ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

好きなことをやるのが、ブランドになる。

2009年10月31日 | Weblog
「自分がブランドになる」石井竜也・中谷彰宏著より。

個性ということについて述べられていた。中谷さんは、「こういうのが世間にウケるのではないかと思ってやり始めると、そこには大勢ライバルがいる」と話す。

むしろウケをねらうより、自分の好きなことをやっているほうが、誰もいないポジションに行くことにつながるという。人のやっていることを参考にする必要もないということだ。

ここには書かれていないが、当然ながら中途半端ではそんなポジションには行けないことだろう。しかもやっていることが飽きないことも条件ではないだろうか。

つまり人から認められるほどのレベルに達するには、繰り返し(継続)もポイントに違いない。個性がブランドにつながっていくなんて、そうそう簡単できることではないんだろうな。

小学3年でもうプロをめざし始めた。

2009年10月30日 | Weblog
「朝日新聞」2009.10.27付けより。

文化面には今月、囲碁最年少名人になった井山祐太さんへのインタビュー記事があった。5歳の時に、テレビゲームで囲碁を知ったのがきっかけだったようだ。

とにかく強い人と打ちたいという気持ちの延長線上にプロがあっただけと語っている。はっきり意識したのは小学5年で、プロ入りの一局に負けた時だったようだ。その時の悔しさがその後のプロでの活躍のバネになったのだろう。

中学に入学時にプロになった時点で高校には行くつもりはなかったという。その時から囲碁は若い時が一番大事だと感じていたようだ。それは、中国や韓国でもプロ囲碁界は20代が中心だったからだと語る。

趣味としての囲碁について、“囲碁は無限に打つ手のある、答えの出ないゲーム”だと答えている。芸術に近く、絵を描く自由な発想とも似ていると考えている。

スポーツ界では若い選手がトップで活躍することでそのスポーツがはやっている。囲碁でも自分のような若い世代が活躍できることで人気の底上げをしたいと抱負を語っている。やはり地味な囲碁だが、若者の活躍でスポットが当たると面白そうだな。

「勉強というのはやるかやらないかだ」

2009年10月28日 | Weblog
「日経新聞夕刊」2009.10.23付けより。

“学びのふるさと”というコラムの中で、エッセイストの岸本葉子さんが書いていた。岸本さんが高校生のときに、ある英語の先生から言われたのは、「『うちの子はやればできる、やらないだけ』と言う親がいるが、それは違う。勉強というのは『やるかやらないか』だ」とあった。

これはほとんど何にでもいえそうなことだ。「本当はもっとすごい仕事ができる」「書こうと思えばいつだって書ける」なども同様なことだ。岸本さんはこのような言葉を聞くたびに、高校時代の先生の言葉を思い出すという。

そして、自分では絶対にこの言葉は言うまいと心がけているようだ。岸本さんが初めて原稿400枚を出版社に持ち込んだときに編集者に言われたことは、「本を出してくれるなら書く」という人は大勢いるということだった。しかし、実際に原稿を書いてくる人は、その何百分の一だということだった。

岸本さんは、そこで重要なのは「やるかやらないか」だと痛感したようだ。高校の先生の言葉を人生訓として、今も書き続けているようだ。まだ何も形になっていないのに、「やればできるさ」というのは実に軽い言葉だなと思った次第。

日本語の「アイデア」と英語の「idea」の違い・・・

2009年10月27日 | Weblog
「凡人が一流になるルール」齋藤孝著より。

これもフォードルールの中にあったワンフレーズだった。今までアイデアといえば、ちょっとした思いつきや具体的な工夫程度にしか考えていなかった。

しかし、それとは違ったニュアンスの意味もあった。それは、理想や理念というものだった。実際、フォードが目指していたのはこちらの方のアイデアだった。

つまり、“だれにでも買える自動車を大量に作り、人々の暮らしを豊かにすること”であった。これが木の幹となってそこから個別のアイデアを生んでいったのだ。

もし行き詰ったときには、「自分は何を目的としてこの仕事をしているのか」ということを突き詰めてみるべきだと筆者はいう。それは必ずしも目新しさにこだわる必要はないようだ。

大切なのは自分のコンセプト=「idea」を確立することで、そこから「アイデア」を生み出していくということだった。これがフォードの発想の源ということになる。

アウトプットを意識するからこそインプットも真剣になる。

2009年10月26日 | Weblog
「凡人が一流になるルール」齋藤孝著より。

これはフォード自身が述べたフレーズではないが、フォードルールの部分で目にしたフレーズだった。車にあまり関心がない人にはピンとこないでしょうが、ヘンリー・フォード(1863~1947)はフォード・モーター・カンパニーの創業者だった。

