ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

本当に大切なものは目には見えない。

2007年10月31日 | Weblog
朝日新聞ホームページ「どらく」より。2007.10.25日分。

「ひとインタビュー」の記事のなかで、歌手の石川さゆりさんが語っていたことば。今年で歌手生活35年目に入ったというからプロとしてもかなりのキャリアだ。

石川さんにとっては、一つひとつの歌やステージを作り上げていたときの思いや、人との出会いが大事だと振り返っている。それらは目に見えるものではないが、ずっと大事にしているようだ。

また彼女への「人生に影響を与えた本は?」という質問に対して答えたとき「星の王子さま」(サン・テグジュペリ著)を挙げていた。それによって「本当のことは目にはみえない、自分の心の目で見ることの大切さを教えられた」とも語っていた。

そういえば、モノよりそんな実際には目にすることができないが感じられるもののほうが大事に思えてきたな。お金よりも幸せ感とか。高額なモノよりは健康、友情、家族愛、絆なんていうのもそうかもしれない。

もし、仕事だったら商品以上にサービス、信用、信頼関係などがくるかもしれないな。それから、将来のためにいい思い出作りができたらいいが。


自分たちで作るようなものではないものを作れるようにする。

2007年10月30日 | Weblog
ウェブサイト「百式」2007.10.21付けより。

ここではこれから結婚するカップルが一緒に指輪を作れる工房を紹介していた。とは言ってもアメリカの記事だが。さっそくそのhttp://www.newyorkweddingring.com/ というサイトを覗いてみた。

すると、「あなた自身の手で結婚指輪を作ってください!」というコピーが飛び込んでくる。もちろん金細工職人が指導してくれるのだ。素材は18金からプラチナまで各種ある。作る工程はデザインや磨きといった作業だろうが。

よく結婚式ではウェディングケーキにナイフを入れるのが最初の二人の共同作業だ、などと言われるがこの指輪を二人で作るというのもあとまで残る記念行事になるかもしれない。創造的な作業を二人ですることに意義がありそうだ。

要するにその作る過程を楽しみ出来上がった時の満足感は格別なものがあるのだろう。オンリーワンの一対の指輪というのもちょっと驚きを与えてくれそうだ。ただし、万一失くしたら同じものはないかもしれないが。

さて、タイトルのフレーズにもどると、つまりおそらく素人ではできなそうなものを誰でも携われるところに驚きがあるのだろう。だから、この結婚指輪以外にもなにか考えればちょっとしたビジネスのヒントになりそうだが・・・


日常の中の非日常。

2007年10月29日 | Weblog
「メトロミニッツ」2007.10.20号より。

いつも見慣れた街中の大通りには、しばしば大勢の人だかりがあったりする。その中心をのぞいてみれば、大道芸をやっている。私はほとんど横目で通り過ぎるだけだが、かなりじっくりとパフォーマンスを楽しんでいる人も多そうだ。

見せるための芸である限りは、人をひきつけ楽しませるものでなければならない。一般大衆は正直なもので、面白ければ多く集まるし、つまらなければ人はすぐに立ち去ってしまう。野次馬を観客に変えてしまえるような大道芸人はイコール本物のアーティストでもあろう。

また、駅周辺では路上ライブもしばしばお目にかかる。これはほとんど毎日あちこちでやっている。ふだんは何気ない駅近くにもミュージシャンたちの楽器や歌声が響く。新宿駅周辺ではちょっとした広い通りがあれば、ラテンミュージシャンのグループやソロでギターやキーボードを弾きながら歌う若者がいる。

彼らのパフォーマンスは今ではすっかり風景に溶け込んでしまっているようでもある。運が良ければ、メジャーデビューするグループも出てくる。今後ともこんな風潮は増えていくだろう。

また、何年も前から私の住む地元の駅周辺でも毎晩のようにギターの演奏で路上ライブを繰り返す若者がいる。しかし、実際に足を止めて聴き入っている人は少ないな。天候にも左右されるかもしれないが。


