ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

徳俵でラストチャンスをつかめるか。

2013年05月31日 | Weblog
「雑菌主義宣言!」齋藤孝著より。

大相撲夏場所は白鳳の25回目の優勝(全勝優勝)で終わった。相撲に関連してこのフレーズが気になった。土俵には徳俵というこのがある。土俵のその部分だけ少し後ろに下がっている。

寄り切られた場合その部分に足がかかって、粘って持ち直すこともできる。つまり切羽詰まった状態という時に、底力が発揮できるかどうかは大きい。本当に相手より強い人は盛り返すことができるのだろう。

そして、粘り腰が強い人は、また免疫力が高いとも言えるらしい。気持ちで負けてしまったらその時点で、もうおしまいだ。いろいろな世界で、これが最後だと思って、不退転の決意をしたというような表現は時どき目にする。

スポーツ、芸能、お笑い…などさまざな世界でそんな逆転はありえる。よく、小説家を目指して何度も落選を繰り返して、これでダメなら諦めるという作品で編集者の目にとまり、デビューしたような人もいるようだ。

しかし、そんなラッキーな人はごくわずかなのだろう。瀬戸際でどれだけの力が発揮できるか。そうは言っても、世の中には自分一人ではどうにもならないことの方が圧倒的に多いものだ。運を見方につけられるか・・・


人間のからだには常在細菌と呼ばれる大量の細菌が生息している。

2013年05月30日 | Weblog
「雑菌主義宣言!」齋藤孝著より。

いくらきれい好きとは言っても、誰でも細菌を持っている。それらがあることで、外部の微生物の侵入からからだは守られている。とくに大腸は細菌の住みかでもあった。

人間の免疫力の70%を働かせているのが腸内細菌らしい。その種類は百種類以上もいるというから驚きだ。しかも重さは1キロもあるらしい。だからこそ生きていられる。

かなりい加減なものを食べても、すべて腸内細菌が闘ってくれ、消化して受け入れてくれているわけだ。そして栄養素としてくれている。実にありがたい。

ふだん見た目で美味しそうなものばかり食べてしまうが、そんな消化吸収などあらためて考えたこともなかった。すべての菌を敵だと考え排除してしまうと、逆に免疫力も落ちてし健康を損なってしまうことにもなるらしい。

「善玉菌」も「悪玉菌も」あって当然なのだ。何ごともバランスよく保つことも必要ということになる。気をつけねば。これからは「抗菌」よりも「好菌」ともあった。率先して醗酵食品などを食べたい。


「雑菌主義」で生きる・・・

2013年05月29日 | Weblog
「雑菌主義宣言!」齋藤孝著より。

実にインパクトがある題名だと思って本を手に取ってしまった。ここでいう雑菌とは、自分の身にふりかかってくる不愉快な刺激やわずらわしい事柄を指していた。それらに対して免疫をつけることが必要だという意味だった。

ついつい雑菌的なものは排除したくなってしまうものだが、それらを拒否することなく、自分のなかに取り込んでいくことで、自己免疫力も高まるようだ。

まあ、いろいろなことは経験したほうが、あとでものごとの処理がしやすくなるということは理解できる。若ければ何でも解決できる問題と、そうでないこともある。歳をとれば、ちょっとした経験がモノをいう場合も多い。

いずれにしても社会で生きていくこと自体が雑菌のなかにいるのと同じようなものだ。不愉快だと思われるクレームからも学べることもある。雑菌に慣れることで仕事がスムースにいき、人間としても成熟するようだ。


アイディアより「見立て」のほうが優れた概念なのかもしれない・・・

2013年05月28日 | Weblog
「佐藤可士和の新しいルールづくり」佐藤可士和・齋藤孝著より。

仕事でも何でも「アイディアを出せ」と言われても、そうそうすぐには思いつかない。そこで、むしろ「何かに見立ててみよう」と考えれば、楽しい感じもしてくるようだ。

佐藤氏は、アイディアは見立てだと考えたほうがいいというアドバイスだった。氏は実際に普段からそんなことを生活に取り入れていた。

そのモノは意外にもコーヒーカップで、それは江戸時代に使われていたそば猪口だったからだ。アンティークのそば猪口は飲みもの用ではないが、見立てて使っていたのだ。実にオシャレだとも思える。

本来の用途ではないものを見立てるというのは、意識しないでも普段の生活でもやっているかもしれないが、それを意識して見つけるというのは実にクリエイティブにも思えた次第。

