったのだろうか? 西の守りというより、駿府が攻撃されたときの逃げ込む先の城としての役目が主ではなかったのか。

 城の入口にある細い土橋を渡る。土橋といっても城の知識のない私には、単なる細い盛り上がりとしか見えず人工的なのか自然なものなのかも判断がつかなかった。その後も「空堀」「土塁」「帯曲輪」などの表示が出てきたが同じように分からなかった。
それでも「本丸」「二の丸」は平らになっているので、ここに建物があったことは想像できた。
グルリ城跡を廻ったが、景色は空堀の先にあるコンクリの急坂を登り切った場所が一番良かった。花倉城跡を訪れた人は是非ここまで足を延ばしてください。距離? いえいえ大丈夫、空堀から10mか20mの所ですから。

 本丸跡で休憩しながら歩行ノートを見てみると、先ほど本丸から農道を下ってグルリ一周してここまで約2時間30分かかっている。だが藤枝霊園で20程度ロスしているので、それを引けば2時間程度で一周したことになる。
しかし2時間かけて歩いたが特に見るべきものも無かった。それならこのルートは「烏帽子形山・花倉城跡コース」として 藤枝駅-運動公園-清水寺-烏帽子形山-花倉城跡-藤の里トンネル-運動公園-藤枝駅 がお勧めだ。
このコースなら歩行時間は6時間で距離も9k程度は短くなる。更に車利用なら藤枝運動公園に駐車すれば、歩行時間は4時間強、距離は17k程度になる。これなら誰でも歩けるので、今川に興味のある人は歩いてみてください。

 下りは一度土橋まで戻り、更に来た農道を少し戻る。分岐になったら道を右側にとり尾根上の農道を下って行く。上りの農道は距離が短かったので急な坂道だったが、この尾根の農道は緩やかな道が続きのんびり歩ける。また西側に見える尾根は午前中に烏帽子形山に登る時歩いた尾根だが、こちら側より随分高そうだ。三角山らしきピークも見えている。

  
  西側の三角山と思える尾根(黒い竹)                  ハイキングコースの標識

 こうして見ると昔、城へ生活物資を運んだのは、きっとこの道だったと思うが一つ合点のいかない事がある。
確か城跡の入口の看板には「今川館のあった場所は花倉の遍照光寺前」と書いてあった。その遍照光寺とは現在は遍照寺で今見える西の尾根の下にある。その寺の前に今川館があったなら、城への補給路は近場の西の尾根になるだろう。となると補給路は急な尾根道を行き、烏帽子形山の中腹から城までは下ったり登ったりしなければならない。しかもその道は遠州への抜道とも考えられるので、わざわざ敵に抜道を押さえさせるようなことになってしまう。

 何を言いたいのかって? 私の妄想的歴史観だと今川館は遍照寺の前ではなく「遍照光寺前方の山裾」にあったのではないかと思うのだ。敵の襲撃から逃れるのに、城までの距離が長く、起伏も多い道を行くのだろうか?
私が軍師なら館から詰城への道は、館の裏手から伸びていなければならないし、寺には砦の意味も持たせ館の反対の山裾におけば、敵を挟み撃ちにもできる。
そうだこれからハイキングコースを外れるが花倉側に下って確認してみよう。

タイミング良く標識がありコースは左の上川方面を指しているが、手書きで右は「勝谷」と書いてある。勝谷がどこか知らないが右は花倉方面なので行ってみることにした。しばらく行くと舗装が終わった先に道をロープで遮断している。何も表示はしてないが通行止めなのだろうか?仕方ない戻ろう。
いつもなら「これは車の通行止めで歩行者は関係ない」と強引に進む私なのに、その時は素直に引返してしまった。きっと疲れていて更に先まで行って戻るのが嫌だったのだろう。そんな訳で麓に降りてからも花倉まで歩く気は起きなかった。

 帰りの清水山は、山の東側を走っている藤の里トンネルを通って、瀬戸川に抜ける車道を歩く。総合運動場からは朝歩いた道を駅まで戻ればよい。

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 後日車で妻と藤枝霊園に行ってみた。
そして帰りには墓地の永代供養を申し込んでしまった。なんとも速攻だったが何かの縁があったのだろう。
これで終の寝場所は決まった。こうして人生の終末に向けての支度は徐々に進んでいくのだろう。
これが「虫が知らせた」ことにならなければよいが。

烏帽子形山・花倉城跡ウォーク

2012-02-23 09:49:13 | 低山歩き
場   所:静岡県藤枝市
歩行月日:2012/01/19(木)
歩行データ: コースタイム
  藤枝駅-1:20-清水寺-0:20-登山道入口-0:50-三角山-0:20-烏帽子形山-0:35-花倉分岐-0:15-
  花倉城址-0:10-花倉分岐-0:40-西方-0:15-藤枝霊園-0:10-花倉城跡入口-0:55-花倉城跡-1:00-
  藤の里トンネル-1:00-勝草橋-0:10-藤枝駅

 歩行時間:8時間00分 休憩時間:1時間50分 延時間:9時間50分
 出発時間:7時25分  到着時間:17時15分
 歩数:47,000歩 歩幅推測:0,77m 距離推測:36.2km (GPS距離 32.6km)

藤枝駅~花倉城跡
  
 今日の天気予報は曇り空、なら地元の行ったことのない低山に行くことにしよう。
目的地は前から気になっていた、今川家のお家騒動で落城した花倉城跡とする。
行く前に花倉の乱について調べ直しておいたので少し紹介します。

 今川家で一番有名な今川義元は今川中興の祖の氏親(うじちか)の五男として生まれたが、4歳の時から仏門に出されていた。
氏親亡き後、兄である嫡子氏輝が今川家当主となる。だが氏輝が死亡し上位継承者である氏輝の弟の彦五郎も急死してしまうと、義元に当主継承権が与えらえ、家督を継ぐことになるが、異母兄の兄・玄広恵探(げんこう えたん)が反旗を翻して花倉の乱を起こした。
恵探派は久能山で挙兵し、駿河府中の今川館を襲撃するが、今川館の守りが堅く襲撃が失敗すると、恵探派は花倉城(藤枝市)を拠点として抵抗し、遠江などで同調するものも現れた。
義元側は相模国を領する後北条氏からの支援を得て、恵探の篭る花倉城を一斉攻撃した。恵探は支えきれずに逃亡、瀬戸谷の普門寺で自刃。遠江での戦闘も収束すると、義元は自身の家督相続を宣言た。

 しかし花倉城跡一ヶ所だけでは歩き甲斐が無いので、花倉城跡の隣にある烏帽子形山もついでに登ることにした。
参考にした地図は藤枝市作成のハイキングマップで、その中の「烏帽子形山コース」「花倉城跡コース」を合体したコースにしたが、マップではスタートとゴールがバス停で終始していたのを、藤枝駅発着に変更した。

 藤枝駅を出ると、先ずは旧東海道青島一里塚のある勝草橋に向かう。橋を渡り、まだ蕾も見えていない桜のトンネルの下を、最初の目的地清水寺へと向かっていく。途中に藤枝市の総合グラウンドがあるので、車の時はここの駐車場(無料)に車を置いて歩くと便利です。
清水寺は前回紹介した「駿河一国33観音」の一番札所になっていて726年に行基の草創と伝えられ、817年には弘法大師が巡錫の途中、寺を中興したといわれている古刹です。

  
  藤枝総合運動場                              清水寺の石仏
  
 ハイキングコースは、この清水寺の横から始まっていて、右は清水山コースで、左が烏帽子山形コースになっている。石仏や石の道標もあり、この道が古くから使われていた事が感じられます。以前駿河一国33観音で花倉に向かうとき、この古い道標の「右・花倉 左・助宗」を見て右に入っていくと道が無くなって、右往左往したことがあった。後日この話を清水寺ですると「以前は花倉のへの道があったが、新東名の工事で旧道が寸断されただろう」との事だった。だから今日は標識の「助宗」の方向に進む。
 道が下り坂になると新東名の建設現場や、遠くかすかに富士山の山頂部分が見えてきた。しかし写真は撮ったが富士山は分からなかった。
道を更に下り、新東名のガードを潜り県道と合流したら、県道を右に行くのだが、分岐にはハイキングコースの標識が建っていた。この調子で次々と標識があれば安心して歩けるのだが。

  
  花倉の道標                          かすかに富士山が、茶畑の向うは新東名の法面

 県道と別れ標識に従い農道を登って行く。この辺りはミカンの栽培が盛んなのか、ミカン畑が所々にある。殆どのミカンは収穫されいるが、時折実が付いたままの木があるので、近づいてみると、ミカンの皮は黒い斑点があり、とても売り物になりそうなものではない。多分農家が放置したままの木なのだろう。
そう判断するともう我慢ができなくなり、早速一つ取って皮を剥くと皮は固く厚い。そのうえホロも厚く白い筋が一杯付いている。口に含むとウーン酸っぱいが味が濃く美味しい。とはいっても家でなら酸っぱくて食べないかもしれないが、今は歩いていて喉も乾いているので美味しく感じる。おまけにもう一つ取って歩きながら食べてしまった。

  
  放置されているミカンの木                 アップで写したら綺麗だった?