想像力とはシミュレーションする力。

2007年10月28日 | Weblog
「ゴールデンミニッツ」2007.10月号より。

巻頭ロングインタビューのなかでの俳優長塚京三さんのことばだった。この一言が発せられる前に、次の質問があった。「演技力、体力、忍耐力・・・仕事上もっとも重要なのは何ですか?」というもの。

どの一つも重要であるに違いない。それに対して長塚さんはそこにはない「想像力」を挙げていた。これは一般人には思いつかないだろう。そして、シミュレーションする力こそが、彼が役者としてもっとも大切にしてきたことだったのだ。

シミュレーションしていくなかでベストの演技を探しているのだろう。また演技にしても、最初にやったもの(ファーストテイク)が最高だとも感じている。またこれは演技に自信があるからこそ言えることなのだろう。

シミュレーションという言葉、知ったつもりになって曖昧に使っていたかもしれない。もう一度辞書で調べてみた。シミュレーション (Simulation)とは、実験・訓練を目的とし、複雑な事象・システムを定式化して行う模擬実験をいう。(なんだか堅苦しい表現だ)

またシミュレーション力を発揮するには、それまでにいくつものパターンをあらかじめインプット(習得)しておく必要もありそうだ。何ごとも基礎がなければ応用問題も解けませんからね・・・


この1、2ヶ月で自分を変える何かした?

2007年10月27日 | Weblog
「R25」2007.10.25号より。

読んだ部分のタイトルは、「プチ自分改革のススメ」とあった。要するに何か新しいことを始めれば、今まで気づかなかった新しい発見もあるはずだという主旨の特集だった。

ここには、20代、30代の人たちへのアンケート結果があった。そこでの質問1はここ1、2カ月で実んを変える新しいことにチャレンジしましたか?で、その答え、ハイが52.6%。イイエが47.4%だった。

質問2、チャレンジしなかった理由は何ですか?の答えの上位3つ(複数回答)は以下のとおり。1、時間がない。60.1%。2、お金がない。35.8%。3、めんどくさい。17.7%。となっていた。

たいていは「そのうちいつかやろう」と思っているうちに時間だけが過ぎてしまうことが多い。またチャレンジしなかった理由は「時間がない」がダントツに多い。とはいっても、5年先、10年先までいまやりたいことを覚えていられるか、またその時時間があるかどうかもあやしいな。

先ほどの答えを見れば、半数もの人が何かにチャレンジしたことになっている。意外に多い。やはりそれは若さだろうとも思える。歳をとるにしたがってめんどくささが先にたってしまうかも。その前にチャレンジする対象が見つからないとか、必要性がないと考える人もいるだろう。

プチ自分改革って、思い切りがないとできそうもない。たとえば、ブログに日記を書き続けることも自分改革に役立っているのだろうか・・

何だか手品の種明かしを見せられたみたいに・・・

2007年10月26日 | Weblog
「今日の芸術」岡本太郎著より。

これは本文のあとの解説の部分で赤瀬川原平が書いていたフレーズだった。それほど具体的で解りやすい内容ということでもあろう。この本が出版された1950年代の画家や画家志望の若者たちに強い影響を与えたようだ。

そして、赤瀬川氏も当時は画学生で、かなり影響を受けたひとりで、次のように語っている。「読書が不器用な僕でさえも読んで勇気づけられ、前衛への道をそそのかされた」というのだから、この本は大変な力を持っていたことも想像できる。

氏は現在、作家(芥川賞)として活躍しているが、スタートは前衛芸術家だったのだ。初速のスピードは「この本にコツンと背中を押された」と述懐している。(もしこの私が20代にこの本に出会っていたら・・・やはり別にどうということはなかったな。)


岡本太郎が亡くなったのは1996年だった。もう10年以上が経過していた。なんだか数年前までテレビ番組やCMに出演していたような気もする。そして、テレビの中でもこの本の中にも書かれているような芸術論を展開していたものだ。

そういえば、「太陽の塔」も「太郎の塔」と名づけようかと思っていた、という発言も思い出される。実にユーモアのあるギョロ目のおじさんだったな・・・
(芸術の秋ともいわれるので、今週は長々とちょっとそれにこだわって書いてみた次第)


