ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

人間のやることなすこと、遊びでも仕事でも何にでも中毒性がある・・・

2013年01月31日 | Weblog
「優柔不断は“得”である」竹内一郎著より。

いきなり中毒というと、薬物を連想してしまうが、この中毒とは、もう当たり前のように夢中になってしまういろいろなことを指していた。それは周囲の環境にも左右されそうだ。

その一例として、かつておんぼろアパート「ときわ荘」にその後有名になったマンガ家がたまたま多く住んでいたことをあげていた。そこには手塚治虫、藤子不二雄の二人、赤塚不二夫、石ノ森章太郎らがいた。

筆者は大学や専門学校でマンガを教えていても、彼らほどの天才は10年に一人も入ってこないという。あんな奇跡が起こったのは、手塚治虫がいたことが大きな要因だと考えていた。当然個人の才能もすごかったに違いないが。

つまり手塚氏が超人的に仕事をこなして、3徹、4徹を当たり前にやっていると、彼を尊敬する若いマンガ家が真似して、やっていたのだと考えている。人が絶対に無理だと思えるようなことも、誰かがやると、その後もできる人が出てくるらしい。

仕事で中毒したからこそ膨大なエネルギーが出てきたと考えている。仕事も中毒になるととてつもない力が発揮できるものだな。(しかし残念ながら、彼らはのほとんどは長生きできなかった・・・)


「これが絶対」と決めつけることは結果的に損なのだ・・・

2013年01月30日 | Weblog
「優柔不断は“得”である」竹内一郎著より。

ここでの小タイトルは、“変化に対応するためのリスクヘッジ”となっていた。生きていくことは、さまざまなことの選択の連続になっている。

それらをあえて「損得」の観点から考えてみるというのもありなようだ。まあ、あまりそればかり考えていると、面白味もないような気もするが。

決定したことが間違っていても、途中で軌道修正をすればいいという考えだった。また結論を先延ばしにするというのも一つの考え方で、それが優柔不断というものかもしれない。

そして、ポイントは何かを選び取らないといけない場合でも、できるだけ退路を残しておくのがいいと筆者は経験を通してアドバイスしている。

いい言い方をすれば、変化に対応できる力を残しておくことが、ポイントのようだ。つまりそれがリスクヘッジというものだった。別の言葉では”のりしろ”とも言っている。


「ところで、肩書はどうされますか?」と最後に聞かれる・・・

2013年01月29日 | Weblog
「優柔不断は“得”である」竹内一郎著より。

こう聞かれるのはこの筆者自身のことだった。つまり、さまざまな肩書を持っているからだ。それらは、劇作家、演出家、マンガ原作者、作家、評論家、ギャンブル評論家、大学教授・・・。実にすごいと思える。

ふつう会社員だけやるだけでも大変だと思えるが、筆者は生きていくため、さまざまな職業を経験していくうちに、いろいろな能力を磨いてきたようだ。当然ながら、自身にとっては苦労の連続でもあったようだが。

肩書を聞かれた場合は、どれでも結構ですと答えているようだ。筆者自身は、もし演出家、劇作家だけで生きてきたらとっくに挫折していたと語っている。また大学教員だけでも壊れていたと振り返っている。

年齢を経るにしたがっていろいろな職種が向いていることに気づいたそうだ。努力の末に、さまざまなことを身につけて感心してしまうが、自身でも思いもよらない可能性があるものだと語っていた。だからこそ、あらゆることも即決してはいけないようだ。人にはまだまだ思っている以外の可能性もあるのかもしれない。



「人の“読み”はめったに当たらない」・・・

2013年01月28日 | Weblog
「優柔不断は“得”である」竹内一郎著より。

まずはこのタイトルに魅かれて本を買ってしまった。そもそも自分自身が優柔不断だからだ。それで本当に得をするのだろうか、ちょっと興味深い。サブタイトルには、“「人生の損益分岐点」の考え方”、ともあった。

