ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

父母は何一つ教えてくれなかったし、叱られたことは一度もない。

2009年08月31日 | Weblog
「白洲正子自伝」白洲正子著より。

これは、白洲さん自身のことを語っていた。ある意味、実にすごく珍しい家庭に育ったものだと思える。自身はそれが薩摩隼人の気風だったかもしれないと振り返っている。

言葉には出さないものの、そのかわり変なことをしたら有無をいわせぬといった気配は目配せにも感じられていたという。だから甘やかせるだけの親ではなかった雰囲気がある。子どもは親の後ろ姿をみて学んだというやつだろうか。

しかし、叱られたことがないということで、両親は正子さんのわがままにはかなり我慢して付き合ってくれたようだ。それは次のエピソードでもわかる。

小学校へ入る前に、富士山へ登りたいとダダをこねたこと(その後6歳でお供と一緒に登っている)。14歳の時に一人でアメリカに行くといってゴネたこと、(4年間留学していた)。18歳の時にあばれんぼうの白洲次郎と結婚させねば家出をするとおどかしたことなどだ。

両親は結局はどのわがままも許してくれたのだった。恵まれているといってしまえばそれまでだが。こんなことからも子どもの頃から気が強かったこともうかがえる。

(うちの子供らは気が強いが親に叱られないことことはない・・・教えてもほとんど無視をする・・・困りもの。これも大いに甘えていることに違いない。親(私)がだらしないからかも・・・う~む・・・)

何事でも自得する以外に極意に達する道はない。

2009年08月30日 | Weblog
「白洲正子自伝」白洲正子著より。

白洲さん自身は薩摩隼人の子孫ということもあり、ぜひとも薩摩の示現流という剣法を確かめたかったという。祖父はこの使い手だった。ある時ようやくその稽古に立ち会うことができた。

それは初太刀の一撃に生死をかけるという攻め技の剣法だった。稽古の基本は簡単で、ただ走ってきて立木を打つというもの。しかもそのために全身を集中せねばならない。簡単な技ほど難しいようだ。

ここで驚くのはこれを朝に3千回、夕に8千回繰り返すのだ。いったいどれほどの時間がかかるのだろう。並大抵の努力では続かない。これを繰り返して足腰、筋肉が鍛えられ、また動作も敏捷になるようだ。

結局そのような修行を続けていくうちに、極意は向こうから歩み寄ってくるという考え方もあるらしい。まるで禅の修行のようにも思えてくる。

とにかくあれこれ理屈で考えるより体で覚えていくことは、日常生活でのいろいろなことにも通じていそうだ。さまざまなノウハウは言葉ではなく、自分で体得して身につけるものかな。

生まれてはじめて口にした言葉は、「バカヤロウ」・・・

2009年08月29日 | Weblog
「白洲正子自伝」白洲正子著より。

旧白洲邸の「武相荘」(ふあいそう)を訪ねたのは、今年の夏の中ごろだった。そのうち、と思っているうちに今年になってしまった。戦前に農家を買い取ってそこに白洲家は住んでいたのだ。最寄りの私鉄駅からはバスで5分ほどで、帰りは歩いても15分程度だった。

その帰りに買った一冊が、この本だった。新潮文庫の1冊になっていた。上記フレーズはかなりのインパクトがあったが、それも読むうちに納得してくる。白洲(正子)さんは子どもの頃、いつも不機嫌だったようだ。

3歳になってもほとんど口をきかず、むしろ自閉症に近かったのではないかと、後に書かれている。生まれつき、勝気で負けず嫌いの性分だったらしい。その原因は父方、母方の祖父とも海軍の軍人で「この子が男の子だったら、海軍兵学校に入れたのに」とふた言目には残念がっていたのを耳にしていたからでもあった。

そして気に入らない医者が診察に来た時、ひと声叫んで、布団を蹴って逃げ出したことさえ覚えている。実に80年近い昔の幼い頃のことをよく覚えているものだなと感心してしまう。この本の中では、何度か度胸のよさは薩摩隼人の血が流れているからだとも述懐している。

