ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

年収階層の差がそのまま子供の学力差となる。

2012年05月31日 | Weblog

「年収300万円時代を生き抜く経済学」森永卓郎著より。

かなり刺激的なセンテンスがあった。それは「金持ちが再生産される仕掛けは、すでに確実に作られている」とあったからだ。その役割を果たすのが教育だった。

今では普通の公立中学、公立高校から東大をはじめとする一流銘柄の大学に入ることは非常に困難になっているという。ということで金持ちの層は費用がかかっても子供を私立に入れたがる。

実際幼稚園、小学校の段階からエリート層と非エリート層に分かれていた。有名大学への進学実績のある中学、高校へは幼いころからの塾通いが当然らしい。

つまり膨大な費用がかかるということは、親の経済力が必要になってくる。年収の差が、子供の学力の差にもなって現れるというのは、なんとも悲しい現実でもあるな。


「普通のサラリーマン人生」というのが、猛烈な勢いで縮小していっている。

2012年05月30日 | Weblog
「年収300万円時代を生き抜く経済学」森永卓郎著より。

かつてベストセラーになった本をたまたまブックオフで見かけたので読んでみた。この本の帯には“弱肉強食時代を生き抜く生活防衛術”とあった。ちょっと参考になりそうだと思った次第。

136ページには次のようにあった。「いまやすでに、大学や高校を卒業したあと、新卒で就職して、一つの会社に3年続けて勤務する人は、統計上でも4割を切っているのだ」と。

ということは6割以上の人が3年以内に辞めてしまうのだろうか。ちょっと驚きだった。いったん就職したら、一つの会社または組織に数10年にわたって勤務するのがかつては「普通のサラリーマン人生」だと思っていたものだ。

正社員の雇用機会が縮小して、パート、派遣社員、アルバイト、フリーターなどが増えていくということだった。今後はこのような労働形態の人がもっと増えていくようだ。

ということは、もし新卒で就職して定年まで同じ会社で勤められればラッキーな方だろうか。あるいは、ほかにこれといって能力もなく、ほかに転職もできずに、長年そこに留まざるを得なかったとも言えそうだが。

正社員になれなかったといっても、今後はそれが必ずしも「負け組」とは言えないと森永氏は指摘していた。それは従来の働き方とは違った新しい価値観を築いていく可能性もあるからだった。う~む・・・


年下だろうと誰だってヨイショする・・・

2012年05月29日 | Weblog
「声に出して笑える日本語」立川談四楼著より。

ヨイショの達人というのがいるらしい。それは古今亭志ん駒師匠のことだと筆者はいう。カミさんにも子供にもヨイショするという。というのも、カミさんや子供の機嫌がいいと家の中が明るくなるというのが理由だった。

なるほど、そうかもしれないが、今までそんなこと考えたこともなかった。改めて気づかされる。ヨイショする対象が年上なら理解できるが、年下までとは考えられなかった。実際にそれをやれるのはやはり達人だろう。

ある日、談四楼氏は志ん駒師匠に、ヨイショの対象が年下ばかりでやりにくくないかと、聞いたときの答えが上記フレーズだった。しかも、「一歩外へ出ると、もう街を歩いている人のすべてが客に見えてしょうねえ」とまで語っていたのだ。

実に驚くべきヨイショの達人だと思わせられる。さらに、この師匠の座右の銘は「される身になってヨイショはていねいに」だという。ていねいとはどれほどのものだろうか・・・。相手がそれを聞いて気持ちが良くならなければ本物とは言えないのだろうなぁ。

いつも相手が「初めて聞く情報」提供する。

2012年05月28日 | Weblog
いつも相手が「初めて聞く情報」提供する。

「フォローの達人」中谷彰宏著より。

もしお客さん相手の仕事をしている場合、ついつい同じような情報を提供してしまうのではないだろうか。フォローの達人なら、そのつど新しい情報を提供しているという。

新しい情報をオマケとしてつけてあげるという発想も大事だった。その時は、必要ないと思われても、あとでそれが役立つかもしれない。またお客さんにとってオトク情報でもいいはず。

