ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

パソコン操作が一番よいリハビリになるのでは、・・・

2010年01月31日 | Weblog
「朝日新聞」2010.1.30付けより。

生活面の“男のひといき”というコーナーの投書で目にしたフレーズだった。この投書をされたのはMさん(54歳)で、4年前に(何らかの病気かケガで入院していたが)病院を退院された直後からブログを書きはじめたという。

当時は左手の指が思うように動かず、一つを書くのに4,5時間かかったという。しかしブログは継続していたようだ。それはパソコンの操作が一番のリハビリになると感じたからだろう。しかし実に根気のいる作業であったことが想像される。

書いているうちにさまざまな病気を抱えた方々との交流で、同じように苦しんでいる人がいることを知って、仲間が増えたと語る。この交流を通じてお互いに励ましあうこともできたようだ。

継続した成果があり、今では、以前と変わらないくらいに回復したと語っている。そして、数日前にはブログも1千回に達したという。これはきっと大きな自信につながることだろう。ノートに綴る日記と違って交流があり、励まされたりも可能なところがブログのメリットかも知れない。

指先の回復とともに、国内外にブログ仲間は数えきれないほど増えたと喜んでいる。また、ブログを書かない日にも「どうしてますか」などとコメントが入り、そんな仲間には感謝しているところが素晴らしいと感じた次第。

身銭を切ることは、自分自身を磨く方法でもある。

2010年01月30日 | Weblog
「遊びは知的でなくてはならない」日下公人著より。

まずは、人におごるということについて書かれていた。上手におごるということは、身銭を切るということだという。まあそれは当然のことだろう。ここにはおごり方のうまいある銀行の役員の話があった。

銀行は出世競争が激しいところで、足の引っ張り合いもあるようだ。(もちろんそんなんことは銀行に限らないだろう。)銀行の人事は加点法より減点法になりがちだそうだ。ちょっとした失敗でも足を引っ張られてしまう。

しかし、先ほどの役員氏はふだんから部下、得意先、同僚におごることでそれを切り抜けたという。かなり無理をしたようだが、身銭を切ることが出世に結びついた例だった。ゴマをするというのとも異なっているのだろう。

仕事や付き合いで、身銭を切るっていうことは、それなりに真剣になるということではないだろうか。もしそれが会社の経費でやっているなら、たとえうまくいかなくても自分に痛みは感じないから、甘さが出てくることも考えられる。

そういえば、数日前のランチは競馬で勝ったからといって、職場の先輩におごってもらったな。身銭を抵抗なく切れるにはそれなりに訓練も必要なようだ。(何かお返しせねば・・・)

“まわり道”を持つことが、いろいろなアイデアを生みだす。

2010年01月29日 | Weblog
「遊びは知的でなくてはならない」日下公人著より。

筆者の知っている範囲では、仕事のできる人はあまり忙しい、忙しいなどとグチをこぼす人はいないらしい。そういう人は時間管理ができていて、きっちり遊びタイムも作っているようだ。

本田技研工業の精神は、“よく遊び、よく学べ”だった。仕事ができる人は過密なスケジュールの中から、時間を見つけ出している。日下氏は“忙しい人ほどよく遊ぶ”という印象をもっているようだ。

仕事に打ち込んでいれば、自然と仕事もうまくいって、うまくいけば遊び時間もとれるということだった。逆に仕事をちゃんとしていなければ、やり直が増えて、遊び時間もなくなってしまう、ということもいえる。つまり悪循環かも。

筆者はまた、その遊びというまわり道が、人間の幅を広げるというが、それも納得できる。さらにそんなまわり道をすることで、新しい発想も可能になるのだろう。

ここにダイオードを発見した江崎玲於奈氏の例があった。ダイオードはある物質から“混ざり物”を取り除こうとしたときに、反対に“混ざり物”を増やした結果、発見した成果だったのだ。

能率や効率ばかり考えていると、意外に素晴らしい発見にたどりつけなかったりもするのかな。実際に仕事でも、直接仕事とは関係なさそうな雑学や雑談が意外にも役に立ったりもするし。

ちょっとしたおしゃれも、“遊び心”をつくる小道具。

2010年01月28日 | Weblog
「遊びは知的でなくてはならない」日下公人著より。

まずは、ある化粧品会社のアンケート結果の紹介があった。女性に「なんのために化粧をするのか」という質問があり、その結果「男性に見せるため」「女同士のライバル意識」「自分自身が楽しむため」が、それぞれ三分の一ずつを占めたという。

