ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

意識を動かすためには、体を動かすこと。

2012年08月31日 | Weblog
意識を動かすためには、体を動かすこと。

「逆転力を高める50の方法」中谷彰宏著より。

意識というだけで、頭を使うことだと思ってしまうが、そうではなかった。頭でっかちになってしまうと、その結果は大したものではなくなってしまうことが多い。

むしろ、頭を使う前に体を使うべきだったのだ。体を動かすことで意識も動いてくるという。そういえば、最近似たようなタイトルの本も読んでいた。

それは『仕事は頭でするな、身体でせよ!』(久恒啓一著)だった。いずれ、この本からの気になるフレーズも取り上げてみたいと思う。意識は体の中にあるという考え方だった。

実際現場から離れて机の上で、結果から得られたデータだけをながめて、あれこれと考えているだけの人の意見や資料は面白味もないし説得力もない。

デスクワークだけで出来上がった資料や、理論は結果的に失敗することが多い。やはり説得力があるのは、現場からの生の意見だろう。たとえば「挨拶をしよう」と、号令しても、実際に頭を下げ口に出して言わなければ意味もないだろう。

つまらない仕事のほうが、そこから学ぶべきものが多い・・・

2012年08月30日 | Weblog
つまらない仕事のほうが、そこから学ぶべきものが多い・・・
「逆転力を高める50の方法」中谷彰宏著より。

実際におもしろそうな仕事をしている人はどれほどいるだろうか、とふと思ってしまった。ほとんどの人は、地味で面倒で、評価が分かりにくい仕事をしてるのではないだろうか。

つまらない仕事を押し付けられたときほど疲れるものだ。比較的よく言われるのは、つまらない仕事でもそれをどれだけ楽しめるかだというようなことだ。

筆者はつまらない仕事から何かを学び、自分自身を磨いていくという意識を持つことが大切だと説いている。人が断りそうな仕事だからからこそ評価されるのかもしれない。

世の中にあふれているつまらない仕事には二種類あった。1、最初は楽しそうで、あとでつまらなくなっていく仕事。2、見ただけで最初からつまらない仕事、だった。

どちらかと言えば、後者のほうがいいようだ。はじめからつまらないという覚悟ができていれば、意外に楽しめたりするからだった。これはなんだか納得できそうだ。自分の工夫次第で成果ややりがいも出てきたりするからだろう。

偉大な結果は、忍耐力の果てに存在している。

2012年08月29日 | Weblog
偉大な結果は、忍耐力の果てに存在している。

「退屈力」齋藤孝著より。

これも、前日触れた内容と重複しているかもしれないが、ふだん忘れがちなことでもあるだろう。ここに「伏龍鳳雛」というふだんはあまり聞き慣れない四字熟語があった。意味は、世間に知られず、雌伏している状態を指していた。

これから、龍や鳳凰になって世に出てゆくのだという気持ちを持って、その期間を耐えているということだ。筆者の齋藤氏自身、高校時代にこの四字熟語をプリントしたTシャツをクラスで作って着ていたという。

まさにその通りに実現しているのは驚きでもある。飛躍をするためには、誰にでも修業期間が必要なのだ。数年前にノーベル賞を受賞した小柴昌俊東大名誉教授は、気の遠くなりそうな研究の時間を費やしていたのだった。

そして、工夫を重ねて数多くの失敗のなかにも喜びを感じていたのだろう。その期間は膨大な退屈な時間を過ごしたとも思われる。オリンピックでの晴れの舞台で活躍する選手も、長年にわたる練習の成果を発揮していることになる。

体操選手も伸び悩むときは、基本にもどって倒立からすべてやりなおす人もいるらしい。それはすべての体操の基本が倒立だからだそうだ。できて当たり前のことをやることほど退屈なことはないだろうな。華やかに見えるのは結果だけか・・・

「自由」の根底に「退屈力」がある。

2012年08月28日 | Weblog
「自由」の根底に「退屈力」がある。

「退屈力」齋藤孝著より。

まず、勉強について触れていた。勉強自体は基本的には退屈なもので、それを乗り越えて、初めて面白いという段階がくるのだという。確かに基礎の部分はあまり面白くもない。

むしろ、どうしてこんなものを覚えなければいけないのかと疑問だったものだ。まあ、それを通過したからこそ、応用の面白さも分かってきたのだろう。

武道やスポーツには型があって、その基本を粘り強く繰り返して、初めて「技」を習得できるのだった。これも長い退屈な時間を費やさねばならなかった。野球なら素振り、相撲ならシコを踏むことになる。

