ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

「ワンパターン型一筆箋日記」

2010年06月30日 | Weblog
「人をトリコにする“ひと言添える”作法」臼井由妃著より。

この言葉がちょっと気になった。それは5年以上前にブログを始めたころ、そのタイトルを何にしようかと考えて、実は「今日の一筆箋」にしようと考えていたからだった。

そして、毎日日記のように書きつづろうかと想定したものの、3~5行では自分のブログとして短すぎると気がついたのだ。それはどうしても簡潔に書けずにだらだらと書いてしまうためだった。

毎回3~5行に限って書いていれば、まるで一筆箋を書いているようにも思えるのだが、なかなかそれは困難に思えた次第。また逆にある程度パターン化することにも物足りなさを感じてもいたのだ。

あれも、これもとついつい書きたくなってしまうのに、無理に書かないでいるのはストレスが溜まりそうな気もしていた。そこでタイトルを「ちょっと気になるフレーズ」としたのだった。

しかし、何か目標達成に向かって書き続けるなら、手書きで数行だけの「ワンパターン型」というのもいいのかもしれないな。

大切なことは、義務感で書くのではなく、楽しみながら書くこと。

2010年06月29日 | Weblog
「人をトリコにする“ひと言添える”作法」臼井由妃著より。

まさかブログを義務感で書き続けている人はいないでしょうが、一筆箋を書くときも同じように楽しむことがポイントだったのです。

読む人にとって、心地よい文章はまず自分が書くことを楽しむことから始まっているようです。そこで、ここでは「相手の心を一気につかむ7つの法則」が述べられていました。

それらの頭文字を次のように、“あいうえおかく”と並べています。
「あ」=あなたを意識する。つまりみなさんではなくて最も伝えたい“あなた”だったのです。
「い」=意味が通じる言葉を使う。専門用語は避けて、子どもでもわかる表現を心がける。
「う」=自惚れず自惚れさせる。たとえ自分の立場が上でも相手を気持ちよくさせることでした。
「え」=遠慮はほどほどに。へりくだり過ぎる表現は避ける。
「お」=思いこみで書かない。聞きかじりでなく、根拠のあることを書く。
「か」=簡単に簡潔に感情を大切にする。これが一筆箋の基本でした。
「く」=工夫は無限大にある。書き方以外にも、ペンや用紙を変えると印象も異なってくる。

以上、長々と引用させていただきましたが、まさにその通りでしょう。とくに私は文章が機械的になりがちなので、四季折々のイラストや写真のオリジナル一筆箋を使うようにしてますね。

心の味付け・・・

2010年06月28日 | Weblog
「人をトリコにする“ひと言添える”作法」臼井由妃著より。

一筆箋で短い文章を書くことの効用がいくつか述べられていた。そのうちのひとつが「心の味付け」というちょっとユニークな表現だ。それはいったいどういうものだろう。

次のような別の表現もあった。「人間味」、「あたたかさや深み」、「余韻を与える」、「あなたらしさを表現」などだ。そこで、例として、オフィスで先に退社する人からまだ帰ってきてない人への伝言メモの場合だった。

「お先に失礼します。○○様から届いた書類を見てください。」

確かに味気ない伝言メモにも思える。これにひと言添えをすることで文章は変身するという。それは次の例にある。

「暑い中、お疲れ様でした。申し訳ありませんが、お先に失礼します。○○様から届いた書類を置きましたのでご覧ください。」

単に文字数が多くなっただけでなく、思いやりの気持ちが伝わってくる感じがする。心の味付けができるかどうかは、要するに気持ちの問題かもしれない・・・な。

一筆箋はおもてなしの心をもった最高のコミュニケーションツール・・・

2010年06月27日 | Weblog
「人をトリコにする“ひと言添える”作法」臼井由妃著より。

この本のタイトルを一見して、きっと一筆箋のことだろうと想像できた。人をトリコにできるかどうかは、当然ながらそこに何がどのように書かれているか次第だろう。

確かに今の時代、メールや印刷されたダイレクトメールばかりが目につくので、かえって直筆で心のこもった短い手紙は心に響くと思われる。

そして、相手の心に響いた時に、それは“おもてなし”と言えるのかもしれない。メールの場合は何度も読み返すこともめったにないが、直筆文の場合は読み返すことがある。とくに印象的なものほど捨てがたい。

ダイレクトメールは非常に多くの人に、同じ文面が印刷されたものが届くので、“あなただけ~”と書かれていても、決してそんなことはない。数千人、数万人が全く同じものを読んでいる。

