東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

平生町 干拓と塩田の史跡を巡るウォーキング(2/2)

2020年01月22日 | 歴史探訪他ウォーキング

 現代の樋門に着くと、樋門の役割について皆さんにお話をしました。そして、江戸時代に作られたオランダ樋についてもお話をしました。その昔、オランダは低地が多く干拓が盛んでして。そのため、干拓技術は当時世界一だったはずです。江戸時代、唯一交流していたヨーロッパの国はオランダでした。その技術が平生町に伝わったのではないかと思います。オランダの風物詩である大型風車は、風力を使った干拓地の排水にも使われた建物です。その風車も伝わっていれば、今平生町の観光名所になったのではないかと思います。

           お昼休憩をとった八海公会堂


 現在の樋門を見学すると、江戸時代に作られた運河跡に行きました。この運河を通して塩水が塩田に供給されたり、船での移動や運送に使われまた。言わば「海の街道」ではなかったかと思います。塩田ですが、私が麻郷から平生保育園に通い始めた頃は入浜式塩田でした。たくさんの浜子さんが働いていました。真夏の塩砂を集める作業は重労働だったに違いありません。その後、保育園を卒園する頃に流下式塩田に代わりました。

 現代の近代的樋門    運河脇のお地蔵様2     楽しい昼食休憩
  

 かつての塩田跡地は、草が生えた荒れ地になっていたり、住宅地になっていたり、太陽光発電所になっていたり、畑になっていたり、池になっていたりしました。運河を横切る、今は使われていない橋跡がありました。この橋は麻郷と平生町を結ぶかつての古道の一つでした。麻郷八海側の初代八海橋とつながっていました。初代八海橋の前は渡船で人々が行き来していました。塩田跡地や運河跡を巡りながら田布施川に架かる三代目八海橋を渡り、昼食休憩をとる八海公会堂に向かいました。休憩しながら、国木田独歩の旅小説「帰去来」に出てくる高塔山(八海を見下ろす山)についてお話をしました。

   竪ヶ浜のお地蔵様5        干拓のため削られた磯崎の崖
 

 昼食休憩が終わると、再び塩田跡地を巡りました。歩いていると運河の支流である水路に変わりました。運河は船2艘が交互に往復できる幅ですが、水路は船一艘が渡ることができる幅です。灸川の河口に行くと、かつての旧田布施川(古川)の跡が残っています。その後、お地蔵様を見ながら竪ヶ浜の古道に出ました。そして、祠を見たり金毘羅社をお詣りしました。

 オランダ樋跡地   干拓地を見下ろす濃嶋神社  濃嶋神社からの眺め
  

 平生町の干拓には大量の土砂が必要でした。かつて島だった場所や山裾が削られ土砂として使われました。かつて島だった人島、そして海に突き出た磯崎などです。磯崎の高台に上がると干拓地を見下ろせました。そして、磯崎には土砂を採掘した跡が崖として残っています。磯崎を出るとオランダ樋が置かれた川を見学し、干拓地を見下ろすことができた濃嶋神社に行きました。
 平生町の干拓地跡と塩田跡地巡りに参加した皆さんや高校生達、お疲れ様でした。来月は柳井市の干拓地などの史跡を巡るウォーキングです。

       今回巡った平生町の干拓跡地や塩田跡地

コメント
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