 農道が山道になり最初のピ-クに到着。山頂には「三角山」の標識がある。景色は西の方角が少し見えていたが特段の価値はなかった。三角山から烏帽子形山に向かう道は、最初はなだらかだったが最後は少し急な登りになっていた。
山の名前が烏帽子と呼ぶのだから当然山頂付近は尖った山だろうと思って、道々そんな山を探しながら歩いたが見つからなかった。三角山の手前で二つのピークが見えた。しかしとても烏帽子とは思えない形状だったが、あとで考えるとそれが三角山と烏帽子形山のようだ。
  
  
  三角山?烏帽子形山?                   三角山山頂 
       
 だいたい山の名前が烏帽子山でなく、烏帽子山と「形」がわざわざ付くのだから、当然烏帽子のように尖った山を想像しますよね。現に藤枝市にはもう一つ烏帽子山があって、そちらの山は旧東海道から烏帽子のように見えることから、旅人の目印になった山だという。この山は標高105mの低山だが、たしかに烏帽子山と聞いても納得できる形の山だ。
それがわざわざ「形」を付けている、こちらの烏帽子形山は何処にも見当たらない。一体どの場所から見ると烏帽子に見えるのだろう?

 花倉城跡への分岐点を過ぎたあたりから道は少し急になってくるが、その距離は短く三角山から20分ほどで烏帽子形山に到着。
山頂には三等三角点もあるが、東の方角が少し開けているだけで見るほどの景色でもない。早々に退散をした。

  
  烏帽子形山山頂                            雪を被った茶畑
 
 次は花倉城跡方面に向かうのだが、城跡まで行かずに烏帽子形山ハイキングコースを滝沢に向かう積りでいた。その考えばかりが頭にあったので、来るとき見た花倉城跡の分岐になる前の滝沢方面への分岐を曲がってしまった。
 道は林の中から農道となり、雪の残っている茶畑に感激しながら下って行くと下の景色が見えてきた。アレ?想像していた景色と違う、確か地図上では烏帽子形山を下った先は、山の中の県道のはずだ。それが下に見えるのは、川沿いの家や大きな建物だ。慌てて地図を取り出して照らし合わせてみると、下に見えるは滝沢ので大きな建物は学校のようだった。
 そう間違っていました。烏帽子形山から直接滝沢に下るのではなく、いったん花倉城跡の方に行き、烏帽子形山を回り込むようにして滝沢に向かうのが正しいコースでした。
仕方ない戻って歩き直そう。結局滝沢分岐まで往復25分ほどのロスになってしまった。花倉城跡の分岐を今度は間違えなく曲がって雑木林の中の急な道を下る。そういえば烏帽子形山のコースの難易度が上級になっていたが、この辺りの下り坂がそれに該当するのだろうか? ここが上級なら前回歩いた徳願寺尾根は超上級になってしまうな。

 またもや分岐点だ。ハイキングコースの標識は下りの農道を指しているが、それとは別の古い標識に「花倉城跡」と書いてある。ウーンここから花倉城跡に行けるなら、ハイキングコースと外れるが行かねばならない。ヨシ!行って確認してこようと直進する道を登りだした。
荒いコンクリの急な道を直登していくと右側が開けてきた。生憎今日はスッキリしない陽気で景色もぼんやりしていて遠くは見えず、近くも霞んで見える。しかし天気さえよければ富士山も見え、景色が良さそうな場所だ。
急なコンクリの道が終わり、また山道に入ると「外堀」の標識があった。きっとここが花倉城跡なのだろ。

  
  花倉城跡からの景色                         花倉城跡

大崩山塊・徳願寺尾根縦走4

2012-02-20 17:39:03 | 低山歩き
宇津ノ谷峠~安倍川駅

 さて今はまだ2時。時間も早いので、もう少し先まで足を延ばすとするか。ここから先は何回も歩いているので道の心配はないしから、ともかく蔦の細道に向かおう。
しかしここは峠から上に向かう取っ付きが大変で、急坂だが木も生えているので決して怖くはないが、呆れてしまうような坂だ。ズルズルと土と一緒に下がってしまいそうな体を、草を掴んで支えながら登る。道はなるべく右側に伸びる踏み跡をたどるように進めば上にある農道に近くなる。
このアホたれた急坂の距離は短く20m程度で、上にある農道に着くが、この急坂を避けるには峠を西に下り一旦農道に出たら農道の上り坂をグルリと回って、この場所に来るようになる。それを思うとこの斜面を登りたくなる。

  
  蔦の細道側からの宇津ノ谷峠                   峠から農道に直登して出た所

農道に出たら正面にある階段を登り、茶畑の中を通っても行けるが、今日はそのまま農道を登って行くことにした。合流する場所はすぐ近くだし、茶畑や道のない雑木林の中を歩くより農道の方が楽に思えたからだ。
 国道1号線の宇津ノ谷トンネルの排煙施設に出たら、建物を回り込むようにして建物の西側から次の山道に入る。前回ここを蔦の細道側から歩いたときは、伐採工事中で登山道が分からなくなっていて困ったが、今は太い道が付いていた。
林の中には赤い布などの目印が付いているので困ることはないが、1ケ所北に向かっていた道が東に方向を変える場所があるので注意が必要だ。しかし写真のような標識があるので心配することもないが。あとは以前この道は歩く人が少なく踏み跡も薄かったが、今ではしっかりとした道になっていて、支障なく蔦の細道に行くことができる。

  
  トンネルの排煙施設                         注意!

 蔦の細道が見えてきた。ここの道は最初はきつかったが、あとは楽だった。それでも30分弱かかっているので既に2時半になってしまった。
此処から南に前進していけば所要時間1時間半程度で満観歩には着くことができる。また蔦の細道を西に下り、岡部から焼津に出れるが、長い車道歩きをしなければならない。逆の東の丸子側に下って行くと今日の出発地、安倍川駅まで2時間弱で着くことができる。
さてどうしよう、西の岡部に下るのは止めよう。とすと満観峰か安倍川だ。今2時半だから満観峰には4時には着く。そこから鞍掛峠経由で花沢の150号線まで1時間。更に焼津駅まで歩くとなると駅に着くのが6時ごろになってしまう。
一方安倍川駅には4時半には着きそうだ。それなら通勤ラッシュの前の電車に乗ることができる。決まった安倍川駅の戻ろう。

  
  蔦の細道の峠                            蔦の細道から宇津ノ谷峠への入口

 丸子川沿いの遊歩道を歩きながら地方の山をアルプスと名付ける暗黙の条件とは何だろう考えた。
 1・距離が長く山の気分を満喫できる。
 2・起伏があって山の厳しさを味合うことができる。
 3・山からの眺めが良い。
 4・山景が見栄えがする。
 などが考えられるだろう。

 では沼津のあの低山がアルプスと世間で納得されているが、上の条件は満足しているか?
ウーン確かに距離はある程度長かった。アップダウンが多くあり大変だった。景色は富士山・駿河湾・伊豆や箱根の山もよく見え、特に香貫山からの眺めは素晴らしかった。遠くから見た姿も低いながらも起伏があり、見栄えはともかく興味を感じる山だ。

それにくらべ今日歩いてきた丸子富士はどうだ。2は〇だが1はかろうじて〇。3,4は完全に×だろう。これではアルプスの名が泣くというものだ。
では大崩山塊にある、もう一つの焼津アルプスはどうだろう。あの簡保の宿から花沢山までの尾根は2時間半程で歩けてしまい距離は長くない。起伏も最後の花沢山への上りはきついが、それも階段なども整備されていてアルプスの面影はない。山景?これは丸子も焼津もアルプスとはチョット恥ずかしくて言えないな。
折角自分のホームグランドの大崩山に二つもアルプス候補があるのにけなしてどうなる。何か名案はないか。
そうだ丸子と焼津を一つにすればよい! 二つの尾根は蔦の細道からは満観峰まで尾根が伸びていて、更に花沢山までも尾根は続ている。ならば丸子と焼津を合併して一つのアルプスにすればよい。
コースは
 徳願寺-梵天山-大鈩山-飯間山-宇津ノ谷峠-蔦の細道-満観峰-日本坂峠-花沢山-簡保下
      (丸子アルプス)                                       (焼津アルプス)

