ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

自分自信のなかに「やる気の自家発電的回路」を持たないと、意欲が持続しない。

2011年06月30日 | Weblog

「ナポレオンで仕事上達」齋藤孝著より。

まずは小さくてもいいから達成感を味わうことが大事だった。それまでできなかったことができるようになる。距離が伸びる。所要時間が短縮される・・・などでもいいようだ。目標を設定しそれがクリアできることで達成感を味わえる。

その達成感が自発的なやる気を生むということだった。確かにそれは理解できる。仕事の面白味もそんなことの繰り返しから自信につながるのかもしれない。

前日に書いた仕事が好きになるサイクルと似ているが、ここでは次のようになっていた。「やる気→達成感→湧き上がる喜び→さらなるやる気」という回路が出来上がっていくという。

ここで大事なのは「自発的に何かに没頭する」ということだった。人からの命令でやらされ感が強いと、喜びも半減だろうな。ナポレオンはやる気の回路をどんどん拡大させていったようだ。

仕事の限界がないほど仕事に没頭していたらしい。ここから伝説的な名文句「予の辞書に不可能の文字はない」が出来上がったのだろう。好きでやっていることには心身両面にわたって疲れにくいという特徴があるようだ。


多少の体調の悪さは、仕事をすることで直してしまう。

2011年06月29日 | Weblog

「ナポレオンで仕事上達」齋藤孝著より。

筆者の齋藤氏は仕事が好きだと述べている。充実した時間を過ごすほどテンションが上がり、効率も上がるという。いつもこんなふうに仕事ができたら気持ちがいいだろうと思える。

体調が悪くても、仕事に集中しているうちに気がついたらケロリと回復しているというから羨ましい限りだ。普通なら、なんだかんだと理由をつけて仕事をサボりたくなるものだが。

結局仕事が「好き」というのが一番のようだ。好きだからこそどんなことがあってもやり抜けるのだろう。しばしば「好きな仕事が見つからない」「本当にやりたい仕事ができない」という言葉を聞く。

そんな人に対して齋藤氏は「10年早い!好きな仕事を探すより、いまやっている仕事を好きになれ!」と叱咤する。あまり好きな仕事を探すのにこだわっているのもよくないようだ。

「仕事が好き」を技にしてしまうといいという。やっている仕事が好きになる。→勉強する、創意工夫する。→結果も出やすくなる。このサイクルのように行けばいいのだが。


文芸作品に限らず、すべての創作物は受け取り手がいて、初めて作者と作品足りうる。

2011年06月28日 | Weblog

「座右の銘」森村誠一著より。

いかにも作家自らの言葉だと思える。森村氏の経験が述べられていた。かつて、証明シリーズ、十字架シリーズ、『悪魔の飽食』等の作品を書いたものがすべてベストセラーになっていた。

これは異常な経験だと語っている。ところが、現在はオリジナル新刊、新書、文庫等を合わせて年間40~50冊ほど出版しているが、全冊合わせても当時の1冊の発行部数に及ばないという。

森村氏は作品が読者に支持されたというより、一種の社会現象のような感じだったと振り返っている。確かに当時はマスコミにも頻繁に取り上げられ、宣伝効果もすごかったとも思える。

さらに森村氏はデビュー前のことも振り返っていた。作品の山を築いても発表の舞台もなかったのだ。どんな傑作を書いたと本人が自負しても、読者がいなければ何の価値もないと感じていた。

ここでの座右の銘は「ボクサーは連戦連勝している間に弱くなる」というモハメッド・アリの言葉だった。作家も同じだと実感したようだ。うまくいっている間に、初めのようなハングリーな気持ちはいつしか失われてしまうのかもしれないな。


幸福はそのど真ん中にいるとわからない。

2011年06月27日 | Weblog

「座右の銘」森村誠一著より。

ここでの座右の銘は「辛いという字がある。もう少しで幸せになれそうな字である」というものだった。これは兵庫県のある町で募集されたときの一作品だった。

長年生きていれば辛いことも多いものだが、それは人それぞれの境遇にもよるだろう。不公平だと感じることもある。また、いったん辛い目にあって初めてそれまでが幸福だったと気付くことのほうが多いかもしれない。

ここでは「幸い」と「辛い」の文字の比較から来ている言葉だった。一語より短い一画によって、まったく逆の意味になってしまう。ある意味両者は隣接しているともいうが、かなり距離が遠いと感じることもある。

