ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

他人を面白がらせるためには、勇気ある行動が必要。

2007年11月30日 | Weblog
「R25」2007.11.22号より。

読んでいくと、次の箇所がある。「高校2年生のときプロボクサーとしてデビューし、11試合戦っている」これは先般いろいろ話題に上っていた亀田兄弟のことではない。なんと世界的建築家の安藤忠雄さんのことだった。

大学の専門的な教育も受けていない。しかし、東京大学の教授にも就任したり、イエール大学、コロンビア大学、ハーバード大学でも客員教授を歴任している。10代より建築に興味を持ち、独学だった。プロボクサーを経て20代半ばで世界を放浪していた。

ピューリッアー美術館(アメリカ)や表参道ヒルズ(東京)なども安藤氏の設計だった。今、氏は東京港の埋立地33ヘクタール(東京ドーム約19個分)の広さに植樹をして「海の森」を作る構想をしている。また東京都内にも100万本の街路樹を植え緑でいっぱいにしたいという構想も持っている。

そして、すでに「緑の東京募金」というプロジェクトもスタートしている。その中心が安藤氏だった。この計画は10年はかかるそうだ。こんな仕事で大切なのは構想力と実行力だという。

建築家は構想したものを、誰かと共同で作り上げていかねばならない。だからそこには実行する意志が必要になる。決して一人ではできない。“本当にできるの?”っていうことをやるのは勇気ある行動が必要なのだろう。それでこそ人に感動を与え面白がらせられるに違いない。

とても平凡な人生を歩んできた人には考えられないことを成し遂げてしまうのには、生まれつき持っている強い意志とその後の実績という自信の裏付けがあるからなのだろう・・・な。


バス旅は感性が磨かれそう。

2007年11月29日 | Weblog
「R25」2007.11.22号より。

“バス旅”とはいっても、観光バスでの旅行ではなく、ここではもっと身近にある路線バスのちょっとした旅気分のようなものを意味していた。都内で急いでいるときは、だいたい電車を利用する方が間違いなく予定時間に目的地に着ける。地下鉄もかなり網の目のように張り巡らされているので便利な乗り物だ。

しかし、たまに場所によってはバスでなければ近づけないところもある。また、いつもは電車で行くところをバスに乗ってみると、意外に知らない地名(バス停)がアナウンスされたりする。それから路線バスによっては、よくこんな狭い商店街や住宅街を走れるものだと、その運転士のドライビングテクニックに感心したり、スリルを味わったりもしたことはある。

川が流れていないのに○○橋とかそこにある会社や学校の旧名での呼び名がバス停の名称になっているところもあって面白い。そんなところにも街の歴史を感じたり。しかも、信号以外でも2、3分おきに停車するので窓からもゆっくり風景や商店の看板などが眺められる。

私も今は自宅と駅の間はバスを利用しているが、乗客の顔だけは見覚えてしまう。そんな知った顔も時間帯や経た年数でも変わっていく。学生だった若者がやがて社会人となり、数年するとその顔もいつしか見えなくなっている。どこかへ転勤でもしたのだろうか、結婚でもしたのだろうかなどと勝手な想像してしまう。

当たり前のことだが、人が成長した分だけ自分だって歳を重ねている。バスに乗っている時の方が、電車に乗っている時よりいろいろと発見がありそうだ。電車だとついつい居眠りをしてしまう。たまにはバスに揺られながらその日の日記のネタなども考えることもあるな。もしかしたら、これもそうだったろうか・・・

石橋は叩かないで渡れ、というのが私の人生のモットー。

2007年11月28日 | Weblog
「JAF Mate」2007.12月号より。

インタビュー記事のなかで、うつみ宮土理さんが言っていたこと。しばしばテレビや雑誌のなかでも彼女は韓流スターや韓国のドラマが好きだと述べていた。しかも、その影響もあって韓国に留学までしてしまっている。

