ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

「夫にとって、妻の上機嫌ほど慰めになるものはない・・・」

2009年09月30日 | Weblog
「R25」2009.9.24号より。

この号は特別号で「ケッコン特集」だった。こんな特集は秋のブライダルシーズンに突入したからだろうか。そして、上記のフレーズは詩人の谷川俊太郎の「愛のパンセ」という本からの一部分だった。ここには8人のケッコン金言集があったが、そのなかの一つがこれだった。

この部分は次のようになっていた。「夫にとって、妻の上機嫌ほど慰めになるものはないのである。日常の下らない冗談は、ひとつの思想におとらず人を生かす支えになる」と。この名文句を残したのは何と26歳の時だったというからちょっと驚きだ。

家庭の中では相手が上機嫌であれば、確かにほっとすることが多い。妻にとっても夫が上機嫌であれば、やはり慰められることであろう。日常の下らない冗談はむしろ私のほうがほとんどだが。

これはとくにケッコンとは関係ないが、「笑いのない日は無駄な一日だ」というチャップリンの名言も思い出したな。不機嫌な言葉を発するのは簡単だが、明るさを維持するにはかなりの努力が必要かも・・・

「世の中のブーム」は「インターネット→雑誌→テレビ」という順番で広がっていく・・・

2009年09月29日 | Weblog
「アスパラ NEXT-AGE」2009.秋号より。

これは予備校のカリスマ講師といわれる細野真宏の「マネー思考力」養成講座のなかのワンフレーズだった。まず、ある情報がインターネットで広がると、その盛り上がりを受けて雑誌が記事にする。さらにその後テレビが特集を組むという流れらしい。

そう言われてみれば、ネットの情報スピードはテレビよりもかなり早い。ネットで大きく話題になったホームページやブログの情報はしばしば雑誌やフリーペーパーの記事になっている。その評判を元にテレビで特集すれば当然ながら関心がある人が多いに違いない。

インターネット書店のアマゾンでは1時間ごとにベストセラーランキングが更新されている。やはりここでのランキング上位に長期間とどまっているという情報は、雑誌の記事にもなりやすいことだろう。またその企画を特集してテレビ放映してもそこそこの視聴率は稼げるのだろうな。

最近ではブームの発端はインターネットからスタートしているんだなぁ。かつて“ブログの女王”などと呼ばれた何人かのタレントたちは、その後もずっとそんな肩書がつきまとっているようでもあるな。一旦上がった知名度は強い。これもネットの力とも言えそうだな。

予防医学は、日本では戦後、学校教育の体育という形で取り入れられた・・・

2009年09月28日 | Weblog
「訊く」中島らも著より。

らもさんが対談している相手は気功の達人といわれる李さんという人で、この人の言ったことが上記フレーズだった。学生時代、体育は単に教科の一つとしてのイメージしかなかったが、予防医学とはちょっと意外だった。

これが体育の本筋だったのだ。そして、ラジオ体操はもともとアメリカの保険会社が広めたそうだ。というのも、会社にとっては保険に入ってもらっても、すぐに病気になられたら困るからだった。つまり保険料を支払わなねばならなくなってしまうということだろう。

しかし、ラジオ体操を始めたら、病気になる人が減って、保険会社は儲かるようになったという。本当だろうか。ウソのようでもあるが、私自身ラジオ体操を継続していると意外にも仕事を休むような病気にはなっていないことにも気づく・・・

別に毎日休みなしにきっちりラジオ体操をしているわけではないが、朝起きてから体を動かさないとなんとなくもの足りなくなっている。ここには、「健康の基本は日常生活と心の持ちようだ」とあったが、体によさそうな何かを継続しているという気持ちも意外に大事かもしれないなぁ~。

業界には「困ったときの梶頼み」という言葉がある。

2009年09月27日 | Weblog
「英雄の死」山口瞳著より。

もうこの言葉は過去のことなので、正確には「・・・という言葉があった」となるだろう。梶とは梶山季之のことで、筆者の山口氏もすでに過去の人となってしまった。この一冊を読んで二人の作家は実に長年にわたって仲が良かったことがわかる。山口氏は親友というよりもむしろ心友だと呼んでいた。