結果的にクリエイティブなことも、単調な日々の作業の連続から生まれるものだった。エジソンは何度も同じような失敗を繰り返していたからこそ発明ができたのだ。

モーツアルトの才能も、ピアノの地道な努力と厳しい練習があったからこそ、自由に弾けるようになったのだ。自由な発想や技術はやはり退屈力のたまものだということができるのだろうな。

明らかに退屈に感じることを我慢するのが「退屈力」ではない。

2012年08月27日 | Weblog
明らかに退屈に感じることを我慢するのが「退屈力」ではない。

「退屈力」齋藤孝著より。

そこで、筆者は次のように説明していた。それは「傍らから見れば退屈に見えるようなことの中に、当人が退屈を感じずに喜びを見出していく力」だった。

始めは退屈だと感じたものの中に、自分から意味を見出して、それを楽しんでしまえればしめたものだ。そうなれば、もう退屈とは感じなくなる。

ポイントは、外から何らかの刺激が与えられているというわけではないというところだ。新たな外部からの刺激がなくても長く楽しめるというのは理想的だとも思える。

一見単純そうなことの中にも、何らかの意味合いを見出して、深く追求していければ退屈とは無縁なものになるだろう。そういえば、私たちが子供の頃、(昭和30年代から40年代)には、ひとりでこもってするゲームなどはなかった。

むしろ、単純だとも思える遊びを仲間と繰り返し、やっていたものだが、楽しむことができた。飽きずに毎日、いろいろな遊びをしていたものだ。さらには、自然を相手に身近にある素材や道具を使って創造的な遊びもできた。

質の高い仕事をするには、マンネリは大敵。

2012年08月26日 | Weblog
質の高い仕事をするには、マンネリは大敵。

「リラックスハック」小山龍介・小室淑恵著より。

べつに難しいことをいっているのではなかった。もし仕事に集中できないときには、場所を変えてみるといいというアドバイスだ。たとえば、ランチもいつもと違う場所ですることで気分転換になり、脳に刺激を与えてくれるらしい。

とくに午後になると疲れが出てくるものだ。そのため、午後の活力を得るためには、自分なりの工夫を凝らすといいようだ。その一つが、食事でもあった。

仕事でパワーを発揮するためには、常にリラックスを念頭に置く必要があった。いい仕事は、緊張しすぎないことが大事だということだろう。失敗を防ぐためにも、適度なリラックスは必要だった。

物理的に視野を変えてみるということを意識的にやってみるといいようだ。また、ある程度の仕事を成し遂げたら、あのランチを食べようと、目標設定とご褒美をセットにすると効果があげやすくなるという。今後試してみようかな。

「やることリスト」をやる気がないときほど活用・・・

2012年08月25日 | Weblog
「やることリスト」をやる気がないときほど活用・・・
「リラックスハック」小山龍介・小室淑恵著より。

仕事でいくつもやらねばならないことが重なってしまうことはしばしばだ。また億劫だと思える仕事は、どこから始めたらいいか迷ってしまう。しかし、いったん始めてしまうと、意外にすんなりといくこともあるものだ。

予測がつかないことほど不安になってしまう。先が見えないとその不安は大きくなるばかり。まずは「やることリスト」を作ることから始めるといいようだ。

書き出してみると、意外に少なくて、ほっとしたりすることもある。あとは優先順位に従って処理して行けばいいのだろう。筆者は「やることリスト」は「やり始めるためのリスト」でもあるというが、まさにその通りだ。

しかも、やることを6個に絞ってみるものいいとアドバイスしている。この個数は多くもなく少なくもないということでもあろうか。まあ、その日のやり残しの確認もしやすいのかもしれないな。

人の長所を探してお世辞をいうことは、いわば趣味のようなもの・・・

2012年08月24日 | Weblog

「武器になる会話術」内藤誼人著より。

こう語っているのは筆者の内藤氏自身のことだった。しかも、お世辞をいったからといって、絶対に見返りを期待しないこともポイントのようだ。

これは、“印象をみるみるアップさせる秘密の話法”という章にあったフレーズだった。趣味になるくらいにお世辞を言えるということは、相手をしっかり観察して長所を見つけられるからとも言えそうだ。

