ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

モノは値切ってもサービスは値切らない。

2016年01月31日 | Weblog
「男はお金とどうつき合うべきか」川北義則著より。

もし工事などが伴う場合、値段を値切ると場合によっては手抜きになっているとも考えられる。そうでなくても、安い見積もりの場合は、どこか材料などがカットされている可能性もある。

ということで、モノはねぎってもサービスを値切るとあとで、痛い目に合うことにもつながりやすいと指摘している。つまり、それは相手の気持ちも値切っているということだった。

筆者は出版のプロデュースをしているが、製作費は基本的に値切らないことにしているそうだ。値切るよりむしろ相手の言い値で買って、プラスアルファのやる気を出すほうが得策だと考えていた。

一割値切って、売れない本をつくるより、言い値で仕事をしてもらい、二割の儲けを出す方が絶対にトクだという。値切りはその場のことだけで、あとのことも考えるべきだったのだ。

自慢は自分を救う最上の方法である。

2016年01月30日 | Weblog
自慢は自分を救う最上の方法である。

「行動することが生きることである」宇野千代著より。

これも実に新鮮な考え方だと思った次第。「自慢が自分を救う」などとは考えたこともなかった。宇野さんは自慢の種がある限り、自分では生きている積りだという。しかも、この部分に、カッコで「この私に、自慢の種がなくなることがあるでしょうか」とも書かれていたのだ。

つまり、いつでも自慢できる種は持っているということのようだ。本当に前向きな生き方考え方に驚いてしまう。また、こう考えられるのはそれまでの自身の生き方に満足しているからかもしれない。

たとえやりきれないという状態でも、平気でいればある程度平気になれるという。そして、そうなれたならそれ自体も自慢できることらしい。それが暮らし方のコツとも考えていた。

食器なども古道具屋で自分で見つけ、また創作料理を創意工夫して作るという。それを80歳になっても楽しんでいたそうだ。確かにいつも前向きに人生を楽しんでいれば、自分を救っているともいえそうだ。

希望を発見することの上手な人は生活の上手な人である。

2016年01月29日 | Weblog
希望を発見することの上手な人は生活の上手な人である。

「行動することが生きることである」宇野千代著より。

この「希望を発見する」という表現自体が面白い。今まで出会ったことのないフレーズでもあった。宇野さんによれば、その気になれば希望は発見できるそうだ。

実に積極的で前向きな言葉でもある。あえて発見しようと思わなくても、見つかることもあるという。実際に希望がみつかれば気持ちも引き締まって、充実した時間も過ごせそうだ。

希望とは何だろうか。いろいろなものに対する感謝でもあるだろう。また喜びを見つけることも入りそうだ。自分が喜ぶだけでなく、人を喜ばせることも当然ありだ。

どうしたら、人が喜ぶだろうかと考えるだけでも、希望を発見したことにもなりそうだ。

行動が思考を引き出す。

2016年01月28日 | Weblog
行動が思考を引き出す。

「行動することが生きることである」宇野千代著より。

この本のサブタイトルには、「生き方についての343の知恵」とあった。やはりさまざまな経験を積んできた作家ならではの知恵が含まれているようだ。

このタイトルのあとには、「頭で考えるだけのことは、何もしないのと同じことである」とあった。実にシンプルで分かり切ったことのようだが、つい忘れがちなとことでもあるだろう。

とくに作家は手を動かすことによって考えるという。なるほど、頭で考えているうちは、考えそのものに発展がないようにも思える。実際紙に書き出してみると、かなり曖昧だったりするものだ。

筆者は人間には2つの型があるという。行動型と熟慮型だった。宇野さんはずっと行動型で、考えついたらすぐに行動してしまう人だったと述懐している。これを書いている88歳の時でもそうだというからすごいバイタリティを感じる。

学びの費用はケチらないほうがいい。

2016年01月27日 | Weblog
学びの費用はケチらないほうがいい。

「男はお金とどうつき合うべきか」川北義則著より。

ここには、ある人が韓国語を勉強しようとした時の経験について述べられていた。レッスン料が安いからと、その教室に入ったものの、基礎的なことばかりでそこでの勉強はレベルが低くて役に立たなかったという。

そこで、あらためて自分の要求にあうレッスンができるとこことに入りなおしたのだった。それで仕事で使えるレベルまで達したそうだ。安物買いの銭失いというのと似ている。

また身銭を切るということも大事なことだった。自己投資はケチってしまうと結局は役に立たないということにもなるようだ。

仕事自体も、会社の経費より自腹でやったほうが、真剣に取り組めるものだ。やはり無駄にしたくないなど意欲が違ってくるというのが大きいだろう。

人生の機微というのは無駄金のなかから生まれてくるのだ。

2016年01月26日 | Weblog
人生の機微というのは無駄金のなかから生まれてくるのだ。

「男はお金とどうつき合うべきか」川北義則著より。

筆者は自分の経験から、遊びのためのお金を作れという。実際無駄金を使って、痛い目にあえば、それは勉強になるのだろう。それは無駄金に見えるが授業料でもあるようだ。つまり生き金になっているのだ。