これなら1の長さは十分だ。そして2の起伏は今日歩いた歓昌院坂や宇津ノ谷峠への坂。蔦の細道から満観峰までもかなりアップダウンのある尾根が続く。そして満観峰から花沢山もかなりの起伏がある。最後の花沢山への上り下りはダメ押しの感がするくらいキツイ坂になるだろう。2に関してなら他の○○アルプスに決して引けはとらないだろう。
3の景色は満観峰からの眺めは天下一品だ。一カ所だけで申し訳ないがそれでもお釣りがくる位の景色なのだから許してもらおう。
4の山景は美しさは無いが満観峰や花沢山は遠くから見ることができ存在感がある。
これで一応すべての基準に合格したことになる。では名前は何としよう。「大崩アルプス」ウーン中々いい。でも大崩というと焼津をイメージしてしまうので静岡の人が怒るかな。なら「静焼(せいしょう)アルプス」はどうだろう。

 空想が空想を呼び一人興奮しながら歩いてしまった。これを空想に終わらせないために実際に歩いてみなければ。
そうなると今日のように遅い出発ではだめで、遅くとも6時には歩き出したい。そして到着は夕方6時でも明るい頃が良い。なら3月に入ってからこのコースを歩いてみよう。果たして完歩できるかどうか分からないが楽しみが一つ増えた。

 安倍川駅に4時20分到着。途中のコンビニでかった氷結はことのほか旨かった。

大崩山塊・徳願寺尾根縦走3

2012-02-19 11:52:31 | 低山歩き
歓昌院峠~東海道宇津ノ谷峠

 標高375mの梵天山から171mの歓昌院峠まで200mを一気に下ったあと、次のピークを目指して今度は一気に登る事になる。
貰った地図には最初のピークは313mの歓昌院山となっているので、梵天山の斜面より傾斜はゆるそうだ。だがPCの国土地理院の地図では313m地点に三角点があるが、その後も410m近くまで上りが続いてているように見える。下れば上る。これが尾根歩きの鉄則だと居直って登るしかない。
 急坂は急坂だが、登りの時は背を丸め下を見つめ一歩一歩歩いていくので傾斜を感じることが少ない。目の位置と道の位置が近づくので高さを感じないからだろう。一方下りはまっすぐ立った目の位置と地面が大きく離れてしまうのでより強く傾斜を感じてしまう。下りで凄い傾斜だと感じた坂が、登ってみると左程でもなかった事が何度もある。この坂もそれと同じで下りの時は急坂に感じるかもしれないな。

 峠から20分ほどで三角点に到着。地図ではここが歓昌院山なのだが何の標識もなく視界も効かない。更に歩を進めると丸子城跡への分岐の表示が出てきた。だがその道は踏み跡も薄く少し不安を感じるような道だった。
 丸子城とは今川が建てた城で、丸子の宿と宇津ノ谷峠の間にあり、東海道に面した山城だった。今川時代は駿河府中の防衛と東海道を監視する役目を担っていたが、武田に攻略された後は武田勢の駿河西部および遠州攻略の拠点になっていた。
城の場所は東側に歓昌院峠に続く沢と、西は片桐且元の誓願寺から大鈩不動尊の沢に挟まれた尾根の付け根になる。
  
  
   丸子城跡分岐                          駿河峰

 分岐の表示は東に歓昌院坂、南に丸子城跡、これから行く西には駿河峰・大鈩(おおだたら)山とある。大鈩山は地図にあるので分かるが駿河峰とは何だろう。そういえばここまでも何度か駿河峰の表示があったが意味が分からなかった。山の名前なのか、それともこの尾根の名前なのか、ともかく聞いたことの名前だった。
 その疑問も分岐から10分ほどで解決した。そこには「駿河峰・410m」の小さな標識が掛かっていた。
駿河峰とは初めて聞く名前だが何かスッキリしない名前だ。大体駿河とは何処から出てきたのだ。場所は間違いなく駿河だ。しかし駿河を代表する山ではないし、だいたい駿府からも眺めることの出来ない山だ。
どうもこの大崩山塊の山の名前の付け方が気に入らない。まず筆頭は丸子富士だ。ただ山頂部分が三角なので「富士」とは余りにも安易すぎる。私ならこの山は「吐月峰」と名付けたい。理由は山の麓に連歌師・宗長草庵のある吐月峰紫屋寺があり、そこの月見台からこの山から登る月を見たという。 
高草山もそうだ、命名の理由は知らないが、あの山は麓の「神(みわ)神社」の御神体の山として祭祀されているという。ならば山の名前は「神(みわ)山」「三輪山」だろう。他にもあるがもうやめよう。

             
               歓昌院と

 ではこの駿河峰の名前は何と付けるか?私は「天注山」がいいと思う。地図には三角点のある所に歓昌院山の表示はあるが、そこはまだ斜面の続きで山とは言い難い。駿河一国を歩いたとき写した写真を見ると、歓昌院の後ろにデント裏山が写っていて、まるで寺の奥の院でもありそうな感じでもある。その歓昌院は正しくは「天注山歓昌院」なので、その名前をとって天柱山とするのもおかしい事はない。いや昔は本当に天柱山と呼んでいたかもしれない。ともかく駿河峰では名前負けだ。

 356mの大鈩山に到着。ここも噂のように景色は見えない。「おおだだたら」とは江戸時代にこの山の麓にある誓願寺付近に、刀鍛冶の鈩(たたら)があった事から地名になったようだ。
そこから更に山に入った所には、小さな滝のあるお不動さんがある。「大鈩のお不動さん」で縁日の毎月28日には中高年の人たちで賑わうそうです。
 じつはこの大鈩山のすぐ手前で焦ってしまった事がある。それは道が直線と鋭角に曲がる分岐に出たとき、直進方向には道標はなく鋭角に曲がる方には3枚も付いていた。道標をチラと見ると「飯間山」となっているようだったので、そのまま鋭角に曲がって進行。だが少し歩いた所で気が付いた。飯間山は大鈩山の次にある山なのに道標は大鈩山でなく先の飯間山だ。慌てて引返し道標を確認するが大鈩山の名前が無い。どうしてなんだ?これより前に山頂らしき所は無かったのに?。それでは標識のない直進方向に行ってみようと10m歩いてみると、何の事はないそこに大鈩山の山頂の標識があった。
この山頂も視界はない。余り長居をする所でもないが大分腹が減ってきた。昼飯にすることにしよう。
 
 
  大鈩山山頂                         送電線下の景色    

 確かにこの稜線は視界が効かずアップダウンの厳しい山だ。取り柄と言ったら静かな事ぐらいだろうか、それならいっそのこと野生動物でも出てくれば面白いのだが、そんな気配もない。途中に大鈩のお不動さんや誓願寺に行く分岐点があった事が変化と言えば変化のようなものだった。
 送電線の鉄塔の所から北の方が少し開けて見えたが写真に撮るような景色でもない。しかしこんな写真でも写さないと撮るものが無い。

 この稜線の最高峰の481mの飯間(はんま)山に12時30分に到着。
今日は初めての山で資料も無かったので、ともかく旧東海道の宇津ノ谷峠まで歩く事を目標にしていた。しかしここまでくれば4/5は歩き終わった感じがする。ならば宇津ノ谷峠より先の蔦の細道、いや更に先の満観峰までいけないかと、だんだん欲が出てきてしまった。
そうなるとゆっくり休むわけにもいかない。景色の見えない山頂にいても面白くないと歩き出した。道は駿河峰からは左程の上り下りもなく快調に歩いてこれた。すでに最高峰を過ぎたのだから、この先の宇津ノ谷峠までは下りがメインになるはずだ。頑張って行こう。

 
  飯間山山頂                        伐採地から新東名

 伐採された所から北の方に新東名の工事現場が見えた。こんな景色でも見えるだけでいい。
また景色の見えないピークに三角点があったが山の名前の表示はない。地図で確認すると標高412mとなっている。先ほど分岐点があって「桂島・谷川」方面とあったが、その道を行けばすぐ林道に出るようだ。そしてその林道の先にはお寺がある。そうかこのお寺は駿河一国8番札所の「谷川山梅林寺」があった。そうだまた思い出した。谷川山と言えば以前は旧東海道の宇津ノ谷峠に古ぼけて標識に「谷川山」の表記があったはずだ。ならばこの山は「谷川山」に間違いないだろう。今日宇津ノ谷峠に行ったら標識を確認しよう。

 杉の木に何枚もテープが巻いてある標識がある。左に行くと宇津ノ谷峠の道の駅。右に行くと宇津ノ谷峠と書いてある。今日の目標は宇津ノ谷峠の最上部に出る事だから当然左に進む。きっと目的地の宇津ノ谷峠はもうすぐだ

 南の方角の視界が開け満観峰と丸子富士が見えた。正面真ん中の丸みを持った山が満観峰で、そこからの富士山の眺めは最高だ。その左の三角の山が丸子富士です。どうですか富士山を見れない地方ならいざ知らず、隣の山からはきれいな富士山が見えるのに〇〇富士と名付けるのは余りにもお粗末と感じません?