芸術の本質は技術であって、芸の本質は技能。

2007年10月25日 | Weblog
「今日の芸術」岡本太郎著より。

ここでいう技術とは単なるテクニックという意味ではなかった。だから手先が器用かどうかなどは問題外のことでもある。つまり繰り返しではなく、つねに古いものを否定して新しく創造し発見してゆくものを指していた。革命的である必要があるのだ。

人が日常使っている道具も技術も時代とともに発展してきている。美術史の時代を振り返っても同じ形式は繰り返されてはいない。だから印象派の時代が再び来ることはあり得ないだろう。

一方、芸ごとは技能の問題になる。長年の熟練によって到達するものだった。「腕を磨く」という表現でもわかる。長年のコツや勘も要求されよう。長年かかって体に覚え込ませることが必要だからスタートは早いほどいいのだ。

技能は思いつき、精神力だけでは決してできない。何よりも時間の経過が大切になってくる。ところが芸術はいきなり感動的な作品を創ることも可能だ。もちろん才能さえあればの話だが。

音楽、絵画、文芸・・・などの世界では十代のうちに、いきなり世間から高い評価を受けることもしばしば目にする。(ただしそれが継続するかどうかはまた別問題だろう。)

逆に素人だからこそ新鮮な表現ができ、革命的な作品ができたりするもの。真の芸術家は長年にわたって独自の世界を創り上げた人とも言えるだろう。ピカソやマチスが二十世紀芸術の代表者であるように。


芸術は、いわば自由の実験室です。

2007年10月24日 | Weblog
「今日の芸術」岡本太郎著より。

絵を描くことは子供のころからやっていることだから、誰でも簡単にできるはず。むしろ文章を書くことよりも容易なことだとも思える。しかし、人に見せたりうまく描こうと思ったりすると、とたんに手が止まってしまうもの。

そこで、でたらめな絵でもいいから絵がこうとしても、また描けなかったりする。人の描いたものなら批評できるのに、いざ自分が無から創造しようとしても容易ではない。

つまり自由に勝手にと言われても、難しいことがわかる。これは何かモノを書く場合でも同じことがいえそうだ。何か人からテーマや質問を与えられたほうが頭が働き始めたりするもの。

芸術という世界では自由に表現できる。だからもともと自分のなかに何か創造の種がなければむりなのだろう。その世界で新しい価値を生み出すことは並大抵ではないとも言える。既製のものを繰り返したり模倣は決して許されない。

しかし、その分何ものにも拘束されずに創造することができる。だから氏は“芸術”は、いわば自由の“実験室”という表現を用いたのだろう・・・な。


芸術はここちよくあってはならない。

2007年10月23日 | Weblog
「今日の芸術」岡本太郎著より。

氏はこの一冊のなかで「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれであってはならない。ここちよくあってはならない。」ということを宣言している。これが芸術における根本条件だという。

一般的には絵はうまくとかきれいな方がいいとか見て心地いいものだと思いがちだが、本物の芸術ではそうではないようだ。むしろすぐれた芸術には常識とはかけ離れた飛躍的な創造こそが要求されるのだった。

たとえば、ピカソの絵は、楽しいというよりむしろ不快感、いやったらしさを感じさせるようだ。意見しても頭では理解できない。しかし二十世紀を代表する独自の作品を生み出している。

また、ゴッホは今でこそ数十億円の単位で取引されてはいるが、存命中は一般からは認められず、一枚も絵は売れてはいなかったようだ。しかも絶望して自殺までしていた。

すぐれた芸術は、残念なことだが、しばしばその時代には理解されなかったりするものかな。時代がまだその作家に追いついていかなかったのだろうか。

外からの条件ばかりが自分を豊かにするのではありません。

2007年10月22日 | Weblog
「今日の芸術」岡本太郎著より。

まさに人生論そのものといった調子の内容が第一章からつづられている。簡単な言葉で言ってしまえば、物質よりも精神の満足感こそが大事なのだということなのだろう。電化製品や車などによって生活が楽になるというような、外からの条件よりもむしろ、自分自身の生き方、力をつかむことが大事だと述べている。