結局この本は丸ごと、一筆箋の効用について述べられたものだった。思いやりのひと言が簡潔に添えられていれば、それだけでも印象に残りやすい。最高とも思えるコミュニケーションツールを手にしても、あとは、それを実行に移せるかどうかだな。

何をするにも、時間は見つけるものではない。必要なら作るものだ。

2010年06月26日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」2010.6月号より。

日本語の「時間を見つける」、「時間を作る」は英語にした場合そのまま、find timeやmake time でよかったのだ。英語でも日本語でもそのまま直訳でいいというのが、なんだかあっけなくて新鮮に思える。

「時間があれば」、とか「時間に余裕ができたら」何かをやろう、と思っているうちはなかなかその時間はやって来ないものだ。つまりぼんやりと思っているうちは、それが実現できないということになる。

たとえ手帳に予定を書いたところで忘れてしまったりもすることも多い。思い切りだろうか、思い立ったら吉日、というやつでスピード着手こそが、何かを成し遂げるポイントなのだろう。

よく口にしてしまう、「いずれ」「そのうち」「おいおい」「じゃあ、また」などはほとんどその日はやって来ないもの。もし切迫したことや切実なことなら、忘れない工夫をするに違いない。まあそれも、かなり強い意志がないとなぁ~

教えることは、2度学ぶことである。

2010年06月25日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」2010.6月号より。

一瞬、学生時代の英語の授業を思い出してしまった。その時は、「教えることは学ぶこと」となっていて、単純に“Teaching is learning.”と訳したものだった。

しかし、ここでは「2度学ぶ」となっていて、“Teaching is learning twice over.”と表現していた。これはもともと、フランスの思想家ジョセフ・ジュベール(1754-1824)の述べたことだった。

そこで、講師のパルバースさんは、deux fois というフランス語を、単にtwiceだけでは意味が十分でないと判断して、overをつけて強調したのだ。

また、氏自身学生たちに教える以上のことを、学生たちから学んでいる気がすると述べていた。自信をもって教えられるならば、それだけ自分に身についていることを確認できたともいえそうだ。

一般の仕事でも指導することで、再び学ぶことも多い。また、その際に以前は気がつかなかった新たな発見や気づきがあったりもするものだ。

学び続ける者は若さを保つことができる。

2010年06月24日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」2010.6月号より。

この言葉の前にも、次の名言があった。「20歳だろうと80歳だろうと、学ぶことをやめた者は老人である」。その前に何を学ぶか、その学ぶ対象を見つけることも大事なのだろう。

たまに、70代や80代で高校や大学で学んでいる“学生さん”がいる記事を新聞で見かける。本当に尊敬に値する。まずはその年齢までしっかりと健康を保てなければ、学ぼうという意志もわかないだろう。

またこの章のテーマ「教育」では吉田松陰が題材にされていた。彼はもう10歳で教鞭をとっていたという。しかも29年間という短い生涯で、彼の門下生はすごい人物がいた。明治維新の中心となる人物、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、木戸孝義などだ。

松陰の残した名言は「世の中には賢い人も愚かな人もいるが、それぞれ1つ2つは才能を持っている。それらを統合し事に当たれば、必ず成し遂げられる」だった。彼の教え子たちはそれを実践したのだろう。

こうみれば、幕末の思想家、教育者としての吉田松陰はものすごい人物だったと改めて感じた次第。今の時代これほど若くて、しかも教え子を将来有能な人物に育て上げられる人物はいないだろうな。

自分が退屈なとき、きっと私自身もほかの人にとって退屈な人間になっているんでしょうね。

2010年06月23日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」2010.6月号より。

これはこの番組(NHK)の講師パルバースさんの言葉だった。この元となっていたのは、中国の学者劉安の次の名言だった。「学ぶに暇(いとま)あらずと謂う者は、暇ありといえどもまた学ぶ能(あた)はざらん」。

かなり難しい表現だが、言ってみれば、勉強する時間がないという者は、たとえ時間ができても勉強はしないだろう、という意味合いだ。もっと言えば、学ぶ時間がないなら、自分で作ろうとなる。

英語で「・・・のために時間を作る」はその通り、make time for・・・、でいいようだ。パルバースさんはこれまで、これを実践してきたという。ややずれるが、かつて大学での教え子がもう62歳になっていたという。それだけ長い間自身も学び、教育に携わったということだろう。

