ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

過去の日記。2005.7-3

2007年07月24日 | Weblog
「聞く」には、「きく」「聞く」「聴く」「効く」の四段階がある。
at 2005 07/09 10:19 編集

「人を動かす!話す技術」より

著者は日本人の学校では、コミュニケーションの4つのモード「聞く」「話す」「読む」「書く」のうち、「聞く」を教えてくれるところはほとんどないという。

ところが、コミュニケーションでは「聞く」が45%を占めているのだ。だからどんなにすばらしいプレゼンテーションを行ったとしても、相手に聞かせ、アクションをとってもらわなければ意味がないことになってしまうのだ。

「聞く」の四段階。
1.「きく」Sensing・・・センサーが働いて音を感知すること。
2.「聞く」Interpreting・・・耳で受信したメッセージの意味がわかる段階。
3.「聴く」Evaluating・・・そのメッセージの意味を考え評価している段階。
4.「効く」Responding・・・反応しアクションを取ること。

結局、最終的な「効く」までいかなければ、コミュニケーションは失敗したということになってしまう。そう簡単なことではなさそうだな。

筆者の杉田氏はコミュニケーションの基本ルールはKeep it Simple and Specific.(シンプルにかつ具体的に)といっている。つまり、略してKISS.
これは判り易い!でもいつまで覚えていられるかな。







「コミュニケーション」ではなく「ゴミニケーション」
at 2005 07/08 06:03 編集

「人を動かす!話す技術」より

コミュニケーションの場合は「量=質」ではないという。似たようなことを繰り返したところで、ほとんど意味がない。ただしつこいということが先に来るかもしれない。

ある会社では本社から支店に膨大な量のメモやお知らせなどをメールやファックスで送信してくるものの、支店ではそれをコミュニケーションではなく「ゴミニケーション」と読んでいるらしい。サラリーマンの間ではコミニュケーションはノミニ(飲みに)ケーションだという人も多いだろう。

コミニュケーションはそれによって何らかの行動が伴っていなければ、本来の目的を達したとはいえない。少しでもいい関係をつくろうと思ったら、たまにはゴミニケーションになっていないか、チェックしてみる必要がありそうだな・・・汗。

質を求めたら量が減るような気もするし。そういえば、ケースバイケースで量と質をうまく使い分けていくという方法がいいか。初めは認知度を高めるために量、その後質への転換とか・・・できればいいけど。





北風でいくか太陽でいくか。
at 2005 07/07 05:46 編集

「人を動かす!話す技術」より

勘のいい方はもうこれだけで、すぐにイソップ物語の「北風と太陽」を思い出してしまうでしょう。

どちらかといえば、私は口下手なほうです。ですから、まわりくどい説明は抜きにして、家では子供らにストレートに、早く~しなさい、としばしば命令口調で言い放ちます。そんないい方は反発を食らってしまう。そういってもなかなか動こうとしないもの。つまりなかなか本来の目的を達成できません。

コミュニケーションの最終目的は「相手にアクションを取ってもらう」ということだとすれば、失敗の連続です。コミュニケーション下手な私はいつもこんなふうに強い北風ばかり吹かしてしまっている。旅人のコートを脱がせるには北風より太陽のほうが効果的だとわかっているのに・・・

こんなことでは、いつまでたってもコミュニケーションの達人にはなれはしない。いったいどこに問題があるのか。時間がない、気持ちにゆとりがない・・・

同時に子供らに対しては甘やかせられない、という気持ちもあるし・・・ここが一番難しい。(昔は頑固オヤジってのがいたがなあ。)





「意味」は辞書の中にあるのではけっしてありません。
at 2005 07/06 06:26 編集

「人を動かす!話す技術」杉田敏著より

杉田氏といえば1987年からNHKラジオの「ビジネス英会話」で長年にわたって講師を務めている人だ。かつて私もこの放送を楽しんだことがある。

しかし、彼の本業はPR会社で副社長をしている。

そんな氏がニューヨークの街を歩いていたとき、NAILSというサイン(看板)をあちこちに見かけたのだ。そのとき、釘や鋲を連想して金物屋さんが多いのかと思ったという。しかし、その後「つめ」の意味でもあることを思い出し、マニキュアを塗る店だと気がつき苦笑したらしい。

つまり、NAILという語を見て、どちらの意味を最初に思い浮かべるかは、性別や職業、年代によっても違ってくるというものだ。要するに「意味」はその言葉を使う人とそれを受け取る人の頭の中に存在している、ということだった。

かつて私が「鳥肌が立つ」は感動したときに使うのはおかしい、と述べたことがあります。実際、辞書には“寒いとき、恐ろしいときなど”と説明されています。ところが、読書、映画鑑賞、旅先の風景などで実際に“鳥肌が立った”人がいるのですから、辞書の説明だけでは充分ではないようにも思えてきたのです。

こんなことも、「意味」は辞書の中にあるのではない、を表しているようですね。真の意味は生活の中にこそあるのかな。







本当に強い人は型がないように見える。
at 2005 07/05 06:09 編集

「月刊現代」2005年8月号より

“スポーツラジカル派宣言”のコーナーで二宮清純が大鵬にインタビューしている。
力士はそれぞれそれなりの得意な型を持っている。しかし、その型にはまれば強いかもしれないが、そうでなければ真の強さは発揮できない。

つまり、大鵬は「その型でしかとれないというのは本当に強い力士ではない」と断言している。

本当に強い力士は無数の型を身につけているから型が見えにくいのだ。型は当然強み、得意技ととることができる。

もし私たちの仕事でも、ピリピリと勝負を意識しなければならないような時には、この型という考え方も必要そうだ。常にいい結果を期待するためには“ いくつもの勝てるパターン”を身につけていなければならないだろう。

もし、メーカーなら次々と新製品を生み出し、消費者にあらゆるコミニュケーションの手段を使って訴え続けていかねばならない。今では製品さえよければ売れるという時代ではないですからね。

史上最多の32回の優勝を誇る大横綱の大鵬は次のようにも言っている。「あなたは私の稽古を見たことがありますか?人の5倍は努力した。天才というだけで勝てるほど相撲の世界は甘くありませんよ」

ふだんから並みの努力もしていない自分はこんな言葉に反省させれてしまうばかり・・・





古さの中にこそ、学ぶべきことがある。
at 2005 07/04 06:18 編集

「月刊現代」2005年8月号より

“スポーツラジカル派宣言”のコーナーで二宮清純が大鵬にインタビューしている。そのなかで、「最近の力士は稽古という言葉をあまり口にしませんね」という二宮の言葉に対して大鵬が答えたもの。

すぐに温故知新という言葉を連想しそうだが、ここではそういう意味ではない。大鵬は「稽古は勝つための練習という意味ではない。あの丸い土俵で泥まみれになることで、何事にも負けない精神が培われる」という。経験がいわせる言葉だろう。

つまり稽古は器具を使って筋力を鍛えるトレーニングとは全く異なるものなのだ。

相撲には「道」がつく柔道、剣道、合気道などの武道、さらには茶道、華道、香道などにも通じる精神が流れているのだろう。

さて、先ほどの大鵬の言葉にあった「丸い土俵で泥まみれになることで~」には意味がある。似たようなことは一般的な仕事にもあてはまりそうだ。つまり、仕事への取り組み方次第で人も育つに違いない。何でも新しいものばかり学べば済むというものでもなさそうだ・・・な。





勝ち負け以外の何かを見せられるのが魅力・・・
at 2005 07/03 06:52 編集

朝日新聞(6.27)夕刊、“戦士のほっとタイム”のコーナーより

舞の海が萩本欣一氏にインタビューしている。「アマチュア野球の魅力はどんなところに感じますか」という質問に、「人間が頑張っている姿が見えること。・・・素人の成長を見ていると元気が出るじゃないですか」と答えている。

さらに欽ちゃんは「プロ野球の本当のサービスって先着何人に品物をあげるより、お客さんの声にこたえることじゃないかな。商売も仕事も勝負の世界だけど、スポーツはちょっと違う。勝ち負け以外の何かを見せられるのが魅力でしょう」と述べている。

商売では勝ち負けがはっきりする。それは売り上げ成績、利益という形で出てくる。組織のなかでも成果主義が徹底していれば、個人の報酬でも大きく差がつけられる。

しかし、スポーツ観戦では、とくにアマチュアの場合は感動が大きそうだ。欽ちゃんは観客と一体になって、盛り上がる機会を提供しようとしている。

やはり本物のコメディアンは従来の監督とは一味も二味も違っている。まだ64歳、あらたなチャレンジは始まったばかり。いくつになっても夢を持つことは素晴らしい!





金持ちになることが「勝ち組」だなんて価値観・・・
at 2005 07/02 06:59 編集

朝日新聞土曜版(6.18)“フジマキに聞け”のコーナーより

藤巻幸夫氏はタイトルのような考えには同意できないという。まあ、大抵の人はそう思うだろう。

確かに近年は「勝ち組」「負け組」という表現を時どき耳にする。

先々月亡くなった二子山親方は藤巻氏にとってはヒーローだったという。しかも、現役時代の千秋楽では8勝7敗でカド番を脱するというパターンが多かったことまで記憶している。私も見てはいたが、そこまでは覚えていなかった。彼によると8勝7敗には美学があるという。大関在位50場所(歴代1位)という最高記録はその結果だろう。

相撲でもダントツに強ければ、それだけで人気が保てるというわけでもないだろう。たとえば、現在横綱の朝青龍は強いが、人気を比べたら現役時代の大関貴ノ花(二子山親方)のほうに軍配は上がるだろう。

さて、話しはもどって藤巻氏は勝ち負けで人生を分けるより、むしろ「満足組」「不満足組」で分けたほうがしっくりくるという。だから当然金持ちイコール幸福ということにもならない。むしろ、金持ちほど不満が多いかもしれない。

たとえば、私たちが大衆食堂で美味しいと思えても、金持ちは高級レストランで食事してもこんなもの口に合わないというかもしれない。

家族、友人、健康・・・どれをとってもお金で計れないことのほうが多い。どうせ金持ちになどなれない僻みでもあるが、一つでも多くの満足をひろって生きてゆきたいと思った次第・・・






野球の選手はスランプになるとフォームのチェックをする。
at 2005 07/01 06:39 編集

『自分を「売る」力』斉藤孝著より

つまり、スランプに陥るのは、調子のいいときに比べて、フォームが崩れてきているということなのだ。

それは時によっては、疲労の蓄積も含まれるかも知れない。打者なら相手投手が最高の状態ならそうそうヒットを打てるものではない。しかし毎試合最高のコンディションの投手が登場するわけでもないからいずれは打てるはず。ところがスランプ状態が思いのほか長引くときがある。

そんなとき選手はフォームのチェックをする。つまり好調時のフォームに戻す努力をするということだ。

チェックが必要なのはなにもスポーツ選手に限らない。私たちの日々の健康状態、学ぶスタイル、食事、服装などのコーディネート・・・まで幅広い。

これらは時どきはチェックしてみる必要がありそうだ。何事もバランス感覚が大切かも。

体重が増えすぎたとき・・・これを戻すのが難しい。とりあえず食事と運動のチェックが必要そうだな。これは医者から言われたりすることでもあるか。



過去の日記。2005.7-2

2007年07月24日 | Weblog
日々勉強、日々吸収、日々生まれ変わること。
at 2005 07/19 06:13 編集

「しびれるサービス」より

もし何かのきっかけで、サービス精神のない店の人が愛想がよくなったりすると、変わったねといわれる。それが継続できれば、生まれ変わったといっていいのかもしれない。

そのきっかけは何であってもいいでしょうね。人から何か指摘された、本を読んで学んだ、お客さんに教えてもらった、他の店に行ってすばらしいサービスに接した・・・。それらすべてが勉強であり、自分が実践できたことではじめて吸収したといえそうだ。

いい習慣を継続することで生まれ変われる。その人が生まれ変われば、店の雰囲気も変わるだろう。

「あの人がいるからあの店に行く」「あの人がすすめるものなら安心だ」となれば、それは最高のほめ言葉のような気がする。

店が元気になるのは、日々生まれ変わろうとするからではないかな。そして当然、私たちはいつも元気な店で買物を楽しみたいと思っている。

(しかし、実際は惰性でやっていることのほうが多いかもしれないな。)

この単純な「勉強、吸収、生まれ変わる」はサービス業に携わる人だけでなく、誰にでも必要なことに違いない。学生にも主婦にも一般の会社員にも。





ワンヒット商品を二塁打、三塁打、ランニングホームランにする。
at 2005 07/18 07:02 編集

「しびれるサービス」より

野球は勝ったとはいってもヒットや本塁打だけでは面白さにかける。二塁打、三塁打そして、たまにランニングホームランなんかが出ると球場がわいてくる。

打者がヒットと思える打球を二塁打にするには走塁力が要求されます。もし、打球によっては三塁打、ランニングホームランにするためには、瞬時の判断力や勢いがなければならない。

ランニングホームランで本塁に帰ってきた選手は、ハアハアいいながらも心の中ではガッツポーズをしているはずです。おなじホームランでもスタンドに打ち込んでゆっくりベースを回ってくるのとは面白さが断然違います。おっと、ここはサービスの話しでした。

もともとホームランになるような商品があれば誰にでも売ることはできます。しかしそれでは誰が売っても大差はつかないことになってしまう。

つまり自分の仕事としては面白さや、やったという醍醐味や充実感も味わえない。ヒットで得点をかせぐには、つまり売上げを上げるためにはサービス力が必要になってくるのだ。

しかし“得点をかせげるサービス”の答えなんてどこにもない。そのために日々サービスの練習をする必要があるのかも。きっとその積み重ねで得点をもぎ取る(成果を出せる)ことが出来るのだ・・・と思う。







ディズニーランド型感動、コンビニ型感動。
at 2005 07/17 06:47 編集

「しびれるサービス」中谷彰宏著より

著者は感動にはディズニーランド型感動(非日常)とコンビニ型感動(日常)の二種類があるという。

単に言葉の説明だけなら非日常型と日常型の感動といえばすむものだが、ディズニー、コンビニと具体的な比喩で、理解がしやすい。

もともとはどんなサービスがお客様にとってしびれるか、ということについて述べている。サービスとは感動を与えることだというのが中谷の主張だ。

普段の営業活動の中ではいきなりディズニーランドのような大きくてもめったに行ったりはしない感動を想定するにはムリがある。むしろ何気ないちょっとした感動の積み重ねのほうが、大切だと述べている。さて、自分がサービスする側だとすれば、どれだけコンビニ型の感動を生み出しているだろうか。

もし、その能力が欠けているとすれば、映画や音楽の鑑賞、読書、美術館ですばらしい絵画を観ることから始めるのがいいらしい。自分が感動する経験がなければ、人にも与えられるはずもありませんからね。ここでは、「しびれる=感動する、感動させる」という意味だとわかります。

コンビニで実際コンビニ型感動をした覚えはあるかな・・・?





ヒーローって世の中の調味料と思う。
at 2005 07/16 07:56 編集

朝日新聞土曜版(7.9)より

こう言っているのはお笑い芸人の波田陽区(ギター侍)だった。彼にとってのヒーローは江夏豊であったという。

彼の力強い投球は印象に残っている。オールスター戦での9者連続三振ていうのもあったな。江夏はまた一方でフロントといさかいを起こして球団を渡り歩いた選手でもあった。覚せい剤使用で逮捕ということもあったな。

どこにいても嫌われる一匹狼的存在だった。でも実力ある選手はどのチームの欲しがった。まあ、グラウンドでの勝負だけが問われるなら仕方ないか。

中年以上の野球ファンの多くは彼の活躍は知っているだろう。しかも、ヒール(悪玉)としての印象が強い。この表現はよくプロレスで用いられていた。正統派(善玉)を盛り上げるためには当然ヒールの存在が必要だった。

かつては外人レスラーのほとんどがヒールだった。場外乱闘、凶器攻撃、大胆な反則はヒールの得意技(?)だ。しかし、そんな彼らもリングを降りれば人なつこくていい人たちなのだ。

食べ物も同様で、タバスコ、コショウ、唐辛子など強烈な味覚の調味料があるからこそ料理は美味しく食べられる。やはりヒールは必要なんだな。でも、悪玉コレステロールだけはちょっと・・・な。





インキ一本分の鉛筆。
at 2005 07/15 06:23 編集

これは私の持っている鉛筆のボディーに書いてある言葉だ。もちろん、米国製なので、英語で“ A Bottle of Ink in a Pencil.”とある。

25年前に購入してふだんは使わない引き出しの奥にはいっていたものだ。ちょっとユニークな鉛筆だったので記念にとっておいたもの。30年近く前に「何を書くかどう書くか」(板坂元著)を読んだとき、この鉛筆を知ってどうしても欲しくなった思い出がある。その鉛筆を始めて手にしたのは小学生のころだった。友達に一本もらった記憶がある。そして成人してから、先ほどの本をよんだら急に懐かしくなり手にとってみたくなったのだ。

しかし、都内のいくつかの文房具店をあたったものの売られてはいなかった。その後米国へ旅行をする機会があたので、現地でもさがしたがやはり見つけることは出来なかった。それから一年後、新橋駅近くを歩いていたとき、文房具店の店頭で偶然にもそれを目にすることができたのです。1本180円。うれしくて、3本購入。1本は人にあげて、1本は使い、1本は記念にとっておくことにした。

ノートに書いたときは普通の鉛筆とまったく変わらないが、年数がたつにつれて空気中の水分を含んでインキに変わるというもの。鉛筆の軸にはNOBLOT INK PENCILとも印刷されている。 正確にはNO BLOT で(インクなどの)しみで汚れない、という意味になる。

万年筆を使わなくなったのでインキということばも最近聞かなくなりましたが、たった1本の鉛筆にも郷愁を感じることってあるんですね。





最大のライバルで最大の友。
at 2005 07/14 06:10 編集

ウェブニュース(7.12付け)より
そこには「最大のライバルであり最大の友を突然失った」という見出しがあった。

とくにプロレスファンにとっては、橋本真也選手(40)の急死は衝撃的なニュースでもあった。夕刊紙には大見出しで掲載されていた。ということはそれだけ存在感のあったレスラーだった証拠でもあるだろう。体もがっしりとして「破壊王」というニックネームもぴったりのファイトは印象的だった。

かなり前からテレビのゴールデンタイムでのプロレス中継はないが、根強いファンは多い。かつて私もプロレス雑誌を読み、会場に足を運んだ口でもある。最近はすっかりK1やプライドなどの総合格闘技に押されて、プロレスラーの名前さえ耳にすることは少なくなってしまった。
しかし、橋本選手はその中でも存在感のあるレスラーでもあった。また、リングを離れれば笑顔も人なつこかった。

武藤、蝶野らと「闘魂三銃士」と呼ばれていた時代には、お互いにライバルとして活躍していた。「最大のライバルであり最大の友を突然失った」とは彼二人の言葉だ。二人は競争相手というより兄弟のような仲だったと振り返る。喧嘩じゃないが、喧嘩するほど仲がいい、を思い出してしまう。
また、橋本は柔道家からプロレスラーに転向した小川直也のデビュー戦の相手でもあった。そして小川はリングで肌をあわせるうちに、確執が信頼に変わっていったという。

蛇足ながら、日本サッカー協会の川渕三郎キャプテンは「初めて見に行ったプロレスが橋本・小川戦だった。壮絶な試合で印象深い。若いのに気の毒としかいえない。」と振り返っていた。

もし自分を高めようとするなら、こんなすばらしいと思えるライバルが必要なのかもしれないが、疲れそうでもあるな。
破壊王も病魔には勝てなかったのか・・・まだまだ早すぎましたね、残念。ご冥福を祈るばかり。






必要じゃなくてもとにかく何か買いたいという欲求が人間にはある。
at 2005 07/13 05:47 編集

「悩ましき買物」より

物は必要だから買う、というのがふつうだ。しかしそうではなくとにかく買いたいと思うときはある。ストレス解消のためだ、という人もいるかもしれない。とはいっても残念ながら金銭の許す範囲内でという限定がある。

大きなものはそうそう買えるものではない。家、車、大型家具や家電製品など。なかには一生ものになるかもしれないものもあるだろう。それらを買うときには覚悟が必要になる。スーパーやデパートの店内で目についたものを衝動買いしてしまうというのとはまったく異なる感覚だ。

なにかある漠然としたものを頭に描いていて、あるいは潜在意識にあるのかもしれないが、そんなものをいつか買ってみたいものと思ったりする。
赤瀬川氏にとっては買物願望の上位にはバッグや靴があるという。それらは人によって様々だろう。

ウォーキングシューズといっただけで、ビジネスシューズより歩きやすそうな感じがしてしまう。
靴は履いて歩くためにあるのに、あえてウォーキングといっているのも不思議な感じがする。しかし私はついついこの表示があるものに手が伸びてしまう。(個人的なことを書いてしまいました。)

赤瀬川氏は靴を買う場合、色、デザイン、材質それから格を見るという。前の3つまでは誰でも見るものだろうが、格もポイントにしているらしい。
氏がたまたま気に入ったほどほど格がある靴とは・・・形は定番的なものだけど、革と縫い目がしっかりとしていて、革だけど案外柔らかく大きめの皺の入っているところがいいという。

牛の肩の革でかっちりしているけれど柔らかく、爪先は足の形に合わせて底が広がってゆとりがあるものらしい。そこまでいくとやはり値段もいい。フランス製のその靴は私が普段はいている靴の約2.5倍のものだった。誰でもものを買う場合は安くていいものという限定がある。しかしそれは難しそうだな。






ただお金で欲しいものを買ってもつまらない。
at 2005 07/12 06:18 編集

「悩ましき買物」赤瀬川原平著より

面白くて、盛り上がる買物とはどういうものかといえば、買うことに「必然性」があるとき。つまり大義名分ができたときらしい。

著者はもともとナイフについて関心をもっていたものの“買う”にはまだその理由が見つからなかったのだ。しかし、注文住宅をつくることになり、その飾り柱は自分で作業したかったらしい。鉈(なた)を買って次に必要なのがナイフだった。ナイフを買える、この「必然性」が嬉しかったという。趣味的要素があるなら、どうしてもこれでなくてはいけない、というこだわりは楽しいものだ。

ナイフ専門店にある半分はコレクション用で半分は実用品だという。そんなものか、と思ってしまう。よく切れさえすればどんなものでもいいじゃないか、というのは専門店では通用しないのだ。ナイフの世界もはまってしまうと奥が深そうだ。まあ、時計でもカメラでも、万年筆でもコレクションの世界は底なし沼だ。

実用だけを追求しないところがいいのだ。人生の面白さはそこにあるような気がしてくる。赤瀬川氏はもっと大げさに表現している。「実用はもちろんだけど、何というか、これがあれば大丈夫というような、心の支えとしても実用になるようなそういう立派なナイフが欲しい」と。

“心の支え”というところまできている。ほとんどビョーキに近い。
そして、氏はナイフの知識が増えるにしたがって気分が盛り上がってくる。幸せなんだなあとうらやましくも思えてくる。最近ゆとりがない自分を振り返ってしまう。






ちゃんと口がまわっていないのに存在感のある役者。
at 2005 07/11 06:34 編集

「ぶさいくに生きて、そこそこ幸せをつかむ法」より

この本のタイトルを眺めたとき、ずいぶんと長ったらしいなという印象だった。しかも、これをちゃんと読めるなら口がまわっているともいえるのだろうか。

さて、筆者は小さいときからしゃべる訓練、滑舌中心にけいこをしてきたという。つまり滑舌のよさで勝負してきた役者だったという意味になる。
ところがあるとき、ちゃんと口がまわっていないのに、存在感のある役者を見たとき、滑舌はたいして意味のないことだと感じたらしい。

発声や滑舌、ましてやアニメや洋画に声を吹き替える技術などいつだって訓練できるものだという。もっと大事なことは、いろいろな人、物、事柄に興味をもってひとつのことに集中する心だと強調している。

彼女は「声優になりたい」という手紙をしばしばもらうらしい。それらの返事には「今は勉強、クラブ活動、恋愛、スポーツ、遊び、すべてに一生懸命に毎日を暮らして下さい」というふうなことを書いているという。俳優にとって一番大切なものは、好奇心と集中力なのだ。べつに、俳優でなくとも、充実した日々の生活や内容のある仕事をこなそうとすれば同様のことがいえそうだ。

タイトルの「ちゃんと口がまわっていないのに存在感のある役者」は単なる表面的な技術なじゃいよ、生きざまこそが表ににじみ出てくるものだ、といっているようでもある。そこでやっかいなのは、存在感は努力ではおぎなえるものではないらしいことだ。

まあ、それはともかく、本物への道は一朝一夕、インスタント、スピード~などという言葉からはほど遠いな・・・・






ぶさいくに生きてそこそこ幸せをつかむ法。
at 2005 07/10 07:26 編集

「ぶさいくに生きてそこそこ幸せをつかむ法」田中真弓著より

まさに気になるフレーズは、本のタイトルそのもの。著者はテレビアニメやナレーションで活躍している現役の声優さんだ。もしアニメマニアなら彼女の名前や声を聞いたことがない人は少ないだろう。もうベテランで、これから声優を目指そうという若者にとっては神様みたいな存在でもあるらしい。

自身の言葉では「チビ」で「ブス」で「いじめられっこ」と三拍子そろった不幸な子供だったと述べている。そんな彼女も人気声優になるまでには、あっちへぶつかり、こっちへぶつかりながら成長してきている。毎日へとへとになりながらも、舞台、家事、育児もこなしてきた。実際小柄なのに、舞台に立ったときのパワーには圧倒される。

約30年前から個人的な友達でもあるので、よく知っている。会って話したときは、物静かな話し方をしていたな。えっ、これが本人?と思ってしまうほど。

話しはもどって、ぶさいくな生き方だからからこそ、たくさんの思いやりのあるやさしい人達にめぐり合え、その人達に助けられながら、そこそこ幸せな毎日をすごせるようになったとも回想している。

ぶさいくな生き方の反対はスマート、カッコイイ生き方だろう。しかし、凡人にはそんな生き方はそうたやすくはなさそうだ。まずは、自分のなかの弱い部分を認めてしまうのがいいらしい。彼女自身の言葉では「目に見える部分での自分のマイナス面を認めたからといって、人間の本当の価値が下がるわけじゃあないのだから。」とある。実に力強い!