梶山季之が亡くなったのはもう30年以上前のことで、私が氏の企業スパイ小説を読んだのはもう30年ほど前になる。亡くなった時は45歳だったから、まだかなり若かったことにも気づかされる。当時はすごい流行作家で売れまくっていた印象がある。(現在40代以下の人たちには山口瞳も梶山季之も馴染みがないだろうが。)

ある雑誌の柱になる人気作家が急病で二百五十枚ぐらいの穴があきそうになったときがあるらしい。すると困った編集者は梶山氏のところに執筆依頼に行ったのだ。そんなときわずか2、3日で二百五十枚の小説を書いてしまうのが梶山李之だった。

急場を救えるのはすごいことだ。文章は当然ながら粗雑だったらしいが、内容は面白かったという。そして評判になって雑誌は売り切れてしまったようだ。それだけのエネルギーをもった作家だったということだろう。今でもそんな作家はいるのだろうか。

参考までに、ウィキペディアには、“十数年の作家活動であったが作品数は多く、死後も人気は衰えずに12年後までに120冊の文庫が出版され、1300万部の売り上げをあげた。サービス精神の旺盛な作家という評に加え、編集者や周囲の人々への気配りについてもしばしば語られている。”ともあった。

親が朝から晩までテレビをつけっぱなしにしている家庭・・・

2009年09月26日 | Weblog
「壊れる日本人」柳田邦男著より。

こんな家庭では乳幼児の心の発達にゆがみが生じてきていることがわかってきたという。これは日本小児科学会での実態調査の結果だった。

どんな内容だったかといえば、乳幼児から長時間テレビを見ていた子どもには、言葉の発達がおそく、表情も乏しかったという。さらに親と視線を合わせず、いっときもじっとしていないで、人とうまく関われない子が目立って多くなっているなどだった。

それが、子どもにテレビを見せなくしたところ、これらの傾向が改善されたという報告もなされていたのだ。日本より5年前には、アメリカの小児科学会では、「二歳未満の子どもにはテレビを見せるな」という勧告を発表していた。同様の理由からであろう。

筆者は、「ノーケータイデー」「ノーゲームデー」「ノーインターネットデー」「ノー電子メディアデー」などを提案していた。電子メディアとは、テレビ、ビデオ、ゲーム、ケータイ、パソコン、ネットなどの総称だという。

もし、そんな日を自主的にでも設けたら時間がかなりゆっくり過ごせそうな気もしてくる。「異常なこと」がことごとく「普通」になってしまっていると筆者は指摘している。便利さ一時の楽しさの反面失っているものもあることにも気付かねばな。

「事件にならないと動けない」という姿勢・・・

2009年09月25日 | Weblog
「壊れる日本人」柳田邦男著より。

この章のタイトルは「水をかけない消防士」となっていた。これは作家の井上さひさしさんが柳田さんに話をしたことだった。井上さんの自宅がボヤになったとき、119番に通報すると消防車が到着したのだった。ところが隊長らしい人物からは「もう少し火が大きくならないと、放水するわけにはいきません」と言われ、二の句がつげなかったという。

一定の規準以上に燃えていないと、放水はしないという決まりがあるようだった。結局、くすぶっている火に自分たちで水をかけて、ようやく鎮火させたという。確かに、放水によって水の被害が大きくなることも考えられる。しかし、そんなことを言う前に、率先して何らかの方法で鎮火に努めるべきだろうな。その後の説明なら納得できそうな気もするが。

しかし、実際には殺人事件の現場でも似たようなことが起きている。子どもが行方不明になったのでその捜査の依頼を両親がしたところ、「事件にならないと動けない」と警察は言って対応しなかったのだ。その間疑わしかった不良グループに監禁され殺害されていた、という事件が実際に起きていたのだった。

実際に被害にあってそれが確認されなければ動けないというのは、庶民からするとまったく納得できない。警察はむしろ事件が起きないように、捜査するのが務めなのではないだろうか。ちゃんと始めから捜査していれば、今までも未然に防げたかもしれない事件だってかなりあったに違いない。こんなマニュアルにばかり縛られていたら、本当の安心や平和はいつまでたってもやってこないだろうな。

総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない。

2009年09月24日 | Weblog
「壊れる日本人」柳田邦男著より。

今の小中学生のほとんどは生まれたときから、インターネットやケータイが当たり前に家にあったのではないだろうか。だからたとえば、「文通」という意味もわからないかもしれないな。