筆者は趣味で競馬をやっているそうだ。当然ながら外れるほうが多い。それでも一度いい思いをするとやめられないものだ。当然ながら、絶対と思って読みをしても、外れる。

人生のさまざまな状況では意思決定の連続になる。そこで、読みを外しても、土俵を割らない、人生を降りないという基本フォームを崩さないことが大前提になってくる。

いずれにしてもできるだけ後悔しないように、自分自身で納得した意思決定をするべきだと筆者はアドバイスしている。一見損だと思えることも精神的に満足感が得られればそれでいいのだろう。


ツッコミたくなるようなタイトル・・・

2013年01月27日 | Weblog
「いい質問は、人を動かす。」中谷彰宏著より。

しばしば本屋で本のタイトルを眺めていると、思わずツッコミたくなるような本がある。きっと編集者や筆者が読者の目を引くように考えているのだろう。

この本の筆者、中谷氏の著書にも多い。たとえば『不器用な人ほど成功する』『人は短所で愛される』『あなたに起こることはすべて正しい』『お金は使えば使うほど増える』などいろいろあっておもしろい。

それらが当たり前のタイトルなら目に留まらないだろう。逆にツッコミたくなるタイトルを見れば、“え、そうかななぁ”などと思いながら、手にしてしまったりする。

誰もが必ず、イエスやノーというタイトルは受けないという。むしろ、そういわれればそうかもしれないという部分に共感が生まれるそうだ。いいコミュニケーションはこんなところに技があるのかな・・・


マーケティング力は、質問力・・・

2013年01月26日 | Weblog
「いい質問は、人を動かす。」中谷彰宏著より。

マーケティングにはしばしばアンケートというものがつきものだ。その集計結果によって、それを商品化したり新しいサービスを生み出したりする資料にしている。

私も何度か街中でアンケート調査に協力して、(実は粗品がもらいたくて)答えたことがある。その質問の答えは選ぶものが多く、「満足」「やや満足」「普通」「やや満足してない」「どちらともいえない」などが並んでいる。

なかなかはっきり答えられない質問も多いものだ。その時の気分でも答えは変わってしまうかもしれない。そんないい加減な集計結果で新製品ができてしまうのだろうかと思ってしまう。

実際の仕事でもデータを元に、集計をして営業方針などを決めてしまうことはよくある。こうすれば必ず売上げは増えるはず、と思って計画を練るのだろうが、まったくその通りにうまく運んだことはない。

それは、現場の意見をまったく聞かず、過去の数値だけを集計して出した計画だからだろう。はじめから効率的なことばかりを念頭に置いて計画すれば、実際に働いている営業マンの気持ちがわからなくて、失敗するものだ。


質問の仕方が本当に上手な人は、質問の形をとらない。

2013年01月25日 | Weblog
「いい質問は、人を動かす。」中谷彰宏著より。

話がはずまないときは、質問が悪いことが原因でもあるらしい。確かにどうでもいいつまらない質問をされれば、いい加減な返事でもいいだろうと思ってしまうものだ。

つまり質問自体がいいコミュニケーションになっているかどうかがポイントのような気もする。コミュニケーションがヘタな人は、答えにくい質問をするようだ。

かつての人気TVドラマの古畑任三郎は、質問の形をとらないで質問をしていたのだった。ストレートな質問ではなく、遠まわしに聞くことにしていた。すると相手のガードが緩むからでもあった。

相手の趣味を聞く場合も、まず自分のことを語るのだった。「最近ハマっているものがあるんですよ」と話し始める。もし、相手も関心があれば、話し始めるという。

またく異なる趣味の話が出てくるかもしれない。ポイントは趣味という言葉を「ハマっていること」に置き換えていることだった。また質問をしないで、自分が語ることで、相手にも話させることだった。


言われないことも自らやる。

2013年01月24日 | Weblog
「信頼は、つくれる」草野仁著より。

このフレーズだけだと、まるで新人に言っているようにも思える。しかし、これはどんなベテランにも言えることだとも思える。仕事をする際にも、ただ単に言われたことや決まったことだけをやっているのでは、面白くもない。

むしろそれだけだと義務感や作業にさえ感じられる。たとえ結果的に同じでも、そこにはやりがいもあまりないのではないだろうか。仕事も遊びも進んでやるからこそより楽しめる。

私自身の経験からしても、人と同じやり方では満足できなったものだ。そこに自分らしさがあるやり方で結果を出したかった。マニュアルとは違った方法で、いろいろと試行錯誤しながらやることで、自分なりのノウハウをつかめて楽しい。

