みんな大好き!!『ガタカ』の考察の時間がやってきました。
それにしてもどんだけ考察してんだよ、って話ですよね。
マジで本一冊分ぐらいは考察しているような気がする…、まぁ本にまとめるほどの内容でもないかもしれないけどね!
今回は『ガタカ』屈指の名シーンと称される二度の遠泳競争について考察してみたいと思います。
きっと目からコンタクトレンズが落ちるはず!!(うろこちゃうんかい!!)
アントンとの遠泳勝負に初めて勝利したビンセントは「奇跡が起きた」と言いました。
ビンセントがそう言った気持ちはよくわかります。
不適正者であるビンセントが適正者であるアントンに勝利するという決してあり得ないはずのことが起きたのですから、ビンセントにとってまさにそれは奇跡だったのでしょう。
が、この夜、実際は奇跡など起きてはいなかったのです。
それはアントンの立場になって考えればわかることです。
アントンは兄ビンセントとの遠泳勝負が嫌で嫌でたまりませんでした。
何を馬鹿なことを言っている、アントンが遠泳勝負を嫌がっていたなどそんな描写は作中どこにもないじゃないか、何か根拠でもあるのか、と仰る人もいるかもしれません。
それに関して根拠はありません。
根拠がないというか必要がないことです。
なぜなら、いつ心臓が止まるかわからない相手と夜の海で遠泳勝負をするなどという狂気の沙汰を望む人間はいないからです。
幼いころのアントンは二歳年上の兄アントンをかけっこや水泳といった勝負事で負かすのが大好きでした。まぁ子どもというのは何であれ勝つことが嬉しいものですよね。
しかし大きくなるにつれて、具体的には自分が適正者であり、兄が不適正者であることを理解するにしたがって、少しずつ心情も変わっていきました。
三十歳までしか生きられない、いや、それどころか明日にも心臓が止まるかもしれない兄ビンセント。
全力で臨めば自分が兄に負けることはないだろう、けれど自分が全力で相手をして、その結果ビンセントが死んでしまったら?
そんな想像をするのはアントンにとって恐ろしいことだったに違いありません。
アントンはビンセントと勝負をすることが、中でも夜の海で遠泳勝負をすることが嫌で嫌でたまらなかったのです。
遠泳勝負をするのが嫌だったなら、しなければいいだけの話じゃないか、そう思う人もいるでしょう。
では子どものころから続いていた遠泳勝負をアントンは何と言って取りやめにしますか?
こうストレートに言ってしまいますか?
いつ心臓が止まるかわからない相手と夜の海で遠泳勝負をするなんてゴメンだ、と。
それはアントンには言えないことでした。
それを言えばビンセントを傷つけることがわかっていたからです。
アントンは善き人でした。
兄ビンセントのことを愛していたのです。
アントンは妙案を思いつきます。
遠泳勝負で自分が負けたらいいじゃないか、一度でも勝てばビンセントは満足するかもしれないし、そうならなかったとしても、負けたことを理由に二度と遠泳勝負をしなくて済むのでは、そう考えたのですね。
ただ一つだけ問題がありました。
アントンはこう考えたに違いありません。
自分が負けるのは構わない。
わざと負けることが楽しいわけがないが、それでも遠泳勝負をやらなくて済むようになるのであればこんなありがたいことはない。
問題は自分がわざと負けても、ビンセントが泳ぐのを止めようとしなかった場合だ。
さらに先まで泳ごうとしたビンセントがそこで心臓発作を起こして死んでしまったら、自分は負け損ではないか…。
しかしその時のための策がアントンにはありました。
それが「溺れる」ことです。
自分が溺れさえすればビンセントは引き返して助けてくれるだろう、そうアントンは考え、実行に移したのです。
これが自分の考えた、ビンセントが初めて勝利した遠泳勝負の真相です。
推測が大部分を占めていますが、たぶんこれで間違っていないだろうと思います。
結局のところどちらが説得力があるのかってことですよね。
それまでまったく歯が立たなかった弟アントンとの遠泳勝負である年になってこれと言って理由もなくビンセントが勝ったのか、それともビンセントとの遠泳勝負をすることに耐えられなくなったアントンがわざと兄に勝ちを譲ったのか、どちらの真相に説得力があるのか。
遠泳勝負で奇跡など起きなかった、『ガタカ』は決して奇跡についての物語などではない、それが自分の考えです。
二度目の遠泳勝負についても語ることはあるのですが、長くなったのでそれはまた別の機会にでも。
それにしてもどんだけ考察してんだよ、って話ですよね。
マジで本一冊分ぐらいは考察しているような気がする…、まぁ本にまとめるほどの内容でもないかもしれないけどね!
