ダドリー・オブライエンにとって、甥であるクリス、クリスフォード・ケインの裏切りは、晴天の霹靂だった。
ダドリーの亡くなった妹エレンの忘れ形見であるクリスは、ダドリーにとってもこの世に残された唯一の血縁であった。繊細そうなクリスの細面を見ると、ダドリーはエレンのことを思い出さずにはいられなかった。
その日ダドリーは、主治医であるDrマーカス・ハーロンを、治療のやり方に細々と注文をつけることで怒らせることに成功した。憤懣やるかたないといった感じで顔を真っ赤にさせながらダドリーの寝室を後にするハーロンと入れ代わるようにして、クリスはダドリーの前に現れた。ダドリーは甥の来訪に内心の感情を表に出さないように努めた。
「やあ、叔父さん。元気そうで何よりだね。ところで今、Drハーロンとすれ違ったんだけど、どうかしたのかい?何だかずいぶん怒っていたみたいだけど」
クリスの挨拶代わりの言葉にダドリーはフンと鼻を鳴らした。
「あの藪医者か。まったく、話にもならん。奴は患者の気持ちというものが全くわかっておらん」
「どうしたっていうんです?Drハーロンが何か叔父さんの気に障るようなことでも言ったんですか?」
ダドリーは苦虫を潰したような顔でうなずいた。
「奴め、私から唯一の生きがいを奪おうというのだ」
「唯一の生きがいですって?」
「そうじゃ。ハーロンの奴、私に食事制限をしろなどと言い出しおった」
クリスは、よく理解できないというふうに首を捻った。
「医者として、当然の助言では?」
「冗談じゃない!」
ダドリーは鼻息荒く言った。
「この年になると、さすがに女にも興味がなくなった。ギャンブルもさして面白いとは思わん。長生きしようとも思わん。正直明日の命もわからん。だがだからこそ、美味いものをたらふく食って死にたいのだ」
ダドリーは有言実行の男だった。最近では自宅の寝室から外に出ることも億劫がるようになっていたが、唯一の例外が外食に出かけるときだった。東に美味いイタリア料理を出す店があると聞けば重い腰を上げ、西に評判のフランス料理店があれば車を手配してまで味を確かめに行くのだった。だが実際、舌の肥えたダドリーが満足することなどめったになかった。
「その私に、やれコレステロールだの、カロリーの摂取過剰だのと脅したところで、今さら宗旨替えなぞしてたまるものか!」
ダドリーの怒りの矛先を収めるかのようにクリスが話題を変えた。
「そ、そういえば、叔父さん、今度郊外にできたチャイニーズレストランがなかなか美味いものを食べさせるんだ。ちょうど昼時だし、ドライブがてら、今から行ってみないかい?」
「ふーむ、中華か。悪くないな。その店では何が評判なんだ。北京ダックか、それともフカヒレのスープか」
クリスは首を振った。
「中華粥だよ、叔父さん」
「中華粥、だって?あんなものは病人の食べるものだ。私は決して口にせんぞ」
ダドリーのへそを曲げたような物言いにクリスは慌ててこう付け加えた。
「も、もちろん、北京ダックだって、フカヒレのスープだって、注文すればいくらでも食べられるさ。そ、それに…」
「それに?」
「叔父さんに、会わせたい人がいるんだよ」
ダドリーは内心少しばかり驚いていた。何しろクリスがそのようなことを言い出した事はそれまで一度もなく、 甥のことを朴念仁だとばかり彼は考えていたのだ。
ダドリーは少しの間考え込むような素振りをしていたが、やがて、いいだろう、と物々しく言った。
「まあたまには、甥の勧める店に行くのも悪くなかろう。それに、お前の会わせたい人とやらにも興味があるからな」
「良かった。じゃ、早速行くことにしようか。実はもう、車のほうは呼んであるんだ」
ホッとしたように安堵の息を漏らすと、クリスは、ダドリーがベッドから起き上がるのと、彼の着替えを甲斐甲斐しく手伝った。
さらに玄関までダドリーの肩を支えるようにエスコートをした。
正門の先に一台の黒塗りの乗用車が停まっていた。ダドリーの見慣れぬ会社のハイヤーだった。運転手の姿が見えるが、二人が出てきたことに気づかぬのか、車から降りてくる気配もない。けしからんとダドリーは憤慨したが、クリスの方はそれを気にする様子もなかった。ダドリーを車に乗り込ませると、執事のロバートと二言三言会話を交わしてから、クリス自身もダドリーの隣に座った。
「じゃ、出してくれ、サム」
どうやらクリスはサムという名前の、この無愛想な運転手と知り合いらしい。それが少しばかりダドリーには意外な気がした。
出発してしばらくの間、ダドリーは窓の外の景色に目をやった。狂乱と言っていい夏の暑さのはようやく過ぎ去り、街は落ち着いた秋の装いへと衣替えしようとしていた。
「それにしても、ずいぶんと車を走らせたが、そのチャイニーズレストランとやらには後どれくらいで着くんだ?」
ダドリーの問いにクリスはその童顔に似合いの、屈託のない笑みを浮かべた。
「そのことなんだけどね、叔父さん」
そう言ってクリスが懐から取り出したものが何なのか、正確にはそれが何を意味するのか、ダドリーには分からなかった。
「いったい、何の冗談だ、クリス」
クリスの右手に握られた拳銃を半ば茫然と見つめながら、ダドリーはようやくそれだけの言葉を口にした。
「冗談なんかじゃないんだ、叔父さん」
変わらず笑みを浮かべたまま、クリスはそう答えた。
美食家、その2に続く
