ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

相手が興味を持ち、ちょっと手にとってみたいと思うような小道具をいくつか用意・・・

2011年08月30日 | Weblog

「パワーマインド」内藤 誼人著より。

たまたま小物とか小道具が続いてしまったが、この章のタイトルは「相手のパワープレイを封じるカウンター(攻撃法)」となっていた。

相手の拒絶のしぐさに対して、どう対処したらいいのか、ということについて述べられていた。たとえば身体の真正面で腕を組まれたときなどだ。

それを崩さないと、相手との関係はそれ以上に進展していかないということになる。そんな場合には上記フレーズが使えるようだ。コーヒーやジュースなどのグラスあるいは食べ物などを渡すのも一つらしい。

相手の好みそうな写真を見せるというのも手らしい。あまり人が持っていないような珍しいものがあれば、それを見せるのもいいようだ。

こんな面白い例もあった。ある保険のセールスマンは、自慢の手品を見こみ客に教えることで、拒絶のうで組みをさせないということだった。

またボールペンを使った手品を教え、そのボールペンをプレゼントするという。そこには連絡先が印刷されていいて、後から電話がかかってくることがあるという。やはりできる人は人がやらないそんな工夫をしているのだ。


相手に「おっ!」と思わせる小物を、少なくとも1つは持っておくといいい。

2011年08月29日 | Weblog

「パワーマインド」内藤 誼人著より。

この章のタイトルは「最強のパワーアイテムを使いこなせ」で、ここでの小タイトルは“「小物」(アイテム)で魅力を高める”となっていた。

ペンやノートにしてもふだん使う小物は、仕事をやりやすくするためには大切なものだった。時にはパワーアイテムともなるようだ。

ついつい仕事では使い易さだけで選びがちだが、人前ではあまりにも貧弱なものはダメだそうだ。筆者は自宅では80円の安いボールペンを使っているが、外ではちゃんとしたものを使っているという。

別に高級品ではなくても、いいものはあるはずだ。いつも人前で安ものばかり使っていると、それなりにしか見られなくなってしまうかも。

あと、長く使っていると自分では気がつかないが、普段使っている事務用品の汚れにも気をつけねばと思った次第。ついつい使えればいいや、と思ってしまいがち・・・だな。


お守りは、手っ取り早く緊張をほぐすのに有用なアイテム。

2011年08月28日 | Weblog
「パワーマインド」内藤 誼人著より。

受験生の多くは何らかのお守りを持って受験に臨むのではないだろうか。たとえば神社に行けば学業成就のお守りがある。まあ、苦しい時の神頼みかもしれないが。

それがあるだけでほっとするものを身につけておくのも時にはいいものだ。つまり暗示ということになるが、信じることでパワーを発揮できればそれに越したことはない。

精神がきわめて強靭そうだったナポレオンもお守りを離さなかったという。黒い布で作った小さなハートのお守りをいつも身につけていたのだ。

お守り以外では、自分だけに通用するおまじないを信じるのも効果があるらしい。スポーツ選手も「ジンクス」というまじないをやっているようだ。たとえば、靴下は必ず左足から履くなど。

イチロー選手はいつも同じパターンで生活しているのは、調子がいい時のことを忘れないようにするためらしい。ホームゲームでカレーを食べることもその一つだろう。

これさえあれば、大丈夫というアイテムを一つは見つけて持っておきたいものだな。時には自分が思っている以上のパワーが発揮できることを期待しながら。

どれほどおしゃべりの腕前を磨いても、スピーチは上手にならない。

2011年08月27日 | Weblog
「パワーマインド」内藤 誼人著より。

たしかにおしゃべりは上手な人はいるものだが、そういう人は人前でちゃんと喋れるとは限らない。

たまに、聞いていて気持ちがいい話し方の人がいる。しかも分かりやすい。やはりプロは違うと感じたときがある。

学校ではスピーチの訓練など一切してこなかった。だから、スピーチが苦手な人は多いのだろう。いつも話力のなさを痛感している。

たんに活字を目で追うだけでは、息継ぎもわからない。練習法としては、まず「音読」にあるらしい。疲れそうだがたまにはいいかもしれない。


人間の脳は好奇心を持ち続けることで活性化される。

2011年08月26日 | Weblog
「男の品格」川北義則著より。

なんだか、この本のタイトルとは離れているようだ。別にこれは男には限らないのではないだろうか。

精神科医の齋藤茂太さんは、長寿を保っている人たちを観察して、その特徴は「心に余裕のある人々」と言っているそうだ。あまりあくせくしていないほうがいいらしいが、生活するためにはなかなか思うようにはいかないだろう。

齋藤さんは、その余裕についていくつか説明していた。たとえば、人づきあいがうまい、友人が多い、本業以外の趣味を持っていること、好奇心が旺盛なこと、ユーモアを忘れないこと・・・などだった。

そのための処方箋としてSTRESSの頭文字をあげていた。S・スポーツ。T・トラベル(旅行)。R・レクリエーション。E・イート(食べることを楽しむ)。S・スリープ。S・スマイルとなっていた。面白いこじつけだが納得できる。