   
  宇津ノ谷の分岐                      満観峰と丸子富士
 
 中々宇津ノ谷峠に着かない。先ほど谷川山と思える三角点を過ぎてから急にアップダウンが激しくなってきて、急坂を下ったと思ったらまた急坂の登りになる。そんな繰り返しに嫌気がさしてきたころ、ようやく三角点に到着。アー疲れた。前の三角点から1時間も経っている。想定では宇津ノ谷峠に着いても良いころだが。
 三角点には手製の小さな標識で「?山」とあり「ナマエヲツケテ」と書いてある。
こういうのにはすぐ興味を感じるので地図を見てみたが適当な目的物がない。谷川山は前の三角点の所だし、仕方ないピークの下の沢の名前を頂戴して「板沢山」ではどうだろう。
それにしても疲れる山だ。これでは沼津アルプスより起伏が激しい感じだ。一体峠にはいつ着くのか。

 アラアラ沼津アルプスと同じようにロープ場が出てきた。長さは短いが、疲れて足の踏ん張りが弱くなってきているので助かる。ストックを背中に挿し両手でロープを握って下る。
歓昌院の坂は長くて大変だったが、ここの坂も負けず劣らず大変だ。この尾根に人が入らない理由が分る気もしてきた。

 三角点から15分も歩いた頃ようやく下の方に道らしきものが見えてきた。道の反対側には、こちらと同じように急な山になっていてV字の底に峠道が通っているように見える。これでも登山道か?思えるような道を下り、ようやく宇津ノ谷峠に着いた。

       
  ?山                               ようやく宇津ノ谷峠が見えてきた

 峠に着いて谷川山への標識を探したが見当たらない。以前見たときも相当古かったので朽ち果ててしまったのか。確か写真を撮ったはずだから家で確認してみよう。

                
                   宇津ノ谷峠の谷川峠への標識(現在はありません)

 ご免なさい勘違いしていました。記憶では谷川山と思っていたが、出てきた写真は「谷川峠へ3時間」となっていた。
谷川方面への峠となると谷川・桂島への分岐のあった名無しの三角点がそうだろう。あそこが峠かどうか判断は苦しむが、車のない時代大鈩から岡部の谷川方面に行くには、大鈩から飯間山に登り、三角点から谷川方面に向かった方のが距離は断然短くなる。きっと大鈩のお不動さんにお参りする人たちが利用した道なのだろう。
しかし谷川峠というより、やはり谷川山と呼んだ方がしっくりくるな。

 それにしても最後の行程は大変だった。飯間山で工程の4/5過ぎたと思ったのに、そこから1時間30分かかった事になる。余り早い段階でゴールが近いなど計算したので気分的にも、まだかまだかと思ってばかりいて疲れてしまったのだろう。今後は注意をしないといけないな。


大崩山塊・徳願寺尾根縦走2

2012-02-16 17:29:28 | 低山歩き
徳願寺~歓昌院峠

 徳願寺を出て農道を更に上に登って行く。道の左右には黄色く色づいた甘夏?八朔?清美?が鈴なりになっていて、ついつい腕を伸ばしたくなるが我慢我慢。

  
   登山道入口                         登山道付近の倒木

道の側面のコンクリートに「↑梵天山」と書いてある場所に出た。どうやらここが徳願寺山の入り口なのだろう。でも何故徳願寺山でなく梵天山なのだろう。マーいい、梵天山も地図にあった山だ。
林の中に入ると倒木があちこちに見えるが、登山道は支障なく歩く事が出来た。
途中に「大窪山・徳願寺山」と書いた板が置いてあったが、あれは何だったのだろう?まだ斜面の途中なので山頂とは思えないし、矢印もないので道標でもなさそうだ。折角の案内板もこれでは役に立たない。
だが待てよ、今立ち寄った徳願寺の山号はたしか「大窪山(だいあさん)」だった。となるとこの山は徳願寺山ではなく正式には大窪山なのだろうか。

  
   分岐の標識                         徳願寺山付近から静岡市街

 道が二手に分かれている。「徳願寺ハイキングコース」と書かれた立派な道標に、「右回り」「左回り」とある。右回りは山の北側を回るので安倍奥などの景色が眺められそうだが、左回りは直登になっていて山頂には近そうだ。さてどちらにしよう。瞬間迷ったが左回りにした。今日は景色は気にしないようにしよう。
 倒木したので伐採したのか、それともただ単なる伐採なのか分からないが、そのお蔭で景色を見ることができた。
他の山でも山頂にある杉や檜を伐採すれば景色が良く見えるのにと、恨めしく思うことがあるが、伐採は自然破壊なのでなく、花粉症対策と名目を付けて伐採してくれないだろうか-----

  
  駿河国扇松峰の看板                         仏平看板

 まだ山の斜面の途中だが山頂らしき表示のある所に到着。そこには「駿河国扇松峰」と書いた看板があり、他にも「仏平」の表示もある。では徳願寺山はここではないのか?
以前徳願寺について調べたことがあるが、徳願寺の元は「大窪寺(だいあじ)」といい徳願寺山の「扇松平」とか「仏平」という場所にあったらしい。ならここはその寺があった場所なのか。
高台の方からは右回りの道が下ってきているので、次回来たときは右回りを歩いてみよう。若しかしたらそちらに徳願寺山の山頂があるかもしれないので。

  
  二股の杉の木                        梵天山山頂

 林の中の軽い登りの道を10分余も歩くと「梵天山」と書かれた山頂に到着。この山が農道のコンクリートに書かれた山だが、確かにあの入り口から最初の山頂はこの梵天山だった。故にあの表示は正しいことになる。

 梵天とは神様の名前程度しか知らなかったので調べてみたが余り理解できなかった。ようは元は古代インドの神で、仏教に取り入れられて仏法護持の神となった。釈迦に説法を進めたので、仏像では本尊の左に侍立する形が多く、右の帝釈天と相対しているらしい。
他にも「梵土天竺(ぼんどてんじく)」の略で、梵天とはインドの異称とか。その妻は弁財天だともあった。
 では何故その梵天が山の名前になったのだろう。梵天は仏教に関係するから当然「大窪寺」の関係が考えられる。すると仏平の大窪寺に本尊が祀られ、その左横(西)に侍立する山だから梵天山か。そうだ、それに違いない。
だが待てよ、それなら右側に帝釈天山か帝釈天を祀った寺があるべきだが。それにご本尊より脇仏の方が高い(標高)のも不自然だな-。

 梵天山は標高375.8mで二等三角点が設置されていた。だが山頂は林の中で景色は見えない。
仏平にもあったが、この梵天山にもノートが置いてあり登山者が感想を書くようになっていた。こんな淋しい山なのに書く人がいるのだろうかとノートを開けててみると、案に相違して結構の記入があった。景色が見えなくアップダウンの多い山と言われているが、かなりリピータの人がいるようで同じ名前が書いてある。その中にこの稜線の事を「丸子アルプス」と紹介しているのもあった。ここもアルプスか!と少々白け気味になる。
それというのも同じ大崩山塊の簡保の宿から花沢山に続く尾根も「焼津アルプス」と呼んでいるらしいのだ。同じ山域にアルプスが二つとは、何かお粗末のような気がしてしまうのは私だけだろうか。

 景色の見えない梵天山を過ぎると道は急な下り坂になる。岩場はないが昨年歩いた沼津アルプスの傾斜と同等かそれ以上の感じがする。ただ沼津と違い他に人が居ないのと、道の横に樹木が残っているので、下りの勢いを止めることができるので助かる。それにしても長い急な道が続き過ぎだ。余り下ってしまうと次の山にまた登り直さなければならなくなる。

