初めに断っておきますが、非常に重たい内容です。そういった文章が苦手だという方は読まない方が賢明です。
中学生の二年か三年の保健体育か道徳の道徳の授業のことだったと思います(そこら辺の記憶は曖昧)。
授業のテーマは自殺についてでした。
ある少年の自殺の動機が教師によって語られました。
「少年は飼っていた犬がいなくなって自殺した」
これには教室内大爆笑。
そんなつまんない理由で自殺する奴がいるなんて!!
つられて自分も笑いました。
そして思ったんですよ、人間って、本当に最悪だなって。
これは勝手な想像でしかないんですけど、少年は犬がいなくなったから自殺したんじゃないと思うんです。もし少年に一緒に犬を探してくれる友だちが一人でもいたら死ななかったんじゃないのか?一人でいなくなった犬を探し続けて、見つからず、そして自分が現在一人ぼっちであることを改めて気づいて、その孤独が未来永劫続くのではないかと思って、それで絶望して命を絶ったのではないか?
無論それは根拠のない想像でしかなく、純粋に少年は可愛がっていた犬がいなくなったことで死を選んだのかもしれません。
ともかくそれ以来自分は自殺の動機がどんなに些細なこと、つまらないこと、馬鹿馬鹿しいこと、他人には理解しがたいことであってもそのことで否定はするまい、と思うようになったんです。
時々、生きてさえいればいいことがあるっていう人がいますよね。
その言葉に、自分は反感を覚える時があります。
確かに自殺を思いとどまって、生きていてよかったと思えるようなことがあった人もいるでしょう。
でも自殺を思いとどまっても、何一ついいことがない人もいるわけですよ。何とか自殺を思いとどまり、必死になって一年生きて、あぁ一年前に死んでおけばよかった、そう思いながら首を括る奴もいるんですよ。
生きていていいことがあるか、ないかは単純な確率で言えば50%なわけなんですよ。
それなのに生きてさえいれば必ずいいことがあるみたいなことは無責任に言って欲しくない。
生きてさえいればいいことがあるというような言葉は、それを言う相手に対して、何があっても面倒を看る、徹底的に付き合う、絶対に失いたくない、それだけの覚悟があって初めて言えるのだと思います。
自殺をする人間は弱い人間だ、みたいな考えも世の中にはあるようです。
確かにそうです。
自殺をする人間は精神的に弱い。それは間違いない事実です。
でもですね、人間は皆弱いんです。
自分は精神的に強い人間だ、なんて思ってる奴がいたらそれはただの驕りか勘違いか、もしくはよほど環境に恵まれているだけなのでしょう。
ともかく自殺をする人間だからといって見下してよいということにはならないと思うんです。
ここまで書くとまるで自殺を、そして自殺者を肯定、擁護しているかのように思われるかもしれませんが、そんな気はさらさらありません。
自殺者が遺書で、死んで楽になりたいとか言い残してることがあるじゃないですか。
そういった遺書を残す人に是非とも尋ねたいことがあります。
死んだら楽になるということに根拠はあるのか?来世が現世よりも素晴らしいものだと決めつけているようだけれど、それはただの思い込みではないのか?
もし来世で、福山雅治やオダギリ・ジョー、ダルビッシュ有あたりに生まれ変われるのであれば自分も速攻で死にますよ。女性であれば柴咲コウか、仲間由紀恵あたりでしょうか?
でも、そんな美味しい話があるわけがない!!
生きていて思い通りにならないのに、何故死んだら思い通りになると思うのか?
いっちゃなんですけど、自殺する人って、ある意味物事を楽観的に考えてるなぁと思います。
ブログ仲間の一人が死にました。自殺です。
ブログに遺書めいた記事をアップし、それに気づいたのはもう亡くなった後でした。
どうしようもなかったのか?
どうしようもなかったと思います。
三、四日、記事の更新が滞ってて、それでいきなりでしたから。
近くに住んでるわけでなく、電話番号も知りませんでした。
こういう時ネットってやっぱり繋がりが弱いよな、と思います。
こういう時のために親しいネットの友人の電話番号ぐらいは知っておきたい、また逆に自分の電話番号を知っておいて欲しい、と思います。
大切な友人でした。いや、今でもそうです。
でも悲しくなんかありません。
その人のために不幸な気持ちになる気なんてこれっぽっちもないのです。
映画が好きな人でした。
映画に対してこんなに真摯な人はいませんでした。
その真摯さは時に危いほどでしたが、熱くなれるものがこれといってない自分には羨ましいぐらいでした。
自分はこれから、その人が、あぁ、自殺したのは間違いだった!!と思えるぐらい面白い映画をバンバン観てやろうと思っています。
中学生の二年か三年の保健体育か道徳の道徳の授業のことだったと思います(そこら辺の記憶は曖昧)。
授業のテーマは自殺についてでした。
ある少年の自殺の動機が教師によって語られました。
「少年は飼っていた犬がいなくなって自殺した」
これには教室内大爆笑。
そんなつまんない理由で自殺する奴がいるなんて!!