今回は『ガタカ』屈指の名シーンと称される二度の遠泳競争について考察してみたいと思います。
きっと目からコンタクトレンズが落ちるはず!!(うろこちゃうんかい!!)
アントンとの遠泳勝負に初めて勝利したビンセントは「奇跡が起きた」と言いました。
ビンセントがそう言った気持ちはよくわかります。
不適正者であるビンセントが適正者であるアントンに勝利するという決してあり得ないはずのことが起きたのですから、ビンセントにとってまさにそれは奇跡だったのでしょう。
が、この夜、実際は奇跡など起きてはいなかったのです。
それはアントンの立場になって考えればわかることです。
アントンは兄ビンセントとの遠泳勝負が嫌で嫌でたまりませんでした。
何を馬鹿なことを言っている、アントンが遠泳勝負を嫌がっていたなどそんな描写は作中どこにもないじゃないか、何か根拠でもあるのか、と仰る人もいるかもしれません。
それに関して根拠はありません。
根拠がないというか必要がないことです。
なぜなら、いつ心臓が止まるかわからない相手と夜の海で遠泳勝負をするなどという狂気の沙汰を望む人間はいないからです。
幼いころのアントンは二歳年上の兄アントンをかけっこや水泳といった勝負事で負かすのが大好きでした。まぁ子どもというのは何であれ勝つことが嬉しいものですよね。
しかし大きくなるにつれて、具体的には自分が適正者であり、兄が不適正者であることを理解するにしたがって、少しずつ心情も変わっていきました。
三十歳までしか生きられない、いや、それどころか明日にも心臓が止まるかもしれない兄ビンセント。
全力で臨めば自分が兄に負けることはないだろう、けれど自分が全力で相手をして、その結果ビンセントが死んでしまったら?
そんな想像をするのはアントンにとって恐ろしいことだったに違いありません。
アントンはビンセントと勝負をすることが、中でも夜の海で遠泳勝負をすることが嫌で嫌でたまらなかったのです。
遠泳勝負をするのが嫌だったなら、しなければいいだけの話じゃないか、そう思う人もいるでしょう。
では子どものころから続いていた遠泳勝負をアントンは何と言って取りやめにしますか?
こうストレートに言ってしまいますか?
いつ心臓が止まるかわからない相手と夜の海で遠泳勝負をするなんてゴメンだ、と。
それはアントンには言えないことでした。
それを言えばビンセントを傷つけることがわかっていたからです。
アントンは善き人でした。
兄ビンセントのことを愛していたのです。
アントンは妙案を思いつきます。
遠泳勝負で自分が負けたらいいじゃないか、一度でも勝てばビンセントは満足するかもしれないし、そうならなかったとしても、負けたことを理由に二度と遠泳勝負をしなくて済むのでは、そう考えたのですね。
ただ一つだけ問題がありました。
アントンはこう考えたに違いありません。
自分が負けるのは構わない。
わざと負けることが楽しいわけがないが、それでも遠泳勝負をやらなくて済むようになるのであればこんなありがたいことはない。
問題は自分がわざと負けても、ビンセントが泳ぐのを止めようとしなかった場合だ。
さらに先まで泳ごうとしたビンセントがそこで心臓発作を起こして死んでしまったら、自分は負け損ではないか…。
しかしその時のための策がアントンにはありました。
それが「溺れる」ことです。
自分が溺れさえすればビンセントは引き返して助けてくれるだろう、そうアントンは考え、実行に移したのです。
これが自分の考えた、ビンセントが初めて勝利した遠泳勝負の真相です。
推測が大部分を占めていますが、たぶんこれで間違っていないだろうと思います。
結局のところどちらが説得力があるのかってことですよね。