            
              歓昌院坂峠
    
 梵天山から急な下り坂を20分ほどでようやく歓昌院坂峠に到着。アー疲れた。峠の梵天山への入り口に面白い事が書いてあった。
「梵天山への坂道は 中・高生以上、40代までの男性、30代までの女性、歩き慣れている人、記録を取りたい人以外は止めた方が無難です」だって。となると私は歩き慣れている人に入るから登ってもいいのだろうか、それとも60台だから失格なのだろうか。ともかく大変な登りである事は間違いない。

 歓昌院とはこの峠の左(南)下にある寺で「駿河一国13番札所」の古刹である。その寺からこの峠までの道を、寺の名前をとって「歓昌院坂」と昔から呼んでいるようだ。また峠を越して北に下ると、安倍川支流の藁科川の中州には万葉集にも詠われている「木枯しの森」がある。
昔この峠道は、安倍川が増水して下流では渡河できないとき、峠を越えて藁科川と安倍川の合流地点より上に出て、駿府側に渡った時に利用されたのだろう。その峠も今では余り人が歩かない静かな峠道になってしまった。

大崩山塊・徳願寺尾根縦走

2012-02-13 17:52:06 | 低山歩き
場   所:静岡県静岡市
歩行月日:2012/01/11
歩行データ: コースタイム
  安倍川駅-1:00-徳願寺-0:30-仏平-0:10-梵天山-0:20-歓昌院坂峠-0:35-駿河峰-0:40-
  大鈩山-0:40-飯間山-1:10-三角点-0:15-宇津ノ谷峠-0:25-蔦の細道峠-1:40-安倍川駅

 歩行時間:7時間25分 休憩時間:1時間15分 延時間:8時間40分
 出発時間:7時40分  到着時間:16時20分
 歩数:31,665歩 歩幅推測:0,77m 距離推測:24.4km (GPS距離 21.6km)


安倍川駅~徳願寺
 一昨年の夏、満観峰の山頂で知らない人に「向廻山コース 向敷地~明治トンネル上 約6時間」と書かれた地図を貰った。
その人は「この尾根はアップダウンが激しいのに景色が見えない。そのため余り人が歩かない静かな山だ」と言っていた。
アップダウンが厳しいのも静かな山もどちらかと言えば好きな方だ。だが景色が見えないのはどうもなー。
更に「夏は草が生い茂り道がはっきりしない所もある」のは嫌だなー。とそのままになっていた。

 今週の天気予報は曇り空が多く景色は望めそうもない。それじゃ何処にしようかと考え、この景色が良くない向廻山の話を思い出した。
地図を引っ張り出して確認すると、コース上には徳願寺山、梵天山、歓昌院山、大鈩山、飯間山の山名が見える。標高は一番高いのが飯間山で481mで他の山はすべて400m以下だった。これならアップダウンがあっても知れているだろう。すでにアップダウンが激しいと有名な沼津アルプスを完歩済みだし、と1月11日安倍川駅を出発した。

 これから歩く徳願寺から宇津ノ谷峠の稜線は、大崩山塊の北の外れの東西に延びている尾根で、その尾根南側の底部には尾根と平行に江戸時代の東海道や国道1号線が走っている。そして国道の南側は大崩山塊の人気ルートの安倍川-朝鮮岩-丸子富士-満観峰 の稜線がある。ようは国道や旧東海道は、この二つの尾根に挟まれた沢底を走っていることになる。

 安倍川駅を出て丸子宿と安倍川の間の旧東海道を横断すると徳願寺の尾根が始まる。今日はこの尾根の始端から登るのではなく、途中にある「手児(てこ)の呼坂」と呼ばれている古代東海道の峠を歩くつもりだ。
 国道1号線の手越し原の5差路を、いや自転車と歩行者の専用の道を入れると6差路なのだろうか。その歩行者専用の細い道を北に進む。
手児の呼坂に行かないときは、国道交差点を左折し小学校の方向に向かう。沢渡交差点の歩道橋を渡ると斜面の上に鳥居が見えるので、その鳥居を目指して階段を登って行けばの農道に合流する。その農道を登って行けば徳願寺の寺に出る

 一方手児の呼坂の道は少し分かりにくい。歩行者専用の道に入ったら何はともかく山に近くなるように左側に行く。そして進行方向を北にとっていくとT字路にぶつかる。その正面には古い石仏があり、横には判読が難しくなった古い手児の呼坂の案内板がある。案内板に従い左折していよいよ山に向かって登り始めると、すぐ左がミカン畑で右が石垣の所に出る。その石垣の上を見ると石垣の上に手児の呼坂と書かれた看板が見えるので、階段を登り山道を少し行くとそこが手児の呼坂の峠で石碑や案内板が建っている。

  
  石垣の上の標識                          手児の呼坂の石碑

「手児」とはなんだろう? 娘。愛しい女。若い女。赤子。赤ん坊。幼児と色々出てきた。では「呼坂」----- 残念ヒットしない。
でもきっと、坂の途中で娘が誰かを呼んでいたり、あるいは想っていたりしたのだろう。いや逆に男が娘を呼んだのかもしれない。
そういえばこの坂の下の手越(てごし)は「平家物語」の能「千手前」の千手の前のふるさとでもある。とここまでは知っていたが千手の前のエピソードは忘れていた。そこで調べ直してみると面白い事が判明した。

 千手の前の相方は「平清盛の五男 重衡が源氏に捕えれ鎌倉に護送された。そのご源頼朝の命により伊豆の狩野氏が重衡を幽閉した」 まてよどこかで聞いた話だ。そうだこれは昨年秋に沼津アルプスを歩いたとき「中将さん」と呼んでいた大岩の祠に祀られていた人物だ。確か中将さんはその後狩野氏の許を脱出して小鷲頭山で捕えられて切腹したはずだ。だが「千手前」では話が違っていた。
「幽閉され鬱々とした日を送っていた重衡を慰めたのは手越の長者の娘「千手」でした。この後千手は重衡を慕うようになり、重衡が都で処刑されると 出家して信濃国善光寺にこもり、重衡の菩提を弔った」ということです。
アレレ! 重衡は沼津アルプスの山中で切腹したのではないのか?
しかし史実は「重衡は木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された」とある。
一体何処で如何して「中将さん」の話になったのだろう。無名な人の祠だったのを高名な平重衡の名を利用した? でも何のために? 分からない。

 話がとんでもない方に飛んでしまったので元に戻します。
「千手前」は死んでも重衡を忘れる事ができず、魂は重衡の名をいつまでも呼んでいた。その魂の訴えを聞いた故郷の住民は、いつしか坂の名前を「手児の呼坂」と呼ぶようになったとさ。

 この手児の呼坂は沢渡交差点から徳願寺まで南北に続く尾根を縦断していて、東の手越と西の丸子を結んでいる。だから必然的に尾根道と合流する筈だった。なのに尾根道には合わないまま丸子側の平地に着いてしまった。地図を見ても農道にトンネルは無い。以前2回農道を歩いているので確かにトンネルは無かった。なのに農道に合流しない。なぜだろう?今でも狐につままれたようで理解できない。痴呆が始まったのか?それともアル中の禁断症状か。次回確認しよう。

 「手児の呼坂」の丸子側には歌碑が建っていた。石碑は全てひら仮名なので読みやすくすると
「東道(あづまぢ)の 手児の呼坂 越えて去なば 我れは恋ひむな 後は逢ひぬとも」となり、意味は
「あなたが東海道にある手児の呼坂を越えて去っていくと、わたしは恋しく思うだろう。また逢えるとしても」となるそうです。
この歌は万葉集3477に収められているとなっている。アレー待てよ、万葉時代からここを手児の呼坂と呼んでいたのなら私の妄想的歴史解釈は成り立たない。何しろ「千手前」は平家の公達に好意を持ったのだから鎌倉時代の話だ。

                
                手児の呼坂の歌碑

 しかしここで尻尾を巻いてしまったら妄想的歴史家の名がすたる。ならばこんな説はどうだ。
ここ手児の呼坂を更に西に向かい日本坂峠を越した「やきつべの道」にこんな歌碑が建っている。
「やきつべに わが行きしかば 駿河なる 安倍の市道(いちじ)に 逢いし児(こ)らはも」
意味は「私が焼津に行ったとき 安倍の市に通う道であった娘たちがいたが 今頃どうしているのだろう」となるそうだが、この歌の中の安倍の娘たちとは、安倍川の手前の手越の娘たちに違いない。
この時代から手越の娘たちは美人で明るかったのだろう。そして娘たちがお互いを呼び合う様子を見て、にある坂を「手児(娘)の呼坂」と呼ぶようになった。どうですか、この説は。
 