韓国ドラマが好きになったら、韓国の文化をもっと勉強したいと思うようになったという。そして、思い立ったらすぐに実行に移してしまうのが、自分の性格らしい。だから、石橋など叩いている暇はないのかもしれない。

実に自由に思うまま生きているようにも思える。ある意味、チャレンジ精神が旺盛な人だともいえそうだ。ある程度の歳を重ねても夢を追い続けるのは若さを保つ秘訣かもしれない。だからこそ、昨年は「グッドエイジャー賞」を受賞しているのだろう。

この賞の歴史はまだ浅い。中高年になっても、積極的に挑戦し、人生を楽しむ人に与えられている。2004年以来、毎年男女一名づつが選出されている。うつみさんと同時に映画監督の奥田瑛二さんが受賞していた。なお、今年は野球解説者の福本豊さん、女優の鳳蘭さんだった。

ほとんどの人は石橋を叩いているうちに歳をとってしまうのかな~~。夢や希望を失いがちだ。それを世の中のせいにしてはいけないのかな。たとえグッドエイジャーになれなくても、中日の落合監督ではないが、せめて“オレ流”で生きられればいいんだがなぁ・・・


一歩抜きんでるためには努力の上に辛抱という棒を立てるんだ。

2007年11月27日 | Weblog
「産経新聞」2007.11.16付けより。

たまたまこの日の新聞には私にとって、ちょっと気になるフレーズが3つあった。これがその3つ目だった。「私の失敗」というコラムの中で、タレントの桂小金治(81)さんが父親から言われた言葉だった。

彼が10歳のころハーモニカが欲しくて父親にねだったら、「なんで?」と訊かれたのだ。「いい音がするからだよ」とせがむと、父はいきなり神棚の榊の葉を一枚むしって、目の前に突き出し「いい音ならこれで出せ」と言ったのだ。

「鳴るわけないじゃないか」と不満を口にすると、父親は唇に当てて素晴らしい音色で『故郷』を奏で始めたのだ。そのとき、こんな葉っぱでこんないい音がするんだとびっくりした、と思いだしている。その後小金治さんは3日練習したが音が出なくてふてくされてしまった。

すると父親が次のように言ったのだ。「努力まではみんなするんだよ。そこで止めたらドングリの背比べ。一歩抜きんでるためには努力の上に辛抱という棒を立てるんだ。この棒に花が咲くんだよ。辛抱できないやつは意気地なしだ。やるからには続けろ」

これらの言葉が胸に突き刺さって、殴られるよりもショックだったという。そして中途半端な自分が恥ずかしくなったと述懐している。悔しくて毎日練習をしていると10日目に、突然「ぴー」と音が鳴ったのだ。するとおやじさんがほめてくれてうれしかったようだ。うれしかったが、そればかりか、翌朝目を覚ますと枕元にハーモニカが置いてあったのだ。

それを母親に伝えると、「3日も前に買ってあったよ」という言葉が返ってきたのだ。今度は小金治さんが「なんで?」と母親に訊いたのだ。すると「父ちゃんが言ってたよ『あの子はきっと吹ける』って」と母親は答えている。このとき彼は涙が止まらなかったという。そして、人に信じられることのうれしさを実感している。

そういえば、子供のころいろんな草や木の葉を丸めたり折ったりして草笛を鳴らしたことはあったな、でも曲を吹くまではやったことがなかった。今の子供たちは、そんな素朴な遊びはきっと知らないだろうな。古き良き時代だった。現在はそもそも身近に自然がなくなっているしな~


世界で一つのものが最高のプレゼント・・・

2007年11月26日 | Weblog
「産経新聞」2007.11.16付けより。

前日は大阪出身の若い女性からフリーペーパーへの投稿だったが、今日の記事は同じく大阪のYさん(72歳)から新聞への投稿記事を取り上げてみよう。この方は元短大非常勤講師となっていたが、30代後半に米国に渡った時の日米の贈り物の違いに驚いていた。