だから、サラリーマンでも年間100万円くらいの無駄金は使うべきだと述べていた。それが無理なら50万円でも30万円でもいいという。

それを旅行、収集、ギャンブルでも使ううちに、一生付き合える趣味が見つかるかもしれなかった。どんなことも一見その時は無駄だと思っても、後になるといい経験になっていることが多い。

それは無駄金から生まれているのだろう。無駄金を使わなければ、学べなかったことは多いと思える。くだらないことも、どんどん経験すべきだったのだ。

贅沢で破産する人はいない。見栄で破産するんです。

2016年01月25日 | Weblog
贅沢で破産する人はいない。見栄で破産するんです。

「男はお金とどうつき合うべきか」川北義則著より。

これは苦労した経験のあるある社長の実感らしい。結局、苦しいときは見栄を捨てればいいということだったのだ。たとえば、車を高級車から普通車にすればよかったのだ。食べるものも工夫次第で安くできるともいう。

ポイントは、手にしたお金でどれだけ楽しめるかを考えることだった。お金持ちになることが目的ではなく、人生を楽しめるかどうだった。お金はそのための道具だという。なるほど!

人生を楽しめないお金持ちと、お金はないが、人生を楽しんでいる人がいるなら、だれも後者を選ぶだろう。必要以上のお金はなくても、自分なりに楽しめればいいのだ。

「幸福は富そのものによって得られるのではなく。富を使って初めて得られるのだ」

2016年01月24日 | Weblog
「幸福は富そのものによって得られるのではなく。富を使って初めて得られるのだ」

「男はお金とどうつき合うべきか」川北義則著より。

この本のタイトルが魅力的だったので手に取ってみた次第。また上記のフレーズはスペインの作家、セルバンテスの言葉だった。べつにこれは男に限って言えることではないだろう。

なるほど、お金をいくら持っていても、それを有効に使わなければ意味がない。まあ、手持ちのお金が少ないとなると気持ちにも余裕がなくなるから、ある程度はないと心配でもあるが。

ここでの表題は「お金は使うほうが難しい」となっていた。一見稼ぐ方が大変だとも思えるが、使う時にはその人の人間性が見られるという。

経営の神様の松下幸之助氏もお金儲けの神様といわれた邱永漢さんも、お金は使うほうが何倍も難しいと述べていたそうだ。もし、貯まったお金を何かに投資しようと思えば、かなり頭を使わねばならない。

邱永漢さんがかつて消費だけで毎月百万円使ってみようとしたら、かなり苦痛だったという。なるほどそういうものらしい。実際頭で考えるほど簡単ではないのだろう。常にどう使うかを考えておく必要がありそうだ。

無から有は生まれない。思考は先行する思考から生まれる。

2016年01月23日 | Weblog
無から有は生まれない。思考は先行する思考から生まれる。

「スピードシンキング」鷲田小彌太著より。

ここでのタイトルは、 “ポイントを確実に押さえるための習慣  「コピーライター」方式“となっていた。

大中小のコピーで考えを構成するといいらしい。中谷彰宏さんの本は、全編コピーからなっているという。そう言われれば、そんな感じもする。

そこには思考のエキスを凝縮した言葉が表現されているからだった。よく、本の帯にはキャッチコピーが載っている。本の内容が実に魅力的に表現されている。それで思わず手に取ってしまうこともしばしばだ。

思考のグレードアップをするためにも、話す、書く前にもコピーライティングを意識するというのもいいようだ。そこに必ずキーワード、キーフレーズが含まれているものだ。

一つのエピソードが、作者の思考との「近所づきあい」を可能にする。

2016年01月22日 | Weblog
一つのエピソードが、作者の思考との「近所づきあい」を可能にする。

「スピードシンキング」鷲田小彌太著より。

これ自体が面白い表現になっている。ふだん実際の近所づきあい自体が、かなりおろそかになっていることにも気づかされる。ここでは理解するというような意味合いがあるのだろう。

その人に関して何らかのエピソードがあれば、その後の印象も残りやすい。ここではカントについて触れていた。彼は一生涯生まれ故郷のドイツのケーニヒスブルクを出ることはなかったようだ。

しかし、当時の世界一の大都市ロンドンの街路名をすべてそらんじられるほどの外国通だったという。これ自体は哲学思考とはまったく関係がないが、これもカントを理解する上ではヒントになると筆者は考えている。

これほどのことでなくても、何か仕事とは関係ないことで、エピソードがあれば印象も残りやすいともいえそうだ。エピソードを作ることで、仕事がスムースに行くことも考えられる。

