ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート ゲーデル著 林晋・八杉満利子訳・解説 「不完全性定理」 (岩波文庫2006年)

2016年08月16日 | 書評
ヒルベルト

数理論理学の金字塔 ヒルベルトの形式主義数学との数学論争史 第2回

序(その2)

C・リード著 弥永健一訳 「ヒルベルト」(岩波現代文庫 2010年)には、ゲーデルとの論争「数学は完全か」については、ヒルベルトがこの論文によってショックを受けた様子は書かれていない。数学基礎論については、若いオランダ人のブローウエルは短い論文で、これまでの論理学の法則が絶対的に正しいとする考えに異議を唱えた。彼は20世紀初めの集合論の矛盾の発見で引き起こされた「基礎論の危機」に決着をつけるプログラムを提出した。チューリッヒにいたヒルベルトの弟子ヘルマン・ワイルはこの問題に夢中になった。ワイルは1918年「連続体の論理学的基礎」を発表していた。心穏やかならないヒルベルトは、ブローウエルの考えはクロネッカーの亡霊の再来と思われた。ブローウエルは1911年にトポロジーの基礎を開き、点集合論は多くの数学者から評価された。ブローウエルにとって言語も論理学も数学の前提にはなりえず、直感のみが信じられるものであったという。ブローウエルは論理学の原理である排中律(アリストテレス以来、Aであるか非Aであるかのどちらかで第3の立場はありえない)を無限集合については認めることを拒否した。なぜなら無限であれば確認のしようがないからだ。1904年のハイデルブルグ会議以来、ヒルベルトはブローウエルの論文は一切読まないで、信念として「数学基礎論と数学的演繹法に関するいかなる疑念をも根拠のないもの」として退けた。1919年9月ヒルベルトはチュリッヒを訪れスイス数学会で「公理論的方法論を讃えて」という講演を行った。これはヒルベルトが1904年以来はじめての数学基礎論に関する発言であった。しかし彼自身はこの基礎論の危機には立ち入らないでいた。若い人の中に広がりつつあったブローウエルの直感主義的考えはまさしく数学への脅威と映った。ヒルベルトは存在論的発想を生涯の原理とした。「存在証明こそ科学の発展史上最も重要な里程標であった」と彼は主張した。1922年に行われたハンブルグの会議で、ヒルベルトは「ブローウエルとワイルは間違っている」と恫喝し、直感主義者(論理の約束事を無視する)のプログラムを受け入れると失われる数学の宝として、無理数の概念、関数、カントルの超限数、排中律、無限個の自然数が持つ最小値定理などを挙げた。彼は数学をあるシステムに形式化し、そのシステムにおける事象は論理学の言葉をもって記述され、そこにおいて構造のみが重視され命題の意味は問題とされないというかっての「幾何学基礎論」で展開された公理主義を繰り返した。 ベルナイスはヒルベルトと共著で「数学基礎論」を執筆した。ヒルベルトにとって終生の敵はクロネッカーであった。どうしても数学の健全さを信じて厳密性を守りたかったのであろう。ミュンスターでワイエルシュトラスを讃える祝典でヒルベルトは「無限について」という講演を行った。ワイエルシュトラスの解析学、カントルの無限の概念がクロネッカーの攻撃にさらされた時を振り返って、ヒルベルトは現実には存在しない無限の意味を、シンボルとして真の意味で存在するものであるという。ヒルベルトは数学における命題と証明をシンボリカルな論理学用語を用いて形式化し、研究対象とすることによって数学の本源的な客観性を回復することが可能であると論じた。ゲオルク・カントルによって創造された理論が集合論である。ヒルベルトは集合論の矛盾を暴くクロネッカーが許せなかった。「もしも数学的思惟が欠陥をもつものであるなら、一体我々はどこに真実を求めたらいいのだろう」とヒルベルトは叫ぶ。この集合論のパラドックスを回避する、完全に満足のゆく方法が存在する。自然数の演算は確実である。パラドックスは我々の不注意に過ぎない。我々はアリストテレス流の簡明な論理法則(排中律)をあきらめたくはない。そのためには有限的命題を補完するのに理念的命題をもってしなければならない。1930年11月25歳の数学論理学者クルト・ゲーデルの論文が数学誌に掲載された。この青年はヒルベルトが1928年のイタリア国際数学者会議で提起した数学基礎論の完全性に関する2つの命題を取り上げて、形式化された算術の不完全性を証明したと称した。また有限の立場に立つ形式的体系の無矛盾性は証明しえないといった。この論文の翻訳は、岩波文庫の「ゲーデル 不完全性定理」として刊行されている。論文本文は50頁足らずであるが、林晋と八杉満利子による解説は230頁を費やしてヒルベルトプログラムとの関係を論じている。ヒルベルトはこの論文を見て、クロネッカー、ブローウエルの挑戦に最終的解答を与えなかったことを理解した。クロネッカーの亡霊は今も生きていたのであった。形式主義の枠組みが、いまだ十分に強いものではなかったことを知らされたのである。ヒルベルトは人生の最後の段階で、この批判について前向きに修正を加えようとした。つまり形式化に関する要請を緩め、帰納法を「超限帰納法」によって置き換えようとした。

(つづく)