最後に川北氏は、遊び心を忘れないことが、老化防止につながると述べている。遊ぶことがアンチエイジングに役立つということのようだな。

人には、それぞれ自分に一番あったライフスタイルというものがある。

2011年08月25日 | Weblog
「男の品格」川北義則著より。

ライフスタイルは自分で意識して見つけ身につけないと、ただ何となく流されてしまいそうだ。人まねをしても、当然ながらいろいろな条件が異なるからうまくいくはずがない。

ここでのタイトルは“自分に合った喜びの型を見つける”となっていた。そして、この一例として、自分にとって面白そうなものに挑戦していくうちに高いところまで到達してしてしまった人を紹介していた。

それは片岡鶴太郎さんだった。はじめはモノマネからスタートしていたが、ボクシングの世界に入り、セコンドまでつとめていた。その後絵の世界に入り、そこでまた才能を開花させている。

今では個展を全国各地で開催し、いくつもの美術館までできている、立派な画伯になってしまった。実に面白そうなこと優先の生き方をしてきた人に思える。

絵を描くときは、早起きをして、玄米の朝食を食べ、アトリエにこもって夜まで黙々と絵筆をふるうという。これが鶴太郎さんのライフスタイルのようだ。

単なるタレントではなく、しっかりした俳優業もこなしているのもすごい。もっとも誰もがこんな才能を発揮できるわけではないだろうが。

道楽と趣味的遊びの違いは「節度」にある。

2011年08月24日 | Weblog
「男の品格」川北義則著より。

ふだんあまり道楽というような言葉は使ったりはしていない。川北さんによれば、節度をもっているのは趣味的遊び、節度のないレベルに入るのが道楽だそうだ。

趣味の世界からもう一歩奥に踏み込んでいくのが、道楽だそうだ。たとえば、エジソンや、ライト兄弟もそんな人だろうという。節度を超えてしまうからこそ楽しいともいえそうだ。

自分の人生を楽しく充実させるためには、時に羽目をはずしてみる必要もあると述べている。しかし、羽目をはずしてみるって、ちょっと勇気がいるかもしれない・・・な。

多くの人がダイエットに夢中になっているが、決してそれは楽しくてやっているものでないはず。単なる見栄えや健康のためかもしれない。しかし、それを無視したらまた見えてくるものがあるかも・・・

趣味をライフスタイルにした生き方は誰にでもできる。

2011年08月23日 | Weblog
「男の品格」川北義則著より。

もし本当にこんな生き方ができたら楽しい人生に違いない。しかし、実際そういう風に生きている人もいるようだ。

ここには2人が紹介されていた。まずはじめは推理作家の内田康夫さんだった。もともと趣味がきっかけで作家になってしまった人だそうだ。40代の後半まで広告会社の社長をしていたという。

趣味は将棋とミステリーを読むことだったが、ある時ふと友人に自分でも書けると言ってしまったのがきっかけだったようだ。そして書き上げた一編の評判がよくて作家への道が開かれていたのだ。まあ才能があったのかもしれない。

も一人は東京農大教授の小泉武夫さんだった、実家が造り酒屋で、子供の頃から発酵微生物に親しんでいた。現在ではその他、作家、発明家、コピーライター、料理人、実業家など何足ものわらじをはいている。

川北さんは、小泉さんもまた自分の趣味の世界で生きている人だと述べていた。好きなことばかりして、それが仕事に結びついているというのは本当にすごいことだとも思える。

今している仕事のなかに、自分の趣味や特技を生かせられるなら、またそれも楽しく、やりがいがあることともいえそうだが。


何事においても、おいしい想いをするためには、咀嚼が必要・・・

2011年08月22日 | Weblog

「恋する日本語」小山薫堂著より。

これは文庫本のあとがきにあったものだった。咀嚼という言葉は一般的には食べる際に使われるが、本を読む際にも有効なようだ。

この本も咀嚼が必要な作りになっているという。パラパラとめくっただけでは、薄味のショートストーリーでしかない。

つまり何度も繰り返し咀嚼することで、確実に味は良くなるらしい。さらに自分の経験というスパイスを加えるとさらに美味しくなるというが、どうだろう。

本を美味しくいただく、という考え方も面白い。そういえば、最近あまり読み返したくなるような本に出会ってなかったかな・・・


近すぎて見えないものがある。

2011年08月21日 | Weblog
「恋する日本語」小山薫堂著より。

歳のせいで、近眼ではあるが最近近くのものが見えにくくなってきた。上記フレーズは、まるで老眼のようにも思えてくる。

このあとには「遠く離れているからこそ、見えるものがある」と続いていた。ここでは時間の経過を指していた。

時間が経てば、今大変だと思っていることも案外良かったのかもしれないと思うこともある。過去を振り返ってみれば、苦労もいい思い出に思えたりする。

若い頃には、見えなかったものが時間を経過することで見えてくるものも多い。子育ての最中は親も無我夢中だが、後では案外楽しく過ごせるものだ。

ここでのタイトルは「遠近」と書いて「おちこち」と読ませていた。意味は「未来と現在」で、遠い未来と近い現在ということか。



メモを取らなければいけないほど重要な情報に常に飢えているかどうか・・・

2011年08月20日 | Weblog
「無趣味のすすめ」村上龍著より。

ここでのタイトルは「優れた道具」とはなっていたが、大事なのは道具よりもむしろ気持ち、モチベーションのほうだというのが結論のようだ。

いくらすばらしい手帳やモバイル機器を持っていても、その気がなければそれを使って生産的なことはできはしない。つまり道具よりやる気ということになる。

情報に飢えているなら、どんなメモ紙でもかまわないわけだ。ソフトブレーン創業者の宋文洲氏は村上氏と酒を飲んでいても、気になることがあれば、手帳を取り出してすぐにメモをとるという。

