ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート ゲーデル著 林晋・八杉満利子訳・解説 「不完全性定理」 (岩波文庫2006年)

2016年08月22日 | 書評
現代数学の祖 ヒルベルト

数理論理学の金字塔 ヒルベルトの形式主義数学との論争史 第8回

4) ヒルベルト公理論 数学は完全である(1888-1904) (その2)

20世紀現代数学の主流パラダイムとされるフランスのブルバキ構造主義はヒルベルト公理論(前期形式主義)を修正した。数学革命時代のヒルベルトの数学は実践と数学の基礎問題が分かちがたく結びついていた時代で、その時代からはるか離れた第2世界大戦後のブルバキの時代は数学から「哲学」(認識論)の除去であり、認識論的装置の要である「証明」を公理論(認識論)から取り除いたのであった。ブルバキは証明に認識論的意味合いを持たせなかった。ヒルベルトにとって証明は公理論の核であった。ヒルベルトはデーデキントたちとは異なり、実数を集合として定義しなかった。その代り実数の持つべき性質として有限個の公理系(①結合の公理、加法と乗法 ②計算の公理、交換可 ③大きさの順序の公理 ④連続性の公理)を設定し、この公理系から論理推論を有限回繰り返して結論を得ることを数学とみなした。ヒルベルトにとって実数は実存しているわけではなく、計算の実体も定義されとぃない。実数系システムは恣意的であってもいいが変更はできない。完成した証明ではなく建設段階のシステム開発に数学の醍醐味を見ているようである。ヒルベルトの公理論には無限はない。この考え方はクロネカーの有限算術化に非常に近い。クロネカーは無矛盾な等式によってのみ「新しい数」は導入されなければならないと考えた。例えば一辺の長さが1の正方形の対角線の長さを表す分数(有理数p/q)が存在したら矛盾が発生する。(p=√2qという矛盾 左辺は整数、右辺は無理数) クロネカーは「無矛盾性」以外に、拡大した体系の「計算可能性」を重視した。クロネカーの多項式→ヒルベルトの命題、代数計算→論理推論と置き換えると、ヒルベルトの公理論はクロネカーの有限算術化はそっくりである。ヒルベルトもクロネカーも全数学を代数学から見る視点は共通していた。クロネカ―とその師クンマーの数学を出発点としながら、ヒルベルトはカントール、デーデキントの数学観を採用したというべきである。ヒルベルトの数学基礎論は人間の計算能力を超える膨大な代数計算(今ではスーパーコンピューターが代行するが)との格闘という過程で生まれた。19世紀末からゲーデルの論文までの数学基礎論はその技術レベルは低かったが、世界の錚々たる数学者が参加した。上述の人々の他にも、ポアンカレ、ワイル、ノイマン、ウィーナーなどがかかわった。この動きは技術オンリーの日本の数学界では容易に理解できなかったようである。数学の問題の可解性は「ヒルベルトの青春の夢」であり、全生涯をかけた数学研究の目的であった。青春時代のヒルベルトの無二の親友であったミンコフスキー(1864-1909)との交流と「ヒルベルトの青春の夢」である可解性に関する「数学ノート」は、C・リード著 弥永健一訳 「ヒルベルト」(岩波現代文庫 2010年)に詳しく述べられている。次数が大きくなると代数方程式の解の不変式は急速に複雑になり, 順次不変式を求めていくのは大変困難になる. それでも, 19世紀に不変式の権威であったゴルダン(1837~1912)は, 5次以上の場合を含め,方程式の不変式(2次の場合は判別式と呼ばれる)は次数にかかわらず, つねに有限個の基本的な不変式の多項式として表すことができることを示した。イギリスのケーリー(1821-1895)は線形代数学の創始者と言われるが、ゴルダン問題の特殊なケースを解いたが、一般的なケースは解けなかった。ヒルベルトはこの未解決問題を、目弦的方法の優位性を印象付ける方法で解決した。ヒルベルトは1886年の数学ノートに、「ゴルダンの方法は複雑すぎてほとんどの場合に実行できない. 問題の核心はそういう計算方法でなく, 存在するという事実を示すことだけだ」と書いている.そして、1890年 他のすべての不変式を書き表すことができる 有限個の不変式系が「存在すること」を示した。これはヒルベルトの第14問題 と呼ばれる。不変式の存在とそれを構成する問題は別問題で、ヒルベルトは膨大な計算(数百ケース以上)に根を挙げて、不変式の存在定理だけに注目した。ゴルダン問題を「無限個あるかもしれない本質的特性が、実は有限個の基本特性の組み合わせで表現できる」という問題である。この戦略的発想転換により、ヒルベルトはデーデキント的な計算無視の一般有限性定理、すなわち冤罪のヒルベルト有限基底定理を考え出した。ヒルベルトは計算が命の代数においても、存在定理のような非構成的証明を使ってもよいとした。しかし有限完全不変式を計算するアルゴリズムを全く考えていないとゴルダンは評したが、ヒルベルトの師クリスチャン・クライン(1849-1925)はゴルダンの見解を無視した。

