ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

プレゼントを贈り合うという30分間のゲーム。

2009年01月31日 | Weblog
「ギンザニア」2009.冬号より。

この雑誌は地下鉄の駅に置かれている銀座の店を特集したフリーマガジンだった。ぱらぱらと捲っていくと上記のようなフレーズが目に入った。

ここには、結婚5年目になるある夫妻によるゲームのことが書かれていた。二人とも銀座界隈に仕事を持っていて、月に一度ある店の前で待ち合わせて(夜の8時30分)、閉店までの30分間でお互いにプレゼントを買うというものだった。

その時間内でいかに相手を驚かせ喜ばせられるものを買えるかという一種のゲームになっていたのだ。予算はあらかじめ決めてあるのだろう。ある時はお互いに偶然にもルームシューズを贈り合った時もあったそうだ。

しかし、むしろそんな時ばかりではないようだ。いずれにしても相手の立場に立って相手が欲しいものを考えることが重要だったのだ。またゲームを面白くしているのが30分という限定時間でもあるだろう。

ここには次のようなサブタイトルもあった。「プレゼントという武器を手に、夫婦間の絆を深める攻防が繰り広げられる」と。こんなゲームなら別に夫婦でなくても親しい仲間がいればすぐにでも始められそうだ・・・な。

たとえば、食べるもの(例、スイーツ、くだもの、インスタント食品)とか文房具、家庭用品、本・雑誌コンサートやライブのチケットなどの“限定”をつけるのもまたちょっと面白いかも、と思ったり。

一日の始めに、頭に血を送りこんでくれるのが天声人語・・・

2009年01月29日 | Weblog
「朝日新聞」2009.1.25付けより。

この日は“朝日新聞の創刊130周年記念特集”としていろいろな人の言葉が掲載されていた。上記は鈴木敏夫さん(スタジオジブリのプロデューサー)の言葉だった。

朝刊は一面から開いていって、最初は天声人語を読むという。読むときに頭を使うから目が覚めるという。ある日は3回も読むらしい。時にはそれらが映画のヒントになるのだろう。

大学時代から約40年にわたって朝日新聞を購読しているという。また東京中日スポーツは創刊時から愛読してたのは、生まれが名古屋で中日ドラゴンズファンだからとのこと。そういえば、かつて私の兄も中日ファンで、よく東京中日スポーツを読んでいたっけ。

別に新聞はどこであろうと、一面にはコラムの記事が掲載されている。それらはいつも実にタイムリーに新鮮な話題を教えてくれる。確かに名文に出会った時には目が覚める思いがする・・・な。できれば朝には明るい記事を読みたいもの。

一日の始め、私の頭に血を送りこんでくれるのは朝のラジオ体操とこのブログかもしれないな・・・(もちろん時間の余裕がある時だけだが)

男性でも10代や20代からは「缶コーヒーはオヤジくさい」と見られて、・・・

2009年01月28日 | Weblog
「朝日新聞」土曜版2009.1.24付けより。

これは「缶コーヒーの熱い戦い」と題した各飲料メーカーのマーケティングの一部についてのレポートの中で目にしたフレーズだった。

それにしても、缶コーヒーを飲むのことは若者からは本当にオヤジくさいと見られているのだろうか。私のようなオヤジからは若者でも同年代の人でも飲んでいるのを見ても何とも思わないが。メーカーの調査によると、缶コーヒーの愛飲者の中心は40代の男性らしい。男女比は8:2や7:3でやはり圧倒的に男性が多かった。

約3年前から、健康志向に応じた「微糖(ゼロ)」といわれる商品が増えているようだ。確かに私も缶コーヒーを自販機で買う時は、缶に書かれてある砂糖の分量などを気にするようになっている。

とはいっても、たまには砂糖もミルクも入ったスタンダードも飲みたい時もあるが。かつてはこのスタンダードが80%だったようだが、今では50%に下がっているようだ。

缶コーヒーは主に4つに分類されていた。1、微糖・ゼロ・・糖類控えめ。2、ブラック・・無糖のもの。3、スタンダード・・砂糖・ミルク入り。4、カフェオレ・・乳性分の多いタイプ。

そして自販機での売り上げが7割を占めていた。その自販機も基準は120円だろうが、場所や機械によっては130円、110円、100円もあった。また、メーカーの上位5社(日本コカコーラ、サントリー、ダイドードリンコ、アサヒ飲料、キリンビバレッジ)で83.4%を占めていた。