意外なのは、「一日八時間労働」というシステムは彼が考え出したものだった。それ以前の労働時間はもっと長かったようだ。また流れ作業の組み立ても彼が考ついていた。フォードは自動車の製造ばかりではなく、サービスにも力を入れていた。そして、サービスステーションを考案したのも彼だった。当時としては画期的なものだったようだ。

そして、「大切なルールは箇条書きに」していた。意外につまらないことのように思えるが、実はこれがフォードルールとなっていた。たとえ当たり前のことでも書いて、見えるところに貼っておくことが大事だったのだ。箇条書きは同時にチェックリストにもなっていた。

さらに、筆者の齋藤氏は大事にしたいルールがあれば、心の中に留めるだけでなく、自分の言葉にしてアウトプットすることをすすめている。つまりアウトプットを意識するからこそインプットも真剣になるということのようだ。上記フレーズのあとには、“実際にアウトプットすることで、頭に再インプットされる”ともあったな。

お手本と同じことをしていたら、よくて一位タイ。

2009年10月25日 | Weblog
「凡人が一流になるルール」齋藤孝著より。

小林一三ルールの一つでは、「人に負けない得意分野を一つ持つ」だった。一三にとって、それは決算書に並んだ数字を見ることだった。

元銀行マンであったことから、決算書の数字を見ただけでその意味を理解することができたのだった。中身を理解できることが、強みの一つだったのだ。

人によっては、特定分野の技術的知識、業界の最新情報でも、これだけは誇れるというものを持つべきだろうという。

一番つまらないのは、あれもこれも及第点というやつかもしれない。突出した部分がなければ、その他大勢に埋もれてしまう。

人に認めてもらえる(単独トップの)レベルまで、自分の武器を磨き続けられるかどうか。結局それがポイントかもしれない・・な。

世間に通用する看板の力を借りることも選択肢の一つ・・・

2009年10月24日 | Weblog
「凡人が一流になるルール」齋藤孝著より。

これは小林一三ルールのところにあったもので、ここでは「看板の力を借りて自分を磨く」とあった。小林一三の名前を初めて耳にしたのは学生時代だった。その当時はただ優れた経営者としてだけ知っていたにすぎない。

宝塚歌劇団、阪急電鉄、阪急百貨店などいくつもの事業を成功させていた人物で、巨大な企業グループを作り上げていた。ふつう財閥系の経営者の多くは、家柄が良かったり、親の財産を引き継いで事業を興し発展させていた。

しかし、小林一三は何の後ろ盾もなかったのだ。子供のころから苦労の連続だったようだ。しかしその後、慶応義塾大学に進学し、三井銀行へ入行していた。かつて慶応義塾大学はいま以上に光り輝くブランドだったようだ。

慶応の卒業生というだけでも信用力があったという。もともと文学青年で、新聞社を志望していたが就職に失敗して、やむを得ず三井銀行へ入行したのだった。そして、世間に通用する看板を使うことで自らの仕事の経験を積んでいったのだった。

看板に頼り切らないで、中身(実力)を磨いたというところがポイントだったようだ。何のバックボーンがない場合は、看板の力を借りるのもアリということだった。

自律神経を整え、免疫力を高めるつむじ押し健康法。

2009年10月23日 | Weblog
「JAF Mate」2009.11月号より。

“未病に効くワザ”というコーナーでは押すだけで免疫力アップ「つむじ押し健康法」について書かれていた。まず、未病とは「病院にいくほどではないが、体調がすぐれない」というような症状を指しているようだ。

ここでは免疫学に造詣が深い医学博士の福田稔医師が指導していた。この先生の肩書は、日本自律神経免疫治療研究会理事長となっていた。それにしても、つむじ押しとは実にユニークだ。

さて、この先生は「身体を押して刺激することは、身体をコントロールしている自律神経の乱れを整え、免疫力を上げる絶大かつ不思議な効果がある」と語っている。多くの診療の経験から、頭部がうっ血して、下半身に十分な血液が流れていかず、冷えていることに気づいたという。

そして、いろいろと研究しているうちに、押して健康状態がよくなった場所はつむじだったそうだ。まずは、少し痛いくらいの強さで20回ほどリズミカルに押す、と書いてあった。

免疫力アップっていうのは見えないが確かに大事だろうな。私が以前聞いたのは、運動などして体温を上げると免疫力が上がるということだったが。このつむじ押しも、その一種だろうか。

経験からくる知恵こそが「老人力」・・・

2009年10月22日 | Weblog
「朝日新聞」2009.10.20付けより。

スポーツ欄のコラム“EYE”で編集委員の西村欣也氏が書いていることだった。ここでは、寄せ集め弱小球団と言われてきた楽天を、クライマックスシリーズ第二ステージまで導いた野村監督について述べられていた。

