東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

柳井市 干拓の史跡を巡るウォーキングの下見(1/3)

2020年02月05日 | 歴史探訪他ウォーキング

 1月のウォーキングは、平生町の干拓と塩田に関わる史跡を巡るウォーキングでした。2月は柳井市の干拓に関わる史跡を巡るウォーキングです。その下見をしてきました。平生町ほど詳しく知らないため、私が子供の頃から知っている干拓地に限って下見をしてきました。まずは、柳井駅に10:01に集合してスタートしました。※山口県では「干拓」のことを「開作」と呼んでいますが、ここでは「干拓」で統一します。

      昭和22年頃の柳井湾、発電所の場所はまだ海


 最初に不思議なレンガ作りの建築物を見学しました。このレンガ作りの建物は何か今でも分かりません。謎です。蒸気機関車時代の何らかの工場の遺跡と思われます。周りを回って聞いたことがありますが、結局分かりませんでした。何故このレンガ作りの建物が今でも残っているのかも分かりません。
 続いて、線路を越えて南浜大師堂に行きました。この地域は明治時代頃まで海に面していたようで、南浜と呼ばれていたのでしょう。昭和20年頃の航空写真を見ると、南浜前の海が塩田として干拓されたことが良く分かります。

 不思議なレンガ作り     南浜大師堂      海陸を守る胡子神社
  

 南浜大師堂を過ぎると、海陸を守る胡子神社がありました。少し荒れてはいますが、立派な鳥居が2年前に建てられていました。「柳井塩田開所」と刻まれています。かつて塩田の取引所がここにあったようです。続いて県道を横切りました。そして、かつて運河だった場所に沿う静かな道を通りました。道の脇に荒れた大歳神社がありました。誰も管理していないようで、笹藪に囲まれて屋根が傾いていました。管理する人がいないのでしょうか。大歳神社を過ぎてしばらく歩くと、土穂石川に出ました。

   屋根が傾き荒れた大歳神社       旭橋近くの桜土手
 

 土穂石川に出ましたが、実質ここはもう海です。海辺を見ると海の魚が泳いでいますし、岸壁にはたくさんの牡蠣が付いていました。たくさんの桜が植えられた桜土手をしばらく歩くと、今はもう渡れない旭橋の欄干前に出ました。7年前に渡ることができましたが、次の年に来た時にはもう渡れなくなっていました。

      のんびりと桜土手をウォーキング、向こうに旭橋


 現在通行不可の 旭橋、昭和6年に架橋されました。その前は木造の橋だったようですが、私の曽祖父位にあたる親戚の方が架橋したそうです。その記念碑が黒島近くに建っています。ところが、架橋したことによって被害を受けた渡船場から訴えがあったそうです。その訴えによって数日間牢に入っていたとのこと。しかし、橋ができて便利になった方々からの感謝が牢に届けられたとの逸話があります。そのことを婆様が話してくれました。

 今はもう渡れない旭橋   ゲートボール練習場   天津橋の説明    
  

 旭橋をしばらく進むと、ゲートボールの練習場がありました。練習場を過ぎ、運動場を通り越して天津橋を見学しました。その昔、運河をまたいでいたアーチ状の石橋です。60年位前の事ですが、運河をまたぐ天津橋を覚えています。今は庭石のようなモニュメントになっています。天津橋を見学すると、ゲートボール練習場に戻りました。そして、昼食休憩をとりました。

      今回歩いた、柳井市の干拓史跡巡りのコース

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