いくらオヤジくさいと思われたって、夏でも冬でも近所に自販機があればついつい飲んでしまいますねぇ。

ぱっと見てユーザーが「使いやすいな」「きれいだな」と思うことが重要・・・

2009年01月27日 | Weblog
ウェブサイトの「百式」2009.1.19付けより。

つまりこれはデザインについてのことだった。もう何日も前に目にしたホームページの記事だったが、忘れないうちに残しておこうと思った次第。デザインに関する名言ばかりが紹介されているサイトがあったのだ。

こんな名言ばかりに絞ったサイトがあるとはちょっと意外だった。もし今後、デザイン関係の仕事に就こうと思う人にはちょっと参考になるかもしれないな。古今東西にわたってさまざまな人が述べているのも面白い。べつにその人がデザインだけの専門家とは思えないが、鋭いセンスの持ち主には違いないだろう。

また、英語の勉強と思って読むのも面白そうだ。わからない単語も辞書を引いているうちに覚えてしまうかもしれない。そして、とくにお気に入りの名言はそのまま暗記したらかなり知ったかぶりもできる・・・かな。

いくつかの短い名言とその訳を以下に書いておきましょう。なお、和訳については、いつもコメントをいただいているぶくぶくさん(予備校で英語の講師をされている)にお願いしました。改めてお礼申し上げます。

Colour does not add a pleasant quality to design - it einforces it.
— Pierre Bonnard  『色はデザインに愉快な特性を加えるのではなく、デザインを強めるものだ』

Technology over technique produces emotionless design.
— Daniel Mall 『技術を超えた理論は感情の無いデザインを生み出す』 

Create your own visual style… let it be unique for yourself and yet identifiable for others.
— Orson Welles 『自分独自の物の見方を創り出しなさい。 自分にとっては独特のもので、なおかつ他人にとっては共鳴できるものにしなさい』

 Simplicity is the ultimate sophistication.
 — Leonardo da Vinci『単純である事が究極の洗練』

 Design is intelligence made visible.
 — Alina Wheeler『デザインは目に見える知性だ』

デザインに関する名言いろいろが掲載されている『Quotes on Design』のホームページは下記をご参照ください。
http://quotesondesign.com/

長続きの仕組みは「気張らない」に尽きる。

2009年01月26日 | Weblog
「考える技術」渡部昇一著より。

つまり、できるときにやる、できないときはやらずにすませる、ということだった。ダイエット、英会話、スポーツジム通い・・・これらは自分に課したスケジュールに追い付けなくなって、息切れして辞めてしまうことが多い。

渡部氏自身は、真向法(体操の一種)や書道を趣味としてやっている。しかも、その年数が30年というからちょっと驚きだった。それほど長くできたのは、「毎日必ずやらなければならない」という強制的な考えを自分に課さなかった結果なようだ。

無理をしない方が、物事は長続きするのは当然だろう。氏は真向法を継続しているから喜寿(77)を過ぎてもまだまだ体は柔らかいという。それも長年の練習の成果だった。

結局のらりくらりでも長続きしていれば、それなりの力はつくようだ。私ごとでは、まだ短いが一年前より15分エクササイズというのを思いつきで始めてみた。毎日というわけではなく、週に5,6回のときもある。また体調が悪い時は決して無理をしない。

すると、以前に比べて腰の痛みがほとんどなくなっていたことにも気づく。はやり思いつきでも朝の15分のスローエクササイズ(メインはラジオ体操)をやるとやらないでは身体の軽さが違うようにも思える。(気のせいかもしれないが)

長続きの仕組みは「気張らない」に尽きる。

2009年01月26日 | Weblog
「考える技術」渡部昇一著より。

つまり、できるときにやる、できないときはやらずにすませる、ということだった。ダイエット、英会話、スポーツジム通い・・・これらは自分に課したスケジュールに追い付けなくなって、息切れして辞めてしまうことが多い。

渡部氏自身は、真向法(体操の一種)や書道を趣味としてやっている。しかも、その年数が30年というからちょっと驚きだった。それほど長くできたのは、「毎日必ずやらなければならない」という強制的な考えを自分に課さなかった結果なようだ。

