ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

アウトプットしているのを見ているだけなら、その仕事はラクそうに見える。

2016年06月30日 | Weblog
アウトプットしているのを見ているだけなら、その仕事はラクそうに見える。

『「欲しい」と言われる男になるMUST50』中谷彰宏著より。

つまり、どんなに好きでも、仕事にしたら、それにまつわる大変なことだらけだという。例えば、旅行が好きだといっても、旅行代理店に入ると、忙しくて大変な部分だけを背負わされることになるのだ。

その大変さを知って、それでも好きな仕事なら、続けられるようだ。テレビも見ている人と出る人はくっきり分かれるともいう。

またやや似たようなことだが、人の芝生は緑に見えるという言葉があるが、それは言えるだろう。人の仕事はラクそうで、楽しそうに見えるものだ。大変なのは何も自分ばかりではないのだった。

しかし、仕事は楽しくやった方がいい結果を期待できるというのも確かだと思える。それには、その仕事を好きになることだろうな。

私たちは、錯覚、もしくは身体の感覚に支配されがちな生き物。

2016年06月29日 | Weblog
私たちは、錯覚、もしくは身体の感覚に支配されがちな生き物。

「齋藤孝の30分散歩術」齋藤孝著より。

簡単に言えば、体が爽快であれば、むしろ気分が陰鬱であることは難しいということだった。つまり、気分がいい時を過ごしたいと思えば、まず体のコンディションを整えておく必要があるといえるのだろう。

どうしても、体調がイマイチの時は、気分の乗れないものだ。一日のうちで、30分から1時間程度を、自分の健康維持のために使うということは、むしろ必要なことだった。

どうしても、年齢を重ねるにしたがって、自分の健康に対して使う時間が増えてくるようだ。経験的には、若いころにはあまり気にしなかった、健康食品などもしばしば買うようになっている。

仕事は生きること→生きていることは健康でいること→健康でいることが仕事だというときがやってくるという。そこで、歩くことを一種の楽しい仕事と考えたらどうかと提案している。まずは歩けることがどんなにかありがたいことか感謝しようと思う。

写真を撮ろうと思って歩くと、風景の見方が変わってくる。

2016年06月28日 | Weblog
写真を撮ろうと思って歩くと、風景の見方が変わってくる。

「齋藤孝の30分散歩術」齋藤孝著より。

今日もカメラを持って散歩をしてきたが、やはり何か適当な被写体を探そうという気持ちが新しい発見につながるものだ。ふだん何気なく歩いているだけでは通り過ぎてしまうような草花にも気が付く。

風景を撮るわけではないが、やはり植物でも、今日観たものと1週間後ではまったく同じものは撮れない。植物も一期一会だろう。撮る時間帯、天候、風の向きによっても違った雰囲気が出ているものだ。とくに草花は季節に敏感だ。

やはり瞬間の身近な風景をできるだけ印象深く切り取ってみたいと思っている。道草をすればそれなりに発見もあったりして楽しい散歩になる。

よい気をもらえる場所。

2016年06月27日 | Weblog
よい気をもらえる場所。

「齋藤孝の30分散歩術」齋藤孝著より。

最後の第五章のテーマは「歩いて心のエネルギーを蓄える」となっていた。筆者は歩くことで、自分の中にエネルギーを取りこめそうな場所を紹介していた。

たとえば、チアフルはエネルギーなら繁華街を歩くのが格好だった。それらは銀座、新宿、青山だった。懐かしさなら、浅草、根津近辺、人形町、隅田川沿いだそうだ。また知的な空気なら神保町だという。確かに古書店がたくさん並んでいるからそうだろう。

ここで、筆者の面白い体験が語られていた。それは学生時代、田園調布の豪邸が立ち並ぶ坂道をよく散歩したそうだ。そこで感じたのは、気圧される不快さと同時に、普通の住宅街では味わえないぜいたくさだったのだ。

これは私も何度も歩いたことがあるので、実感としてよくわかる。やはりいったんそこに行ってみなければ感じられないことも多い。

文章というのはほとんど自分の内部に蓄積された他者の認識。

2016年06月26日 | Weblog
文章というのはほとんど自分の内部に蓄積された他者の認識。

「人を動かす文章術」齋藤孝著より。

齋藤氏は今までかなりの数の著書を出してきたが、その99パーセントは自分が読んできた本から得た、他者の認識で成り立っているという。

つまり自分自身で、まったくゼロの状態から生み出した認識というのは、ごくごくわずかだと述懐している。

孔子は、自分自身の感覚とは九割以上が過去のものの継承だと知っていたという。大事なことはできるだけ多くの他者の認識を自分の認識として定着させることだったのだ。

あっという間に消えてしまうような情報を追うだけでは、自分を深めることはできないのだった。他人の話を引用し、咀嚼し、文章化して定着させるというプロセスがポイントだろう。齋藤氏は自己を深めるとか磨くより、むしろ広げるものだと考えていた。

