ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

人生の面白さというのは、何かに執着することから始まる・・・

2014年01月31日 | Weblog
人生の面白さというのは、何かに執着することから始まる・・・

「自分を100倍も面白く生きられる」藤本義一著より。

これは藤本氏の意見だが、同感だと思った次第。器用だからといって、あれこれと食い散らしているうちは、人生の面白さはわからないだろうという。

むしろ不器用でも、何か一つに執着して極めたほうがいいようだ。しばしば職人といわれる人達は、そうして誰にも真似ができない技を身につけたのだろう。

不器用だからこそできることがある、という考えもおもしろい。エジソンは偉大なる不器用人間だと思ったらしい。一つのことを追求したら、寝食をわすれて没頭してしまうからだった。

しかし、他人にまねのできない発明に対する執着心、才能があったのだ。オリジナリティはこの執着心から生まれるというのも頷ける。その執着心は不器用な人が世の中を渡っていくうえでの武器と考えるべきだったのだ。

なぜ、劣等感を持っている人が大成するかというと、執念があるから。

2014年01月30日 | Weblog
なぜ、劣等感を持っている人が大成するかというと、執念があるから。

「自分を100倍も面白く生きられる」藤本義一著より。

人が成長する過程で、劣等感を考える前に、ライバルの存在というのも大きいだろう。お互いのいい切磋琢磨はよい結果をもたらすものだ。

藤本氏のライバルといえば、すぐに思い浮かぶのは井上ひさし氏だ。先に直木賞をとったのは、井上氏だった。だから、藤本氏は彼に対して劣等感がものすごくあったと振り返る。

しかし、別に筆を折るわけでもなく、独自の世界で執筆は続けていたのだ。劣等意識が強烈なインパクトを植え付けてくれたという。劣等意識はエネルギーに変換できたのだ。

ダメだと思って諦めてしまったら、それで終わってしまう。むしろそれを踏み台にすべきだったのだ。藤本氏は自身の経験から、執念が生まれない劣等感は、本当の劣等感じゃないとまでいう。執念をもつ大切さを念頭に置きたい。

ヨイショというのは、人と人が触れる時のクッションの役目を果たすもの。

2014年01月29日 | Weblog
ヨイショというのは、人と人が触れる時のクッションの役目を果たすもの。

「自分を100倍も面白く生きられる」藤本義一著より。

なるほど、そう言われればそうかもしれない。これを実際に上手くやれるかどうかが問題だろうな。やはり、これもある程度練習していなければ、いきなりはできないだろう。

人間関係の潤滑油としてはいいものに違いない。それをさり気なくやれる人はすごいとも思える。ここにおもしろい新聞記事のことについて述べられていた。

それは、子どもから見て好きだと思った先生は、「ガンバレよ」とか「よくやった」「いいいぞ」など誉め言葉を言ってくれた場合のようだ。

嫌いになる先生は逆で、「バカだな」「こんなこともできないのか」とけなされる場合らしい。たしかに、ネガティブな言葉を吐かれると、とたんにやる気も失せるだろうな。

まずは、ホメ言葉のバリエーションを覚えたほうがいいのかもしれない。いつも同じような言葉では、飽きられてしまうだろう。その前に相手に注目することかな。

1日2時間、好きなことをしている。

2014年01月28日 | Weblog
1日2時間、好きなことをしている。

『「男を口説ける男」が、女にモテる』中谷彰宏著より。

こんな人はカッコいい人といえるようだ。しかももっとカッコいい人は、それを365日してるという。

たまに時間があったら好きなことをするというのは、別にカッコいいことではなかった。好きなことを探して毎日2時間も費やせるというのは、すごいとも思える。

本当に好きでなければ、そうそう続けられるものではない。月に1回できればいいというのは、たんなる娯楽だった。いくらやっても飽きないことがあるのは素晴らしい。

そもそも好きなことを探すまでが大変な努力を要するだろう。1週間のうち土日だけ好きなことをするというのも、中途半端な状態なようだ。

「昨日の思い出」にひたるより、「明日の思い出」をつくる。

2014年01月27日 | Weblog
「昨日の思い出」にひたるより、「明日の思い出」をつくる。

『「男を口説ける男」が、女にモテる』中谷彰宏著より。

自分を含めてだが、ついつい昔話をしてしまうことがある。それはカッコよくないらしい。昔話はたいてい自慢話であることが多い。

もう過ぎ去った人の話などあまり興味を持てないものだ。むしろ関心が持てるのは、将来の夢かもしれない。明日の思い出をつくろうという前向きな気持ちの方が大事なのだろう。

たとえば、忘れられないプレゼントはモノよりも体験だという。人にいい体験を味わってもらおうというのは、前向きなことだ。それを共有できればなおいいのだろう。

カッコよさを求めるよりもむしろ共感をもってもらえることのほうがよさそうだ。昔話ではまず共感は得られない。共感できなければ、時間のムダとも言えそうだ。

ほめるのが上手な人は、ほめにくいモノをほめます。

2014年01月26日 | Weblog
ほめるのが上手な人は、ほめにくいモノをほめます。
『「男を口説ける男」が、女にモテる』中谷彰宏著より。

おもしろい表現があった。「○×△」があった時に、○は誰でもほめることができるということだった。確かに誰から見てもいいと思えるものは同じだ。

ところがそんなほめやすいものをほめていても、ほめていることになっていないという。大事なのは、△も×もほめることだという。自分の痛いところを×とすれば、それはほめにくい。