この自然体がいいのだろう。人と接する時に、自然とお世辞が言えるようになるには、訓練も必要と思われる。それができれば、円満な人間関係もできるに違いない。

お世辞も感謝の「ありがとう」と同じようにタダでできることだ。いくら言っても「言い損」などにはならないのもいい。また決してマイナスの評価を受けることもないのだった。「お世辞力」を磨きたいものだな。


「僕は冗談をいうのがヘタだ」という人は、単純に、努力不足なのである。

2012年08月23日 | Weblog

「武器になる会話術」内藤誼人著より。

人とのコミュニケーションで笑いがあれば、かなりスムースにいくことも多い。会話の中に笑いがあれば、人をリラックスさせる効果がある。緊張感も減るだろう。

逆にこれといった、楽しい情報もなく、まじめだけの人と一緒にいると疲れてきてしまう。職場でも親しみやすい人は冗談が言えるような人だ。その冗談が言えない人は、ネタの仕込みをしていないからだともいえる。自分だけのオリジナルなネタは難しい。

やはり何ごとも勉強と同じように努力しなければ、ネタは集められない。そして記憶するということだった。アメリカの大統領は気の利いたジョークを言うために、専門のスピーチライターがいて、それを覚えるというのはよく知られている。

たかが冗談でも、それを身につけられるかどうかで、人への印象はかなり違ってくるのだろう。そういえば、綾小路きみまろの漫談などは冗談の宝庫とも言えそうだな。


他人に相談するのは、「どうでもいい問題」だけにしておくのが賢明だ。

2012年08月22日 | Weblog

「武器になる会話術」内藤誼人著より。

自分のことで、時々迷ったり悩んだりすることがあるが、そんな場合は人に相談したくなるものだ。しかし、他人の意見など聞いても、あまり役に立たないことが多いという。

むしろ本当に大切なことなら、人に語ったり、相談しないほうがいいようだ。他人に相談を持ちかけて、その通りにしなければ、相手は不愉快な思いをするからだ。まあ、自分と同じ意見なら問題はないだろうが。

自分がまじめに相談しても、相手はいい加減な答えを出してくるかもしれない。「~~しといたほうがいいんじゃない?」というような答えもある。

内藤氏自身のことが述べられていた。「作家として筆一本で食っていこうかと思っているんだ」と親友や先輩に相談したら、返ってくる言葉は「そんなの、やめろ!」ばかりだったからだ。

しかし、筆者はすべての人の意見を無視して、本を書くことを決めていた。しかもその選択は誤りではなかった、と今でも思っていた。むしろ相談した自分がおバカさんだと述懐している。

人に相談することで、自分で決めたことに対して気持ちがくじけるくらいなら、意味がない。他人の意見など初めからどうでもいいと思っているほうがいいようだ。


感謝の言葉で、相手に喜びをプレゼントしよう。

2012年08月21日 | Weblog

「武器になる会話術」内藤誼人著より。

何かしてもらったときに、たった一言の「ありがとう」があるかないかで印象はかなり違ってくるものだ。この感謝の言葉は魔法のような効果もあるという。言われたほうは、気分は悪くはないはずだ。

感謝の言葉が口ぐせのように、出てくるようになればいいようだ。しかも、たんに口先だけの言葉だけでなく、その時の態度も重要だと思える。しっかりと目を合わせることも必要だろう。

また感謝の言葉は、即座に言えなければその価値は落ちてしまいそうだ。また、人に感謝する気持ちを持っていたほうが、自分自身も楽しく生きられるようだ。

さらに、感謝の言葉は、少しぐらい大げさに喜んで見せるというのもポイントだった。そうすることで、また次の機会にも助けてもらえる可能性も高くなるからだった。感謝の言葉はいつでもタダというのもありがたい。


会話に彩りを加えるのは、たとえ話しである。

2012年08月20日 | Weblog
会話に彩りを加えるのは、たとえ話しである。
「武器になる会話術」内藤誼人著より。

これは“人の心を動かす話法の秘密”という章にあったフレーズだった。話のうまい人は、たとえ話もうまいものだ。やはり抽象的な言葉より、具体的なたとえばあれば、内容も頭にすっと入ってくる。

キリストはたとえ話の天才でもあったという。どんな人にもわかりやすく話をするためにはそれが必要だったのだ。「話を聞きたくない人に話をしてはいけない」なら「ブタの前に真珠を置いてはいけない」と言ったそうだ。