無理をしない方が、物事は長続きするのは当然だろう。氏は真向法を継続しているから喜寿(77)を過ぎてもまだまだ体は柔らかいという。それも長年の練習の成果だった。

結局のらりくらりでも長続きしていれば、それなりの力はつくようだ。私ごとでは、まだ短いが一年前(2008年1月26日開始)より15分エクササイズというのを思いつきで始めてみた。毎日というわけではなく、週に5,6回のときもある。また体調が悪い時は決して無理をしない。

すると、以前に比べて腰の痛みがほとんどなくなっていたことにも気づく。はやり思いつきでも朝の15分のスローエクササイズ(メインはラジオ体操)をやるとやらないでは身体の軽さが違うようにも思える。(気のせいかもしれないが)

心は必ずかたちにして表す。

2009年01月25日 | Weblog
「考える技術」渡部昇一著より。

モノよりも心ではないし、心よりモノでもなかったのだ。よく、心さえあれば~などと耳にすることはあるが、やはり相手に明確に心を伝えようと思えば、モノを添えるのが一番手っとり早い。

自分の心をモノで表現することは非常に重要なことだと筆者は述べている。モノを添えることで、人間的な関係も一層強めることができる。渡部氏は「気持ちや心は、相手には見えないという致命的な欠陥を持っている」とまで述べている。

だから、心のこもった手紙を書くことでも深い人間関係はつながっていく。手紙を書こうと思えば労が必要になってくる。手紙は気持ちを表すモノだった。

気持ちをモノで表現する技を知っているかどうかは、意外にも大事なことのように思えてきたな。ここに名言があった。「長者の万灯より貧者の一灯」(長者の虚栄心からくる多くの贈り物より、貧者の真心のこもったわずかな贈り物の方が勝っている、という意味だった)

恩を受けたら、一通のお礼状を書くというのも、習慣にしておかないといけないのだろうな~~~(そこに粗品が添えられればなおいいのだろうが)

「難しくとも面白くなるのが仕事、楽でも飽きるのが遊び」

2009年01月24日 | Weblog
「考える技術」渡部昇一著より。

このフレーズはスイスの哲学者、カール・ヒルティ(1833~1909)の考え方だった。社会人になって仕事を始めると、いろいろと新しいことを覚えなければならず、苦労するものだが、慣れるに従って面白みもわかってくる。

もちろん自分に合っていなければ、仕事の面白みを感じることは少ないとは思えるが。また仕事での達成感が味わえればそれも面白さと似通っていそうだ。

プロのスポーツマンではそのスポーツで成果を出すことが仕事となってくるはず。例えば、サッカーの1ゴールでもその喜びようはよくわかる。とくに苦しんだ末に試合で勝利をおさめた時の喜びは、見ていてもその興奮が伝わってくるようだ。

遊びの場合は、簡単に(楽に)上達してしまうものほど、すぐに飽きがやってきたりする。そしてまたやりたいと思う気持ちになるまで時間がかかるもの。誰もがすぐに上達してしまうものほど、面白みが少ないのかもしれないな。

結局、仕事に面白みを感じられるようになれば、かなり得な人生を送っていると言えるのではないだろうか。そこまでの気持ちになるまでは、自分の経験からしても長年の創意工夫が必要だろうが。(やはり二、三年では仕事の本当の面白さはわからないかも・・・)

放置すれば人は、年を取るにつれてどんどん保守的になっていく。

2009年01月23日 | Weblog
「ウェブ進化論」梅田望夫著より。

若いころであれば、もっといろいろな冒険もできたのにと思うことはあるもの。実際は若くても冒険などしなかったかもしれないが、そんなふうに感じてしまうことはある。でも、中には何であんな無鉄砲なことをしたのだろうと思えたり。

仕事に関して言えば、年をとればそれだけ経験を積んだともいえる。だから20年、30年前と比べれば、モノは見えているはずだ。すると逆に見えている分だけ未経験なことにはネガティブに判断してしまうこともあるもの。

余計な情報(経験)があるばかりに、臆病になってしまうこともある。こうすればきっとこうなるという経験がものごとの判断を鈍らせるのだろう。その消極的な態度や慎重過ぎることがものごと(仕事も含め)をつまらなくしてしまいそうだ。

かつては怖いもの知らずにできたことも、今ではできないことの方が多いかもしれない。しかし、すでに中年になった梅田氏は時には意識的に「若さ」と「勢い」を取り戻さなければいけない、とも感じているようだ。

逆に年齢を重ねたからこそできるチャレンジ、というものを発見できればいいのかもしれない・・・な。20代、30代ではできなかったが、50代、60代だからそこできることってなんだろう・・・?