一般有限性定理の非構成的証明は、多くの拒否反応を生んだだが、ヒルベルトは無限列の最小値の原理を理解して、計算可能ではないが、最小値があることは確かである(帰納推論可能)と考えた。これをC・リード著 弥永健一訳 「ヒルベルト」では、「ゴルディオスの結び目」と表現されている。コロンブスの卵といってもいい。ヒルベルトの方法は代数学一般に利用され、代数学のほぼ全体がデーデキントーヒルベルト的に書き替えられた。20世紀以降代数学は計算的側面を無視した非構成的数学が一世を風靡した。クロネカーらが間違っていたわけではなく、具体的に計算できるという圧倒的な強みがあったが、当時の論文生産力に劣っていただけのことであった。今日コンピュータ代数学の登場によって、ゴルダンのアルゴリズムは実行可能となり、再び計算と論理についての価値感が逆転しつつある。計算と論理、有限と無限は数学の両輪の関係にある。ヒルベルトの可解性思想の成立には不変式研究が深く関与していた。可解性理論に関する、1890年無限版論文」、1893年の「有限版論文」、6以上の偶数は素数の和で表せるかという「ゴールドバッハ予想」問題など、ヒルベルトの数学基礎論思想の源流は可解性思想であり、不変式研究であった。ヒルベルトの可解性思想は、単純な人間中心主義というよりは、人間の現実的有限性を逆手に取った、可能性としての無限界性への信念なのである。1893年の「有限版論文」で不変式論は片が付いたと思ったヒルベルトは、1897年「数論報告」をドイツ数学者協会に報告した。これは後の「幾何学基礎論」と並んで彼の数学的業績として双璧をなす論文である。内容はデーデキントのイデアル論で書き換えた数論であった。数式と計算を避けて、概念と思考により数学を進める方法であり、リーマン(1826-1866)を受け継ぐものであることを宣言した。集合論と論理によって数学を進める方法はデーデキントとカントールの方法である。リーマンはデーデキントの友人であり一般相対性理論の為の数学、リーマン幾何学の創始者であった。ヒルベルトは無限版から有限版への不変式論の転換を振り返って、数学における存在の証明には三つの段階があるとした。①一般有限定理のように、存在性だけを証明すること ②解はどこに現れるか ③それを計算して見せることであった。第2段階と第3段階しかなかったこれまでの代数学に第1段階の解の存在性を示すことは斬新なアイデアであった。1897年カントールから集合論のパラドックスを聞かされたヒルベルトは、これは数学の問題ではないと不問に付すこともできたが、彼自身がパラドックスを発見した。これは「ヒルベルトのパラドックス」と呼ばれた。このパラドックスの解決策が前期形式主義の柱であった「存在=無矛盾性」である。ウィーナー(1857-1939)は「数学の証明は考察対象の内容に依存せず、その有限の証明の形式だけが問題である」と主張したが、ヒルベルトは、数学の本質は対象とする内容にあるのではなく形式的・構造的な関係にあることを看破した。「存在とはその概念を定義する公理が自己矛盾しないことである」という考えを1893年のノートに書き留めている。ヒルベルトの「存在=無矛盾性」というテーゼは、カントールの「無矛盾集合は存在する」からきているといわれるが、論理回路の創始者イギリスのブール(1815-1864)らも同じことを唱えていたので、矛盾なく機能するものは存在するという考えは19世紀後半の時代精神だったのかもしれない。

(つづく)