ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート ゲーデル著 林晋・八杉満利子訳・解説 「不完全性定理」 (岩波文庫2006年)

2016年08月19日 | 書評
数理論理学の金字塔 ヒルベルトの形式主義数学との数学論争史 第5回

2) 厳密化、数の発生学、無限集合論(1821-1897)(その2)

19世紀には新しい数や空間が発見され、カントールの超限数はその一例である。これら新しい「数学概念の存在」がすぐさま当然視されたわけではなかった。フランスの数学者集団「ブルバキ」が数学の近代化運動という厳密化運動を当然視したのは第2次世界大戦後のことである。19世紀の数学者にとってこれら新しい「数学概念の存在」は自明ではなかったのである。イギリスのド・モルガン(1806-1971)は数学の厳密化近代化に力のあった人で、数理論理学の先駆的研究で知られた。彼はマイナスの数の存在さえ疑わしいとした。生まれたばかりの集合論の批判者は多かったが、なかでもクロネカー(1810-1893)はカントオールの集合論を攻撃した。集合論の数学への本格的応用としては、デーデキントのイデアル論、その師クンマー(1810-1893)の理想数理論は代数的整数論のために開発されたが、1897年「数論報告」によってヒルベルトがこれを継承した。クロネカーはデーデキントのイデアル論に対抗すべく、有限の代数式とアルゴリズムを使う構成的「モズル理論」(一般算術の理論)を提案した。デーデキントのイデアル論は躊躇なく無限を使うので、クロネカーの批判を受けたのである。この有限主義的態度は19世紀の代数学者にとって当たり前で、カントールの無限数学は「哲学的」過ぎると言われた。19世紀には、超限数の他、非ユークリッド空間、n次空間、ブール代数など新しい空間や数が生み出された。カントールの集合論には、無限集合は分割しても個数は減らないという不思議な性質を持つ。自然数全体を奇数と偶数に分かっても元の集合と同じ個数を持つのである。ベルリン大学の教授であったクロネカーの影響力は、工業高校の教師であったカントールと較べようもなかった。しかしカントールの無限集合は、ヒルベルトら若いドイツの数学者から支持を受け、ドイツ数学者協会初代会長に選出された。ワイエルシュトラウスの解析学の無限算術化とクロネカーの伝統的有限算術化の二つの流れがあった。例えばラッセルの無限算術化で, √5を定義すると、X^2<5を満たす有理数の全体からなる集合となるが、クロネカーの有限算術化ではx^2=5と定義される。20世紀数学の主流派であったヒルベルト学派からは、クロネカーは旧習派と見なされるが、現在では「集合と論理の代わりに、代数式と計算を用いる数学の基礎づけの試み」と位置付けられている。無理数や連続の概念はクロネカーの受け入れるところにはならなかった。しかしこのカントールの流れこそ、コーシやワイヤーシュトラウスの無限集合を継承するものであった。はたして無限算術化の生産性・拡張性は有限算術化のそれを凌駕したことは歴史が証明した。こうして若干は胡散臭さを感じながらも数学者はカントール、デーデキント的数学を受容し選択したのである。実際、計算アルゴリズムの「巨大すぎる有限性」は「質のいい無限」よりはるかに始末が悪かった。ヒルベルトは数式操作の達人と言われたが、当時の代数学の計算複雑性は彼の能力をしても太刀打ちできなかった。余りに使い勝手のいい「哲学的・神学的方法」は一度根本的に破たんした。いわゆる集合のパラドックスの発生がそれである。カントールは1891年に「対角線論法」という巧みな論理を使って、「任意の集合Xについて、Xの濃度よりも大きな濃度を持つ集合Yは必ず存在する」の問題を解いた。集合Xの部分集合をすべて集めた集合を「べき集合」P(X)というが、「べき集合」P(X)の濃度は、集合Xの濃度よりも大きいという定理を導いた。これによっていつでも元の集合より大きな集合を作ることができるとカントールは考えた。これがカントールの命取りになった。一番大きな集合は存在しないことになる。この矛盾を「カントールのパラドックス」という。カントールからヒルベルトに宛てた1897年の書簡では、「すべての集合の集合」のような矛盾を導く無限集合(矛盾的多数)は本当の集合(無矛盾的多数)とは異なるとパラドックスを説明した。カントールのパラドックスは無限数論の矛盾であるが、初期集合論の崩壊をもたらしたのは「ラッセル・パラドックス」という論理主義的集合論の矛盾であった。

(つづく)