自分の痛いところを突かれたら、「さすが」「ありがとう」といえるならすごいとも思える。美人なら誰でもほめられるが、そうでない人をどうほめるかが大切だったのだ。

ポイントは、「これはあながち間違いではないな」というほめ方をすることだとアドバイスがあった。実に微妙でおもしろい。まずは観察から始めねばな。

本当に大事なことは、どんなに忘れようと頑張っても頭にこびりつく。

2014年01月25日 | Weblog
本当に大事なことは、どんなに忘れようと頑張っても頭にこびりつく。

「退屈のすすめ」五木寛之著より。

これは“本と遊ぶ”という章で書かれていたものだった。氏は一冊の本を読んで、いやでも頭の中に残る一行があれば、それで十分だと語っていた。そして、忘れてしまうような内容は、もともと縁がなかったのだと諦めるという。

本はいくら読んでもその内容はほとんど忘れてしまうものだ。むしろ頭に残るのは印象的なフレーズだったりもする。メモを書いてもアンダーラインを引いたとしても、一時的なものだ。

五木氏は、本を読んでどうしても忘れられない内容こそが価値があるという。そう考えると、なかなかそんな本には出会っていないかもしれない。というより忘れっぽくなったのだろう。

読んでいて、その時は素晴らしい考えだと思っても、本を閉じた瞬間に何も思い出せない。一度買って読んだ本をまた買ってしまうことはあるが、それでも内容はまったく覚えていないものだ。

あまり人のいなさそうなギャラリーや美術館を探す・・・

2014年01月24日 | Weblog
あまり人のいなさそうなギャラリーや美術館を探す・・・

「退屈のすすめ」五木寛之著より。

五木氏はどんなことをして退屈だと思われる時間を過ごしてきたかについて、具体的に述べていた。たとえば、靴と遊ぶ、車と遊ぶ、本と遊ぶ、夢と遊ぶ・・・などがあった。

そのなかの一つとして、アートと遊ぶがあった。展覧会は年間を通してたくさんの美術館や画廊で開催されている。私も年に数回は行くこともあるが、大きい展覧会は混んでいるのでゆっくり鑑賞できない。

そこで、五木氏は有名美術館よりもむしろあまり人に知られていないひっそりとした小さな美術館を探すのがいい、と提案している。それは自分が探すしかないだろう。

たまにアートに目をさらすのも悪くない。まるで別世界にいるように思えることもある。また、作者の作品への発想もときにはいい刺激になったりもする。

五木氏はもし、美術館や画廊の中の作品から、1点だけ盗むとしたらどれを盗むか想像してみると面白いと提案していた。

また、大富豪だったらどれを買って飾るかと考えるのも楽しそうだ。そう考えることで、絵と自分との真剣勝負があるという。なるほどと思わせられる。


人間のつきあいは、計算だけではできないもの。

2014年01月23日 | Weblog
人間のつきあいは、計算だけではできないもの。

「自分を100倍も面白く生きられる」藤本義一著より。

あまり損得だけを優先していると、面白くないものだ。またいつでも何でも完璧であると息苦しく感じることもある。筆者はむしろどこかドジで抜けているところを見せあったほうがいいとアドバイスしていた。

バカになったほうが勝ちとまで言う。失敗があるほど親しみが持てるということもいえる。単に仕事ができて頭がいいというだけでは、逆に嫌われるもとになるかもしれない。

いつも完璧だと思える人が失敗すると、急に親しみを感じたりもするものだ。また自慢話は人を遠ざけるかもしれない。むしろ失敗談のほうが人は寄ってくるものだ。

藤本氏は親しくなるためには、恥が必要だともいう。逆にいえば、常に恥ずかしいことを隠してばかりいては親しくもなれないとも言えるのだろう。そう考えると親しまれるオバカになるのは大変なことかもしれないな・・・


競って勝負するケンカもあるんだと覚えておく。

2014年01月22日 | Weblog
競って勝負するケンカもあるんだと覚えておく。

「自分を100倍も面白く生きられる」藤本義一著より。

もしサラリーマンなら上司に、はむかうことはできないものだ。それをしたら損をするのは自分のほうに決まっている。役職が上のものや先輩社員と競えるのは、仕事での成果ではないだろうか。

たとえば、営業の成績で勝つことは工夫と努力次第で可能だ。誰から見ても上だと思わせられれば勝っていることになる。いったい自分はどんなことで人に勝つことができるかを考えるべきなのだろう。

サービス力でも自分の普段の心がけ次第で、周囲の多くに勝つことはできる。アイデアの質や量でも可能だろう。仕事の信頼度でも周囲からの評価を得ることができるはず。

年齢も上下も関係なくぶつかれることも意外に多いことに気づく。自分の得意分野は何だろうかと振り返ってみることも必要だ。常に周囲の協力を得られるというのも強いともいえるだろう。


