ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

善き教育と芸術的創造はかならずしも正比例してこない・・・

2011年12月31日 | Weblog
「踏みはずす美術史」森村泰昌著より。

森村氏自身の経験から、面白いことを言っていた。それは美術大学の受験の際、氏は幸か不幸か自分にとってはよくない先生に出会ってしまったという。そのためすっかりヘタな絵しか描けなくなってしまったようだ。

そのため自身で「上手な絵を描く方法」の発見ができたという。そのおかげで、これまであまりみんながお目にかかったことのない作品を創造できる芸術家になれたと振り返っている。

もし氏がデッサンが上手な画家になっていたら、たんに上手なだけで魅力に欠けたテクニシャンから脱却できなったかもしれないと自己分析していた。

悪い教育が氏のオリジナルな芸術的創造につながっていたというのは皮肉な結果だ。しっかりと勉強して基礎が出来上がったからといって、そのことで必ずしも人に感動を与えられるとは限らない。

よくタレント活動をしていて、美術学校で専門に学んだわけでもないのに、インパクトのある作品を描いたりしている人もいる。むしろだからこそ、独創的な作品ができるのかもしれないな。時には素人の作品のほうが新鮮にも見えることも多い。


「名画」、この言葉にはふたつの意味がある・・・

2011年12月30日 | Weblog
「踏みはずす美術史」森村泰昌著より。

こんな単純な言葉はあまり深く考えたこともなかった。一つは「名作絵画」という意味で、上手な絵ということらしい。デッサンもしっかりしていて、色彩感覚にも秀でた傑作ということだった。

もう一つは「有名絵画」という意味でも使われることもあるという。この場合は上手ではなくても、いいようだ。ヘタでも人に感動を与えることができればいいのだった。

この説明にさらに、一般的に身近な歌を引き合いにだしていた。歌が上手なことやルックスのよさが人気歌手の絶対条件ではないという。場合によっては歌唱力がなくてもヒットしてしまうこともある。

たとえヘタであってもじゅうぶん立派な表現となっていればいいようだ。それもすべて自分ひとりだけで成し遂げられるわけでもないだろうが。多くの人に支えられてこそなりたつものだろう。

よく絵画作品を展示会などで見ると、いったいこの作品のどこがいいのだろう、と思うような絵画に出くわすことがある。しかし専門家の評価ではそれも名画といえるのだろう。時には人にはそれを観る力が要求されるのだろうな。

「モナ・リザ」はまさに「西洋」という名の商品のコマーシャルをする人気タレントではないか。

2011年12月29日 | Weblog
「踏みはずす美術史」森村泰昌著より。

まずはこの本のタイトルが気になったので手にした次第。サブタイトルとして、“私がモナ・リザになったわけ・・・・”とあった。これは森村氏自身のアート作のことを言っている。

氏は名画の中に自分がメイクや衣装をつけてその絵画の中に入り込んでしまうというセルフポートレイト作品という独自のジャンルを創りだしていたからだ。私も過去2回ほど氏の作品展を美術館で観たことはある。また美術関連の本でもたびたび氏の作品は観ていた。

さて、「モナ・リザ」は実物を見たこともない人も、写真や美術の教科書で見覚えがあるはず。世界の絵画史上の最高に位置していると森村氏は語っている。つまりそれがイコール西洋絵画の魅力にも通じるようだ。

森村氏は次のように面白い表現をしていた。・・・「モナ・リザ」とは、長きにわたって西洋美術(西洋文化)の素晴らしさを宣伝し続けてきたキャンペーン・ガールである。・・・こんな発想は初めてだったので気になった次第。



遊ぶことで新たな地平にジャンプしている。

2011年12月28日 | Weblog
「岡本太郎の仕事論」平野暁臣著より。

それにしても、クリエイターとしての岡本太郎の活動範囲は広かった。最も有名なのがモニュメントとして残されている『太陽の塔』だろう。

絵画のほか、陶芸、グラフィックデザイン、プロダクトデザイン、インテリアデザイン、壁画などもあった。テレビCMにも出演していた。

かつて私も手にしたことがあるのが、底に顔が彫られているウィスキーグラスだった。こんなオマケの商品にもデザインを提供していた芸術家は少ないだろう。

どれもこれもインパクトがあった。テレビでも見たことがあるが、ツノの生えた釣鐘もあった。常識破りとも思える。これはあるお寺が制作依頼したものだった。

こんな初めての仕事を真剣な遊びととらえて、新たな表現世界の境地を切り開いていったのだろう。初めてのものも面白がって創ることができるのは、太郎の強みだったのだ。


芸術は「無償のコミュニケーション」として放射されるべきものであって、商品ではない。

2011年12月27日 | Weblog
「岡本太郎の仕事論」平野暁臣著より。

太郎はまず、太陽を引き合いに出していた。太陽は見返りを求めない。100パーセントの無償無条件だという。地球上の人間に恩恵を与えるだけの存在だからだ。

つまり芸術もそうあるべきだというのが、太郎の芸術論だった。絵は売らずにすべて持っていたという。太郎展をやれば、代表作品はどこでも観ることができたそうだ。

もしほかの作家のように絵を売っていたら、そういうわけにはいかない。とくに有名になればなるほど、作品は世界のあちこちに散らばってしまう。多くは金持ちやコレクター、企業に買われて一般大衆の前からは姿を消してしまう。ということは初めからなかったのと同じともいえる。

太郎の言葉があった。「銀行預金のようにしまっておく芸術なんて意味がない。金持ちに買ってもらうためにシナをつくる芸術なんて卑しい」と。実際売らないから経済的には苦労したことも多かったようだ。

経済を支えていたのは、原稿依頼、講演依頼、新聞の挿絵、デザインといろいろとあって、絵を売らずになんとか生活はできたそうだ。それにしても、自分の哲学を貫くのはすごいことだ。


人生、即、芸術。絵を描く行為が芸術なのではない・・・

2011年12月26日 | Weblog
「岡本太郎の仕事論」平野暁臣著より

これは岡本太郎自身のの言葉だった。つまり作品制作は手段であって目的ではなかったという意味だ。太郎にとって作品は、自らの思想を込めて社会に送り出すためのキャリアー(搬送台車)のようなものだったと、筆者の平野氏は語っている。

これは実に新鮮な考え方だと思った次第。ふつうなら作品自体が芸術だと考えてしまうものだが、岡本太郎については、考え方、生きることそのものが芸術だったという意味だろう。

そういえば、さまざまな表現活動をしていた。絵画、彫刻、デザイン、多くの著作、書、建築・・・さらにテレビへの出演なども多かった。どれもこれもが自分自身を表現する、発言するための機会だったとも思える。

今更ながら岡本太郎自身の存在が作品だったのか、と言われればなんとなく納得できる気もする。太郎は職業を聞かれると困ったらしい。“本職?そんなのありませんよ。バカバカしい。・・・『人間ですね』”という。

「これも修業だ」という考え方は、自己肯定の一つのかたち・・・

2011年12月25日 | Weblog

『結果を出す人の「やる気」の技術』齋藤孝著より。

筆者は「修業」とは不合理を引き受けることだという。いろいろ見まわしてみれば、不条理、不合理、不公平なことと思えることはいくらでも出てくる。

たとえいくら努力したところで必ずしもそれが報われるとは限らない。むしろムダになることのほうがほとんどではないだろうか。だからといって文句をいってもしょうがない。

そんな時は「これも修業だ」と考えてしまったほうがいいようだ。納得できないことは実に多いものだ。投げやりになっても決して得にはならない。

もし修業感覚を身につけることができれば、強くサバイバルしていくことも可能なようだ。そのような発想が逆境を力に変えられると齋藤氏は考えていた。


やりがいのない仕事であっても楽しむことが大切・・・

2011年12月24日 | Weblog


『結果を出す人の「やる気」の技術』齋藤孝著より。

確かに日々の仕事がすべてやりがいがあるかといわれれば、そうでもないことのほうが多いかもしれない。それでも、仕事はやらなければならない。できるならその仕事を楽しみたいものだ。

はじめから「退屈な仕事」というものがあるのではなく、その人の気持ちの持ちようで、ある程度は面白くできるようだ。一見無駄だと思えるような仕事でも、あまり深く考える必要はないという。とにかく没入して技術を高めると思えばいいのかもしれない。

はじめから面白い仕事はないと思って、あとはそれをどうやって面白くできるか自分で工夫するしかないようだ。それもある程度の経験や余裕がないと無理な面もあるとは思うが。

筆者はどの仕事も「いま」に没入してやることが大切だという。ゾーンに入って楽しんでしまおうと考えればいいようだ。ここをもう少しこんなふうにしたらラクかな、速くできるかなど小さな課題に集中する感覚だった。

「特訓感覚」を身につけるというのは、バカバカしささえも自分の見方につけてしまうこと・・・

2011年12月23日 | Weblog

『結果を出す人の「やる気」の技術』齋藤孝著より。

齋藤氏自身の経験からのことで、これも面白い考え方だった。氏はへんてこりんな特訓もいろいろしていたようだ。手の指をどれだけ反らせることができるか。かつて指を反らせることでリラックス効果があると知ってから、鍛えれば柔軟になるのではないかと特訓したそうだ。

誰もそんなことは思いつかないだろう。また頭の皮をどう柔らかくできるのかと考えて頭皮マッサージをやりすぎて、頭から血が出てしまったそうだ。また息を溜める訓練をするため、駅から駅の間ずっと呼吸を止め続けたりもしたという。

どれもこれもバカバカしいことと思える。そんなことをして恥をかいたことも、失敗したことも、それなりの特訓を残していまに役立っているそうだ。場合によってはそれが自分の得意ワザにもなるのだろう。

他人にとってはどうでもいいことのようなことも、自分の中では特技につながることも多そうだ。それも好きで特訓した成果だろう。それは芸人ばかりではなく、日常生活でもちょっとした自信につながるかもしれない。


飽きやすい人こそ、“特訓”に向いている。

2011年12月22日 | Weblog
『結果を出す人の「やる気」の技術』齋藤孝著より。

誰でもやったことに対しての結果は出したいもので、気になるものだ。とくに試験などはそうだろう。仕事でもスポーツでも健康管理やダイエットでも同じことが言える。

ところが、誰でもがその努力をするのは苦痛と感じることが多い。いつまでその努力を続けなければ結果が出るのだろうかと思うと嫌になってしまう。そのうちに飽きてきてしまったりするものだ。

そこで、ある一定期間に限って集中的にやることで、その結果を出そうと考えるのもいいようだ。つまりそれが特訓ということになる。堪え性のない人も短期間ならできるだろう、というのが齋藤氏の考えだった。

むしろ飽きやすくて長続きしない人にこそ、特訓を勧めている。しかも、やらされ感がないように、自分の意思で目標と期間を設定するというのもちょっとしたポイントだった。どんなことも自ら進んでやれればその気になるものだろうな。


ムダ使いをしないと、お金に対しての執着心が取り払われない。

2011年12月21日 | Weblog

「男は女で修業する」中谷彰宏著より。

この部分のはじめは次のように始まっていた。「オヤジは役に立つ使い方はできますが、ムダ使いができません。・・・」と。そういえば、私はとっくにオヤジですが、ムダ使いはけっこうしてしまう。使いもしないのに、衝動買いをしてしまったりする。

その時はムダだと思って買ったモノや費やしてしまったモノもあとから考えると、それでよかったかもと納得できたりもするから不思議だ。中谷氏はお金に執着し始めると、お金は増えないと言っているが、そればかりか楽しめるチャンスも失ってしまう気もする。

中谷氏は面白い表現を使っていた。それは、“「少年の心」と「大人の財布」を持つ男”だった。少年の心とは、自由でとらわれないという意味だった。また大人の財布とは、お金以外に、経験、知恵、知識、人脈などのデータベースも入っているという。

少年はムダ使いをするものらしい。子どもの頃を振り返れば、ムダ使いは楽しかった。お金を残すことなど考えなかったからでもあるだろう。大人になってもムダ使いしないようとばかり考えているとつまらないオヤジになってしまう(らしい)。気をつけねば。


お金持ちだけれどもケチな人は、貧乏性・・・

2011年12月20日 | Weblog
「男は女で修業する」中谷彰宏著より。

お金がたっぷりある人はいるものだが、だからといって金払いがいいとは限らない。お金持ちと豊かさとは違うらしい。

お金持ちはどれだけ勝ったかということのようだ。そして、豊かさは、どれだけお金を使いきったかということらしい。いくらお金を貯め込んでも有効に使わなければ意味がないことになってしまう。

物理的にお金持ちな人よりも、精神的に豊かな人のほうがモテるようだ。そういえば、実際にお金を持っていそうな人だからと言って人から好かれるとは限らない。身近でもむしろお金に大らかな人のほうが人に好かれている。

貧しいというのは、金銭的に貧しいというより貧乏性だということになるようだ。まあ、金持ちになれないならせいぜい使って楽しみたいもの。それで精神が少しでも豊かになればいいかな。


楽しみながら、それで食べていけるのが本当のプロ。

2011年12月19日 | Weblog

「男は女で修業する」中谷彰宏著より。

ここでのタイトルは“楽しみながら稼いでいる男が、モテる。”だった。確かに連日苦しみながら仕事をしている状態なら自分も楽しめないし、人を楽しませる余裕もないだろう。

中谷氏は、男には3通りあるという。1、ただ稼いでいる男。2、ただ楽しんでいる男。3、楽しみながら稼いでいる男。このうちモテるのは3だというがそれは当然だとも思える。しかし、それは実際難しそうだ。

たとえば一流と言われるスポーツ選手などは、実際に楽しみながら稼いでいるように見える。筆者は、ただ食べていけるだけではプロとは言えないともいう。

仕事をする限りは、プロ意識を持っていたいものだ。つまりここでは、その仕事を楽しんでできるということだろう。今後ともそれを目指したいものだが・・・。


「勉強すること」イコール「のんびりすること」で、」気分転換になっている・・・

2011年12月18日 | Weblog

「男は女で修業する」中谷彰宏著より。

この部分のタイトルは“男のレジャーは、ゴロ寝。女のレジャーは、勉強”となっていた。そういえば、のんびりしたい時はただなんとなくごろごろしてしまう。

レジャーも大きく3つに分類されるという。それは1次レジャー、ゴロ寝。2次レジャー、娯楽。3次レジャーは教養・勉強だそうだ。

男は1次がメインで、頑張ってもゴルフ、マージャン、カラオケ程度らしい。女は3次レジャーまで入っているそうだ。確かにカルチャーセンターは昼間だから女性がメインだろう。

学びの機会も女性の方が多いのかもしれない。美術館に行くというのも、レジャーだった。余暇で教養をつけるというのは、レジャーにもなっている。

勉強して、それが気分転換になるという発想は面白そうだ。確かに一部では語学の勉強が趣味だという人もいる。何かを自分なりに研究するというライフワークを持ちたいものだな・・・


小さいお礼をどれだけ忘れないか、それに気付けるかどうかが大切。

2011年12月17日 | Weblog

「男は女で修業する」中谷彰宏著より。

男の場合はついついお礼を言い忘れてしまうことが多い。言っても「社交辞令」になっている。女はそれが大事なコミュニケーションになっているらしい。

ちょっとしたことでも、感謝されればうれしいものだ。コミュニケーションのなかでも、お礼は大事なものだった。

そういえば、もう30年も前のことだが、知り合いの弁護士事務所の秘書の女性に何かの書類を届けてもらったことがある。その際コーヒーを一杯差し上げたのだ。

すると、数日後丁寧なお礼の手紙をいただき、嬉しかったことを思い出した。その直筆の文字があまりにもきれいだったので印象に残っている。できる女の人は違うと思った次第。

男は大きいことのお礼は言えるが、小さいことのお礼はついつい忘れがちになってしまうもの。こんなところも注意せねばと思った次第。