 歌碑の先の上り坂の道に入り尾根にある農道に向かう。徐々に高度を上げていくと丸子のが見えてくる。以前は「手児の呼坂」の存在理由が理解できなかったが、こうして高台から丸子を眺めるとなんとなく分かってくる。
江戸時代の旧東海道は宇津ノ谷峠から、下に見える丸子川に沿うようにして安倍川に至るほぼ平坦な道だ。
それが古代東海道は宇津ノ谷峠より更に南(海)側にある、日本坂峠を越えて安倍川に向かう道をとっている。それもそのまま平らな道を安倍川方面に行くなら理解できるのだが、途中で道は北に方向を変え、わざわざ峠を越えて旧東海道側に向かう。
峠を越えても下まで降りず中腹を今度は西に向かって逆走を始める。そして丁度江戸時代の丸子宿のあたりでようやく山を下り丸子川を横断する。川を渡ると次は対岸の山の裾まで行き、そこでようやく東に向かい、ここの呼坂の入り口来る。そして手児の呼坂を越して安倍川にと向かっている。
 当時は何故こんな大回りをしたり、峠を越えたりしたのか。それはいま下に見える辺りはきっと安倍川と丸子川が合流する扇状地で湿地帯だったのだろう。そのため古代東海道はその湿地帯を避けるため峠を越えたり、山の中腹を歩いたりしたのだろう。

               
                昔は湿地帯だった?丸子地区

 (写真の左が安倍川で古代東海道は写真の左の低い所の峠を越え、その山の中腹を右に行き、写真右端辺りでこちら側の山に来る。そして山の麓を左に向かい、写真手前左の山にある峠が手児の呼坂になる。旧東海道や国道1号線は建物の建っている中央を走っている)

 尾根の農道に合流し少し登った先で東側の景色が見えるようになる。今日のコースは景色は見えないので、天気予報は余り気にせずいたが、何と富士山が見えていた。心がけが良かったのかな?
 
 ようやく徳願寺に到着。この寺に来るといつも思うのだが、「方広寺の鐘銘事件」で片桐且元が、当時駿府に住んでいた徳川家康に弁解に来たとき、最初に逗留したのがこの徳願寺だという。だが家康は中々面会を許さなかったので片桐且元は「駿府を上から眺めるのは失礼だ」と逗留する寺を、ここより更に西の山中にある誓願寺に変えたという。
こうして静岡市街を上から見ていると、その話が満更嘘ではないと感じてくる。
 エッ!方広寺の鐘銘事件ですか?これは豊臣家が京都の方広寺大仏殿の梵鐘に「国家安康」「君臣豊楽」と刻印したとに、徳川方が国家安康は家康の名前を分断し、君臣豊楽は豊臣家の繁栄を願い、徳川家に対する呪詛が込められていると難癖をつけた事件です。

 それにしてもここに城を設ければ駿府の西の守りは盤石になりそうだ。東海道は真下にあるので常に監視でき手中の収めていることができる。また、敵の軍勢が西から攻めてきても、安倍川を渡るとき背後から攻めれば一ころだろう。なのに城は無かった。何故だろう? 

  
 徳願寺から静岡市街                    徳願寺

 アーア 徳願寺までは距離は短いのに随分時間がかかってしまった。次回は寄り道せず歩こう。

倒木情報2

2012-02-12 10:43:56 | 低山歩き
 私の歩いた静岡県の倒木情報です。
02/11 庵原地区(静岡市清水区)
    ★新蒲原-御殿山-野田山-大平山-大久保山-大丸山 〇倒木なし
     大丸山-見晴観音-香木穴 △大丸山及び見晴観音超過にそれぞれ数本の倒木あるが通行には特に支障なし
    ★浜石岳-薩埵峠
     浜石岳の下に「但沼・立花・浜石岳山頂に倒木有 立入禁止」と前回と同じ貼紙有
     さらに「薩埵峠-浜石岳は立入禁止なっているが 1月10日~2月24日倒木処理作業を行います」の貼紙有
     山頂で聞いた登山者の話によると「但沼ルートは倒木あるが左程歩行に支障なし」
                    「薩埵峠からは倒木が多く苦労をした」との話を聞いた

01-30 大崩山塊(焼津市)
    ★法華寺-日本坂峠            〇倒木なし(整理済)
     このコースは歩いてないが、日本坂峠で法華寺から来た複数の人に確認
    ★日本坂峠-満観峰            〇倒木なし(整理済)
    ★簡保下-花沢山-日本坂峠      〇倒木なし
     簡保下の登山道入口に「立入禁止 満観峰・小坂方面に通行できない」とか
     通行不可地域の地図まであるが、すでに整理済みで1本の倒木もない


01-25 庵原地区(静岡市清水区)
    ★興津-薩埵峠-由比(旧東海道)     〇倒木なし
    ★由比-野外センタ-浜石岳        △野外センタの先に数本の倒木あり
                                歩行に支障なし

    ★由比-銚子の滝-槍野-浜石岳     〇倒木なし
    ★薩埵峠-浜石岳
     薩埵峠上の登山道入口に「但沼・立花・浜石岳山頂に倒木有 立入禁止」の貼紙有
     この貼紙を見てルートを野外センタ経由に変更した。山頂付近には倒木なし
     
01-19 志太地区(藤枝市)
    ★清水寺-烏帽子形山-花沢城址-下之郷  〇倒木なし


01/11 大崩山塊(静岡市)
    ★徳願寺-仏平-梵天山-大鈩山-飯間山-宇津ノ谷峠-蔦の細道-道の駅(静岡)
                                  〇倒木なし
01/01 大崩山塊(焼津市)
    ★花沢駐車場-鞍掛峠-満観峰         〇倒木なし
    ★花沢駐車場-石脇口-高草山-鞍掛峠   〇倒木なし
    ★花沢駐車場に「日本坂峠付近倒木のため立入禁止」の貼紙が有

12/29 小笠丘陵(掛川市・袋井市)
    ★板沢-六枚屏風-小笠山-小笠池-中継所-小笠山-138展望台-腹摺峠-エコパ
                       〇倒木なし

12/17 沼津アルプス(沼津市)
    ★多比-大平山-鷲頭山-香貫山    〇倒木なし

12/10 伊豆地区(伊豆の国市・沼津市)
    ★大仁-城山-葛城山-発端丈山-長浜  〇倒木なし
     発端丈山下の展望台下の分岐に「三津へは倒木のため通行禁止」の貼紙があった

11/30 志太地区(島田市)
    ★尾川-<尾川丁仏参道>-智満寺-千葉山    〇倒木なし
    ★千葉山-どうだん原-伊太和里の湯       
                  △千葉山山頂付近に巣本の倒木あるが通行にに支障なし
    ★伊太和里の湯-矢倉山-バラの丘公園       〇倒木なし

11/26 富士箱根トレイン(裾野市・三島市)
    ★湖尻峠-三国山-箱根峠-<旧東海道>-三島  〇倒木なし

11/13 富士箱根トレイン(小山町・御殿場市・裾野市)
    ★駿河小山-足柄峠-金時山-乙女峠-湖尻峠-岩波  〇倒木なし

11/03 富士箱根トレイン(小山町)
    ★籠坂峠-立山-三国山-明神山-不老山-駿河小山  〇倒木なし

遠州三山初詣ウォーク

2012-02-09 11:39:19 | 寺社遍路
油山寺~愛野駅

  
  最初の分岐                          千鳥ヶ谷池への分岐

 本堂から山門まで戻り、さらに先ほど歩いた道をしばらく戻っていくと道標が建っていた。そこには次の可睡斎は右に曲がると2.7km、直進すると3.4kmとなっている。一見右折した方が近くて良さそうだが、こっちの道は車道歩きだけで面白味が無い。
一方直進すると700mほど長くなるが、こちらには途中に千鳥ヶ谷池もあり、池の周囲には散策路もある。
当然選択は直進の千鳥ヶ池経由なので更に先ほど歩いた道を戻って行く。最初の分岐から5分歩くと、小さな小屋の上に黄色の派手な下地に「ふくろいラドンセンター」と書いた看板がある。そこを左折して山側の道をとるとラドンセンターや千鳥ヶ谷池の案内板が建っている。

  
  千鳥ヶ池の案内板                      千鳥ヶ谷池

 千鳥ヶ池は周遊コースと直接展望台に向かうコースがある。まだ時間も早いので当然周遊コースを歩いたのだが、中々良い感じの道だった。誰もいない湖畔の道は落葉が積重なり、柔らかな感触を足に感じさせてくれる。歩き納めで歩いた小笠山の小笠池より雰囲気は良い。そういえばこの池にも小笠池にも浮橋があったが何のための橋なのだろうか? 景色を見るためなのか、景色を良くするためか、はたまた魚釣りのためか------