“バーチャル研究室”

2009年01月22日 | Weblog
「ウェブ進化論」梅田望夫著より。

この表現はちょっと面白いと思ったので記しておいた次第。梅田氏は現在はビジネスの世界で活躍している。しかし、かつては大学に残り「自分の研究室(ゼミ)を持って、学生たちと一緒に知的生活を送る」のが夢だったようだ。

もうそんな研究とは縁が切れたかと思っていたようだが、今ではネット上に“バーチャル研究室”ともいうべき存在を持っている。つまりそのおかげで本業のビジネスのほかに極めて充実した知的生活を送れるに至っているという。

それは、ブログだったのだ。そこでは日々の勉強のプロセスを公開していったという。これが、前日も触れた「知的生産の道具」と言うことだろう。すると毎日読む人が5000人にもなったようだ。

もちろんそれだけの読者がいるということは、当然ながら中身の濃い内容を発信していたからこそ可能だったのだろう。勉強したい人にとって、ブログは“バーチャル研究室”にもなりえたということだったのだ・・・な。

ブログは個にとっての大いなる知的成長の場である。

2009年01月21日 | Weblog
「ウェブ進化論」梅田望夫著より。

この本は数年前に出版されベストセラーになってはいたがその時には読まなかった。なんだかとっつきにくそうなタイトルだったからかもしれない。しかし、実際に読んでみるとわかりやすく書かれていた。

その中で気になったのが、上記フレーズだった。それは梅田氏自身の実感だろう。自分が発信する情報やアイデアによって、不特定多数の人達との交流が図れるのは個人にとっても有益なことでもある。

とはいっても、思いつきでブログを始めて短期間で辞めてしまっては人とのつながりもできないに違いない。何かが得られると感じられるのは、やはり人との交流があって初めて実感できる。

しかも、ブログの場合何と言っても無料で簡単に更新できることがありがたい。もしホームページを立ち上げて、連日更新しようと思えば、かなり時間も取られてしまうし、継続はできないだろう。実際、8年前にホームページを始めたものの、更新はたまに気まぐれでしかやらなくなってしまった。

どんなことも少しでも面倒くささがともなうと継続できないものだ。梅田氏は「ブログこそが自分にとっての究極の知的生産の道具」とも感じているようだ。たしかに、自宅でも職場でもケータイからでもアクセスできるのはありがたい。

継続するには、やはりシンプルが一番かもしれないな。でも、私の場合はなかなか知的に成長している実感はないなぁ~~(頭を使うのが嫌いだからかもしれないが)

インフルエンザは風邪とは全く別のこわい病気だ。

2009年01月20日 | Weblog
「朝日新聞」2009.1.20付けより。

社説の部分にあったワンセンテンスだった。もちろん多くに人はそれに気づいていることだろう。しかし、過去に大流行したインフルエンザを「スペイン風邪」と呼んだために誤解を招く原因になっているかもしれないとあった。

数日前から東京都町田市の医療施設で、職員も含めて100人以上がインフルエンザに感染して3人が亡くなったことがニュースでも伝えられている。この社説ではインフルエンザについて、“流行本番へ備え急ごう”というタイトルになっていた。

インフルエンザは毎冬流行しているが、新型のものも出現してくるので恐ろしい。上記の病院では患者、職員の9割がインフルエンザのワクチンを打っていたにも関わらず大規模な集団感染だった。私たちができることは少なくとも普通のインフルエンザに対する備えだろう。

ところで、医院に行くとほとんどどこでもインフルエンザの予防接種は受け付けてくれる。(商売だから当然か)そこで、気付いたことが2つあった。

(その1)それは医院によって値段がまったく異なっていることだった。一年前に地元の整形外科で打った時は4300円だった。今月の初め胃腸科では2100円だった。家族は別の整形外科で2500円、仕事の同僚は内科で3900円。また知り合いの整形外科では3500円だと言っていた。注射の中身は同じだと思うんですがねぇ。