それは別の表現では、自分が創造することイコール自分自身を創ることだとも言えるようだ。岡本太郎といえば、すぐに思い出すフレーズは「芸術は爆発だ!」というものがある。やはり爆発のようなエネルギーを感じさせるものこそが人にも感動を与えられるのだろう。

「芸術」などというと、なんだか一般人には近寄りがたいようにさえ思えるが、意外にもっと身近にありそうだ。“わかる”とか“わからない”と頭で理解するより見て何かを感じ取ることのほうが先にくるのだろうな。それは時には言葉では表せないものかもしれない。ただただ凄過ぎて。

単にきれいに描かれた絵は、心で感じる美しさとはまったく別ものでもあったのだ。芸術は絶対に理屈で教えられるものではないと主張している。むしろ、ものの形や色はこうでなければならない、というような先入観こそが、真の感動の邪魔をしているかもしれないな、と、ふと思った次第。(フレーズとはかなりずれてしまったか・・・)


芸術には古いも新しいもないはず。

2007年10月21日 | Weblog
「今日の芸術」岡本太郎著より。

まずは、この本(文庫本)を書店で手に取り、数ページを読んだだけで、その文章のわかりやすさに魅かれてしまった。初版は1954年だった。もう半世紀以上前に書かれたものだった。しかし今読んでも実にみずみずしい。まったく古さを感じさせない。文庫本としては1999年が初版で、手元のものは23刷発行だった。実に多くの人に読まれていることがわかる。

また、序文が横尾忠則(画家)によって、また最後の解説が赤瀬川原平(画家、作家)によって書かれているのもうれしかった。つまり、岡本太郎の消化しやすく栄養価のある中身が横尾、赤瀬川両氏によってサンドイッチになっているようにも思えた次第。

こんなことからも、私にとっては見るからに美味しそうな一冊でもあった。と、前置きばかりが長々と続いてしまうが、ざっと読んでみて、芸術のことばかりではなく、むしろ広く人生論的なものとしても読める。先ほどの両氏も若いころ読んで大いに刺激を受けたようだ。

そして、光文社文庫に入れてほしいと依頼したのが、なんと横尾氏自身だったのだ。だから結果的に文庫本の序文を書かされでしまったようだ。ということで、タイトルのフレーズは横尾氏の言葉だった。と、同時に岡本太郎の考えでもあった。

芸術は古いとか新しいとかよりも、むしろ時代を超えて普遍的に存在しているかどうかが問題だったのだ。ピカソが言った次の言葉が引用されていた。「一枚の傑作を描くよりも、その画家が何者であるかということが重要である」と。

そして、横尾氏は岡本太郎ほど、そのピカソの言葉がぴったりの芸術家は日本にいないと語っていた。この本によって、あのギョロ目のおじさんは実に偉大な芸術家だったことを再度教えられた気もする・・・な。


野球は人間のぶつかり合い、数字で分析しきれないところが面白いはずだ。

2007年10月20日 | Weblog
「産経新聞」2007.10.16付けより。

(前日の続き)
メジャーリークで分析家GMが流行になったのは、アスレチックスのビリー・ビーンGMを描いた『マネー・ボール』がベストセラーになった影響らしい。そこでは「お金を使わずに勝てるチームが作れる」とデータ分析によるチームづくりを誇張している。

そこまで考えると、これはちょっと一般会社の営業部門にも通じるような話にも思えてきた。要するに人間を見るより先にコンピューターの中にある過去のデータだけを分析して商売をしようと考えているようにさえ思える。

しかし、実際はビジネスともなれば、データだけでなくしっかり相手を見て状況を感じ取りながらすすめることも同時に必要なことだと思えた次第。まずは信頼関係を作らねば。

今までの野村ID野球でも一見するとデータだけが重視されているように思えた。しかし、同時に人間もよく観察して他チームを解雇された選手でさえ楽天では活躍させているのは、人間(性)をしっかり見て指導しているからなのだろう。

ところで、面白いのは今季リーグ優勝シリーズに残ったメジャー4チームのGMが、1990年代にインディアンスを5度プレーオフに導いた、伝統派のジョン・ハートGMの下で修行していたという。

