ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

名刺で仕事をしよう。

2011年05月31日 | Weblog

「言葉の“頭の体操”」秋庭道博著より。

ここでのタイトルは“なぜ人は会ってくれるのか?”となっていた。つまり、初対面の場合、まず名刺交換がスタートとなる場合が多いからだった。

しばしば名刺で仕事をするなというようなことがいわれるが、それは名刺がなくても仕事ができるほどの実力をつけろという意味だった。

むしろ初対面で、自分はどこどこのこういうものだといっても、すぐに信用してもらうのは難しい。まあ、知名度もないよりあったほうが有利だとは思えるが。

いくら実力のある先輩だって、始めのうちは名刺を出して仕事をしていたはず。また、会社、組織に所属しているからこそ、信用してもらえ、仕事もできているのだ。

自分の実力などたかがしれたものだろう。だからこそ、使えるならどんどん名刺や肩書きを使って信用してもらい、実績をあげればいいだけのことだった。


なるべく人と競合しない道を選ぶというのも、人生には大切・・・

2011年05月30日 | Weblog
「言葉の“頭の体操”」秋庭道博著より。

頭の体操とはいってもクイズではなかった。自己啓発的な言葉が多いコラムのようなものだった。ものはちょっとした考え方次第で結果もかなり変わってくる。

ここでは、一つの例として入社試験の論文について述べてあった。ある学生は論文に漫画について書いたという。それも人とは異なるテーマだと思ったからだった。

受験生は同じようなレベルの人が集まってくるから、人と異なることを書かねば意味がないと考えたのだった。そして数十倍の難関をくぐってパスをしたという。

どんなことも努力次第で、誰でもそこそこのレベルまでは上達するではろうが、その先にはなかなか到達できない。ならば、異なるやり方、道を選ぶというのもありなのだ。

仕事にも応用したいもの。結局何をどうやったら人と競合しない道なのかを考えることがある意味頭の体操になるということでもあるのかな。




語彙が貧弱だと、「頭が悪そう」に見える。

2011年05月29日 | Weblog
「もらった名刺は全部捨てろ!」内藤 誼人著より。

もちろん、これは学歴にはまったく関係がないことだろう。まず、語彙の量の前に、言葉づかいの問題もある。よく若い人が「マジ?」や「すごいっすね」などの言葉を連発しているのを耳にするが、大人の言葉としては浮いてしまう。

また、もうかなりの年齢に達した女性が「・・・でぇ~す」というように語尾を伸ばして返事をするのを耳にするが、これもいただけない。頭が悪そうな印象を受ける。これも自分ではいいと思っているのだろうが、悪いクセだ。

一概に難しい言葉を知ってるだけで、頭がいいとは限らないが、ちょっとした慣用句、四字熟語などがさりげなく会話の中に入っていると、スマートな感じがする。また大人として、ナメられないかもしれない。

語彙力を高めるのは、本を読みあさるのがいいらしいが、それを状況に合わせてきっちり使えるかどうかは練習次第だろう。筆者によれば、もし何かの意見を求められたら、「いいじゃないですか」よりも「非常に感銘を受けました。目からウロコとは、こういう状態をさすんでしょうね」と答えたほうがいいようだ。

また、何がどうよかったのかを自分の言葉でしっかり伝えられることもポイントに違いない。ただ漠然とした返答だけでは相手は納得しないだろう。だらだらと意見を述べるよりも、語彙が豊富であれば、要領よく数語でそれを表現できるはず。

ポジティブな言葉を選んで口にするのが、会話美人・・・

2011年05月28日 | Weblog
「もらった名刺は全部捨てろ!」内藤 誼人著より。

(前日のつつき)
感じがいいと思える人は、ものごとをポジティブに考える人の方だろう。経験的にも、常に批判的な意見ばかり言っている人には、同類の人が集まってくるようだ。

またそういう人とはあまり友達になりたくないものだ。逆にものごとを明るく考える人の周りには人が集まってくるのは当然だろう。比較的ユーモアを持ち合わせている人は、当然人気がある。

