ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

環境そのものが楽しいものになると、活性化します、脳が。

2012年09月30日 | Weblog
環境そのものが楽しいものになると、活性化します、脳が。

『「仕事ごころ」にスイッチを!』小阪祐司著より。

この最後の“脳が”という部分がポイントだった。つまり仕事ごころにスイッチを入れるヒントの一つは環境でもあったのだ。環境を「快」にすることで仕事もはかどるという意味合いだった。

簡単なのは、好きなものに囲まれて仕事をすることだった。小阪氏はよくプロジェクトメンバーに言っていたのは「家から好きな物を持ってきて、机の周りに置きましょう」だった。

会社でも楽しむ姿勢が大事なようだ。たとえば、自分が使いやすい文房具が引き出しの中に入っているだけでも仕事ははかどるものだ。

私の場合、使いやすい三角形の鉄でできたペーパーウェイト、カッターシート台、ありふれたカッター、ゲル状インキのボールペン、オリジナル一筆箋などがあると仕事がしやすい。

小阪氏の場合、馬の写真、ゴジラや怪獣、スターウォーズの人形などに囲まれて仕事をしているという。また、眺めているだけでニヤニヤしてくるような物を三つは持ってきて、自分の周辺に置きましょうとも提案している。

それができるような職場環境の人はどれほどいるだろうか。まあ、職場が無理なら自宅でやってもいいかもしれないが。いずれにしても脳が「快」を感じられるかどうかが、問題だった。

「自分打ち上げ」をやっているか。

2012年09月29日 | Weblog

『「仕事ごころ」にスイッチを!』小阪祐司著より。

実におもしろい表現だと思った次第。何かプロジェクトや大きな仕事が一区切りついた時には、自分で自分をねぎらうということもいいようだ。

苦労したプロジェクトの完成、イベントの成功、予算達成、展覧会、体育祭、卒業、家族の誰かが成し遂げたことなど、時どき一区切りということはあるものだ。

仕事がうまくいった時などは、自分へのご褒美というのもやっているかもしれない。細かな目標を立ててそれが達成できたときに、自分打ち上げをやるというのもいいのだろう。

とはいっても、あまりに容易に達成できるような目標にしてしまうというのも、やる気がそがれる恐れもある。かけた時間、集中力、困難の度合いなどで打ち上げでの満足度も違ってくるに違いない。


物語に試練がないと感動もしない。

2012年09月28日 | Weblog
『「仕事ごころ」にスイッチを!』小阪祐司著より。

ここでのトピックのタイトルは“普通の人をヒーローに変えるメカニズムの存在”とかなり印象的なものだった。そこで、いくつかそのヒントが書かれていた。かつてのNHKの番組「プロジェクトX」を引き合いに出している。

1、普通の人々の物語である。2、不可能と思われていたことに挑戦する。3、数多くの困難がある。4、しかし最後にはやり遂げる。

映画でも小説でも、人は試練に打ち勝つ物語が好きだったのだ。元々才能がある人が、当たり前に成功したものは面白くも感じられない。

やはりとてつもなく、困難だと思われたことに勇気を出して立ち向かうというところがスタートになっているのだろう。一般の仕事でも、難しいと思われたことをやり遂げればそれなりにやりがいを感じられるものだ。

小さなことかもしれないが、ほとんど他の人がやっていないようなサービスができれば、お客さんは感動してくれるだろう。やはりマニュアルの範囲内で収まっているうちは、感動はないのかもしれないな。


人間は、身体が動くことによって頭も回る構造になっている。

2012年09月27日 | Weblog

「仕事は頭でするな、身体でせよ」久恒啓一著より。

これも、前日のフレーズの内容と似ているが、気になった。「難しい仕事は、考えただけじゃわからない」ということは、久恒氏が師匠に言われた言葉だった。

つまり、現場を見たり、動くことでアイデアは出てくるということのようだ。普段から脳を刺激するような行動習慣を身につけておくというのがポイントだった。

たとえば、散歩もその習慣ともいえた。足を動かし、外気に触れ、違う景色を目に入れることで脳に刺激を与えられる。季節を身体でしっかりと感じられるのも、散歩の時だ。

先日、地元の川沿いのサイクリングロードを散歩していたら、すれ違った数人に挨拶をされたが、実に気持ちがすがすがしかったものだ。

会釈っていうのも、簡単そうで難しいとも思える。やはり慣れた人は、笑顔がいいものだ。また、散歩の途中で草花や、木の実を目にすると新鮮な気分にもなれる。そんな時にも頭が動いているのだろう。