そうなると単なる数字データよりも人間重視の方が長い目で見たら正解かも・・・(ものごとはそう単純ではなさそうだな・・・だから野球は面白い)


選手の才能を見抜く目をもったスカウト網の充実こそが勝利への道。

2007年10月19日 | Weblog
「産経新聞」2007.10.16付けより。

現在日本のプロ野球では成功したGMとして日ハムの高田GM(ゼネラルマネジャー)が高く評価され注目されている。昨年は日本シリーズにも勝ち日本一。今年も二年連続でパリーグを制覇している。(今日現在ではあとはセリーグの日本シリーズ進出チームを待つばかり。)しかも高田氏は来期からはヤクルトへ監督として招へいされるようだ。

さて、“メジャーリーグ”というコラムの中で、メジャーでは今季7球団のGMが交代したと書かれていた。今まではせいぜい2、3球団だからこの数は異常のようだ。その中にはプレーオフに何年も連続して進出し、ワールドシリーズで優勝したような輝かしい成績で折り紙つきの名GMも数人含まれていた。

彼らはタイトルのフレーズにもあげたような伝統的な方法でチームをつくり長期間成功してきている。このようなやり方は人手や手間暇がかかる。そこで、最近ではデータだけで選手を分析し、つまりコンピュータのなかの数字だけを分析して選手を探すようになってきているという。

だから、スカウトが靴の底を減らして選手を探すことが軽んじられてきているらしい。野球人というより分析家GMがトレンドになってきているようだ。はたして合理的であることだけがすべてだろうか・・・・・



すべてのコミュニケーションは、“次”へつなげるためのもの。

2007年10月18日 | Weblog
「R25」2007.10.11号より。

とくにビジネスについて考えてみれば、容易に理解できる。「もう一度話したい」と相手に思わせられなければ仕事もうまく運ばないだろう。

その際ポイントとなるのは声の抑揚だった。それによってどんなに素晴らしい内容を話したとしても、声の印象で話の価値はまったく変わったものになってしまうからだ。

話す相手によって、またその時の状況によって声の質やスピードを意識的に変えることも必要そうだ。もし謝罪の気持ちを伝えるなら、”こもった”声を出すのがポイントらしい。

また、うまく頼みごとをしようと思うなら、饒舌な話し方をするのは逆効果だという。これは控えめなかすれ声がいいようだ。

相手を自分の話に引き込むためには、話の“間”をうまく使うといいらしい。時には沈黙を利用するなど。東国原知事の場合は、言葉以外にその場から移動したり、ポケットから何かを取り出すという動作でうまく沈黙の時間を作り出している。

もし、お願いや要求を断る場合なら、あいまいな表現はよくない。低くて鋭い声をだして拒絶の意思をはっきり示すのがいいようだ。いずれにしても、苦手な場合は意識して練習するしかないだろうな。

アイデアを貯金しようと思ってもダメなんですよね。

2007年10月17日 | Weblog
「R25」2007.10.11号より。

たまたま前日の日記と関連するような記事を目にしたので気になった次第。これはお笑いタレントの南原清隆の言葉だった。ギャク一つにしてもオリジナルなアイデアと言えるだろう。

つまりお笑いもアイデアがかなり要求される世界だ。同じものはそう何度も繰り返すことができない。ブレイクしてもそれがいつまで続くか分からない。マスコミによる使い捨ての感じもする厳しい世界だ。

そんな中でも二十年以上にわたって売れ続けているのは大したもの。内村と組んで「お笑いスター誕生」に挑戦したのは20歳のころだった。当時毎週土曜日の午後のこの番組を楽しみに見ていたことを思い出す。

南原の言葉では、お笑いのアイデアも今あるものをベストとして全部注ぎ込む(つまり吐き出すということ)、そしたら新たなものが出てくるという。

だからこそ彼はお笑い以外にもいろいろなものにチャレンジしているのだと理解できる。たとえば、古典芸能の狂言、落語、ダンス、スポーツジャーナリスト・・・。

ダンスも練習だけでなく競技に出るレベルまでやっている。またかなりの格闘技通でもあったな。億劫がらず常に自分にしか行けない道を追求しているからこそ、厳しいこの世界で生きていけるのかも。