 中峰山展望台と格好のよい名前の展望台に登ったのだが--- ここは残念 あまり眺めは良くなかった。
可睡斎への標識は要所要所にあるので道に迷うことはなく、途中には掛川・袋井地区でよく見かける小さなトンネルや、太公望が釣り糸を垂らしている池などもあり車道歩きより楽しく歩くことができる。

  
  小さなトンネル                       太公望

 最後の目的地は可睡斎はすでにこのブログでも何度も紹介しているので、今回は変化球で紹介をします。
まず寺前の駐車場は料金は100円で呼び込みなどはしていない。門前の店は数軒あるが余りお客は入っていない感じがする。
ただ他の寺と違うのは、寺の直営の店があることで、ぜんざいなどを提供する店やお守りなどの売店があった。
境内に入るとスピカーが「牡丹の花の鑑賞、精進料理、土産」などの案内を繰り返している。尤もその音量は下げてあるので喧しさは感じなかったが。

  
  可睡斎山門                         可睡斎本堂

 三山の初詣はそれぞれの寺により願い事が違うようで、可睡斎は厄除け、油山寺は眼病治癒、可睡斎は火伏がご利益があるとか。
火伏の神様「秋葉山三尺坊」の御真殿の前には、三尺坊の守り神の烏天狗が狛犬のように参道の左右に建っている。また火に関する道具だからか、大きな火箸と十能が奉納してあった。

        
     秋葉三尺坊の烏天狗               秋葉三尺坊の大火箸と十能

 三山を少し比較してみよう。
参詣客 = 1位 法多山  2位 可睡斎  3位 油山寺
駐車料 = 法多山 500円、300円  可睡斎 100円  油山寺 無料
商売気 = 1位 可睡斎  2位 法多山  3位 油山寺
雰囲気 = 1位 油山寺  2位 法多山  3位 可睡斎
全て私の個人的感想で、中でも雰囲気は完全に私の好み以外の何物でもありません。

 今回の可睡斎には一つの目的があった。それは東海道を歩いているとき三河藤川宿の手前の「御開運御身隠山」「鳩が窟」という名の、家康が追っ手から逃げるとき隠れた洞窟があった。
そのとき可睡斎にも家康が逃げ込んだ洞窟があった事を思い出し、次に可睡斎に行った時は必ずその洞窟を見てみようと思った。

  
  家康の隠れた「出世六の字穴」               穴の内部

 秋葉三尺坊の本殿の前を通り奥の院に向かう途中にその洞窟はあった。
洞窟の名前は「出世六の字穴」と言い、その謂れは案内板に書いてあった。
「武田勢に追われた家康は、この寺のほら穴に隠れて命拾いをした。その後家康は浜松城主となり駿府城、江戸城を築き国を平定し、江戸幕府を開き将軍となった。
その出世の故事になぞらえ、このほら穴を「権現洞」と、また「出世六の字穴」と呼ばれるようになった。出世六の字とは六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の世間から解脱する「出世間」からとも、あるいは六観音や六地蔵に由来するとも伝えられる」


 何とも長ったらしい説明だ。「六の字穴」なら、ほら穴の中が六つに分かれているとか、六の字に似ているのか思ったのに全然違って後世の作文だった。そんな事なら三河の「鳩が窟」のように、家康が逃げ込んだ穴を、追っ手が覗こうとすると鳩が飛び出し、これなら中に人はいないと探索を免れたので「鳩が窟」。こっちの方が単純かつ面白い。

  
  三河の鳩が窟                               鳩が窟内部
       
 それにしてもここの「出世六の字穴」の内部はきれいなもので壁があまりザラザラしていない。それに比べ三河の「鳩が窟」はいかにも自然のほら穴といった感じでゴツゴツザラザラしている。
若しかして、ここ可睡斎のほら穴は後世になって人工的に掘ったものなのか。そう感じるのは少々穿ち過ぎな考えか----

 可睡斎の奥の院にも初めてお参りをした。本堂から左程離れていない高台にある奥の院は、隠居寺のようなたたずまいだった。

                 
                  法多山奥の院
  
 可睡斎から袋井駅に行くには、総門に続く道を道なりに南に進んで行く。途中にある袋井市民病院、袋井商業高校を過ぎて東名高速のガードを潜ると、信州街道の県道58号に合流する。そして県道をさらに南下し国1バイパスを潜り原野谷川の静橋を渡れば駅は近い。

 東名高速に出る前に「久野城跡入口」の看板に気が付いた。一瞬行く気になった止めた。場所も明確でないし同じ道を往復するのも気が進まない。そんな訳で可睡斎から袋井駅には直行してしまった。
おかげで袋井駅到着は14時10分。これでゴールでは早すぎる。さてどうしよう。仕方ない愛野駅まで歩いてみよう。

 少々歩(ある)中気味の私は愛野駅に向かって歩き出したが、一般的には袋井駅でゴールするのが普通だと思う。
遠州三山を廻って袋井駅まで約6時間20分経っている。歩行数も32000歩で距離にして25km程度か(GPSは23kだった)。これなら一回のウォーキングとして決して短くはないし、何より袋井愛野間の東海道線沿いの道は面白い物は目に付かなった。
そんな訳で遠州三山を歩く気になった方は袋井ゴールをお勧めします。

 愛野駅に帰る道は、旧東海道はすでに歩いたことがあるので今日は東海道線沿いに歩く事にした。
線路沿いのその道は、太くなったり細くなったりしながら線路から付かず離れず続いている。歩道も有ったり無かったりだが、交通量は多くないので歩くのには支障はなかった。
道は線路の北側に東西に伸びているが、住宅が少なくなるとまるで線路の側道のように真っ直ぐ伸びている。ならこの道は「線路畷」と名付けようなどと馬鹿な事を考えながら歩いていると、前方に朝立ち寄った愛野公園が見えてきた。袋井駅からまだそんなに歩いていない。案外愛野までは近そうだ。
線路のガードを潜り南側に出て愛野公園の下に行く。朝歩いた陸橋の交差点は上の方にあるが、どうやらそこまで行かなくても立体交差になっているので下の道を行けば良さそうだ。なんかこの辺りは人家は少ないが、よく整備されていて彼方此方に公園がある。公園団地?そんな感じの場所だった。

 大きな建物が南側に出てきた。OTUKA製薬やPOLA化粧品の工場だったが、工場の裏は小笠山が控えているので、どちらも東西に細長い建物になっていた。
POLAの工場が過ぎるころ前方に線路を跨ぐ跨線駅が見えてきた。袋井駅からまだ40分、歩数は4800歩、距離にして3.7kmしかない。(後日時刻表で袋井・愛野間の距離を調べたら3.5kmだった)こんなに短いなら来年の初詣はコースを変更した方が面白そうだ。

 今年 愛野-エコパ-法多山-油山寺-千鳥ヶ谷池-可睡斎-袋井
 来年 愛野-エコパ-法多山-久野城跡-可睡斎-千鳥ヶ谷池-油山寺-愛野

 愛野駅に15時到着。行きがけにコンビニのあるのは確認済みだったので一人乾杯をして車中の人に。

       
        愛野駅

遠州三山初詣ウォーク

2012-02-07 11:26:38 | 寺社遍路
場   所:静岡県袋井市
歩行月日:2012/01/05
歩行データ: コースタイム
  愛野駅-0:50-法多山-0:55-愛野公園-1:00-油山寺-0:20-千鳥池-0:50-可睡斎-1:00-袋井駅-0:45-愛野駅

 歩行時間:5時間40分 休憩時間:1時間30分 延時間:7時間10分
 出発時間:7時50分  到着時間:15時00分
 歩数:37,500歩 歩幅推測:0,77m 距離推測:28.9km (GPS距離 27.9km)

愛野駅~油山寺
 遠州三山とは、静岡県袋井市の郊外にある遠江国(遠州)の三古刹、法多山、油山寺、可睡斎を指します。この遠州三山は静岡県の中でも人気の寺で初詣ともなると地元袋井は勿論、静岡県西部地方や中部地方からも参詣客が集まることで有名です。
今年の初詣ウォークはこの遠州三山を巡ることにしました。

 正月の三日間は酒浸りの日を過ごしたが、昨日の4日は酒を断ち今日に備えました。
朝まだ暗いうちに家を出て自転車で駅に向かう。今年もこんな事を何回繰り返すことやら、自分でも呆れてしまいます。