くよくよしないで生きることが幸せへの第一歩なんだな~って感じさせる。まあ幸せってことばを忘れてるときのほうが、そこそこ幸せなのかもしれないな・・・・



過去の日記。2005.7-1

2007年07月24日 | Weblog
生活の中に「小さな冒険」を取り入れてみる。
at 2005 07/31 06:47 編集

「自己能力バージョンアップ58の方法」より

若いうちにはいろいろ試してみたいもので、それなりに無鉄砲に冒険などしてみるものだ。しかし、年齢が進むにつれて冒険はしなくなってくるもの。だからベンチャーで起業するのは20代、30代の若者が多いのは当然だろう。

確かに変化がないイコール単調な生活ということになってしまう。ルーティーンなライフスタイルは安全かもしれないがマンネリ感がただよって面白みにも欠けるものだ。そこからは新たな発見もない。すると自分の中の新しい自分にも出会えないことになってしまう。

最も身近なことで言えば、食べ物もたまにはそれまで食べたこともなかったようなものを試すことで新しい発見があるかもしれない。私は学生時代まではピザが好きではなかった。というのも味にクセがあって美味しいと思うものに出会わなかったからだった。

ところが社会人になって間もない頃、アメリカ人の友人に米軍基地のレストランに連れて行ってもらい、そこで食べてからそれまでの価値観がガラッと変わってしまったことがある。ピザはこんなに美味しいものだったのかと始めて気がついたのだった。それ以来、あまり不味いピザには出会っていないのはラッキーともいえそう。

さて、今日からこの怠惰なマンネリ生活にちょっとだけ変化をもたらしてくれそうな「小さな冒険」を探してみよう・・・かな。






怒りのマグニチュード。
at 2005 07/30 07:34 編集

「自己能力バージョンアップ58の方法」より

誰にでも多かれ少なかれ悔しい思い、腹が立つこと、許せないと思うことがあるにちがいない。でも、初めは大きかったその怒りが時間とともに風化してしまうことが多い。まあ、しょうがないか、というような気持ちになってきたりする。それを筆者は怒りのマグニチュードが徐々に落ちていくと表現している。

地震の大きさを表す単位を用いているところにちょっと新鮮さを感じる。初めは気持ちを激しく揺さぶったものもいつしか風化してしまうのだろう。

しかし、その怒りをエネルギーとして昇華させることができればいい仕事にもつながるのだ。諦めるまえにそれをエネルギーに転換してみよう。

場合によっては素晴らしい詩や小説になるかもしれない。芸術作品が生まれるかもしれないのだから。

私が若い頃むさぼり読んでいた、推理作家の森村誠一氏は怨念の小説家とも言われていた。彼は大学卒業後、本来自分には向いていないと思ったホテルマンという仕事に就いて貴重な一時期を過ごしてしまったと言っている。そのことに対して怨念を抱いていたのだ。

できれば、会社という組織の歯車でなくほかの人には代行できないような自分だけの独自の仕事をしたいと願っていたという。その思いの強さが人気作家としての地位を築いたとも言えそうだ。

まあ、怒りなんてなければないで、それなりに幸せかもしれませんがね・・・






成功するための「限界質量」を築く。
at 2005 07/29 06:03 編集

「自己能力バージョンアップ58の方法」宮崎信治著より

ふだん聞きなれない「限界質量」とは、もともと物理学の用語だった。これは「ある結果を得るために必要な量」を意味してる。一般的な用語として比喩的にも用いられている。

筆者はプロの翻訳家をしている。その例でいえば、「翻訳家として生活が成り立つようになるまで翻訳した英文の量」ということになる。つまりこれが「翻訳家になるための限界質量」なのだ。

彼はよく翻訳家志望者から「どういう勉強をすれば、早く翻訳の仕事がもらえるようになるのか」という質問をうけるという。それに対しては、たとえどんな勉強をしたところで、1年やそこらでは仕事がもらえるレベルには到達できないという。まあ、当然でしょうね。その理由は絶対量が不足しているからなのだ。

藤本義一氏は作家になるまで一万枚以上の日の目を見ない原稿を書いたという。その枚数が彼には限界質量だったといえる。もちろん人によってかなりの差はあるだろう。一流の歌手として通用するには「どうしても歌わねばならない量」がある。

限界質量をこえてはじめて成功への条件が整ったといえる、と宮崎氏は自らの体験をとおして語っている。

結局は才能うんぬんよりもコツコツと勉強し続けることが出来るかどうかのほうが重要になってくるんですね。短期間で身につけたものはそれなりのものでしかないか・・・・やはり何事も一朝一夕にはいかないか。






潜在パワーをフル活用する「四字熟語」力。
at 2005 07/28 06:38 編集

PRESIDENT2005.7.18号より

実はこの前に“斉藤流!”というのがついている。つまりこれは斉藤孝先生の提案なのだ。
一見ネガティブなイメージをもつような四字熟語でも「力」をつけることで、プラスのイメージに転じてしまうから不思議だ。

例えば「自画自賛力がある」といえば、単なる自慢ではなく、もっとポジティブな評価をうけそうだ。
四面楚歌力といえば、新しいプロジェクトを進めるときに、周囲から理解を得られなくてもそれを跳ね返し、孤独でも頑張れる、というふうに考えられる。

朝令暮改力なら、臨機応変に対応できるタイプにも思える。ここまで書いてきたら、別の人も似たようなこと言っていたことを思い出しました。それは本のタイトルに「老人力」や「優柔不断力」で有名になった赤瀬川原平氏でした。
つまり「力」をつけてその事実を認めた上で前向きに生きるということのようです。

あえてマイナスイメージを連想させるの熟語に「力」をつけて自らの技としてみよう。思いつきだが、三日坊主力・・・それを数百回、数千回繰り返せたら本物に近づきそうにも思えてくる。日記やラジオ体操ならいいが禁煙の場合はどうかな・・・

暗中模索力・・・真っ暗のなかで手探りしているうちに、最後に貴重なものを探し当てる力がある、と考えたらどうでしょう。

ついでに蛇足ながら、一攫千金力などがついたらかなりウレシイんですがね~








右脳は圧倒的な情報量を高速で処理するCPU.
at 2005 07/27 06:50 編集

PRESIDENT2005.7.18号より

神田昌典氏がマインドマップ(発想とひらめきを生むためには役立つツール)ということについて書いている部分からのフレーズ。

「マインドマップ」とはもともとトニー・ブザン氏という脳研究の第一人者によって書かれたものだった。

神田氏はコンピュータにたとえれば、左脳は限られた文字数を整然と並べるワープロソフトだという。それに対して、右脳は圧倒的な情報量を高速で処理するCPUということになる。

まず、発想を視覚的なビジュアルでイメージでしてみる。イメージは論理とは対極にある。こんなイメージ、あんな感じというようなもの。このイメージを拾って書き留めることで、創造的思考が生かせるという。何かを考えた瞬間に、脳の中では大量に言語化されていない大量の情報が流れ猛スピードで処理している。左脳が論理だとすれば、右脳は芸術脳ともいえる。

個人的には論理的にものごとを考えるのが得意ではない。どちらかと言えば、感覚で決めてしまうことが多い。でも、これを知ると嘆くことはなさそうな気にもなってくる。(ちょっとウレシイかも。)

筆者はまた、こんなことも言っている。“今や会社の利益は創造的な仕事によってしか得られない。創造的な商品やサービスを通じていかに需要を創造するか・・・・。”

業績はそんなところにかかっているらしい。よし、これからは右脳をもっと活用してみようという気にさせる。





脳をストレッチして「やわらか脳」にしなくちゃならない。
at 2005 07/26 08:27 編集

PRESIDENT2005.7.18号より
特集は“「脳力」革命”となっていた。

そのなかで、くらたまなぶ氏は面白い表現を使っていた。・・・・本来ワクワクするはずの企画も、会社で命令されると名案が浮かばなかったりする。つまりこれは、「新しいアイデアを出さ“ねば”ならない」「上司に認めてもらわ“ねば”ならない」と、“ねばねば菌”におかされた状態だという。

結局その菌を取り除く必要があると説く。そのためには脳をストレッチして「やわらか脳」にしなくちゃならないのだ。

「やわらか脳」にするための方法・・・・その場からちょっとリラックスできる別の場所に移動する。アイデアがわいてきそうな空間に自分を置いて脳をシャッフルしてみる。つまり非日常のなかに自分を置いてみることがスタートだ。

そして、難しい言葉を「自分流」に翻訳してみるのだ。例えば、「社内活性化」→「元気いい」→「ワイワイガヤガヤ」というように、ふだん自分がつかっている言葉にしてみる。このときはもうアイデアの脳みそは動き始めている・・・らしい。

私なんか根が単純だから、ちょっと真似してみたくなってしまう。なんせ複雑なこと考えるのが苦手なもんで・・・ね。でも、複雑なものを単純に考えるっていうのにも脳力が必要かも。これがキッチリ出来る人は脳力があるのかもしれないな。
脳のストレッチのまえに体のストレッチをしなければ・・・






大義名分というのは形式に過ぎないとは言っても、やはり力である。
at 2005 07/25 06:54 編集

「目利きのヒミツ」より

あらかじめわかったような気にはなっているが、念のため辞書を引いてみると次のように説明されている。

たいぎ-めいぶん 【大義名分】
(1)人として、また臣民として守るべきことがら。
「―にかなう」「―を通す」
(2)何か事をするにあたっての根拠。やましくない口実。
「―が立つ」

実際、私たちが使う場合(2)のほうが多いだろう。つまり言い訳、理由づけみたいなものだ。
ちゃんとした根拠さえあれば、いろんなことはすすめやすい。場合によってはヘリクツと思われるようなこともあるかもしれない。

しかし、そんな形式的なヘリクツでもあればこそ動ける力にもなる。つまり言葉を変えれば、やる気、エネルギーともなるのだ。

たとえば、私自身は意外にも野次馬的なところがあって、子供の頃に地元のどこかで火事あると関係ないのに自転車で駆けつけたりしていたものだった。ただの興味本位だった。被災の現場に行くには本来そういう気持ちではいけないに違いない。自衛消防隊とか消防活動支援などの大義名分があればべつだが、そんなものはない。

自他共に納得できる大義名分があればスピードアップにもなる。それは何かをする際の推進力でもありえる。ちょっとパソコンで遊んでみたい、というのが本音だとすれば、ウェブ日記なんかをつけてその交流によって見聞を広めるというのもひとつの大義名分・・・かな。

それから、家庭平和維持活動のため、という大義名分があればお父さんもディズニーリゾートやUSJにも行きやすい?でも、本来はもっと大きなことをいうのかもしれない。






プロ野球で打線は水もの、計算はできない。
at 2005 07/24 07:16 編集

「目利きのヒミツ」より

どちらかといえば、バッターに比べればピッチャーはある程度計算が出来るという。ピッチャーの出来さえよければ、強打者もそう簡単には打てるものではないからだろう。

先攻、後攻ということでいえば、打っている側が攻めていることになっている。それによって得点が入れば勝ちにつながる。しかし、実際にその場面で攻めているのはピッチャーのほうなのだ。

ピッチャーは頭で計算をして打者を牛耳ろうとする。しかも、すぐには投げずにじらしたりもできる。どんな球を投げようが主導権は打者より投手にある。ピッチャーはじぶんのタイミングで投げ込んでくる。打者は来たボールを打つだけだから受身だ。投げてもらわなければ、試合ははじまらないし、打つこともできない。

3割打てば強打者といわれるものの、7割は失敗していることになる。いくら3割といっても、いいところで打たなくては意味がない。ヒットを打ってもその後が続かなければ得点には結びつかない。また、ほとんど大差で試合が決まった後で打っても意味がないことになる。

打者はピッチャーが投げた球を勘を働かせてう打ちにいく。その勘は直感、動物的な勘で、それが強かったのが長嶋さんの現役時代なのだろう。

そこで、筆者の赤瀬川氏は「ピッチャーは経済界の人で、バッターというのは歌舞音曲的な芸術家なのかもしれない。」といっている。

しかし、ピッチャー、バッターを計算ができる、できないなどから経済界、芸術家まで持ち出すとはかなりスゴイたとえでもあるな。こんな発想ができること自体、筆者が芸術家でもある証拠かも・・・





やっぱり身銭を切らないと物は見えてこない。
at 2005 07/23 07:05 編集

「目利きのヒミツ」赤瀬川原平著より

まず、目利きというとすぐに思い出してしまうのが、TV「開運!何でも鑑定団」だ。そこに出てくる先生方は書画骨董から最近の雑貨までお宝といわれるものをなんでも鑑定してくれる。つまり目利きのプロである。

別に高価なものでなければ、私たちは日常的にいろいろなものをいいのか、悪いのか、価値のあるなしなどのを判断している。あの人とは気が合いそうだとか、相性が合わないなど。また、多くの人との交流をもつことで人を見る目も養われるともいえそうだ。

まあ、それはともかくとして、物を見る(判断する)場合、それなりに経験は必要だが、そのためにはそこそこの授業料も必要なのだ。

私の知り合いに絵画を見る目を持っている人がいる。彼の評価はプロ並みでもある。それは彼自身が30年以上にわたって身銭を切って絵画をコレクションしてきたらに違いない。美術館や画廊で鑑賞するだけでなく、買うことで学ぶことができるものも多い。

だから、その対象に対して10万円費やした人と、1000万円費やした人ではモノの見え方が違ってくるだろう。もっとも、ただお金をムダに費やしても意味がないが。

しょせん、タダでお気軽に学んだものはそれなりのものだ。時間と費用を費やした人には真剣さでかなわない。

関連したことがらで、筆者は「勘というものはタダで身につくものではない」ともいっている。やはり勘というものも、身銭を切ってはじめて鋭くなるものだろう。

身銭をきるからこそ真剣になれるとも言えるかな。ムダに年をとってもいけなし、ムダにお金をつかってもいけないか・・・でも、それがなかなか・・・





偉大なる自然の治癒力。
at 2005 07/22 07:00 編集

JAF Mate 2005.8.9月合併号より

この号の特集は「鳴き砂の浜を訪ねる」だった。ちょっと動かせば音が出る砂のこと。この条件は海水が汚れていないこと、大気が汚れていないことだ。

つまり美しい砂浜でなければ、鳴き砂に出会えない。当然海水浴シーズンには聞くことはできないらしい。
秋冬を越して春になると鳴き始めるという。これは偉大なる自然の治癒力といえる。

この言葉だけ聞くと、大自然の中にいると、人間の体が癒されて治っていくように思えるが、この場合は人間が主役ではない。あくまで自然そのものだ。変な表現だが、自然が自然のなかで本来の生命力(?)をとりもどしていくというようなものだ。自然が破壊されている箇所を目にするとそんなことを考えてしまう。

ほとんどの砂浜は汚れているのでな鳴くことはない。鳴き砂の主成分は石英で、きれいな水や空気の中で砂粒の表面がピカピカに磨かれて鳴くようになるという。結局、鳴き砂は美しい海岸のバロメーターだといえる。現在日本には、そんな海岸が50ヵ所あるという。

いくつかの例・・・琴引浜(京都)、小清水海岸(北海道)、青谷浜(鳥取)、十八鳴浜(くぐなりはま・宮城)、琴ケ浜(石川・島根)、豊間海岸(福島)、清ケ浜(山口)、姉子の浜(福岡)・・・

こんな海辺の近くにお住まいの方は何度も聞くことが出来るんですね。空気も澄んでいて、海の幸も楽しめそう。疲れた人の心身だってきっと癒されますね。この夏は自然に親しみたいもの。







お客様を固定化していけるのはモノではなくてサービス。
at 2005 07/21 06:54 編集

「しびれるサービス」より

当たり前のことだが、どれだけ多くの固定客をつかんでいるかが店の売り上げを左右するもの。その店の前を何万人の通行人が歩いていようが、それだけで売り上げ予測できるほど甘くはない。また、どれだけ長い間商売を続けられるかは固定客数できまる。

買う買わないにかかわらず来店頻度を上げないと購買の機会も失われてしまう。その際、新製品や奉仕品などの商品で呼べる回数はかなり限定される。ましてやブームは一時的なものに過ぎない。

ご来店の頻度を上げるには、感じがいいこと、居心地がいいことを念頭に置いておくべきだろう。来店頻度が増してその人から買いたい、となったら本当に固定化されたといえそうだ。

私の地元の生協では、コーヒーの無料セルフサービスを行っている。それは買物のおまけみたいなものだ。店内には休憩コーナーも設けてある。ほっとしたひと時を提供してくれるスペースはありがたい。その前にはガーデニングショップがある。

こんな生協は何年たってもつぶれそうな気がしない。それはちょっとだけ居心地の良さを感じるからだ。この“ちょっとほっとできる”も固定化のキーワードに思えてくる。このように無人のコーナーでもサービスと感じることもある・・・不思議だが。

サービス、おもてなしはどれだけオリジナルなアイデアが出せるかも勝負かもしれない。そのサービスがクチコミでうわさになれば最高なんでしょうが・・・。






若いことと若さは違います。
at 2005 07/20 06:23 編集

「しびれるサービス」より

年が若いとだらだらしていても、それが若々しさだと勘違いしてしまう人が多いようです。むしろ若々しさイコールやる気ではないでしょうか。

若年寄りということばがありますが、そういう人には新しいものをどんどん吸収しようという意欲がありません。

もしこんな人がサービス業についていたら、古いだけのサービスをただ繰り返すだけでしょう。お客様に喜んでもらえるのは、新鮮なサービス、元気のあるサービスです。

サービスに鮮度を加えるにはどうしたらいいのでしょうか。その答えを求めるなら、その業種ごとに常に観察と試行の繰り返しのなかから見つけ出すしかないように思えます。そのような基本をおろそかにすれば、ますます若々しさは失われていくでしょう。

高齢の人だって常に何かを吸収し新鮮な考え方でサービスの提供を考えるなら、それは若々しさがあるといえます。

一気に大きなサービスで勝負しようと思えば億劫になりがちです。おそらく、小さくてもイキのいいサービスを考えてみる、っていうのがポイントかもしれない・・・な。






過去の日記。2005.6-2

2007年07月24日 | Weblog
まったく逆のほうがから極める「ぜいたく」もある。
at 2005 06/14 06:54 編集

「ちょっとのお金で気分快適な生活術」岸本葉子著より

お金を出しさえすれば、いくらでもグルメを追求できぜいたくはできる。しかし身近にあるものでも、それを味わうことだってできるという提案だ。
ここでは、「季節感を味わう」ということについて触れていた。

その一つの方法として売られているものを安易に買ってくるというのではなく野草を味わってみるというものだ。たとえば、早春ならタンポポやツクシを採ってきて味わうという。簡単に料理したり天ぷらにも出来る。

スーパーや八百屋に行けばさまざまな野菜が並んでいるがそこにないものは、考えようによっては貴重でぜいたくかもしれない。

まあ、それほど大げさに考える必要はない。家庭菜園でも充分に贅沢は味わえる。一例としてトマトは一年中買うことは出来るが、真夏の太陽の下で真っ赤に熟したものは一味も二味も違う。

それを冷やして丸のままがぶりとやったら、けっこう“ぜいたく感”を味わえるはず。そこには店頭の野菜にはない本物の味がある。採ってきたばかりの魚、野菜、果物・・・新鮮でみずみずしいものはそれだけで充分ぜいたくといえる。

お金を出しても買えないものほどぜいたくともいえそう。
お金を使うこと意外で出来るぜいたくを探してみよう。そのヒントはちょっとした手間隙をかける、手作りにありそうだな・・・






シンプルな名前をつけてこそアイデアは実行しやすくなる。
at 2005 06/13 06:50 編集

webサイトの百式(2005.6.6)より。

そのシンプルな名前の一例として次のものがある。
The No S Dietつまり「ザ・ノー・エス・ダイエット」と読める。
単なるダイエットのアイデアだが、三つのSを禁止することでダイエットを提案している。具体的には次のもの。

(1) No Snacks(おやつはだめ)、(2) No Sweets(甘いものもだめ)、(3) No Seconds(おかわりもだめ)。
私などもう、これを見ただけでもムリかな、と思ってしまう。

しかし、Except on days that start with S(Sで始まる日は例外とする)、というふうに例外も認めている。

つまり、土、日は食べてもいいよ、ってことになるのだろう。これはちょっと面白い。まあ、それくらい自分を許してもいいのかもしれない。何が何でもとなるとちょっときつそうだから。これなら、じゃあ、試してみようかと思う人もいるかもしれない。

要するに常に腹が減っていない状態にしておけばいいってことになるか。そうすれば、おやつも、甘いものも、おかわりも欲しくなくなる・・・でも、健康な体ならそれは難しそうだ。

ところで、こんな提案をしたのはアメリカの会社なので、ノーSとなっているが、日本語でスナック、スウィートはいいとして、おかわりはOだから順番を入れ替えてSOSとしたらそのままダイエットへの危険信号にも思えてくる・・・かな。

話しがすっかりそれてしまった。
さて、ここで言いたいのはアイデアは凝ったり複雑なネーミングになるほど実行しにくい、ということなのだ。
なんでもシンプル・イズ・ベストなんですね。






販促勝ちのすすめ。
at 2005 06/12 07:52 編集

販売促進コンサルタントの金田晃さんが自社のホームページ(spkドットコムhttp://www.spk-co.com/)でいっていることば。

まず、上記の言葉に魅かれた。反則と販促の語呂あわせが面白い。

さらに、「問題は、販売促進をやるか、やらないか。そして、やるなら、勝ちにいく販売促進を選択する。机上論や抽象的な話など通じない「現場」では、具体策だけが現状を変える唯一の手段です。」とも続ける。

さすが実践をうたい実績のある販促コンサルタントは違う!と感じさせる力強いことばだ。

金田さんはこの4文字「販促勝ち」に会社設立以来こだわり続けているという。当然、こんなフレーズも金田さんの会社の販促になっていることは確かだ。

私自身も自分なりのスタイルで“販促勝ち”を何度も経験したことがあります。でも、もちろんいつでも勝つわけではありませんが。しかし、もしそれをしなければもっと負けていたかも、とも思えます。

結局は思いをカタチに出来るか、やってみるかだけのことかもしれない。あとは、それを受け取る側がどうとるか。万人にウケるものなんて所詮ありはしない。できるだけ多くの人に、または目的とする人だけに受け入れられるかどうかじゃないかな。

その根底にあるのは、共感、感動のような気もしている。ついでに思いつきだが、地道、実直、実行の3文“ジ”も念頭に置いておこう。





詳しいものより噛み砕いてある平易な資料が欲しい。
at 2005 06/11 06:58 編集

「夢実現のための情報整理術」より

この著者が「静電気関係」のことや「ルーベンス」のことを調べようと物理や美術の専門書を開いたとき、それらが役に立たないことがわかったという。それは詳しすぎるからだ。おそらくか書き方も難しく聞いたこともないような専門用語がいくつもでてきたからだろう。

百科事典や人物事典でも必要な知識はえられなかったという。こんな経験は私たちもしたことがあるはず。そうそうパソコンの説明書もかなりわかりにくいですね。

この人の“奥の手”は児童書コーナーに行くことだった。子供向けに書かれた本は、大人の本以上に正確に、なおかつ素朴な疑問にもていねいでわかりやすく答えてくれるものが多い。ちょっと何かについて知りたいときはこんな方法もいいかもしれない。子供レベルの知識でも絶対に馬鹿にはできない。

以上のことはかつて自分でもやっていたことなので納得できる。

私も何年か前に三国志について、読んだことがなかったので、子供向けの10巻の本を図書館で借りてきて楽しみながら読んで理解することが出来た。

同様に、子供向けに書かれた科学や植物の本も何度か借りてきて読んだものです。もしそれで物足りなければ、別の専門書にあたればいい。

時には児童書をあたってみるというのは、正しく、早くものごとの本質を知るためのちょっとしたノウハウだと思っているんですが。しかもこれはけっこう時間の節約にもなりますよ。






パソコンを置けばどこでも「書斎」
at 2005 06/10 06:16 編集

「夢実現のための情報整理術」より

「どこでも~~」なんていうと、すぐに“ドラえもん”の「どこでもドア」を思いだしませんか。

書斎というと特別な独立した部屋がなければと思ったりするものだが、べつにそれは必ずしも必要ではないらしい。もしそんな部屋があればかなり贅沢なほうかもしれない。私も家を建てたときには独立した書斎を持っていた・・・はず。

そこでは数年間は、自由に油絵を描き、机では本を読みまた書き物もしていたこともあった。しかし子供の成長とともにそれは子供らの部屋になってしまった。

自然とキャンバスや絵筆からは遠ざかり、読書や書き物はほとんど寝室のベッドにもたれてするようになってしまった。寝室の片隅にある机とパソコンと書棚だけが日常の私の書斎となっている。

つまり、部屋の一つのコーナーを区切ってもそうした空間は得られている。

要するに自分が集中して何かができる空間があればいいのかもしれない。たとえ部屋があってもきれいなだけで、利用しなければ意味がないし。

この著者はノート型パソコンは動かせる書斎だといっている。キッチンでもダイニングでもベッドでも。たしかにそうかもしれない。そこで、知的仕事に集中できさえすればいいのだ。

そういえば、電車のなかや喫茶店でもパソコンでなにか打ち込んでいる人もその人にはそこが書斎なんだな。







小粒でもぴりりとした「知的なスキマ」時間。
at 2005 06/09 06:17 編集

「夢実現のための情報整理術」中山庸子著より

筆者は時間には「義務時間」と「自由時間」があるという。わかり易い。そしてちょっとした自由な時間をスキマ時間と名づけている。

1スキマ時間は5分らしい。3スキマ時間なら15分となる。実はその時間の使い方で人生が変わってくるともいう。

その時間を使って情報収集や整理に使わなくても、意欲を湧かす準備時間にしてもいいし、疲労回復する時間にしてもいいという。受身の時間を減らして能動的な時間を増やす、というところがポイントのようだ。

たとえば、午後ちょっとした時間があれば昼寝をすれば頭がスッキリして効率が良くなるというのもそうかもしれない。それを意識して出来たらいいのだが。ハガキを書く。散歩をする。新聞を切り抜く。本屋へ入ってみる。軽い体操をする。・・・やれそうでやってないことが多そうだ。

スキマ時間で簡単なことを繰り返す。→それが将来大きな成果を生むことになるらしい。スキマ時間を有効に使うことでその前後の「義務時間」も能率よく快適になるという。

そんな小粒でもぴりりとした「知的なスキマ」時間を生活のあちこちのシーンに作ってみるといいのかもしれない。
そうか、自分の場合はスキマだらけの時間ばかりだった・・・
よし、とにかく今日から、今からはじめてみよう。







「鳥肌が立つ」ということ。
at 2005 06/08 06:17 編集

日常的に使われる言葉でも、以前からちょっと気になっている表現がある。それが、上記の表現だ。

10年以上前のこと、知り合いの元女子バレーボール選手に私の読んだスポーツノンフィクションを数冊貸してあげたことがある。
実際スポーツマンだった人は、同業のスポーツものを読んだらどんな感想をもつのだろうか、ということに興味があった。

「で、どうだった?」と聞いたとき、目を輝かせて返ってきた最初の言葉が「すごい、鳥肌が何度も立ちました!」というものだった。
その後、テレビ、ラジオなどでも感動したシーンでの感想にこの鳥肌が立つ、という表現を何度か耳にしたことがある。
こう表現するのは若い人が多いようだ。しかし、この表現は実際はおかしい。

辞書には次のように説明されている。
とりはだ 【鳥肌】
寒さや恐ろしさ、あるいは不快感などのために、皮膚の毛穴が縮まって、鳥の毛をむしったあとのようにぶつぶつが出る現象。総毛立つこと。体温調節反射の一つ。「―が立つ」。

どちらかといえば、恐ろしい場面で「身の毛もよだつ」に近いとも言えそうだ。私たちも間違った用法で言葉を使っていないかもう一度振り返ってみる必要がありそうだ。
いずれにしても、鳥肌がたつような場所や場面にはいたくないもの。









人間は一夜にして変化することがある。
at 2005 06/07 07:18 編集

「ザ・勝負」清水義範著より

タイトルからすると、ノンフィクションものかと思うが、実はユーモア小説だった。(たまにこの著者の家の前を通ることはあるが、べつにありふれた家屋であった。こんなこと関係ないか。)

その中の「米VS.麦」という短編のなかにあったフレーズ。ある米屋の奥さんがいて、いつも疲れた表情で、暗く、声も沈んでいた。それは口うるさい姑からいつも叱り飛ばされているからだった。

ところが、この姑が老衰で亡くなってからは、まるで人が変わったように表情はイキイキとしてきたのだ。声の明るく人に優しい心遣いができるようになっていく。

そのうえ、自らすすんで仕事を拡大していくのだった。小説に限らず、実際似たようなことはあるだろう。ちょっとした重石が取れるだけで人は大きく変化する。

たとえば、物事の本質が見えないときなどは、いろいろと心配なことが頭の中に充満して不安が伴ってくる。しかし、それが何であるかさえわかれば、急に気持ちも楽になる。これなども人間は一夜にして変化することがある、ともいえる。

低迷している経済だってちょっとした見通しさえつけば、景気にもいい変化をもたらしそうなものなのに・・・






クレーム自体に商品価値がある!
at 2005 06/06 06:34 編集

先日「R25」(2005.5.26発行)というフリーペーパーを眺めていたら、「苦情・クレーム博覧会」というのがあることを知った。

これは福井商工会議所が03年から開催している。

だいたいアイデア商品のほとんどは“あったらいいな、あると便利”、などの不平、不満から生まれている。

さて、この商工会議所ではインターネットで全国から苦情・クレームを募集する。→クレームを審査しデータベース化する。→このクレームのデータベースを有料で公開するというものだ。つまりこうしてクレーム自体が商品価値をもってくる。

企業などはその情報を元に商品を開発するヒントに役立てようというわけだ。すでにそんな苦情・クレームからいくつもの新商品が開発されている。

身近な苦情・クレームもこんな加工(データベース化)を施すことで商品そのものになってしまう。やはり量は侮れない!