また、万事についてそんな調子で、男の子としか遊ばず、自分のことを「ボク」といっていたようだ。人づきあいが悪く、いつも仏頂面でいたのは、裏を返せば甘ったれに過ぎないと後に自己分析している。決して周囲のせいにはしていない。

それだけ裕福だったという証拠でもあるかもしれない。しかし、生まれつき恵まれた環境で育ってしまうとそれが当り前のようになってしまうのだろうな。普通の人ならそれに流されてしまうだけかもしれない。その後かなりの名を成したということは、自分にもそれなりに厳しく生きてきたとも言えそうだな。

「こいつは将来すごく悪くなるぞ」

2009年08月28日 | Weblog
「朝日新聞」夕刊2009.8.24付けより。

これは“人生の贈りもの”というコラムのなかで、俳優の仲代達矢さん(76)が父親が亡くなる直前に言われた言葉だった。それにしてもインパクトがある言葉だ。その時仲代さんは7歳だったという。

ふつうこれほど幼い頃の父親の言葉などそうそう後まで覚えているものではないだろう。幼い頃父親を亡くし、さらに母親も病弱だったこともあり戦前戦後を通じて困窮を極めたと語っている。

終戦を迎えた時は中学1年で、周囲の大人たちが8月15日を境に、「鬼畜米兵」から「親米派」に変わったのを見て、「人間は信じられない、特に大人は信じられない」と子ども心に思ったという。

そして、絶望と困窮でやくざになった人もいたそうだが、仲代さんは父の言葉があったので、そうはならなかったと述懐する。「おれは絶対悪くならないぞ」と子ども心に誓ったことが大きかったらしい。

後に俳優になった際に、演技をけなされても「何をいっているんだ」と思える強さも培われたという。その意味では、父は偉大な教育者だったかもしれないと語るが、よほど父親の言葉が身にしみていたのだろう。

私自身は幼い頃の親の言葉はすぐには思い出せないが、この機会に戦前戦後を通じてかなり苦労が多かったにも関わらず、何不自由なく育ててくれた両親に感謝せねばと思った次第。

プラスマイナス2秒までは許せるが・・・

2009年08月27日 | Weblog
ホームページ「どらく」より。

高橋尚子さんの選手時代のことを語っていたが、プラスマイナス2秒とは1キロを走ってのことだった。それが3,4秒違ってくると実に厳かったようだ。コーチに「4分ペースで40キロをひっぱって」といった場合の許せる範囲がプラスマイナス2秒だったのだ。

「命をかけて練習しているんだから、ちゃんとひっぱって!」というくらいストイックだったという。というのも3,4秒の違いだと40キロ走っていれば1,2分も変わってきてしまうからだった。

確かに計算上ではそうだろうが、それだけ自分に対して厳しかったということだ。しかし合宿中に自分でそれをクリアー出来きず眠れない状態が続いたという。

結局そのプラスマイナス2秒という範囲で走れないことで、現役引退を決意したようだ。自分らしくない走り方では妥協できなかったのだ。その後解説の仕事をしてから、ほかの選手のインタビューをして高橋さんは驚いたことがあった。

それは自分が大会の前には相当の距離を走っていたことに気付いたからだった。自身は本番前には40キロを12,3本走るのが当たり前だったという。

ところが、よく走っている選手でも4本ぐらいだったようだ。振り返ってみて「もっと自分に甘くてもよかったのかなぁ」と語る。夢中になってやっていると、たとえそれが厳しくても当たり前になってしまうものかな・・・

瞑想のような時間、自分と向き合うひととき。

2009年08月26日 | Weblog
ホームページ「どらく」より。

先日、世界陸上選手権(ベルリン)は終了しましたが、日本人にとってもっとも注目されたのは女子マラソンではないでしょうか。最終のスパートでは中国の白雪選手に差をつけられてしまったものの、尾崎好美選手はみごと銀メダルに輝きましたね。