 小さな町(袋井市愛野)の大きな愛埜駅に降りたのは数人だった。2回もエスカレータに乗り南口に出るのだが、こんな長いエスカレータは静岡県の駅では他に無いだろう。それなのにこの愛野駅に人が溢れるほど集まるのは年何回あるのか、きっと数えるほどしかないだろう。
月の平均乗降客が2500人程度なのに何故こんな立派な駅があるか。それはこの駅から歩いて15分の高台に「静岡県小笠山総合運動場公園エコパ」があるからです。
2002 FIFAワールドカップの試合会場として手を挙げ、2011年に完成したエコパは、ワールドカップでは3試合が行われたが、その後のサーカー熱の低迷もあり毎年巨大な赤字を生んでいるようです。
オッと正月早々には適さない話題でした。止めましょう。

  
  愛野駅                             動く歩道

 愛野駅を南口を降りて高台に見えるエコパスタジアムを目指して歩く。途中にエスカレータのような乗り物がある。近づいてみるとエスカレターのように階段が動くのではなく、平らな面が動いていた。これは楽チンだと早速乗ってしまった。
これからウォーキングに行く人間が何という事だ。と反省しして乗り物の中を歩く私でした。
 さすがエコパスタジアムは大きい。少し高台にあるので余計他を圧倒しているように見えた。中を覗くことができるかと階段を登り入り口まで行ったが、まだ閉まっていて中を見ることは出来なかった。

  
  エコパスタジアム(正面)                   エコパスタジアム南側より

 最初の目的地法多山はこのエコパの南側の山中にある。道はエコパ正面から右手に回り山の上に伸びる階段を登るのだが、階段には表示は無かった。ただ途中にエコパの南駐車場があるのでそこに向かえばよく、階段を登りだしたら左へ左へと登って行けば南駐車場に出る。南駐車場の先には舗装された車道が走っているので、その道を左に下って行けばよい。
途中に1週間前歩き納めで歩いたとき確認した「ビオソープ」の標識の横を下って行くと左右に駐車場が出始めた。この辺りの駐車場は舗装もされていず臨時的に営業するような感じの駐車場だった。今は1年で一番の掻き入れ時の初詣なのに車は1台も止まっていない。時間が早すぎるのだろうか。

 参道の門前町に近づくと駐車場は舗装をされ常時営業の感がある。だが料金が先にあった駐車場は300円なのに、ここでは500円になっていた。だがすでに何台かの車が停まっていた。
遠州三山の中でも一番参拝客が多いのは法多山と言われているが、まだ時間も8時30分前で、しかも三が日も過ぎているせいか参拝者は少なかった。


  
  法多山山門                          法多山本堂

 本堂前の境内の広場にも参拝客はチラホラ程度で、その中に一人リュック姿の如何にもウォーキングといった格好は私一人だった。
本堂にお参りしたあと、法多山名物の「厄除け団子」を購入。1箱500円で箱の中には細長い白い餅を5本並べ、1本づつ楊枝より少し長い棒で挿してある。その餅の上に赤茶色の餡子がべったりついていて、その塊が4ッ(?)入っていた。(写真を撮ればよかった) 餡の甘さはサッパリしていて左党の私でも何本も食べれた。
 この団子の買い方も一風変わっていて、最初券売機で券を買い、次に場所を変え券と団子を交換するシステムになっている。券も1箱1枚買うのではなく1枚の券に「〇箱」と書いてあり、それを受け取った店員はすでに袋に入れてある団子をサッと渡してくれる。
今は空いているのでその効力は発揮していないが、混んでいるときはきっと効果が出るだろう。味気ないが行列で待つよりはいい。

 法多山を後にして本来の参詣道と思われる県道251号を西に向かう。参詣客の車も多くなり駐車場の人が盛んに手招きをしていた。そんな駐車場は料金が500円で、50m歩く気なれば200円安くなるよ。と教えてやりたかった。

 県道を西に向かい法多山の交差点を直進する。右に静岡理工科大学の正門まで来たら、そこを右折する。50mほど北に行くと西に向かう道があるので、その道に入り道なりに西に歩く。
 コンビニや動物病院のあるT字路に出たら右折して太い坂道を登る。右にある袋井南中学の校門を過ぎた辺りに、左へ向かう上り坂の細めの道がある。この道が愛野公園の高台に出る道で、この道を行くと景色を眺められる。高台に行かないなら、そのまま車道を北に真っ直ぐ行けばよい。
何故こんな細かい道案内をするのかって? それはこのブログを見ている方に、是非来年の初詣は遠州三山にして欲しいからです。

                   
                    愛野公園から

 愛野公園の高台には写真の付いた案内板があるので、景色と実物と合わせて見る事が出来るのでよく分かる。ただ難点は写真は公園ができた当時のもので公園の木が小さく景色がよく見える。だが今は公園の木が成長してきてしまい景観を邪魔している。
高台から適宜な道を下って、下に見える交差点から大きな陸橋(?)を渡っていきます。
その先は只々真っ直ぐその道を北に行けば1時間ほどで油山寺に到着します。ただこの道は車がそこそこ走っているので、それが嫌な時は国道1号の地下道を潜ってから1本右(東)側にある東海物産横の道を行けば車には合いません。

 真っ直ぐな道というと、ここより少し西側の旧東海道には「木原畷(なわて)」という場所があった。畷とは田圃の中なの真っ直ぐな道を表すらしいが、ここの油山寺に行く道も言うなれば畷だろう。愛野公園から油山寺まで続くこの道は、名づけるなら「油山寺畷」となるかな。

     
   油山寺の山門                          山門横の御霊杉

 油山寺の正式名称は「医王山薬王院油山寺(いおうざんやくおういんゆさんじ)」といかにも病気に効き目がありそうな名前です。それもその筈で、昔寺の裏山から油が出たそうです。その油で眼病に苦しんでいた孝謙天皇が眼を洗浄したところ霊験あらたかに眼病が全快し、油山寺を勅願寺に定めたと案内してあった。

 油山寺の山門は掛川城の門を移築したとかで、見た目も山門より城門の方が相応しい感じがする。その山門の横には「御霊杉(みたますぎ)」と名付けれた杉の木が立っている。この杉の木は県の天然記念物に指定されていて幹が松、葉が杉という珍しい木だ。見てみると確かに幹は杉ではなく松に近い。なのに葉っぱは完全に杉だ。
なぜこんな木になったか植物的説明ではなく昔の言い伝えが書いてあった。
「当地で弘法大師が幼児の一命を救った。感謝した父親が松で、母親が杉で一膳の箸を大師に捧げた。大師が旅立つときその箸を地に挿していくと、あら不思議、幹が松、葉が杉の珍しい霊木になった」とある。

 弘法大師が出てきたからか、この油山寺は真言宗の寺だった。先ほどの法多山も遠州の高野山でやはり真言宗の寺だったが、同じ真言宗でも随分違いある。静岡県の真言宗のイメージは、寺は山深い所にあり墓地があまりなく檀家も少ない。由緒はあるが貧乏寺(失礼)といった感じだ。この油山寺も山門は場違いに立派だが、他はそんなイメージがある。
方や法多山は遠州の高野山という事だけあって、実際の高野山に建ち並ぶ真言宗の寺のように派手で立派な観光寺だ。初詣の参拝客も法多山の方が断然多く、ここの油山寺には私営の有料駐車場も門前のお店も無かった。

 そうそうここの油山寺は目の神様として有名だが足の神様でもあるらしい。この寺で祀ってある「軍善坊大権現」は、足腰の病に霊験あるとしてお守りを売っていた。一寸迷ったが買わなかった。「触らぬ神に祟り無し」だ。
ちなみに軍善坊大権現とはどのような神様かと調べてが油山寺の関連でしかヒットしなかった。油山寺独自の神様なのだろうか?

  
  油山寺本坊                          瑠璃の滝

 まずは本坊にお参りをして本堂に向かう。最初油山寺に来たときは本坊が本堂で、これから行く本堂は奥の院と思っていたがどうやら違うようだ。だが本堂には常時は人が居ないのを見ると実際には本坊と呼んでいる所が本堂なのだろう。
本堂に向かう途中に「瑠璃の滝」がある。この滝の水が天皇の眼病を直した御霊水といわれている。
山中の寺には似合わない低い階段を階段を登って行くと今度は三重塔がある。個人的には赤く塗られた三重塔はあまり好きではないが、この塔は国指定の重要文化財に指定されている。

     
  三重塔                            本堂
 
 本堂付近には参拝者がいなかったので声を出して般若心経を唱える。覚束ない発声だが声を出して唱えると気分が爽やかになる。
さて気分も爽やかになったところで昼飯にしよう。本堂の縁側の下に座り込むと、時折風に揺られた絵馬が鳴子のように鳴っていた。