別に散歩に限らず、入浴中や乗り物に乗ってゆられている時にも、新しい発想が思い浮かぶことがある。きっとじっとしていたら思いつかないことも多いのだろうな・・・


習慣とは、頭ではなく身体でつけるもの・・・

2012年09月26日 | Weblog
「仕事は頭でするな、身体でせよ」久恒啓一著より。

この本のテーマのようなフレーズだった。たとえば、毎日じっくりと1時間考える習慣を持つようにしようと考えても、それを実行するのは難しい。

むしろ、なにかを考えるよりブログを開設して書き続けるほうが簡単に思える。手を動かすという行為がある方が続けやすい。そのついでに頭も動くということになるらしい。

書くためにはある程度考えなければならない。それが習慣となればいいということだった。それで進歩するかどうかは、人それぞれだろうが。

まあ、振り返れば、数年間も書き続ければかなりの時間考えることに費やしていることもわかる。もし、ブログを始めなかったら、(自分の場合)本も読まなかったと思われる。

筆者はこのトピックの中で、「ブログは現代人のための、身体を使って頭も動かす道具かもしれない」と語っていた。このブログが“道具”という発想が新鮮にも思えた次第。


ヒットしたものはすべて正しい。

2012年09月25日 | Weblog

「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていたくはない」見城徹・藤田晋著より。

筆者の見城氏は編集者という立場から、ベストセラーはそれ自体で正しいという考えだった。しばしば、あんなくだらない本~というような言い方をする人もいるようだが、それは見当違いもはなはだしいようだ。

結局、本は売れたもの勝ちということでもあるのだろう。くだらないとはいってもそれは、負け惜しみになってしまう。大衆が嗅ぎつけた価値がそこにはあるということだった。

テレビ番組も、あんな低俗な~、というようなコメントを見かけることはあるが、結局それで視聴率が抜群であれば、スポンサーもついてくれるのだろう。逆にいくらいいと思われる番組でも、NHK以外の民放では視聴率が悪ければ途中で打ち切られてしまう。

営業なら、どんなことをしても結果的に売上げが予算を達成しなければ、それなりの評価しか得られない。本なら一冊の単価は低いが、それが数十万部、数百万部ともなれば恐ろしい金額になってしまう。その事実の前にはどんな言葉も意味をなさないだろうな。


感想こそ人間関係の第一歩。

2012年09月24日 | Weblog

「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」見城徹・藤田晋著より。

感想という言葉を見て、コメントとも似ていそうだ。しかし、コメントというと、なんだか軽くてちょっと偉そうで上から目線で言いぱなしのような気もする。

見城氏は、「感想を伝えるという行為は簡単のようで難しい」と語る。感想ですぐに思い浮かべるのは学生時代に書いた読書感想文のことだ。夏休みの宿題でもあったが、けっこう楽しめたものだ。

しかし、人を前にしての感想はそうそう簡単ではなさそうだ。しっかりと相手に注目していなければ、言葉を発することさえできないだろう。単なるお礼だけなら誰でも言えるだろう。

氏は感想はその場で言うのが一番いいというが、まさにその通りだと思うう。時間が経ってからでは嬉しさも半減だろう。また、相手が感想をしっかり伝えてくれた時、この人とは付き合える、と思うようだ。

氏は最後に「感想がないところに、人間関係は成立しないと心得るべきだ」と語っているが、それに対して、藤田氏は見城さんの感想の見事さは訓練の賜物だと感じていた。

また藤田氏は、「感想を言うことは、とても有効な戦略的コミュニケーション」とも語るが、それをうまく出来るかどうかが問題だとも思える。中途半端な感想ならすぐにわかるだろう・・・な。


人が最大の力を発揮するのは、切羽詰まった時である。

2012年09月23日 | Weblog

「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていたくはない」見城徹・藤田晋著より。

ここでのタイトルは「縛りがあるから面白い」となっていた。その一つの例として、俳句をあげている。俳句はわずか十七音の中に季語を組み込みながら表現しなければならない。