ケータイは確かにスピードという面では便利ではあるが、別の面ではじっくり考えて結論を出すということを忘れさせていたのかもしれない。ケータイのメールも国内外にかかわらずすぐに届いてしまう。かつての文通という言葉は死語になってしまったかもしれない。

高校生の頃には海外の学生の方たちと文通をしたことがあるが、じっくり考えて書いていた覚えがある。そして数週間後の返信も待ち遠しかったもの。相手の個性的な筆跡、インクや便箋の色、お国柄の封筒や切手など、一通のエアメールにもいろいろな楽しみがあったものだ。

手紙の文字もいったん書いては消したり、訂正されたりしている部分を見れば、じっくり考えながら書かれたものだと感じたものだった。デジタルの文字と違ってクセや個性がリアルに感じられるところも嬉しかった。

今の時代は若者に限らず、総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わないのだろう。むしろケータイやネットを使わない人のほうが変人と思われるかも。まあこんな麻薬中毒的なケータイとは全く別世界の、古き良き一時代を過ごせてよかった・・・かも。

麻薬中毒的なケータイ依存症。

2009年09月23日 | Weblog
「壊れる日本人」柳田邦男著より。

つまりケータイなしではほとんど生きられないくらいな状態を指すのだろう。いったんこの便利さを味わってしまうと、それがなくなると実に不便に感じるという意味では、いま使用している誰もがケータイ中毒になっているのかもしれない。

ある大学では夏季に短期留学制度で学生をアメリカの大学に行かせていた。ところがその大学ではケータイ電話の使用が禁じられていたという。すると学生たちは、いつも何かが満たされないでいるような、不思議な不安定感にとらわれたらしい。

なかには気持ちが落ち着かなくて、日が経つうちに、焦燥感さえいだくようになった学生もいたらしい。そして、ケータイがない生活に慣れるまでに二週間もかかったという。周りのみんなが同様に使わなければ、ある程度安心感もあるのだろうか。

また同時に重要な変化が起きたのだった。学生たちはケータイが使えないので、だんだんと物事を自分でゆっくりと考えるようになってきたのだった。きっとそれまでは、わずかな不安でも自分で深く考えることもなしに、ケータイで誰かに相談して結論を求めていたのだろう。

そうそう、この本のサブタイトルは“ケータイ・ネット依存症への告別”となっていた。時にはそれら(ケータイやネット)を忘れることで、なにか新しい気分になれるかも。

中途半端なバカには誰も感動もしてくれなければ、金も出してくれない・・・

2009年09月22日 | Weblog
「R25」2009.9.17号より。

「“極み”を極めた男たち」と題して、You Tubeのリンクが紹介されていた。「ヨーヨーで世界を極めろ!」では、今年8月に行われた世界ヨーヨー選手権の映像が紹介されていた。

その冒頭は「何かを極めた」ことってありますか?と始まっていた。どんなにくだらないことでもいいらしい。バカといわれるほど極めたものなどまったくなかった。もちろんどんなこととはいっても犯罪や道徳的に問題があることは論外だろう。

まあ、趣味や仕事あるいは日常生活の世界で、ということになろうか。この世界ヨーヨー選手権では、全7部門すべてで日本人が優勝という、とんでもない“事件”が起こったらしい。さっそくYouTubeで検索してみた。スゴイ!

これはアートなのかスポーツなのか、まるでそれらが融合しているかのようにも見える。とてつもないスピードとテク二ックが繰り広げらる。こんなパフォーマンスがあるなんてまったく知らなかった!

2つのヨーヨーを操る(ダブルハンドスプリング)木村健太郎選手の技は、あまりにも早くて見えないほどだ。あんな複雑な動きをして、いったいどうして糸がこんがらがらないのだろう?実に不思議だ。世界のトップレベルは違う!

