ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

「日本人はlearnはするがstudyはしない」

2013年11月30日 | Weblog
「日本人はlearnはするがstudyはしない」

「1行の成功法則」竹村健一著より。

実に短くて、なんともインパクトのある言葉だ。このフレーズを残したのは、ロケット博士で有名だった糸川英夫氏だった。

学ぶの英語には、確かにこの二つがある。しかし、あまり厳密に考えたこともなかった。learnは先人が考えた知恵や学績を学ぶことだった。それに対して、studyは、自分の頭で考えて学ぶことを意味していた。

シンプルだが、わかりやすい。大事なのは、後者で、そこには楽しさもあり、役に立つものだった。確かに自分の頭で考え、創意工夫したものは、身につくものだ。

すでに他人が言っていることを覚えても、面白くもない。studyは行動することが大事で、そうすることで、何かかしらが見えてくるようだ。その行動には工夫が伴っていることが必要なのだろうな。


“できない理由”より“できる理屈”を探しだせ。

2013年11月29日 | Weblog
“できない理由”より“できる理屈”を探しだせ。

「1行の成功法則」竹村健一著より。

もう、これ自体がこの部分のタイトルで、法則でもあった。ついつい、何かをしたくでも、できない状態の時は、「できない理由」を考えてしまう。忙しい、お金が足りない、などはそうだ。

竹村氏は自身の経験から、これで納得してしまっていたら、自分のプラスにはならいと指摘していた。むしろ、大事なのは「できる理屈」だったのだ。

どうしたら、できるようになるかをいろいろと考えることだった。「できない」と思ったとき、悲観するよりも、無理にでも「できる理屈」を考え出そうとすれば、視界もひらけてくるようだ。

さらに、理屈をひねっているうちに、ユニークな思考法も身についてくるともいう。いま、やりたくても「できない」と思っていることって、どれくらいあるだろうか・・・


意識的にさまざまな可能性を考えるようにすることで、頭は柔軟になる。

2013年11月28日 | Weblog
意識的にさまざまな可能性を考えるようにすることで、頭は柔軟になる。

「1行の成功法則」竹村健一著より。

まずはじめに竹村氏自身のことが述べられていた。氏は若い頃から、腰の落ち着かない性格で、仕事でもいろいろ挑戦しては、中途半端で終わったことも多いと振り返っていた。

しかし、性格はそうそう簡単に変えられるものではない。逆にいろいろなものに手を出したことで、見当がつくことも多くなったという。

長い目で見れば、いい面もあるようだ。そして、何かにぶつかった時も、否定的に考えるのではなく、「何か解決の糸口はないか」と踏みとどまって考えるべきだという。

そして、フレーズにあげたように、意識的に可能性を考えることで、変わりたい自分への道すじも見えてくるようだ。ここでの法則は「自分」は変えず、「考え方」を変える、だった。

すべての古典はその時代のモダンアートだった。

2013年11月27日 | Weblog
すべての古典はその時代のモダンアートだった。

「岡本太郎の仕事論」平野暁臣著より。

これは忘れがちなことでもあるが、なるほどと思える。数百年もまえの歴史的建造物や創作物はその時には、どこにも見当たらない新鮮なものだったに違いない。

しかし、現在からみれば、すべては古典になってしまう。太郎が残した言葉には「法隆寺は焼けてけっこう」というのがある。失ったらもっとすぐれたものを作ればいいのだとも考えていた。

単に古いというだけで、守るべき伝統と考えるのはおかしかった。当時は、価値があったものでも、今も文化的・芸術的に生きて躍動しているわけではなかった。

太郎にとって常に大事なのは、過去でも未来でもなく、この瞬間瞬間に生きることだったのだ。形式よりも生命力こそに重きを置いていたようだ。


自分の肉体がセンサーであり、自分の感性しか信じていない。

2013年11月26日 | Weblog
自分の肉体がセンサーであり、自分の感性しか信じていない。

「岡本太郎の仕事論」平野暁臣著より。

太郎は伝統主義との対決をしていた。それは、誰か偉い人がそう言ったからと言って、そのまま信じていることの愚かさでもあった。

一見典型的な日本のように言われている京都も、かつてはそうだったかもしれないが、いま残っているのは、恰好だけという。そう言われてみれば、それは現実の日本ではなかった。

奈良にしても、大陸文化そのものだった。古代の中国や朝鮮からの直輸入で、日本ではないと考えていた。つまり、太郎は、誰もが当然だとか、常識と考えていることを鵜呑みにすることはしていなったのだ。もっと本質的なものを追求していたのだろう。