つまり化粧すること自体が楽しいということもあるようだ。化粧をすることで気分はかなり変わるということだろう。また単なるファッションばかりではなく、テレビではよく美容整形を用いたビフォー&アフターなどの番組もあるが、術後にはまるで性格まで明るく変わってしまう人もいる。別人に生まれ変わってしまうようだ。そのギャップが恐ろしいほどでもあるが。

男でも休日にひげを剃ったり整髪して、新しい洋服や靴を身につければ、家にいるのがもったいなくもなってくる。ちょっとしたおしゃれが心を外に向けてくれたりもするものだ。(とは言っても、休みの日には身だしなみを揃えるのも面倒な私もいるが・・・)

まあ休みの日でも、家でごろごろしているよりも、街に出かければそれなりに予期しなかったおもしろい風景に出くわすかもしれない。そういえば小さなことだが、地元のホームセンターに行った時、そこでけっこう美味しいたい焼きを見つけたりもしたものだ。

ちょっとしたおしゃれをするという演出で、遊び心が生まれてくることは本当だろう。仕事着のスーツ姿じゃアイスクリームの立ち食いはしづらいが、普段着だったらそんなこともかなりお気楽に楽しめるか。

どんなときでも、不完全になる“勇気”を持つことが大切・・・

2010年01月27日 | Weblog
「プレジデント」12010.2.1号より。

これは“究極の時間術「棚上げ・不完全法」”というタイトルで釜田浩毅(京大大学院)教授が語っているなかで見かけたフレーズだった。理系の釜田さんによれば、文系人間の多くは完璧主義の落とし穴に陥りやすいのではないかという。

たとえば、難しい古典や英文では、すぐにはわからない部分は後回しにして、つまり「棚上げ」して時間と手間を省いていったほうが効率的だという。しかし、こんなことは学生時代の試験では当たり前のことだったろう。ところが仕事では、なかなかそういうことを忘れてしまっているものだ。

またもうひとつの「不完全法」とは、完璧な達成よりもむしろ時間、期限を守ることを優先すべきだという。ここでは研究論文発表を例に挙げている。つまりたとえ100%のデータが揃わなくても、論文は先に発表したほうが勝ちなのだ。

実際の仕事も同様で、いくら完璧にできたからといっても、期限の後だったら全く価値や意味もなくなってしまうだろう。代金の支払いや納期も一日ずれ込んだりしたら、とんでもないことになってしまうことも多い。一度失った信用を取り返すのは大変なことだ。

釜田さんをはじめ理系の研究者は、常に仕事の質と期限のバランスを念頭に置いて仕事をすすめているようだ。不完全でもいいという勇気は、いい加減を「良い加減」と置き換えて考えられるかどうかなのかな・・・

ライバルは自分を高めるためのツールと思え。

2010年01月26日 | Weblog
「プレジデント」2010.2.1号より。

(前日のつづき)
林成之教授によれば、北京五輪での北島選手へのアドバイスで難しかったのは、最大のライバル、ハンセン選手(当時100メートル平泳ぎの記録保持者)の存在だった。

人間は結果を求めると、持てる能力を十分に発揮できなくなるらしい。だから、スポーツでいえば「敵に勝とう」と思った瞬間に、能力にブレーキがかかってしまうという

脳には3つの根源的な本能があるようだ。それらは「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」というものだった。そこで、それらに逆らうことをやると脳のパフォーマンスは急激に落ちてします。つまり「敵に勝つ」は「仲間になりたい」という本能とは真っ向から逆らう考えだったのだ。

林氏は北島選手に「ハンセンをライバルだと思っちゃいけない。自分を高めるツールだと思いなさい。・・・・水と仲間となり、ぶっちぎりの、感動的な泳ぎを見せる舞台と思いなさい」とアドバイスしたという。

先に結果を求めるよりも、むしろ損得抜きの(自分の確立されたスタイルでの)全力投球こそが、最高の結果を生むということを教えてくれたのだろうな。(よし、これで明日からも頑張ろう!)