一つのエピソードが、作者の思考との「近所づきあい」を可能にする。

2016年01月22日 | Weblog
一つのエピソードが、作者の思考との「近所づきあい」を可能にする。

「スピードシンキング」鷲田小彌太著より。

これ自体が面白い表現になっている。ふだん実際の近所づきあい自体が、かなりおろそかになっていることにも気づかされる。ここでは理解するというような意味合いがあるのだろう。

その人に関して何らかのエピソードがあれば、その後の印象も残りやすい。ここではカントについて触れていた。彼は一生涯生まれ故郷のドイツのケーニヒスブルクを出ることはなかったようだ。

しかし、当時の世界一の大都市ロンドンの街路名をすべてそらんじられるほどの外国通だったという。これ自体は哲学思考とはまったく関係がないが、これもカントを理解する上ではヒントになると筆者は考えている。

これほどのことでなくても、何か仕事とは関係ないことで、エピソードがあれば印象も残りやすいともいえそうだ。エピソードを作ることで、仕事がスムースに行くことも考えられる。

好きな言葉を書き続ける。

2016年01月21日 | Weblog
好きな言葉を書き続ける。

「すすっと瞑想スイッチ」齋藤孝著より。

例えば、「道」という漢字が気に入ったら、何度でも書くというのもありだそうだ。書いているうちに瞑想ゾーンに突入することも出来るらしい。

それを見ただけで自分を取り戻せるような記号やマーク、落ち着く漢字を持つことは大事だとも述べている。そういえば、自分はたまに一筆箋を作るが、そういうときは自分のペースになっていることにも気づく。

まだまだ瞑想スイッチはいろいろなところにもあった。「スピードを速める」「コーヒーを淹れるプロセス」「車窓の風景を目でとらえる」「「揺れの中で重心を感じる」「雑踏で瞑想する」「川の流れを見る」・・・

この章の最後の部分では、瞑想とは、「いまを生きている」という感覚を取り出し、それをはっきりとかたちにすることだと述べている。過去や先のことではなく、「いまこの瞬間」に意識を向ける習慣が不可欠だったのだ。

瞑想スポットなる場所を見つける。

2016年01月20日 | Weblog
瞑想スポットなる場所を見つける。

「すすっと瞑想スイッチ」齋藤孝著より。

しばしば観光の場所として、パワースポットというような言葉を聞くが、それとは別に自分だけの場所を見つけることができるといいのだろう。

自分にとっての聖地はどこだろうか、と探してみるのも面白い。散歩をしているうちに、意外に近くに見つかるかもしれない。

たとえば、川の流れや、遠くの風景を眺めている時だろうか。それは見慣れた風景かもしれなない。それを自分だけの聖地とできればベストなのだろう。

決して、わざわざ遠くまで出かける必要などなさそうだ。樹木や草花にもそんな瞑想スポットはありそうだ。思い込みでもいいのだろう。


石の壁の揺るぎのなさは、瞑想的。

2016年01月19日 | Weblog
石の壁の揺るぎのなさは、瞑想的。

「すすっと瞑想スイッチ」齋藤孝著より。

ここでは画家の佐伯祐三を引き合いに出して述べられていた。彼はパリで壁に目覚めたひとりだった。ポスターが剥がれかけたような汚れた壁を、ひたすらパリで描き続けたのだ。

日本にはそんな風景は見当たらない。パリだからこそ、描けたのだ。石壁こそが、佐伯には「確固たるもの」の象徴だったようだ。

自分にとって揺るぎのない壁を見つけることはポイントのようだ。壁とは比喩でもあり実際の瞑想にも役にたつのだろう。禅宗の開祖、達磨大師は壁に向かって修行したという。

中国の少林寺で九年間壁に向かって座り続けて、ついに足が萎えてしまったらしい。だからダルマには足がないのだった。壁は人間に落ち着きをもたらしてくれるのだった。

好きな絵を見る。

2016年01月18日 | Weblog
好きな絵を見る。

「すすっと瞑想スイッチ」齋藤孝著より。

この章のタイトルは、「自分の瞑想スイッチを探せ」となっていた。瞑想スイッチをオンにするには、さまざまな機会があった。その一つが、好きな絵を見るということだった。単に見るというより、じっくり鑑賞するというほうが適切かもしれない。

それも絵にもよるのだろう。見ているだけで瞑想スイッチがオンになる作品もあるらしい。筆者にとってはゴッホの「ひまわり」だった。自分が燃え上がるひまわりになったような気分になるという。自分の中にあるものを絵が引き出してくれる感覚らしい。

ある絵に、ふと吸い込まれる気がするともいう。「風景画のなかに自分が入り込んだかのように魂が奪われる」と、表現している。これはすごいことだ。

瞑想を誘う絵に出合いたいものだ。そういえば、かつて若いころ、犬吠埼に一人で絵を描きに行ったときに、目の前に現れた海の風景がまさに、こちらに向かって描いてくれと言っているようにも思えたことがあった。めったにそんな経験はないものだ。