構成力は書く力の重要な柱。

2016年06月25日 | Weblog
構成力は書く力の重要な柱。

「人を動かす文章術」齋藤孝著より。

ここで筆者は、講演会で聞いた話、教養番組で見聞きした話を、誰かに伝えるつもりで、文章に再構成することを趣味にしたらどうかと提案していた。そうすることで、知識も身につくということだろう。

また書いた文章もそれだけは張り合いがないので、友人にメールで送ってみたり自分のブログにアップしたりするべきだという。確かにそれは必要だろう。

単に書いただけではせっかくの知識や感動も埋もれてしまう。何らかの形で人に発表することが大事だった。普段自分が触れていない情報を与えてもらえるというのはありがたいことだった。

そういえば、フェイスブックでも、珍しい植物や果物をアップしたときは、初めて見ることができた、または名称を知ることができたというコメントをしばしば書いてくれる。

そういう反応があると写真を撮った自分も嬉しいものだ。知識を誰かに伝えることで、感謝され、人脈を太くすることができるようだ。

知識には、受動的知識と能動的知識がある。

2016年06月24日 | Weblog
知識には、受動的知識と能動的知識がある。

「人を動かす文章術」齋藤孝著より。

齋藤氏はこう思っているとあった。そして、受動的知識とは、知っているけれども活用できないものだった。実際われわれの持っている知識のほとんどはこれだった。

しかし、書くという作業を前提として学ぶと、インプットの仕方や気構えは驚くほど変化するそうだ。ネタが外にあっても、自分で文章にまとめることで、自分で活用できるネタにしてしまうことができるという。

さらに、そこに自分の知識や経験を絡めていくと自分自身のオリジナルなネタになってしまうのだった。これが能動的知識だった。まずは書くことを生活に取り入れることがポイントなのだろう。

クリエイティブとは、新しい意味が生まれるということ。

2016年06月23日 | Weblog
クリエイティブとは、新しい意味が生まれるということ。

「人を動かす文章術」齋藤孝著より。

ふだん何気なく使っている言葉だが、そういう意味合いがあったのだ。それはささやかなものでもよかった。そして筆者は、その瞬間を拍手で祝う習慣をつけることで、気づき力が上がるという。

文章を書くなら、そこには発見、新しい認識、気づきが盛り込まれた文章であるべきだった。まずは、タイトルも興味を持つものにすべきだった。これはつかみというものだ。

筆者はまた面白いことを言っていた。それはエッセイも企画書と同じ気持ちで書くといいという。そこには、新しい発見や認識をはっきりと打ち出してほしいからだそうだ。日常的にエッセイを書く習慣をつけることで、ものの見方もガラリと変わるようだ。

ここには、話し言葉から文章への訓練というまとめがあった。1、メモ。2、まとめる。3、エッセイ。という手順で書けばいいのだった。

文章でも、言い過ぎはむしろいいアクセントになる。

2016年06月22日 | Weblog
文章でも、言い過ぎはむしろいいアクセントになる。

「人を動かす文章術」齋藤孝著より。

これはつまり当たり前のことを書いたのでは、人の気持ちをつかめないということでもあった。そう言えば、本のタイトルや雑誌の見出しは、スポーツ新聞のタイトルはいかに読者に関心を持ってもらうかを考えて作られている。

売れるかどうかは、見出しが命だといってもいいのだろう。本の売れ行きもそれで大きく違ってくるはずだ。だから、連載が一冊の本になるときには、改題が行われることもしばしばだ。また単行本から文庫になるときにも、まったく別の本のような題名に変わっていることもある。

内容も最初から腰の引けたような、毒にも薬にもならないような文章を書いてはいけないと筆者はアドバイスしている。こんなことは、決して学校では教えてくれないものだ。

プレーが始まればひとつの戦場みたいなもの。

2016年06月21日 | Weblog
プレーが始まればひとつの戦場みたいなもの。

「人を動かす文章術」齋藤孝著より。

ここでは、おしゃべりと書くことの違いについて述べられていた。書くことは、言い訳がきかないということだろう。しゃべりならかなりいい加減なことでも、すぐに時は流れて曖昧なまま過ぎてしまう。また何の発見がなくてもその場は過ごせる。

しかし、書いたものはそれなりに責任も伴うと思われる。そこはスポーツでの試合と同様だという考え方だった。試合に出ているのに、お腹が痛くてプレーできないといっても許されない。外から見れば常にベストコンディションだと思われる。だれも同情などしてくれない。つまり言い訳はできないということだ。

文章も同じだった。「書く」ということを通して、自分の実力をさらけ出さなければならないのだ。これは厳しいというふうにも考えられる。むしろ、自分の実力を世の中に問うという気構えこそが大事なことだった。

