東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

茨城県 水戸を訪問(弘道館,千波湖など) 2/2

2016年12月04日 | イベント,行事

 弘道館の建物に入る前、弘道館の周りを取り囲む庭をぐるりと回りました。晩秋だったため、ほとんどの木(主に梅)は落葉していました。弘道館の周りを回りながら、去年の今頃訪れた長府毛利邸を思い出しました。長府毛利邸は、弘道館よりも狭かったように思います。どちらも、甲乙つけがたいほど立派な日本建築です。

      弘道館の西側正面広場ではいろいろな催しが行われたとか

 弘道館の屋根が新しい瓦のように見えました。ガイドの方のお話では、先の東日本大震災時に屋根が一部倒壊したそうです。その後修復したため新しくなったとのことでした。結構な費用が掛かったそうです。

  ガイドさんから弘道館の説明        西側広場に面する廊下
 

 東日本大震災で初めて分かったことがあったそうです。それは、畳の下にある根座の構造です。通常の民家は根座は一重です。ところが、大震災で壊れた弘道館の床下を修復した時、根座が二重構造になっていることが分かったそうです。二重根座の理由は、床下に侵入した敵からの攻撃を防ぐためとのこと。そんな話を聞いていて、ガイドさんが次の話も教えてくれました。「水戸に梅が多い理由は、戦時の緊急食糧として積極的に植えたから。」だそうです。ごはんと梅干さえあれば籠城など戦時に耐えられるからとのこと。

    明るい西側の庭と廊下          弘道館中心部の大通路
 

 弘道館を見学していて、とてもうれしいことがありました。それは、肖像画付きで吉田松陰の手紙が展示されていたことです。漢文で書かれていました。読み下し文と現代語訳文も展示されていました。その内容は「四海皆友------山陽端来----」などでした。つまり、海に囲まれている日本、藩は違えど皆友達です-------山陽の端からわざわざ水戸までやって来ました-------」のように私は読めました。特に、「長州藩から来ました。」と言わず、「山陽の端からやってきました。」が気に入りました。吉田松陰が考えていた「日本」が分かるような気がしました。

            弘道館を出ると、水戸駅に戻り千波湖へ


 なお、少し離れた所に茨城大学があります。小中高の同級生であるYさんは、山口県から遠く離れたこの大学に入学しました。学生時代に彼女と会ったことがあります。その時、謙遜してか「芋大学と言われているんだあ。」などと笑っていたことを思い出しました。
 弘道館を出ると、千波湖に行きました。この頃から雨が降ってきたため、足早に湖を眺めました。白鳥,黒鳥,鴨,カモメ?などの鳥がたくさんいました。遠くで餌をやっている人がいました。その近くの水面はたくさんの鳥で群れていました。また、空中に投げた餌を飛びながらキャッチしている鳥もいました。しばらく湖の淵を歩いていると、水面を鳥達が追いかけてきました。しかし、看板を見ると「餌を与えないでください。」の注意書き。うーん。
 千波湖から帰ると、息子のアパートで休憩しました。その後、家内と二人で八王子の我家に帰りました。次の日、私は山口県へ戻りました。短くも濃い関東滞在でした。

    小雨が降る千波湖          たくさんの鳥が寄って来る
 

コメント
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