せっかく、ここまで強い球団に作り上げてきたが、契約の期限切れで今年限りとなった野村監督の無念さについて、「人を遺すために、せめてあと一年監督を続けたい」というのが老将の願いだったと表現している。

試合後のボヤキは名物のようになっていた。毎回テレビで放映される野村監督のボヤキがらみのコメントは楽しみでもあった。選手について、「三流は無視、二流は称賛、一流は非難」という野村語録もあるようだ。

選手個人個人はこれを実感しながら、練習に試合にのぞんでいるのだろう。つまりいろいろとボヤキのなかで厳しく言われることこそ一流選手の証明なのだろう。そのボヤキが選手を育てていったともいえそうだ。

今年のプロ野球では、むしろ所属球団の選手の活躍がかすんでしまうほど最も存在感があった監督ではないだろうか。「老人力」はすっかり忘れていた赤瀬川原平さんの著書の題名だが、ここでは“経験からくる知恵”という実に前向きな考え方だなと思った次第。

ついついあれこれと頑張って準備してしまう。

2009年10月22日 | Weblog
ホームページ「どらく」2009.10.15より。

ここでは三宅(祐司)さんは「準備」ということについて述べていた。やっている芝居はコメディーということもあって、公演のたびにギャグ表をつくっているという。2時間ちょっとの芝居に110~120のギャグを盛り込んでいる。平均すれば1分に約1回だ。当然ながらそれだけつくるにはのたうちまわるらしい。

舞台は当然として、テレビの司会でもきっちりと準備をしてのぞんでいるようだ。30年の芸歴があるにもかかわらず、準備は欠かさない。失敗するのはその場の雰囲気で何とかなるだろうと思っているときのようだ。

いつも周囲に満足感を与え、期待を裏切らないように心掛けている。とくに打ち上げの席で「じゃあ最後に三宅さんひと言」と振られたときは大変なような。キメの言葉を喋るとき、いつでも「やっぱり三宅さんが仕切るとおもしろい」と言われるために頑張って準備してしまうらしい。

本来の仕事が終わっても軽く流さないできっちり最後までスタッフ、仲間まで満足させようとするサービス精神はやはりプロを感じさせる・・・な。

(このインタビュー記事を読んだら今公演中の芝居を見たくなってしまい、昨夜さっそく30周年記念公演の「ステルスボーイ」を観てきた。期待度は90点くらいだったが、個人的には65点かな・・・やや期待が外れたかも。頑張って観にいった割には・・・だな)

「次は何をやろうか」というワクワク感・・・

2009年10月20日 | Weblog
ホームページ「どらく」2009.10.15より。

三宅祐司さんのインタビュー記事の中のワンフレーズだった。しばしばラジオやテレビではバラエティ番組の司会者として活躍するが、本業は喜劇役者だった。しかも、劇団は今年で創立30周年にもなっていた。

ここでは、継続するための秘訣のようなものが語られていた。三宅さんは公演が終わると、「次はもっとおもしろいものを作りたい」と思うそうだ。同時に“次は何をやろうか”というワクワク感もわくらしい。

さらに、劇場は一年前に押さえておかなくてはならないことも、次につなげる要因にもなっていたのだ。もう場所を抑えたら、次をやらななくてはならないというノルマにもつながるのだろう。

三宅さんが芝居をするようになったのは育った環境が大きいようだ。それは子どもの頃から芸事になじんでいたからでもあった。母が日本舞踊の師匠、叔母が松竹歌劇団員、また自身も長唄、小唄、三味線、日本舞踊を習っていたのだ。

おまけに歩ける距離に映画館が4館あったという。映画ではコメディーを好んで観ていたようだ。やはりいろいろな芸事が身近にあったことで、その後も芝居をすることがスムースにいったのだろうなぁ。

「自分の前にある世界の一部を見て、ことばという部品をつなげていく・・・」

2009年10月19日 | Weblog
「二十億光年の孤独」谷川俊太郎著より。

(前日のつづき)
これは谷川さん自身のことばだろう。たまたま谷川さんのお父様が詩について評価できる人物だったというだけでは済まなかった。父、徹三氏は即刻友人である詩人三好達治にその大学ノートを送りつけていたのだ。

三好もその詩の新鮮さに驚いたようだ。そして、さっそくそのノートから六篇の詩を選んで、文芸雑誌『文学界』に推薦し、その年の12月号に掲載されたという。

なんと!お先真っ暗だった少年が新人として詩壇に姿を見せることになったのだ。始めから詩人になろうと思ったわけでもないのに、このとき人生は動きだしてしまったようだ。すると、ある出版社が単行本の出版を申し出てきたり。

ここでの解説者山田馨氏は「明晰なことばで組み立てた工芸品のような詩・・・」と表現している。谷川さんは新進詩人となって、インタビューをうけたりエッセイを書きながら生活が成り立っていったようだ。

