深田久弥の、「山へ行き ミシミシ水を飲んでくる この簡明を吾は愛する」という中で、ミシミシと水を飲む気持ちが、山に登るようになって分かってきた。
山に登るには、テクテクではなく、スタスタでもない。一歩一歩進める足は、地面を踏んで、落ち葉でも土でも雪でも、踏み出す足はミシミシという感じだ。そして、その時飲む水は、ゴクゴクでも、チビチビでもないのである。踏んだ足の分だけ少しずつ飲むが「山へ行き チビチビと水を飲んで・・」では、冴えない。「山へ行き ゴクゴク水を飲んでくる・・」と、なると水を飲むために山へ登っているようである。登るために飲む水をミシミシというとは、さすがだなあと思う。山に登ることが大きな目的であることが、この言葉に表れてくるようだ。
過日、「新日本風土記 山ものがたり」の中で、日本の屋根と言われる日本アルプス。北アルプスの槍ヶ岳(3180m)、南アルプスの北岳(3193m)の紹介があって、その中で北岳に魅せられて50年近く通い続けている人がいた。家から10キロ離れていて、毎朝山が見えるので行きたくなってしまうという。「山は女の人と違って、逃げないから、行けば待っていてくれるから・・」と、笑いながら語る。確かにそうだなと思う。岩がもろいので崩れやすい。家くらいの大きさの岩が落ちたことがあったという。「山は魔物で、魔物だからこそ吸い寄せられていく。」と、言う。うちのめされ、太刀打ちできない。と、言いつつ挑戦する気持ちが分からなかった。雪山に登る気持ちも分からなかった。
幸いにもというか、残念にもというか、体力がないことを分かっているので、恐ろしい山に登ろうとは思わないけれど、あのアルプスの美しい映像を見たら、この目で見たいと思う。そして、次には登りたくなるというのは自然な気持ちだと思う。そして、待っていてくれるというより、おいでおいでと誘われる気持ちなのだ。
さて、今日も朝、窓を開けると白山が見える。深田久弥の言う。「純白の冬の白山が春の更けるにつれて斑になり、その残雪があらかた消えるのは六月中旬になったからであった。」と、言うように白山はまだら模様になってきた。7月には、ミシミシと登れるだろう。