つまりアイディア力があるからこそ、見立てられるとも言えそうだ。こんな概念は、佐藤氏の仕事では必殺技になっている。



人生のシズル・カットを見つけよう。

2013年05月27日 | Weblog
「佐藤可士和の新しいルールづくり」佐藤可士和・齋藤孝著より。

そもそもシズルとはどんなものかよく知らない人が多いだろう。聞き手の齋藤氏も聞いたことがなかったようだ。佐藤氏によれば、焼き肉を焼いている時に「ジュージュー」という音がするが、そのことだという説明だった。

かつて私も30年以上前に、会社の研修で聞いた言葉だったが、同じような説明を受けたことがあった。広告の世界では、“人の感覚を直接的に刺激する瑞々しい表現”をそう呼ぶとのことだった。

佐藤氏は例として、爽快感があるシチュエーションでビールを飲んで、シュワーッと泡がたつあの映像だという。実にわかりやすい。すると飲みたくなる。それがシズルカットだった。

私もこのシズル・カットという言葉はここで初めて目にした表現だが、面白い。これは最高の瞬間をビジュアライズすることだった。そこで人生のシズル・カットとは、自分が一番魅力的に見えるビジュアル・イメージのことのようだ。

齋藤氏は、自分なら「喫茶店で原稿を書く齋藤孝」かな、と答えていた。というのも、氏は喫茶店でしか仕事ができないというのがその理由だった。そこで「論語」を丸々一冊訳したというから驚きだ。

そんなシーンがすぐに思い浮かぶというのもすごいことだとも思える。もし、自分が「人生のシズル・カット」はどんな時かと言われても、なかなか思いつかない・・・な。


サービスは総合芸術。

2013年05月26日 | Weblog
「逆境こそ成功のチャンス」中谷彰宏著より。

サービスとは誰がやっても全く同じものでは意味がないともいう。その人にしかできないサービスが必ずあるようだ。つまりその人の経験がサービスに生きているかどうかということでもあった。

マニュアルどおりのサービスでは、お客様を感動させることはできないだろう。本当のサービスは、その人らしさが表れるものらしい。言葉を変えて言えば、個性があって初めてサービスだともいう。

実際に目の前にいなくても、電話応対でも思いやりを感じることがある。実際要領をえた、感じがいい電話応対に接すると、話もしやすくなるものだ。逆に違和感を感じる電話応対だと、必要なことを言い忘れた気にもなってしまう。

この本のラスト2行をそのまま抜粋してみよう。「あなたのサービスでお客様との新しい出会いが生まれるのです。その出会いを楽しめる人が、全身サービスマンなのです」

蛇足ながら、これでこの本のタイトルが最初は『全身サービスマンで行こう!』だったことが頷ける。なお、この本『逆境こそ…』にはなかったが、初めの本『全身サービスマン…』のサブタイトルには“お客様に愛される人、逃げられる人”となっていた。


お客様が商品を見て感動するプロセスには3段階ある。

2013年05月25日 | Weblog
お客様が商品を見て感動するプロセスには3段階ある。

「逆境こそ成功のチャンス」中谷彰宏著より。

これらは次の3つだった。1、「何だろう」。2、「使ってみたい」。3、「人に教えたい」。まずその商品に興味を持ってもらえなければ、手にとってもらえない。そして、実際に使ってみていいと思えば、人に伝えたくなるものだ。

本当にいい商品はこのような段階を経て、口コミとなって売れてゆくのだろう。今では、ブログ、ツイッター、フェイスブックなどのネットやスマホ、ケータイであっという間にブームは出来上がってしまうこともある。

また、もし本当に感動した場合は、その商品を自分以外の家族や知人に向けて(プレゼントとして)買って、話題にするかもしれない。そして、自分が見つけた商品を自慢したいという意識を持つのも自然なことだ。

だからこそ、売る側としてはまず商品に関心を持ってもらうために、サンプルや初回限定で価格を大幅に下げてお客様に試してもらおうとするのだ。それがればこそ、そのあとの効率的な販売にもつながるとも言えそうだ。(ややフレーズとはずれてしまった…)

二、三ヶ月の努力で何とかできる目標を立てよ。

2013年05月24日 | Weblog
「継続は、だれも裏切らない」内藤誼人著より。

たとえば、それまでの実績が年間1億円だった営業マンにいきなり3億円のノルマを与えたりしたら、やる気を失ってしまうのではないだろうか。やはり目標はある程度頑張れば何とか成果が出せるかもしれないと思う程度のものである必要があるだろう。

