木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

恋愛の背後にある心的外傷。映画『ライアンの娘』

2015年06月29日 | Weblog

映画『ライアンの娘』で考える沖縄と従軍慰安婦
東宝系の映画館が上映する「午前10時の映画祭」。先週は『ライアンの娘』だった。
1970年制作。監督は『アラビアのロレンス』や『ドクトル・ジバゴ』のデビット・リーン。
20代の頃にテレビ放映で見た記憶がある。その時には本来あってはならないアイルランドの女と支配側のイギリス人将校の激しくも短いラブストーリーという印象しか持たなかったのだが、今回再度見て、その後の知識によって別の面が見えて映画への理解が深まった。
時代背景は第一次世界大戦下、1916年。アイルランドではイギリスの圧政から独立を志向した「イースター蜂起」が失敗した直後。
舞台はアイルランド西岸部の寒村キラリー。閉塞感漂う村の生活の中で、居酒屋の娘ロージーは年の離れた小学校教師チャールズと結婚するが、その結婚生活は彼女が夢見ていたものとは微妙にずれていた。
そこへイギリス軍の守備隊の責任者として青年将校ランドルフ少佐が赴任してくる。
まずこのイギリスの支配に長年苦しみ続けているアイルランドの状況が、幕末以降日本政府に翻弄されてきた沖縄に重なった。
そしてランドルフ少佐だが、彼は第一次大戦に兵士として前線に立ち、心にも身体にも傷を負った。
第一次大戦はそれまでの戦争とは戦闘のあり方が一変した近代戦争で、ランドルフはその中で英雄的に戦うどころか、恐怖に逃げまどい、脚に負傷して前線から離れ、閑職であるこの守備隊の指揮官としてやってきたのだった。
ランドルフは戦場での過酷な体験から心的外傷を負っており、何かが爆発するような音を感じるとパニック症状を起こすのだ。
ふだんは「生きながら死んでいる」少佐はロージーの父が経営する酒場にやってきてロージーと出会う。
ここでパニックを起こしたランドルフ。介抱するロージーにすがりつくように迫る。
それは恋とか愛とかいう以前のもっと切実な救済を求める行動に見えた。満たされない結婚生活を送っているロージーにとってもランドルフはまさにその手を取るべき相手であった。
この二人の場合は純粋に求め合うべき相手が遭遇したという形だが、戦場で殺すか、殺されるかの極限状況に置かれている兵士たちにとって「従軍慰安婦」という存在はランドルフがロージーに求めたものとそれほど変わらないのではないかと思った。
しかしロージーと違って、慰安婦とされた女性の方は軍隊にとっての「必要悪」として、物扱いされたわけで、そんなことが必要となる戦争なり軍隊なりの存在自体が今日の目で考えればあってはならないものだ。
「イースター蜂起失敗」狩りから逃れた独立の闘士達が秘かに村にやって来たが、ロージーの父の密告でランドルフ率いる守備隊に逮捕連行されてしまう。
村人はランドルフと通じたロージーを責める。それをかばったのは夫のチャールズだった。
妻にイギリス人将校と浮気された夫と、アイルランド人の憎むべき敵の将校と通じた妻は村を出ていくしかない。
そしてランドルフだが、最初に登場した時より脚の引きずり方が軽くなっている。彼もまた前線に戻らなければならないのだが、心的外傷を負っている彼が戦線に戻れるはずはない。
「イースター蜂起」のために集めた武器やダイナマイトの一部をマイケルという知的障害の男が海岸の岩陰に隠し持っていた。マイケルと親しくなったランドルフはそのダイナマイトと共にこの世から消える道を選ぶ。
デビット・リーン監督がどこまで意識していたかどうかはわからないが、映像のダイナミックな「道ならぬ恋の物語」だけではない映画だった。
ランドルフを演じたクリストファー・ジョーンズはジェームズ・ディーンの再来と期待された二枚目俳優だったが、絶頂期に映画界を去っている。「恋愛問題につかれた」というのがその理由だが、ロマン・ポランスキー監督の妻だったシャロン・テートと不倫していたが、そのシャロンが殺されたことにショックと責任を感じてということらしい。
ジェームズ・ディーンやアラン・ドロンは観客が自分に求めているものをよく知っていて、それに媚びている感じさえあるように思うが、クリストファーにはそういうところがなく、だからあっさりスターの座を捨てられたのかと思う。

コメント
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