映像はYouTubeで「キムラケンタロウ 3A」と検索してみた。その他の優勝した選手も見られました。http://www.youtube.com/watch?v=AlEydUdhMX8

自分のいいところは思い浮かぶけど、才能とまで言えるかなぁ・・・

2009年09月21日 | Weblog
「メトロポリターナ」2009.9月号より。

ここに興味深いアンケートとその結果があった。「あなたは、“才能がある”と思える事柄を持っていますか?」というものだった。「もっている」と答えた人は10.9%、「得意なことはあるが、才能とまでは言えない」が55.1%、「もっていない」は34%という結果だった。

これはウェブによるアンケートで対象は働く女性20~39歳、7098名の調査結果だった。約1割が才能をもっていると考えていて、そのうち7割以上が仕事にいかしていると回答していた。やはり自信があれば、それを仕事に活かすこともできるのだとわかる。そんな人は仕事をやりがいをもってやっていることだろう。

またアンケート結果では「才能とまでは思えない/もっていない」という人は9割だが、そのうち7割の人が才能を見つけたいと思っているようだ。ただし、そのためにどう行動したらいいかが分からないらしい。

つまり具体的に考え行動することが難しいのだろう。たとえ特別な才能が見つからなくても、そこそこ仕事にやりがいをもてればいいとは思うのだが・・・。ほとんどの場合は、多少の不満はあっても、今のままの生活で我慢するほうが多いかも。

以上は働く女性へのアンケートだったが、働くオジサンだって同じようなものではないだろうか。ただし、年をとるほど努力をするのが億劫になりがちだったり。(これは自分のことだが・・・)

「なくならないものより、なくなって見つかったもののほうがもっと喜びを与えてくれる」

2009年09月20日 | Weblog
「メトロポリターナ」2009.9月号より。

“ひとりもいい。”(文・八坂裕子)というエッセイのなかで目にしたフレーズだった。「・・・なくなって見つかったもののほうがもっと喜びを与えてくれる」とあったが、これはアイルランド生まれの作家、アイリス・マードックが『鐘』という作品の中で書いていたワンセンテンスだった。

ここでの筆者の八坂さんは、あるときオペラを観て家に帰ったら、大好きな毛糸の帽子を忘れてしまったことに気づいたのだった。そして、翌朝、ホールに電話をしたところ幸い見つかったので、着払いの宅急便で送ってもらったという。

ところが、その二年後今度はパリから帰ったあとで、ホテルの椅子に置き忘れたことに気がついたらしい。しかし、今度はもう連絡はとらなかったという。それはその帽子が逃亡をしたのだと考えて諦めたのだった。このうようにモノを擬人化して考えるというのも面白い。

愛着のあるものを落としたり、忘れ物をしたりするとくやしいものだ。またそれが再び自分の手元に戻った時は喜びも大きい。いくら注意をしていても、ふとした時に忘れ物をしてしまうことはある。そんな時は金額の大小よりも思い込みの大きさだと実感するもの。

かつて、電車の中でお気に入りだった使いやすいタイピンを落としてしまった時は、しばらくもったいないことをしたと悔やまれたものだった・・・な。

やたらと三連休が増えたのは、一見すると良いことのように見えるが・・・

2009年09月19日 | Weblog
「帰宅の時代」林望著より。

なんだか知らないうちに、三連休どころか、(初夏のゴールデンウィークとは別に)今日からシルバーウィークなどという名前でこの五連休が始まってしまった。

確かに旅行会社などはこの間、事前に予約はかなり増えているようだ。近畿日本ツーリストの広報によれば、海外旅行は45%増、国内は10%増だという。それはそうだろう、秋にこんな五連休は初めてだからだ。前年になかった需要が増えることはわかる。

べつに連休が増えたからといって、全国民がその恩恵にあずかるというわけでもないだろう。シルバーウィークに予定を立てている人割合は次の内容だった。1、買い物8.3%。2、宿泊を伴う国内旅行7.3%。3、お墓参り5.8%だった。かなり地味なものだ。

場合によっては、仕事がやりにくくなる人たちだっているだろう。むしろ何の予定もない人の方が多いかもしれないな。また一般の人たちが病院、医者に行きたくても行けなくなったり。郵便局、金融機関への入金手続きがしにくくなったりということもある。役所も学校も一斉に休みに入ってしまう。

ビジネス、サービスがストップしてしまうと、不便なことも増えてくる。本当に国民が望んで増やしてもらった連休ではないような気もしてくる。一斉にどっと休みとなると行楽地だって集中し混雑するだろう。

むしろゆっくりと休んだ気になるのは、ウィークデーに有給休暇で休んだ時ではないだろうか。有給休暇の取得を義務化して、休みたい平日に休んだほうがいろいろと有効活用できそうな気もするな。