あまり否定的なことや皮肉ばかり言う人は、聞いていてもうんざりしてくる。もし食事をしていて、嫌いな野菜などがあれば、あえてそれを口にすることもないのだ。それはその人の勝手だろう。

むしろ、何が好みかを語ったほうが、話がはずむだはず。表現を「・・が嫌い」から「・・が好き」と置き換えるだけでよかったのだ。こんなこともコミュニケーションをうまく運ぶちょっとしたコツかも。

バカ正直に自分の意見をぶつけないほうが、世の中はうまくまわるもの・・・

2011年05月27日 | Weblog


「もらった名刺は全部捨てろ!」内藤 誼人著より。

ここでの小タイトルは“「好き」は口に出しても、「嫌い」は絶対口にするな”、となっていた。相手が語っている内容について、「NO」を突きつけてはいけないということだった。

人それぞれ価値判断は異なるから、自分の嫌いを人に押しつけてもあまり意味がない。それどころか、それを口にすることで相手には嫌な印象を与える可能性のほうが高い。

嫌いでも、それを口に出すことはないのだ。しばしば、話をしていると、あれは嫌いだとはっきりという人がいる。その人には、その気がなくても周囲の人からすれば、ややガッカリすることもあるだろう。

筆者は、基本的に口に出していいのは「好き・嫌い」のうち、「好き」の部分だけだという。これなら、いくら口に出しても周囲の人には悪い印象を与えないからだった。

外資系の会社なら当たり前であるが、先輩は後輩に絶対に指導などしない。

2011年05月26日 | Weblog
「もらった名刺は全部捨てろ!」内藤 誼人著より。

この本のタイトルからして、やや刺激的で面白いと感じて手にとってしまった。外資系の会社では初めからそんなに厳しいとは知らなかった。後輩はライバルだという考え方があるらしい。だから、自分の仕事のやり方を教えて実力をつけさせてしまうと自分を脅かす存在になるからだった。

とはいっても、その先輩の方法がベストだとはいえないだろうが。たかだか数年前に入社したからといって、いきなり素晴らしい仕事の技術を身につけているとは限らないからだ。また超ベテランの先輩なら、そうそう簡単に新人がライバルに追いつけるとは思えない。

日本の会社なら、かなり丁寧に先輩は後輩に仕事の指導をすることもある。私も職場で何度も新人や後から異動してきた後輩の指導をやらされたことはある。自分にとってもいい経験だった。とはいっても、自分のやり方がその人にあっているとは限らないが。

まあ、仕事は先輩から盗んで覚えていくという心構えのほうが正解だろう。そういえば、数週間前に、娘が仕事がうまくいかないのでやり方を教えて欲しいと言ってきた。その時は、やっている仕事も職場も別ではあるが、できる限り具体的に教えると、納得していたようだ。

自分で編み出したワザやノウハウは、そうそう他人には語れないものだが、子どもともなれば別だ。はじめはどうしていいかわからなかった様子の娘も、目が輝きだしてやる気になっていたな。うまくいくといいが・・・



携帯シンドローム。

2011年05月25日 | Weblog

「喪失」森村誠一著より。

これもこの本の中の一つ「地球から逃げた猫」という短編からのものだったが、たまたまケータイについて触れられていた。何となく頷ける言葉だ。

主人公の刑事も当然ながら携帯をもっている。オフのときはよく散歩するらしい。しかもどこに行くときも携帯は絶対に忘れなかった。つまり紐付きのオフだという。

きっと多くの人が同じようなものだろう。しかも、自分では紐付きという意識さえないのかもしれない。むしろ自分から紐を付けているのだろう。私も同じだが。

ここには「すべての人間が携帯を“携帯”しているので、みななんらかの紐付きといえよう」、「武士が刀を忘れないように、携帯は彼の体の一部になっている」などとも書かれていた。

だから、むしろ携帯を所持していないと「山間離島にでも隔離されたように不安になってしまう。」これを携帯シンドロームと呼んでいたのだ。心理的な問題だろうが。

最近ではむしろこの中にかなり多くの個人通信、交友情報が含まれているのがさらに一層シンドローム化しているのではないだろうか。相撲の八百長問題もこのケータイから多くの情報が証拠として読みとられていたし・・・。