それまでまったく歯が立たなかった弟アントンとの遠泳勝負である年になってこれと言って理由もなくビンセントが勝ったのか、それともビンセントとの遠泳勝負をすることに耐えられなくなったアントンがわざと兄に勝ちを譲ったのか、どちらの真相に説得力があるのか。
遠泳勝負で奇跡など起きなかった、『ガタカ』は決して奇跡についての物語などではない、それが自分の考えです。
二度目の遠泳勝負についても語ることはあるのですが、長くなったのでそれはまた別の機会にでも。
遺伝子がすべてを決めるわけじゃない、というヴィンセントの朧げな希望が確信に変わるというのが当該シーンの作劇上の役割なので、
実際にはあのときアントンは力を抜いていたのだ!とか、偶々波に飲まれ水を飲んでしまったとかでも別にいいっちゃいいんですけど、
あなたがなぜ「アントンが故意に負けた」という措定を薄弱な根拠で「たぶんこれで間違っていないだろうと思います。」とまで言っているのかよく分かりません。
>結局のところどちらが説得力があるのかってことですよね。
とありますが、私に言わせれば「アントンはわざと負けた」というのに特段説得力が感じられません。
そんな「真相」をよしんば監督が意図していたとしたら、作劇上無意味な(どころかテーマを散逸させる)裏設定でしかないからです。
以後、よろしくお願いします。
lizさん、あなたは本文で述べてあることが根拠に乏しい、薄弱である、そう仰るのですね?
ふむ、、、そうですか…。
ではいくつか質問をさせてください。
正直に答えてくださいね。
第一問、lizさん、心臓に障害のある相手があなたに100mの短距離走を挑んできました。あなたはその挑戦を受けますか?受けたとしてその勝負で全力を出しますか?
第二問、lizさん、心臓に障害のある相手があなたにボクシングの試合を申し込んできました。あなたはその挑戦を受けますか?受けたとしてその試合で全力を出しますか?
第三問、lizさん、心臓に障害のある相手が(以下略)。
本来であればlizさんあなたに直接答えて欲しかったのですが、時間の節約で代わりに自分が答えましょう。
心臓に障害のある相手から勝負を挑まれたら誰だって躊躇をする、もしくは勝負をする気にはならない、仮に勝負をしたとしても本気は出せない、これが答えです。
誰だって、と決めつけるのは間違っているかもしれませんね。
世の中には心臓に障害のある相手とボクシングをして、そのことを知っていてなお加減や遠慮をせず、ボコボコにする輩もいるかもしれません。
でも大概の人間は心臓に障害のある相手と勝負するのは気が引けるものなのですよ。
違いますか?
大概の人間がそうであると考えられることを根拠にしているのに、それを薄弱だ、lizさん、あなたはそう仰るのですか?
では薄弱ではない根拠って例えば何があるのですか?
教えてください。
作劇上無意味な裏設定だとおっしゃいますが、無意味だと決めつけているのはあなたであって、自分はそうではないと思っていますよ。
lizさん、あなたはおそらく『ガタカ』という作品を「信じていれば夢が叶う」スポコン的なお話だと考えてはいませんか?
もしそうだとしたらその捉え方が間違っています。
まずはなぜアントンはヴィンセントが心臓に障害があることを知っていたにもかかわらず、ヴィンセントと夜の海で遠泳勝負をしたのか、その理由と、その時のアントンの心情をもう一度よく考えてみて下さい。
すべての質問に対する直接の回答にはなりませんが、私の返事は2点です。
ひとつ
>lizさん、あなたはおそらく『ガタカ』という作品を「信じていれば夢が叶う」スポコン的なお話だと考えてはいませんか?