時どき平日に休むことはあるが、そのほうがやりたいことをスムーズに済ますことが出来てありがたい。まあ、“毎日が日曜日”の生活になればそんなことは関係ないだろうが。

(※ シルバーウィークの過ごし方の一部の数字(%)などは今週の「R25」の記事を参考にしました。)

そもそも大学で国文科に進んだんのは、高校生のときに国語が嫌いだったからかもしれない・・・

2009年09月18日 | Weblog
「帰宅の時代」林望著より。

これを読んでおやっと思ってしまう。実に奇妙なフレーズでもあった。林氏は文学そのものが嫌いだというわけではなった。「国語の授業」がどうも不愉快で仕方がなかったらしい。

国語の教育体系や教師に問題があるに違いないと思っていたようだ。それならば、ひとつ自分が国語の教師になってやったほうが、むしろ面白い授業ができると考えていたのだ。

しかも、高校を卒業するとき、ホームルームで将来の目標を述べたとき「国語の教師になって母校に戻ってきます」と宣言したのを覚えていたのだ。それだけ思い込みが強かったということだろう。

その後、母校には戻らなかったものの、国語の教師にはなっていた。しかも古典文学一筋だった。いろいろな経過をたどって高校、短大、大学(芸大)で古典を教えてきていた。

たとえ動機はどうであれ、国語が嫌いだから国文科に入りちゃんと国語の教師になったという初志貫徹はすごいものがあると感じた次第。氏はまた次のようにも語っていた。

「国文学の世界で身につけた基本的なノウハウは、国文学でしか使えないわけではない」と。つまり、一人前の国文学者になりたい一心で勉強したことは「勉強方法の勉強」にもなったという。それはまた実に深い言葉でもあるな。

料理というのは頭を使えば使うほど面白くなるし、ためにもなる知的な行為・・・

2009年09月17日 | Weblog
「帰宅の時代」林望著より。

林氏は料理が趣味のようだ。夜中に食べ物をいろいろと工夫して作っているらしい。それを見て奥さんは「忙しいのによくやるわね」とあきれ半分感心半分だという。しかし氏にとってはそれは研究で楽しくてやめられないようだ。

仕事以外でも、そこまでのめり込めるものがあるのはすごいとも思える。さらにこれは実用的な趣味ともいえる。安い食材を探すというばかりではなく、どうやって無駄をなくす工夫をするかと考えれば合理的になる。そうなれば、当然頭も使うことになるだろう。

どこどこの素材に限る、などとこだわるのではなく、むしろありふれたものでも、自分の知恵と腕で勝負するのが醍醐味らしい。お金を出せば買える贅沢ではなく、独自の知恵と知識と工夫で料理を楽しむというところがポイントになっている。

さて、振り返ってみれば、これは料理だけに限らないかもしれない。“知恵と知識と工夫”なら日常生活のあらゆるところに生かすべきだろう。意識するからこそ見えてくるもの、気づくものがある。

また仕事をする際にもそんなことを念頭に置けば、味気ない仕事にも面白さを見いだせるに違いない。アイデアはいきなり浮かんでくるというものというより、むしろちょっとした工夫の積み重ねから生まれてくるものだろうな。

「世話を焼かナイジョの功」

2009年09月16日 | Weblog
「帰宅の時代」林望著より。

面白い表現なので取り上げてみた次第。要するに奥さんが夫に対して余計な世話を焼かない、それが林氏には内助の功だという意味だった。

着るものに関しては奥さんはまったくノータッチで、すべて自分で選んで買い、好きなようにコーディネートして着ている。まあ、それはうちでも同じことだが。

出張のときも、すべて自分で用意をするなど、お互いに自由にして手出しをしないというのが気持ちがよいものらしい。それは理解できる。洗濯ものなども一切奥さんは手出しをしないのだろうか。

料理は前日も書いたとおり、ご主人(林氏)の役目だった。つまり奥さんが必然的に食事の世話を焼かないことが、内助の功になっているのだった。でも、これを勧められたからといって、すぐに実行できる人は稀だろう。

すべてうまくいくには、コミュニケーションが十分にとれていることが最低条件だろうなぁ~。うちではとても無理だな。私は全く家事(特に料理など)はできないし・・・。せいぜい時どきする寝室の掃除と庭の樹木の枝切り程度かな。