筆者が重視するのは、書き方よりも内容そのものだった。それはものごとをどう捉え、発見は何だったかであった。ここがポイントなのだ。エッセイには新しい発見が必要だった。1、日常。2、観察。3、発見。4構成。という要素で成り立っていたのだ。

「書く生活」と「書かない生活」

2016年06月20日 | Weblog
「書く生活」と「書かない生活」

「人を動かす文章術」齋藤孝著より。

この本のサブタイトルには、“誰も教えてくれない”とあった。つまり学校では習わないという意味でもあるだろう。そうならば、読めばお得かもしれない。

さて、この「書く生活」と「書かない生活」があるとすれば、暮らし方、ものの見方に差が出てくるというのだ。

ここでは、書くとはエッセイと考えていた。そこには、単なる作文ではなく、何かしら発見があることが必要だった。そして、それを意識することで、普段の過ごし方も変わるということだった。

これは確かにそうだと思える。筆者は、エッセイ力の向上と認識力・発見力の向上は連動していると表現していた。それは書く生活を始めると、実感できるという。

そう言えば、かつてエッセイに近いものを12年間ほど書いていたことがある。その時も何について書くかを意識すると、いろいろな書物、新聞、雑誌、フリーペーパーにも目を通したものだった。やはり書いているうちに新しい発見があると嬉しかったことを思い出せる。

いつでも、どこでも、だれにでも、ホメるトレーニングをするのがいい。

2016年06月19日 | Weblog
いつでも、どこでも、だれにでも、ホメるトレーニングをするのがいい。

「もっとすごい!ホメ方」内藤 誼人著より。

ホメるというのは、技術らしい。つまり練習するほど上達することができるのだった。書道、野球、絵画、楽器・・・すべて練習次第で上達が異なってしまう。ホメることも同じだった。

ということで、相手がいなければ練習できないというわけでもなかった。「無生物」を相手にホメても良かったのだ。身近にいる動物、植物でもよかったのだ。

写真家の篠山紀信さんは、モデルをホメながら撮影を行うそうだ。相手が魚でも風景でもホメあげるというのもすごい。

ホメてのせるというこができればいいのだろう。実際に言葉に出せなければ、頭のなかでシミュレーションをしてみるものありだった。いずれにしても、好かれる人間はホメる人だった。

成功したときよりも失敗したときからのほうが、はるかに多くのことを学びとれる。

2016年06月18日 | Weblog
成功したときよりも失敗したときからのほうが、はるかに多くのことを学びとれる。

「もっとすごい!ホメ方」内藤 誼人著より。

しばしば、失敗は成功のもとともいわれるが、だれも失敗しようとしてするわけではない。日常では、意外にちょっとした不注意で犯してしまうことも多い。だからこそ、注意が必要だといえる。

悪い成績しかあげられなくても、工夫次第でホメることはできるのだった。マラソンの小出コーチは、選手が思うような成績を出せなかったときでさえ、「いやあ、俺はもっと悪いと思ってたんだ。お前、すごいよ!」とホメるとあった。

こう言われれば、怒るよりも効果があるらしい。「もっとできないと思っていたのに、すごい!」というパターンがホメ方の一つのコツなのだろう。

ホメ言葉は、相手が受け入れてくれて初めて完結する。

2016年06月17日 | Weblog
ホメ言葉は、相手が受け入れてくれて初めて完結する。

「もっとすごい!ホメ方」内藤 誼人著より。

これはまあ、当たり前といえばそれまでだろう。別にホメ言葉に限らず、話したことを相手が理解して受け入れてくれなければ、ほとんど意味はない。

つまり相手が受け入れてくれるような話し方をする必要があるということでもあるだろう。ここでは、相手が一番喜ぶセリフは何かを探ることが大事だと述べられていた。

それがすぐ見つかればいいが、結局あれこれと探すしかないだろう。そして、相手の笑顔をバロメーターにして、自分のホメ言葉がどれくらい効いたかをきちんと確認するクセをつけるのもポイントらしい。結局、いろいろとセリフを変えてみる努力が必要なことがわかる。

好かれる上司のナンバーワンは「ホメてくれる上司」

2016年06月16日 | Weblog
好かれる上司のナンバーワンは「ホメてくれる上司」

「もっとすごい!ホメ方」内藤 誼人著より。

上司であろうとなかろうと、いつも文句ばかりいっている人間には近づきたくないものだ。そんな人間は当然嫌われる。

また、逆にホメるのがうまい人は好かれるものだ。アメリカの大学の調査では、好かれる上司は「ホメてくれる上司」だった。だれもそんな上司の下で働ければ満足度も高いようだ。

二番目は、「意見を聞いてくれる上司」だった。これも納得できる。意見をしかっかり聞いてくれ、それを何らかの形にして見せてくれれば尊敬できるのだろう。

理想の監督なら、ホメるのが上手な監督で、理想の先生ならホメてくれる先生ということになる。嫌われる人は、ホメないからだそうだ。ホメるためには努力も必要なのだ。