満足しているうちは何も新しい価値を生み出せないということもいえそうだな。今度、身近な不平不満をこの商工会に応募してみよう。








はじめた人から輝き出します。
at 2005 06/05 07:18 編集

新聞広告に掲載されたNHK学園のコピー文。

生涯学習をすすめている。そこには、趣味といってもいいような、絵手紙、書道、語学、川柳、短歌・・・とテーマはたくさんある。

世の中に通信講座は無数にある。つまりそれで商売が成り立っているということだろう。
なんだか、生涯学習というと歳をとってからはじめる趣味やお勉強と勘違いしやすい。

そんなことはなく、いつ始めてもいいはず。早ければそれだけ得るものも多いに違いない。上達への時間もたっぷりとれる。

何を選ぶかよりも、むしろ今まで既成でなかったものを学習テーマとしてさがす、というのも面白そうだ。

ある意味では昔流行ったライフワークと考えてもいいかもしれない。
しかし、そのテーマを探すのに時間がかかっては意味がなさそうだな。
せいぜい半年か一年くらいの期限を限ってテーマを探してみようか。

それで輝けるなら儲けもの・・・







若者といっても鈍感な「若者仮面」もいる。
at 2005 06/04 09:29 編集

「街角からのマーケティング」より

筆者はカタチだけのヤングというのは価値がないと言い切る。それはそうだろう。中には「中高年予備軍」もいるらしい。

ヤングおじんというやつだろうか。私から言わせれば、20代、30代だからといって、すべての感性、感覚がすぐれているとは思わない。

ものの見方、考え方がどれほど柔軟に出来るかこそが重要に思える。
ファッションセンスだけがよくても、気持ちのいいコミュニケーションができるかどうかは、全く別問題だ。

自分も含めて、大人はデータやコンセプトだのという理屈をこねて、ものごとを正当化しようとすることがある。
その点、若者世代のうちでもローティーンと呼ばれる子供たちのほうが、雑念も少なく友達ネットワークなどを通じて、情報も早くて豊富で正しいことが多いらしい。

そういえば、我が家のローティーンは現在第一線(メジャー)で活躍するお笑い芸人の数人を、まだ彼らがテレビに登場し始めた頃からしっかりとマークしていたな。

“老いては子に従え”っていう言葉がちらついてくる。でも、負けないようにしなければ・・・






知識は秘密兵器である。
at 2005 06/03 06:28 編集

「街角からのマーケティング」より

ごく一般的に言われるのは「知識は力なり」というすっかり手垢のついた言葉だ。

こんな表現では何のインパクトもない。しかし上記の“秘密兵器”となるとちょっと目が覚める。

筆者は秘密は自分だけこっそりでなければならない、しかもいざというときピカリと光らせるためにはひそかな蓄積が条件になってくるはずだ、とも主張する。

関心をもつ縄張りの広さは武器をためこむもとになってくるらしい。まずは広く浅く関心の領域を広げていこう。

そして、そこそこ関心がもてたら知識へと変換させていかねばならないのだろう。でも、兵器というからにはかなり詳しく知る必要もありそうだな。一夜漬けでは無理に違いない。

もしかしたら、いままで持っていたのはおもちゃの鉄砲くらいの知識だったかも。





継続することで他との差別化を図れることもある。
at 2005 06/02 23:38 編集

ある私立高校の学校本部長との会話より。

昨日(6/1)、都内のある有名私立高校(主に芸能、スポーツ方面で知名度がある)を仕事で訪ねそこの学校本部長と対話をしているとき、印象に残ったフレーズ。

訪問したのは夕方の4時ごろだったが、あまりにも静かだったのでその理由をきくと、生徒たちはたまたま修学旅行中とのことだった。

そんな話しから、生徒にとっては楽しい旅行も教員からすれば、責任を考えたら負担が大きいらしいとわかった。実際そのような責任がともなう行事は取りやめるところもでてきているそうだ。

行事の取りやめは学校の活性化をも失うような気もする。しかし、そのような風潮とは別にこの本部長はその高校では今後とも修学旅行は継続していくと決めているという。

そして、他の学校が旅行などの行事を減らしても、自分の学校が継続すればそれが独自の特長ともなっていく筈と述べた。別な表現では周りがなくなることで逆に存在感がでてくるともいえる。闇夜の灯台にも似ているか。ちろんそのためには、学校としての、ポリシーが徹底していることが大切だろうと思える。

さて、もっと身近なことで考えてみたらどうだろう。たとえば、いまやっているつまらないと思えることも、5年、10年と継続したら、何か独自の価値あるものに変わるか・・・な。







「生」も「活」もともに「いきる」と読める。
at 2005 06/01 06:10 編集

「街角からのマーケティング」より

あまりにも当たり前で、意外にもシンプルな言葉にとまどうことがある。生活もそのひとつと言えそうだ。

お笑い芸人のヒロシのネタに次のようなものがあった。

「♪~~ ヒロシです。~~生活感のない部屋にあこがれて、必要なものまで捨てたら、生活が出来なくなりました。・・・・」

さて、生と活はどこがどう違うのでしょうか。本の中には次のように書かれていた。

「生きる」・・・寿命をこなす。自動的に生存する。

「活きる」・・・自発的に生命や環境と闘って生きる。(他を動かしながら生存するような感じ)

できるなら、いいコミュニケーションをしながら「活きて」いきたいもの。

蛇足ながら、“楽しくなければコミュニケーションではない。”っていうことばもどこかに書いてあったっけ。



過去の日記。2005.6-1

2007年07月24日 | Weblog
クセを技化し、自分のスタイルをつくった者勝ち。
at 2005 06/30 06:07 編集

『自分を「売る」力』より

年齢を重ねるとクセはほとんど直らない。まず、そのクセが何であるかを意識できるかがスタートだ。無理して直そうとせず、それを自らの強みにしてしまおうというものだ。

意味のないクセもある。できれば、クリエイティブに変化するようなクセならいいのだが。極端な例は今月日米通算200勝を達成した野茂投手の投球フォームだ。あの一見ムダな動きとも思えるトルネード投法はクセであり、同時に彼独自の技ともなっている。クセを技化し自分のスタイルを作ったいい例だろう。

人の生き方自体にもクセはあるはず。それも磨いて独自のスタイルを確立できれば、技化したことになる。「あいつがそう言うんじゃしょうがない」というのも周囲がその人のクセを認めさせたことにもなる。

さて、自分はそれなりの持ち味を出しているだろうか・・・





「芽が出ない」と嘆く前にたくさん種を蒔こう。
at 2005 06/29 06:34 編集

『自分を「売る」力』より

たとえば作家になりたい人がいたとしたなら、実際すでに小説を書いていなければなれるわけはない。

まず大事なことは「具体的な“かたち”にする努力をしているか」なのだ。素晴らしい才能がありアイデアが優れていようが、具体的な“かたち”つまり目に見える状態になっていなければ、評価のしようがない。

ビジネスの世界も同様で、必ず儲かると思えることも、話しだけで終わってしまうことがほとんどではないだろうか。

“種を蒔く”とは具体的な形にするということなのだ。もちろん種はすべてが育つわけではない。たくさん蒔いて一つでも発芽すればもうけもの。

ダイエットもそれなりに実行して継続しなければ期待もできないだろうし・・・いろいろ耳が痛いですよね。






個性の尊重とか口当たりのいいことを言っている。
at 2005 06/28 06:25 編集

『自分を「売る」力』斉藤孝著より

対談の中で立川談四楼は、こんなことは「冗談じゃない」という。

著者の斉藤はそれに対して「どの世界にちゃんとした型や技術を身につけないで表現できる領域があるか」とまで述べている。
型や技術の習得が自由な発想や上達のためにはいかに重要であるかを2人の偉大な人物を例にあげている。

1.モーツアルト・・・あんなに独創的なのは音楽の型をすべてマスターしているから自由にできる。
2.イチロー・・・野球の技術を徹底的に訓練しているからこそ、クリエイティブな動きができる。
何事も型、基本技術を覚えることは常識なのだ。

だから、ゆとり教育だとかいって子供の自主性に任せたところで、たいした期待などできない・・・と思えてくる。





「情報」は信頼できるところに流れてくる。
at 2005 06/27 06:07 編集

「コメント力を鍛える」より

これは筆者の取材を通じての実感であろう。

人を通じて何かを知ろうと思ったところで、その前に心に響く言葉で語っていなければ、なにも伝わらないもの。つまり信頼関係が築かれていなければ、真実を捉えることは難しい。

「あの人だったら話してもいい」という関係になっているかどうかがポイントだ。

これは直接話しを聞く場合意外でも同様なことがいえそうだ、例えば、ウェブ上での交流でも、それまでその人が何を語っているか、何をどう判断しているかによっても情報の質や集まり方に差がでるだろう。

「情報は信頼できるところに流れてくる」はふだん忘れがちのことでもあるな。






現状への不満や意欲が、活力やエネルギーになることがある。
at 2005 06/26 06:55 編集


「コメント力を鍛える」より

これはしばしば感じることでもある。アイデア商品やヒット商品のほとんどは、そうした不満や期待から生まれてきたのだろう。

「どうしてこうなんだ、もっと別の方法があるはず」なんていうことも含まれよう。不満や意欲が何かを生み出してくれればいいが、それが停滞してしまうと自分の中でストレスになってしまう。

大した不満がないということは、幸せなことかもしれないが、その状態が長引けば何の意欲もなくなりそうな気もする。現状を打破しようとする意欲の強さは活力のバロメーターともいえそうだ。

ちょっとした不平不満は次のステップへ進むための燃料と考えたらどうだろうか。うまくも燃やせれば、それなりのものが生まれる・・・かも。





励まされるコメントへの渇望。
at 2005 06/25 07:26 編集

「コメント力を鍛える」有田芳生著より

たった一つのコメントでやる気が出たり出なかったりするもの。「燃える一言、冷める一言」というのが掲載されている。本文によると「冷める一言」の代表格は「君は使えない」「君には無理だ」「余計なことはしないように」などの否定の言葉らしい。確かにそんな言葉はがっかりさせ、仕事への意欲を失わせる。

反対に「燃える一言」の代表格は「君に任せる、頼むぞ」「失敗はおそれずにやれ、後の責任は俺が持つ」ということらしい。しかし、実際にこんなドラマみたいなセリフを吐く上司ってどれほどいるのだろうか。やや疑問・・・

いずれにしても、意欲が出るコメントは大切だと思える。人は適切な評価や力強いアドバイスをもらたときほど嬉しいことはない。

自分がされて嬉しいことを人にもしてみよう・・・かな。おっと、これ自体もフレーズに対するコメントになっているのだろうか。





速いが勝ち。そして速いが価値。
at 2005 06/24 06:55 編集

「はがきの極意」より

筆者の言葉のうまさには思わず引き込まれる。もう、それだけで下手な解説やコメントなど必要ないほど。
つまり極意のひとつは拙速(せっそく)なのだ。この意味は「下手ではあるが出来上がりの速いこと」だという。

スピード、それは相手への思いやりのバロメーターでもある。思う度合いが低いほど遅くなるのだろう。
はがきはスピードがある(つまりさっと書いてすぐ投函)というだけで書いたものに付加価値がつくのだ。

さらにその拙速を実行する際に筆者は次の3つの「ム」を提案している。
1.ムキになる。・・・むきにならないと書けないもの。書くぞという意気込みだ。
2.ムリをする。・・・たとえ疲れていても無理をして書いてしまう。
3.ムシをする。・・・書いてちょっとしたミスがあっても無視をする。

直筆はがきで大事なことはイキオイとノリで書いてしまうことなのだ。
お客さんを持っている人はまず、手元にはがきを用意することからはじめなければならないかな。






パーソナルで、オリジナルで、ダイレクトなメッセージ。
at 2005 06/23 06:19 編集

「はがきの極意」より

つまりこれは“直筆”はがきのこと。お客様に書く以上は「ちゃんとしなければ」と思ってしまいがち。
直筆はがきが書けない原因のひとつはそこにある。まず、その「ちゃんと」というのを頭から外すことが大事なのだ。

“人にまかさず、自分で書いた。機械なんぞでごまかさなかった。正真正銘わたしのはがき。”もうこれで充分だという。
もしそれにお金をかけずにちょっとした工夫があればなおいいだろう。

パーソナルで、オリジナルで、ダイレクトなメッセージ、とシンプルなこの基本を守ればいいだけだ。DMは“ダイレクトなメッセージだ”と考えるべきなのだ。

筆者はある人に対して次のように激励している。「きれいがなんだ、ヘタクソがなんだ!・・・世界でただ一枚、これ最強!」と。
さらに別の箇所では“切り札”を出している。「悪筆は三度読まされると目が慣れる。」またヘタな文章も個性だと思えばいいのだという。

“大切なのは技術ではないはず。熱意であり、誠意であり、タイミングも重要。”とも強調する。
悪筆の私などはこんなたたみかけて来る言葉にも背中を押されてしまいそうだ。

でも、考えてみれば、これははがきを越えた極意でもあるな。人生そのものではないか!







もうワンランク上の「なるほど、これだな」というのが納得。
at 2005 06/22 06:22 編集

「はがきの極意」金田晃著より

筆者は“もうワンランク上の~”と述べている。そのフレーズの前には次のセンテンスがある。

“「ふんふん、そうか」というのが理解だとすれば、・・・”

一般的に多いのは、理解はしてるが納得まではいかないという状態だ。この本の中にははがきの極意と思われる具体例が満載されている。

筆者自身、毎月300~400枚のはがきのやり取りをしている。そんなことから、はがきは実際営業の現場にいる人たちには仕事の武器になっていることを多くの実例を示しながら解説している。実例ほど納得できるものはない。

この本のサブタイトルには「IT時代だからそこ心に響く」とある。ああ、実感!ですね。

復習してみよう。読む→理解する→納得する→試してみる(実行)→継続する。ここまでいかなければ、結局どんなにすばらしいアイデアも絵に描いた餅に過ぎない。

とまあ、こんなこと書いても納得できないでしょうが・・・





スポーツマンシップと芸人魂の融合。
at 2005 06/21 06:42 編集

ラジオ放送を聴いていてふと思ったこと。今月初旬のNHKラジオ番組での欽ちゃん(萩本欣一氏)の受け答えから感じたことがあった。

ラジオの生放送中にリスナーからの意見が読まれた。主な内容は次のようなものだった。
萩本氏が率いる球団(ゴールデン・ゴールズ)では監督と地元アナウンサーとのやり取りがあるらしい。

「そのやり取りのときはいつも標準語でしゃべっているが、地方にいったらその地方の方言でやったほうがいい。」
というものだった。それを聞いていた欽ちゃんは「いいご意見いただきました~。そのアイデアをすぐにでも採用させていただきます。」と繰り返し返事をしていたのです。

彼はファンからの意見でいいと思ったものはどんどんと取り入れている。その決断は早い。彼が率いるゴールデン・ゴールズが注目されるのはそんなところにも要因がありそうだ。

こんなとき、他の監督ならどういうだろう。きっと「そのご意見を持ち帰ってメンバーと検討してみる」または「今後検討する価値があると思う」などと即決しないだろう。でもそれではファンはついてこない。

欽ちゃんの歯切れのいい返答は今後もファンを増やしていくだろう。スポーツマンシップとお客様を大切にするという芸人魂が融合しているようにも思える。プロも見習うべきところが多そうだな。








年中無休でなければ良いものは作れない。
at 2005 06/20 06:10 編集

日経ビジネスアソシエ(2005.6.21)より

これは敏腕編集長といわれる花田紀凱氏の言葉だ。編集者の必要条件として企画力、取材力、表現力、好奇心、タフネス・・・などを挙げている。

しかし、これらのいくつかは、私たちの一般的な仕事や日常生活でも必要とされるだろう。

彼はまた「明暗を分けるのは、この辺りでいいかと諦めずに最後まで粘る強い気持ちだ」とも述べている。ここでいう明暗とは優れた記事になるかどうかということだろう。最後まで徹底的に取材して仕上げたものはそれなりに読者に訴えてくるものがあるに違いない。

さて、タイトルの“年中無休”だが、上記のことから最後まで頭を働かせ粘ることと理解できる。体は休めていても頭の中は働いているという状態だ。

商品やサービスなら常に改善、改良を重ねバージョンアップすることで、完璧と思えるものに仕上げたり、理想的なものに近づけるということだろう。なんて勝手に想像してしまった・・・






カバンとは不安解消の装置である。
at 2005 06/19 07:14 編集

日経ビジネスアソシエ(2005.6.21)より

この号の特集は「いつも目標を達成する人のカバンの中身」だった。こんなコピーに魅かれて最寄の書店で衝動買いしてしまった。

山根一眞氏(ノンフクション作家)のカバンの中身はすさまじい。“書斎を丸ごと詰めてどこにでも持ち歩く”がまったく誇張でもないことをうかがわせる。

その主な中身が写真で紹介されていた。3台の携帯電話、ノートパソコン2台(うち一台は超小型)、電子辞書、ラジオ、ICレコーダー、超小型望遠鏡、デジタルカメラ、筆記用具、通信用の各種カード、ダイヤモンド鑑定用ルーペ、気象計およびメジャー、コンパクトライト、自身の本、小型ビニール袋・・・など22種類(点数はさらに多い)にも及ぶ。

これらは普段の取材活動をしている時のものだという。彼は「新幹線の中であろうと飛行機の中であろうと、今やらねばならないことが、仕事場にいる時と同様の環境でできなければ、安心して仕事場を離れることはできない」ともいう。

凡人には道具を手にして使い方をマスターし使いこなすだけでも時間がかかってしまう。しかも、これだけのものを持って移動するだけでも疲れてしまいそうだ。そのためにはまず、体力をつけねば・・・な。しかし自分のカバンにはゴミや無駄なものが実に多すぎる!





目の前の仕事、いまいる場所で何をやったら面白くなるかを考える。
at 2005 06/18 07:16 編集

THE21(2005.7月号)のインタビュー記事より

「気になるあの人との60分」のなかで、スタジオジブリの代表、鈴木敏夫氏が話している部分に共感を覚えたのが上記のフレーズだ。

これは「仕事が面白くないという若手ビジネスマンにぜひアドバイスを」に答えたものだ。

彼は「あんまり先のことを考えないことだ。しかも目標をもつとそこに、理想の自分がいて、そこから自分を見るから不安に陥るのだ」ともいう。

あまり先を見ず、むしろ目の前のことをコツコツとやってみることが、大事だと訴える。でも、若いほどそんなことが理解できないのかも知れない。かえって地道にやることがバカらしく思えるもの。

しかし、もう一度ここで、タイトルを振り返ってみよう。“何をやったら面白くなるかを考える”というのもけっこう面白そうに思えてくる。まず、自分を面白がらせることが出来れば、人も面白がらせられるのでは・・・。

一つの仕事に対していくつ面白いこと(アイデア)考えられるかな。その数が多いほど充実した仕事も出来そうな気もしてきたな。






羽生善治やイチローには何のマジックもない。
at 2005 06/17 06:49 編集

THE21(2005.7月号)香山リカの「貧乏クジのひき方・はずし方」のコーナーより

何ごともうまく行かないと運が悪い(アンラッキー)と思いがち。しかし、スポーツやビジネスの世界でトップに立っている人たちは、みな自分の力で才能を開花させた人たちだ。

たしかにいくらかの偶然の出会いや幸運はあるかもしれないが、それを近づけたことも実力ともいえそうだ。

たとえば、最近脚光をあびている堀江社長や最年少で上場を果たした藤田晋社長などは、学生時代のアルバイトでIT業界の知識を仕入れ、そこでその後起業するためのノウハウを身につけ成功している。

棋士の羽生善治、バレエの熊川哲也、メジャーのイチロー・・・彼らには人より優遇されたり抜擢されたということはないし、何もマジックはない。正々堂々と実力一つでトップまで上りつめている。

アンラッキーと嘆く前に本当に努力して実力をつけているかどうかを問うべきかもしれない。う~む、こんなことを書きながら自ら反省ばかりしてしまう・・・





自画自賛は、人の成長を促進させるターボのようなもの。
at 2005 06/16 06:37 編集

THE21(.2005.7月号)、斉藤孝の「めざせ!ゼウス」のコーナーより

自画自賛はべつに悪いことでもないらしい。筆者は「自画自賛力」ということばまで作っている。それをうまく利用すると、やる気がどんどんと湧いてくるという。

これは自分のやったことを絵のように客観的に捉えなおし「われながらもう二度とこんな絵は描けないかもしれない」などとほめることだと言っている。

「絵を描いた自分」をほめるのではなく「絵自体」をほめるというところがポイントになっている。

似ているのがナルシシズムというやつだ。これはウットリ自己陶酔してしまうだけの人間らしい。たとえば、自分大好き、自慢大好きで「俺ってすごいでしょ」というような人間をさしている。

しっかりした自画自賛力を養うには客観性が必要になってくるのだ。おっと、その前に自画自賛できるものがあるかどうか・・・それが問題かも。





顧客の気持ちを読むことを常に優先する人間をビジネスマンと呼ぶ。
at 2005 06/15 06:10 編集

朝日新聞土曜版(2005.6.11)の“フジマキに聞け”のコーナーより

こう言っているのは藤巻幸夫氏だ。彼の言葉にはいつも熱いものがある。

で、サラリーマンはどうかといえば、「上司の気持ちを読むことに神経をすり減らす人間」だという。きわめてわかりやすい説明になっている。もちろんこれは藤巻氏が自らの独自の体験をとおして感じたことをやや極端に表現していることなのだろうがうなずける。

実は辞書をみればそんなことはどこにも書いてない。(次参照)
サラリーマン 〔salaried man〕給料生活者。俸給生活者。勤め人。月給取り。
ビジネスマン [businessman] (1)実業に携わる人。実業家。商売人。(2)会社員。特に、事務系の仕事をする社員。

しかし、そうかもしれないと思わせるところが彼の説得力であり人生哲学なのだ。
そこで、立派なビジネスパーソンに飛躍するために心がける3か条を掲げている。これは彼が部下に言っていること。

1.視野は広く。2.アンテナは高く。3.腰は低く。

それぞれは別にどうということはなさそうに思える。しかし、常にその3つが無意識のうちにできるまでには日々の努力が必要そうだ。
やはり、藤巻氏同様に熱くならなければ実行できそうもないかな・・・




過去の日記。2005.5-2

2007年07月24日 | Weblog
人間の下半身は、気力と体力を生み出す、いわば原動力のようなもの。
at 2005 05/14 13:24 編集

「上機嫌の作法」より

で、端的にその下半身を鍛えるにはスクワット(膝の屈伸運動)がいいらしい。

黒柳徹子さんはいつもエネルギッシュに仕事をしていますが、彼女のエネルギーを支える習慣は日課にしているスクワットだったのです。毎日30回から50回はしているという。

また、80歳を過ぎてもまだ元気で舞台をこなしている森光子さんもスクワットを日に70回しているそうです。

タダで出来るこんな単純なことこそ継続するのは難しそうだ。でも、それを継続しているからこそ、日常での推進力がわいてくるに違いない。つまり上機嫌な下半身ということだ。

私自身も時どき思いついたように数日間スクワットをやることはあるが、その間は確かに駅の階段や歩道橋を駆け上がっている。

よーし、と思って今朝、数週間ぶりにスクワットを80回やってみたら、足はもうガクガク・・・やはり普段からやらなければ・・・か。

単純なことを継続している黒柳さんや森さんのスゴさを身をもって“痛”感した次第。






「マツケンサンバ」には馬鹿馬鹿しいほどの上機嫌がある。
at 2005 05/13 21:24 編集

「上機嫌の作法」より

筆者は上機嫌の例として「マツケンサンバ」を取り上げている。さすがいいところに目をつけている。殿様がド派手な衣装で軽快なサンバを踊る。ノリのいいリズムだ。

昨年大ブレークして今もなおそれが引き続いている。でも、いきなりブームになったわけではなかった。松平健さんはもう10年も前から自身の公演でやり続けていたのだ。長年の創意工夫が凝らされていたからこそ、大ブレークにつながったともいえる。

ところで、似たようなものがあったのをふと、思い出しました。

一つは北野武監督、主演の映画、「座等市」のラストシーンで出演者全員がリズムよくタップダンスを踊っていたことだ。時代劇とダンスの組み合わせは意表をついて面白かった。

二つ目は徳島をはじめとする阿波踊りだ。踊るアホウに見るアホウ。おなじアホなら~~というやつだ。どうせ踊るならこんなふうに上機嫌でなければな。

また、上機嫌でなければ踊る気にもならないか。そんな雰囲気に浸っていたのはもうかなり昔のことになってしまった・・・





不機嫌に見えるという十字架を背負っている。
at 2005 05/12 06:21 編集

「上機嫌の作法」斉藤孝著より

いったいどういう人がそんな十字架を背負っているのかといえば、四十代以上、特に四十五歳を過ぎた男性は激しく不機嫌になるという。ちょっとドキッとしてしまう。

つまり中年といわれる年齢にさしかかった人たちは、実際には不機嫌ではなくても、ふつうにしているだけでもそう見えるらしい。気をつけねば。

早い話が体が硬くなって反応が鈍くなるから、笑いにくいからだになって「笑う」という当たり前の動作さえも自然に出来なくなるのだという。

その結果、人から見れば不機嫌にみえることになる。となると、意識的に上機嫌になるようにしなければならないのだ。体を柔らかくすることも必要になるか。それから微笑む訓練をしなけばならない。

対人関係で上機嫌ムードにする基本が書かれていた。1.目を見る。2.微笑む。3.頷く。4.相槌を打つ。

どれも当たり前のことだ。でも、中年男といわれる自分が常に出来ているかもう一度チェックしてみる必要もありそうだな。





チャーミングな実用性を持つ人。
at 2005 05/11 06:52 編集

「手紙を書きたくなったら」より

(状況としては、この著者(女性)が交際し始めた相手の青年に、あるときラップにくるんだおにぎりを差し出したときのこと。)