はじめから無理だとわかるような目標を設定しても意味はない。自分で目標を立てる時には、せいぜい1,2カ月の努力で成果出せるくらいのほうがやりがいもあるものだ。

つまり成果が出るまでに、数年もかかるものだと途中で挫折しやすくなってしまう。筆者の内藤氏は1ケ月単位で目標を立てて仕事をしているが、これがちょうどいいらしい。

まあそれも仕事にもよりけりだとは思うが。また目標は低すぎても高すぎてもいけない。これもやる気へのポイントだろう。ラク過ぎると、面白味も感じられなくなってしまう。どんなことも、継続できるモチベーションは自分で工夫するしかないかな。


三日坊主を何回も繰り返せば、結果としては、努力を継続していることになる。

2013年05月23日 | Weblog
「継続は、だれも裏切らない」内藤誼人著より。

「三日坊主でも、それを30回つづければ、3カ月もつづいたことになる」と、心理学者の多湖輝さんは述べているようだ。どんなことでも、初めのうちは勢いで継続できるような気もする。

ところが、数日するとやる気も失せてしまうことが多い。その一番が日記ではないだろうか。要するに書くことに大した変化もなく、飽きてしまうからだろう。単純なことほど、継続は難しい。

個人的なことになるが、ラジオ体操や散歩や腹筋運動もそうだ。始めのうちは頑張っているのに、いつしかそれも億劫になってしまう。“必ず毎日”と自分を縛りつけるほど、難しい。またゆる過ぎてもダメなことは確かだ。

むしろ一度投げ出しても、またそこに「戻ってくる」ということが重要なようだ。本当にダメなのは、いったん投げ出して、そのまま「投げ出しっぱなし」にすることだと述べている。

ここでの結論は、“三日坊主でも完全に投げ出さなければOK!”だった。もう一度思い出してやってみるか、とお気楽に考えたほうがようさそうだな・・・


楽観的な人ほど、何をやらせてもうまくいく。

2013年05月22日 | Weblog
「継続は、だれも裏切らない」内藤誼人著より。

性格的に悲観的な人は、何をやらせてもすぐに諦めてしまう人が多いようだ。かつての若い頃の自分もそんな傾向があったものだ。いきなり楽観的になれといわれてもそう簡単にはいかない。

しかし、ここには次のようにも述べられていた。楽観的な性格になりたいなら、「陽気に振舞う」だけでもずいぶんと違ってくるそうだ。たとえ、作り笑顔でも性格も明るくなっていくという。

つまり演出をしているうちに、楽観的になれるのなら、試してみても損はないだろう。筆者自身も、基本的にはネクラな人間だが、人に会うときには、これ以上ないというくらいに笑顔のサービスをしていたという。

すると、いつの間にか「陽気な心理学者」というレッテルまで貼ってもらえるようになったと振り返っている。ここでの結論は、“悲観的になりやすい人は陽気に振舞おう”だった。まあ、陽気な人ほど近付きやすいかも。


若くても、他者への配慮がなくなったら、それが老人・・・

2013年05月21日 | Weblog
「老いの才覚」曽野綾子著より。

老人かどうかは単なる実年齢とは関係ないと思えることがある。若くても反応が鈍い人は、老年に近いのではないだろうか。

曽野さんは、老齢になって身につける「老人性」には、二つの柱があるという。一つは、利己的になること、もう一つは忍耐がなくなることだそうだ。

これを読んでみて、わがままな老人にはなりたくないものだ、と今は思っている次第。ジコチュウな人は、若くても老年でも見ていて、いい気はしない。

筆者は、たとえば電車の中で足を投げ出して座っていたり、眠りこけている人は二十歳でも老年だと指摘していた。

逆に他者への気配りがあれば、70代でも壮年だともいう。その年齢になるまでに、いろいろと身につけなければならないこともあるのだろうな・・・


冒険は青年や壮年のものではなく、老年の特権・・・

2013年05月20日 | Weblog
「老いの才覚」曽野綾子著より。

このフレーズを目にしたとき、多くの人はプロスキーヤーの三浦雄一郎さんを思い出すのではないだろうか。80歳にして、エベレスト登頂に挑戦するのは本当に驚いてしまう。

当然ながら、長い日々を費やしてハードなトレーニングを積重ねたからこそできる挑戦でもある。並みの人ならとてもそこまでの体力も精神力も持てるはずはない。

80歳を超えてからいきなりハードな挑戦をするのは、実に危険なことだとも思える。しかし、それまでの長年の経験とノウハウを活かせるという自信があれば、それも可能なのだろう。