米国では、クリスマスと誕生日のプレゼントが大切にされるという。そして、この女性の記憶に残っている最高のものが書かれていた。それは、お隣に住んでいたエンジニアが妻に贈ったクリスマスプレゼントだった。

そのエンジニア氏は「世界で一つのものが最高のプレゼント」と信じていたようで、このYさんの家のミシンで、ジャケットづくりに挑戦していたのだ。仕事を終えると、妻には残業すると偽って、こっそりYさんの家に直行し毎日ミシンを踏んでいた。

いったいどれくらいの期間かかったかは書かれていないが、完成したときの彼の表情は忘れられないという。Yさんは彼の妻への大きな愛を感じてうらやましくなったことを、はっきりと思い出しながら投稿したようだ。

今の世の中、なんでもスピード時代で、たんにお金をかけてお手軽なものに手を出しがちだが、時間をかけた手作りのものには金額以上の価値があることを思い出させてくれる。というわけで、今年もハンドメイドのオリジナルクリスマスカードを作らねばなぁ・・・


大阪のオッチャンなら、「落ちたでー」というだけなのに、・・・

2007年11月25日 | Weblog
「メトロポリターナ」2007.11月特別号より。

そのあとには次のように続く。「~やっぱり東京のオジサンは違う、と感激。」これは“ちょっと素敵なオジサンの話”(やさしいひと言、さりげない気遣いがうれしい)をOLの皆さんに投稿してもらったなかの一つだった。

このエピソードは、26歳の大阪の女性からの投稿で、就職のために大阪から出てきたばかりのときのこと。駅で切符を買おうと財布からお金を出した時に、5円玉を落としてしまった。

そのとき、近くにいた50代後半のオジサンが拾ってくれて「ご縁がありますように」と5円玉を手渡してくれたという。それで、タイトルにあげたフレーズにと続いている。

本当に感激した証拠に、大阪の友達みんなに電話してる。なぜか大阪では「オッチャン」、が東京では「オジサン」という表現になっているだけだけでも面白い。

私だったら転がり落ちた五円玉をとっさに拾ってあげられるだろうか。(それは相手次第かな・・・な~んて考えるようじゃ、オジンまたはオヤジと言われても仕方がないか・・・。)

自分が経験して、記憶に残っている素敵なワンシーン、それはちょっとした自分のなかの宝物かもしれないな。(なんだか、どこかの宣伝コピーのようになってしまった・・・な。)



都市化で多くの巨樹、巨木が伐採されている。

2007年11月24日 | Weblog
「産経新聞」2007.11.16日付けより。

たまたま、昨日まで木に関連する日記を書いていたので、ついでに先週新聞にあった気になる記事を思い出した。せっかく数百年の風雪にじっと耐えてきた巨木が伐採されてしまうのは、残念なことですね。

巨木は同じ場所に人間の寿命の数倍、数十倍も生きてきたものもあるでしょう。もうそれだけでも尊敬したくなってしまいます。地元の市にも幹の周囲が5、6メートルほどもあるハルニレやケヤキがあり県の指定記念樹ともなっていました。

環境省が平成12年に実施した調査によると、「地上130センチの位置で幹の円周が3メートル以上」の巨木は6万4479本で、そのうち東京都が3799本で最も多かったという結果でした。以下は茨城、千葉、新潟、静岡がベスト5でした。

これはちょっと意外な結果ですね。その理由は東京には精力的に調査をした人や関心がある人が多かったこと、及び歴史がある屋敷が多かったことなどが推測されるようです。

また一方、林業が盛んな地方では巨木に育つ前に材木として利用してしまうことも巨木が少ないことの理由と考えられています。明治神宮や新宿御苑にもかなり沢山の大木がありますが、これから先数世紀も生き続けるんでしょうね。

人間の寿命の単位ではとても計りきれませんね。樹木のとてつもない底力を感じます。


木は自分で腐葉土作りまでしているのか。

2007年11月23日 | Weblog
「こぼれ種」青木玉著より。

この季節になると多くの落葉樹は葉を落としている。とくに大きな街路樹がある商店街はその掃除が大変なことだろう。そういえば、自宅のフェンスの外側の夏づたも紅葉して落ち始めていた。数日間は掃除をせねばな。