便利さの頂上に立った者は、決してそこからおりられなくなる。

2011年05月24日 | Weblog
「喪失」森村誠一著より。

この本は六つの話が掲載されていて、「準犯人の愛」という短編からのフレーズだった。主人公にとっての便利さとはケータイのことだった。

主人公のKは携帯の奴隷にはなりたくないと抵抗していたものの、時代の波には逆らえなくなってしまい持つようになっていた。しかもさまざまな機能があってさらに便利だ。

すると、たちまちその便利さに飲み込まれ、逆に携帯なくしては過ごせなくなってしまったのだ。これは自分たちも同じようなものだろう。一度持ち始めると逆に身につけていないと不安になってしまう。

しかも、Kは一機では足りなくなり、プライベート用、社用、家庭用と3台を使い分けるようになってしまったのだ。彼の周囲にはそんな人はいなかった。2台程度ならざらにいるだろうが。

そういえば便利さといえば、シャワートイレ(ウォシュレットなど)も、快適で一度家庭で使い始めるともう、その便利さ快適さにはすっかりなれてしまう。外出先でそれがないとガッカリするくらいだ。

魚とりは靴でするのが安全。

2011年05月23日 | Weblog

「朝日新聞」土曜版2011.5.14付けより。

(前日のつづき)
川に入って魚をとろうとするときの注意事項だった。魚釣りではあまり関係ないだろうが、実際に網をもって川に入るときは、靴をはいていたほうがいいようだ。

そして、この記事の下には「これがあれば・・・」ということで、何と!“水陸両用のシューズ”の紹介があったのだ。こんなものは、今までまったく知らなかった。

これは水遊びで岩や石ころが多い川で遊ぶ時には、滑りにくくなっている。当然海辺でも便利なはず。普通の靴と違って、水辺から出ると靴の水がスムーズに出ていくという。ゾウリに比べて水のなかでも動きやすそうだ。

オヤジの私が実際にこれを使う機会は今のところ考えられないが、こんな便利なものがあることを知っただけでも楽しい。きっと川遊びもいろいろな道具があればそれなりに面白さはましてくるのだろう。安全でこそより楽しめるかな。

野遊び、魚とりなどは子どもばかりでなく、当然ながら大人だって楽しい。レジャー感覚で身近な自然を散歩しながら楽しみたいもの。これからがちょうどそのいい季節かもしれない。


狩猟本能を満たす遊びが、学習につながることもある。

2011年05月22日 | Weblog
「朝日新聞」土曜版2011.5.14付けより。

これは「野遊び大全」という記事のなかで作家の阿部夏丸さんが語っていたことだった。阿部さんは、ある日車で通りかかった橋の上で、小学生が川の中の魚を「捕まえたい」と騒いでいるのに出くわした。

そこで、さっそく車に積んであったタモ(魚捕獲用の網)を取り出して、使い方を知らない子どもたちに指導してやった。すると、子どもがやっても何も捕れなかったが、何種類もの魚が捕れたのだ。

子どもたちも要領がわかると捕れ始める。これはかなり興奮して楽しいことだろう。そして、知らない生物が捕れるとその名前を図鑑で調べたくもなる。つまりそれが学習につながるというわけだった。

遊んでいるうちに、魚やいろいろな生物の生態を無意識のうちに理解していくようだ。自然はいろいろなことを教えてくれる。身近にこんな自然があるのは、実はかなり贅沢なのかもしれないな。

「趣味」のある行動であれば、必ずその仕事には心がこもるに違いない。

2011年05月21日 | Weblog
「論語と算盤」渋沢栄一著 守屋淳=訳より。

ここでの「趣味」とはワクワクした面白味をもってものごとに臨むというような意味合いがあるらしい。また「理想」「欲望」とも「好んだり楽しんだり」とも受け取れるようだ。