「このラップ、可燃性?」と訊いたらしい。そのときはじめて著者は燃やしていいラップがあることを知ったという。そしてゴミの分別に厳しい彼を素敵だと思ったのだ。

つまりそのことを“チャーミングな実用性”と表現している。ちょっと面白い表現なのでこの箇所だけが気になった。

でも、考えようによっては実に細かいことまで知っている男なんだな~とも思える。神経質なのでは、とも。がさつな私には考えられない。

でも、そういうところにも魅力を感じる女性がいるんですね。知らなかった。

今度自分もそんなチャーミングな実用性でも身につけてみるかな。おっと、もう遅いか。あと20年くらい早ければな~。







ちょうど80円分くらいの個人的内容。
at 2005 05/10 06:33 編集

「手紙を書きたくなったら」木下綾乃著より

そういえば、最近ケータイやパソコンのメールやHPの掲示板以外の本当の手紙を書いていないことに気づく。せいぜいハガキくらいは時どき出すが。

実用向きだけならデジタル文字のメールでも十分かもしれない。でも、やはり手紙にはデジタル文字とは全く違ったよさがある。その人のぬくもりが直に伝わってくる。何度も手にとって読み返せる。

80円切手を貼った手紙なら便箋にかなりの分量の内容を書ける。ハガキでは書けないような個人的内容もたっぷりと。相手に着くまでは時間がかかるが、やはりそれなりの価値があるようにも思える。

考えてみれば、メールは便利でお手軽だが、そうそう急いで伝えなくてもいい内容のものが多い。メールはあまり考えなくてもけっこうすらすら書いてしまう。まるでしゃべりことばに似ている。

しかし、直筆の手紙やハガキとなるとやはりちょっと考えてしまったりしますね。もう一度80円の価値を考えてみよう。





素敵な会話は素敵な質問から始まる。
at 2005 05/09 18:02 編集

今日(5.9)、百式というサイトで見かけたフレーズ。

「机の上にちょこんと置いておける、質問が書かれた『テーブル・トピックス』というカードを販売している。」
というアメリカのビジネスのお話し。

上記は原文ではどうなっているだろうと、ちょっとのぞいてみた。
すると、 Great questions to start great conversations.となっていた。

この人は「素敵な会話は素敵な質問から始まる」と訳している。
素敵な訳だ!と思った。すると、う~むなるほどっていう感じもしてくる。

さて、とにかく素敵な会話をするにはどんな質問をするかにかかっている。
べつに難しいことを考えることはない。こんなカードをテーブルの上に置いておけばいいらしい。誰にでも通用しそうな質問がカードには書かれている。

相手が考え込んでしまわない程度のものからスタートすればいいのかな、なんて思う。
お互いの話しが盛り上がるためには、やはりちょっといい質問を考えてみる必要がありそうだ。でも、考えすぎて時間を無駄に使わないようにしなければ。

ふだんから、こんな質問したらどう答えるだろうというようなことを細切れの時間に考えておくといいかもしれない。そうすれば、こんなカード買わなくてもすむか・・・









強いだけ、完璧なだけの人には近づきにくい。
at 2005 05/08 06:52 編集

これは私の思いつき。自分はどんなときに人に対して親しみを持てるのか、ということをふと考えてみた。

誰にでも欠点や弱みはあるもの。でも外からはわかりにくい。でも、それが見えたときになんとなく親しみを感じたりする。

私の同僚にほとんど自分の弱みを見せない人がいます。一見完璧に見えますが、そういう人に話しかける人はごく限れられた人です。

強そうに見えてもその人の弱点が見えたときには、ほっとしたりして嬉しくもなります。

私など生まれつき早とちりでおっちょこちょいが地にあります。そのためよく“あっ、いけね”というような失敗をやらかします。

そんなときは、へ、へ、へなんて笑いでごまかしていますが・・・なんとなく自己弁護のために書いてしまったかな。






秀さんは夢の世界に飛び込んだわけですから、本当に幸せ者です。
at 2005 05/07 12:33 編集

PRESIDENT2005.5.16号より

この前に「いつもお父さんは思いますが、」というセンテンスがある。

これは現在メジャーで活躍する松井選手にむけて父の昌雄氏が送った手紙のフレーズの一部だ。宛名はいつも“秀さんへ”ではじまり、昌雄で終わっている。

ふつうの親なら息子には“秀喜”と呼び捨てにして書き出すはず。父がさん付けで書くのは息子を独立した人格を持つ人間として遇しているからだという。

まあ、これも松井選手がそれだけすごい立派な人物だという証拠かも知れない。

松井選手は遠征の時にはノートパソコンを持って出る。そして深夜ホテルでメールチェックをしている。今まで親子で数百通のメールのやりとりをしている。

松井選手にとっての夢は大リーグでプレーすることだったのだ。それを実現しているのだからさすがだ。その他多くの日本人メジャーリーガーもいま夢を実現してプレーしてるんですね。今年も彼らの活躍に目が離せませんね。

それにしても父親から“秀さん”と呼ばれるのはすごいと思える。そう呼べるほどの息子をもった親も幸せ者といえるでしょうね。私のところなんか残念ながらとてもそんなふうには呼べないな~。






サービスはボディーブロー。
at 2005 05/06 08:52 編集

「あなたのサービスが伝説になる」中谷彰宏著より

著者はサービスを匂いにたとえている。結局、“あるかなきか”が大切ということになる。

よく電車やバスに乗ると香水の匂いがきつい女性が近くにいるときがある。私など思わず鼻に刺激が加わってくしゃみが出てしまうときさえある。狭い車内では避けようがないときもある。やはりそのような人工的な香りはあるかなしかがちょうどいい。トイレの芳香剤も全く同じ。

サービスも、“これがサービスだ”とか“これでもかこれでもか”というような大げさなものは嬉しくも感じられない。サービスはほのかな匂いのように、じわじわとゆっくり効いてくるボディーブローでなけらばならないのだ。

ボクシングや格闘技ではたまたま一発のパンチで決まってしまうこともあるが、それはラッキーパンチというもの。勝負の世界ではいつもそれが通用するほど甘くはない。同様なことがサービスにもあてはまる。

サービスするなら、ほのかな匂いのするサービスを心がけたいもの。それは一見簡単そうなことだが、なかなか難しそうなことでもあるな。なにせ目に見えるものじゃないですからね。もう感覚の世界・・・センスの問題・・・






生きていくのに「夢」と「目標」は両方必要だ。
at 2005 05/05 16:31 編集

朝日新聞(5/4)生活面より

これは“仕事考”というコーナーでタリーズコーヒージャパン社長の松田公太さんが言っている言葉。

この人は採用試験のときに「あなたの夢と目標は何ですか」と質問するらしい。すると、多くの人は答えに詰まり、考え込んでしまうといいます。

やはり自分も同様だろうという気がする。それが即答できるような人はどれほどいるのだろうか、とも思える。

たしかに、どんなものでも夢は持っているだけでも心が満たされるかもしれない。そして、それに少しでも近づくために目標をクリアしていこうと思えば、日々の張り合いが出てきそうだ。

なんだかちょっと抽象的な表現になってしまった。で、この松田さんの夢と目標は何かといえば次のようなものだった。夢の一つは「食を通じて文化の架け橋になること」。目標は「タリーズを一千店舗に増やすこと」だという。

とにかく、このように具体的な夢と目標を設定してみることからはじめなければ・・・な。






「孤独」を自らを磨く技にする。
at 2005 05/04 08:14 編集

「使える!『徒然草』」より

大人でも子どもでも勉強といえば学校の授業を受けたり、塾にいくことだと思っているもの。しかし著者は習ったことをきっかけにして、一人で練習、掘り下げなどをする作業こそ本来の勉強だと言う。

同感である。武道を考えてみるとわかりやすい。道場ではなにをすればよいかを教わるだけで、あとは習ったことを一人で練習して身につける、ということになる。

習うことと練習して身につけることはしばしば混同しがちだ。

勉強に限らずスポーツの世界でも、超一流の人は「一人の時間」を有効に使って自らの技を磨いている。もちろん同僚や友人とのコミュニケーションも当然大切にしなければならないが。

原文では「まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ。」(何の用事もなく、何にも心を煩わされることなく、一人でいるのが何よりも好ましいことである。)

わずか3ページだったが自分にとっては内容が濃い部分でもあったな。





その一点を変えればすべてが変わる地点を探す。
at 2005 05/03 08:03 編集

「使える!『徒然草』」より

原文には「改めて益なき事は、改めねをよしとするなり。」(改めてもそれほど利益がないのだったら、それは変えないほうがいい)というセンテンスがある。

とにかく何でも変えることだけにエネルギーを費やしてしまうと本来の実質的によくしようとすることがおろそかになりがち。これでは意味がなく、よかった点まで失う可能性が出てくる。

大枠を変えるのではなく、現有のものをうまく組み替えていくというアレンジの発想こそが必要だ、と著者は言っている。

一例があげられていた。米国のプロ・バスケットボールのNBAでは、スリーポイント・シュートをいうルールを設定することで観客を楽しませる工夫をした。一回のシュートで3点が入る。このようなささやかなルール変更でゲームの面白さが増したのだ。

ささやかな一点を変えることで、全体に変化をもたらす。これはさまざまなものに応用できる技だろう。






真に大事なことはタイミングなど選ばずにやることが大切だ。
at 2005 05/02 06:07 編集

「使える!『徒然草』」斉藤孝著より
兼好の言葉では「必ず果たし遂げんと思わん事は、機嫌を言ふべからず」となっている。

やろうと思ったことは、いますぐスタートする。すると、それまでとは違ったものが見えてくる。その結果、現実も変わってくる。

きっちり準備をして時機をみてから始めようなどと思っていると、なかなか始められないものだ。そしてそのうちなにか外的要因が発生したりしてますます遅くなってしまったりする。

だから、人から決められた期限とはべつに自分で期限を設定してそれを実行したほうがいいのだ。テンポのよさ、スピード感をつねに念頭においておきたい。

身近なところではお礼状を書く必要がある場合など、“あとで”と思った時点でもう失格なのかもしれない。すぐにハガキや便箋をさがすために動く必要があるのだ。someday(いつか)という日はnever(決してない)とほぼイコールのものと考えたほうがよさそうだ。

使い古されてはいるが「思い立ったが吉日」という言葉をもう一度インプットしておこう。





プラスとマイナス2種類の決断。
at 2005 05/01 06:38 編集

朝日新聞4/30土曜版より

松井道夫氏は足すことよりむしろ捨てることで事業を拡大してきたようだ。プラスの決断ではほとんどが失敗だったと言う。

大きく捨てたのは2度あった。1.外交セールス、営業の対面販売。2.コールセンター(電話での売買)。

支店やセールスは不要なコストだと考えたのが成功要因でもあった。また苦労して育てたコールセンターもあっさりと捨てている。そして、インターネット証券へと転進していったのだ。つまり過去を否定することがポイントだったことがわかる。

それが出来たのは次の理由にもよる。彼が松井証券に入社したのは1987年で、その5年後から支店と営業マンの全廃をはじめている。経験が乏しかったというマイナス部分を逆に業界に染まっていないので顧客の立場からみられるというプラス発想に転換できたのが大きい。

さて、私達の身近なところにも何かを捨てて(マイナスして)、プラスに転じることって、きっとなにかあるはず。



過去の日記。2005.5-1

2007年07月24日 | Weblog
会社という「場」と、仕事という「機会」を通じて勉強する。
at 2005 05/31 06:21 編集

「街角からのマーケティング」より

会社とはこの場合、職業として所属している何らかの団体、組織と考えたほうがよさそうだ。つまり会社という言葉にこだわることはない。会社以外の学校も、役所なども当然含まれる。

とりあえずこのような団体は「社会学校」と考えたほうがいいと筆者は提案している。
この学校では、授業料は取られるどころか毎月逆に金をくれるし、交通費もだしてくれる。
ところが、現役でやっているうちはそこが「学校」であるということに気づかないものだ。

会社を一つの「場」と考えて、仕事を「機会」と考えるなら、知識、チャンス、人脈などさまざまなものをつかむことも出来る。

それらを自分のなかに蓄えたりエネルギーに変えたりできればけっこう得する生き方にも思えてくる。その社会学校へは自分なりのテーマを持っているならもっといろいろ学べそうな気もするが。つまりそんなことを意識できるかどうかの問題でもありそうだな。

ふだんは忘れがちなことでもあるが、たまにはふとこんなことも思い出してみるのもいいかもしれない。ひと月が終わるあたりにでも。






新しいことの発見はなんでもないことに「疑問」をもつこと。
at 2005 05/30 16:08 編集

「街角からのマーケティング」より

満足してしまうと、疑問点が見えなくなる。「完全」と思い込んでしまうと思考が止まってしまう。

不平や不満がない、は進歩がないこと。

筆者は不平、不満、不信をもつ前に大事なことは、それらのことについて誰にも負けない「興味」と「関心」をもちことと主張している。しかもそれらは中途半端じゃない関心なのだろう。

良いところ、悪いところをしっかり見ることでもある。

「興味」と「関心」の後にくるのは「熱意」と「執念」ではないだろうか。もうそこまでいったら、そこそこの専門家になってそれまでに疑問もとかれているかもしれない。

その結果として新しい「こと」や「もの」が見つかる可能性も出てくるのだろう。

はやり新しいことの発見には分厚い壁を乗り越えねば・・・な。






「最高のパンチは一歩引いたところから打てるのだ」
at 2005 05/29 07:08 編集

昨日(5.28)観た映画「ミリオンダラー・ベイビー」 より

この映画は今年のアカデミー賞4部門を獲得している。(監督賞、作品賞、主演女優賞、助演男優賞)
老トレーナーのフランキー(C.イーストウッド)がトレーニングをし始めた女性ボクサーのマギー(H.スワンク)に向かっていうセリフ。

別のシーンでは、
「パンチは強いかどうかではなく、きくかどうかだ」
どちがも似たようなことを言っている。

これは何にでも通用しそうなフレーズだ。
野球ではバッターがボールを打つ瞬間のインパクトがポイントであるのと似ている。
ゴルフでボールをたたく瞬間も同様だろう。

単に強く振ってボールに当てれば遠くへいい打球が飛んでいくというわけでもない。
当然力が強い打者だけが本塁打王になるわけではない。きっちりとボールをとらえることが先決だ。

ボクシングではハードパンチャーであることはチャンピオンになるための一つの要素ではあるがそれだけでは充分とはいえない。だからそれだけで、世界チャンピオンとして長年防衛できるわけではない。

何事もちょっとしたコツやタイミングを捉えることが大事だということだろう。

サービスにしても押し付けがましいより、一歩ひいたところにウレシさを感じるものですね。こんなこと考え出したら切がなさそうだな。





好き嫌いとは別にアクションをおこすことが大切だ。
at 2005 05/28 07:38 編集

「街角からのマーケティング」より

とくに中年おじさんへの警告でもある。と、筆者はいっているがべつにそうとは限らないんじゃないかな。

たとえば、店頭や広告にある新製品ばかりが新製品だということではない。つまり自分がそのことやものを知らなければ、その人にとっては新製品だという。

そう言われればそうに違いない。考えてみれば世の中知らないことだらけだ。俺は嫌い、私は興味がない、で勝手に視野を狭くしていることが多い。
そんな感じで、いままでかなりのチャンスを見送っているかもしれない。もしそうだとしたら損なこと。

とりあえずアクションをおこしてから、好き嫌いを決めてもいいのかもしれない。とくに新製品などは手にとって、実際に使用してみてはじめてその良さ悪さが納得できるもの。

とにかくアクションをおこしてみよう。そしてそれなりに自分でリアクションを体感してみるのもよさそうだ。

身近なところで振り返ってみれば、ホームページを通じての交流なんかもどちらかの“はじめまして”、なんていうちょっとした一言(アクション)から始まっているか。

だからこそ嬉しい、楽しい、共感などという体験が出来るのかもしれないな。勝手なこじ付けかもしれませんが。








あたりまえでないものしか、共感を得ることはできない。
at 2005 05/27 07:06 編集

「街角からのマーケティング」三田村和彦著より

この本は数年前にブックオフで100円で買ったもので、書かれたのは20年近く前になる。しかし、改めて読み返してみると内容が決して古くない。刺激される箇所がいくつもあったので、それを数回に分けて個人的コメントをつけてみたいと思った。

マーケティングという観点からみれば、共感を得るには「あたりまえ」になにを加えるのか、また思い切ってなにをマイナスするかだという。

あたりまえに何かプラスすることは付加価値、マイナスすることはシンプルになるということだ。

あたりまえの商品はすでに持っているという前提なら、どちらにしても商品や物が魅力的に見えてくるのは“ありふれていない”ということだろう。

このとき重要なのは感性、感度など目に見えないものだ。そして優先されるのは心地いい、気持ちいいというような雰囲気で、それをどこで創り出せるかがポイントになりそう。

人と同じことには安心感があるが同時に退屈でもある。人と違ったことには心地よさも感じるがちょっとした冒険でもある。

でも、やはりあたりまえでないものにこだわるためにはそれなりのパワーが必要そうだな。






仮想ライバルを作って「長続き度」を比較する。
at 2005 05/26 06:17 編集

自分自身のちょっとした思いつき。
何をやっても飽きっぽい自分にちょっと風変わりなカツを入れてみよう。
そう考えたとき、自分に張り合いを持たせるためにちょとしたアイデアを考えてみた。

それは、テレビの中で活躍している人物を仮想ライバルに設定することだ。

単純に彼または彼女らの“人気や活躍の継続具合”と自分が“最近始めたことなど”、とどちらが長く継続しているか、を競ってみるのだ。

現在はお笑いがブームだ。でも5年、10年とその人気を保てる芸人はごく一部だろう。

あるお笑いタレントがテレビで人気があったら、その人気が何年先まで続いているか。それに対して自分が始めた(すでに始めているものも含めて)仕事、商売、勉強、日記、趣味、ホームページの更新・・・なんでも身近なもので「長続き度」を比べてみるのだ。

タレントが落ちぶれても自分がそれ以上継続できていたら勝ちと考えてもいい。さらにまた別の人物を想定して挑戦してもいい。
いったい何人に勝てる(クリアーできるか)かなど。それとも自分が先にギブアップしてしまうだろうか・・・自分を試すゲームともいえそうだ。

ところで、自分のライバルとして設定するなら、いま人気急上昇中のお笑いタレントは誰かな・・・
えっ、そんなアホなこと考えること自体がお笑いだって・・・?








「良いものは自分の手で作りたい」というインデペンデントな心の持ち 主。
at 2005 05/25 06:26 編集

編集朝日新聞土曜版(2005.5.21)より

“逆風満帆”というコーナーで槇原敬之のことが書かれた部分で、心に止まったフレーズ。

上記は一緒にレコーディングやツアーに参加している、ギタリストの小倉博和が槇原を評している箇所。
やはりいつも近くにいるからこそ彼のスタイルがストレートに伝わってくることなのだろう。

「良いものは自分の手で作りたい」と思うのはべつにシンガーソングライターだけではないはず。
もちろんアーティストでなくてもそう思う気持ちが大切なことではないだろうか。
よく考えてみれば、このような考えはすべての仕事にも通じそうな気もしてきた。

実力が問われる世界ではトップレベルの人たちはオリジナルなノウハウを身につけている。
それは当然長年にわたる自己研鑽のたまものに違いない。

“インデペンデントな心の持ち主”という表現に新鮮さを感じる。独立した、自主性のある、独自の、などの漢字でないところがいい。
そこにはもっと強い独特な世界観があるようにも思える。

これこそが槇原が『世界で一つだけの花』のなかでいっている“ナンバーワンよりオンリーワン”になるためのポイントかもしれないな。







あなたの笑顔がメインディッシュ。
at 2005 05/24 09:06 編集

先日観たライブ(ミュージカル)での歌の中のワンフレーズ。

場面の設定は大衆食堂の中だった。そこにいる年頃のカップルが語り合うシーンで歌われていたややバラード風の曲。

忘れてしまうにはもったいないと思ってそのフレーズだけメモしておいたもの。そのためこの部分だけ後になっても思い出せる。ちょっと得したかも。

もし二人以上で食事をしていて、話し声も少なくただうつむいて食べていただけなら、美味しいはずの料理も味気ないだろう。

ところが、目の前の人に笑顔があるだけで、もうその食事はそれがメインディッシュと呼んでもよさそうだ。

いつもの家族という設定でもいい。笑い声を聞きながらできる食事は一味も二味も違うはず。

メインディッシュとまではいかなくても、明るい雰囲気の中での食事はきっと目の前の料理を美味しくしてくれる最適なスパイスに違いない。

最近そんな感じの食事をしたのはいったいいつ頃だったろう・・・?





「辛い」という字に棒を一本足すだけで「幸せ」になれる。
at 2005 05/23 06:32 編集

ライブで聞いた歌のワンフレーズより。

昨夜(5/22)観て来た小さなミュージカルの中で歌われていた歌詞のなかにあったもの。
私の友人のTさんが座長をつとめる芝居だった。

「辛い」という字に棒を一本足すだけで「幸せ」になれるという部分。
その一本の棒は“あなたのまわりにきっとあるものだ”という。

それはちょっとした勇気、ちょっとした言葉、ちょっとした決断だったり。
まだまだある、ちょっとした出会い、ちょっとした笑い、ちょっとしたアイデア・・・・それは人それぞれ。

忘れないためにもう一度書いておこう。
「辛い」も棒を一本足すだけで「幸せ」になれる。

蛇足・・・
で、この“ちょっと気になるフレーズ”の中にも探せばどこかにそんな棒になれるような言葉が潜んでいるかな~






尊敬という言葉の前では年令は無意味なもの。
at 2005 05/22 06:31 編集

しばしば個人的に思うこと。

ある人の考え方や行為が素晴らしく感動的に思えることがある。それは年令を超越している。

たとえ、年令が自分よりはるかに年長者だからといって、経験が豊富で正しい判断がくだせると言うわけでもない。若いからと言って斬新なものの見方が出来るとは限らない。

若い世代の人たちの中にも、私にとっては尊敬に値する人は多くいる。むしろ最近はそんな人から学ぶことは多い。この先ますます多くなるかもしれない。

まあ、そう考えること自体、自分が中高年に差し掛かっている証拠かも知れないが。

今後とも年令にかかわらず、柔軟な思考や行動が出来る人たちとのコミュニケーションを増やしていきたいもの。

自分には人に差し上げるものもないのに、ちょっと欲張りかな。





ひとはどこで日常からリセットするか。
at 2005 05/21 07:22 編集

「ひとは情熱がなければ生きていけない」浅田次郎著より

筆者は時にはラスベガスに行きギャンブルにひたって日常の仕事に区切りをつけてリセットするという。

これは道楽としてはビッグといえる。一般人からすればかなりスケールが大きい。それがまた仕事に生きてくるというからすごい。
しかし、お手軽なものとしては競馬や健康ランドでの風呂をあげている。

さて、自分はそのようなリセットするものを持っているだろうか。なんとなくだらだらと過ごしているような気もする。
次へのスタートのためにもキッチリと何かで区切ったほうがいいのかもしれない。

でも、そうそう近所に健康ランドもないし、お気楽に温泉にも行けそうもないな。ギャンブルでもやれば余計ストレスはたまりそうだし・・・

余談ですが、時どきこの浅田さんの同級生だった人に会うことがありますが、子供の頃はすごくおとなしくて目立たない子だったっていつも話してます。そんな人も時が経てばラスベガスでギャンブルですからね。






「数学に強い人」は「数字に強い人」ではない。
at 2005 05/20 06:49 編集

PRESIDENT2005.5.30号より

「数字の謎、お金のカラクリ」という特集のなかで公認会計士の山田真哉氏が言っているフレーズ。

サブタイトルは“ビジネスの正解を導く割り算思考”というものであった。なんだか難しそうなタイトルだが、内容は具体的でわかりやすい。

物事の本質を見抜くために大切なのは、新たな数字を作り出してみることだ、と主張する。つまり「数字アタマ」をもっていると、ビジネスに必須の「物事を大局的にとらえてみる力」も発揮できるらしい。ポイントは割り算には物事を分析し真実をあぶりだす力があるともいう。たしかにいろいろなものは割合(%)に直すとわかりやすい。

たとえば、日本にゴキブリは何匹いるか、という問いの場合。仮に一世帯に10匹いるとして、日本には4000万世帯あると知っていれば、4億匹と答えは出る。これで日本の総人口の約3倍強という数字がでてくる。

また、面白い例としてわが子を東大に入れるのとプロ野球選手にするのとではどちらが狭き門か、という問いには次のように計算するらしい。

東大の毎年の入学者数3000人、戦後60年間として18万人となる。一方、プロ野球ではドラフトに平均6人かかり、12球団として年間72人。60年間として(実際はドラフト開始から40年ではあるが)わずか4320人だけだ。これで、わが子を東大生にすることに比べ、プロ野球選手にするのはかなりの狭き門だとわかる。

運動にはさらに高い身体能力と才能が必要とされるし・・・怪我をしたら選手生命も短い・・・リスクも大きいか。プロ野球の監督はもっと少ない。相撲の横綱はさらに・・・これ以上書いていると話しがかなりそれてしまいそうだな。






世間的な評価よりも、自分の力を発揮できたかどうかを優先させたい 。
at 2005 05/19 07:00 編集

PRESIDENT2005.5.30号より

こんな優等生的な発言をしているのは誰かといえば、スマップの草剛だ。若い頃から成功組の一人でもある。
別の似た言葉でも次のように表現している。「自分に妥協せず、ベストを尽くしたかどうかが肝心だと思うんです。」

メンバーのキムタクと並んでドラマの高視聴率男でもある。しかし、彼は視聴率が悪かったらどうしようなどと考えたことはないらしい。
「プレッシャーというのはきっと、余計なことを考えるから生まれるんじゃないでしょうかね。」

これは、つねに自分に与えられたことだけに全力を尽くそうということの表現でもありそうだ。
派手な世界にいながらも、どれもこれも実に堅実なことばでもあるな~と思った次第。

流暢に話せる韓国語もきっとこんな地味な努力をしてマスターしたんだろうな。やはり凡人にはマネできない努力をしている。







家の外にソーラーパネルを置いていた・・・
at 2005 05/18 06:30 編集

AERA2005.5.16号より

なんとこれを置いていたのがホームレスのおじさんだというから驚きだ。

「自分の家を自分で作る」という特集記事でホームレスの家を研究テーマにした坂口さんというアーティストのことが書かれていた。

彼は早稲田大学理工学部建築学科の卒業論文にホームレスの住居を取り上げたというからちょっと驚き。そのため全国を回ってホームレス建築まで撮影していた。しかもそれが「0円ハウス」という本にまでなっている。

なかにはバッテリーで自家発電をし畑で野菜を育て、自給自足しているホームレスのおじさんもいるらしい。もう、そこまでいったらマイホームと呼べそうだ。

また、家の外にソーラーパネルを置いているおじさんは、それを秋葉原で1万円で買ったという。日中ためた電気を使い夜はポータブルテレビを見ている。夏は1日充電すれば6時間テレビが見られるらしい。かなりすすんでいる!