お客さんにとって初めての情報を提供するためには、それだけ自分も常に新しい情報を身につけておかねばならないということになる。それがあればこそ提案もできる。

また話す相手によって、どんな情報が喜ばれるか、また価値があるかを判断しておかねばならない。フォローの達人はこれがしっかりできる人なのだろう。

つまり、人と同じことをくり返しているだけでは、そんな能力は身につくはずはない。時間をかけずには、何ごともスムーズはいかないものだな。まずは事前に何を準備するか・・・

今まで言っていた否定・禁止・命令の言い方を、依頼・感謝・提案という形に変える。

2012年05月27日 | Weblog
今まで言っていた否定・禁止・命令の言い方を、依頼・感謝・提案という形に変える。

「フォローの達人」中谷彰宏著より。

仕事上でなにかきまりを守るべきことがある場合、「違います、いけません、こうしてください」、というべきところをそのままストレートに注意してしまうとうまくいかない場合も出てくる。

それがお店の場合は、もう二度とこんな店には来たくないと思われてしまうものだ。一つの例があった。1、ここで携帯電話をかけないで下さい。2、かけてはいけないことになっています。3、すぐ切ってください。

こんな場合、「すみません。携帯電話のご使用はのちほどお願いできますか。」「ご協力ありがとうございます」「もしお急ぎの用でしたら、あちらのほうでしたらほかのお客様にご迷惑にならないので」とするといいようだ。

同じ内容でも、言い方で印象が変わってしまう。頼んで、感謝して、こうしたらという提案ができるかどうかがポイントだった。それにしても、まだまだケータイ電話を喫茶店の席で平気でかける人がいるのには、お客としても頭にくるな~。店の人にちゃんと注意して欲しものだと思った次第。

フォローの品種改良をどれだけやっているでしょうか。

2012年05月26日 | Weblog

「フォローの達人」中谷彰宏著より。

実に面白い表現だと思った次第。品種改良といえば、動植物ばかりだと思っていたから、意外でもあった。この部分の最初のワンセンテンスは「フォローとは、たえまない品種改良の努力です」とある。

日本人が今食べている野菜や果物は、すべて品種改良されたものだった。そういえば、子どもの頃食べたリンゴは硬くて酸っぱかったのを思いだす。しかし、今では柔らかくて甘いものがほとんだ。

野菜や果物もすべて見栄えや味もどんどん向上していっている。その分素朴な味わいが失われているということも考えられるが。食べるものに限らず、身の周りのものはどんどん良くなっている。

いつも同じようなフォローの仕方ではなく、より良いものにしていくということも必要だったのだ。今すぐ売上げや成果に結びつかないようなサービスも工夫が必要なのだろうな。


フォローは、そのこと自体で売上げや得点につながらない。

2012年05月25日 | Weblog
「フォローの達人」中谷彰宏著より。

サブタイトルとして、“「また会いたい」とと言われる54の具体例”となっていた。確かに仕事でフォローをしてもらったり、したりということはしばしばだ。しっかりフォローしてもらった人にはお返ししなければとも思う。

フォローは「つなぎ」ということでもあった。それで次の仕事がスムーズにいけばうれしいものだ。ある意味メインではないオマケのようなものでもあった。チームでするスポーツならフォローは当たり前に大事なプレーだ。

ここに意外な例があった。それはかつて荒川静香さんがやっていたイナバウアーだった。それ自体は、いくらやっても得点にはならない演技だった。またマニュアルにものっていないことだった。

このつなぎの技をやって失敗すればマイナス、うまくいってもプラスにはならなかった。でもそれをやることで彼女らしいオリジナルになっていた。自分の仕事の上でも、こんなことをやるのはあの人に違いないというようないいフォローを持っていたいものだ。

決まりやマニュアル通りにやってそれなりの成果を上げたとしても、決してフォローの達人にはなれなかった。またそれだけでは、始めにあげたこのサブタイトルのように、また会いたいと言われる人にはなれないようだ。


友だちに対して、違う価値観をどれだけ提示していけるか・・・

2012年05月24日 | Weblog
友だちに対して、違う価値観をどれだけ提示していけるか・・・

「笑われた人が、ヒーローになれる」中谷彰宏著より。

いきなり次のようなやや刺激的な言葉があった。「ただのオヤジにならないようにするためには、居心地のいいネットワークから抜け出すこと」と。いつもの仲間といつもと同じような話ばかり繰り返しているというのはほとんど刺激がない。成長もなくただ歳をとっていくだけとなってしまう。