(その2)また注射と言えば、痛いものと思っていたが、今年の胃腸科の医師は打つ前に痛くないですよ、と言っていた。実際驚くほど痛みを感じることはなかった。それは針も細かったと思うが、注射の仕方によるものらしい。

インフルエンザの流行がピークに達するのは今月末から来月初めにかけてらしい。ちょうど受験シーズンと重なりそうだ。自分のため及び周囲の人のためにも、感染しないように基本はワクチンで予防だろうな・・・

日本語の会話や文章には多くの「ぼかし表現」がまとわりついている・・・

2009年01月19日 | Weblog
「相鉄瓦版」2009.1,2月合併号より。

“こだわりの日本語”というコラムのなかにあったもの。この「ぼかし表現」とはどんなものかと言えば、無意識のうちにふだん使っているものだった。「みたいな」「~的」などが含まれている。

ここにかなり極端な若者言葉の例があった。「わたし的には、なにげにパスタとか食べたいっていうか」。そしてこれを書いているのは文学博士の北原保雄氏だったが、さすがに言葉について敏感なためか若者の会話の状態も面白くとらえている。

この「ぼかし表現」は強い調子で相手に意見や情報を伝えることを避けていると北原氏は説明している。居酒屋で人数を聞かれたときなども、4,5人かな、などと答えたりします。また旅行は何日ぐらいですか。と聞かれると、2,3日ですなどと答えることもある。

こんな「ぼかし表現」がクセになってしまい、あらたまった席で「わたし的には~」などと言ってしまうと恥をかくかも。まあ、私自身はこの言葉はもともと好きではありませんがね。

「等」や「~と思います」というのもある程度はぼかしになってるようだが、これはかなり頻繁に使っているかな。いずれにしても円滑なコミュニケーションが取れればいいか・・・。

「ハッピー」は語源をたどると「出来事」と同じ・・・

2009年01月18日 | Weblog
「考える技術」渡部昇一著より。

ハッピーとハプニングがもとをたどれば同じだったとは意外にも思えた次第。しかも、日本語の「幸せ」はもともと「仕合せ」、つまり「事の成り行き」という意味でもあったのだ。

日英どちらも、「出来事」、つまりハプニングが起きることを言っていたのだ。昔はこのように、ハプニングに出くわすことで、幸せになるという意味合いがあり、自分の幸せは外側からやってくると思われていたようだ。

しかし、最近では外側というより内側にウェイトがかかっている。それは不満のレベルにもよるようだ。すべてに満足していればいいが、不満が少ないほど幸せかもしれない。

ある意味、そんなふうに客観的に自分を眺められれば、自分は成長しているともいえそうだ。かつては不満に思えたことも今考えれば、大したことでもないようにも思えてきたり・・・


「もし通知が届いたら、どうやって断ろうか」と考えていた一人・・・

2009年01月17日 | Weblog
「産経新聞」2009.1.13付けより。

この日の投書欄を読んでいたら、目についたフレーズだった。もちろんこれは裁判員制度について書かれている投書だった。書いていたのは自営業の中年の女性だったが、かなり多くの人が同様な気持ちではないだろうか。

実際にこの召集令状のような通知を受け取って困っている人が多いに違いない。しかし、中には「裁判員の通知が届かず残念」と思っている人もいるようだ。(届いたからといって即裁判員になれるというわけではないが。)

法律に関心がある人は選ばれてやってみたいと思っているかもしれない。たまたま勝手に無作為に選んでおいて、いろいろな事情でやりたくない人が断ると罰則があるというのも理不尽なことにも思えるが。仕事に支障をきたしたらいったい誰が責任をとってくれるのだろう。

この投書の筆者はタイトルに「裁判員は希望者のみ対象に」とあった。そして、不特定多数のなかから選ぶのではなく、希望者の中から選んではどうでしょう、と述べそうすれば知識の乏しい人よりもスムースにことが運ぶだろうと結んでいた。もともと関心がない人に強制的に義務を課しても適切な判断ができなそうな気もするが。

私はできれば、大学の法学部に学ぶ学生や法科大学院生の実習の場として必修としてやらせるのはどうかなとも思えた次第。教員になる場合の教育実習のようなものと考えればわかりやすいだろう。

一応法律を目指している人たちの方が一般人より関心が高いことだろう。もちろん学生に限らず一般公募(希望者)も受け付ければかなりの人数が集まりそうだし。そこからの選抜で十分ではないのかなぁ・・・