仕事をする際には、単に自分の役割分担を決まりきった形でこなすだけなら、それは命令に従って処理しただけにすぎないことになってしまう。

そこに「趣味」を持って取り組むことで、さらに前向きな気持ちになれるという。それはまさにその通りだろう。仕事をより面白くするのは自身の創意工夫に違いない。

さらに、その「趣味」のレベルが上がることによって、それに見合った成果ももたらされるはず。「趣味」のある行動には心がこもるというのも頷ける。お決まり通りではつまらないな。

およそどんなに些細な仕事でも、それは大きな仕事の小さな一部なのだ。

2011年05月20日 | Weblog

「論語と算盤」渋沢栄一著 守屋淳=訳より。

当然ながら、若いうちからやりがいのある仕事や、責任のある大きな仕事などはいきなりやらせてはくれない。だから、面白味も少ない。ついつい不満を述べたくなってしまうもの。

つまらない仕事だと、軽蔑して力を入れないのもダメだという。全体から見れば、それは大きな仕事の一部分でもあるからだった。小さな仕事も満足にできなければ、当然大きな仕事はできないことになる。

分かりやすい例があった。時計の小さな針や、小さい歯車が怠けて働かなかったら、大きな針も止まらなければならない、と。また、何百万円の銀行でも、厘や銭単位の計算が違うと、その日の帳尻がつかなくなってしまう、と。(100年前の単位になっている)

些細なことを粗末にする習慣ついてしまうと、後日の大問題を引き起こすことになってしまう。最近ではソニーのゲーム機器を通じた1億にものぼる顧客情報の流失だろう。


「どのように振舞うのが人として格好がよいのか」

2011年05月19日 | Weblog
「論語と算盤」渋沢栄一著 守屋淳=訳より。

フレーズにあげたこれを学ぼうとするとき、基本的教科書になっていたのが「論語」だったようだ。渋沢はこの「論語」の教えを実業の世界に持ち込んでいたのだった。

渋沢栄一は、日本の実業界、資本主義の制度を設計した人物だった。彼が設立に関わった会社は役470社、それ以外に500以上の慈善事業にも関わっていた。後にノーベル平和賞候補にもなっていた。

もともと資本主義や実業は、自分が金持ちになりたいとか、利益を増やしたいという欲望をエンジンとして前に進んでいく面があるようだ。

しかし、それはしばしば暴走し、惨事を引き起す。最近ではバブルの崩壊や金融危機などが思い出される。そんな暴走に歯止めをかける手段として「論語」が取り上げられていたのだ。


他人事を自分事にできると、リアリティが生まれる。

2011年05月18日 | Weblog

「佐藤可士和の超整理術」佐藤可士和著より。

ここでは思考整理で大事なポイントについて述べていた。それが「他人事を自分ごとにする」ということだった。あいまいなものを情報化して、問題点を解決していく、その際に自分との接点を見出すことが必要だったのだ。

自分勝手なイメージではなく、対象のなかから本質を見出すということだった。自分のモチベーションをあげていくにはこれがポイントでもあった。

かつて佐藤氏が、今治タオルのブランディングプロジェクトを手掛けた時のことが述べられていた。その時、地域産業が活性化することで、日本全体の活性化につながるといい、と気づいた瞬間に、リアリティがわいてきたという。

たんに、タオルをアピールすることだけを考えていたら、このような接点を見つけることは難しかったと振り返っている。


言語化することで、思考は情報になる・・・

2011年05月17日 | Weblog
「佐藤可士和の超整理術」佐藤可士和著より。

これだけ取り出してみると、なんだか哲学的な難しい言葉のようにも思えてくる。要するにこれは、漠然としたものを意識して整理することで、次の段階に進めるということだった。

まずは、もやもやとしたものを言葉にしてみる、これが言語化するということだ。とはいっても、それは頭で思っているほど容易ではなさそうだ。人のことはよく分かっても自分のことは意外に分かりにくかったりもするもの。

これも練習しかないようだ。そういえば、悩みも紙に書き出してみることで、意外に気持ちが軽くなることもある。そうすることで具体的に問題が何であるかがわかれば、どう対処すればいいかも見えやすい。

文章にするのが面倒な時には、キーワードだけでもノートに羅列してみるものいいようだ。まずは、客観的に見える状態にすることが「思考」の整理には有益と思われる。