ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

richかpoorかは、どれほどお金を持っているかではない、・・・

2010年09月30日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」2010.9月号より。

この言葉のあとには「持っているお金に対して満足かどうかで決まる。」とあった。もともとの名言は次のようになっていた。

“〈金持ち〉とはお金がたくさんあることではなく、もうこれ以上お金は必要ないと思っている人のことである。〈貧乏人〉とはお金がないということではなく、お金があってもまだ足りないと思っている人のことである。”

これは『いい言葉は心をリセットさせる』(久保博正1938-、作家)からのものだった。何となくこの本そのものも気になります。お金は必要なだけあればいいのだということだろう。

お金持ちでもまだまだ欲しいと思っていれば貧乏人と同じことになってしまう。上を見ても下を見ても切りがない。どうやって日々の生活に満足を感じていくのか。そちらのほうが大事なのかもしれないな。

それから、ここではやや関係ないかもしれませんが、時どきお金だけ貯め込んで、心が貧しい人っていうのもいますね。そんな人にもならないように注意しなければ・・・な。

商法は、売て悦び買て悦ぶ様にすべし。

2010年09月29日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」2010.9月号より。

これは「経済」というテーマのところで取り上げられていた、二宮尊徳(1787-1856、江戸時代の農政家)の名言だった。江戸時代の言葉ながらも分かりやすい。

商売は売り手にも買い手にもメリットがあるべきだという意味だった。たまたま「そんとく」という言葉の響きからは、「損得」ともなりそうだが、商売は自己の損得ばかり考えていても成り立たない。

やはり相手に対して、その商売でどれだけメリットが与えられるかも考える必要があるのだ。相手にメリットが多いほど、役だっているほど長続きしてうまくいくのだろう。

当然ながら、売り手にもそれなりのメリット(利益)が発生しなければ商売としての継続は困難だろうが。需要と供給の間に潤滑油としての双方の悦び(喜び)が必要なのだろう。

「発明した」より「発明する」のほうがはるかに大きな喜びである。

2010年09月28日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界」2010.9月号より。

この回のテーマは“科学”だった。上記の名言を残したのはカール・ベンツ(1844-1929)ドイツの技術者だった。ベンツ社を設立していた。現在もあの有名なブランド、メルセデスベンツのこと。

自分が以前に発明したものを誇りに思うより、これから発明することのほうが、喜びはずっと大きいという意味だっだ。過去の栄光を懐かしむより、これからのチャレンジを楽しめれば最高だろう。

作家はよく「一番好きな作品はどれか?」と言われた時、“ネクストワン”「次の作品」と答えるものだろう。何かを創造しようとする時、それまでよりいいものを作りたいと思うものだ。

数日前に10年連続で200安打を達成したイチロー選手の口癖も「現役のうちは過去を懐かしんではいけません」というものだった。新記録を更新していくときはプレッシャーも大きいはずだがその分喜びは大きいに違いない。

科学もスポーツも創作物も、次のチャレンジにさらにベストを目指すという点ではかなり似ているところもありそうだな。一般の人にとっても、今年より来年はもっといい年にしたいというのも同じかも・・・

完ぺきではないからこその魅力。

2010年09月27日 | Weblog
「相鉄瓦版」21010.9月号より。

(前日のつづき)
これもまた、服部(幸應)氏のエピソードからのものだった。ここでの内容のおおよそを書いてみると次のようになる。15年ほど前、友人からおいしいからと言われて開店間もないピザの専門店に赴いたことがあった。

本場イタリアの店主が作るピザはおいしかったので、それをテレビ番組で推薦することになったのだ。そして、ごく最近再び訪れ一口かじると食指が動かなくなってしまったという。

どういうことだろう。それは生地に高級な小麦粉が使われていたからだった。服部氏は今の完ぺきな料理より、開店当時の不完全な味わいにひかれていたのだった。

完ぺきな料理はおいしくいただけても、強烈な印象を残すことはないらしい。むしろ足りないものや欠けている部分がある料理の方が、心に引っかかるようだ。

ここまで書いてきたら、なんだか一般の社員、職員にもそんなことが共通していそうだと思った次第。新人の頃はとにかく懸命に、熱心に仕事に取り組む様子がうかがえる、目の輝きもあったりもする。好きな仕事に出会った時はなおさらそうだろう。