さて、葉が落ちるのは落葉樹ばかりではなく、芽吹きのころには針葉樹も常緑広葉樹も葉っぱの世代交代をしている。また、サルスベリやプラタナスも晩秋になると樹皮がはがれ落ちてくる。

樹木の中にはイイギリのように自ら伸びすぎた枝を落とすものもあるようです。そして樹木は葉や枝を落としながら腐葉土をその下に作っていたのです。つまり自分でリサイクルを繰り返しているということになりますね。

森や雑木林のなかでは自然のほどよいサイクルで植物が育っていたんですね。確かに、今年の夏ごろ、自宅の庭でも自然にできた腐葉土のあった部分ではミョウガが大きく育っているのを見つけて驚きました。
(話がややそれましたが、その時はちょっと得した気分でしたね)


生きて好まれ、命終わってなお価値を認められる。

2007年11月22日 | Weblog
「こぼれ種」青木玉著より。

そのあとには、次の一文があった。「人もかくてこそ、ちょいとなれるものならあやかりたいと思う木だ。」と。

つまり木について書かれた部分だったのだ。その木とはケヤキ(欅)のことだった。関東地方ではいまちょうどケヤキが紅葉している。日が当たっている街路樹のケヤキ並木は見ごたえがある。

ここには書かれていないが、このケヤキも春には小花が咲き実をつける。しかし、ほとんど見かけるケヤキは大木になっているので、小花や実は目につかない。

自宅の庭の片隅にケヤキの苗が育っていたことがある。もちろん植えた覚えもないのに。きっと鳥によって種が運ばれてきたのだろう。大きくなり過ぎると面倒なので切ってしまったが。

ケヤキは実に有益な樹木だった。古くから家具や神社仏閣の建築に用いられてきている。堅くて丈夫なのが特徴のようだ。磨くと光沢がでて高級家具ともなっている。

ありふれた木ではあるが生きている間は、春の新緑は人の目を楽しませ、また日差しの強いときには日陰を作って癒してくれる。また材としても役に立ってくれるから価値があると言えるのだろう。

蛇足

上記のフレーズはあとから、偶然にも11月2日(母親の)幸田文さんの『木』を取り上げた時の部分ともやや似ていたことに気づいた次第。
そして『木』を連載している時に、最後のとりはケヤキを取り上げるように青木さんは働きかけたと述懐している。しかし最後は「ポプラ」でした。


興味と智識という陽と雨によって、・・・

2007年11月21日 | Weblog
「こぼれ種」青木玉著より。

まずはじめにこのフレーズが含まれる段落だけ抜き出してみたい。

~~母という感情の苗床には、草の種も花の咲く木も癖のある木もさまざまなものが育ってきた。六十の半ば過ぎ、日常にゆとりが生じて、興味と智識という陽と雨によって、それは一斉に芽吹き、十余年の歳月は『木』という作品にまとまっていった。~~

実に味わい深い比喩がちりばめられている。“感情という苗床”などという表現はなかなか思いつかない。すでに、ご存じの方も多いとは思いますが、この筆者の青木玉さんの母が幸田文でその父が幸田露伴ということになる。さらに、青木さんの長女奈緒さんもまたエッセイストでした。

実に四代も続いてモノ書きを仕事をしているのはちょっと珍しいかもしれない。『木』についてはすでに、今月初旬(11/2)の日記でもそのワンフレーズを取り上げていた。幸田露伴の名前も『五重の塔』という作品名も学生時代から知っているのに読んだことさえなかった。

むしろ、先に幸田文、青木玉、青木奈緒さんらの著書を先に読んでいた。この『こぼれ種』は文庫本ではあるが、植物のカラー写真も多く掲載されており、わかりやすく楽しめた。内容は単に見かけた身近な植物について触れているだけではなく、わざわざ遠くまで取材に出かけ丹念に書かれている。