仕事ではもっとこういうふうに工夫すれば、異なる結果が出るだろうという予測も面白い。そして、それなりの結果が出れば、人に新しいノウハウとして伝えることもできる。

誰でも一生懸命に仕事をやることはできる。しかし、それだけではやりがいも面白味も少なそうだ。むしろ言われないことを、考えやってみると、記憶にも残りやすい。


そもそも人はいろいろと複合的な才能をもっているものだ・・・

2013年01月23日 | Weblog
「信頼は、つくれる」草野仁著より。

まずは草野氏自身の経験が述べられていた。もともとNHKに入社した際は、記者に適性があると思っていたにもかかわらず、アナウンサーとして喋る仕事をせよと言われたことだった。

その頃は人前で喋ることなどとても無理で、適性などないと思っていたそうだ。ところが、もう数十年もその仕事を続けられているということは、結果的に適性があったということだと振り返っている。

そんな経験から、人は一つだけの才能に限らないと感じたそうだ。次にはプロ野球の広島東洋カープの選手について触れていた。広島の初優勝は1975年だった。その頃の中心選手といえば、山本と衣笠だろう。

ところが、その年のシーズンに関しては、優勝に貢献した選手がいたのだった。それはドジャースから来たホプキンスだった。本塁打33本(山本30本、衣笠21本)、打点91(山本84、衣笠71)、打率は高くはなかったが、優勝に貢献していたのだ。

数年後引退して、医科大学に入学して、現在でも整形外科医として活躍しているという。実に驚くべき転身にも思える。父親が家具職人で、腰を痛めて苦労した姿を見ていたので、整形外科医になる夢を抱いていたという。

そして、スポーツも万能でメジャーリーガーとなり、日本のプロ野球選手になっても、必ず医学書を読んで勉強していたという。努力できるということも実に大きな才能でもあったようだ。


当たり前にしてしまえば辛くない。

2013年01月22日 | Weblog
「信頼は、つくれる」草野仁著より。

これは第二章「プロ意識と信頼」ということについて述べられている部分にあったものだった。人から見れば、実に大変そうに見えることでも、それをしている本人にとっては、当然なことも多い。

かつて草野氏が競馬の武豊騎手と話をした時のこと、毎日早朝からの準備やトレーニングについて、やらねばならないことがあるから大変な仕事だと感想を述べた。

すると武騎手は怪訝そうな顔をして、一度もそんなことを思ったことはないと答えたのだ。それはもともと憧れて就いた仕事だったから、人から見てどんな苦労なことも当たり前のことと考えていたからだった。

「やらなくちゃいけない」、「努力」なんて言葉をつけてしまった瞬間にそれが重荷になると思うと答えていた。確かに自ら進んでやっていることなら、苦労など感じないものだろう。トッププロはそれなりの意識を持っているものだな。

面倒だと思えることも、日課にしてしまうことで、当たり前にできる。しかも、もしそれが趣味だったら、準備やトレーミングは楽しみでさえある。普段は寝坊でも、ゴルフや旅行なら早起きは進んでできるものだ。


「相手に話しかける」という意識をしっかり持つ・・・

2013年01月21日 | Weblog
「信頼は、つくれる」草野仁著より。

サブタイトルは、“なぜ草野仁は、長寿番組の司会者であり続けられるのか?”となっていた。長寿番組とは氏が司会を務める『世界ふしぎ発見』のことで、もう27年も続いている。

私も時どきこの番組を見ることはあるが、ついついその内容の面白さに引きこまれてしまう。長年にわたって視聴率がとれているということは、番組への信頼が高いともいえるのだろう。それは当然司会者の力も大きいはずだ。

この章のタイトルは「言葉と信頼」だったが、相手に伝わる話し方について述べられていた。そこで大事なのはテクニックよりむしろ相手に話しかけることだった。

そこでは話す内容を暗記せず、ポイントを押さえることを勧めている。プレゼンなら、商品のアピールポイントはどこか、他社との違い、相手へのメリットを事前にしっかりと確認することだった。これも練習次第かな。