居心地のいいネットワークは同じような価値観の人が集まっているが、それだけでは良くないのだ。皆が同じ意見だというのも価値がない。賛同、同調だけでは盛り上がらない。「私もそう思う」というのは個人の意見としては弱すぎるな。

だからこそ、違う価値観を提示することも大事だったのだ。確かに議論は居心地はよくない。誰もが納得してくれるとは限らないからだ。しかし新しい価値観を生み出すためにはそんなことも時には必要だったのだ。

やや関係ないが、同僚とランチに行って、みなが全く同じモノを注文したときほどつまらない。4、5人で行って、全員異なるものだったら、その場で現物見本を見られたり味を聞くこともできる。そして次回は違うものを頼もうかという情報にもなる。

「器用」に、かつ「愚直」になる。

2012年05月23日 | Weblog

「笑われた人が、ヒーローになれる」中谷彰宏著より。

ヒンシュクを買う人には、2通りのタイプがあるらしい。それは、器用な人と愚直な人だった。今では多芸多才で器用な人の方が成功できるという。一芸に秀でるだけでなく、二芸、三芸の組み合わせが必要らしい。

そういえば、お笑いで成功した人は、司会や役者としてもうまくやっている。また全く別なスポーツや芸術面でも意外な才能を発揮したりしている。また役者さんでも優れた小説やエッセイを書く人も多い。

また愚直とは逆に、職人芸のように一つのことを貫き通した人だった。人からは「あの人はつぶしがきかない」と言われるかもしれない。多数派からは否定されるような人だろう。

しかし、成功するためには、この二つの要素が必要らしい。器用貧乏とか、愚直すぎる人、要領の悪い人のほうが成功する場合が多いようだ。こんな人はしばしばヒンシュクを買っているようだが。


モラルは破っても、マナーは守る。

2012年05月22日 | Weblog

「笑われた人が、ヒーローになれる」中谷彰宏著より。

この二つの言葉について深く考えたことなどなかった。もともと私自身マナーはいい方だとは思ってはいなかったからでもあるが。まず、中谷氏は、ヒンシュクを買うということは、モラルを破ることだという。

そして、このモラルとは、多数派が信じている考え方だった。それは必ずしも正しいというわけでもなかったのだ。時代によってモラルの考え方も変わるからだ。

多数の人がそれが正しいと思えばそれがモラルになってしまう。その範囲に入っていればラクなことは確かだろう。しかし、その中に入ってしまうとマナーの意識が低くなってしまうらしい。

マナーとは礼儀のことで、人に迷惑はかけないということだった。しばしばマナーの悪い人を見かけるが、もしかしたら人から見たら自分もマナーは悪いのかもしれないな。気をつけねば。

ここでの結論はヒンシュクを買っても、マナーは守らなければならない。つまり「礼儀正しく、ヒンシュクを買おう」となっていた。できるかな・・・


「芽がでない」と嘆く前にたくさんの種を蒔こう。

2012年05月21日 | Weblog

「自分を活かす極意」齋藤孝著より。

もしかしたら、このフレーズはかなり前にも別の本を読んだ時、とりあげたかもしれないが、またまた気になったので、忘れないために記しておこうと思った次第。

で、ここではいったい何がポイントかといえば、具体的なかたちにする努力をしているか、ということだった。それをまず確認する必要があった。

作家になりたいという人がいたら、その時点でいくつもの作品を書き上げていなければならないという意味だった。たとえ、どんなにすばらしい才能があったとしても、それを具体的なかたちにしていなければお話にならない。

また、日々の仕事でのアイデアもそうだ。まずそれを人に見える形にしてあるかどうか。すぐれたビジネスプランも、誰でも口に出すことはできる。しかし最低限、企画書に書いていなければ意味がないのだろう。

芽が出る最低条件は「種を蒔くこと」だった。少しでも前進するためには、意外にそのことを、忘れていたりするかもしれないな。


実は自由とは使える技が多いということだろうか。

2012年05月19日 | Weblog

「自分を活かす極意」齋藤孝著より。

一見自由とはすべての束縛から免れた状態と思ってしまう。しかし、それだけでは本当に技が自由に使えるというわけでもなかった。

つまり何ごとも勝手に自己流でやってもうまく行かないことのほうがほとんどだ。むしろ失敗したり負けたりする確率のほうが高い。

スポーツでも何でも、練習で基本の技をしっかり身につけてなければ、十分に楽しむことはできない。それができないうちは極めて不自由ということになる。

天才と言われるモーツアルトもそれまでに技術を磨き多くの名曲をマスターして身につけたからこそ、後世に残る作品を生み出すことができている。ピカソも絵画の技術を身につけたからこそ、膨大な数の自由な作品を生み出していた。

