大帯姫八幡宮を出ると、長い参道の南側にひっそりとある下り道を降りました。途中に鳥居があるので、この道は大帯姫八幡宮の南側に住んでいる方々がお参りする道なのでしょう。この道を下りきると、広い畑や田んぼが広がっていました。田布施町にも広大な田んぼがありますが、民家が増えたりパチンコ店や工場が進出したりと広大さが感じられなくなりました。その点で日積は今も自然に囲まれており、昔のままの生活が営まれているためか、より強く里山風情が感じられます。
享保の飢饉時の農民一揆供養塔
日積の農村風情を楽しみながら丘に向かって歩きました。この道を選んだの理由は、享保年間におきた百姓一揆の供養塔を見るためです。この道の先にある地域の公会堂の敷地にその供養塔が立っています。この公会堂はかつて庵かお寺だったようでした。住職と墓とおぼしき墓石が、二基立っていました。
大帯姫八幡宮からの下り 日積の広大な里山風情 農民一揆供養塔に向かう
江戸時代の享保年間、ウンカが大発生して各地は大凶作でした。田布施町波野地区の場合、人口の約1/3が餓死や栄養失調で亡くなりました。その大凶作の供養塔が残っています。日積の場合も例外ではなく、百姓一揆まで発生したようです。そのため、一揆を先導した方々が責任を取って刑死し、その方々を弔ったのがこの供養塔です。当時はどこも凄惨な世相だったのでしょう。
供養塔がある地域の公会堂 公会堂北側に安置された祠
享保の飢饉後、飢饉の対策として穀物貯蔵庫を建てたりサツマイモなどの作物が奨励されました。これらの対策のおかげか、以降は享保年間のような凄惨な飢饉は発生しなくなりました。私が子供の頃、その名残がまだ残っていました。どの農家もサツマイモを作っており、ご飯の中にサツマイモがたくさん入っていました。今ではサツマイモご飯を食べることはなくなりましたが、サツマイモこそ飢饉を克服した作物ではないかと思います。
ちなみに、関東や東北では、ジャガイモが飢饉を救ったとのことです。山梨県のある地域ではジャガイモのことを「せいだ」と呼んでいます。ジャガイモを奨励した人「せいだゆう」に感謝して、ジャガイモのことを「せいだ」と呼んでいるのです。そして、小粒のジャガイモ料理を「せいだのたまじ」と呼んで郷土料理となっています。
今回史跡散策した、柳井市日積北周辺ルート