かつて似たタイトルの短い舞台を観劇したことがあった。「棒を一本足すだけで」というものだった。芝居の内容はすっかり忘れてしまったがこの言葉だけは忘れられない。同じく「幸」と「辛」の比較だった。

文字では簡単だが、辛いから抜け出し幸いに転ずるのは、自力だけでは無理なことも多い。とくに今年3月11日の東日本大地震からは、それを強く感じる次第。一日も早い復興を願うばかり。



実りある人生とは、多くの人間と関わり合うことによって達成される。

2011年06月26日 | Weblog
「座右の銘」森村誠一著より。

同じようなタイトルの本は書店ではいくつも目にしたことはあった。しかし、この作家ならどんな言葉を選んでいるのだろうかとちょっと気になった次第。

タイトルに挙げたのは、「まえがき」の部分にあったワンフレーズだった。別に座右の銘として挙げられているものではないが、私にはなるほどと思えた。

この文庫本の帯(腰巻)には次のようにあった。“言葉に救われ、励まされ・・・運命が変わることもある。”と。筆者の表現によればそれらは「重要な人生のキーワード」なのだろう。

それらには、エネルギーがあるはずだというが、それが人間のエネルギーにもなるのだった。当然ながらそれを受け取る側がしっかりと意味を理解できた場合だろうが。

このブログをはじめてからもう6年を経過しているが、その頃の自分の気持ちは、自分を含めて読んだ人にとって、ちょっとでも心のビタミンのようなものになればいいなぁ、などと思っていたものだったが・・・。


「自分の武器」にこだわりをもっているだろうか。

2011年06月25日 | Weblog

『なぜ人は「体育会系」に弱いのか?』内藤 誼人著より。

これは自己暗示のメリットについてだった。武器とはふだん仕事などで使っている道具のことだ。これを使えば最高のパフォーマンスができる、と自己暗示をかけられるものをもっているといいようだ。

たとえば、ハードボイルド作家の北方健三さんは、万年筆にたっぷりとインクを注ぎ込むと、執筆の意欲がメラメラと沸き起こってくるという。人によってはパソコンの使い慣れたソフトがあるかもしれない。

つまりこだわりを持てるような武器を持つことで、実力を水増しできるようだ。暗示の力は強いらしい。ビジネスなら、ノートやペン、バッグ、電卓などだろうか。まあ、使っていてストレスがたまらないものがいいのだろう。

このペンを持っていると必ず商談がうまくいく、というようなものがあればいいのだが。しかし、逆にもしそれがたまたま身近になかったり、失ってしまった場合は、モチベーションが落ちてしまうかなぁ~・・・

また、道具とこだわりといえば、ほかの人が誰も持っていないようなオリジナルグッズを作って使用するというのも面白い。それは直接武器となるかは分からないが、話題性には一役かってくれることは確かだ。


ひらめきというのは、筋肉と同じように訓練によって鍛え上げることが可能・・・

2011年06月24日 | Weblog


『なぜ人は「体育会系」に弱いのか?』内藤 誼人著より。

そう言われると、いったいどうしたらいいのだろうと、ちょっと気になるもの。スポーツもビジネスも一瞬のひらめきがポイントになることがある。

優秀な経営者はカンが冴えているいる人が多いという。それは直観力ともいえるようだ。へ理屈、理由よりもインスピレーションがいいほうへ導いてくれるということだろう。

さて、それを鍛える方法について、テキサス大学のエイガー教授が推薦する項目があった。1、冗談を言うクセをつける。2、いつでも身体をリラックスできるようにする。3、音楽を聴くようにする。4、自分で自分に話しかけるようにする。5、自由な発想で考える訓練をする。6、好きなことに集中する。7、ほかの人とおしゃべりするようにする。などだった。

まあ、考えてみれば心も身体も緊張している状態のときでは、何もひらめくはずはないか。そういえば、最近いい汗流してないなぁ~・・・

頭を使うより、身体を使う人のほうが、前向きな気持ちになりやすい・・・

2011年06月23日 | Weblog

『なぜ人は「体育会系」に弱いのか?』内藤 誼人著より。

ここに面白いエピソードがあった。カミナリが電気だという第一発見者についてだった。たいていの人はフランクリンをあげるが、彼より3年早くパルバレットという医者が理論的に解明していたという。

筆者によると、1749年、フランスアカデミーが「電気とカミナリは類似性はあるか」という懸賞問題を出したとき、バルバレットが理論的な証明をしたという。フランクリンの確認は1752年だった。