「私はコツコツ努力するタイプです」と言う人を、私は信用しない。

2010年01月25日 | Weblog
「プレジデント」2010.2.1号より。

さらにこの後には、“その言葉を聞いたとたん、「コイツはダメだな」と思ってしまう。”と続いていた。こう述べているのは、2008年北京五輪の競泳日本代表チームの結果に貢献した(大学医学部教授などを経た)林成之氏だった。

そうは言うものの、努力しない人間よりは、コツコツ努力できる人間のほうがいいに決まっている。ところが林氏の経験からは、そういう人が大きく成長したり一流になったことはなかったそうだ。

むしろ、一流選手になるほど「まだまだ努力が足りない」「まだまだたくさんの課題がある」と謙虚というより自然に口にするそうだ。そのために決してコツコツ努力するとは言わないらしい。

コツコツとは一歩一歩着実に、ということでその言葉の背後には「失敗しないように慎重に事を運ぼう」という意識が隠れていると指摘する。失敗するかもしれないという否定語は、結果的に脳の働きにブレーキをかけてしまうらしい。

つまりそんなことから、コツコツやるという人は、現在自分が持っている以上の力を発揮することが難しいようだ。一流選手は常に高い目標を掲げて全力投球しているからこそ、「まだ足りない」と自然と口に出てくるのだった。スポーツに限らず仕事で一流の人も同じなのだろう・・・な。(コツコツさえできない・・・自分に喝!)

「仕事は選べないが、仕事のやり方は選べる」

2010年01月24日 | Weblog
「プレジデント」2010.2.1号より。

この号の特集は“24時間の鉄則”となっていた。数日前にこの1冊を購入したのは、あるお知り合いの方(70代)が登場していたからだった。またこのフレーズ自体は、別のビジネス書「フィッシュ!」に掲載されているようだ。

さて、組織に属している限り、仕事を自分で選んでやることはそうそう簡単ではない。とくに若いうちはそうだろう。また言われた単純作業を命じられたりしたら、面白味も少ないものだ。

しかし、考え方によってはちょっとした創意工夫をこらせれば興味深くもなったり、やる気も出てきたりするもの。また従来とは異なる方法はないものだろうか、とかもっと時間短縮できないかなどと考えてもいいのかもしれない。

今これを書きながら感じたのは、仕事上でのちょっとした効率的な思いつきもそれを継続すれば自分のスタイルになると思ったことだった。たとえば、個人的なことだが、仕事で使っている数冊のファイルを例にあげてみよう。

通常ある資料をファイルにとじこんでいるが、かつては項目ごとにインデックスをつけておいた。しかし、最近ではそのインデックスをやめて、そのファイルの表紙に項目のタイトルを縦にメモすることにしている。それで、ファイルの表紙を見ただけでどの分冊かまた必要な個所はどのへんか容易に見当がつくようになっている。

ここでは、習慣化するためには、その手段そのものを好きになることだとも述べてあった。たとえそれが効率的なことだとしても、ちょっとでも億劫だと思えば継続は難しい。いつも思っていることだが、仕事は自分なりに工夫して少しでも楽しんだもの勝ちかも。

落葉樹は四季を舞台にドラマを演じてみせる。

2010年01月23日 | Weblog
「パコマ」2010.2月号より。

先日地元のホームセンターに行った時に置いてあったフリーペーパーだった。上記はその中で、“柳生真吾・流 わくわくガーデニング”というページで目にしたフレーズ。この人の親父さんが役者だからというわけでもなだろうが、1本の落葉樹を役者にたとえているところが新鮮に思えた次第。

中にはこの寒空の下で花を満開に咲かせているロウバイや寒ザクラなどもあるが、今はほとんどの落葉樹はすっかり冬の眠りについている。冬の太陽はその枝の隙間からたっぷりと光とぬくもりをを地面に落としてくれている。

3月になれば、木々は一斉に芽吹いてくる。そしてつぼみを作って花を咲かせる。初夏にはまぶしいばかりの新緑が木を多いつくす。夏には涼しい木陰を作ってくれ、実なども見られる。秋の紅葉も目を楽しませてくれる。そして、冬には裸木となった姿を見せる。

こんなしっかりしたサイクルを毎年繰り返しながらも、木々は少しづつ成長していく。樹木とくに落葉樹を見ているだけで季節感を感じられる。しかもそれらの名前を知っていればもっと楽しめるだろう。

そして、柳生さんは木を植えたり移植するのは冬が最適だとアドバイスしてくれる。なお、ここでのタイトルは“落葉樹が1本あると、幸せになれる!?”となっていたが、まさにその通りだとも思える。

見栄と虚栄とハッタリの世界。

2010年01月22日 | Weblog
数日前のある方との会話より。

仕事上のつきあいで、5、6年前からお知り合いになった方に六本木でクラブを経営されていたママさんがいる。その世界で30年以上も生きてきた方だった。しかし昨年、お店がある地区の再開発で店をたたまざるを得なくなってしまった。

そして雑談の中に出てくる「見栄と虚栄とハッタリ」というフレーズがあまりにも印象的だった。私がお会いする時はいつも普段着で化粧もほとんどしていない。そのため決して派手には見えない。しかし、お店のお客さんの前では最高級の物を身につけている。