しかし数十年してベテラン社員になれば、仕事はある程度完ぺきにできるようになる。年齢や経験を重ねることで、要領は良くなってくるが、同時に失われる何かもあるのだろうな。最近はとくに体力、根気がなくなってしまった。困りもの。(話が大きくそれてしまった・・・)

安く、おいしく、そして食べた人を元気にしてくれる・・・

2010年09月26日 | Weblog
「相鉄瓦版」21010.9月号より。

この号の特集は“B級グルメをほお張りたい!”だった。ということで、上記フレーズのあとの“・・・”の部分には、当然ながら「B級グルメ」が入る。

そう語っているのが、意外にも料理家の服部幸應氏だった。一流の料理家でもあるにもかかわらず、B級グルメの味方だという。氏にとってのそれは、焼きそばと紅ショウガの組み合わせだった。それを食することで元気になれるという。

もう20年以上前から、「安心・安全で、健康的な食べ物を」というテーマで食育の普及活動を行ってきている。当然ながら、添加物や着色料は体に良くない。

しかしながら、ソース焼きそばを食べるとなると、あの毒々しい色合いの紅ショウガがないと満足できないのだった。この二つの組み合わせは、実にうまいとも思える。

私も時どき牛丼屋に行くが、そこでは紅ショウガをたっぷりとその上にかけて食べている人を見かけたりする。きっとそういう人にはその組み合わせが最適なのだろうな。私も使うがそれほどたくさんはは食べられないなぁ。

クリエイティブな仕事に「メモ力(りょく)」は欠かせない武器。

2010年09月25日 | Weblog
「天才になる瞬間」齋藤孝著より。

(前日のつづき)
これも黒澤明監督について述べられている項目で目にしたフレーズだった。当たり前とも思えるが、実際に武器として発揮させるためにはそれなりの量と内容が揃っていることが必要だろう。

最近ではケータイで簡単にメモることができるようになった。しかも珍しいと思った画像などもそのまま残せる。ところが、実際はそれだけで満足してしまい、その後十分に生かすことは難しそうだ。

機械まかせだと、どうしても十分とは言えない。私も時どきケータイのワンセグでテレビ番組などを録画するが、それを何度も見返すことが少なくなってしまった。

一番有効なのは、手書きのメモのようだ。それはいったん脳を通すことで、ちょっとした記憶も記録として残せるからだった。何でもデジタルの時代だからこそ、手書きのメモのほうがより生きてくるのかも。

“感動”や“ひらめき”というのは、たとえていえばトビウオみたいなもの。

2010年09月24日 | Weblog
「天才になる瞬間」齋藤孝著より。

いきなりトビウオという表現が使われていたのが意外性があって、しかも適切な表現だと思った次第。このトビウオを持ちだしたことで実にわかりやすくなっていた。

ここでは世界のクロサワ、黒澤明監督(1910-1998)を引き合いに出していた。(そうか今年で生誕100年ということだった!)氏は今でも世界で絶大な評価を受けている。スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスなどにも影響を与えていた。

そんな黒澤監督は、「創造とは記憶・・・」と述べていた。自分の経験や読んで記憶に残っているものがあるからこそ、創造できるということだった。監督の好きな言葉に「悪魔のように細心に!天使のように大胆に!」というのがあるらしい。

まずはち密な計算が大事だということだった。その計算に必要なものが記憶だったのだ。記憶するためにノートを活用していたと語っている。感動したことをノートに残しておくことで、その後の仕事のヒントをつかめたようだ。

つまりちょっとしたことも海面に姿を現したトビウオをすくうようにノートに記録しておいたからこそ創造を生むことができたのだった。凡人にはこのちょっとしたことが継続できないのだな。

社会で認められるための武器になるのは、再生よりも、“編集”する能力。

2010年09月23日 | Weblog
「天才になる瞬間」齋藤孝著より。

前日も触れたように、学業成績と天才の能力とは必ずしも一致しない。ここでの再生とは、たとえば、教科書に載っている言語化された情報を正確に再生する能力を指している。

しかし、それだけでは人にはまねのできない自分だけのスタイルでものをかたちにすることはできない。大事なのはそれを自分だけのかたちにする方法をつかんだときだったのだ。

それがここでいうブレイクスルーの瞬間ということになる。例として天才音楽家のモーツアルト(1756-1791)が取り上げられていた。彼はその後長年にわたって世界で聞かれる旋律をたくさん作り上げていた。

とはいっても、いきなりゼロからすべてが出来上がってきたわけでもなかった。彼以前の音楽家の膨大な作品が蓄積されていたからこそ、アレンジによって自分なりの世界を作り上げることができたのだった。

情報を蓄積し、加工し、今までなかったものを創造してきたのだ。いま身近にある発明品の多くもそのようにして生まれてきている。この本の著者の齋藤氏も、それまでの膨大な知識の蓄積があるから次々と読まれる本を生み出せるのだろう。

偶然をまきこみ、必然にしていくパワー・・・

2010年09月22日 | Weblog
「天才になる瞬間」齋藤孝著より。

この言葉自体に何となく強さを感じた次第。天才というと、子どもの頃はなんだか単に頭のいい人のようなイメージがあった。

ところが、後に天才と言われるような人は、学業では落ちこぼれの人も多くいた。つまりある分野で並はずれた才能を発揮できた人という意味だと分かる。

天才と限定することなく、一般の人たちでも、自分の才能をふと肯定したくなるようなことがあればいいのだろう。思いもかけずうまくいった時などはあるはず。

しかし、それは一瞬の出来事で、長続きはしないかもしれない。この本ではブレイクスルーがテーマになっていた。自分の才能に目覚めた瞬間だった。もちろんそれを求めることがはじめになければ、ブレイクスルーはやってこない。

成功体験があれば、それを蓄積することで、うまくいく機会が増えそうな気もする。だから、偶然さえも、巻き込んで必然にしてしまうというパワーが必要なのだった。

経営とは、人々をやる気にさせること以外の何ものでもない。

2010年09月21日 | Weblog
「ギフトE名言の世界」8月号より。

こう言い放っているのは、リー・アイアコッカ(1924- )だった。元クライスラー会長兼CEO。1970年にフォードの社長になるが、オーナーに解雇されていた。

しかし、その後経営難だったクライスラーに移り、再建に成功していた。そんなアイアコッカだからこその言葉なのだろう。“経営とはやる気を出させること”、というのは実にシンプルで分かりやすい。

これはまた経営だけではなく、たとえば教育者にも言えそうだ。生徒、学生にいかにやる気を出させることができるか、と考えてもいい。優れた教師は授業を楽しく出来るに違いない。

さて、実際に経営者はどれだけ一般社員にやる気を出させているだろうか。むしろ風通しが悪くて、トップの考え方が下にまで伝わらないことの方が多そうだ。

ということは、トップがそれだけ一般社員にやる気を出させることは困難なことだともいえそうだな。本来は役職が上になるほど下が何を考えているか、問題なのかを知るべきだろうな・・・

企業のトップは、昔は“えらい人”で務まっていたが、今は“プロ”でなければ務まらない。

2010年09月20日 | Weblog
「ギフトE名言の世界」8月号より。

これは飯田庸太郎(1920-2002,元三菱重工業社長)の残した名言だった。しばしば「えらい」という言葉を使うことがあるが、それほど深くは考えたことはなかった。

組織の中で「えらくなる」と考え、たんにその職場での役職が上の方の人というイメージだった。役職が上になったからといって、必ずしも尊敬できる人とは言えないだろう。

むしろ、その地位を得るためには、その他多くの人が犠牲になってることも考えられる。仕事がよく出来る、イコールえらい人というのとも異なりそうだ。当然ながら人間的にも優れていてほしいもの。

今では誰から見てもプロでなければ、務まらないのだろう。ある程度の専門的知識や豊富な経験と実行力、人的ネットワークなどがあって有能な人であることが必要なのだろうな。

これを書きながら、以前聞いたことのある、「企業は人なり」という言葉を思い出した。人とは社員でありまた優れた経営トップという意味も含まれているのだろうな。

芸術とは、目に見えるものを複製することではない。

2010年09月19日 | Weblog
「ギフトE名言の世界」8月号より。

ここでのテーマは「表現」だった。このフレーズのあとには、「見えないものを見えるようにすることだ。」とあった。いくら本物らしく再現してもそれだけでは十分ではなかったのだ。

この名言を残したのは、パウル・クレー(1879-1940,スイスの画家)だった。とくにあとのフレーズがあることで、前の表現が生きてくるように感じた。

芸術のレベルにまで高めるには、ただモチーフを忠実に描くだけではなく、それを見た人に何らかの感動を与えなければならないということなのだろう。もちろん忠実に再現できることも当然ながら難しいことだが。

絵画だけでなく、演劇、映画、文学、音楽すべての芸術世界に言えることだ。たんにその場限りが楽しければいいというのでは芸術とはいえないのだろう。どれだけ心に残せるか。

表現することは誰にでもできても、そこに深みを感じたりやそこから感動を与えるのは容易ではない。そう考えると軽々しく芸術などと口に出せない・・・

型にはまっているだけでは限界がある。

2010年09月18日 | Weblog
「スポーツマンガの身体」齋藤孝著より。

ここでは『バガボンド』を引き合いに出して語っていた。このマンガも『スラムダンク』と同じ井上雄彦の作品だった。吉川英治の『宮本武蔵』をマンガ化したものだった。

作品の質に対する評価も高かった。「講談社漫画賞」「文化庁メディア芸術祭大賞」「手塚治虫文化賞」を受賞していた。

さて、上記フレーズのあとには、すぐさま「しかし、型を持たない者は安定した力を発揮しにくい。」と続いていた。型に入って、型を出ることば武道、武芸の上達のプロセスだったのだ。

武蔵は型にはまった「剣道」の世界ではく実践の緊張感のなかで生きていた。生きるか死ぬか、何でもありの世界だったのだ。しかも自分なりのスタイルを持っていることも必要だった。

基本を身につけ、応用も可能な世界なら一般には、勉強(学習)や仕事(営業)の世界とも共通していそうだ。どちらも結果を問われるなら、ある程度の常識の範囲内であれば、何でもありと考えるべきだろうな。


量の積み重ねが質的な変化を起こす。それが技だ。

2010年09月17日 | Weblog
「スポーツマンガの身体」齋藤孝著より。

これは『スラムダンク』のなかのことから筆者がとらえた感覚だった。主人公の桜木花道がジャンプシュートを一人合宿で練習していた時、安西先生に何回やればいいのか聞くと、その答えは「二万本」だったのだ。

たとえ五百回やっても身につかないものは二万という具体的な数字を出されてやりきることで、練習メニューを組め、技化が起こってくるらしい。そして、一度できるようになれば、その感覚は忘れることがないようだ。

むしろ、一度技化してしまうと、消し去るのが難しくなるほどだという。これは齋藤氏の経験からも語っていた。テニスのサーブやバックハンドをそれこそ十万回単位で練習した後では、テニスをやらなくても感覚が日常生活の中で勝手に蘇って、筋肉がピクピクしてしまうことがあるらしい。

技化とはそれほどまでにも恐ろしいことだと感じているようだ。そして、武道やスポーツでは、一万回から二万回の反復練習が、技の習得の一つの目安とされているのだった。

スポーツマンガのもつ向上心・・・

2010年09月16日 | Weblog
「スポーツマンガの身体」齋藤孝著より。

ここではクリーンなスポーツマンガの代表として、『スラムダンク』を取り上げていた。これはコミックス累計一億部以上を売り上げた怪物スポーツマンガと言われている。

本格的にバスケットボールを取り上げていた。このマンガの影響で少年たちの間にもバスケットブームが広がったようだ。梶原一騎の泥臭さの感じられるスポーツマンガに比べてクリーンなイメージで女の子たちも惹きつけたようだ。

齋藤氏は、「スポーツマンガのもつ向上心は、少年たちが一度はくぐってもいいものだと思っている」と語る。だから、授業の時に教材としてもスポーツマンガを使うことも多いらしい。その中でも特に『スラムダンク』の場面を引き合いに出しているという。

たとえば、いじめにあったときにどうするか、友情はどうあるべきか、自分の弱点をどう克服していくか、プレッシャーにどう立ち向かうのか、地道さをどう獲得していくのか、・・・など、マンガを通じて伝わってくるものがあるようだ。

しかも、単なる説教なら聞く耳を持たないものも、マンガならすっと入ってくるのかもしれない。齋藤氏自身、このマンガは近所の中学生に勧められて読んだのが最初だった。そして全巻を一気に読み通して感動したという。

さらには、そこに触発されて『スラムダンクな友情論』という本まで書いてしまっている。仕事をする前に時折、『スラムダンク』を読むとテンションが上がって仕事がしやすいとも述懐している。