どちらも、考えようによってはなんとも環境にやさしい生活ともいえそうだ。誰もが遠くから眺めたり素通りしてしまうホームレスの住居にもそれぞれ創意工夫しながら生活していることがうかがえる。

建築家の視点でみると、場合によってはこのように見えないものが見えてくるのかもしれない。





心の中でコメントしている・・・
at 2005 05/17 07:04 編集

これは今朝、私自身がふと思いついたことば。

ホームページをはじめてから、個人で作っているHPや公開されたブログ日記を眺めることが多くなった。

WEBで公開されている以上、誰が見てもまた掲示板に書き込みなどのコメントをしてもいいことになっている。場合によっては公開日記が交換日記のようになっているものもある。

掲示板やコメント欄に書き込みがあったり、なかったりいろいろ。

書かれていることを読んで、その内容が面白いとかつまらない、というような単純な感想のほかに、自分なりの意見を持つことも自由だ。でもそれを、実際に書き込む人はごく一部の人だけだろう。

大多数の人は心のなかでコメントしているのだ。そして心にわきあがった思いをコメントとして文字に変えるとき、ちょっとした交流にもなりえる。時にはそんなWEB上の交流もちょっとした無料のエンターテイメントに思えることもある・・・な。





コレクターもまた観賞することによって自分を探している。
at 2005 05/16 07:36 編集

日経夕刊(5/13)“ドキュメント挑戦”のコーナーより

ここでは眼力を磨いて無名作家を発掘している市民派コレクターのことが書かれていた。

流通関係の会社に勤めるM氏は無名作家でもすばらしい作家はいると主張する。そんな観点から、コレクター仲間がそれぞれの作品を持ち寄って“コレクター展”を催している。

そのためにはコレクター自ら鑑賞眼を磨かねばならない。目を肥やすにはたくさんの傑作を見ることが先決だ。養った目で街の画廊で作品を選ぶということになる。

タイトルのフレーズの前には次のセンテンスがある。「作家は描くことによって自分を探しているが、・・・」つまり作家と同様にコレクターも作品に触れることで自分を探しているのだ。たまにはそんな自分探しの旅に出てみたいもの。

蛇足ながら、このM氏とはかなり前からの知り合いである。私が約25年前にある全国公募展(絵画)で初入選をしたときに彼は観にきてくれたのだ。いまでも時たま絵画話しをすることはある。アートなつながりは長いものと思った次第。関係ないが「人生は短いでも、芸術は長い」という言葉もいま思い出しましたね。





ホームだけでなくアウエーでも試合をさせてほしい。
at 2005 05/15 06:59 編集

一昨日フリー宣言をした日テレアナの福澤朗のフレーズより

昨日テレビをつけているとあちこちで、その記者会見の様子を流していた。また、新聞やウェブのニュースでも見かけた。

アナウンサーとはいってもここまでやるのか、というほどのパフォーマンスを要求されるようになっている。まさにタレント以上といえそうな部分も多い。そのなかで実力のある人はやはりフリーを目指すのだろう。彼もその中の一人だった。記者会見をするという時点で、もうその力は世間が半分認めている。

月並みな言葉では“新天地で挑戦や他でも自分の力を試してみたい”、といったような表現のところを、福澤はサッカーの試合にたとえているところが新鮮で面白い。このように同じような意味の言葉も表現一つでインパクトが増すという一例かもしれない。

また、別の箇所では「安定を求めずに常に前進する生き方へのあこがれが強くなったのも確かです」とも言っている。結局FA宣言したりメジャーに挑戦するするプロ野球選手とほぼ同じ心境なのだろう。

あとは早く全国ネットのNHKあたりでも「ファイアー!」「ジャストミート!」の絶叫フレーズを聞かせてもらいたいものだ。



過去の日記。2005.4-2

2007年07月24日 | Weblog
しょせんタダのサービスには限度があるもの。
at 2005 04/14 22:53 編集

今日ふと思ったこと。

サービスは一見タダのように見えることもあるが、サービスする側にはそれなりにちゃんとコストがかかっているもの。

なかでも、人件費が一番大きいかもしれない。

だから、しょせんタダのサービスなどたかが知れているものだろう、と考えている。

モノと違って見えないことがほとんどだから、どれくらいかかっているかもかなり曖昧でもある。こうだからこうだ、とキッチリ測定できるものではない。その時々でサービスによる満足度は異なってくるだろう。

ディスカウント、おまけ、親切な応対や感じのよさ、予想以上の満足感、スピードアップ・・・なんにでもサービスはつきまとう。

でも、サービスする側にとってはどれもそれなりの努力ともなう。人が時間を使えば当然コストはかかってくるもの。それを相手にわからせないことも一つのサービスかもしれない。





知能販のプロになれ!
at 2005 04/13 22:36 編集

「知能販のプロになれ!」トム・ピーターズ著の本のタイトル。

これは“サラリーマン大逆襲作戦”3部作の三番目になる。(第一番目は「ブランド人になれ!」二番目は「セクシープロジェクトで差をつけろ!」だった。)

知能犯ではなく、知能の販売というところが面白い。“知能販売会社”と“世間によくある会社”の比較をいくつかみてみよう。

☆知能販売会社・・・昼休みはステキな人と食事をしながら、いろいろと知恵を借りる。すごいプロジェクトを進めている。外部の人と市場を分析する。仕事がおもしろくてたまらない。

★世間によくある会社・・・昼休みはいつもの仲間といつものところでメシを食う。ぎっしり詰まってはいるが、予定をこなすだけの予定表をチェックしている。いつもの仲間とじゃれあう。仕事なんか飲まなきゃやってらんない。

と、まあざっとこんな感じでの違いがある。

ポイントは次のようになる。
・仕事に新しい生命を吹き込む!
・人に喜んでもらえる仕事をやる!
・きらめくプロ集団になる!

こんなことを知ってるだけでも少しはやる気が出てくるといいんだが。問題はこれらを覚えていられるかどうかだな。





HOTする人時(ひととき)・・・場所
at 2005 04/12 22:45 編集

あるインターネットラジオのホームページにあったフレーズ。(4/12)

もしこれが、ただの“ほっとするひととき・・・”とあったら別になんとも気にならなかったが、ほっとが「HOT」やひとときが「人時」となっているところに惹かれましたね。

インターネットラジオを聴きながらそのホームページにある文字を見るとタイトルのフレーズとなっていた。そして、ラジオの内容ではパーソナリティーによって癒される人、時、場所などについていろいろ語られていた。

ところが、HOTとなると“熱くなる”人や時また場所をイメージできる。これがまた面白い。

やはり波長のあう人との会話はホットになれる。またエキサイティングなスポーツのゲームを観戦すればホットになれる・・・そんな時間が持てたら結果的には癒されるはず




記録こそがわたしの力。
at 2005 04/11 19:23 編集

神奈川新聞4月11日スポーツ面より

全日本体重別女子柔道で14度目の優勝を飾った谷亮子選手のことば。

谷はアテネ五輪で2連覇を達成した後、さまざまな行事に追われて練習量は不足していた。おまけに3月下旬にはインフルエンザで寝込み、4月初めには右手薬指も痛めていた。最悪といってもいい状態だったに違いない。そのため試合に出るかどうかを迷ったほど。

しかし、結果は14度目という優勝を果たしている。世界選手権では前人未到という6連覇中。

「記録こそがわたしの力」とは、連勝記録を伸ばしていくことが今のモチベーションとなっているという意味だ。

超一流のスポーツマンだからこそ言えることばかもしれない。ただの継続としての記録ではない。優勝という最高レベルの継続だからスゴイものがある。

私たちの日常生活では記録を年頭に置くことはほとんどない。

でも、継続するというレベルで、何か自分なりの記録を意識してやってみるのもいいかもしれない。ダイエットのために何か続ける?

たとえばある人にはウェブ日記を継続することかも知れないが。私は飽きっぽいから無理ですね。





流行りすぎているものを人と違ったように見せる。
at 2005 04/10 23:44 編集

ウェブサイトの「100式」2005.4.10より

この日はiPod Shuffleを袖口にそっと収納するためのポケットがついたTシャツを販売している会社を紹介していた。

iPod が出始めの頃はカッコイイと思ったりしたものだが、最近は電車の中でもよく見かけるようになった。そのまがいのものもたくさん発売されているようで、今の流行には違いないだろう。

でも、一般に広まってくると別にカッコイイとも思わなくなってくる。ファッショナブルな人は今度はそれをどう見せるかが勝負となるのかもしれない。

夏になると薄着になるので、ポケットに困ったりする。そこで、iPod 用のポケット付きのTシャツを考えたというわけだ。まだ日本ではこれを着ている人を見たことはない。

流行っているものに乗っかると自分だけ進んでいるように思うかも知れないが、すぐに画一化されて平凡なものになってしまうもの。

やはり本当にファッションに関心があるなら、人よりお先に一味違ったものを試すべきであろう。

人と違ったものは自分の頭で考えたほうがいいこともあるだろうな。




ちょっと見ると一瞬“欲しい!!”と思うかもしれないが、実際もらう と困る物。
at 2005 04/09 08:24 編集

「ももこの21世紀日記」さくらももこ著より

この部分が妙にひっかかった。
本文を要約すると、札幌で、ちびまる子ちゃんのイベントが行われることになったとき、著者がキャラクターの絵を色紙に描いて友蔵の心の俳句も色紙に書いたところスタッフが欲しいといわれ渡した。しかし、ほとんどの者が事務所においたままでもて余していたというもの。

これを読んだら、あるあるこんなことって思えた。いきなり個人的なことになるが、数年前のこと知り合いの女子美大の先生が中国へ取材に行ったお土産に版画をいただいたことが2,3回ある。そのときはいいものだとは思ったものの、部屋に掛けたいと思うほどのものではなかった。

だからといって、捨てるのも悪いので丸めて納戸の戸棚にしまったままになっている。きっと最後までお蔵入りだろうな・・・。ありがた迷惑なものはかなりあるものだ。

これを自分でやってしまうのが、似たような衝動買いであるのかもしれない。これは自分で諦めて納得するしかないか。






簡単に得られる知識は手軽に扱われる。
at 2005 04/08 20:39 編集

「運を拓くマーケティング」より

インターネットを使っていると、大量の情報を得ることが可能でもある。しかもかなり容易にできる。しかし、それは誰もが同じような情報を手にしているともいえる。

そのような知識には重みがないようにも思えてくる。テレビやラジオで得た知識も同様なことが言えそうだ。やはり、じっくりと自分で調べてこそ本当の知識は身につくように思えてくる。

知識が集積され経験を通してはじめて知恵が生まれるのではないだろうか。そう考えてくるとやはり、お手軽に得られた知識は本物でないように思えてくる。

インターネットよりむしろ、意外にもアナログで得た知識のほうが記憶に残りやすい(ような気もしている)。またそんな知識のほうが大事にしたくもなってくる。これは、まだ自分がアナログ人間だからなのだろうか。




小さな達成感があったら、すぐにその日は達成記念日。
at 2005 04/07 06:43 編集

「セクシープロジェクトで差をつけろ!」より

この本からのメッセージをひとことで言ってしまえば、つまらない仕事を、すごいプロジェクトに変えろ、ということになる。

大事なことは、おもしろいことをやってやろうと思うと、仕事がおもしろくなる。逆につまらない仕事をつまらなくやっている人は、いつまでたってもくすんでいることになる。

そんな中で、達成感を味わうことはポイントでもありそう。

すごいことをやろうとすればするほど、苦労や困難が伴ってくる。しかしそのプロセスのなかにも、小さな達成感があれば、継続しやすくもなりそうだ。

もしかしたら、これは世間でよく言われる“自分にごほうび”ってやつかもしれない。もちろん、みんなで祝杯をあげられればそれに越したことはないだろうが。

また、余談になるが、メジャーリーグは年間162試合も戦わなくてはいけない。その長丁場を最高のモチベーションで維持してけるプレーヤーのみがメジャーに残っているんでしょうね。

さて、いま自分が達成するべき目標はなんだろう?ってことから始めてみるかな。いろいろありそうだ・・・





組織にせよ、個人にせよ、人生とはプロジェクト・・・
at 2005 04/06 21:22 編集

「セクシープロジェクトで差をつけろ!」トム・ピーターズ著より

その後には、「充実した人生を送るには、すごいプロジェクトをやるしかない」と続く。

参考までに、すごいプロジェクトと日常業務の比較の一部を抜粋してみよう。

☆すごいプロジェクト・・・ほとばしる情熱、忘れられない、未知の世界に飛び込む、お客さんを感動させる、色あざやか、変わっている、日々成長、実力がものをいう・・・

★日常業務・・・時間つぶし、覚えていられない、手慣れたことしかやらない、え、客なんていたのか?、色がくすんでいる、見飽きている、日々老化、ゴマすりがものをいう・・・

という感じになっている。

プロジェクトとは一般的には企画と考えてもよさそうだ。しかもそれは、しびれるほどカッコいいプロジェクトならいいのだが。

すごいプロジェクトのひとつに、“目にも止まらぬ速さで突っ走るもの。”と言うのがある。余談だがこれで、個人的にちょっと思い出したことがある。

先月、Mさんのケータイに私の思いつき企画を提案したところ、さっそくそれに同意してくれたのです。そして、わずかたった二回のケータイメールのやりとりでほぼ企画は決まってしまった。それはMさんのスピーディーな判断によるところが大きい。そしてつい先日それは実行に移されたのです。

べつにそれは私の仕事とは直接関係はないが、ある意味ではちょっとしたプロジェクトであるような気もした。





少しは自分なりの味付けをして仕事をしたらどうかね?
at 2005 04/05 10:16 編集

「運を拓くマーケティング」より

言われたとおりのことをきっちりやるのは、当然大事なことでもあるが、場合によってはどこか物足りないと思わせるものがある。また、それすらできないこともあるかもしれない。

いずれにしても、仕事を面白くするためにはプラスアルファが必要だろう。やるべきことに対して幅や奥行きを広げて考えることがポイントだ。

つまらないのは前回これでうまくいったから、今回も同様にと考えることでもある。創意工夫といってしまえば簡単だが、その前にあるのは心構えかもしれない。

“自分なりの味付け”っていうところがいいですね。人と同じじゃない、人にはマネができないことですから。それでこそ、自分の仕事になるんですね。ちょっと肝に銘じてみたい。

そしてそこにかけた時間や努力こそが感動や説得力となって現れるに違いない。おっと、自分なりの味付けをしてちょっとエラそうなこと言ってしまったかな!




付加価値というのは、「その人だけのドキドキ」ということ。
at 2005 04/04 21:33 編集

「諦めない、諦めさせない。」中谷彰宏著より

確かに実用品の付加価値は小さいものだ。一例としてTシャツは500円のものもあるが、ブランド物で2万円、3万円のものもあります。

その金額の差が付加価値となっていることがわかります。もし実用だけなら安いほうがいいに決まっています。

最近マスコミに頻繁に登場するライブドアのホリエモンが着ているTシャツは3万円程度のブランドものらしい。(私の知り合いにはもっと高いTシャツを着ている人もいますが。)それはそれなりに満足感があるに違いない。結局それが、その人だけのドキドキということになるわけだ。

濡れなければいいと思うなら500円の傘でも十分かもしれないが、1万円やそれ以上の傘を数本持っていたら、雨が降る梅雨時が待ち遠しくなるかも知れない。こう考えるとワクワク、ドキドキが付加価値だってことがわかり易い。

金額にこだわることはない。お金では買えない面白いアイデアや誰もが持っていないオンリーワンのものも付加価値(つまりドキドキ)とも言えるはず。と個人的には思っているが、それは贅沢のできない一般人の僻みだろうか・・・





知識のうえに遊びがないと時代の気配はつかめない。
at 2005 04/03 06:48 編集

「運を拓くマーケティング」鳥井道夫著より

この副題は“サントリー流才能の活かし方”とある。(鳥井氏はサントリーの名誉会長。)

彼は「遊」とは単純に遊び呆けることではない、というがそれは当然のことだろう。

単に勉強した知識だけあっても意味はなく、遊ぶことで身に着けた生きた常識こそが大事になってくる。

鳥井氏は「趣味でも何でも会社の枠を越えた広がりを持つ人間は、それだけその人間の文化が深まるということだ。」という。

遊びとは言っても、車のブレーキやハンドルにある“遊び”にも似ていそうだ。本来の機能のほかにそのゆとりがあるからこそ機能が効率よく活かされる。

もしかしたら、インターネットなどを通じて遊びながら人との交流ができたなら、時間を効率的に使って異質の人と出会っていると言えそうだ。

とにかくそんな、遊び心を持ちながら本来の仕事ができたら最高なんだが・・・





心を動かす時間を日常的に持つこと。
at 2005 04/02 08:17 編集

朝日新聞土曜版2005.4.2 「フジマキに聞け」のコーナーより

そう話しているのは藤巻幸夫氏で、これは読者の話すのが苦手な人から会話のコツは?という質問に答えたもの。

会話が苦手な人には話す内容がないことが多いという。つまり何かに感動すればそれを人に伝えたくなるもの。たとえば、休みの日に漫然とテレビを観ているより、映画、美術、本、スポーツなどに親しむことで仕事や家のことを忘れ感動する時間が持てるらしい。

それから、いろいろなホームページを眺めてその中から自分にあったものを見つけるとちょっと嬉しくなったりもしませんか。また、掲示板への書き込みを通じて気持ちが触れ合うとこれもまた時間を忘れて感動したりしますね。

日記にしても感動したことがあれば、それなりに充実したものが書けそうだ。それはまた、自分をもう一度確認することかもしれない。そんないい蓄積が会話を助けてくれそうな気もするが・・・




一応カシコイといえる範囲内の行動やな・・・
at 2005 04/01 21:10 編集

「ブランド人になれ!」より

これは訳者の仁平和夫氏のあとがきの部分にあったフレーズ。

中坊公平氏がカシコイ部下を烈火のごとく叱ったときの言葉だ。この前に“迫力に欠けるわ、あんたらのやってることは。”というのがついている。

つまり無難になんでもやっているということは、それ以上なにも生み出さないという意味だろう。そう受け取ると、それはそうかもしれない、と思える。なんでも当たり前の範囲内でやっていればそれなりに安全には違いないが、同時に面白みも発展もないものとなる。

人間としての迫力はそんなところからは出てこない。訳者はある程度自分をぎりぎりのところに置いてはじめてブランド人になれるのだと言っている。

周りを見渡してみれば確かにカシコイ人間ばかりのようなきもする。誰からも認められるブランド人はそう簡単になれるものでないことがうかがえる。やはり、世の中そんなに甘くない・・・か。


過去の日記。2005.4-1

2007年07月24日 | Weblog
「やる」ということは自分自身で考え抜いてやり方を編み出すこと。
at 2005 04/30 21:05 編集

朝日新聞4/30土曜版より

「先生と親子のためのエネルギー教育フェアー2005」(3/2728)の中で特別講演をした小柴昌俊氏のことば。

氏は科学というものは単に見たり聞いたりするだけでなく、自分でやってみなけばわからない。「やれば、できる」というのは、そう簡単ではないことだという。問題はそのやることに対してどれだけ本気になれるかどうかだ。

とことん考え抜いて編み出さなければならない。やりとげるんだという気持ち、そして知恵を振り絞ったからこそ、ニュートリノ研究で成果を収め、ノーベル賞を受賞できたのだろう。

科学に限らず、従来あるスタイルから離れてオリジナルなものを作り上げようとするとしたらどうだろう。やはり本気になって考え、自分流のものを編み出さなければならない。しかも、そのプロセスさえも楽しめたらしめたものだが。




成功の確率が七割と判断した場合のみ勝負に打って出る。
at 2005 04/29 09:29 編集

「孫正義掟破りの決断」大下英治著より

最近ではマスコミに大きく取り上げられたリスクテイカー(勝負師)はホリエモンだろう。しかし、同じ業界の先輩としては孫正義氏がいる。彼は数百億円、数千億円の巨額を投じるMAた事業拡大を次々と進めてきた。

事業には当然リスクはつきもの。優秀な事業家は優れたリスクテイカーといえる。そしてその勝負の行方を支配するのは周到な情報と知恵だ。

孫氏はその成功の確率が七割と判断した場合のみ勝負に打って出るという。五割、六割ではリスクが大きすぎる。で、勝算が八割、九割でもその事業には手を出さない。なぜならその確率なら誰がやってもほぼ成功する。そして、たとえ成功してもその成果は凡庸なものでしかないからだという。

未知数の部分が三割程度あることが望ましいらしい。その部分にこそ大きな可能性が秘められているからだ。

きっと、ホリエモンも同じような考えで事業の拡大を図ったんだろうな、とも思えてきたな。われわれ凡人は何をやるにしても少しでもリスクがあれば控えてしまうものだが。





創造のある人生こそ最高の人生である。
at 2005 04/28 22:36 編集

「生きること 学ぶこと」より

氏によれば、“創造の喜びの一つは、自己の中に眠っていた、まったく気づかなかった才能や資質を掘り当てる喜び、つまり新たな自己を発見し、ひいては自分という人間をより深く理解する喜びではないか”、と述べている。

たしかに、才能がありそうな人にはそうかもしれない。しかし、平凡な人にとってはせいぜい今まであるものをアレンジして自分なりのものに仕上げてもそれなりに創造の喜びは感じられる。そして、そんなことを継続するうちにオリジナルなものが創造できたりするもの。

たとえば、今書いている日記なども創造といえなくもない。ウェブ上の日記を通して新たな交流の機会が得られるならそれもある意味では創造しているといえよう。

さまざまな人とのコミュニケーションによって新しい価値を感じられれば、人生にとって意味のある創造ともいえそうだ。まあ、最高の人生でなくとも、そこそこ楽しめればもうけもの。





飛躍の原動力はニーズではなくウォントだ。
at 2005 04/27 22:49 編集

「生きること 学ぶこと」広中平祐著より

しばしば聞かれる言葉に、「お客様のニーズをつかめ・・・」というのがある。私個人的にはこの表現にいつも違和感を感じていた。

氏によればニーズとは要するに過去の知識から割り出した必要性だけのものだという。だから何か新しいものを生み出す場合(創造的な仕事)にはそれではあまり意味をなさない。

とくに創造活動の場合には、飛躍というものが必要になってくる。そして、むしろウォント(自分の内部から出てくる必要性)こそがポイントになるのだ。そこで、飛躍の原動力はニーズではなくウォントだ、の意味が理解できそうだ。

もし、マーケティングで考えるなら消費者の欲望(ウォント)をいかに刺激し、またとらえるかが企業の将来を左右するに違いない。

場合によって本来はウォントというべきところをニーズと言ってしまうから曖昧になってしまうのだろう。





仕事以外に真剣勝負できる場所をつくる。
at 2005 04/26 22:28 編集

PRESIDENT2005 4.4号より

これは「萎えた気分、らくらくリセット法」というページに掲題されていたフレーズ。

確かに仕事では熱意を持ってやったとしても空回りすることもある。また、仕事でうまくいかないことがあると、ダメ人間かと思ってしまうこともある。

そんなときには、頭の全部を仕事で埋めないことが大事になる。つまり、仕事以外の部分で「自分」を持つのはいいことなのだ。

そこで、真剣勝負できる場所があるなら気持ちもリセットできるという。とにかくまず、真剣勝負できるものを持っていることを確認することからはじめよう。その勝負では勝とうが負けようが関係ない。真剣勝負するからこそ、パワーが回復してくるのだ。

自分らしさで、これならそこそこ勝負できそうだ、というものがあれば、思い切ってそこに時間を費やしてみるかな。要するにストレス解消の一つの考え方だな。






普段から心がけているのは「一接客、一笑い」
at 2005 04/25 22:54 編集

PRESIDENT2005.4.4号の特集「売り続ける営業」より

そのなかの“連戦連勝記録ホルダーの秘密”というコーナーでは、アパレルの店に勤務するKさん(28歳)について書かれている部分が気になった。彼女は4年連続でフロアの販売成績トップの実績を上げている。

Kさんの持っているお客様の6割の人が「予約」を入れてから購入のアドバイスを受けに来店しているという。へえ、こんなこともあるのかと知り驚いた次第。婦人服ならなんとなくわかる気もするが、紳士服にもこれほどこだわりがあるとは・・・

しかも、遠方のお客様は二ヶ月前から予約するという。その接客の極意の一つにタイトルに書いた心構えがあるという。Kさん独特のフレンドリーな接客サービスこそが、予約を殺到させているらしい。具体的にはプライベートな自分のことを語り、そこから洋服提案への会話の糸口をつかんでいくという。

さらに、もう一つ気になるフレーズは「正直であることに数字はついてくるものだ」という彼女自身の言葉だ。つまり単に売れればいい、というのではなくて本当にお客様のためになっているかを徹底してる点も見逃せない。

もう一つ蛇足を。Kさんの同僚の一言も、いいヒントになりそうだ。それは「彼女は常に自然体でユーモアを欠かさない」だった。う~む、なるほど、かな。





感謝の賞味期限は物より言葉のほうが長い。
at 2005 04/24 21:01 編集

これは今朝私が感じたこと。

実は昨日は私の誕生日でした。そして、思いがけずウェブでお知り合いになった方々から「おめでとう!」のメッセージを掲示板やらメールで頂戴したのです。

こんなことは生まれて初めてのことだったので新鮮なウレシさを味わえました。
思いがけないそんなメッセージはウレシさを倍増してくれますね。

家ではいつもとちょっとばかり違う食事を楽しんでました。でも、食事は食べてしまえば、そしてプレゼントは数日経てばその喜びも薄れてしまうもの。

でも、感謝(ありがとう、うれしいなど)の賞味期限は物より言葉のほうが長続きするものと思った次第。

メッセージを下さった皆さま、本当にありがとうございました!