実際に使われている名言なら身近にもいくらでもある。専門家やプロに余計なことを言うな、なら「釈迦に説法」といえば実にわかりやすく簡単に済んでしまう。

またオリジナルなたとえが思いつかないときは、比喩でもいいようだ。「頑固な汚れを落とす」は「頑固な汚れをブルトーザーのように落とす」と表現すれば、迫力が増してくる。

いかに相手が理解しやすいかがポイントのようだ。また。引用というのも会話で使えれば、説得力が高まってくる。同じことを言うにしても、平社員が「企業の目的は顧客の創造だ」というより、”ドラッカーによれば”、と権威がある人物がいったことならなおさら聞いてもらえそうだ。

みんな同じにするのは、不平等なサービスだ。

2012年08月19日 | Weblog

「しびれるブランドを作ろう」中谷彰宏著より。

高い商品を買うお客さんと小物を初めて買うお客さんとを比較して、まったく同じようなサービスはあり得ないものだ。雑誌の切り抜きを持って買いにくるようなお客さんもいるが、そのようなビギナーのお客さんには「バカにされない」ということで安心感が持てるのだろう。

一流といわれるブランドのショップに入るのは、やはりビギナーには敷居が高いとも思えるものだ。もうショップの入口に入るだけでもバカにされそうな気がするのではないだろうか。まず値札が気にかかるかもしれない。

そころが、そのブランドのヘビーユーザーであれば、別に何とも思わずに、どんどん店の奥まで入って商品を手にとって見られるものだ。それだけ自信があるということでもあるだろう。

そのブランドの常連のお客さんは、休日を避けて平日にゆっくり来店することが多いようだ。ゆっくりと商品を見て楽しみたいのだ。また販売員とのコミュニケーションを楽しめる余裕もある。

かつて、私の知り合いの方も、そんなひとりで、値札も見ないで一着で数十万円のジャケットを買ってしまうような人だった。そういうお客さんとビギナーではサービスが異なるのは当然だろうな。


修理に来ていただいて、初めて認めていただける。

2012年08月18日 | Weblog

「しびれるブランドを作ろう」中谷彰宏著より。

この直前には、「買っただけでは、認めてもらっていない」とあった。修理するほど使ってもらえるということは、その商品が気に入ってもらえているということでもあるだろう。

そのメーカーにとってはありがたいものだ。吉田カバンは「商品を販売した段階では完成度は70%」だと考えているようだ。カバンや靴が使われて、修理に出したときに完成すると考えていたのだ。

使っていてすぐに修理に出さなければならないような商品という意味ではなかった。長年使用しても、まだまだ修理して使いたいと思うようなものであれば、一流ブランドとも言えたのだ。

消費者の側からは、そういう考えはちょっと意外でもあった。なるほどとも思わせられる。しかし、メーカーからすれば、修理に持ち込まれた段階で、このお客様はユーザーになっていただけたと考えているようだ。

修理に来てもらえるお客様の数が多ければ、それだけ愛用者も多いと考えられる。修理に出したものが、まるで新品のようになって出来上がってくることは実にうれしいものだ。

メーカーからすれば、そのようなお客さんの喜ぶ顔が見えているのだろう。そもそも“しびれるようなブランド”はそこがしっかりとできているに違いない。


お店で大事なのは、ビギナーをユーザーに変えていくサービス。

2012年08月17日 | Weblog
「しびれるブランドを作ろう」中谷彰宏著より。

その店のお客さんになるかどうかは、はじめの印象が大事だということでもあるだろう。初めて行ったお店で気持ちがいいサービスを受ければ、また次にも行きたいと思うものだ。

しかし、その逆の場合は、いくらその商品がブランドもので気に入っていても、同じようなモノならほかの店で買いたいと思ってしまうだろう。消費者は気まぐれなもので、初めの印象が悪ければ潜在的ユーザーを逃してしまうことになる。

誰でもそのブランドに対してはビギナーな時期があるものだが、お店にとってはそのお客さんをユーザーに変えられるかどうかが大切なことだったのだ。もともとヘビーユーザーはいるだろうが、ブランドが強くなるためには、ビギナーとヘビーユーザーの間のお客さんを増やすことがポイントでもあった。

もし、そのブランドが高級品といわれるものなら、若いお客さんが来店した時に、きっと買わないだろうと初めから見下してしまうと、悪い印象しか残らない。そう考えると将来のユーザーをつくることはそうそう簡単ではなさそうだ。