自由とか個性は耳に心地よいが、それだけでは進歩も望めない。まずは量的な反復そこが、質的変化を生み出すものと念頭に置きたいもの。


競馬の馬券を買うように勝負を賭けることが読書でも必要・・・

2012年05月19日 | Weblog
「自分を活かす極意」齋藤孝著より。

筆者は「情報摂取法」という部分で、素早く情報を摂取する工夫について紹介していた。本を読み慣れていないと、はじめの2割程度にエネルギーをかけてしまい、その後投げ出してしまうことが多いという。私もそうかもしれない。

仕事で読書が必要な場合は、むしろ自分にとって最重要個所を探して、そこを徹底的に読み込むことがいいようだ。齋藤氏は、それを2割程度に限定しているらしい。

もし、それが小説などのストーリー性のものなら、そんなわけにはいかないだろうが、たんに情報を得るための読書なら有効だとも思える。当然ながら、そのコツをつかむのは容易ではないかもしれないが。

たとえば、ということで例があった。『ルネッサンス』(カルロス・ゴーン著)の場合、ゴーン氏の生い立ちなどは、軽く目を通す程度で、「クロス・ファンクショナルチーム」という発想について、読み込めばよかったのだ。

全体の2割を呼んで8割をつかめればいいのだが。その本のポイントはどこかがわかれば読みやすい。まず自分が必要だと思われる個所を目次などで目安をつけるのがいいのだろう。

読んでも理解しにくく途中で投げ出した本も多った。そんな本は買ったことも、費やした時間さえも損した気分になってしまう。それにしても読書に対して、「競馬の馬券を買うように~」という表現はインパクトがあった。


株と人生に成功するには、少数派に徹すること。

2012年05月18日 | Weblog

「笑われた人が、ヒーローになれる」中谷彰宏著より。

もし目立とうと思うなら、少数派にまわったほうがいいようだ。多数派の中ではうずもれてしまう。そんなたとえとして、面白いものを例に挙げていた。それは株だった。

多数決に従っているうちは、株では儲からないという。みんなが売るときに買って、みんなが買うときに売るというの大原則だったのだ。みんなと同じようにして儲かる仕組みはなかったのだ。

筆者の経験から、人生も同じだという。権威がある人がある意見を言うとそれに引きずられてしまいやすい。決してそれがいいこととは限らない。逆に少数派に徹すればヒンシュクを買うのだ。ヒンシュクを買っていないということは、多数派に属していることでもあった。

別の例があった。それはファッションだ。雑誌で今年の個性的なファッションはこれだ、ということに敏感なら、多くの人が似たような服装を着ることになる。もうそれだけで個性的ではない。実に矛盾している。

多数派だから正しい、少数派だから間違っているということは決していえないのだ。かなり後になってみないと分からないことも多いはず。たとえヒンシュクを買っても、自分の信念をもっていたいもの。


ヒーローは成功した人ばかりではない・・・

2012年05月17日 | Weblog
「笑われた人が、ヒーローになれる」中谷彰宏著より。

ある意味成功した人はヒーローともいえるだろう。しかし、たとえ失敗をしたとしてもヒーローになれるという。むしろ、ここでのタイトルは「失敗したほうが、ヒーローになれる」とあった。

たとえば、失敗を恐れずチャレンジしていくことでも、ヒーローになれるのだった。それが結果的に失敗してもそれは価値があるということだろう。大リーグでは盗塁の確率が50%なら走ることにチャレンジするという。

もっといい例があった。かつて夏の甲子園の高校野球で延長18回を戦い引き分け再試合で決着がついた松山商業と三沢高校の試合だった。高校野球史上で名を残したのは、負けた三沢高校の太田幸司投手だった。

まあ、これは負けたからということもよりも、もともと太田投手のほうがアイドル的な人気が高かかったからということも名を残した要素ではなかったろうか。いずれにしても、成功者だけがヒーローになるとは限らないということだった。