大事なのは、まわりの評価ではなく、己の価値観だけを信じて前に進むことだった。これも、一平・かの子譲りの人生観だったようだ。

人生、即、芸術。絵を描く行為が芸術なのではない。

2013年11月25日 | Weblog
人生、即、芸術。絵を描く行為が芸術なのではない。
「岡本太郎の仕事論」平野暁臣著より。

別のページにも似たような表現があった。「芸術は技巧や形式ではなく、自分が自分自身になるための手段だ」と。

岡本太郎にとって、単に絵画や工芸や何らかの制作物があるからといって、それは芸術とイコールではなかったのだ。

太郎の両親も世間一般の常識からかなり外れた生き方をしていたので、そんな影響も大きかったことはうかがえる。

そして、親から受け継いだのは、他者の目を気にせず、自らの美意識だけを頼りに生きるという、人生観だった。つまり生活が芸術であるということだったようだ。

太郎にとって作品制作は手段であって、目的ではなかった。それは、自らの思想を込めて社会に送り出すキャリアー(搬送台車)のようなものだったと筆者は語っている。これはわかりやすいたとえだ。

絵画、彫刻、執筆、テレビ出演も仕事としてやっているわけではなかったようだ。本職は何かと聞かれたときに、どうしても本職って言うんなら「人間」だと答えたらしい。これも彼らしい信念の現れだろう。


センスは余裕からしか生まれない。

2013年11月24日 | Weblog
センスは余裕からしか生まれない。

「なぜあの人には、センスがあるのか。」中谷彰宏著より。

まさにその通りだろうと思える。いっぱいいっぱいの人には、センスなど考える余裕はないものだ。

とくにユーモアのセンスは、かなり余裕がないと出てこないだろう。笑えるのは自分も相手もそこそこ気持ちにゆとりがある時だ。

筆者は面白いことを提案していた。それは辛かったその日のことを日記に書くなら、3日後に書くといいという。それは3日も経てば、いいことが起こったようにも思えるからだった。

数日経てば、ものごとも客観的に見られるようになって、いい経験になったと思えてくるというが、それは当たっている。

苦しかったことも、思い出となれば、まるでいいことだったかのように思えるから不思議なものだ。過ぎ去ったことは、美しく見えたりするものかな。


同じ笑顔しかないと、それは笑顔という仮面になる・・・

2013年11月23日 | Weblog
同じ笑顔しかないと、それは笑顔という仮面になる・・・

「なぜあの人には、センスがあるのか。」中谷彰宏著より。

単に笑顔であればいいというものでもなかった。それが“いい笑顔”かどうかが問題だったのだ。今までそんなことは考えたこともなかった。

中にはつまらない笑顔もあったかもしれない。人によっては冷たい笑顔もあるようだ。誰にでも同じような笑顔というのもつまらない。

笑顔のバリエーションが持てるようになれば、いい笑顔になるようだ。それが持てなければ、笑顔という無表情だともいう。おもしろい表現だ。

ここでのアドバイスは“ただの笑顔ではなく、いい笑顔ができるようになろう”だった。これもかなり意識して練習しないといけないな。


センスのある人は「どうせ」同じということを「どうせなら」に切りかえる。

2013年11月22日 | Weblog
センスのある人は「どうせ」同じということを「どうせなら」に切りかえる。

「なぜあの人には、センスがあるのか。」中谷彰宏著より。

「どうせ」ということは、手抜きにつながっていくようだ。なんだか面倒なことに使ったりもする。いろいろなことを省略してしまうときに使っている。

「どうせなら」は逆にエネルギーが必要なことだった。たとえば、「どうせここまで来たのなら」ついでにここにも行ってみようというふうになればいいようだ。

何かを作る際にも、「どうせなら、もっと人が喜びそうなものにしよう」などと考えられれば前向きな証拠だろう。日常生活では「どうせ」のほうがほとんどかもしれない。

センスを上げるには「どうせ」を「どうせなら」に変えるといいようだ。そういえば、過去には、どうせ書くなら、自分だけのオリジナル一筆箋を作ってみようと試みたこともあったな。今でも使っているが。


日常生活で、どれだけ感動が得られるか・・・

2013年11月21日 | Weblog
日常生活で、どれだけ感動が得られるか・・・
「なぜあの人には、センスがあるのか。」中谷彰宏著より。

ここでの日常生活とは、普通に学校に行ったり、仕事をしたりしている平日のことをさしていた。リゾート施設や旅行に行けば楽しいのは当たり前だが、それだけではつまらない。

むしろ、特別なところに行かなくても楽しめることが大事だということだろう。それにはセンスがなければならない。非日常的なものだけで楽しく過ごすのは誰でもできることだろう。

むしろもっと身近にあるもので、小さいものでも、面白いものやオシャレなもの、カッコいいもの、感動できるものにいかに気づけるかというセンサーが大事なようだ。

イベントをつくりだしていくというプロセスも楽しみたい。それも個性的なものであるほど楽しそうだ。ここでの結論は“日常生活の中に、興奮できるものを見つけよう”となっていた。

最近は、近所の植物を眺めては、デジカメで撮影しているが、実に知らない植物に出会うのが楽しいと感じている。また、その際、たまたま出会った人に植物の名前を教えてもらえることもある。そんな時はトクした気もするな。


アイデアを出さなければ、働いていないのと同じだとさえ思うべきだ。

2013年11月20日 | Weblog
アイデアを出さなければ、働いていないのと同じだとさえ思うべきだ。

「柳井正の希望を持とう」柳井正著より。

実にこれはストレートな意見だった。アイデアを出そうなんて普通は考えたりはしない。よほど、提案を求められた時ぐらいしか、自分から進んでアイデアを出そうとする人は稀に違いない。