それはお客さんに信用してもらうためでもあるという。見るからに安っぽいものを身につければそれなりにしか評価してもらえないからだ。お客さんの中には、全身を眺めて今日のママの身に着けている宝石、腕時計などは○百万円だな、という人もいるそうだ。

また車はベンツの最高級車に乗って通勤していた。最近はBMVに変えていたが。彼女によれば、見栄と虚栄とハッタリがなければやっていけない世界だと笑いながら語っていた。しかし、それも店が立地する場所によりけりだそうで、都心から離れたところでは、逆にお客さんより高級そうなものは身につけられないという。

また自宅を出る際も近所の目があるので、あまり高級品を身につけることは控えているそうだ。その世界でずっとやってきた方の話は説得力があってけっこう面白いものだなぁ。

発芽しなくてもいいからアイデアの種を拾っておくこと。

2010年01月21日 | Weblog
「もったいない主義」小山薫堂著より。

まず、「アイデアの種」とは、氏が目にした「なんか面白いな」という情報のことだった。さらに筆者は知らず知らずのうちに、“錬金術的発想法”をしていた、とある専門家から言われたそうだ。

つまり、それは外から入ってくる断片的で一見価値のない情報を即座に価値ある情報に変えてしまうことだった。かなり特殊な能力だとも思えるな。

いろいろなことに関心を持っているうちに「これとこれがくっついたら面白い」と引き合わせる作業を無意識のうちにやっているそうだ。これも「もったいない」という気持ちがアイデアを生んでいることなのだろう。

あとがきの部分では、次のようにも語っていた。「日常の小さな失敗を“無意識のごみ箱”にすててしまうのではなく、“もったいないのガラクタ箱”にストックしておくことが大切なのです」と。

小山氏は放送作家の他にも、ホテルのアドバイザー、脚本家、絵本作家、プランナー、大学教授といろいろな肩書で仕事をしている。だからこそアイデアが広がっていくのかもしれないな。

なんでもないものを輝かせて見せるのが「ブランド」。

2010年01月20日 | Weblog
「もったいない主義」小山薫堂著より。

筆者が大学でモデル授業を行った際に「ブランドってなんだろう」ということについて学生たちと一緒に考えることにした。その際に使ったのがカレーだった。実際にただのありふれたカレーを用意して、食べたい人?と言った時には誰も特別な興味を示さなかった。

次に一人の年配の女性を登場させ、「このカレーを作った人です」と紹介したのだった。しかもかなり前から同じこのカレーを作っているという。小山氏とのやり取りで、家族で誰が一番このカレーが好きかと問えば、次男だとの返答だった。

そしてその次男はいまアメリカにいるとのことだった。いろいろな質問からこの女性の名前は鈴木と言って息子は野球をやっているとのことがわかった。

そして、小山氏は「こちらはイチロー選手のお母さんで、『世界一、おふくろのカレーが好きだ』といったそのカレーを作ってもらった」とタネ明かしをしたのだ。それから、「このカレーを食べてみたい人いますか?」と言うと今度はすごい勢いで手が挙がったという。

要するにカレーの物語に共感したり感情移入したからこそ食べたくなったのだった。つまりこれが「ブランディング」でもあったのだ。外見は同じように見えても、よく知っているマークやロゴを見つけると、その商品が輝いて見えたりするもの。それが製品の信用でありブランドだったのだ。

攻撃精神がないと遊びもさびつく。

2010年01月19日 | Weblog
「遊びは知的でなくてはならない」日下公人著より。

ここでは飯田亮(セコム会長)の話があった。飯田氏はビジネスマンの仕事に対する態度を2つに分けていた。それらは攻撃型と受身型だった。「仕事は攻撃型であれ」というのが氏の主張だった。

たしかに、同じ仕事も受身でやっているうちは面白くもない。自ら進んでやったほうが面白いし、それなりの成果も期待できる。当然ながら困難なこともあるだろうが、それを乗り越えた時の喜びもひとしおだ。

そして、日下氏は攻撃的であるべきものは遊びでも同じだという。もしかしたら、仕事以上に積極性を必要とするかもしれない。自分にとって何が面白いのかを発見しなければならないからだろうか。また、ある程度上達して楽しさを味わえるためには時間もかかるだろう。

結局、関門を乗り越えるためには、チャレンジ精神と攻撃性が必要だったのだ。だから、遊びでも常に攻撃精神を持っていないと、さびついてしまうということのようだ。むしろ気分が乗らないときは、積極的に遊んでみると心身ともに充実してくることもあるな。