また、何でも安全第一と考えて、ちょっとでも怖いことや危険に全く近づかないという用心深い人は、同時に面白い体験もできないとも言える。危険を考えたら、家から出れないことにもなりそうだ。

いろいろな責任から解放された老年には、冒険もまた特権であると、筆者は自分の体験からも語っている。若い現役の頃と違っていろいろな責任から解放された後には、年寄りの冷や水もいいのかもしれない・・・な。


生涯の豊かさは、どれだけこの世で、「会ったか」によって図られる。

2013年05月19日 | Weblog
生涯の豊かさは、どれだけこの世で、「会ったか」によって図られる。
「老いの才覚」曽野綾子著より。

「会ったか」とは人のことばかりではなかった。自然、出来事、魂、精神、思想まで含まれていた。そう言われると確かに、たくさんい出会いや触れ合いがあればそれだけ人生も充実したものになりそうだ。

しかも、そのうちいい出会いがたくさんあるほど、よりいい時を過ごしたとも言えるのだろう。何げなく過ごしてはいるが、ちょっと意識することで、意外に身近にいい出会いをしているのかもしれない。

しばしばそれに気がつかずに過ごしてしまうことがあるのだろう。筆者は、何も見ず、誰にも会わず、何ごとにも魂を揺さぶられることがなかったら、その人は人間として生きてなかったことになるのではないかとも語っている。

そういえば、それとやや似たようなことを作家の森村誠一氏も書いていたのを思い出した。森村氏は、いくら素晴らしい作品を書いたとしても、それを読むべき読者がいなければ、書かなかったのと同じことだと述べていた。

やはり、芸術作品もそれに触れて感動する人がいて初めて作品になるともいえるのだろう。人もいい出会いがたくさんあるほど、いい人生を過ごしたとも言えそうだ。

努力をしてもムダになることはあるが、努力をしないことから生じる後悔よりは、ずっと小さい。

2013年05月18日 | Weblog
努力をしてもムダになることはあるが、努力をしないことから生じる後悔よりは、ずっと小さい。

「継続は、だれも裏切らない」内藤誼人著より。

いくら必死の努力をしたところで、それが報われる確率はほとんどないかもしれない。自分ひとりがいくら頑張ったところで、相手がいるものは、頭の中で考えているほどそうそう甘くはない。

かといって、何も努力しなければ、その後悔のほうが大きいということも事実だろう。ここには、ある本からの引用で「いまだかつて、“努力のしすぎ”を後悔したした人はいない」とあった。実にシンプルでわかりやすい。

努力しても報われる確率が低いからといって、それを努力しないための言い訳にするものどうかとも思える。努力に費やしたエネルギーや時間はムダになってしまうかもしれないが。

歳をとるにつれて、若い頃、あの時ああしておけばよかったというような後悔ばかりが頭に思い浮かんでくる。しかし過去は変えられないから、むしろ今何となくでも充実した時間を過ごせていられるならそれで満足すべきなのだろう・・・な。

目標を映像化してより鮮明にしよう。

2013年05月17日 | Weblog
「継続は、だれも裏切らない」内藤誼人著より。

この章のタイトルは「思い通りに“自分を変える”ためには、どうすればいいか?」となっていた。そのための一つの提案が上記のもので、ここでの映像化とは写真や切り抜きを用意して、たえずそれを眺めることを提案していた。

実際にそうして、成功した例として、全米屈指の資産家となったベニハナ・チェーンの創業者、ロッキー青木さんを取りあげていた。青木さんは、ロールス・ロイスを持っている人を見つけると、すぐに頼んで写真を撮らせてもらったようだ。

そして、それを眺めることでやる気を出していたというエピソードだ。言葉を紙に書いておくよりも、写真のほうがイメージをしっかりと植え付けられる。たとえば、ダイエットして10キロ痩せると目標を書くよりも、すでにスレンダーなモデルの写真を貼りつけておいたほうが、はるかに効果的らしい。

すでにプロになってるモデルさんたちも、それ以前は、憧れのモデルの写真を部屋中に貼り付けておいた人が多いという。やはり言葉よりビジュアルの方がインパクトがあるものだ。目標があるなら、とにかく視覚に歌えることを念頭に置きたいものだな。

そういえば、以前映画で見た「ショーシャンクの空に」では主人公は閉じ込められた刑務所の部屋の壁に「リタ・ヘイワーズ」(女優)のポスター写真を貼っていたが、その背景はリゾートビーチの写真だった。いつか脱獄してそのビーチのある土地に住もうという願望を忘れないためでもあったらしい。