氏が本当に退屈だと感じるのは、読むこと、聞くこと、そして学ぶことができなくなったときだという。そう言えば、テレビの前にいれば次々といろいろな情報が流れてきてある程度の退屈しのぎにはなるが、学ぶにはさらに前向きな気持ちが必要だろうな。

人にとっても退屈でない自分をつくるよう意識することで、自分自身も退屈させることはないとも言えそうだ。つまり常に目的意識をもって知識などを吸収しようとすることかもしれない。またそれを人に効果的に伝えることも容易ではないだろうが。

献身の可能性は誰もが持っているもの。

2010年06月22日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」2010.6月号より。

いきなり“献身の可能性”といっても、その場に立ってみないと実感はわかないものだ。ここでのテーマが「献身」だった。取り上げていたのは誰もが知っているヘレン・ケラーで、彼女の残した次の言葉が印象に残る。

「他人の苦痛を和らげることができるならば、人生は無駄ではないのです」と語っていた。彼女自身身体的に苦労をしながらも、なお他の人の役にたとうと一生涯努力を続けていたのだ。驚くべき心の強い人だ。

また、献身といって講師のパルバースさんがすぐに思い浮かべる人物はネルソン・マンデラ(元南アフリカ大統領)だった。民主的な選挙によって選ばれた初の大統領だった。そして、民主主義の確立のため27年間を獄中で過ごしてきたのだ。これだけで歴史上の最も偉大な指導者だと感じられる。

話はそれてしまうが、今年の2月にマンデラ氏とラグビーワールドカップの勝者を題材にした映画「インビクタス」“負けざる者たち”を観たことを思い出した。監督はクリント・イーストウッドだった。

南アフリカは、初出場で初優勝を果たしていた。実に感動的な映画であったことを思い出した次第。今開催中のサッカーワールドカップ・・・治安の悪い地域だけに、無事に平和に終わってほしいことを祈っている。もちろん日本代表の活躍も!

後片づけなんて心配したら、遊べない。

2010年06月21日 | Weblog
「遊び上手が成功する」中谷彰宏著より。

これも、食べる時や遊びの時のリスクを考えすぎて十分味わえないことと似ている。ここでのタイトルは「遊ぶ時は、後片づけのことは考えない」となっていた。

そして、このあとには“でも終わったら、しっかり片づけること”、という言葉が隠れていると思われる。どんなに散らかして遊んだところで、その後にきっちりと整理整頓しておけば問題がないことだ。つまりは自己責任でやれば問題ないはずという意味だったのだ。

約20年ほど前のことだが、クリスマスシーズンになるとリース作りをしていたことを思い出した。自然の木の実やツルなどを大量に集めて、色付けをして作ったものだった。その際材料や細かいゴミも大量に出て思いきり部屋に広がっていた。

しかしその遊び(作業)が終了すれば、きっちりと掃除をすると実に気持ちがよかったものだ。その時の掃除も別に苦にならなかったものだ。それを含めての遊びだったのだろう。

遊んでいる時が楽しければ、その準備や後片づけも大したこととは感じられないほどだ。いつでもそうありたいものだが。中谷さんは「一流の遊び人は、一人コツコツと片づけている」と語っている。それができてホントの大人の遊び人と言えるのかな。

大人の遊びは、リスクを自分で背負っていくこと。

2010年06月20日 | Weblog
「遊び上手が成功する」中谷彰宏著より。

ここでは食べることが初めに書かれていた。それは体にいいかどうかということだった。そして、筆者は食べたあとのことを心配するような人は、おいしいものを食べる資格はない、とまで語っている。

確かに食べる時は、これが体にいいとか悪いとかをいちいち考えていたらおいしいものも味わえないだろう。また体にいいからといって、まずいものを無理して食べ続けるのもなんだか味気ないものだ。

自然のものをそのまま食べようと思えば、ある程度の危険は伴うかもしれないが、本当のおいしさも堪能できるのだろう。危ないからと言って敬遠ばかりしていたら、本物の素材の味はわからないかもしれない。

実際に食べてまずければやめればいいだけのことだろう。新鮮な生ガキにしても、庭で収穫したばかりの果物や野菜にしても自然のままの味は格別だ。そして、まったく問題なく味わえたことが自信となってよりおいしく味わえるのだろう。

子どもの頃は近所の川に入って平気で水遊びや泳いだりしていたものだが、今では危険だからと禁止されてしまっている。やはりそんなところででも遊ぶことで楽しい時間を過ごせたことが今ではいい思い出になっている。