こんな強い制約があるからこそ、素晴らしい作品が無数生まれているのかもしれない。しかも奥が深い。同時に読み手の想像力を試されているようでもある。

どうにかして、限られた文字数で表現しようとするには、苦しみやエネルギーが必要だろう。テレビのCMなども限られた秒数のなかでできるだけ多くの、またインパクトのあるメッセージを込めて伝えなければならい。いいコピーも決して長くはない。

何でもいから、いいアイデアがあれば提案して欲しいと言っても、漠然としていて出てこないだろう。しかし、ある程度、的を絞って(テーマや制約をつけて)依頼すれば、焦点が絞られいいものが出やすいのだろう。

そこには、時間や文字数、枚数、表現の制限などあるのもいいかもしれない。自分で自分の締め切りをつくるのは難しいがそれが、できれば、創造力も発揮しやすいのだろう。

いつでもいい、なんでもいい、どれだけでもいい・・・などは、一見自由があってよさそうだが、実際はなかなかうまくいかないものだな。とはいっても、いつも切羽詰まった状態では息が詰まってしまう・・・かも。


「発見」のない仕事など、単なる人生の空費にすぎない。

2012年09月22日 | Weblog

「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」見城徹・藤田晋著より。

ふだん仕事をしていると、ついついマンネリに陥ってしまうことがある。また疑問さえ感じなくなってしまう。しかし、時どき立ち止まってみると、やはりおかしいことにも気づいたりもする。

これはおかしい、と感じるのも発見かもしれない。そこからさらに発展させて新しい価値観を生み出せれば、なおいいのだろうが。当たり前だと思ってる中に、新しい気づきがあるとはりあいも出てくる。

常に問題意識をもって仕事に臨めばこそ、新しい発見もあるのだろう。見城氏は「今日と違う明日を迎えない限り、人は新しい景色に出会えない」と語っている。

さらに、働くことは、今日とは違う価値を生み出すことだともいう。それを付加価値と呼んでいた。まずは小さなことでも、新しいことをしてみることがスタートのようだ。それがやりがいにも通じるのだろうな。

藤田氏は、それに対して、新しいことには不安があるが、同時にワクワク感も生まれるというが同感だ。そんな感じでいつも仕事ができればいいのだが・・・


仕事の面白さは、己のしてきた苦労に比例する。

2012年09月21日 | Weblog
「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていたくはない」見城徹・藤田晋著より。

それにしても、長い本のタイトルで、しかもインパクトがある。これは見城氏のワンフレーズそのものだった。この本では、見城氏が書いていることに対して、藤田氏が今度は自分の意見を述べるという形になっている。

仕事に対して実に厳しいスタイルで望んでいる見城氏だが、それが自分のライフスタイルとなっているようだ。常に何かを考え苦しみ、また悩んでいる状態を楽しんでいるようにも思える。

仕事はほどほどで、趣味や自分の時間を大切にしている、というような人に対しては次のような言葉を投げかけている。「一日八時間もつまらない時間を過ごすような人生で楽しいのか?」と。

実にストレートでわかりやすい。だから、もっと仕事そのものを楽しく過ごすべきだということだろう。その結果として、人生も愉しくなるはずだということだった。

氏は本を作るとき、考えに考え抜くという。苦しんで考え抜いてこそ、自分の人生は豊かになると考えているようだ。「仕事が楽しければ、人生も愉しい」というのが雑誌『ゲーテ』のキャッチコピーだという。ここに氏の人生哲学が感じられる。


仕事の定年と人生の定年は別ものである。

2012年09月20日 | Weblog

「五十歳でも老人八十歳でも青年」森村誠一著より。

仕事の定年は便宜上の線引き、という表現は実にわかりやすい。仕事ができてもできなくても、ある時期がくれば次の世代と交代しなければならなくなる。

定年の境界線を越えたとしても、人生はまだまだ十分に残っている。むしろ自分は社会の構成分子として生きている自覚を持ち続けることが大切だという。

氏が強くアドバイスするのは、定年を迎えても「臨戦態勢」を失わないことが大事だということだった。この臨戦態勢とは実に積極的な表現に思える。それは生きていく緊張感というような意味だった。

「もういいだろう」と人生のレースを放棄してしまった人は老いるのも早いらしい。常に視野を広く持って、何かにチャレンジしたいものだがその対象を見つけるのも容易ではないだろう・・・な。