問題なのはケンカをすることではなく、どんなケンカをして相手に勝つか。

2014年01月21日 | Weblog
問題なのはケンカをすることではなく、どんなケンカをして相手に勝つか。
「自分を100倍も面白く生きられる」藤本義一著より。

まずは、負けると分かっているケンカは、やるだけ時間の無駄だとしてきしていた。たとえケンカになろうとしても、やはり勝とうが負けようが損をするのではないだろうか。

ケンカ自体気分はいいものではない。できれば避けて通りたいものだ。やるからには勝たねばならないという。しかし、腕力より頭脳戦で勝ちたいものだ。腕力だけのケンカができるのは、子どもとヤクザだけだというがその通りだろう。

一般人は損をするに違いない。たとえ口ゲンカでも気分は悪くなるものだ。戦国の武将は「権謀術策」をめぐらして戦に挑んだようだ。これがケンカの原点だと藤本氏は語っている。

「権」は相手を呑んでかかり「謀」はひそかに計画を立て、「策」は相手の反撃をいかにかわすかと論理を立てることらしい。そして、「術」はそれをどう実行するかという意味が込められていたのだ。意味の深さを感じる。


退屈を黄金の時間に変えて。

2014年01月20日 | Weblog
退屈を黄金の時間に変えて。

「退屈のすすめ」五木寛之著より。

筆者は自分だけの遊び方をさがすことをすすめている。探してみれば、どんなことでも遊べるという。意外なことだが、ちゃんと体を洗うこと、休日に断食をしてみる、読めるけど書けない漢字をリストアップしてみるなども入るという。

たとえば、自分の生まれた年にあった新聞記事を眺めてみるというのもおもしろいようだ。もし、本当に興味があればどんどんはまってしまいそうだ。

こんな他の人にとって意味のないことほど、自分にとっては大事なことだともいえるようだ。世間一般ではなく、自分の世界をつくりだすことが知の休日にもつながるようだ。

自分の関心があることに集中してしまえば、退屈などという言葉を忘れてしまいそうだ。そんな時こそ、自分時間を過ごしているとも言えるのだろう。


ちょうどいいバランスをたもったときが、本当は<いい加減>なのではあるまいか。

2014年01月19日 | Weblog
ちょうどいいバランスをたもったときが、本当は<いい加減>なのではあるまいか。

「退屈のすすめ」五木寛之著より。

一般的には、いい加減はいい意味では使われない。ダメなことの代表のようにも思える。しかし、湯かげんなどという場合、いい湯加減というが、これはちょうどいいという意味になる。

働き過ぎも、だらだらし過ぎもよくないのだ。どちらもいいバランスでできればベストなのだろう。酒もまったく飲めないよりも、少しは飲めるとコミュニケーションもうまくいくことが多い。

また、飲み過ぎは体によくないだろうが、程度なら酒は「百薬の長」にもなりえるのだ。ならば、飲んだ方が体にはいいとも言えるのだろう。

何ごとも適度にやっていれば、ものごとはうまく運ぶとも思われる。その適度の具合は、個人個人で異なるものだろう。


ふだん適当に見過ごしている生活のディテールのなかに、おもしろいことをみつける。

2014年01月18日 | Weblog
ふだん適当に見過ごしている生活のディテールのなかに、おもしろいことをみつける。

「退屈のすすめ」五木寛之著より。

確かにふだんは何げなく過ごしてしまっているが、ふと立ち止まって見ると身近に新しい発見があったり、出会いもある。別に大げさなことではない。

たとえば、個人的には植物に関心があるが、ちょっと注意してみれば、身近でも今まで気がつかなった植物の実や花に気づくことも多い。

そして、たった一つの植物から別の知識も得ることもできる。そんなところもおもしろい。また植物を通じて人と会話することもできたりするのだ。

植物の雑知識など、日々の生活にはまったくどうでもいいことのほうが、おもしろかったりもする。だから、最近はあまり退屈だと思うことは少ない。


つかの間の退屈な時間をどう生かすか。

2014年01月17日 | Weblog
つかの間の退屈な時間をどう生かすか。
「退屈のすすめ」五木寛之著より。

この本を読み進めいていくうちに、どこかで読んだような気もしていた。そして、あとがきの部分でやっと、それがかつて読んだ『知の休日』を再編集したものだとあって納得できた。

振り返ってみれば、やはりこの『退屈のすすめ』のほうが内容も整理され分かりやすくなっていた。退屈することはあるが、それをできるだけ有意義に過ごしたいとも思う。

ここには、筆者の五木氏が自分で試みてきた見本がいつくもヒントとして書かれている。ただ時間をつぶすだけではもったいない。やはり楽しく充実した時間を過ごしたいものだ。

タイトルのフレーズにあげたように、筆者は“そのことに実は私たちの人生がかかってるのかもしれない”、と語っている。要するに自分流の勝手な時間の過ごし方が発見できればベストなようだ。