あまり難しく考える必要はなかった。それは口頭でも簡単なメモ書きでもよかったのだ。提案して実行に移すことが大事なことだった。そして、走りながら修正していけばいいという。

アイデアもすぐに出てくるわけはない。むしろ普段から問題意識を持って、何かを念頭に置いておけばこそ、自分なりの意見も出てくるものだ。

柳井氏は、上司よりも大局観を持つことを心がけるよう提案している。さらに上司の視点を超えるくらいの気概で仕事をすることもアドバイスしていた。もし、それができれば仕事も楽しくやりがいがあることだろう。


精神が入ってないサービスをされても、お客様には通用しない。

2013年11月19日 | Weblog
精神が入ってないサービスをされても、お客様には通用しない。

「柳井正の希望を持とう」柳井正著より。

これは当たり前のことだろうが、最初の部分には、次のようにもあった。「すべてのビジネスマンへ、零つ細商店の店主のつもりで働け」と。同じような仕事をしていると、ついついマンネリ化してしまう。

マンネリに陥ると、たちまち商品が売れなくなってしまうのだ。陳列がマンネリ化しているだけで、売上げは落ち込んでしまうものだ。お客側から見れば、いつも変りばえのしない店は楽しさがなく、すぐに飽きてしまう。

お客様が足を運ぶのには、商品を買うだけでなく、楽しさを感じたいからだった。常に何らかの創意工夫を凝らしていなければいけないのだ。

柳井氏は、マンネリを防ぐためには、これで満足と考えずに、常に上には上がいると自覚して仕事に取り組むことが大事だと指摘していた。自分の周囲だけを見渡しているだけではまだ不十分だということのようだ。

また、次のようなアドバイスもあった。それは、頭を柔軟にして、これまでにない方法も試してみることだった。これは実にクリエイティブなことで、時には楽しいチャレンジでもあるだろう。


役に立たないのは「評論家上司」と「友だち上司」。

2013年11月18日 | Weblog
役に立たないのは「評論家上司」と「友だち上司」。
「柳井正の希望を持とう」柳井正著より。

どちらもあまり聞き慣れない表現だったので気になった次第。評論家と聞いただけであまりいい印象はない。このような人は建前ばかり言って、部下の評価ばかりに熱中するようだ。

たとえば、「こんなことでは組織が活性化しない」などということを口にするらしい。つまり自分のことは棚にあげて、会社の批判をしてる人だ。たしかにそんなことを耳にすれば、やる気も失せてしまう。

仕事に評論は必要ではなく、成果が上がることを実行することが先決だった。友だち上司とは、会社に遊びに来ているつもりでいるというが、そんな人はいるのだろうかと疑わしい。

そして、毒にも薬にもならないような意見を言って、部下から気嫌われまいと思っているそうだ。そんな人には管理職は務まらないのだ。上司は自分にも部下にも厳しい人でなければならなかったのだ。


「マイ遺産」をどれだけ持てるか・・・

2013年11月17日 | Weblog
「マイ遺産」をどれだけ持てるか・・・

「なぜあの人には、センスがあるのか」中谷彰宏著より。

遺産にマイをつけること自体が新鮮な発見だった。一般的には世界遺産を思い浮かべるものだが、それは大多数の人にとってのものだった。

自分の場合は、場所に限らななくていいようだ。お気に入りのモノ、人、レストラン…といろいろなものが対象だった。

それは、自分が熱中できる何かの対象のようなものかもしれない。趣味やスポーツ、気に入った喫茶店のコーナー、人によってはSNSやブログも入るかもしれない。

センスのある人は、「好きなレストランはどこ」とは言わないようだ。たとえば、おはぎは、ここのものが一番好きといえることだった。つまりしっかりした自分なりの価値観(こだわり)をもっていることだった。

好きな映画ベスト3でも、好きなお好み焼きベスト3でもよかったのだ。自分にとっての本当のお気に入りを持っているだろうか、とふと考えてしまった。


フィクションが理解できないと、ユーモアのセンスがなくなる。

2013年11月16日 | Weblog
フィクションが理解できないと、ユーモアのセンスがなくなる。

「なぜあの人には、センスがあるのか」中谷彰宏著より。

ギャクにのっていけるのも、フィクションが理解できるからだった。ここには、また次のようにもあった。“「たとえば話」をどれくらい楽しめるかは、あなたのセンスや想像力がどれだけあるかにかかっている”と。

なんでも「なってみないとわからない」と答える人にはセンスがないようだ。たとえば、をもっと楽しむべきだったのだ。ユーモアのセンスは、のっていけるセンスだった。

楽しむというのは、現実にあることだけを楽しむのではなかった。センスのいい人は、どんな質問をしても、必ず自分なりの答えをすぐに出す人だった。

ここでの結論は「フィクションを、楽しめる遊び心を持とう」だった。確かにいろいろなことを想像するだけで、楽しめるしそれを実現すれば、結果的にクリエイティブなこともできるものだ。