しかも、その取材の最中にも解説だけでなく自らはどう感じたかも丁寧に述べられている。そして、時おり母親や祖父のことも思い出しながら触れている。そんなところからも肉親への尊敬さえも感じられる。それは抜粋した部分にも感じられた次第。


どんなに才能のある人間でも、ひとつのことをやってきた人間には敵わない。

2007年11月20日 | Weblog
「R25」2007.11.15付けより。

インタビュー記事での浅田次郎のことばだった。彼の職歴についてはすでにあちこちで書かれているからご存じの方も多いことだろう。高校を卒業後自衛隊に入り、2年後に除隊している。その後アパレル業について24歳の時には自営していた。

そして、人気作家となった今でも、彼自身小説を書くより商売のほうがうまいと思うと笑っている。昼はアパレルの仕事をして夜家族が寝静まってから小説を書いていたのだ。

もともと読書が大好きで、小学生のころに『伊豆の踊り子』のエンディングを自分なりに書き換えていたというからすごい。そして、中学生で小説家になることを決めていたという。はたして、中学生で将来の職業を決めている人などどれほどいるのだろうか。

商売も順調にいったわけではなかった。29歳で1億数千万円の借金をつくって倒産したが、6年で復活している。しかもその間も小説を書き続けていたというから並の根性ではない。文章が活字になったのは39歳だった。

数十年間ずっと、ずっと書き続け、努力して考えに考えてきた結果が今なのだ。愚直に進んできたことで成功をおさめている見本にも思える。「自分が面白がっていないと面白い小説にはならない」、という部分も説得力があるな。


太陽が生んだジュエリー・・・

2007年11月19日 | Weblog
「メトロポリターナ」2007.11月号より。

なかなか面白い見出しのコピーでちょっと気になったが、これのあとには“ドライフルーツを召し上がれ”と続いていた。つまり太陽の力で乾燥させた果物などのことだった。

乾燥させることで、なかに含まれるカルシウム、マグネシウムなどにミネラルや食物繊維などがギュッと凝縮される。生の状態よりも重量に対する栄養価も高くなる。

糖度が高いから、少し口にするだけで血糖値もあがり満足感も得られる。ドライフルーツといって何を先に思い出すだろうか。昔からあるレーズンかもしれない。

このページにあった写真にあるイチジク、キンカン、トマト、洋ナシ、バナナ、サルナシ、ほおずきなど眺めると確かにカラフルで太陽が生んだジュエリーというのもうなづける。

子供のころは乾燥イモ(干したサツマイモ)も食べたものだった。先日駅前のスパーでも見かけたばかり。最近ではドライマンゴー、ブルーベリー、プルーンなども食べていた。

また乾燥してコンパクトになっていると、人前でも意外に食べやすいことも分かった。今日の夕方、小腹が空いたのでバッグに入れていたバナナチップスを口に運んだ。これが生の一本のバナナならちょっと気軽に人前で食べるわけにはいかない。

そういえば、昨年かなり高級な干し柿をいただいたことを思い出した。1個づつがセロファンで包装され、木箱入りだった。糖度は砂糖以上だったな。やはり天然の甘味はすごいものだと実感。

36年経ってもロングヒット中!

2007年11月18日 | Weblog
「R25」2007.11.8号より。

つまりこれはコンビニの定番商品だった。それはあの「日清カップヌードル」のことだった。この商品が最初に発売されたのは、1971年だった。日本でコンビニの歴史が始まったのが70年代半ば。つまりカップ麺はコンビニと相性がバツグンだっというわけだ。

コンビニでは店を出てから30分以内に消費される商品が多く品揃えされている。当然ながら弁当やおにぎり、ペットボトル飲料も定番商品となっている。そして、コンビニ自体もどんどん増えてきているから、それらの食品類は毎日膨大な数量が売れているのだろう。