昨晩の夕食の味はほとんど忘れてますが、今これを書いているときでもメッセージの喜びは味わっています。






否定は新しいものを生み出すエネルギー源である。
at 2005 04/23 07:34 編集

「現場力を鍛える」より

ビジネスの現場では、日常的業務に漫然と流されてしまいがちなもの。
しかし、そんななかでは思考は停止状態ともいえる。そこで、現状を否定しようという意志を持つことが重要になってくる。

現状に満足せず、改善の知恵やアイデアを生み出そうという意識こそが現場の力となるのだ。
いままで成功したからといって、これからもうまくいくとは限らないのだから。

また、惰性に気づかなければ、ムダにも気づかないことになる。効率化を考える前にまず、ムダを排除する必要がある。

一番いけないのは、所詮こんなものさ、と言う気持ちらしい。もう一度あらゆる切り口から業務を否定してよりよい仕事のやり方を追求する必要がありそうだ。

本当にこれでいいのか、このままでいいのか、とつぶやいてみることから始めてみようかな。






強い現場には鋭敏な自律神経が張り巡らされている。
at 2005 04/22 06:58 編集

「現場力を鍛える」遠藤功著より

強い現場について、次のように述べられている。「強い現場は単に“動く”のではな
く、人間の意志が加わった“働く”場になっている。」働くは確かに、人+動くになっている。

そして、常に問題点を探すことがポイントらしい。どんな問題点かといえば、もっと
よいやり方や価値のヒントを見つけることなる。

国連難民高等弁務官として活躍された緒方貞子氏は「人間は仕事を通して成長していかなければなりません。その鍵となるのは好奇心です。常に問題を求め、積極的に疑問を出していく『心』と『頭』が必要なのです。」と述べている。

つまりこの問題点や疑問を探そうとするこが、仕事では自律神経ということなのだ。汗をかく現場から知恵を出す現場へと変わっていけるなら、強い現場に近づいたというべきかもしれない。

さあ、これからはまず仕事の自律神経を鍛えねば・・・










職についている人はみな職人である。
at 2005 04/21 06:51 編集

「知能販のプロになれ!」より

文字だけなら職+人→職人とはなるが、本来はそう単純なものではなさそうだ。実はもっと奥が深い。どの程度その職人技を身につけて仕事をやっているかどうかが問題なのだ。

専門職を極めたひとは世の中にたくさんいる。その中でも最高の一例は連日マスコミに登場している。メジャーリーグの選手はみな職人ではあるが、なかでもイチロー選手などは職人中の職人といえる。誰もが世界超一流の職人と認めざるをえないだろう。

熟練した技や磨きぬかれた芸、こんなもの持っているのは当たり前だ、というくらいにならねば職人とは呼べないような気もする。当然のことながら、誰でもが本物の職人にすぐなれるわけではない。「職についている人はみな職人である」というより、むしろし「職人」を目指してやれ、というのが本音かもしれない。

どんなことをするにしても、プロとしてのプライドが持てたら最高なんでしょうけど
ね。








仕事を芸術の域に高めなければ、みんなを感動させることはできない。
at 2005 04/20 20:59 編集

「知能販のプロになれ!」より

本来の芸術以外では“芸術的”といわれる言葉が使われる。たとえば、サッカーでは「芸術的なシュートだ。」という表現もいつか聞いたことがある。

また、「高層ビルのなかでも都庁の建物は芸術的ともいえる。」と言っても間違いではなさそうだ。

そんな芸術レベルの仕事をしてはじめて、人は振り向いてくれるのかも知れない。

場合によっては、著者は意識して“遊び心を育て、遊びのセンスを磨いていく必要がある。そして、大まじめな仕事の合い間、どうすればおふざけを挿入できるか考えてみよう、”とまで言っている。

私などどちらかといえば、おふざけの合い間に仕事をしてしまうこともあるが。意外
にそんな時に限って説得力があったりして・・・









どんなつまらない仕事も、すごいプロジェクトに変えられる。
at 2005 04/19 18:55 編集

「知能販のプロになれ!」トム・ピーターズ著より

その後に、次のセンテンスを読むともう少し理解で計そうな気もする。“小さい仕事はない、あるのは小さい想像力だけだ。”

つまり、仕事はやり方次第でものすごいインパクトを持つものにもなるということだ。

私ごとでやや恐縮だが、約6年ほど前、仕事でちょっとしたチラシを作ったところ、そこそこの結果を出せたのです。そして、ある販促コンサルタントから依頼されてそれをお渡したことがあります。その結果、ある雑誌にも紹介掲載されたなんてこともありましたね。

チラシなどつまらないかもしれないが、想像力と創造力を働かせることによって、そこそこインパクトのあるものに作り変えられる。いま振り返れば、それは自分のなかではちょっとしたプロジェクトでもあったかも。

結局自分がまず面白がらなけば、人が見ても面白くないですよね。説得力だって同じこと。




お花見はむしろコミュニケーションかも。
at 2005 04/16 11:52 編集

桜の季節が終わりかけているころに、ふと思ったこと。

お花見のシーズンは関東ではもう終わりですが、桜の花見は仲間同士や家族とのコミュニケーションの口実になっていたんですね。つまり、飲んだり騒いだり楽しんだりするときの“肴”となっていたのです。

ふだん花をしっかりと眺めていない人ほどお花見のシーズンだけウキウキするのではないでしょうか。

花をじっくり眺めるだけなら、ひとりでもできます。むしろ桜が終わりかけたころから他の多くの植物は花のピークを迎えます。

今年はいくつ新しい花の名前覚えられるでしょうか。本物の花を前にして季節を楽しみたいもの。桜が終わってからのほうがむしろ沢山の花見ができるんですけどね。




「風貌」とは「顔」という物質から離れた「顔」のこと。
at 2005 04/15 23:08 編集

「花のある人花になる人」草柳大蔵著より

稽古や仕事に一途に生きている人の顔には年令がないという。また、眼が光っているという。

一般に外見の顔や髪やまつげなどを気にしているだけの人は「顔」という物質しかないらしい。

稽古や仕事の熟練のようなものが「顔」をつくっていくのだ。それは「風貌」といえる。大事なのは顔ではなく風貌だったのだ。

著者は「顔」が「風貌」になった人は、他人の「風貌」にも気がつくようになる、という。「あの人、いい顔してたな」というようなことが分かるようになれば、その人の顔も風貌になっているということだ。

いいかげんに生きている私なんかには一生かかってもそうなれる確信はないな。


過去の日記。2005.3-2

2007年07月24日 | Weblog
骨太の仕事人生。
at 2005 03/14 06:45 編集

朝日新聞、日曜版「朝日求人」の安藤宏基氏のことばより

文章を読んでいて、いったいこれはどういう意味なんだろう、と思って気になりました。例えとして、いつくかのことが述べられていた。

まず、仕事をしていれば誰にでも失敗はつきものだが、それは悔いのないようにやった結果かどうか。ということで、自分自身納得できるものかを問うている。

同じようなことだが、適当なところで妥協しないでやったか、つまり持てる力を出し切ったかも大事だということなのだろう。

そして、自分で設けたハードルを全力で跳ぼうとする人間であるということ。おまけに安易なゴールを作らないことも必要だという。

以上を実行すれば「骨太の仕事人生」を歩める」ことになるのだ。

私は、さらにその前提条件として心身のコンディションをベストの状態に保っていなければ、それらをクリアーすることは困難なようにも思えた・・・な。(しかし、実行していくのはかなりハードでもありそう。)






高価なノートを使うことが“発想のフィルター”になる。
at 2005 03/12 18:03 編集

THE21 2005.4月号より

このコーナーは「仕事ができる人の秘密兵器(ビジネスグッズ)」という特集のなかで小山薫堂氏(放送作家)が語っている部分。

そんなこともあるんだろうか、とちょっと気になりましたね。この人がこだわっているのは高くて良質のノートを使うことで、自然に「いいアイデアを出さなきゃ」という気持ちになるからだという。

そのノートの写真を見ると8000円もする。それまでは300円程度の大学ノートを使っていたという。しかし安価なノートだと存在感がなくなくしやすいらしい。

私も安価な大学ノートを使っているが、外へ持って出ることもないのでなくしたこともなかった。それで、高価なノートと読んで少々驚いた。

私がそれほど高い値段のノートを使いたくないのは、悪筆だというのも理由だ。どうせ、悪筆なら安物でもいいだろうって思っているからでもありますね。かなり経済的でもあるか。






要領がいい人とは、要するにダンドリ上手な人のこと。
at 2005 03/11 21:15 編集

THE21 2005.4月号より

一般的に要領がいいといえば、マイナスのイメージでとらえられることが多い。しかし、実際は時間の使い方が上手な人のことだ。人にゴマをすったり楽をするということではなく、限られた時間内でそれなりの成果をあげられることが大事になってくる。

ある外資系の企業で働く人によれば、一つの仕事にほんとうに集中できるのは、だいたい1時間半程度だという。しかも、そのあとはリラックスタイムを作るのがコツらしい。

そういえば、大学の講義も90分単位になっていた。でも、講義によってはその90分間すべて集中できるわけもなく居眠りしたくなったこともあったな。

集中できる時間を分散して管理できる人がダンドリ上手だということになる。さっそく今からでも段取り名人への道を歩もう。






情報を吸い寄せる磁石
at 2005 03/10 21:06 編集

今朝、ちょっと面白そうな表現を思いつきました。それが上記のもの。

そもそもそんな表現を思いついたきっかけは、数日前に「関心のフック(釣り針)を多く持てば情報は自ずとかかってくる。」というフレーズを書いたときに遡る。「(その釣り針に)餌は付けといた方が良いんだろうか?(笑)」というご指摘があって、そのことについて考えてみた。

そしたら、この釣り針には「関心、興味、好奇心、問題意識」のようなエサをしっかりとつけておけば、無意識のうちにたくさんの針にはいろいろな情報が引っかかるということにも気づく。

それらは表現を変えれば、“情報を吸い寄せるための磁石”と同じものだと思った次第。本物の磁石が鉄だけを吸い寄せるのに対して、心の中の磁石は人の言葉さえも吸い寄せるかな。そして、“ちょっと気になる~”が“すごく気になる~”になったとき、その情報はその人にとって意味があるものになる・・・かも。




「アートソムリエ」という肩書き
at 2005 03/08 16:20 編集

AERA2005.3.14号より

この肩書きを考案したのは、絵画好きのある山本さん(57)というサラリーマンだった。

その前にサラコレっていう言葉もこの中に出てきた。これも初めて耳にする言葉だ。何かと思えば、小遣いで好きな絵画を買うサラリーマン・コレクターのことだそうだ。なるほど略せばそうなる。

さて、先ほどの山本氏は、毎週土曜日には10件ほどの画廊をまわるという。好きな絵画を見つけて購入するためだ。もちろん自分の趣味にあった作品との出会いを求めている。今後有望な作家を見つける楽しみもあるという。

アートソムリエなんて結構響きのいい言葉でもある。

3LDKのマンションの自宅にはぎっしりと買った絵画が詰まっているらしい。気になる値段は数万円から10万円台が中心で、上限は50万と決めている。

私は趣味としての絵画は描くことばかり考えていたが、このようにコレクションとして楽しむサラリーマンのコレクターがかなり存在することを知ってあらためて驚いた次第。

純粋に芸術を楽しみ、投機の対象でないところがまたいい。美味しいワインなんか飲みながらお気に入りの作品をたっぷり鑑賞できたら最高ですね。




関心のフック(釣り針)を多く持てば情報は自ずとかかってくる。
at 2005 03/07 21:10 編集

鈴木敏文の「本当のようなウソを見抜く」より

私たちはもし趣味や仕事でも、すでに関心のあることに関しては無意識のうちに情報をとりこんでいる。それは自然のことでもある。つまり、より多くのことに関心をもっていればそれだけ多くの情報を手に入れることはできる。

注意することは固定観念や思い込みがあると大切な情報は取れなくなってしまうことだ。

さらに、鈴木氏は関心のフックは挑戦する意欲でより磨かれるという。フックをより多く持つだけでなく、その針先を鋭くすることも大事になってくる。

きっちりとした情報を得ようとするなら、挑戦する意欲と問題意識が欠かせないことに気づかされた。




「予期しない出会いは、自分の人生をかえてくれるかも」
at 2005 03/06 07:03 編集

これは、ある方のウェブ日記にあった詩のように流れる文章の中のワンフレーズ。

なぜか同感だなあ、という気にもなった。

出会いは予期しないことのほうが多いかもしれない。現在親しい人との関係の元をたどってみれば、意外に偶然だったりするもの。

たまたま、同じ学校、職場、趣味だった・・・・数え上げれば切がない。

そんな人との出会いが人生を変えてくれるという。それはいいほうに解釈した場合だろう。でも、そうならその人にとってはラッキーなことだといえる。

ところが、場合によっては、予期しない出会いが自分の人生を変えてしまった、となったらどうだろう。それは、きっと不運の人生かもしれない。

これからも、自分にとっていい意味で人生を楽しく有意義にしてくれる、たくさんの予期しない出会いがあることを期待したいもの。




“理想を求める思いの原石”は誰の胸にも埋蔵されている
at 2005 03/05 22:24 編集

鈴木敏文の「本当のようなウソを見抜く」勝見明著より

簡単にいえばああなりたい、こうありたい、というのが理想を求める原石ということになる。それは誰もが思うことだが、それはどうやって磨いたらいいのだろうか。

鈴木氏は、その原石が磨かれるのは職場で直接いろいろな経験をするからだという。さらにはビジネスにおいては仮説を立てて挑戦する力ともなるらしい。

鈴木氏の大きくて強力な理論の一つは「仮説とその検証」だ。そのはじめの仮説創出力こそ大事なことだと述べている。

「新しいことに挑戦しようとする意欲、その心境こそが“生きる”ということではないでしょうか」(鈴木氏)

というふうに、ビジネスばかりでなく生きることそのものについても触れている。経営のなかに心理学を取り入れたところが、鈴木メソッドのようだ。

ちょっと異質なものどうしを融合させるとそこに化学反応が起こって今までにないものが生まれたりする。やはりとことん考えている人は一味も二味も違う!これから先を読むのが楽しみだ。




サービスが、マニュアル化された時点で、感動は薄れます。
at 2005 03/04 08:51 編集

「あなたのお客さんが戻ってくる!」より

そういえば、振り返ってみれば最近サービスで感動したことないな~って思える。

以前はあったが、もういつのことやら思い出せないくらいだ。

当たり前、日常になってしまったことには無関心、無感動になってしまう。それは事前情報が多すぎるということも考えられる。実際に体験する前に雑誌やテレビ、インターネットですでに擬似体験していることが多いから、感動も薄れてしまう。

お店でマニュアルどおりのサービスをされても大して嬉しくも感じない。やはりマニュアルにないことやそれを超えたことをして始めて満足を感じてもらえるもの。

人の作ったマニュアルでなくて自分だけのマニュアルを作ることも必要だ。それこそアナログの世界でなければならない。

こんどいつ感動できるサービスに出会えるかな。





「送りつける」と「送る」では大違い。
at 2005 03/03 06:43 編集

これは私がふと思いついたこと。

連日のように何通ものダイレクトメールが届く。それらは送るというよりむしろ送りつけられてくるという感じがする。

でも、「送りつける」と「送る」では大違いだ。送りつけるには大量、均一、印刷というイメージがつきまとう。

ダイレクトメールは「送りつける」、という感じがする。しかし、お礼状や個人の手紙は「送る」でなければならないはず。しかも、できれば「贈る」という気持ちをこめて書いたほうが気持ちが伝わるに違いない。

すると、そこには何か“わくわく”するものが含まれていたほうがよさそうだ。

手紙にしてもメールにしてもそんな気持ちになるものは極めて少ない。やはり、わくわく感を伝えるにはそれなりの技術も心も必要だろう。

いずれにしても、“手っ取り早い”というところからはそんな雰囲気は伝わらない。わざわざがあって初めて気持ちが伝わるかもしれない。

一通のハガキや手紙そしてメールにどれだけ気持ちをこめられるか・・・反省することばかりの日々。





人間に関する記憶というのは、サービスの記憶です。
at 2005 03/02 06:47 編集

「あなたのお客さんが帰ってくる!」中谷彰宏著より

これはレストランを例にとっての話。あとで思い出したとき金額についても、何を食べたかについてもすっかり忘れてしまうことが多い。

ところが、どんなサービスを受けたかについての印象は残っていたりする。

べつに、レストランのサービスに限らず、人の印象は長い間消えない。その人とのいい思い出があれば、それはずっと後まで心の中の宝物になるかもしれない。また、逆に感じがよくないことも覚えていたりする。

レストランでは味がよくてもサービスが悪ければそちらのほうが記憶に残ってしまう。そしてもしかしたら、ホームページも似たようなことがいえるかもしれない。

日記などに何が書いてあったかなどの内容よりも、掲示板での気持ちのいいやり取りが後まで印象に残ったりして・・・






今夜は話すことがたくさんありすぎて眠りに就くのが待ちきれない。
at 2005 03/01 21:23 編集

昨夜2月28日にアカデミー主演男優賞を受賞したジェイミー・フォックスのことばより。

レイ・チャールズの生涯を描いた作品、主演で熱演したジェイミーが俳優になるきっかけを作ったのは昨年亡くなった祖母だった。そのおばあちゃんとは今でも夢のなかで話をしているという。さっそく受賞の報告をしたくて眠りにつきたい気持ちをこう表現している。(一般的には興奮して眠れそうにもない、というところだろうが)

今日たまたまその映画「Ray」を鑑賞してきたが、彼の熱演は確かにレイ・チャールズがそこで演じているような錯覚をしてしまうほど。レイのヒット曲がいくつも歌われていて迫力満点でもあった。

これではアメリカで、昨年DVDが発売初日で200万本以上売れたというのもうなずける。

それとは別に、スポーツ紙ではアカデミー賞を各紙独自の視点でとらえているのも面白い。

【スポニチ】ジェイミー・フォックス「レイありがとう」

【サンスポ】グラミー&アカデミー どっちもレイ!!史上初

【ニッカン】イーストウッド映画4冠

【報知】「ミリオンダラー・ベイビー」やったぜ4冠

【デイリー】オスカー届かず レオ様無念 

と、レイの受賞をメインで報じているのは2紙で、あとはイーストウッドとディカプリオ。でも、現時点で日本国内で上映中のものは「Ray/レイ」だけですね。今夜はレイ・チャールズの歌声やメロディーが夢のなかに出てくるかな。



過去の日記。2005.3-1

2007年07月24日 | Weblog
つまらない仕事を黄金に変える。
at 2005 03/31 20:50 編集

「ブランド人になれ!」より

最初から面白い仕事があるわけではない。その仕事が自分に合っているかどうかや、やる気がでるかどうかが問題だろう。とくに下っ端で若いうちにはつまらない仕事しか回ってこないもの。

著者のトム・ピーターズは問題はそこから先だという。・・・「つまんねえ」と言いながら仕事にとりかかるか、それとも、その「つまんねえ」仕事を「すげえ」プロジェクトに変えてやろうと思うか。ここがポイントらしい。

結局、やる気がなければ、なにごとも始まらない、というわけだ。すべては気構えの問題になる。

つまらない仕事、ちっぽけな仕事が回ってきたら、それを感動の仕事に変えてしまおう、という発想こそが大事らしい。

やはり仕事はクリエイティブでなけりゃ。これで、明日からの仕事も少し面白くできそうな気もしてきたな。




強いブランドとは優れた企業経営の結果。
at 2005 03/30 21:44 編集

「企業を高めるブランド戦略」田中洋著より

再びブランドにこだわってみた。上記のフレーズは短いが企業とブランドとの関係を表しているように思えた。

しかもそれは自然に形成されるものではなく、意図的に育てなければならないという。つまり企業の戦略によって作られていくものだということを意味している。ただ良い製品を提供すれば自然にブランドは浸透するというものではないらしい。

もし企業が有名ブランドを持っているなら、ニセブランドやイミテーションから守らなければならなくなる。また、マネされるということはある意味一流ブランドの証拠でもあるだろう。

人についても似たようなことがいえそうだ。多くの人はその道の達人に憧れたり真似しようとする。しかし、やはりマネはあくまで本物にはなり得ないもの。本物をはるかに越えたときにはじめて優れたオリジナルブランドができそうだ。

ブランドには直接関係ないが、最近ニセ札が出回っているというニュースを聞く。でも本物以上のものはないらしい。もちろん本物以上の出来でもニセには違いないが・・・





グローバルなブランドがその品質を保つための気概。
at 2005 03/29 16:10 編集

朝日新聞 日曜版3月27日全面広告、朝日求人の吉田忠裕氏のことばより

たまたま、ブランドという一つのキーワードが頭に残っていたので、目に入った広告記事でもあった。

吉田氏はファスナーで世界的に有名なYKKの代表取締役をしている。そこにグローバルなスポーツ用品メーカーのアディダスの会長から全製品のファスナーを引き受けて欲しいと申し出があったのだ。しかもわざわざ、吉田氏が出向いていた富山工場まできて100%の供給を依頼したという。

これはアディダスが今後も世界を魅了するための執念ともいえる。そこに吉田氏はアディダス会長の品質を保つための気概を感じたという。YKKもまたグローバルな一流企業である証拠ともいえる。

また、エクセレントといわれるブランドは同時にメーカーの生産スピードにあわせられるだけのタフさを備えていることが必要だという。

こんなことから、ブランドはそれ自体が迫力でもあるといえそうだ。単に名前が知られているだけでなく、その中身の信頼度がすごいからこそ継続しているのだろう。“たかがファスナー、されどファスナー”という言葉も印象的だ。




ブランドは一日にして成らず。
at 2005 03/28 21:42 編集

「ブランド人になれ!」より

一日にして成らなかったものはローマだけではなかったことに気づかされた。

私たちが日ごろなじんでいる一流ブランドのマーク(例えばナイキにしてもアップルにしても)は認知されるまでには長い年月を経ている。

一流といわれるブランドのマークからはどれもシンプルでもパワフルなイメージが伝わってくる。しかも、それらは現在すべて信頼のマークでもあるのだ。

すでに確立されたもの(ブランド)は、はじめからそこにあるように思えるが、実際は無数の人々の信頼を勝ち得たからこそ、そこにあることを知るべきだろう。

自分のブランド化にはまず、どういうことが自分らしいかについてしっかりと確認する必要がある。そのためにアイデアと戯れ、自分の切り札は何か、弱点は何かについても考える必要がでてくる。

つまり目標意識をもって試行錯誤していくことがなけば、はじまらないのかもしれない。やはりこういうことも一朝一夕にはいかないものに思えてくる。

そこで、“ブランドは一日にして成らず”が理解できそうだ。頭で考えているうちは何事も前には進まない。アイデアを何らかの形にできたときがスタートといえそうだ。





偉大なるブランドは感情に訴える。
at 2005 03/27 21:34 編集

「ブランド人になれ!」より

確かに私たちはそのブランドを見るだけで安心してしまうことがある。しっかりしたブランドは「信頼のマーク」ということだ。

ブランド物という言葉をよく聞くことがある。そのブランドにあこがれたり、持っているだけでもワクワクしたり、喜びを感じたりするもの。それが容易に手に入らないものなら、おまけに自慢したくなるかもしれない。

そしてブランドは上記のように人の心を揺さぶるものでもある。つまり、私たちはしばしば感情に左右される。

本来製品のもつ機能よりむしろ心に訴えることのほうが大きいかもしれない。こう考えてみるとブランドの持つ力のスゴさがわかる気がする。やはりブランド力が大きいほど感情により訴えるということなのだろう。

さらに個人がブランド化しらたどうなるのだろう、と思ってしまう。




ブランド人になれ!
at 2005 03/26 15:20 編集

「ブランド人になれ!」トム・ピーターズ著の本のタイトル。

~~サブタイトルには“サラリーマン大逆襲作戦1”とある。これはシリーズになっていて1~3まである。数年前に発行されてすぐに読んで面白かったので、本棚にとっておいたものを再度取り出して読んでみたら気になるフレーズがいくつも出てきた。そこで、今日から数回にわたってこれらのシリーズから気になる箇所をいくつか取り出してみたい。~~

トム・ピーターズは米の経営コンサルタントで何冊ものベストセラーがある。

さて、「ブランド人」とはいったいどんな人をさすのかについて書いてある。それは会社勤めをしていても、個人事業主のように考え、行動するひとだという。誰にも頼らず自分の力で生きていける人だ。

さらに、ひとめで違いがわかるもの、お客さんを裏切らないもの、人の心を癒すもの、グッと来るものーーーそれがブランド人だという。

実際のブランドを考えてみればわかりやすい。世界の一流ブランドであるシャネル、カルティエ、ブルガリ、ルイ・ヴィトン、エルメス・・・それらには強力なファンが存在し、そのブランド力で信用されている。

人の世界も彼は「ブランド人の世界」と「雇われ人の世界」と仮に区別している。その気構えについて面白い比較があったので記してみたい。

☆「ブランド人」・・・日々、切磋琢磨し、達人を目指す。楽しくなければ仕事じゃない。一に行動、二に行動。すったもんだがあるから人生は楽しい。

☆「雇われ人」・・・書類とにらめっこして、時間をつぶす。仕事はつまらんものさ。メモさえとっておけばいい。ごたごたはもうたくさん。

というような違いらしい。

まあ、ひとつとしてこんな考え方もあるのかと改めて気づかされる。これから大いに今までの自分の行動を反省してみたい。(ややつらいが・・・)







“カラ元気”も出し方でいつかは本物になる!
at 2005 03/25 06:34 編集

『中村天風「勝ちぐせ」のセオリー』鈴村進著より

簡単に言ってしまえば、自己暗示ということだ。

とにかくカラ元気でも出しているうちに、潜在意識が芽生えてくるというものらしい。

だから、こんなことも言える。元気な人の周りには元気な人が集まってくる。そして、そこで交わされる会話も元気で活気にあふれている。その逆の消極的な場合もまたありえることになる。

ただし、注意しなければならないのは、それが惰性やマンネリにならないように工夫しなければならないことだ。いい意味での自己暗示の蓄積は自分を変えてくれるかもしれない。

とにかく、タダだからだまされたつもりでやってみても損はなさそうだな。




あやまちは消してしまうことができないけれども字なら消せる。
at 2005 03/24 13:13 編集

「文房具事典」のなかで目にしたフレーズ。

そのページには実際はいろいろな種類の消しゴムの写真が載っていて説明文はほとんどない。それにもかかわらず、(あやまちなどと)こんな人生についてまで書かれているようなところがすごい。

“あやまち”は何かをやらかしてしまうこと、つまり過失。
“あやまり”は間違えてしまうことだろう。

漢字で書いてみよう。「過ち」、「誤り」となる。かなりわかりやすいはず。
で、気になった表題をもう一度振り返ってみると、「過ち」と「誤り」をうまく混同させているところが面白い。

誤りは早いうちにサッと消したいもの。でも過ちは時間が経って薄れていくのを待つしかないか。

これを読んでなんだかわからない方には「謝ら」なければ・・・






誰かのゴミは別の人の宝。
at 2005 03/23 06:37 編集

AERA 3.28号より

パックンのHandy Englishのコーナーにあったフレーズ。

似たような言葉はどこかで聞いたことがあると思う人が多いかもしれない。

上記のものは、英語の“One man's trash is another man's treasure.”を直訳したもの。簡単に言ってしまえば、人の価値観はいろいろある、っていうことになる。つまり、フリーマーケットやリサイクルのことを思い出せば、わかりやすい。

また、別の英語のことわざには次のものもあることを思い出した。“One man's meat is another man's poison.日本語ではよく「甲の薬は乙の毒」と言うやつだ。

さて、今やっているホームページを振り返ってみれば、「ある人にはムダな情報も、別の人にとっては有益だ。」とも言えよう。

おまけ・・・treasure には動詞で「大事にする」、「熱愛する」っていう意味があることを知りましたね。




日記は仕事と人生のサポーター。
at 2005 03/22 06:55 編集

「日経ビジネス・アソシエ」2005.4.05号より


これはパイオニア専務の小林尚氏の話の中の言葉。

日記にはこんな使い方もあるっていう例を語っている。たとえば、目的達成のツールとして使う。

年頭にその年の目標を掲げて細かなチェック項目を書き出し、その項目を毎月採点していく。しかし、これにはかなり強い心構えが必要とされそうだ。

そして、氏にとって日記は、“人生のサポーターであり、人生を充実させてくれる道具”、だと言っている。

一般的に個人の人生のサポーターと思われるのは、家族、配偶者場合によっては家族の一員としてのペットなどではないだろうか。しかし、それらとは別に日記というのも利用の仕方では氏のいうようにサポーターにもなりうる。

また、最近ではブログやウェブ日記のように公開される日記の場合は、さまざまな人たちとの交流もサポーターといえなくもない。それがあるからこそ継続できるとも言えそうだ。

でも、ただの思いつきを綴っているだけのこんな自分のものはどうなんだろう。





実力はウソをつかない。
at 2005 03/21 06:33 編集

3月20日夕方のTBSラジオ番組「The road to super hero」より

青島健太のインタビューに対して松下浩二が答えている。

(松下浩二選手は日本初のプロ卓球選手。愛知県出身で1967年生まれ、現在37歳。全日本では何回も優勝経験がある。オリンピックには4回連続で出場を果たしている。)

上記のフレーズは彼が高野山に修行にいっているときに、そこの住職から言われた言葉だった。

つまり、実力がなくてもラッキーなことがあれば勝てるかもしれない。しかしそれは本物の実力とは違うものだ。

松下はさらに次の北京五輪も目指しているという。そのとき彼は41歳となる。

また常に努力して可能性をわずかでも伸ばしていきたいというのが、今の心構えらしい。

しっかりした目標を定めてそれに向かうためには、実力をつけることだけが頼りなのだ。

なんとかごまかしながら日々を過ごしている自分が反省させられてしまう。




過去の自分が、今の自分に新たなヒントをくれる。
at 2005 03/20 19:52 編集

「日経ビジネス・アソシエ」2005.4.05号より

これは予備校講師の表三郎氏がいっている言葉。彼は日記歴30年だという。

そして、日記を「読む」ことが「書く」ことと同じくらい重要だと考えている。結局読み返さなければ意味がないという。

彼はまた「読み返すと自分の知らない自分の姿が浮かび上がってくるのだ。」といっているが、そんなことが本当にあるのだろうか。

自分のことを振り返ってみれば、学生時代に書いていたものはすべて処分してしまっている。読み返す価値がないと思ったからだ。そして今書いているこんな思いつきも書きっぱなしで、読み返すことがないかもしれない。

でも、後で再び読み返そうと意識して書き続けるならもう少しまともなものになるのだろうか、とも思う。

いや、そんなことを考えたら書くのが疲れてしまい続かなくなるに違いない。(自分の場合は)とりあえず今までどおりだらだらやるかな・・・




少年の気分で、少女の気分で・・・
at 2005 03/19 09:57 編集

2005.3.19 新聞の全面広告の中にあったフレーズより

この日、小田急の新しいロマンスカーがデビューする。

タイトルは「ときめきを、ご一緒に。」となっている。

やはり新しくデビューする乗り物には何かしら、ときめきを感じる。

少年、少女だったころにはときめきを感じていたことも、大人になるにつれてすっかり感動も忘れてしまうもの。この新しいロマンスカーに乗れば、きっとそんなドキドキ、ワクワクした気分になれそうだ。

さて、最近みなさんは最近“ときめき”を感じたことありますかね。

私は以前はよくロマンスカーに乗っては居眠りをしていたものだ。今度この新しいロマンスカーに乗って(気持ちだけ)少年になってみるかな・・・新宿から箱根までの85分間だけでも。







むずかしいことを勉強することが学問ではない。
at 2005 03/18 21:52 編集

JAF Mate 2005.4月号より

福沢諭吉の独立自尊というコーナーに書かれていた言葉。

彼の「学問のすすめ」は有名だが、学問というとなんだかそれを聞いただけで、難しいもののように思えてくる。

しかし、それは生きた学問、つまり実学を意味していたのだ。たとえば、農業なら、どういうふうに作物を育てるのが効率がいいかなどを考えることになる。

結局、机上の空論では意味がなく、生きるために役に立つことを学んでいくことが大事なのだ。

振り返ってみれば、学生時代難しいことを覚えさせられたが、その後ほとんど役に立ってないですもんね。受験のためのテクニックなんてバカバカしい感じがしますね。

ただしそれを教える予備校や塾の講師にとってはそれ(受験に通るためのテクニックを教えること)は実学ともいえるか。




脳の中をマッサージされているよう。
at 2005 03/17 21:24 編集

「超簡単!ブログ入門」増田真樹著より

ブログは本格的なホームページに比べてかなりお気軽に始められる。何しろ一旦作ってしまえば、更新が簡単なことが何よりだ。

自分も気がつけばHPをはじめて5年も経っていることに気づく。

HPにしろブログにしろ、それを継続しているとさまざまな人と交流する機会は増えてくる。当然、価値観の異なる人の言葉と向きあうことにもなってくる。

付き合ったこともない人との掲示板への書き込みやコメントなどを通して、時には自分の知らなかった知識も得られたりする。

世代を超えた多くの人との交流で得られる刺激で気分転換も図ることができ、気持ちよくも感じられる。つまり脳の中をマッサージしてくれるといっていいのかもしれない。

でも私のHPを読んだ人は、もしかしたら疲れる?