ところが、フランクリンのほうが有名になったのは、頭で考えるだけでなく、実際に凧を飛ばして「実験」によってそれを確かめたからだった。これは行動することが、いかに記憶に残るかということでもあった。

まったく異なることだが、何か提出物があったとして、早めに行動を起して期限より早めに出した人のほうが、ギリギリに持ってくる人より印象はいいことは確かだろう。自信があるからこそ、すぐに取りかかれるともいえそうだが。


プロで生き残る条件として、「頭の良さ」がある。

2011年06月22日 | Weblog

『なぜ人は「体育会系」に弱いのか?』内藤 誼人著より。

これはスポーツジャーナリストの二宮清純さんが言ってることだった。学歴とは関係なく、ちゃんと頭で考えているかどうかが、競争の激しいプロスポーツで生き残る資質だったのだ。

長年にわたって自分のポジションを確保できるということは、たんに技術が優れているだけでなく頭がよくなければダメらしい。4番を打ち続けられる人は、投手のクセ配球を読むのが優れているからでもあるだろう。

野村元監督は、その辺が実に優れていたからこそ、監督として何度も活躍できたのだろう。こうだからこうなると、しっかりと理論的に説明されたら、選手は納得するしかないだろうな。

頭の良さとは、どうすると物事がうまくいくのか、どうするとうまくいかないのか、を正しく見抜くことのできる能力、と内藤氏は説明している。前提として現状をしっかりと把握できることだろう。

会社で決められたルールや範囲内の仕事だけやっていても、必ずしもいい結果がでるとは限らないもの。個人的な経験からは、むしろ自分独自で考え出したノウハウこそが仕事を面白くし、成果にもつながることも多い・・・な。(頭は悪いですが)


感情の切り替えのはやい人は、毎日を楽しく暮らせる・・・

2011年06月21日 | Weblog
『なぜ人は「体育会系」に弱いのか?』内藤 誼人著より。

たしかにこれがうまく出来る人はいるのだろう。心理学では心の中のモヤモヤやイライラにうまく対処することを「感情マネジメント」と呼んでいるという。感情をコントロールできる人は強い人ともいえそうだ。

イヤなことがあっても、すぐに気持ちを切り替えられればいいのだろうが、これも訓練だろうか。失敗は誰にでもあるが、あまり考えすぎてもその後がうまくいかなくなってしまう。

エジソンは白熱電球を完成するまでに、1万回も失敗していた。100回の失敗でもわずかに1%に過ぎない。失敗するのが当たり前だとおもえばどうということはないのだろう。エジソンは失敗したと感じるよりもむしろ“この方法ではダメだということがわかったのだ”と考えていたのだろう。

筆者は、ガンガン失敗して、失敗に慣れてしまおうとまで言っている。これが失敗を恐れなくなり、気落ちしてもすぐに立ち直れるコツだという。


平凡の中にドラマを自発的に求めるのが覚悟というもの。

2011年06月20日 | Weblog

「老いる覚悟」森村誠一著より。

この本の最後、“むすびの言葉”の部分で、出てきた言葉が「老いる覚悟」というもののようだ。そして覚悟なき人生は、時間に流されているということだった。

たしかに何も考えなくても時間はどんどん流され空費されていってしまう。そこで、それを捉えるために、昨日とは異なる今日を過ごすという心構えが必要なのだ。

平凡ななかにも、そんな覚悟が人生に活気と彩りを与えてくれるようだ。人間は生きている限り、常に途上だということでもあった。だからこそ可能性の狩人を意識すべきなのだった。

青春は未知数が多いが、歳をとるにしたがって、未知数が減ってしまう。しかし、それでも未来の予測は不可能だ。最後に、筆者の俳句があった。「霧立つや昨日を拒む今朝があり」、これが老いに対する覚悟なのだろう。


成果主義の会社が必ずしも景気がいいとは限らない。

2011年06月19日 | Weblog

「老いる覚悟」森村誠一著より。

森村氏の主張は、日本のデフレは、成果主義で市場が冷え切ってしまったのが原因だという。どんな大会社でも、永遠に安定経営ができるとは言えない。先行きは不透明な時代だ。

ここでの小タイトルは、“日本はいつからゆとりのない会社や組織が増えたのか”だった。それは機械文明が発展してからのようだった。何でも効率が優先されて、成果主義が中心になってしまったからだろう。