まったく違います。関連性を理解していただけるかは分かりませんが、私はある障害を抱えています。
ヴィンセントが遺伝的に「不適正者」であるにも関わらず血の滲むような努力と工夫によってアントンを凌駕する能力を身につけた、といったようなスポ根的物語であれば、こんなに自分の胸に残る映画にはなっていなかったと思います。
私がガタガに見るのは、遺伝子が個々人の能力や限界を大きく決定付けてしまう現実と、あまつさえ人類がそこに迎合した社会にあっても失われてならない「自由」や「可能性」に懸命に手を伸ばす人間の姿です。
ふたつ
あなたの主張と、コメントにおける返答は、私に言わせれば
「白雪姫に登場する小人は実はゲイだ。作中で明確に示されてはいないが、深い森の中で男だけで生活を営んでいる。様々な状況証拠がこの“真相”を支持している。否定するあなたに聞くが、もし異性愛者なら、男だけでずっと森の中に住んで性欲処理はどうしているんだ?」
…と言っているようなものに見えるわけです。
ある根拠から絶対にそうではない!と言い切れる類ではないものの、作劇上そうである必要は無いように思われ、
なんなら物語上のノイズになるし(7人の小人がゲイであっても別にノイズにはなりませんが。雑な例えをお許しください)、そもそも、だからなんだっていうんだ?
というような「設定」「真相」を確信めいて主張し、それを前提に考察を進めようとしている意味が分からない、ということなのです。
なぜなら、憶説や措定に基づいた考察は、その仮定が間違っていた場合それ以後の部分はほとんど無意味だからです。
あのシーンで重要なのは、少なくともヴィンセントの中で、不可能であると思われたことが成し遂げられたと認識し、夢の実現に向けて現実的な行動に着手したということなので
あなたの主張通り実はアントンがわざと負けていたとしても、ガタカという映画やメッセージが決定的に台無しになるというようなことは個人的にはありません。
このことは最後に一応書いておきます。
何となく、もうコメントはないだろう、そう思っていましたよ。
今までの人がそうでしたからね。
コメントをもらえてうれしく思います。
>私がガタガに見るのは、遺伝子が個々人の能力や限界を大きく決定付けてしまう現実と、あまつさえ人類がそこに迎合した社会にあっても失われてならない「自由」や「可能性」に懸命に手を伸ばす人間の姿です。
何だ、『ガタカ』の本質がよくわかっているじゃないですか。
遠泳勝利でヴィンセントが勝利したのは彼が血のにじむような努力をしたからではない、増して彼の言うような奇跡が起こったからでもない。
だとしたら、必然的にアントンが故意に負けたということになると思うのですが、lizさんは必ずしもそうではない、と仰るのですね。
そこのところはよくわからないですね。
不思議だな。
自分の「アントンは心臓に障害のある兄ヴィンセントとの遠泳勝負が嫌だったはずだ。理由は誰でもそうだからだ。」という主張が、なぜ「白雪姫の小人はゲイだ云々」と言っているように見えると言われるのか、全然わかりません。
そんなことを言っているんですかね、自分は。
>あのシーンで重要なのは、少なくともヴィンセントの中で、不可能であると思われたことが成し遂げられたと認識し、夢の実現に向けて現実的な行動に着手したということなので
はい、ヴィンセントが現実的な行動に着手した、ということは確かに重要です。
でもだからといってアントンがどのような思いで遠泳勝負を受けていたかはどうでもいい、些末だってことにはならないと思います。
だとしたら、ジェロームがなぜ命を絶ったのか、それすらも確定出来ない以上考察する必要のないことだ、ということになりませんか?
それってとても重要なことだと思いますけどね。
レスを返すのが遅くなって申し訳ありません。
旅行から帰ってきてバタバタしていたものですから。
>アントンが「不適正者に自分が負けるわけがない」的なこと言ってなかったでしたっけ?
えぇ、正確な台詞は失念しましたが、そのようなことを言ってましたね。
ですが、だからといって自分の主張と矛盾するとは考えていません。
なぜなら言葉と思いは必ずしもイコールではないからです。
アントンに限らず、『ガタカ』では登場人物のほとんどが思ってもいないことを口にしています。
例えば、ジェロームはヴィンセントとの会食中、「旅に出るつもりだ」と言っています。
でもそれはヴィンセントを安心させるためについた嘘なんです。
同様にアントンはヴィンセントと遠泳勝負をして、負けるためにあえて挑発したのです。
その考えが正しいのかどうかはわかりません。
ただそう考えれば少なくとも矛盾は生じないのです。