才能があればこそ、その後も活躍できその世界で第一人者となれたのだろう。いくらチャンスに恵まれたからといって、その後が継続できる人は稀ではないだろうか。俗にいう一発屋は多いかもしれないが。

関係ないが、この文庫本は後ろからめくるとすべての詩に英訳がついている。なお、タイトルは“Two Billiion Light-Years of Solitude”となっていた。

三つ目の趣味が彼を人生のピンチから救う・・・

2009年10月18日 | Weblog
「二十億光年の孤独」谷川俊太郎著より。

すでに知名度も高い谷川さんだが、「二十億光年の孤独」は1952年に初めて出版された詩集のタイトルだった。これを書いたのは18歳の頃だった。またここで取り上げたフレーズは解説の山田馨氏によるものだった。

谷川さんはもともと集団生活にはなじめなかったようだ。学校嫌いで、教師への反抗、不登校、学力低下という悪循環が少年(谷川さん)を追つめていた。なんとか高校を卒業しても、大学にも進学したくなかったようだ。

つまり親のスネをかじるしかなかった。鬱屈を忘れるための当時の趣味は模型飛行機づくり、ラジオの組立て、詩をつくることだった。

そこで業を煮やした父から「おまえどうする気なんだ、大学にも行かないで」と問い詰められて「こういうものを書いています」と二冊の大学ノートを差し出したという。

するとその詩を読んだ父は、鉛筆でに◎や○で詩にランクづけをしていったのだ。息子の詩に興奮し衝撃をうけたという。その父とは哲学者の谷川徹三氏であったが、若い頃は自身も詩を書き、文芸批評をしていた。

もちろん詩はそれだけのすごい迫力を持っていたのだろうが、たまたま父がそれを評価できる人物だったというところから谷川さんの人生は大きく変わって行ったのだ。ちょっと驚くべき偶然・・・?必然・・・?

手帳に課題をメモしておく習慣。

2009年10月17日 | Weblog
「凡人が一流になるルール」齋藤孝著より。

筆者の齋藤氏は、学び上手になるためには、重要なコツがあるという。それは普段から、自分が抱えている課題についてとことん考えることだった。つまり問題意識を忘れないことで、それを解くための重要なヒントをつかめるということのようだ。

豊田佐吉は、ある装置のアイデアにずっと頭を悩ませていたが、アメリカで自動織機が発明されてそれを現地視察した大学教授の講演会を聴いているうちにヒントとなるヒラメキが宿ったのだった。

五日間悩み続けて、頭の中で練りに練って考えていたからこそ、アイデアがスパークしたのだろう。でも、これは豊田佐吉だからできたことかもしれない。

一般的なビジネスマンなら、問題を考え抜こうとしている間に次々と問題が発生してきてしまうかもしれない。そこで、齋藤氏は“手帳に課題をメモしておくこと”を勧めている。これは自身の経験から効果があるらしい。

そうすれば、手帳を見るたびにその課題のことを思い出すからいいのだという。するといろいろな情報に触れている間に、ヒントがつかめるようだ。でも、私は手帳など普段から持ったことはなかった・・・な。

ここでのルールは「悩むべき問題を常に持ち、熟慮断行する」だった。つまり学びを得るまでは粘り強く考え続け、確信を得たら、脇目もふらずに即行動する。これが佐吉のスタイルだったのだ。

何かしら新しいことを試すだけで、仕事はグンと楽しくなる。

2009年10月16日 | Weblog
「凡人が一流になるルール」齋藤孝著より。

これは豊田佐吉ルールのなかで目にしたワンフレーズだった。トヨタ自動車は日本で生まれ世界的に有名になった会社の一つだろう。その源流が豊田佐吉だった。トヨタ自動車の創業者は息子の喜一郎だが、そもそものルーツは佐吉だった。

ここでのルールとしては「発明家魂を持つ」となっていたが、一般人には発明という言葉はハードルが高すぎる。豊田佐吉は自身のことを事業家ではなく、発明家だと考えていたようだ。

筆者は、どんな職業であっても、心のどこかに「発明家」としての志を持つことを勧めている。新しい製品を作ることだけを考えずに、今までなかった方法、概念、考え方なども発明と考えている。

営業マンだったら新しい売り方を考えてもいいのだ。確かに人から教えられたままのやり方では面白みもないだろう。むしろ退屈さを覚えるかもしれない。

つまり、常に何か改善や創意工夫を考えることはどんな仕事をしていても必要なのだろう。そんな気持ちや発想の柔軟性の大切さをここでは述べていた。

豊田佐吉も、自動織機を発明したが、「発明家」というより「改良家」でもあった。今している仕事にちょっとした改良、工夫を加えることで自分のやる気も違ってくる・・・かも。