そのテレビ解説は増田明美さんと高橋尚子さんでしたが、上記フレーズはインタビューのなかでの高橋さんの言葉でした。高橋さんは今年3月に現役を引退したばかりなのに、もうテレビキャスターなどで活躍していますね。

上記は「どうしてそんなに走ることが好きなんでしょう?」という質問に対しての答えだった。その前には、「走っているといろんな風景を見ることができるし、いろんな人に出会えるから」とも述べていた。

あんなに早く一生懸命に走っていながら、風景も眺める余裕があるとは驚きだった。またそれくらいの余裕がなければ、世界のトップレベルで活躍できないのかもしれないな。かつてシドニー五輪で金メダルをとった翌日も走っていたというから、走ることが身に沁みついているのだろう。

走るほど気持ちがよくなり、考え方もポジティブになっていくという。やはり好きなことに熱中すればするほど、そのほかの面でもいい影響が出てくるということでしょうかね。

さらに驚いたことには、どのコースも1回走っただけで、1キロ単位で景色を把握してしまうという。とはいっても地図は苦手らしい。アスリートはやはり理屈より体で覚えてしまうのだろうな。

今では走る楽しさを伝えることが仕事だと考えているようだ。市民マラソンランナーがどんどん増えているようですが、私の周りにはそんな人は見当たらないが。

自分の子供のように育てていくことでキャラクターは成長する。

2009年08月25日 | Weblog
「メトロミニッツ」2009.9月号より。

ここでは“プロダクトストーリー開発者の声”と題して電子マネーのnanaco(ナナコ)について書かれていた。その中でのタイトルが上記フレーズだった。ナナコのキャラクターはキリンだった。

そもそもナナコというネーミングはどこからどう出来上って来たのかさえ知らなかった。ナナは「セブン&アイ・ホールディングス」の7をイメージしていたのだ。コはコインをイメージさせたかったからという。

こうして出来上がったものを見てしまえが、「な~んだ」というものでも、そこに至るまではかなりの苦労が伴ったようだ。結果だけをみれば、コロンブスの卵的な発想はかなり多そうだ。

またそのキャラクターとしては、キリンが左を向いた姿勢から考えたようだ。やはりキャラクターが定着するまでにには、子供を育てるのと同じような感覚らしい。単に可愛い、面白いだけでも短期の人気で終わってしまうからだ。

現在、ナナコはサービス開始2年間で(2009年7月現在)850万枚を突破しているという。電子マネー取扱い額の実に4割強のシュアを誇っている。ところで、電子マネーという言葉を5年前に聞いた時には、まだまだ身近には感じられなかった。

ところが、数年前にパスモに切り替えてから実にその便利さに自然と慣れてしまった。特に電車やバスに乗る際には財布の中の小銭を探さなくても済み、改札時の時間の節約にもなっている。また小銭を出すのが面倒なちょっとした買い物でも使ってはいる。

電子マネーといえば、エディ、ナナコ、ワオン、パスモ、スイカ、イコカなどを思いつくが、どれも略語3文字だというのは、やはり語感、親しみやすさ、覚えやすさなどからネーミングされたのだろうな。でもその3文字に凝縮するまでにはどれほどの時間と人たちがかかわっていることだろうか・・・。

ナナコの場合開発時には、ネーミングの数だけキャラクターが存在したというから驚きだ。私はまだナナコは持っていないが、当分の間はパスモだけでいいかなぁ・・・。

無理に不得意なことを改善しようとせず、得意技でそれを補えるような工夫・・・

2009年08月24日 | Weblog
「朝日新聞、土曜版」2009.8.22付けより。

今売れっ子の勝間和代の“人生を変えるコトバ”というコラムのなかで目にしたフレーズ。これは仕事上のことだと思われるが、誰にでも得手不得手はあるだろう。

若い頃なら苦手なことを克服するために、悪戦苦闘するのも個人の成長ということを思えば、それなりに意味はあることに違いない。しかし、ある程度の年齢を経た中年以降なら、そのために貴重な時間を費やすより、むしろそれまでの自分の特技や長所を仕事に生かした方が効率的かもしれない。