リスクと言えば、ギャンブルが楽しいのはまさにすべて自己責任で楽しむからなのだろうな。“少しぐらい~(損、ケガ、失敗など)~したって大丈夫!”、というような心の余裕があって初めていろいろな遊びを楽しめるに違いない。

人への親切、世話は慰みとしていたい。義務としてはしたくない。

2010年06月19日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」2010.6月号より。

この言葉は『私の日常道徳』(菊池寛著)という本からのものだった。ここでの「慰み」にはいろいろな意味合いが含まれていた。fun(お楽しみ)、pleasure(喜び)、diversion(気晴らし)、amusement(娯楽)などだった。

他者を助けることを楽しむべきだということらしい。やはり何でも義務感からやっていたのでは面白さもやりがいも感じられない。自発的に進んでやってこそ気持がいいものだということは実感としてわかる。

身近なところでは、電車の中でお年寄りに席を譲るなどだ。まあ、それほど高齢でない人に席を譲れば逆に失礼になるかもしれないが、一見して立っているのがつらそうな人なら喜んでもらえるはずだ。

小中学生の頃には、道徳という授業があったはずだが、日常ではついつい忘れがちなこともある。この本のタイトル(『私の日常道徳』)も新鮮に思えた次第。確かにそれを楽しみなことだと視点を変えてみるのもいいのかもしれない。

不思議なことに、すばらしいごちそうは、人々をなぜか和解させてしまうものだ。

2010年06月18日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」2010.6月号より。

これはイギリスの官僚サミュエル・ピープスが日記に残した言葉だった。とはいっても、彼が生きた時代は1633年から1703年なので、かなり昔のことだ。彼の仕事を通じて得られた教訓なのかもしれない。

講師のパルバースさんは、一つの単語を取り上げていた。それはcompanion(仲間)だった。この言葉の語源をたどれば、ラテン語でwith にあたるcom-とbread(パン)を意味するpanisからできているという。

つまり、一緒にパンを食べる=食事を共にするという意味合いになるらしい。それによって、結果的に仲間になるのだということだろう。一緒に食べることで心を開いて親しくもなれる。

たとえけんかした後も、食事を一緒にできるほどであれば、仲直りも早いかも。しかし、もともと気が合わなければ、どんな食事も味わえないだろう。また何か心にひっかることがあっても美味しくないものだな・・・

剣で死ぬ人より、食べすぎや飲みすぎで死ぬ人のほうが多い。

2010年06月17日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」2010.6月号より。
これはウィリアム・オスラー(1849-1919,カナダ生まれの医学者)の言葉だった。いまではよくメタボは健康によくないと言われているが、もう100年も前にもメタボの人は多かったのだろうか。

また今までは「ペンは剣よりも強し」“The pen is mightier than the sword.”という古くからの名言を覚えていた。それをもじった、フライパンは剣よりも強しというのができそうだと講師のパルバースさんは述べていた。それは、pen を pan に変えただけの笑えるパロディーだった。

最近どうしても食べすぎてしまうことが多い。よく言われるのは腹八分目だが、それだとどうしても物足りない。ついつい満腹まで食べてしまう。気をつけねばな。

毎年健康診断の前後は気をつけるものの、それ以外のときは忘れがちだ。あまり気にしても、それが逆にストレスになってしまうらしいが。何事もほどほど・・・かな。(難しいが)

楽しんで料理しなければ、料理は絶対うまくならない。

2010年06月16日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」2010.6月号より。

ここの章では村上信夫の名言が取り上げられていた。それは「料理は、材料や調理技術も大切だけれど、心を込めてつくらなきゃ、絶対においしい料理なんかできないです」だった。ここで、「心を込める」は英語にするとき、"put one's heart into・・・"となるらしい。

そこで、これは英語のテキストでもあったので「おふくろの味」を英語でいうとどうなるかが書かれていた。それは"(food) just like mother used to make"となるようだ。「母が作ってくれたような料理」となっていた。日本語のひと言も、英語にすればかなり長い説明文になっている。

さて、タイトルに挙げたフレーズは、別に料理だけではなくあらゆることにもあてはまることだろう。仕事もスポーツも勉強もただ苦しみだけでは、長続きはしないし、上達もないだろう。

講師のパルバースさんは、村上信夫(1921-2005、フランス料理シェフ)の成功要因は、料理への愛情で、彼はその愛情に見合った腕(技術)と目(センス)の持ち主だったと判断していた。