ごろごろしているよりも、身体を動かして汗を流せば気分もすっきりすることはわかっている。しかし、こう寒い日が続いていると、ついつい動き出すのが億劫になってしまう・・・いかんなぁ~~

「~のため」になった時、」遊びは遊びでなくなる。

2010年01月18日 | Weblog
「遊びは知的でなくてはならない」日下公人著より。

日下さんは、仕事がら講演会であちこちに出かけるが、その目的地には約束の2時間ほど前に着いて街をブラブラ歩くのが好きらしい。そのブラブラ歩きこそが“遊び”になっていた。

ある地方都市に行った時のこと、タクシーに乗り込んだ際、その街で一番値段の高い喫茶店はどこかと聞いて行ったという。五千円のコーヒーを出す店に入ってみて、ボーイさんとの会話も楽しんでいる。

注文したのは300円のコーヒーだったようだが。もちろん情報を仕入れるのが目的ではない。どんな雰囲気の店かというのも興味深かったのだろう。そこがポイントだろう。遊びには、目的などないほうがいいようだ。無目的だからこそ、遊びを満喫できる。自然に耳や目に入ってくる情報こそが面白いのだ。

健康のために、水泳や散歩をするということなら、十分に楽しめない。またパソコンに凝っている、と言っても仕事の整理や情報の収集では本来の遊びとは言えない。パソコンも文房具の一つとして使いこなした方が遊べる。また、このように日記(ブログ)を書いたり、そこで交流できたりするのも完全な遊びになっている。

“感動する心”はそのまま“遊び心”に通じている・・・

2010年01月17日 | Weblog
「遊びは知的でなくてはならない」日下公人著より。

遊びと言って、具体的に何かをしなければならないというものではなくて、日常の生活のなかで面白さを発見して、心を動かしている人はきっと新鮮な感動を胸に秘めているだろうという。つまりいろいろなものに好奇心を持っていることが、遊びにも通じることでもあった。逆に固定観念に固まって、無感動では遊び心がないとも言える。

ここで面白いエピソードが2つほど語られていた。まずは、アメリカのフォードの社長の話だ。第二次世界大戦後のこと。当時の社長は完成したばかりの新車を見たとき、かなりの出来栄えに満足はしたが、車のドアを閉めた時の音が、ペシャンと、ブリキのような安っぽい音だったらしい。

そして音が気に入らないと、その新車を改良するように命じたのだった。やはりその車にはそれなりのステイタスを感じさせることが必要だと思ったのだろう。このこだわりこそ、フォードの社長の“遊び心”でもあったのだ。

2つ目は、筆者自身のエピソードだった。かつてパリに行った際に、C・ディオールの店で高級カバンを買った時のことだった。その店の店員さんは「このカバンはほかのものとちがいます」と言ったそうだ。どこがちがうのかというと、カバンの口金の音がちがっていたのだ。それはきわめていい音に聞こえたという。本来の機能とは別の部分の価値を提示したのだ。堅牢さでもデザインでもなかった。やはり音へのこだわりは遊び心に通じているのだろう。

日下さんは、そんな経験からも“遊びの発想”の世界を知ることができたと語っている。ひ日々の生活の中で、ちょっとした感動を味わったり、こだわりを持ってみるというのも忘れたくないものだな。と、そんなことを書きながら、車のハンドルにもブレーキにも自転車のチェーンにも遊びがあるからこそ安全に運転できるのか、などと関係ないことを思い出してしまった・・・。ま、そこそこ心の余裕がなければ遊び心も芽生えないか・・・な。

(蛇足)12日のウェブニュースのコピーより。
フォードが2冠=北米最優秀車賞。1月12日0時1分配信 時事通信。
 【デトロイト時事】11日開幕した北米国際自動車ショーで、2010年の北米最優秀車賞が発表され、乗用車部門の「カー・オブ・ザ・イヤー」に米フォード・モーターの中型ハイブリッド車(HV)「フュージョン」、小型トラック部門の「トラック・オブ・ザ・イヤー」には同社の「トランジット・コネクト」がそれぞれ選ばれた。

 乗用車部門では米ゼネラル・モーターズ(GM)の「ビュイック・ラクロス」と、独フォルクスワーゲン(VW)の「ゴルフ」が、小型トラック部門では富士重工業のレガシーのスポーツ用多目的車(SUV)「アウトバック」と、GMのSUV「シボレー・エクイノックス」がそれぞれ最終候補に残ったものの、両部門ともフォード車が受賞した。