勝間さんの自己分析では、極端なくらい得意技と不得意なことが分かれているという。得意技は一人で考えたり、情報をコツコツ集めて分析したり、わかりやすく文章や概念説明に落とすことだった。

また一方、苦手なことは、多人数の前で社交的に振る舞ったり、人の名前をしっかり覚えて、きめの細かい気配りをすることだったようだ。あるとき「得意技を生かせば幸福になれる」という言葉知ってから、むしろその通りの姿勢で仕事に臨んだという。

仕事を得意な方法で遂行できれば、それなりの効果もあるようだ。得意技で楽しめた方が説得力も増すだろう。またそうすることで少しでも幸福に近づけるなら、まずは自分の得意技を確認することがスタートかな・・・

江戸時代に広まった夏の風物詩。

2009年08月23日 | Weblog
「相鉄瓦版」2009.8,9月号より。

この号の特集は「水と親しむ夏はいかが?」となっていた。ここでは泳ぐ金魚を眺めて涼を感じることについて述べられていた。それは江戸時代に広まったという。実にゆったりとした時間の流れさえ感じられてくる。

最近では一般家庭ではガラスの金魚鉢に入った金魚をみることはほとんどなくなった。ところが、大きな文房具屋で暑中見舞いハガキの絵柄をみると、そこには必ず金魚が描かれている。そんなところにも金魚は夏の風物詩の一つだったという名残りが感じられる。

また以前は地元の夏祭りには、必ず金魚すくいがあったものだが、最近はどうなのだろう。たとえ、いく匹かすくってきたところで、それをきちんとペットとして飼育していくには心構えが必要だろうな。

子どもの頃には自宅でも金魚鉢に金魚を飼っていたこともあった。しかし、それほど長く飼い続けることはなかったよだ。かすかではあるが、金魚売りという人が売り歩いていたことも記憶にはある。実にのどかな時代だった。

ここには東京・本郷で江戸時代の昔から300年以上続く老舗金魚問屋の七代目の女将の話があった。その方によると、金魚が中国から日本へ伝わったのは室町時代で、養殖が始まったのは江戸時代だった。そのころは当然ながらぜいたく品として、一部の上流階級のみで珍重されていたらしい。

その後、養殖方法が確立されると、価格が下がって一般庶民にも広く親しまれるようになったという。昔ながらの夏の風物詩といえばすぐに、浴衣、花火、うちわ、扇子、風鈴や金魚などが思い浮かぶが、エアコンが当たり前で便利な世の中になっても、日本の伝統として次の世紀にもずっと残ってほしいものだな。

日本では珍しい「アクアソムリエ」という資格・・・

2009年08月22日 | Weblog
「相鉄瓦版」2009.8,9月号より。

まず、ソムリエとい聞いただけで、すぐにワインを連想してしまう。最近は野菜のソムリエなどもあるようだが。アクアつまり水のソムリエは初耳だった。これはイタリアの資格のようだ。要するに水選びの達人ということだった。

この資格を持つ山中さんという女性は、水を習慣的に飲むことの大切さを多くのにとに伝えたいという。そういえば、普段から意識して水を飲むという習慣はなかった。喉が渇いた時に飲む程度のものだ。

山中さんのソムリエとしての役割は、ミネラルウォーターのラベルに記された分析結果などの情報を読み取り、それぞれの人に合うミネラルウォーターを案内することや、料理との相性などについてアドバイスをすることだそうだ。海外の有資格者の多くはホテルやレストランの関係者とのこと。

軟水と硬水はどう違うのだろうか。これは水に含まれるカルシウムやマグネシウムの含有量で決まるらしい。ゼロから100ミリグラム未満が軟水、300ミリグラム以上が硬水で、その中間が中硬水と呼ぶらしい。とにかくいろいろ飲み比べて自分に合うものを探したほうがいいという。

人は一日に1リットルは水を飲んだ方がいいというが、なんだか味気なくて飲めそうもないが。コップ1杯の水を7,8回に分けて飲むのがいいらしい。というのも、人間の体は30分で200ミリリットルしか水分を吸収できないらしいからだった。とくにこの猛暑では、積極的に水分を補給しないと体が、持ちませんね。


人生を変える訪問・・・

2009年08月21日 | Weblog
「朝日新聞、夕刊」2009.8.17付けより。

一面のコラム「ニッポン人脈記」では“清張の「昭和」”と題した記事があり、その中のワンフレーズだった。実に何とも重たい訪問だろうと思った次第。作家の森村誠一氏の言葉だった。氏は松本清張さんの家を2度たづねていた。そのどちらもが人生を変えるほどの訪問だったと述懐してる。それはいったいどんな訪問だったのだろうかと気になる。

一つ目は、ホテル勤めのかたわらに書いたエッセーが発売される直前だった。ある人に紹介されて訪問したものの、松本氏は森村さんに目もくれずに、ほとんど紹介者とばかり話していたようだ。約束の面会時間は5分だった。そこで、森村氏は「先生のホテルの描写にはミスがあります」と割り込むと、初めて森村さんに目を向けたという。

そして、ホテルのチェックインの様子などについて、清張さんは森村氏から2時間も取材したという。その後上機嫌で「本を置いていきなさい」と言ったようだ。それから2日後に60字ほどの推薦文が届いたという。その本が売れたことで、森村さんは本格的に作家を志したのだった。

二つ目は、それから4年後に「高層の死角」で乱歩賞を受賞したとき、選考委員の一人だった清張邸をみやげを持って訪問していた。ところが「アポなしのやつには会わん」という声が奥から聞こえてきたのだ。しかし夫人に引っ張られて玄関口に出てきた清張さんは「まあ、頑張りなさい」とひとことだけ言って奥に消えてしまったという。

つまり森村さんのことは眼中になかったのだ。その時、天文学的距離感を思い知らされたという。そして、駅までの帰り道、悔しくて涙が出たと述懐している。それをバネに森村氏は数百冊のベストセラーを生んだのだろう。確かに2回の訪問が人生の節目にかかわっているようだ。凡人の私などにはそんな人生を変えるほどの訪問を思い出すことはできない・・・な。

「最近何かおもしろい本読んだ?」

2009年08月20日 | Weblog
「読書力」齋藤孝著より。

“おもしろい”本とは、ある意味自分にとってためになった本、参考になった本ということだろう。“面白い”本はその時だけ楽しい娯楽本ということになるのだろうか。勝手な解釈だが。私の場合、おもしろい本ほど線を引くページ数も多く書き込みも多い。

齋藤氏が大学時代はこの「最近何かおもしろい本読んだ?」が何気ない挨拶のような言葉だったらしい。私などほとんど本を読んだ覚えがなかった。むしろ、中学生ごろにはいろいろ読んでいたかもしれないが。

齋藤氏は今大学で教員をしているが、学生たちには「会ったら挨拶代わりに、今読んだばかりの本や読んでいる本の話を必ずするように」と言っているらしい。それは自身の経験から有益だったからだろう。

読んだ本のことを人に話せるということは、しっかり理解できたという証拠だろう。自分が楽しめた本については人に話したくなるものだ。人に話すことで自分の記憶にも残りやすくなる。

「最近何かおもしろい本読んだ?」は自分に問いかける言葉でもあるかな。まず自分が幅広く読んでいなければ人にも聞けないか。今ならたくさんのフレーズが気になったこの「読書力」を挙げてもいいかな。