村上氏にとっては小説のアイデアは死活問題となるというだけあって、部屋のあちこちにメモ帳を置いてあるようだ。「半島を出よ」という長編小説を書いたときは、そのメモの厚さは30センチほどにもなったという。

また愛着が持てて使いやすい筆記具や手帳、それらを収納する鞄などが身近にあることもちょっとしたポイントのようだ。せっかくいいアイデアを思いついても、その時に書きつけるものがなければ、それは永遠に消えてしまう・・・ことが多い。

もてなしや接待にマニュアルはない。

2011年08月19日 | Weblog
「無趣味のすすめ」村上龍著より。

そのあとには「誠意を相手に伝えるための、想像力が問われるのだ」とあった。ビジネスではもてなしや接待が伴うことが一般的だ。商談も飲食がともなったほうがスムーズにいくことが多い。

ここには「最適」のもてなしのために必要なのはレストランガイドでなく、情報と誠意だとあった。確かに相手が超一流のレストランが好みとは限らないからだろう。

ここに面白い実例があった。村上氏の友人のTVプロデューサーが、某ビールメーカーの経営トップを庶民的な居酒屋に招待したそうだ。しかし、その居酒屋の壁一面にはあらかじめそのビールメーカーのポスターで埋めてあったという。

営業出身のビール会社社長は、その誠意を理解して非常に喜んだようだ。こんなオリジナルなもてなしは想像力がなければできない。時には、「へぇ!」というようなサプライズが素敵なもてなしコミュニケーションにもなるもの・・・だな。

集中するためにはリラックスが必要であり、かつ自覚的でなければならない・・・

2011年08月18日 | Weblog
「無趣味のすすめ」村上龍著より。

ここでのタイトルは「集中と緊張とリラックス」となっていた。これらはあまりふだん気づいてない点でもあった。緊張しているときには、ものごとに集中することができないというのは事実だ。

むしろ集中するためにはリラックスすることが重要だったのだ。緊張していれば、身体の筋肉も固まってしまい思うように動かなくなってしまう。口ごもってしまうのもそのせいでもあるだろう。

あるいはスポーツでベストを尽くせなかったというのもそこに原因があることも多そうだ。今行われている甲子園の高校野球にしても、初出場の選手なら、余計に大観衆の雰囲気の呑まれてしまい持てる力を出し切れない選手も多いことだろう。

言葉でいくら言ってもそれを克服するのは難しそうだ。俳優なら熱狂的な状態の人間を演じる場合は、本人は熱狂的であってはならず、自覚的でなければいい演技はできないようだ。

村上氏の場合は、集中して小説を書いたあとは、充実感と達成感と精神の安息をえることができるという。だから、そのためにとくにリフレッシュは求めていないようだ。

目標は達成されるべきもので、語られるものではない。

2011年08月17日 | Weblog

「無趣味のすすめ」村上龍著より。

これは「夢と目標」と題して書かれている部分にあったフレーズで、その夢は「常に大っぴらに、屈託なく楽しそうに語られる。だが目標はそうではない。」という言葉に続いているものだった。

「人間は目標をもったとき、脳は活性化するらしい」ともあったが、その目標も人から与えられたものではなく、自ら設定したものでなければならなかった。

自らすすんでやることなら、疲労があろうともそれは克服しやすいものとなる。むしろ強制された場合は、疲労感も倍増してしまうものだ。

筆者は、夢は語られても目標は達成されるべきものだと考えているようだ。しかもそのため(現実を伴う)目標を持つのは憂うつなことだともつぶやいている。


最高傑作という言葉に値する仕事をするためにはまず多作であることが必要である・・・

2011年08月16日 | Weblog
「無趣味のすすめ」村上龍著より。

このあとには、“~わけだが、それだけではない。「体系的・重層的」な作品群であることが必須・・・”と述べていた。作品というからにはここでは芸術作品を指していた。

後世に名前と影響力を残す芸術家はたいてい多作だった。科学者の仕事の場合は「体系的・重層的」のことが多かったのだ。

モーツアルトにしてもピカソにしても残した作品の数は膨大なものだった。そのすべてが傑作というわけではないだろうが、才能があり多作だったからこそ最高傑作も生まれたのだろう。

しかし、初めから最高傑作を目指したのではなく、表現者として自らの限界に挑んだ結果として、「最高傑作」があったのだろう。映画や小説などで長年にわたってシリーズものが存在するのも当然その作品が評判が良かったという証拠ともいえそうだ。