つられて自分も笑いました。
そして思ったんですよ、人間って、本当に最悪だなって。
これは勝手な想像でしかないんですけど、少年は犬がいなくなったから自殺したんじゃないと思うんです。もし少年に一緒に犬を探してくれる友だちが一人でもいたら死ななかったんじゃないのか?一人でいなくなった犬を探し続けて、見つからず、そして自分が現在一人ぼっちであることを改めて気づいて、その孤独が未来永劫続くのではないかと思って、それで絶望して命を絶ったのではないか?
無論それは根拠のない想像でしかなく、純粋に少年は可愛がっていた犬がいなくなったことで死を選んだのかもしれません。
ともかくそれ以来自分は自殺の動機がどんなに些細なこと、つまらないこと、馬鹿馬鹿しいこと、他人には理解しがたいことであってもそのことで否定はするまい、と思うようになったんです。
時々、生きてさえいればいいことがあるっていう人がいますよね。
その言葉に、自分は反感を覚える時があります。
確かに自殺を思いとどまって、生きていてよかったと思えるようなことがあった人もいるでしょう。
でも自殺を思いとどまっても、何一ついいことがない人もいるわけですよ。何とか自殺を思いとどまり、必死になって一年生きて、あぁ一年前に死んでおけばよかった、そう思いながら首を括る奴もいるんですよ。
生きていていいことがあるか、ないかは単純な確率で言えば50%なわけなんですよ。
それなのに生きてさえいれば必ずいいことがあるみたいなことは無責任に言って欲しくない。
生きてさえいればいいことがあるというような言葉は、それを言う相手に対して、何があっても面倒を看る、徹底的に付き合う、絶対に失いたくない、それだけの覚悟があって初めて言えるのだと思います。
自殺をする人間は弱い人間だ、みたいな考えも世の中にはあるようです。
確かにそうです。
自殺をする人間は精神的に弱い。それは間違いない事実です。
でもですね、人間は皆弱いんです。
自分は精神的に強い人間だ、なんて思ってる奴がいたらそれはただの驕りか勘違いか、もしくはよほど環境に恵まれているだけなのでしょう。
ともかく自殺をする人間だからといって見下してよいということにはならないと思うんです。
ここまで書くとまるで自殺を、そして自殺者を肯定、擁護しているかのように思われるかもしれませんが、そんな気はさらさらありません。
自殺者が遺書で、死んで楽になりたいとか言い残してることがあるじゃないですか。
そういった遺書を残す人に是非とも尋ねたいことがあります。
死んだら楽になるということに根拠はあるのか?来世が現世よりも素晴らしいものだと決めつけているようだけれど、それはただの思い込みではないのか?
もし来世で、福山雅治やオダギリ・ジョー、ダルビッシュ有あたりに生まれ変われるのであれば自分も速攻で死にますよ。女性であれば柴咲コウか、仲間由紀恵あたりでしょうか?
でも、そんな美味しい話があるわけがない!!
生きていて思い通りにならないのに、何故死んだら思い通りになると思うのか?
いっちゃなんですけど、自殺する人って、ある意味物事を楽観的に考えてるなぁと思います。
ブログ仲間の一人が死にました。自殺です。
ブログに遺書めいた記事をアップし、それに気づいたのはもう亡くなった後でした。
どうしようもなかったのか?
どうしようもなかったと思います。
三、四日、記事の更新が滞ってて、それでいきなりでしたから。
近くに住んでるわけでなく、電話番号も知りませんでした。
こういう時ネットってやっぱり繋がりが弱いよな、と思います。
こういう時のために親しいネットの友人の電話番号ぐらいは知っておきたい、また逆に自分の電話番号を知っておいて欲しい、と思います。
大切な友人でした。いや、今でもそうです。
でも悲しくなんかありません。
その人のために不幸な気持ちになる気なんてこれっぽっちもないのです。
映画が好きな人でした。
映画に対してこんなに真摯な人はいませんでした。
その真摯さは時に危いほどでしたが、熱くなれるものがこれといってない自分には羨ましいぐらいでした。
自分はこれから、その人が、あぁ、自殺したのは間違いだった!!と思えるぐらい面白い映画をバンバン観てやろうと思っています。