話し言葉と書き言葉の関係はピンポンと卓球の関係に似ている・・・

2009年08月19日 | Weblog
「読書力」齋藤孝著より。

このフレーズも実に強引だが面白い!つまり温泉場にはよく卓球台が置いてあって、そこで風呂上がりにやるのがピンポンだったのだ。しかし「卓球」ともなるとレベルが高いものをイメージしていたのだ。

ピンポンの音はポ~ン、ポ~ンというリズムで、卓球はカンカンカンという速いテンポのラリーが続くものだというたとえもわかりやすい。筆者はピンポンと卓球を別ものとしてとらえていたのは面白い。

話し言葉はピンポンなら、書き言葉は卓球にあたるという。つまりピンポンは大して練習しなくても遊びとして楽しめるレベルで、卓球はしっかり基本の練習をしないと試合にならないということなのだろう。

誰でも小中高と学校に通っていれば、ある程度のことは話せるものだが、しっかり書くことはそうそう簡単ではない。たとえば、いきなりあるテーマで小論文を書いて下さいと言われたら緊張して書けないだろう。

やはり練習が必要なのだ。読書をたくさんするというのは、卓球部に入るのと事情が似ているようだ。意識的な練習(読み、書き)があって、初めて技は身についていくものなのだな。

実は作られてすぐよりも半年程たってからの方が味が染み込んでおいしい・・・

2009年08月18日 | Weblog
「メトロポリターナ」2009.8月号より。

このあとには「それを“缶熟”と言います」とあった。半分は本気で半分はダジャレだ。しかしこれは缶詰研究家が言っていることだから間違いないだろう。

とはいっても、逆にそうそう新鮮な缶詰というのもあまり聞いたことがないが。ここでは暑い季節にはビールが美味しいからそのつまみに缶詰もあるよ、という提案だった。

そういえば缶詰などをつまみにしたことはなかった。しかも、ここでは世界の缶詰で楽しむ“ワールド食ツアー”という言葉まであった。ビールを片手に世界旅行気分まで楽しめるようだ。

海外の缶詰はその国の言葉で書かれているから内容は分かりにくい。だからこそ開けて口に入れたときの楽しみがあるという。そんなドキドキ(缶?)感は缶詰でしか味わえそうもない。

このコラムの最後には「缶詰は普段の家飲みを盛り上げてくれるエンターテイナー」とあった。かなり大げさだが、そうかもと思えるほど面白いコピーにも思えた次第。

日本のキャラ弁に近いコンセプト・・・

2009年08月17日 | Weblog
ウェブサイト「百式」2009.8.10より。

この日は「見た目も楽しめるサンドイッチいろいろ」と題してアメリカのファンキーランチというサイトを紹介していた。そのサイトのギャラリーを覗いてみるといろいろと作品が見られるが、日本のキャラ弁からの発想ではないだろうかとも思えた次第。

キャラ弁は日本ではブログの一つのジャンルともなっているようだ。全国の創作大好き主婦たちが毎日のようにいろいろなキャラクターで楽しそうなお弁当づくりに励んでいる。そして、それを写真に撮ってアップし紹介している。

このような創作弁当はまるでアートにさえ思えてくる。中にはまるでキャラクターが動き出しそうなものまで作られている。いつも傑作を見るたびに感心させられるが、同時にかなりムダなおかずの部分が出てくるのではないだろうか、と余計な心配までしてしまう。

日本のキャラ弁は結局お弁当に詰めるので平面的な作品になるのに対して、サンドイッチの場合はお皿に盛りつけるため、場合によってはかなり立体的な作品に仕上げることもできそうだ。いずれにしても、芸が細かいのは日本のキャラ弁に軍配があがる。

キャラ弁というよりむしろ弁当アートといってもよさそうだな。食べてしまうのがもったいないと思える作品でも、食べてしまわなければもっともったいない。というわけで、写真で残しておくのでしょう。これからもこのジャンルのブログは人気が衰えないだろうなぁ。

サンドイッチの作品は下記URLへ。
http://www.funkylunch.com/