東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

上関町 八島ウォーキングの下見(3/3)

2016年04月17日 | 歴史探訪他ウォーキング



 八島の中央部(大島と小島の間)のくびれた場所にある砂洲に、八十八体のお地蔵様が安置されています。一番が大師堂にあり、二番以降八十八番までのお地蔵様が約5mの間隔で順番に並んでいるのです。お地蔵さんをよく見ると、それほど古くはなさそうです。碑文の年代を見ると、昭和初期に安置されたようです。

         八島(大島と小島の間)の砂洲に安置された八十八体のお地蔵様


 八十八と言うと、四国が有名です。しかし、昔はほとんどの方は、四国を巡礼できるような時間も費用もありません。八島は四国と近いとは言え、決して豊かではなかったであろう島民は気軽には行けません。そこで、昭和初期に島民が島内で気軽に行けるよう建立したのではないでしょうか。お地蔵様を順番に見ていると、ヘリポートがありました。緊急時に使われるのでしょう。

八十八ヶ所起点、お大師堂   平郡島五十谷海岸と三島   波に合わせ油石が転がる
  

 お地蔵様を見回っている時、ふと北東の方角を見ると平郡島がよく見えました。去年ウォーキングした五十谷海岸や三島が良くみえました。八十八体のお地蔵様を見終わると、八島港に戻りました。
 戻る途中、入江の長い海岸線でとても珍しい現象を見ることができました。それは、地元で油石と呼ばれる丸い石です。西風が吹くと湾の構造上、波が大きくなるようです。その大きな波が、無数の油石を転がす音がよく響くのです。ゴロゴロッと。永い間転がった結果、石が丸くなったようです。海岸線はほぼ同じ大きさの油石で埋め尽くされていました。ところで、何故油石と呼ぶのしょう?
  
   ひなびた蛭子神社      八島ふれあいセンター     川口健治ミニ絵画館
  

 八島港に戻ると、少し休憩しました。続いて、八島に来たからには川口健治生家に行くことにしました。そこで、八島ふれあいセンターに行って、生家を聞きました。すると、生家は買われて他家になっているため、見学できないとのこと。残念!その代わり、川口健治ミニ絵画館を紹介していただきました。その絵画館は、会社の保養施設でもあるとのことです。しばらくして、絵画館のドアを開けていただきました。そして、中を見せていただくことになりました。見学させていただき感謝します。

        浄慶寺の窓(車窓か額縁のよう)から見下ろした、八島の家並み


 川口健治の絵を鑑賞すると、今度は狭い道を登って浄福寺(浄土宗)に行きました。しかしながら、三,四年前に廃寺になったようです。庭は雑草で覆われ、本堂内は埃が積もっていました。本堂内の「平成二十三年宗祖法然八百年」の旗がむなしく感じられました。この八島は檀家が少なくなり、お寺を維持することが困難なのでしょう。続いて、浄慶寺(浄土真宗)に行きました。お寺の暖かいおもてなしで、本堂内や川口健治の襖絵を見学させていただきました。ありがとうございました。

           浄慶寺から小中学校跡地に向け、急な狭い下り坂を降りる


 浄慶寺を出ると、小中学校跡地に向かって、急な狭い下り坂を降りました。あまりにも急坂のため、濡れて苔むした曲がり角で転げそうになる方がいました。小中学校跡地には創立100周年記念1974年の記念石碑が建っていました。私が大学4年生の時のことです。次に、忠魂碑を見学後、今回八島を案内していただいたMさんの祖母宅を見て、港に向かいました。そして、船に乗りました。思いのほか波が高くて、船尾にいた私は水しぶきで足やお尻が濡れてしました。

 浄慶寺から小学校跡地へ     八島小中学校跡地       帰りの船に乗り込む
  

 今回のウォーキングは下見とは言え、天候に恵まれ、八島神社のお祭りに遭遇し、そのお祭りで同級生のお兄さんに出会い、島のいろいろな史跡を訪れることができ、島の暖かい方々に出会えたりと、本当に充実した下見ウォーキングでした。自然に恵まれたこの八島で生まれ育った方々はとても幸せだと思いました。そして、うらやましく思いました。5月24日の本番ウオーキングでは、今回の下見を元にさらに楽しいウォーキングになればと思います。今回の下見に参加された方々、お疲れ様でした。
 
                港近くから見た、美しい八島の入江


 今回の下見後、江戸時代後期の記録(風土注進案)を調べてみました。当時は古浦にも人家があったことが分かりました。平郡島に東と西の集落があるように、八島は南と北(古浦)に集落があったのですね。八島には当時(西暦1840年頃)家が164軒あり、人口は692人(男性346人,女性346人)でした。しかし、今の八島の人口はわずか19人とのこと、たくさんの方々が八島を巣立っていったのですね。
 その昔、八島に住む方々は、大豆,粟,黍,稗を栽培し、そして漁業などで生計を立てていたようです。八島神社のお祭りの謎も少し分かりました。お祭り時、古浦の八島神社から八島港(蛭子浦)の蛭子神社まで、飾りたてた神輿船が数船往復したようです。そのうちの2船にはそれぞれ、古浦と蛭子浦の若者が乗って速さを競ったようです。おそらく、古浦の集落と八島港(蛭子浦)集落の絆を深めるための祭りだったに違いありません。また、城山と呼ばれる地区に、城があったようで古戦場でもあったようです。弥生時代にも人が住んでいたようです。この八島には、深い歴史が刻まれていることが分かります。

           今回下見ウォーキングした、八島港周辺

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする