ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

何かにつけて「これにネーミングするとしたら?」と考えるようにする・・・

2011年10月31日 | Weblog

「偉人たちのブレイクスルー勉強術」齋藤孝著より。

この本のサブタイトルには「ドラッカーから村上春樹まで」とあった。実際はオリジナル勉強術を確立した偉人たち16名について書かれている。そのトップバッターがドラッカーだった。

学びのヒントとして、やる気はあるが、成果を実感できない人向けのアドバイスがあった。それは「目標管理とネーミング思考術」だった。まず彼は期間を区切り「アクションプラン」に沿って計画的に勉強を継続していた。

しかもそれは、心の中で思うだけでなく、よく目にするところに書いておくことがポイントだった。さらに短期目標、長期目標をはっきりさせることも重要だった。

またドラッカーは多くの人があいまいなものとしていることに対して、名づけをする名人でもあった。よく知られているのが「マネジメント」「経営コンサルタント」「目標管理」「分権化」「民営化」「知識労働者」などだ。

筆者は、ネーミングを考えることは、概念を的確に把握するコツを身につける勉強になると述べていた。自分で考えたアイデアやネーミングは意外に忘れないものだ。とくに耳に心地よい語感のものは覚えやすいと思える。





一度、身につけた「決め球」は一生もの・・・

2011年10月30日 | Weblog
「偉人たちのブレイクスルー勉強術」齋藤孝著より。

ここでの決め球とは、自分の勉強スタイルを確立するというような意味だった。この本のタイトルにある“ブレイクスルー”とは、たまに目にするが、行き詰まり状況を突破するという意味だという説明がされていた。

勉強は本来状況を打開してくれるものではあるが、それも自分にフィットしていなければ、ブレイクスルーは起きにくいようだ。大人になったら、なるべくストレスがないように効率的に学びたいものだ。

そもそも学生時代の勉強は義務感でやらされるようなものに感じられた。しかし、本来は未知のことに対する好奇心から自発的に湧き起こってくる欲求であるべきものだった。

興味がある勉強を継続するには、「自分にあったペース」「自分の好きな方法」で「追求していく」のがベストだと提案している。また身銭を切るということもポイントだった

1回の「大説得」より、「100回の「小説得」で動かす。

2011年10月29日 | Weblog

「パワーロジック」内藤誼人著より。

この章でのタイトルは「上司を動かすパワーロジック」となっていた。つまりどうしたら上司を動かせるのだろうかということで、タイトルにあげたようなこまめな説得が必要だという。

別に上司である必要はないと思うが、人を説得するためには、一度ですべてをやろうとしても、逆に肩に力が入り過ぎてうまくいかないものだ。営業の場でも同じことだろうが。

むしろ訴えたいことは、手を変え品を変え、くり返すことで確率は高まるという。また広告なども、何度も見せられているうちに、ポジティブな感情がわいてきてしまうようだ。

繰り返しの力は大きい。繰り返し説得を試みる場合、それを裏付ける根拠は小出しにする方がいいというアドバイスもあった。一度に出してしまいそれを否定されてしまうと苦しくなるからのようだ。


人は、話の内容よりも、それを語る当人の熱っぽさや身振り手ぶりなどのほうを重視する・・・

2011年10月28日 | Weblog

「パワーロジック」内藤誼人著より。

話には情報を単に正確に報告するよりもむしろ、個人的な感情や意見を含ませたほうが聞いてもらえるということもあるらしい。

あるアメリカの大学博士に実験によると、話の内容それ自体よりも、「説得者」の話し方や性格のほうに大きな影響を受けることがわかったという。

たしかに同じような内容でも平社員が言ったのと上司や社長が言ったのとでは聞こうという気持ちも違ってしまうだろう。また同じ役職でも人柄、品格、人格のようなものでも差が出てしてしまうようだ。

モノを買う立場なら同じ商品を同じ価格で売っているなら、やはり感じがいい人から買いたいというのが本音だ。日頃から情感を出せるような話し方をしているだろうかと振り返ってしまった。会話の抑揚もポイントのようだ。


「たとえ話」は、私たちの五感を揺り動かす効果がある。

2011年10月27日 | Weblog

「パワーロジック」内藤誼人著より。

ここでのタイトルは“心に訴える「鮮明効果」を狙う”、となっていた。つまり人にわかりやすく説明して理解してもらうためには「たとえ話」は有効だということだ。

当然ながら抽象的な話を一度聞いて理解するのは容易なことではない。頭のなかでそれをまた自分にわかりやすく翻訳しなければならないこともある。

つまりいいたいのは、こういうことだろうな、というふうに。世界中の子どもが愛読するものに「イソップ物語」がある。そこに出てくる動物たちのたとえがあるからこそ、幼い子供たちにも理解できるし、納得できるものになっている。

ただ単に、こうしなければいけないといわれても理解しにくいものだ。ところがそればウサギやカメ、キツネなどが登場すると実に話が鮮明になってくる。

もし説得効果を高めたい時は、相手の記憶に残りやすいたとえ話が効果的だという。しかし、そんな比喩が簡単に出てくるにはやはり訓練も必要そうだな。


私たちは、長い情報よりも短い情報を生理的に好む。

2011年10月26日 | Weblog
「パワーロジック」内藤誼人著より。

たとえば映画の説明などもいきなり長い文章があると読むのに心構えが必要そうだ。しかし、要約してあったり、ワンフレーズだけならすぐにでも読める。ブログも文字がびっしりだと読む気もしないかな。

説得には「長さ」よりも「質」が大切なようだ。短い文章でも面白そうだと思えば、その先を知りたくなるものだ。人の話も長引くと嫌になってしまうものだ。

有名な俳句や名言も短いからこそ頭に残りやすい。広告のコピーも数十年前のものでも、短いほど覚えている。たとえば、「男は黙って~」や「スカッとさわやか~」などはすぐに思い浮かぶ。

ある博物館でのラベルの説明文を150ワードから50ワードにしたら、それを読む訪問者は2倍以上も増えたという。やはり誰も長ったらしい情報は好きではないということだろう。


「疲れた」と「だるい」は本来正反対の状態である。

2011年10月25日 | Weblog

『人生を変える万有「引用」力』齋藤孝著より。

この章のタイトルは「幸福になるための身体能力を引き出す」となっていた。実に積極的な意味合いがありそうだ。そこではストレスを解消することが大事だという。

ここでの引用は次のものだった。「エネルギーが余るとだるくなる、暴れたくなる。けれども、ちょうどいい時は快い。」(『整体入門』野口晴哉著)となっていた。

ついつい「疲れた」も「だるい」も一緒のものと思っていたが、別ものだったのだ。「疲れた」はもうこれ以上、体が動けない状態で、「だるい」はエネルギーが余っている状態だった。

たしかに適度の運動をして汗を流した後は気分もすっきりする。疲れたと思っても、神経だけが疲れていて、体にはエネルギーが余っていることが多いのだろう。

だからエネルギーの発散は大事なことだった。体力があるのに会議や授業で長時間座らされていればだるくなるのは当然のことだったのだ。


身体のタフネスはメンタルのタフネスにもつながる。

2011年10月24日 | Weblog

『人生を変える万有「引用」力』齋藤孝著より。

齋藤氏は小学生も教えているが、そこで大事なのは集中する体をつくることだという。とくに子どもは同じ姿勢でいるのはむずかしいらしい。

大人の仕事でも同じ姿勢で集中力を持続するのは大変なことだ。筆者はスポーツ好きだが、筋力トレーニングは筋肉を硬くすると思って、積極的ではなかったという。

しかし、実際筋力をつけてみると、基礎代謝が高く、疲れにくくなったという。今まで重かったカバンが軽く感じられたようだ。

筋力をつけると、日々の生活から起きるストレスを減らせることにも気づいていた。つまりそれが、メンタルのタフネスにもつながるということなのだろう。



とにかく褒め上手は、対人関係において、ひじょうに武器になる。

2011年10月23日 | Weblog

『人生を変える万有「引用」力』齋藤孝著より。

人を褒めるということは、できそうでできないことだと感じている。まず、その人のいい点を見つけ出すには観察が必要で、それをまた言葉にするのも大変なことだろう。

筆者は対人関係を円滑にして、人望を集める一番効果的な方法は、相手を評価し、リスペクトすることだという。だからこそ、それが普通にできるなら武器にもなるということかもしれない。

人を褒めることは、自分にもプラスになるということだ。とくに子どもは評価して褒め続けると伸びていくものらしい。誰でも褒められればやる気も出るものだ。

ここにわかりやすいイラストがあった。それは「聞いてもらえる注意の仕方」とあって、「ほめる(80%)」と「アドバイスする(20%)」とあった。ここでのポイントは「注意」ではなく「アドバイス」だった。


彼はお客をエンターテインしている。

2011年10月22日 | Weblog

「ワクワクするビジネスに不況はない」小阪祐司著より。

どこにでも同じような価格で売られているものは多い。たとえば、米はどこの町にでも売られているが、ある米屋には、ファンレターが来るほど繁盛しているという。

ここに例として取りあげられていた米屋では、ニューズレター(会報のようなもの)を発行していた。そこには、その店の店長がテレビなどを見て感じたことが書かれているようだ。

これは普通のダイレクトメールと違って「セールの案内」などの売り込みは一切ないという。しかもそれを継続してお客さんに配るというもの努力がいるだろう。

せっかく会報を書くならといって、商品の売り込みもついでに一緒にしてしまいたいだろうが、それがないようだ。彼は米屋であるだけでなくある意味人を楽しませる「芸人」でもあったのだ。

これもまたある意味エンターテイメント・ビジネスということのようだ。この章のタイトルは「顧客をエンターテインせよ!」となっていた。これで実績があがればやりがいを実感することだろう。


お客が欲しいものは「ワクワクする体験」であり、自分にとって価値ある<意味合い>・・・

2011年10月21日 | Weblog

「ワクワクするビジネスに不況はない」小阪祐司著より。

筆者は文中で「売れないのは売ってないからだ」と太い大文字で強調していた。この場合の「売ってない」とは、売るための努力、工夫というようなニュアンスがある。

要するにお客さんがそれを買う理由が分からないから買わないということだった。たとえ、商品の説明はしっかりしていても、それは買う理由とはまったく異なる次元のものだろう。

それは自分にとって、はたして価値がある商品なのだろうか、というところが問題なのだ。いくら高性能の車だと説明されたところで、お客はその理由で買いたいとは思わないかもしれない。

たとえば、人によっては「犬は乗せやすいか」「ぬかるみには行けるか」「自分の家族全員が快適だろうか」などまったく価値が異なるのだった。

売る側としては一つの商品から、どれだけ「意味合い」(価値)を創ることができるかが勝負に思える。これは幅広い想像力がなければできないことだろうな。


ところどころ「まるで不景気ではない」現象に出会わないだろうか。

2011年10月20日 | Weblog
「ワクワクするビジネスに不況はない」小阪祐司著より。

この本を読み進むうちに、何年か前にも一度購入して読んだ気がしてきた。(検索したら6年前の10月半ばだった)しかし、読んでみるとまた新たな気づきもあったので取り上げてみた次第。

この第一章は「市場はワクワクを待っている」となっていた。タイトルにあげたように、不況と言われているにもかかわらず、それを感じさせない現象があるものだ。

最近では発売されたばかりのスマートフォンiPhone4Sだった。予約も殺到し、発売初日から大混乱の様子がニュースとなっていた。やはりワクワクさせるものには人は敏感だということだろう。

時どき自分でも経験することだが、都内の有名レストランに家族で行こうとする場合、必ず予約しないければ入れないところがある。それだけ繁盛しているということだ。また街中でも行列のできる食堂はしばしば見かける。

売れないとはいっても、やはりいいものはしっかりと売れていることがわかる。ディズニーリゾートが閑散としているなどは聞いたことがない。そこには常にきっとワクワクするものがあるからだろうな。


身銭を切ってでも一緒に遊びたいと思えるかどうか・・・

2011年10月19日 | Weblog

「大人のための友だちのつくり方」横沢彪著より。

本当の友だちなら、身銭を切って一緒に遊ぶものだろう。自分が楽しむためなら身銭を切るのは当たり前のことだ。

つまりこれは自分自身に投資するということだと横沢さんは言っている。友だちとのコミュニケーションで得るものは多い。何げない会話のなかでも知らなかったことを教えてもらえることがある。

また一緒に遊べる人は金銭感覚が一緒の人のほうが多いということになる。もし同じ趣味を持っているなら、それを通じて友だちになりやすい。

仕事だけを通じて知り合って会話しているうちは、まだまだ本物の友だち関係とは言えそうにない。もっとも今は経費など使えるほどの余裕もないが。

それなら、かわりに時間をその友だちに対して使えるかどうかも、友だち付き合いのなかではポイントではないだろうか、とふと考えた次第。


ビジネスライクな会話も、「笑い」の要素があるにこしたことはない。

2011年10月18日 | Weblog

「大人のための友だちのつくり方」横沢彪著より。

横沢さんにとっては、「笑い」は仕事の材料でもあったのだが、一般の人にとっても「笑い」はあったほがうまくいく場合が多い。

仕事だからといって、必要なことを事務的に伝えるだけではちょっと味気ない気もする。もし、そこで冗談でも言えるなら、意外に親しくなれたり円滑にものごとが進むこともある。

友だちになろうとするなら、お互いに笑える相手との方が親しくもなれるはずだ。初対面でいきなり笑いがとれるならベストだろうが。

逆に初対面でも、単に事務的な会話に終始すれば、第一印象としてはお互いにつまらないものだろう。むしろその後の印象は残らないかもしれない。

たとえいきなり笑いが難しいなら、それなりの印象を残すには、ちょっとした、「へえ!、オヤ!」などの感動もいいかもしれない。ある程度の工夫が必要だろうが。



幸せ感を得るには、幸福のハードルをあまり上げすぎないことだ。

2011年10月17日 | Weblog

『人生を変える万有「引用」力』齋藤孝著より。

この章のタイトルは「生と死を受け止める力をつける」となっていた。これだけだと何だかやや重い感じがする。

そこには太宰治の『ヴィヨンの妻』という小説からの引用があった。「人間三百六十五日、何の心配も無い日が、一日、いや半日あったら、それは仕合せな人間です。」とあった。

あまり欲をかかずに、これくらいハードルを下げておけば、大丈夫なようだ。なんでもうまくいく方が少ないと思えば、気も楽になる。

ついつい思い通りにいかないとダメ人間だとおもったり、自分だけ不幸だなどと感じてしまうものだが、それが普通だと思っている方がいいのかもしれない。

むしろ、今が普通に暮らせるなら、それまでがラッキーだったのだと思うべきなのだろうか、とふと思ってしまった。心配はしたら切りがないし・・・