ただ読むだけでなく、考え、調べ、検証する。
at 2005 03/17 23:29 編集

PRESIDENT 2005 2.14号より

なんとこれをやっているのは小学一年生だった。ある愛知県の小学校の授業で入学したばかりの一年生に辞書を引き活用することを教えた。すると子供たちはゲーム感覚で辞書引きを楽しんだという。

しかも、全学年での辞書引きのコンクールではその一年生が六年生を圧倒して上位10名を占めてしまったという。日々の訓練はすごいと思わせる。

さらに、国語辞典の間違いまでも指摘するまでになってしまう。たとえば、タンポポの背丈は15センチから30センチとある辞書には書かれている。しかし、中には50センチ、1メートルを超えるものもあるのだった。そんなことから、辞書にも嘘が書いてあることを実践から学んでいる。

辞書は引いてそこに書かれている意味を鵜呑みにするのではなく、考え、調べ、検証するものでもあったのだ。常識にとらわれた大人には見えないものも子供には見えている。





「ほしい」をカタチに。
at 2005 03/16 21:50 編集

先日小田急線の車内広告にあったコピー文。

普通の文なら、「欲しいを形に」となるはずだが、それらをひらがなやカタカナにしたのにはそれなりのメッセージ性を持たせたものと思われる。

新宿にあるデパートの広告で、陶器のマグカップの写真が載っている。このモーニングカップは作家もので肉厚の陶器で冷めにくいらしい。しかも、大きさも手になじみやすそうな感じがする。絵柄にはフクロウが描かれている。値段も高めだが、見るからにちょっとこだわり感が伝わってくる。このデパートのオリジナル商品だという。

本文の最後には次のように書いてある。「グッド・モーニング・カップで朝が楽しくなってきた」と。最後のセンテンスもちょっと面白いコピーだな、と思った次第。

“「ほしい」をカタチに”で思い出したことがありました。

かつて大型文房具店で一筆箋を探したことがあります。でも、なかなか自分の気に入ったものがなかったので、結局はパソコンで自分の好きなデザインのものを作ってしまいました。これもまた、好きなものを形にしたものだと気がつきましたね。そして、今でもいろんなバリエーションのものを作って使っていますね。これもまたオンリーワン。






過去の日記。2005.2-2

2007年07月24日 | Weblog
「通勤時間が長い人ほど、自由な時間を持っている」
at 2005 02/14 06:18 編集

「なぜあの人はプレッシャーに強いのか」より

そうかもしれない。家に一日いても本など読まずにただなんとなく過ごしてしまうことがほとんどだから。

しかし、電車に乗っている間には新聞や雑誌、本に目を落とす時間ができる。本を読めないほど混んでいたら、ラジオや音楽を聴くこともできる。それから、ケータイでメールも送受信できるか。中にはケータイでゲームを楽しんでいる人もけっこういますね。

さて、机上の空論を前提にして言えば、1日1時間電車に乗っているなら、一週間で5時間の自分だけの時間を確保できることになる。1ヶ月なら20時間一年で240時間にもなる。これならいろんな本も読めるし、語学の学習にも使えそうだ。

結局自由な時間をどう使うかが問題になる。これは通勤に限ったことではないが。まあ、“お金持ち”にならなくても、通勤時間の間だけは“時間持ち”にはなれるか。年配者に比べれば若者はそれだけで“時間持ち”ともいえる。

一見通勤という不自由な時間も考え方で自由な時間であることがわかる。でも、自分の場合はまあほとんどは居眠り時間のほうが多くなってしまうかな・・・






「マジメ」と「マメ」は大違い。
at 2005 02/13 22:24 編集

「なぜあの人はプレッシャーに強いのか」中谷彰宏著より

一文字の違いだけれどもまったく違うことのようだ。仕事ができる人って言うのはマジメな人よりマメな人だという。

マジメな人は何事も完璧にしてからでないといけないと思ってしまう。しかし、マメな人はとりあえず、できたところまでを先に提示したりする。

物事にはスピードを優先する場合が多い。もし、お礼状を出さなければならないときに、きっちりとした手紙を書こう、なんて思っている間にかなりの時間が過ぎてしまう。もしかしたら、そのまま書かないで終わってしまうかもしれない。

それより、とにかく何でもいいから書いたほうが相手にはそれなりに伝わるはずだ。誠実な人はマジメだが、100%になるまではどれくらいかかるかわからない。その間に自分も相手も疲れてしまうかもしれない。

マメな人は面倒だと感じることはないから途中経過の報告も進んでできる。

マジメでかつマメである人ってそういないですよね。いずれにしても、自分はどちらにも程遠いかな・・・





おすぎとピーコを見ていると、本物のおばさんに見えてくることがある 。
at 2005 02/12 09:59 編集

「“つかみ”の大研究 勝者の秘密」近藤勝重著より

筆者によれば、どんなおばさんかというと、「今の女性がなくしてしまった常識や教養、それに優しさを持ち合わせた古きよき時代のおばさん」だという。そして、「女は顔じゃない、中身だ!」をとことん実践している。

なんといっても二人の“つかみ”は容赦のない辛口批評や毒舌だろう。テレビ番組や新聞紙上でもほかのコメンテイターがさしさわりのない言葉を選んでいるのに対して、歯に衣着せぬ発言をしてくれることだ。

ピーコがファッション評論家でおすぎが映画評論家ということらしいが、二人の豊富な知識を聞いていると女子アナや若い出演者などがバカに見えてくることさえある。

「その格好じゃあ、わたしは頭がカラッポです、って言ってるようなもんよ」とか「「それは銀座を歩く格好じゃないですね。地方の銀座ならいいけど」などはスラスラと彼らの会話から出てきたりする。

人が言いにくいことを代わりにしゃべってくれる人がいるだけでも精神衛生上いいようにも思えてきたな。二人はもう還暦を越えているが今後とも言葉の勢いは相変わらずであって欲しいもの・・・




PR誌には「知」の香りが漂っている内容のものが多い。
at 2005 02/10 21:03 編集

「知的文具図鑑」生活システム研究会編より

タダで手に入るPR誌も馬鹿にできない。そこには一般の商業誌にはない情報も入っていることがある。新しいものこそ新鮮な情報が含まれているはず。そして、それらがまとまって単行本になったりもしている。また、評判がよければ文庫本にもなるだろう。

PR誌には身近な生活情報から小説まで掲載されているものもある。私もたまに駅などで手にするが、他に読み物がないときには適当な時間つぶしにもなっている。そんな中からも知ってるつもりで知らないこと発見すると嬉しくなったり得した気分にもなる。

また、本屋さんには並んでないし、お金を出しても買えないというのも特長かもしれない。しかも期間限定でもある。だからそのときを逃すと手に入りにくい。

こんなふうに無料だからこそ価値があるものってあるんですねえ・・・と、これを書きながら気がつきました。





「量より質」でなく「量こそ質」
at 2005 02/09 06:23 編集

「日本語トーク術」より

とかく一般的には“量より質だ”、といわれることが多い。しかし、斉藤氏によれば、どんなことでもやってすぐ休むやってすぐ休むの繰り返しでは体力がつかないという。実際には量をこなさないと体力も実力もつかないのは確かだ。仕事にしても同様のことが言える。

斉藤氏の持論だが、ほかの本にもつぎのようなことが書いてあった。技を習得するには量をこなさなければならない、と。それは万の単位の繰り返しを伴うものらしい。

そして、量こそが質的変化を起こす、というのが基本になる。だから、量より質っていうのをあまり信用してはいけないのだ。彼によればそれはよくないスローガンだという。

まあ、質を念頭に置きながらも量をこなすというのが理想的だといえそうだ。




練られた言葉はあとを引く。
at 2005 02/08 16:17 編集

「日本語トーク術」斉藤孝・古館伊知郎著より

この本は2人の人気者の対談を収録したもので読みやすい。書かれている言葉がすべて話し言葉になっている。9時間にも及ぶ「言葉の格闘技」と古館はいっている。お互いにしゃべることを仕事としているだけあって、興味深い内容がつぎつぎとでてくる。

そのなかで斉藤は古館のしゃべりの表現には練りがあるという。無意識のうちに練られた言葉はやはり人の心にも残るらしい。

よく私たちの、雑談のなかにはほとんど意味のない言葉が連発される。しかし、古館はしっかりと言葉を練っているからこそ、同じ業界に生き残っていられるという。

やはり、第一線で活躍できる人にはそれなりの地道な努力が必要なことを痛感する。これからは行き当たりばったりやちょっとした思い付きだけでしゃべるのを慎まねば。でも、できるかな・・・






見えないものをみる力を磨く。
at 2005 02/07 21:06 編集

THE21 2005年2月号「もっと力を」のコーナーより

ビジネスで成果をあげるには、こんな考え方もあるっていうことらしい。

ビジネスの達人たちの多くは、目に見える一つの手法を追いかけたりしない。実例として近所に酒のディスカウントショップがあるにもかかわらず、ビールが正価で売れる酒屋があるという。どうしてそんなことが可能なのかの答えは一つではない。これといった特別な手法を用いているわけでもない。お客との人間関係づくり、お酒の愉しみ方を教えて喜ばれる、店の雰囲気作りがいい・・・さまざまなことが考えられる。

つまり成果はいくつかの原因の相互作用から生み出されている。学校の試験のように一つの問いに対して一つの正解が用意されているというわけでもない。マニュアルや参考書にはないこと、また言葉では説明できないことが一番大事なのだ。

見えないものをみる力をつけて実行したときに、はじめて成果を期待できるということらしい。とかく、すぐに正解を求めようとする態度からはなにも期待できないことがわかった。世のなかそう単純にものごとは進まないもんですね。だからこそ、勝ち組と負け組みに分かれてしまうのかもしれない。




“感性”で顧客と親しくなり“フォロー”で信頼をつかむ。
at 2005 02/06 20:52 編集

THE21 2005年2月号の“仕事の達人のオリジナル・スキルに学ぼう”より

ここではイタリアの高級車販売をする営業マンについて書かれている。彼はクルマの話よりまず、イタリアの文化を売り込むという。

文化面の話からお客様との距離が縮むこともしばしばらしい。そして、文化面でお互いに共感できると購買にもつながりやすくなる。
べつにイタリアだけに限らず、趣味や知識など幅広く持っていると、多種多様なお客様との感性が一致する可能性が高くなるという。これは当然ともいえる。

感性の面で親しくなれたら次は徹底したフォローをすることで信頼を得られるというわけだ。

言葉にすれば簡単なことだが、これができるようになるにはかなりの努力が必要だろう。

やはり、長く第一線で活躍するには周囲にないプラスαの価値を生み出せるかどうかにかかっている。





画家の一本の「線」にも長い時間と人生がこめられている。
at 2005 02/05 19:29 編集

「マンガを解剖する」より

線を引くだけなら一見簡単そうに見える。しかし、独自の「線」を描くには長い修行が必要なのだった。

たとえば、陶芸家の浜田庄司は独自の線を体得するのに生涯をかけていた。浜田の絵付けには絵の具を垂らしただけの作品が多い。それほど時間がかかるわけではない。しかし、そんな短い時間で制作した作品でも数百万円はしてしまう。それに対して高すぎるという批判もあったらしい。

しかし、浜田は力強く答えたという。自分がこの絵を描くのにかけた時間は十数秒ではなく“六十年と十数秒”だと。

なるほど、そのとおりだ。ひとつの独自のスタイルを確立するまでは何十年もかかるのは当然。

そこで、数秒で勝負が決してしまう相撲だって何年もの苦しく厳しい修行に耐えなければなならいと気づく。土俵に上がる前の時間のほうが圧倒的に長い。その時間に心技体を鍛えて初めて勝負のチャンスが与えられる。

それでも相手に勝てるかどうかはまだわからない。それだけ実力の世界は厳しいことがうかがえる。それに比べたら自分の日々の甘さを痛感してしまう。






くだらない予備知識で頭が一杯の自分に恥じ入った。
at 2005 02/04 21:43 編集

「マンガを解剖する」より

この本の著者が自分の息子が2歳のとき、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵を見せて何の絵?と聞いたときに子どものからの答えにはっとさせられた気持ちが上記のフレーズだった。

当時2歳の子は「ごはん」と答えたという。筆者は「絵の見方」を教わったと感じている。もちろんこの筆者は絵画の専門家でもある。しかし、それまで考えてもみなかった答えに衝撃をうけたらしい。

とかく、大人になるといろいろな知識が頭を占領してしまい純粋な見方をすることを忘れてしまう。キリストが裏切りを告発する場面とか遠近法の技法などを考えてしまうと、それにこだわってしまいそれ以外の見方が出来なくなってしまったりする。

そこで、筆者は子どもが「ごはん」と答えたなら親としては「お部屋」の絵だと考えついたという。

たまには子どもの率直な見方はいろいろな予備知識をもっていたり専門バカの人には新鮮に映るものだ。





笑いというのは一瞬にして息を吐くことである。
at 2005 02/02 20:54 編集

「マンガを解剖する」布施英利著より

マンガにある吹出しについて、この作者は呼吸、吐息であるという。息を吐く、それをビジュアル化したものが吹出しの形らしい。こんなこと今まで考えたこともなかった。そういう考え方もあるんですね。

ふつう緊張すると息が詰まる。そして力を発揮できない。その息が詰まるのは肺に空気がたまるということになる。そんな時は大きくゆっくり息を吐くことで意識の乱れは整い集中できる。その結果リラックスできる。

マンガは息を吐く世界のようだ。マンガを読むとリラックスするのはそんなところも関係してるのだ。つまり、息を吐く+笑いがポイントらしい。

よし、こんど息が詰まったときは笑いながら息を吐いてみよう。こんなことで人生の達人になれたらいいのに・・・




仕事量に関係なく給料が振り込まれるサラリーマンがいかに恵まれてい たか。
at 2005 02/01 17:35 編集

朝日新聞1月29日土曜版の「複職時代」(田中和彦)より

会社勤めを数年したあと、自らすすんで独立したものの、思いのほか稼ぐことができずに吐いた本音の言葉だろう。また、自分の意思とは関係なくリストラされた人も同じ気持ちになったに違いない。

多くの人にとって再就職は困難なことは想像できる。

そこで、昔流行った“サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ”というフレーズも同時に耳によみがえった。高度成長期に人気だった植木等の無責任シリーズで唄われた歌のワンフレーズだった。

実際はどんな時代でも気楽過ぎたり無責任だったりすればすぐにリストラの対象になりそうだ。

たとえ出世しなくとも、また給料が上がらなくても不満さえ我慢すれば定期的に給料は振り込まれる。同時に大した贅沢や成功は望めないが。現在は成果主義が幅を利かせているためか、目立った成果さえあげればそれなりに見返りはあるともいえるが。

まあ、どんな仕事ぶりでもサラリーマンにはその期限(定年)は必ずやってくる。

隣りの芝生は緑に見える、といわれるように人のやっていることはオイシくみえるもの。ぬるま湯に浸かっているようにみえたとしても、そのうちそのお湯も冷めてしまう。そしたらサラリーマンも恵まれない。

でも、浸かれるだけまだましか。


過去の日記。2005.2-1

2007年07月24日 | Weblog
感動できる人は(心の)レンズの透明度が高い。
at 2005 02/28 21:29 編集

朝日新聞日曜版 2005.2.27の安藤宏基氏のことばより

では感動できない人はどうかといえば、レンズが曇っている人ということになる。それは具体的には世間の常識や当たり前といわれることにこだわっている人のことをさしている。

感動するためには“心を磨くこと”が大事だという。しかし、ここでちょっと立ち止まる必要がある。心を磨くなんていうとカッコイイ言葉で、なんとなくわかったような気になってしまう。でも、それって一体どういう意味なんだろうと、ふと考えてみた。そんな言葉(心を磨く)こそありふれているではないだろうか。

でもとにかく、どうやって心を磨くのかについて思いをめぐらしてみた。

それにはまず、“先入観といったものを取り払う”必要があるとも感じてくる。また、好奇心や探究心、興味を持ってみることも大切そうだ。さらには“本当にこれでいいのかという疑問符(?)をつけてみる習慣づけも心を磨くうえで役に立ちそうだ。

そんなことを考えると、ちょっとした気持ち一つで、もっといろいろなものに感動できるようになれそうな気もする。

その前にメガネのレンズでも磨くかな・・・





最後まで生き残るのは「強者」ではなく「適者」である。
at 2005 02/27 22:09 編集

「勝者の思考法」より

これはメジャーの野球界で活躍する長谷川滋利の生き方だ。松井やイチローなどの派手な活躍に比べるとかなり地味な活躍ぶりにみえる。

長谷川は先発投手としてメジャーでのスタートをきったものの、ローテーション入りはかなわず、中継ぎとしての道を模索したのだ。そして、見事にセットアッパーとして変身をとげ、自らの活躍する場をつくりあげている。

どうすれば生き残れるか、何をすればチームが自分を必要としてくれるか、そのために自分はどうあるべきか----をしっかりと考えた結果メジャーでの「適者」となれ活躍できている。(サラリーマンでもきっちり変化に対応できる人間は強い。)

昔から言われた言葉に「郷に入っては郷に従え」というのがあるが、それを本当に実行に移すことは並大抵ではないはず。でもやはり「適者」になれるっていうことは、それだけ「強者」でもあるっていうことに違いない。




焼き鳥屋は三軒あると成功する。
at 2005 02/26 11:02 編集

「勝者の思考法」二宮清純著より

結局一軒だけぽつんとあっても宣伝力が弱く集客力も乏しいものになってしまう。ところが三軒あればそれぞれが存在をアピールすることで宣伝力も増してくる。お客にとって「焼き鳥屋」が一つの選択肢となる。

三軒が競争することで、個性もアピールできる。焼き鳥屋は一つの例だ。ここでは野球のことを述べていた。日本のプロ野球は低迷している。そこで、一つや二つの人気チームがあったところで全体が盛り上がるわけではない。選択肢として野球を選んでもらうためには、やはり協調に基づいた競争が必要になってくる。

その意味で、日本人選手のメジャーへの挑戦、プロ野球の新規参入球団や四国の独立リーグ発足、萩本氏の率いるノンプロ球団の設立なども野球界に目を向けてくれるいいチャンスに思える。

関係ありませんがプロ野球にも鳥をニックネームにもつ球団が3つになりましたね。スワローズ、ホークス、ゴールデンイーグルスと。





知的生産活動はまずメモから始まる。
at 2005 02/24 06:41 編集

ウェブサイトの「百式」(2005.2.20)より

海外のビジネスを紹介しているが、この日は指輪にペンがついているものを紹介していた。

外で何か思いついたときや思い出したときにペンとメモ用紙がすぐに出てこないときがある。そんなときに指輪にペンがついていたら便利だろうと作られたようだ。

しかし、見栄えはよくないし、なんとなく凶器のようにも思える。身に着けられてファッショナブルで使いやすいペンはないものだろうか。今後のビジネスのヒントにもなりそうだが。

それはそうと、いくらモバイルだ、パソコンだといってもやはり知的生産活動の原点はメモる、というかなりアナログなところからスタートしているようだ。

たとえばラーメン屋でグッドアイデアや企画案がひらめいたときなど、ケータイをごそごそ取り出してメモるよりそこにある箸袋にサッとメモしたほうが早そうだ。そのほうがラーメンがのびなくていいかもしれない・・・




「ゲームにおける勝者」は、必ずしも「人生の勝者」ではない。
at 2005 02/23 22:41 編集

「勝者の思考法」二宮清純著より

作者がスポーツコメンテイターであることを考えれば、ゲームとはこの場合スポーツの試合のことを意味している。つまり、それら(ゲームと人生)はまったく別物である。

しかし、それはもっと広い範囲のものまでも考えられる。たとえば、高い偏差値で有名な大学に入る、または会社で優秀な成績をあげることなどは「ゲームの勝者」と同類だという。

それらは一時的なもので、人生そのものではない。これを勘違いする人が多そうだ。

もし、幸せということを考えれば、財産があって、立身出世がかなっても必ずしもその人が幸せであるとは限らない。

人生においては、勝ち負けはその人の価値感によって異なるものだ。たとえ、現在低迷していようとも、まだまだ結論を出すのは早いかもしれない。実は日々なにかに向かって地道な努力していることのなかに幸せの芽があるのではないだろうか。な~んてちょっと生意気なこと考えてしまった・・・





お気軽図書館読書記録。
at 2005 02/22 09:13 編集

これは今思いついたこと。地元の図書館では昨年末から、本を借りた際にレシートのようなものを渡されるようになった。

まるで、一般お店で買い物をしたときに受け取るものとまったく同じようなもの。タイトルは[返却のお知らせ]と印刷されていてその日の発行日時、利用者番号、借りた本のタイトルがすべてが印刷されている。そして返却期限日も当然ある。

いままでは返すときになると一体どんな本を何冊借りていたっけ、などと思うことがしばしばだった。ところがこれさえ壁にでも貼っておけば迷うことはない。

しかもありがたいことには、これをそのままノートに貼っておけば、いつごろどんな本を借りたか(しっかり読んだかどうかは別問題だが)が記録として残る。いま、私の大学ノートにはベタベタと4枚ほどのその図書館レシートが貼ってある。

これでお気軽に図書館読書記録の出来上がり。でも読んだ内容はほとんど忘れてますが・・・





人生最大の「食べる楽しみ」
at 2005 02/21 21:17 編集

「歯医者さん雑学ノート」武田浩、実方藤男著より

この本の中には患者の疑問、歯科医の本音がつまっている。

べつに現在虫歯で歯医者さんに通っているわけではないが、歯が悪ければ本来美味しいはずのものも味を感じなくなってしまう。また、かめなくなると食べられるものも減っていってしまうし、味覚の働きも低下するらしい。

健康であるにはしっかりと食事ができなくてはいけない。その食事も歯がしっかりとしてなければきっちりと噛めない。こう考えると、ふだん何気なく美味しく味わえることはありがたいことだと思えてくる。

一日中仕事で忙しいときなど、気を抜けるのは食事や喫茶のときだけになってしまうこともある。やはり、食べることは基本的で最大の楽しみのようだ。

でも一生歯医者さんのお世話にならない人は稀だろう。そんなときは、自分にとって納得がいく治療をしてくれる歯医者さんに出会えるかどうかだ。本当に相性があう歯医者さんに出会えたらしめたもの。

場合によっては、抜かずに治したい場合には初診料を無駄にしても他の歯医者さんをあたることも考えたほうがいいという。それも、よい歯医者さんを見つけるための投資と考えたら安いものに思えるか・・・




自分の言葉というのは、本人が現場やマーケットを自分の足で歩き、確信を持たないと出てこないもの。
at 2005 02/20 21:21 編集

朝日新聞2005.2月20日日曜版 安藤宏基氏のことばより。

人を説得するには、単に形式だけ整った数字やデータを並べただけでは十分ではない。また、在り来りの言葉や市場の常識も意味はないという。ちょっとした思い付きのようなものは人から見ればすぐに見破られてしまう。

結局必要なのは現場で目を凝らして見えてきたもので、それが実感や確信に満ちた言葉になってくる。

果たして私たちが日常しゃべっていることは、自分のオリジナルな意見だろうか。人の受け売りになっていないだろうか。自分の言葉を持つことはそうたやすいことではなさそうだ。そんなことを反省させられる。




「モナ・リザ」と「能面」との、あまりに通底した類似点・・・
at 2005 02/19 08:42 編集

「モナ・リザ」ミステリー 北川健次著より

この本のサブタイトルには“名画の謎を追う”とある。別に推理小説でもないが、読み進むうちに作者と一緒に日本各地や海外にまでその謎を追う旅をしているような気持ちになってきてしまう。

能面もモナ・リザもわずかに微笑んでいるように見える。その表情は見る側の心情をまるで鏡に映すかのようでもあるといっている。両者の共通点は共に眉毛がない点もあげられている。そこには現実を超越した世界があるようにも思えてくる。

モナ・リザには実に多くの謎があることに気づかせられる。そして作者が試みるさまざまな仮説と研究そしてそれを確認するための旅は小説以上に興味深い。

人類最大の知的怪物と呼ばれたダ・ヴィンチの残した絵画は永遠に微笑をたたえていくと同時に謎も永遠だってこともわかってくる。

漱石は「(ダ・ヴィンチ以外は)この謎を解きえたものは一人もいない」と小説のなかでも書いている。物事をただなんとなく眺めているだけの人間(自分)には一枚の名画にさまざまな謎があるっていうこと自体にも気づかないか・・・反省。