誰でも人は何かを得ようとしたら、対価を払わなければならない。

2013年01月20日 | Weblog
「老いの才覚」曽野綾子著より。

老化が進むと、ついつい人にやってもらうことが増えるものだ。人は好意でいろいろしてくれるものだろうが、そんな好意に甘えているのはよくないという。

そのうち、してくれるのが当たり前だと麻痺してしまうのではないだろうか。これはある意味お店のサービスとも似ている。お店では特別なお客さんだからと、親切なサービスと考えやっていることも、それを継続しているうちに、やってもらうのが当たり前だと勘違いしてしまう。

感謝の気持ちがなくなったら、意味がない。老人になり、自分のできないことをやってもらうなら、それなりの日当や時間給を支払うのが当たり前だったのだ。

東京では、収入のない70歳以上の人には、バスの年間フリーパスが千円らしい。これだけでバスが乗り放題とは、すごい優遇だ。生活の厳しい人が利用するのはいいが、中には「安いからと暇つぶしに乗っている」人もいるようだ。

曽野さんのご主人は80歳以上だが、映画の優待割引も使わないという。まあ経済的にゆとりがある人はそれでもいいのだろう。また、精神の若さを保つ上でも、自立の気構えは大切な要素のようだ。


老化をはかる目安としているのが、「くれない指数」。

2013年01月19日 | Weblog
「老いの才覚」曽野綾子著より。

一般に老人とか高齢者は65歳以上といわれている。しかし、まだまだ元気で働ける年齢の人も多い。実に個人差があるようだ。

ここでの「くれない」とは人が自分に何かをしてくれない、と嘆いたり、依頼することを指していた。実におもしろい表現で頷けた次第。

友だちが「してくれない」、配偶者が「してくれない」など、またどこどこへ「連れて行ってくれない?」や、ついでに「買ってきてくれない?」などの頼みごとも入っていた。

絶えず他人を当てにしている人がいるが、そういう言葉が多い人は、年齢に関係なく老化の始まりだという。老人だからといって、乗り物で座席をゆずってもらうのが当たり前だというのも、やはり老化が進んだ証拠だろう。

むしろ自分で何ができるかを考えることが大事だった。どう工夫できるかを考えることは本来楽しいことでもあると思うのだが、高齢になるにつれてそれが億劫になるのだろうな。


何かをすることによって、次のやりたいことが生まれてくる。

2013年01月18日 | Weblog
「自分の才能に気づく55の方法」中谷彰宏著より。

ただ何もしないで、椅子に座って、何かやりたいことがないかな、と思っていても眠くなるだけで、何も思いつかないものだ。むしろ、身体を動かして何かをすることで、見つかることが多い。

中谷氏は、数百冊の著書があるが、人から「なぜそんなにたくさんの本を書けるのか?」と聞かれるという。氏は1冊書くと、3冊くらい書きたいことが生まれるのだと答えていた。

つまり氏にとって、書くことは一生の仕事になるのだろう。何かをするからこそ、次にやりたいことが生まれてくるようだ。やりたいとを次々と見つけて、やっていくことで、才能は見つかるということだった。

そのやることは同じことでも、変わってもよかった。まあ、才能があろうとなかろうと、その時間を有意義に過ごせればもうけものかな・・・


才能はスピードの中に存在する・・・

2013年01月17日 | Weblog
「自分の才能に気づく55の方法」中谷彰宏著より。

才能はスピードとは切り離せないものらしい。まずは、そのことが好きではないとスピードは出てこないものだ。好きなことなら進んでできるから、それに従ってスピードアップするといえる。

逆に好きなものはだらだらとやる気がしないのではないだろうか。てきぱきとやれるのは、それが嫌いではないという証拠かもしれない。また苦労さえも楽しめたりするものだ。

仕事や趣味とは関係ないが、昨年末から朝のウォーキングを始めている。始めのうちは、筋肉も痛くなり、スピードは出なったものだが、そのうち慣れてくると自然と歩くスピードがアップしていた。

人と一緒に歩いている時も、意識しなくても早歩きになっていた。歩くことが嫌いではないのだろうと思える。最近では同じ距離を歩く時、どれだけ時間を短縮できるだろうかなどと考えるようになってしまった。これは才能ではなくただ面白いだけだが。