少し前までは、人材として扱われていた社員が、組織を構成するネジになってしまっていると表現されていた。それまでは歯車の一つともいわれた。歯車は一つ欠けても動かなくなるが、ネジは一本や二本欠けても動くという意味だ。

それらは結局機械全体にはほとんど影響しない。ネジはいつでもすげ替えられるということでもあった。実に厳しい表現でもあるが、これが現実なのだろう。会社は利益追求、効率中心、もう体温と余裕のあった時代には戻らない。

中国は成果主義が中心が支配する社会になっているようだ。どんな努力をしたかなどは関係がない、何ができたかだけが評価される。貧富の格差はますます拡大していく。森村氏は日本はいま成果主義の再検証をするべきと語っていた。もっとも、それを考える(再検証する)余裕すらもないかぁ・・・


中途半端にしか遊べない人は、中途半端にしか仕事ができない。

2011年06月18日 | Weblog

『なぜ人は「体育会系」に弱いのか?』内藤 誼人著より。

一流の仕事人は、遊ぶときには、がっちりと遊ぶのだという。本田宗一郎さんは「俺は思いっきり遊ぶために、仕事をしているんだよ」と言ったそうだ。つまり、「よく遊べ、よく学べ」というのと似ている。

また国民栄誉賞を受賞するほどの王貞治さんも、若い頃は夜遊びが好きで門限破りの常連だったという。思いっきり遊ぶからこそ、思いっきり練習もし、立派な結果を残してる。

遊ぶほど、余計に仕事で結果を出さねばという気持ちになるのかもしれない。かつて、夜遅くまで飲んだ翌日ほど、たとえ出勤がつらく感じても朝早く出勤するのだというような話をきいたことがある。

遊びすぎたという罪悪感を打ち消すために仕事に励むというのも、仕事をするうえでのエネルギーになればいいのだろう。ある意味適度にサボリながら、休憩をとるようにするとその後の能率が上がることも実感できる。


「狂の境地になって、初めて良質の仕事ができる」

2011年06月17日 | Weblog
『なぜ人は「体育会系」に弱いのか?』内藤 誼人著より。

京セラの創業者、稲盛和夫さんは上記のフレーズの言葉を残している。仕事を成功させるためには、夢の中でさえ仕事をする気持ちでやらないとダメなようだ。もちろんこれは前向きに仕事を考えてのことだ。

筆者は「仕事を楽しめ」とはよく言われるが、それだけではまだ不十分で「仕事を愛せ」なのだという。寝ても覚めても仕事のことが思い浮かぶようになるのが理想だそうだ。

ここに一つのエピソードがあった。昭和時代のプロ野球のヒーローだった長嶋茂雄さんは、昭和34年6月25日の天覧試合の前夜、バットを枕元において寝たという。翌日の試合が楽しみだったのだ。つまり野球を愛してした証拠でもありそうだ。

どこまでも納得できるまで仕事をやめない、というくらいの気持ちがもてるかどうかが成功へのカギのようだ。秀吉が信長の草履取りだった頃、日本一の草履取りを目指した結果、出世の足がかりになっている。まあ、やらされ感が強いうちは本当にいい仕事はできないかも・・・


過去にばかり想いを馳せる人は、心身ともに老けていく。

2011年06月16日 | Weblog

「老いる覚悟」森村誠一著より。

確かに過ぎ去った過去を思い出しても、新しい経験は得られない。むしろそうしている間に老化のスピードは増していくのだろう。若さを保とうと思えば、新しい経験をすることのほうが大事だった。

森村氏は、「老いても未知の狩人ー“無限の可能性の狩人”でありたい」、と述べている。これが森村氏の覚悟なのだ。自分から新しい経験を求めることによって、無限の可能性があるということのようだ。自分の可能性に対して狩りをするというのは、実に面白い表現でもあるな。

ここで、一つ面白いエピソードがあった。かなり前に活躍していた、名古屋の百歳の双子姉妹、きんさんぎんさんのことだった。あるとき、二人がマスコミに取り上げられてから、急に若返ったという。

それは可能性に気がついたからだったようだ。二人のユーモラスな会話や元気だった姿が思いだされる。たとえ体力は衰えても、可能性を求めている限りは、、心までは老けこまないということだった。

現在99歳で今年の秋に100歳になる日野原重明先生は、実に知的なエッセイを毎週朝日新聞の土曜版に書き続けている。文面からはまったく年齢を感じさせない。まだまだスケジュールは詰まっているようだ。驚くばかり!