知価ブランドがこれからの時代を象徴するブランドになる。
at 2005 02/18 22:57 編集

THE21 2005.3月号より

堺屋太一氏によると、ブランドにはそもそも3種類あるという。

第一は伝統ブランド・・・昔から伝わっている特殊な技術を用いて作られた優れた商品。たとえば、西陣織、伊万里焼、ゾーリンゲンの刃物など。

第二は大量生産ブランド・・・ソニー、トヨタ、コカコーラなどの商品。この商品ならよく知っているから間違いないだろうと消費者が思うようなもの。

第三は知価ブランド・・・堺屋氏が名づけたもので、意思決定コストを高くして、その代わり一回買ったら一生忘れない、という主観価値を提供するブランド。たとえば、ルイ・ヴィトン、エルメスなどで特定の顧客層だけを深耕して行くスタンスを採っているブランド。ディズニーランドやユニバーサルスタジオなども入るらしい。

今後はこの知価ブランドがメインになるだろうというのが、堺屋氏の見方だ。しかも、これからは団塊の世代が(これも同氏の造語)60代に入っていくのでそこをターゲットとした新しい知価ブランドの創造がポイントだとも言っている。

つまり巨大ビジネスのヒントがそこにあるらしい。でも、なんだか漠然としていそうな気もする。なかにはきっちりとそれを捉える人もいるんでしょうね。




勝負事は柔道時代にさんざんやったから、興味ないんです。
at 2005 02/17 21:21 編集

THE21 2005 3月号 小川直也のことばより

いまや存在感のあるプロレスラーの一人となった彼にしては意外なことばだった。

総合格闘技での優勝や勝負にこだわっているというわけでもないらしい。こだわっていたのはプロレスを潰さないために戦っていくことだという。昨年の大晦日にもそうとうな額でオファーがあったが、プロレス界のためにならないからと出場を断っていた。

ギャラの額で出るならば、“その他大勢になってしまう”という。小川が主催する「ハッスル」では基本はプロレスであっても、一つのエンターテイメント・ブランドとしてみてほしいと言っている。しかも、サブタイトルは「ファイティング・オペラ」。“ショーでありエンターテイメントである以上、当然レスラー一人ひとりも自己プロデュース&演出ができなきゃダメ”ともいう。目標はサーカスなのにサーカスとはいわない「アレグリア」らしい。

プライドやK1といった総合格闘技に押されぎみのプロレスは変革期に入っている。小川は「ハッスル」興行を通して古いスタイルを変えようとしている。

なんだかビジネスマンにも通じる、新しいタイプの教習のような気もするが・・・








腹がふくれ、栄養が満たされなければ文化も仕事もない。
at 2005 02/16 06:15 編集

朝日新聞2005年2月13日日曜版「朝日求人」安藤宏基氏のことばより

現在は日清食品の代表取締役社長で、この人の父は日本初のインスタントラーメンを作った人(安藤百福)だ。

この社長は研修で新管理職を無人島に連れて行ったことがあるという。そのとき持参した食料といえば少しの米とチキンラーメンだったそうだ。結局、全員が火をおこしたり魚をとることからはじめるのは大変な苦労を伴うということに初めてきがついたという。

寝ても覚めても食べることしか考えなくなってしまったらしい。研修のための本など開く気力もわくはずもない。

そこで、それまで自分たちが得てきた知識や経験が何一つ自分の命を守る役に立たないことに唖然とし、ショックだったたという。

たとえいくらカッコいいことをいっても、まずは食で腹が満たされなければなにも出てこないということを言いたかったのだろう。健康は食事からスタートして、あとはどうやってそれを維持していくかだ。そこそこの健康を維持できてはじめて文化だ仕事だスポーツだエンターテイメントだなんていえる。

いつも当たり前のように食べているが、そんなことがすべての原点のように思えてきたな。贅沢をいましめ、食べられることにあらためて感謝せねば。





声にならない憤りをいかに笑いとともに処理するか。
at 2005 02/15 09:37 編集

ホームページの「100式」2005.2.12より

このサイトでは毎日海外のビジネスを紹介している。

この日は「駐車マナーに違反しているドライバーの方に軽く忠告するためのステッカーを販売している。」会社を紹介していた。

そこには“I Park Like an Idiot.”と印刷されている。つまり「私はあほみたいな駐車をしてました」と書いてあるわけで、それをみてドライバーが反省して欲しいというものだ。

べつに車に限らず自分がちょっと嫌な思いをしたときに相手にどう注意を促すかはむずかしい。

そんな時に上記のフレーズ通りにうまく処理できたらいいのだが・・・

怒りと笑いを同時に処理するっていうところがポイントになっている。似たようなことは組織の中では時々見られる。なにかミスを犯した人に対して真面目にこっぴどく叱るのではなく、少し笑顔を見せながら注意を促すというもの。

でも、その言葉の強弱が問題になるだろう。軽すぎてもいけないし。それはともかくとして、怒りをユーモアのオブラートで包んで表現するっていうのはかなり努力がいりそうなことは確かだな。

とにかく、フレーズでも触れたように憤りとユーモアを交えたところに商売のネタを見つけたというのもすごいと思える。


過去の日記。2005.1-2

2007年07月24日 | Weblog
リクリエーションとは「Re・creation」、すなわちもう一度クリエート すること。
at 2005 01/14 21:42 編集

PRESIDENT2005年1月3日号より (「MVP社員の秘密」という特集から。)

そう考えると、休みの日だからといって、ボーっとしているだけじゃいけないんだなと感じてくる。文中にも、もしボーっとするなら真剣にボーっとすべきだとも書いてあった。何かテーマを持っていたほうが集中して休めるらしい。「よし、もう十分休んだ。早く月曜になれ」と思うくらいになりたい、ともあった。しかし、そういう人がどれほどいるだろうか。

自分なりの充実した休日を過ごせた後は、やはり少しでも前向きになれることは確かだ。

上手に休んで創造のための余暇、(つまりこれがリ・クリエートってことだろう)を過ごすことが、明日への意欲につながるようだ。

ということは、平日からのしっかりした思いや計画がそんな余暇を過ごせる元となるに違いない。

平日は休みのために、休みは平日のためにってことになるかな・・・





グッドアイデアも実現しなければ意味はない。
at 2005 01/13 06:23 編集

PRESIDENT2005年1月3日号より

MVP社員の秘密という特集の中でのフレーズ。別に当たり前だといえば、そのとおりだ。でも、日常では意外に忘れがちなのも確かだと思える。

よく、絵に描いた餅という表現があるがそれとも似ている。いくらいい案を出したところで、それを実行して効果があがらなければどうしようもない。大抵はこうすれば、こうなるはずだというようなことがある。でも、実際にやってみても期待するほどの効果が得られないことのほうが多いもの。何事も頭の中で考えるほどうまくはいかなかったりする。

たとえグッドアイデア(商品)を思いついたとしてもそれを満足する形にするのは大変なことだ。まず、思いつきを書き出したり図面にしてみる。企画を練る。(ほとんどはその段階にすら至らないで、アイデアは消えてしまうに違いない。)

それから試作する。この段階でもかなりの試行錯誤があるはず。ようやく完成したとしてそれが市場に受け入れられるかどうかはまだ未知数ということになる。初めの期待通りの成果があがってようやく実現したと言える。
そうなると、本当に意味のあるアイデアを実現するのは並大抵ではないことがわかる。いま私たちの周りにあるヒット商品はそんな過程を経て出てきたことにも気づく。






安い商品ほど、サービスすれば、それだけ相手に感動してもらえる。
at 2005 01/11 13:03 編集

「喜びは与えれば与えるほど与えられる」より

店に希望の商品が在庫切れのときに、あちこちに問い合わせて一生懸命探してくれると嬉しいもの。実際は商品がなければ大抵は「ありません」の一言で片付けられてしまうことのほうが多い。

また、高額品の商品、例えば家屋や車を買った場合はかなりいいサービスがあっても当然で、とくに感動はない。

しかし、たった数百円の商品にたいして一生懸命サービスをしてくれると感動するもの。いや、そのときに買わなくてもいいサービスや応対であれば次に来るときに買いたくなってしまうものだ。

安い商品ほど、っていうのがポイントのようだ。

そういえば先日100円ショップである商品が見つからなかったので、販売員さんに聞くと丁寧にすぐにその商品のある場所まで案内してくれたっけ。少しだけ嬉しい気持ちになりましたね。






情報には、冷たい情報とあたたかい情報があります。
at 2005 01/10 06:58 編集

「喜びは与えれば与えるほど与えられる」中谷彰宏著より

その後には「あたたかい情報が“思い入れ”です。」と続いている。

どうせ同じものを買うならその商品について詳しい人から説明を受けて買うほうがうれしい。そんなうれしいを与えられる人は思い入れがある人だということになる。

たんにものを売るのではなく思い入れ、情報を売っていることになる。それがあってこそ本当のサービスともいえる。

プレゼントをする場合なら、贈る側がそのモノついて詳しいことで心がこもってくるようにも思える。あたたかい情報をたくさん持っていると自分もうれしくなりそうだ。






現実というのは、楽しくイメージしたもの勝ちなのです。
at 2005 01/09 18:22 編集

「THE21」 2005年1月号 斉藤孝の“めざせ!ゼウス”より

筆者は、人間がパワーを得る源は妄想だと断言している。現実をありのままに捉えるのではなく、世の中も自分もわざわざ歪曲し変形してみることでパワーが生まれるらしい。

一例として面白い人を紹介している。ある人はカメラの前や空港のロビーで「気合だー!」と叫んだりすることが出来る。あえて名前は書いていなかったがそれは、アニマル浜口のことだとわかる。たしかに演出かもしれないが魅力的でパワーがあふれているようにも思える。

このようなことは、正しいとか、間違っているとかというレベルを超えている。また好きか嫌いかなどにも左右されていない。そのような人生はつまらないものだ。もし、現実を楽しくイメージできれば、そのほうが正解かもしれない。スケールの大きいギリシャ神話はその教材となるという。

なんだか、自分がいままで小さなことにこだわり過ぎてきたことが思い知らされるようだ。





目標を達成したければ、早く実行して、早く失敗すること。
at 2005 01/08 22:44 編集

「THE21」2005年1月号の特集 “なぜか目標達成する人の習慣”より柳井正氏のことば。

当然これはビジネスに関してのことになる。この失敗も程度もので、致命的な失敗は許されないという条件付のものだ。

評論や分析ばかりしているうちは前には進まない。とにかく実行に移して失敗の中から学んでいくほうが目標に近づける。もし、恐れるなら失敗することを恐れてなにもしないことの方だともいう。失った時間もまた致命的なものになるかも知れない。

トライしなければ失敗はない、しかし目標達成も成功も充実感もないか。確かにちょっとしたことでも自ら進んでチャレンジすれば、人生の中で面白い時間を過ごせそうだ。





アウトレットには不況だからこそ売れるという要素がある。
at 2005 01/07 22:31 編集

「不況でも儲けるコンシェルジュ経営」渡辺美喜男著より

つまりこれは、不況になれば安くていいものを買いたいという気になるからだという。でも、これはバーゲンでいいものを安く買えるときと同じようなものだとも思える。

新年の初売りや福袋を買うために各デパートには早朝から長蛇の列が出来ていた。いいものが安く買えただけでもちょっと嬉しいものだ。庶民にとってはそんなことで幸せ感があるもの。

無理をせず、自分の生活レベルにあった、つまり身の丈ほどの幸せが丁度いいのかもしれないとも考えている。でもそれは、ないものねだりをしてもしょうがないか、というあきらめ感または無気力感にも思えるが・・・




人生の成功と失敗は、ひらめきつまりアイデアを活かすことができるかどうかにかかっている。
at 2005 01/05 21:32 編集

President online 2005年1月17日号より

経済キャスターの西村晃氏がいっていることば。

ちょっといいな、と思えるひらめきがあってもそれを何かに書いておかないとすぐに忘れてしまう。

そこで、この人はそれをメモするためにポストイットを活用している。そのすすめを過去何冊もの本に書いている。

私も使ってみたことはあるが、実に使いにくいものだった。厚みが邪魔になったり、ポケットに入れておくと2つに割れたりしてしまう。また、ノートに貼ってもペラペラとして見にくい。やはり、私にはメモ用紙でよさそうだ。

さて、この人は“人生の成功と失敗”とまで、かなり大きなことを言っているがべつにそこまで考えなくてもやはりひらめいたアイデアを生かすことで仕事もはかどることもあるはず。

でも、そう思えるほど大きなアイデアをを考え付いた人が本当に成功しているんでしょうね。やはりまだまだいいアイデアを出すための修行が足りないかな・・・






やりたいことは絶対にひとりではできません。
at 2005 01/04 06:52 編集

「おしゃべり文化」永六輔著より

永さんは、よくやりたいことがやれていいね、とよく言われるらしい。しかし、彼によれば、そのためには、“やりたいことをさせてくれる仲間”がいなければ絶対不可能だ、と話している。

結局そういう仲間を作るためには、自分もまた仲間に誠心誠意尽くすことが必要なのだ。そうやってはじめてやりたいことが出来るようになる。

これは、身近なところでは家族が考えられる。自分ひとりではやはり生きてはいけない。仕事にも当てはまる。いい仕事はいい仲間がいてはじめて可能になる。メールも一人では出来ないし、ホームページも見てくれる人がいるから続けられる。

やはり、知らないうちに多くの仲間に支えられているということに気づく。これからも、やりたいことをやるためにいい仲間をつくりたいもの。




最後の1%コミュニケーションの代表選手、それがクチコミである。
at 2005 01/03 12:41 編集

「超の方程式」より

間接的なメディアによって情報のほとんどは手に入るようになっている。しかし、最後の1%はクチコミにという強いメディアが支配しているという。

実際の使用者、体験者、つまりユーザーの実感こそがもっとも説得力があるもの。しかも、そのスピードは速い。ケータイやインターネットであっという間にクチコミは広がってしまう。

「実際に使ってみたけれど駄目だった」という一言は、何億円もかけたアド・チャンペーンを吹き飛ばす力をもっているらしい。

たった1%でもそれまでの99%が逆転しまう可能性を秘めている、と考えたらこのアナログなクチコミも決してバカにはできない。

と、ここまで書いてきたら、ふっと企業や個人の信用も同じようなものかな、とも思えてきた。ちょっとした事件が長年にわたって会社が築いてきた信用を落としてしまうこともある。個人的レベルでは「人の口に戸は立てられない」ということを時どき思い出したほうがいいかもしれない。




笑いとは人間に与えられたコミュニケーションの潤滑油なのだ。
at 2005 01/02 14:19 編集

「超の方程式」谷口正和著より

昔から「笑う門には福来る」といわれる。たとえば、それを念頭においておくと、冗談、笑い、ジョーク、ウィットなどで、意外なところから道が開けてきたりするもの。

笑いは決して、不真面目なものではない。アイデアが浮かばないときにはとにかく笑いで一度頭を柔らかくしてみるのもいいかもしれない。

そして、話し合いや会議でも笑い声がないと損をした気にもなってしまう。また、笑いがたくさんあって、和やかなミーティングほど実りがあるに違いない。

笑いは仕事を進める上でのパワーにもなるはず。



過去の日記。2005.1-1

2007年07月24日 | Weblog
どんな健康法も「絶対に効く」と自分で信じなきゃ効果は半減する。
at 2005 01/30 20:56 編集

朝日新聞1月29日土曜版「フジマキに聞け」より

藤巻幸夫氏が言っている言葉。外見から判断すると頑丈で健康そうな人でも実際は体が弱い人はいる。
藤巻氏ご本人もそうらしいが。

たとえば、自分が信じる健康食品を継続することで健康が確認できるなら、かなりラクな健康法ともいえる。

彼は健康の最大の敵は「イライラすること」に尽きるという。当然ストレスは体に悪い。好きなことをしている間は体調が悪くなることは少ないはず。また、体調がイマイチならどんなことも十分楽しめない。

まあ、そこそこ健康でなけりゃ、インターネットも楽しめないか。ところが、パソコンにトラブルが発生したりするとこちらの体調までイマイチになってしまう・・・こともある。








年をとるのは必修科目、老け込むのは選択必修科目である。
at 2005 01/28 07:03 編集

「失敗を恐れない人生術」より

筆者は大学の先生のためか、大学の授業にたとえている。きわめてわかりやすい。年をとるのは避けられないが、老け込むのは自分の意思である程度は左右できる。

ものごとに対する興味を持ち、選択科目をとっていけば顔のしわは防げなくても、心のしわは防げるらしい。

「二十歳だろうと八十歳だろうと、成長しないものは年寄りだ。学び続けている人は若い。大事なことは心を若く保つことだ」というヘンリー・フォードの言葉も紹介している。

昨日お会いした私の知り合いの方は80歳のおばあさまですが、昨年11月には傘寿記念にエベレストに登っていました。別に途中まででもそこに行こうという気持ち自体がお若い。拝見したどの写真にも笑顔があふれれいましたね。なかなか凡人にはまねが出来ないことだな。

身近な年配の人でもファッションに関心がある人は若いですね。

身近にいる元気なお年寄りを手本にするのもいいかもしれない。なにか魅力的に生きる秘訣がわかるかも。






何回やりそこねても、あきらめるまでは失敗ではない。
at 2005 01/27 06:37 編集

「失敗を恐れない人生術」より

本をいったん閉じた後で、そうだその通りだ、とじわじわと心にしみこんでくる言葉の断片がある。それが、上記のフレーズだった。

もし何かちょっとしたことで失敗をやらかしても、“なんちゃってね”などといいながら何度かトライしてうまくいけばもうけものかもしれない。かえって何事もうまくいくことのほうが少ないもの。就職や受験を考えればまさにその通りじゃないかな。

昔から言われるように「失敗は成功の母だ」などどいわれるより分かりやすく感じられる。

すべてのことに通用してしまう便利なフレーズでもあるか。いわば、マスターキーのようなものだ。

でも、失敗そのものを楽しめたら最高かもしれないとも思いましたね。(あきらめの早い私にはね)




好きな仕事をみつければ、労働をしなければならない日なんて一日もない。
at 2005 01/26 21:07 編集

「失敗を恐れない人生術」古郡廷治著より

タイトルのフレーズは英国生まれのジェイムズ・フォックスという俳優が父親から言われた言葉らしい。もともとこの本はひと味違った楽観的人生の法則について語られている。

実際はその好きな仕事を見つけるまでが大変なことなのだ。まず好きな仕事にめぐり合えることは稀だろう。

現実を考えたら、今やっている仕事をいかに好きになれるかくらいなものだ。自分のペースで仕事が出来たときはそこそこの満足感はあるもの。

今の仕事でどれくらい自分らしさを出せるだろうか・・・どんなこと(仕事も含め)もやり始めるのは簡単かもしれないが、やり遂げるってことが困難そうだ。




文学と絵画の交響する空間の創造
at 2005 01/25 06:55 編集

「花のレクイエム」辻邦生著、山本容子銅版画より

これはやはり小説家ならではの表現かな、とちょっと気になりましたね。漢字二字の言葉がいくつも並んでいる。もし、今ふうに言うなら文学と絵画のコラボレーションなんていってしまうかもしれない。それよりずっと重みのある表現になっている。

昨日書店で見つけて買ったものだが、もしこれが短編小説集だけだったら買わなかったはず。もともと植物には関心があったので、手にとってみたがその中に花ごとにちょっと不思議な感じの山本容子の版画がちりばめられているので読んでみる気にもなった。
以前から山本の作品は見る度に不思議な楽しさを感じていた。文庫本での発行は平成15年1月1日となっているが、はじめて出版されたのは平成8年10月だった。

これまで辻の作品を読んできたわけでもないがあとがきによれば、彼は文学と音楽、文学と絵画を組み合わせてその両ジャンルから生まれる独特の効果を楽しむというジャンルを超えた芸術作品を試みてきたという。

たまにはこんな読み物もいいかもしれない。読んだもの観たものが化学変化を起こして新しい物質が自分のなかで生まれる・・・かな。





「努力すれば」なんて野暮じゃないかな。
at 2005 01/24 06:15 編集

朝日新聞朝刊広告(1月23日)より

これは朝日求人というコーナーで「好きな仕事も簡単ではない」というタイトルで立川談志が書いている部分。

落語家を例にとってこんなことを語っている。淀みなく語ったからといってお客を喜ばせたり心をつかむことができるわけではない。落語が好きなこととお客が面白いと感じることはべつものだ。

そこで努力するわけだが、それでも壁にあたってしまう。一生懸命にやっているのに、といったところで、それが何だってことよ、ということになる。本物を追求する人は結果がすべてということなのだろう。

彼自身の言葉では「私の落語だって自分のアイデアを次々と試し、笑いのセンスをぶつけている。努力してるんじゃなくやらずにいられないの。」ということになる。

考えてみれば、無意識のうちにやらずにはいられないという気持ちは、努力をはるかに超えたところにあるものにも思えてきたな。やはり、本物のプロは次元が違うところにいるもんですね。





自信のあることでも他人に相談する。
at 2005 01/22 09:25 編集

「ビジネスマンの葉隠入門」奈良本辰也・高野澄著より

もう、これで十分だと思っていても、ひょっとすると他人に聞けばもっといい意見や方法があるかも知れない。本当にすぐれた人はそれができるらしい。

自己満足しているうちはまだまだなんだろう。並かそれ以下の自分はほとんど自分だけの意見で済ませてしまうことが多い。

プロといわれる人も素人の素朴な意見がけっこう参考になるに違いない。まあ、盲点というようなものかもしれない。

もともと自信のない人ははじめから人に相談してしまうことのほうが多い。でも、それもちょっと・・・どちらかといえば、これが自分に近いかも。う~む・・・




博物館はバイキング料理と同じ・・・
at 2005 01/21 21:38 編集

「今日から奇跡が起きる120の法則」より

そのあとにも、もう少し続いている。「・・・選択肢はいろいろあるが、すべてを食べる必要はないのだ。」

それにしても、博物館とバイキング料理を並べるっていうのもすごい比較だと思える。

別に博物館に限らず、美術館や画廊でも同様なことがいえるだろう。

興味あるお気に入りの作品だけを集中して鑑賞するっていうのも、いいかもしれない。また、反対にいろいろな作品をちょこっとづつ眺めて異なる刺激を受けたり比較したりして味わうのも一つの方法でもあるだろう。

要するにただなんとなく意味もなく鑑賞するだけでは感動も少ないのだろう。いい作品も料理もしっかりと味わいたいもの。そうすれば心や身体の栄養にもなるかな・・・





幸せにとっての敵は、ルーティーンと自己満足だ。
at 2005 01/20 21:19 編集

「今日から奇跡が起こる120の法則」エプスタイン著 渡部昇一訳より

この本を買ったのは5年も前のこと。きっと何かを模索していた頃だったかもしれない。(いまだってそうかもしれないが。)だからこそこんなタイトルの本を買う気になったに違いない。奇跡が起こって欲しいなどと願うのはまっく都合のいい甘い考えだ。まあ、どこまでが奇跡と思えるかは個人差があるだろう。

この本は『今日一日、“自分の人生”の楽しみ方』という書名を改題したものだった。さらに、この原題は“How To Be Happier Day By Dayとなっていた。直訳すれば、「日に日にもっと幸福になる方法」となろう。

つまり、私がちょっと気になった箇所が偶然この本の答えの一つでもあるかなとも思えたのだ。

前置きが長くなったが、著者は人生はビジネスに似ているともいう。 要するに将来性、顧客層、店舗数、販路、商品やサービスなどすべての点でどれか一つでも伸びない点があれば、健全なビジネスとは言えない、と指摘している。幸せも同じようなもので、毎年無難なワンパターンの幸せばかり目指していると人生全体までも幸せから遠ざかるようだ。

幸せをつかむには新しいもの、違うものにも感動して、再活性化を図るのが懸命ということになる。いまはいいとは思っていることも、繰り返しはほどほどにしておかねば。




最もよく仕事を遊べる者が、最もよく仕事が出来る者である。
at 2005 01/19 21:03 編集

「遊び力をつける」より

仕事は仕事、遊びは遊びときっちり分けているうちは限度があるのだ。

つまり、遊びを仕事にしてしまった人、仕事を遊びのように楽しめる人だけが仕事に集中できるという。そして結果としてプロ並みの感性をもつ顧客たちの支持を集められるらしい。

確かにそのとおりで、ただ普通程度に知っているだけでは説得力に欠けるものだ。また伝わってくるものが少ない。好きでやっている人にはかなわないだろう。

たとえそこそこの努力や根性があったところで、「好き」のパワーの代用にはなりはしない。そこで、もっとも仕事を遊んだものが仕事が出来るということになる。

たまに、そんな感覚を味わうこともあるが、その時はけっこういい成果がでるものだ。いつもいつも仕事で遊べたら最高なんですがね。




スポーツが現代の「遊び」系ソフトの代表であることは反論の余地がない。
at 2005 01/18 11:04 編集

「遊び力をつける」谷口正和著より

スポーツががいわゆるソフトの一つであることを忘れていた。実際にスポーツはやれば楽しいが、それをする人より観戦して楽しんでいる人のほうが圧倒的に多い。

エンターテイメントとしてのスポーツを提供することでビジネスになる。だからこそ、楽天もソフトバンクもプロ野球に積極的に新規参入してきたのだろう。テレビ放映権、入場料、関連グッズ、様々な版権使用料など莫大なマネーが動く。

しかし、そのスポーツの発明は100年以上も前のものだった。サッカー、野球、アメリカンフットボール、ゴルフ、テニス、ヨット・・・そのどれもが19世紀の英国で始まったもの。また、陸上、水泳、格闘技の発明は古代ギリシャということになる。

結局、現代人は昔の人が作り上げたものを改良しながら楽しんでいるだけだったのだ。パソコンやソフトがバージョンアップしていくのともちょっと似ていそう・・・




目標には4つの条件がある。対象・程度・期限・方法論。
at 2005 01/17 20:37 編集

PRESIDENT 2005年1.3より

私たちは目標というと、日常生活ではただ漠然と「今年の目標は~~をすることだ」としか思ったりしない。しかし、そんなものは大抵数日か数週間程度しか憶えていられない。本当にそれを実行するためには最低限4つは決めておく必要があることがわかった。

1.対象・・・何を。2.程度・・・どこまで。3.期限・・・いつまで。4.方法論・・・どのように。の4つだ。

いままで、私自身もこの4つが揃っていないのに目標だと思っていた。かなりいい加減だったことにも気づく。なんでも目標を持つってことはいいことには違いない。出来るかどうかは1~4の程度次第ということになるかな。

とりあえず、今年の自分の目標を決めることが目標かも・・・なにを、どこまで、いつまで、どうのように・・・

まあ、小さなことからこつこつといきましょうかね。





人生の価値はどれだけの美しい思い出をもっているかによって測られる。
at 2005 01/15 07:54 編集

「ジョークの哲学」加藤尚武著より

この本自体はジョークのいろいろなタイプというものについて解説したような内容になっている。そのなかで、上のジョークでないフレーズが少し気になったのです。それに関しての思いは人様々に違いない。賛否両論あるだろう。まあそれはともかくとして、次のようなショート・ジョークがあった。

女1「若い頃を思い出すと、無性に腹がたつのよ」

女2「何かあったのね」

女1「何もなかったのよ」

というものだ。あえて、解説の必要はないとは思うが、何もなかった青春の空しさが表現されている。そこで、思い出の価値ってなんだろうって、考えたりしてしまう。

もし、美しいと思えるような思い出があれば得したと思うべきかも知れない。日記のようなものを継続するのはそれを思い出すためにも役に立つかもしれないな。でも、いつまでつづくか・・・

“そういえばあの頃ウェブで日記なんかつけて掲示板に書き込みなんかしていたっけ”、ということ自体が思い出になってしまうかな・・・