ダドリーの亡くなった妹エレンの忘れ形見であるクリスは、ダドリーにとってもこの世に残された唯一の血縁であった。繊細そうなクリスの細面を見ると、ダドリーはエレンのことを思い出さずにはいられなかった。
その日ダドリーは、主治医であるDrマーカス・ハーロンを、治療のやり方に細々と注文をつけることで怒らせることに成功した。憤懣やるかたないといった感じで顔を真っ赤にさせながらダドリーの寝室を後にするハーロンと入れ代わるようにして、クリスはダドリーの前に現れた。ダドリーは甥の来訪に内心の感情を表に出さないように努めた。
「やあ、叔父さん。元気そうで何よりだね。ところで今、Drハーロンとすれ違ったんだけど、どうかしたのかい?何だかずいぶん怒っていたみたいだけど」
クリスの挨拶代わりの言葉にダドリーはフンと鼻を鳴らした。
「あの藪医者か。まったく、話にもならん。奴は患者の気持ちというものが全くわかっておらん」
「どうしたっていうんです?Drハーロンが何か叔父さんの気に障るようなことでも言ったんですか?」
ダドリーは苦虫を潰したような顔でうなずいた。
「奴め、私から唯一の生きがいを奪おうというのだ」
「唯一の生きがいですって?」
「そうじゃ。ハーロンの奴、私に食事制限をしろなどと言い出しおった」
クリスは、よく理解できないというふうに首を捻った。
「医者として、当然の助言では?」
「冗談じゃない!」
ダドリーは鼻息荒く言った。
「この年になると、さすがに女にも興味がなくなった。ギャンブルもさして面白いとは思わん。長生きしようとも思わん。正直明日の命もわからん。だがだからこそ、美味いものをたらふく食って死にたいのだ」
ダドリーは有言実行の男だった。最近では自宅の寝室から外に出ることも億劫がるようになっていたが、唯一の例外が外食に出かけるときだった。東に美味いイタリア料理を出す店があると聞けば重い腰を上げ、西に評判のフランス料理店があれば車を手配してまで味を確かめに行くのだった。だが実際、舌の肥えたダドリーが満足することなどめったになかった。
「その私に、やれコレステロールだの、カロリーの摂取過剰だのと脅したところで、今さら宗旨替えなぞしてたまるものか!」
ダドリーの怒りの矛先を収めるかのようにクリスが話題を変えた。
「そ、そういえば、叔父さん、今度郊外にできたチャイニーズレストランがなかなか美味いものを食べさせるんだ。ちょうど昼時だし、ドライブがてら、今から行ってみないかい?」
「ふーむ、中華か。悪くないな。その店では何が評判なんだ。北京ダックか、それともフカヒレのスープか」
クリスは首を振った。
「中華粥だよ、叔父さん」
「中華粥、だって?あんなものは病人の食べるものだ。私は決して口にせんぞ」
ダドリーのへそを曲げたような物言いにクリスは慌ててこう付け加えた。
「も、もちろん、北京ダックだって、フカヒレのスープだって、注文すればいくらでも食べられるさ。そ、それに…」
「それに?」
「叔父さんに、会わせたい人がいるんだよ」
ダドリーは内心少しばかり驚いていた。何しろクリスがそのようなことを言い出した事はそれまで一度もなく、 甥のことを朴念仁だとばかり彼は考えていたのだ。
ダドリーは少しの間考え込むような素振りをしていたが、やがて、いいだろう、と物々しく言った。
「まあたまには、甥の勧める店に行くのも悪くなかろう。それに、お前の会わせたい人とやらにも興味があるからな」
「良かった。じゃ、早速行くことにしようか。実はもう、車のほうは呼んであるんだ」
ホッとしたように安堵の息を漏らすと、クリスは、ダドリーがベッドから起き上がるのと、彼の着替えを甲斐甲斐しく手伝った。
さらに玄関までダドリーの肩を支えるようにエスコートをした。
正門の先に一台の黒塗りの乗用車が停まっていた。ダドリーの見慣れぬ会社のハイヤーだった。運転手の姿が見えるが、二人が出てきたことに気づかぬのか、車から降りてくる気配もない。けしからんとダドリーは憤慨したが、クリスの方はそれを気にする様子もなかった。ダドリーを車に乗り込ませると、執事のロバートと二言三言会話を交わしてから、クリス自身もダドリーの隣に座った。
「じゃ、出してくれ、サム」
どうやらクリスはサムという名前の、この無愛想な運転手と知り合いらしい。それが少しばかりダドリーには意外な気がした。
出発してしばらくの間、ダドリーは窓の外の景色に目をやった。狂乱と言っていい夏の暑さのはようやく過ぎ去り、街は落ち着いた秋の装いへと衣替えしようとしていた。
「それにしても、ずいぶんと車を走らせたが、そのチャイニーズレストランとやらには後どれくらいで着くんだ?」
ダドリーの問いにクリスはその童顔に似合いの、屈託のない笑みを浮かべた。
「そのことなんだけどね、叔父さん」
そう言ってクリスが懐から取り出したものが何なのか、正確にはそれが何を意味するのか、ダドリーには分からなかった。
「いったい、何の冗談だ、クリス」
クリスの右手に握られた拳銃を半ば茫然と見つめながら、ダドリーはようやくそれだけの言葉を口にした。
「冗談なんかじゃないんだ、叔父さん」
変わらず笑みを浮かべたまま、クリスはそう答えた。
美食家、その2に続く
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