「未知の狩人」となって獲物を追う。

2012年09月19日 | Weblog

「五十歳でも老人八十歳でも青年」森村誠一著より。

森村氏の好きなフレーズに「未知数を永遠に追い求める」というのがあるそうだ。気持ちを若く保つと同時に、未知数ということも考える必要があるという。

ただ気が若いと言うだけでは青春とは言えないそうだ。そこに未知数というものがあることがポイントだった。筆者の場合その未知数とは、六十代にはじめた「写真俳句」だった。

つまり、今までなかった新しい価値観を生み出すということなのだろう。それまでは俳句と写真を合体することなど思いもよらなかったという。しかし、未知の狩人として、追求した結果それが収穫物となったようだ。

狩りの対象となる未知数は無限に残されているはずだというが、それを追い求めるにはかなりのエネルギーも必要なのだろう。しかし、それにチャレンジすることもまた、永遠の青春の可能性も無限にあるというがどうだろう。


老いの陣営に入っても老化はしないという意識を持っている。

2012年09月18日 | Weblog

「五十歳でも老人八十歳でも青年」森村誠一著より。

筆者によれば、「老後」は突然やってくるものだという。それは、ある年齢になったとたんに、それまで挑戦的であった人が安定感を求めるというように、気持ちが大きく変わっていったりするからのようだ。

自分は若い陣営に属していると、思っていた人が、老いを意識することがあるというが、それは体力の衰えも関係あるかもしれない。かつてはまったく意識しなくてもできたことが、できなくなったときなどだろうか。

森村氏自身、自分は若い陣営のメンバーだと思っていたら、会合で自分が最年長であることに気づいたという。そんな時、いつの間にか老いの陣営にいたことを自覚したようだ。

たしかにそんなことはよくありそうだ。しかし、それは年齢の順番であって、そこで老化してるかどうかはまた別問題だった。気持ちの問題が大きいはずだ。老化はしないという意識こそ大事なのだろう。

そのためには、何もしないでいることは、老化を早めるとも言えそうだ。たとえ老いの陣営に入ったとしても、常に何らかの意識をもって行動またはチャレンジすることがポイントかもしれないな・・・


余生を「余恵」として最大限に駆使したい。

2012年09月17日 | Weblog
余生を「余恵」として最大限に駆使したい。
「五十歳でも老人八十歳でも青年」森村誠一著より。

それにしても、この本のタイトルは興味深いと思った次第。まず、普段あまりなじみのない「余生」につて、ウェブの辞書で引いてみると次のような説明があった。・・・『盛りの時期を過ぎた残りの生涯。残された人生。「静かに―を送る」「―を楽しむ」 』と。

つまり現役後のことを意味しているようだ。まだまだ働けると思ってはいても、ある時期がくれば、現役を辞めなければならなくなってしまう。そんな余生を「余恵」にできればいいのだろう。

森村氏は「どんなに歳をとっても気鋭、鋭角であれば、生きている限りチャレンジする対象を持つことができる」ともいう。それは「誉生」だとも表現している。

数年前に、氏の『誉生の証明』という小説を読んだことを思いだした。誉れを持った生き方とはどういうものかを物語にしていた。このタイトルだけ見てすぐに読んでみたいと思ったものだった。

年齢には関係なくチャレンジするところに価値があるということかもしれない。何もしなくても余生は過ごせるが、それだけではもったいないような気もする。

プロを意識した途端に、すべての物事に対して貪欲になる筈だ。

2012年09月16日 | Weblog
プロを意識した途端に、すべての物事に対して貪欲になる筈だ。

「仕事は頭でするな、身体でせよ!」久恒啓一著より。

これは、藤本義一氏の言葉だった。今まで藤本氏の著作を数冊読んできたが、いかにも氏らしいフレーズだと思える。さらにこの後には「すべてを吸収しようとする。吸収するために、人は独自の工夫をするものである。」と続いていた。

別のページでは、久恒氏は「働く人間はすべて“職人”であるべきだと思う」とも語っていた。ビジネスマンより、職人ということを強調している。そして、「良いものをつくることで新しい自分を発見をし、自分も成長する」というのも頷ける。

たとえ会社員ではあっても、自分はプロだという意識を持っているかどうかで、仕事の質も量も変わってくるのではないだろうか。人とは違ってやろうと、創意工夫ができた時、やりがいも感じられる。

自分はこれだけは絶対に人には負けないだろうという分野をつくれれば理想的だとも思える。人並みだけでは、決してプロとはいえそうもない。いまやっている仕事に、少しでも自分なりの味付けをできるかどうか・・・