カップ麺という自由な感じの色のスタイルは時代の雰囲気ともよくマッチしていたようだ。また、70年代生まれのロングヒット商品は意外にもまだあった。アロンアルファ(1963年に誕生、一般家庭用には1971年に発売開始)、プッチンプリン(1972年)、筆ペン(1973年)、ホカロン(1973年)・・・。どれもどこかで買った覚えがある。

セブンイレブン1号店ができたのは1974年だった。30年以上前には、これほどまでにコンビニも身近に増えるとは思わなかったな。それにしても、カップ麺はこれからも細く長く・・・だろうか。うちではむしろコンビニでは弁当やおにぎりの方を買う方が多いが。


「この必死さがあれば、彼は必ずモノになる」

2007年11月17日 | Weblog
「月刊現代」2007.11月号より。

“土井正三「V9巨人の絆とイチロー秘話」”と題して二宮清純が書いていた部分にあったもの。上記フレーズは土井がオリックスの監督時代に若き日のイチローに対して思ったことだった。

シーズンの中盤、土井は点差の開いたゲームでイチローを代走で使ったのだ。その際、サインも出していないのにスルスルッと離塁して、牽制でタッチアウトになっていた。その後監督室にイチローを呼んで「明日からファームだ」と告げていた。イチローは大泣きし一軍に置いてくれるよう頼んだがダメだった。

そして、上記のフレーズへと続いている。土井はイチローを二軍に落とすきっかけを探っていたと述懐している。それは、土井の巨人時代の経験があったからだった。土井が4年目の時、即戦力ルーキーとして高田繁が入団してきた。走攻守揃った選手でプロとして必要なものはすべて身に付けていた。

ところが、ある日試合でちょっとしたミスをしていた。ライトへの高いフライが上がった。それを深追いしたセカンドの土井とライトの高田の間に風に流されポトリと落ちたのだ。その夜、高田はマネージャーに二軍行きを通告されていた。

土井は守備コーチにあれは深追いした自分の責任で高田に非はないと言ったが、中間打球は外野手が捕るのが巨人のルールだの一点張りだったようだ。納得できなかった土井は数年後にようやく川上監督に本音を聞くことができたのだ。

川上は次のように返していた。「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす。あれと一緒じゃ。高田は間違いなく、将来ウチを背負って立つ選手になる。もし、あそこで何も罰を与えなかったら野球をナメてしまう。だから敢えて厳しくした」

土井にもそのことが頭が残っていたからイチローにも厳しくしてしまったと言う。かつては監督の命令は絶対的なものだったが、今なら、きっちりと説明しなけば選手も納得してくれないだろう・・・な。

蛇足

さて、日本ハムのGMとして、パリークで二年連続優勝を成し遂げた高田氏は、来期からヤクルトの監督としてグラウンドに戻ってくる。また、新たに日本ハムの監督に就任した梨田監督も来期どこまでいけるのか真価が問われるだろう。どちらもちょっと興味深い・・・

主人在宅ストレス症候群。

2007年11月16日 | Weblog
「月刊現代」2007.11月号より。

“納得!日本の言葉”というコラムにあったもの。もうこれ自体で大体のことは想像できてしまいそうだ。それにしても、“主人在宅ストレス”とは実にあからさまな言葉でもあるな~

ということで、当然ストレスを感じるのは主婦ということになる。これは定年退職した夫が常に家にいるようになったことで、強いストレスを感じ、体に変調を起こす病気のことだった。

日本心身医学会で黒川順夫院長(大阪府)が発表したものだった。とくにこれは亭主関白の場合に起こりやすいらしい。つまり強い拘束感を感じることが原因のようだ。

もう古典的となったCMのフレーズ、「亭主元気で留守がいい」が一番のクスリかもしれない。しかし、これから定年退職者が増えればこんなストレスを感じる主婦も増えそうだな。でも、はじめから家族や夫婦で同じ場所で仕事や商売をしている人はどうなんでしょうねぇ・・・